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■17755
/ ResNo.10)
花の名前【January】
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□投稿者/ 秋
一般♪(36回)-(2007/01/22(Mon) 15:08:13)
大寒間近の街に、降り注ぐ白い欠片。
次の日の朝景色を銀色に染めた。
そんな中、さくさくと地面を踏み締め歩く花屋。
鼻の先を赤く染め、視線を落とす様は、何かを探しているようだ。
雪の下でじっと寒さに耐え忍び、柔らかな陽射しが待ち切れなくて早春の雪の残る時期に蕾を咲かせる、そんな花を。
【雪割草】
大事な話がある。
古くからの友人に呼び出されて彼女の住むマンションへと来てみたら、当の本人は十数年という付き合いの中で見た事のないほどの真剣な
顔をしていた。
「榊でもそんな顔できるんだ…」
思わず感嘆の声を漏らす、志摩。
こんなきりっとした表情、高校の体育祭のリレーの時も、社会に出て仕事に追われるようになってからだって見た事ない。
いつも適当にへらへら笑って生きている。
「茶化さないでよ」
榊はうー…と唸った。
ごめんごめんと謝って、成程、これは確かに重大な話なのだとこちらも真面目な顔を向けて、聞く姿勢を示した。
そんな志摩に、榊は躊躇いがちに視線をうろつかせ、やがて覚悟を決めたように長く息を吐き出した。
「これから言う事で、志摩があたしと友達やめたいって言うなら構わない。だけどその時は変に避けないで、はっきり言って」
何だか最初から重いなぁ…、思いながら横槍を入れるのをとどめて話の先を促す志摩。
榊はもう一度深呼吸して息を吐き切ると、もはやその目に迷いはなかった。
「あたしさ、恋人いるんだよね」
何が飛び出すのかと身構えていたものだから「──…へ?」と、志摩は自分でも恥ずかしく思うような間抜けな声を出してしまった。
確かに、高校時代から浮いた話がなかった榊の恋人発言はスクープものだけれど。
それでもここまで重苦しい空気を作る理由にならない。
「大学からだから…もう6年になるかな」
「ふぅん、結構長いね」
社会人になって少し疎遠になったものの、予定が合えば未だ飲みに出掛けている二人。
口にこそ出さないけれど、お互いにとって相手はツレだという共通認識。
大学時代などそれこそ多くの時間を共に過ごしていたのだ。
それなのに彼氏の気配なんて微塵も感じなかった。
─まったく気付かなかったな。
何故隠していたかは知らないが、その周到さに呆れる前に感心した。
「言うタイミング逃して今まで来ちゃったって事?まぁこんだけ月日も経てば言いづらいだろうけど」
からからと笑ってカップに口を付ける志摩とは対象的に、未だ浮かない顔の榊。
「──…重大な告白は、まだあったりするのかな」
もしかして、と。
怪訝にというか若干恐る恐る志摩は訊ねた。
こくん、榊の頭が縦に振られる。
もうこの重い空気には耐えられないと頭を抱える志摩だったが、先程の話は深刻そうな榊には悪いけれどそれほど大したものではなかった
。
だから続きだってそんなもんだろう、そう考えると気が緩んだ。
もう一口、カップに口を付ける。
「…──女の子なんだ、付き合ってる相手」
ムセた。
とんだ告白である。
「何やってんの」と顔をしかめて榊が差し出すティッシュを奪って、口元を拭う。
ごほごほと咳込んでから、ようやく落ち着きを取り戻した志摩は、友人へとゆっくり目をやった。
「──榊は実は男でしたって事は、」
「ないから」
「その相手が実は、」
「それもない」
榊は頭を掻いて、言う。
「正真正銘、あたしも彼女も女の子だよ」
─彼女。
という言葉に、そうかそうなるのかと志摩は頷く。
咳込んだから喉が渇いてしまった、改めてカップに口を寄せる志摩を、じっと榊は見つめていた。
「なに」
じろりと睨み返す志摩。
「冷めちゃった。淹れ直してよ」
言いながら榊にカップを差し出す。
「あ、うん。って、そうじゃなくて」
受け取りながらもそれをテーブルの隅に置き、榊はキッチンへは向かわなかった。
「なに、まだ何かあんの?」
いい加減面倒臭くなってきた志摩はテレビをつけた。
日曜の午後はろくな番組がやっていないと、退屈で欠伸を噛み殺す。
「だから、えーと…何かないの?」
「何かって?」
それは私が聞いてるんだと志摩は榊を睨んだ。
「ほら…気持ち悪いとか、友達やめたいとか」
「………はぁ?」
心の底から呆れた眼をする志摩。
「榊が女と付き合ってるのと、私らが友達やめるのと、何か関係あんの?」
形の良い眉毛を歪め、榊に答えを求める。
呆気に取られる榊は、言葉が出なかった。
「榊がそれでいいならいいんじゃない?男でも女でもじーさんでも子供でも犬でも猿でも」
いやさすがに動物は勘弁してくれと心中で呟く榊に、
「そんなんどうでもいいよ。だって榊、彼女の事好きなんでしょ?」
怒ったように志摩は言った。
「そんな簡単な事なのにぐだぐだ考えてたわけだ?深刻な顔しちゃって。私にも言えないで」
ふん、と鼻を鳴らす。
友人が同性と付き合っているなんて事実より、信じられていないのかと思うと、そちらの方が気分が悪い。
そんな志摩に、
「やっぱ志摩に言って良かった」
安堵の息のように漏らす榊。
「あのねぇ、だったらさっさと──…」
苛立ちをぶつけようと榊を見ると、ようやく肩の荷が下りたように、今日初めて榊がへらりと普段通りに笑ったから、志摩は言葉の続きを
飲み下した。
「──相手、どんな人?」
しょうがないから息を吐いて違う言葉を投げ掛ける。
榊は少しだけ考える仕草をして、へらりと笑った。
「全部許せる人」
それは、素敵な事じゃないか。
誰かを思って、思われる。
そんな相手がいる事こそ素晴らしいと思うのに、それを男だ女だとこだわるのはもったいない。
「心を丸裸にされる感じ」
続く言葉もあまりにも恥ずかしげもなくさらりと言うものだから、志摩は苦笑した。
「ほんとにありがとう。あたしには志摩が居て良かった」
感謝の言葉にも惜し気もない。
照れ臭くなった志摩は、「お茶お代わりだってば」とカップを榊に押し付ける。
「あ、そうだった。ごめんごめん」
受け取った榊は、ぱたぱたとキッチンへと消えた。
─私は敵にはなんねーよ。
直接言う事はやはり気恥ずかしかったので、榊の消えた残香に、志摩はそっと告げたのだ。
周囲を見渡してみてごらん。
そのあまりの人の多さに目が眩む事だろう。
人との距離を測って、調節し、疲れてしまうから独りを選ぶ。
だから私たちは捜すのだ。
距離のいらない自分だけの誰かを。
花言葉は、
信頼。
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■17756
/ ResNo.11)
花の名前【February】
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□投稿者/ 秋
一般♪(37回)-(2007/01/22(Mon) 15:09:15)
花屋の店先に、家々の玄関口に、そっと飾られる馴染みの深いトリコロール色。
何でもその名は、じっと見つめていると思想中の人の顔のように見えるからだとか。
花屋も花と目を合わせ、互いに微笑んだりしてみるのだ。
【パンジー】
「ねぇ由木ちゃん、愛って何?」
バイト仲間の葛西にそう唐突に問われて、由木は「はぁ?」という怪訝な返事や「へ?」という間抜けな声を上げるでもなく、ただただ呆
気に取られてぽかんと口を開けていた。
葛西といえばクールな外見もさる事ながら、中身も大変男前。
入ってきた当初に由木の二つ下だと言っていたから現在は高三か、そうとは思えぬほどの冷静沈着ぶり、きっぱりさっぱりの竹を割ったよ
うな性格で、恋愛事に一喜一憂している同世代の女の子達を馬鹿馬鹿しそうに眺めている節がある。
それが突然「愛とは何ぞや?」と宣ったのだから、いくらバイトでしょっちゅう顔を合わせている由木とはいえ瞬時に答えを返せずに絶句
してしまったのも無理はない。
「ねえってば。聞いてんの?」
何も言わない由木に少しばかりいらついたように葛西。
「愛って一体何なのさ?」
先程と同じ言葉を葛西は繰り返したので、やはり聞き違いではなかったのだと、改めて由木は目を丸くさせた。
「どしたの、葛西」
至極当然の疑問を口にする。
問われた葛西はもごもごと歯切れが悪く、ついには下を向いてしまった。
一体これは誰なのか、と驚きながら、
「───もしかして…恋してる、とか?」
自分で言っていて、その言葉の響きが何だかやたらと間抜けに聞こえた。
それでも俯く葛西の耳は真っ赤だったので、
「…え、まじ?図星?!」
今度こそ大きく、由木は声を上げた。
「…由木ちゃん、声デカい」
顔を上げた葛西は、恨めしそうに由木を見やる。
「それがわかんないから聞いてんでしょー…」
こんなん初めてだ、と情けない声を出し、トレードマークの金髪をわしわしと掻く葛西。
あぁこりゃ随分と重傷じゃないか、面白がるよりも先に、ただただ由木は驚いていた。
葛西の話はこうだった。
由木達が働く喫茶店に、半年ほど前から見掛けるようになったある人がいる。
毎週水曜日に訪れ、定位置である窓際の席に座り、必ずロイヤルミルクティーを頼んでバッグから本を取り出し、小一時間ほど読書をして
から帰っていくのだと言う。
その出で立ちからこの辺の大学生ではないか、と葛西は推測していた。
水曜日は由木の出勤日ではなかったから、その客の事を彼女は知らなかった。
そして葛西は続ける。
彼の人はこの半年間、一週も欠かす事なく必ず水曜日に顔を見せていたのに、先週は来なかったのだ、と。
いつも見ている顔がいつもの時間に姿を見せない、どうしたのだろうと勤務中待ちわびていたけれどついぞ待ち人は来ず。
それから妙に気になってしまって、バイト以外でも頭に浮かぶ。
そして昨日の水曜日。
訪れた彼の人の顔を見て安堵して、それから心臓が握り締められたように苦しいのだ、と。
─目の前で顔を真っ赤にしているこのかわいい女子高生は誰だ。
由木は信じられないものを見るような目で葛西を見ていた。
「それは立派に恋だと思うなぁ」
「うぇ?」
葛西は可笑しな声を出した。
今日は意外な顔ばかりを見る、由木は笑いが込み上げてくるのを堪えた。
「その人の事、葛西は好きなんだね」
「えー?話した事もないのに?客だよ?」
「恋とはそんなもんです」
正直二十年程度しか生きていない由木にもそんな事はわからなかったが、これ以上ごちゃごちゃと論じていても葛西のキャパをオーバーし
て火を吹いてしまいそうだったので、由木は適当な言葉で無難に締め括った。
「そんなもんかなぁ…」
葛西は腑に落ちないというような顔をして、最後まで自分が恋をしている事実を認めたがらなかったけれど。
それなのに。
次の週、由木と葛西の出勤日。
休憩中の葛西は真剣な顔をしてハードカバーの分厚い本を読んでいた。
ヘッドフォンを耳に当てて音楽を聞く姿こそよく見る光景だが、確か葛西は活字の類いが大嫌いだったはずだ。
芸能雑誌ですら湿疹が出ると毛嫌いしていた。
「何、してるのかな。葛西さん」
声が上擦る由木に向かって、
「見りゃわかんでしょ。読書」
不機嫌そうに言った。
えぇそれはわかりますけども。
声にならない由木。
ちらりとこちらを見た葛西はそれを察したのか、
「…あの人がこないだ忘れてったんだよ、本。それで何かタイトル覚えちゃってて。たまたま学校の図書室行ったら同じのあったから」
借りてきただけだ、それだけ言うと、ぷいっと顔を背けてまた本を読み出してしまった。
─活字が嫌いなあなたが¨たまたま¨図書室に行く理由なんてありますか?
由木はツッコみたくてしょうがなかったが、真剣に文字を追う葛西を見ると邪魔をするのは忍びなく、やれやれと苦笑した。
「今度はどうしたの…?」
また別の日。
出勤してきた由木は、あんぐりと口を開けて葛西を見ていた。
「どうしたって、何が」
不躾な由木の言葉に、葛西は眉をひそめる。
「だって、髪…」
そう、トレードマークの金髪の頭。
マスターや常連さんはもうすっかり見慣れてしまって、そればかりかなかなか評判がいいのだが、初めて来店する年配のお客さんはやはり
金髪の葛西にド肝を抜かれる。
それほどにインパクトのある、輝く金色。
根本から別の色が覗く事など有り得ない。
それは葛西の美意識の表れだった。
それが、さらさらと艶めく黒髪に変身している。
「随分すっきりしたねー…」
もはやどう言葉をかけていいのかわからない。
葛西は自身の黒髪をさらりと撫でてぼそぼそと呟いた。
彼女の想い人は真っ黒な黒髪で、穏やかで静かな人なのだと。
「真面目そうな感じだから、怖がらせそうで」
そう言う葛西に、
─恋する乙女には何でもありなのか。
由木は感嘆の声を漏らすばかりだ。
おかしい、由木は怪訝な顔で葛西を見た。
一見ちゃらちゃらしているような印象を受ける葛西。
けれど仕事はテキパキとこなし、しかも素早く丁寧だ。
バイトの中で唯一コーヒーを淹れる事を許されている彼女の腕は、常連の皆さんにも定評がある。
それなのにこの日はミスを連発し、先程なんてあろう事か挽く豆の分量を間違える始末。
「葛西…」
あまりに呆れて葛西に声を掛けると、
「由木ちゃん、あの人が来てる…」
半ば放心しながら、情けなく呻いた。
「水曜じゃないのに?」
「だからびっくりしてんじゃん!いつもなら心の準備できるのに!」
成程と頷きながら、しかしこんな調子では使いものにならない。
「それはそれ、これはこれ。ちゃんと立て直してよ。葛西がそんなんじゃお金払ってコーヒー飲みに来るお客さんに失礼でしょ」
年上らしく注意して、それでも彼女の想い人の顔を好奇心から一度拝んでみたかったので、
「それはともかくその人は窓際だっけ」
目を輝かせ、視線を向けた。
噂に違わず、確かに穏やかで静かそうな印象。
窓から入る陽射しで、黒髪が深い緑に光る。
先程のオーダーを見るとやはりロイヤルミルクティー。
上品な振る舞い、優雅にカップに口を付け読書をする姿が様になっている。
年齢も、大学生という葛西の推測は当たっていそうだ。
ただ─
「──…女の、人?」
「言わなかった?」
「聞いてませんね」
「…驚いた?」
「それは別に」
本当だった。
何となく、不自然ではない気がして。
「だから最初から恋じゃないって言ったでしょー。女同士なんだから」
「それはあんまり関係ないと思うよ」
「───…そう思う?」
「うん」
葛西の行動の理由が恋じゃない方が自然じゃない。
由木はそう思ったけれど、葛西を更に混乱させそうだったので言わずにおいた。
そうこうしている間に、想い人たる仮称・女子大生が本を閉じる。
来店からそろそろ一時間というところ、帰るのだろうか。
この間葛西はグラスを割り、ミックスサンド用のトマトをみじん切りにし、コーヒーを沸かす温度を微妙に間違え、マスターは怒りながら
も驚きを隠せていなかった。
彼女が立ち上がる。
バッグを持つと、こちらへやってくる気配。
洗い物でカウンターから動けなかった由木は、「葛西、レジお願い」と葛西を促す。
葛西は少し戸惑い、けれど仕事の顔付きになってカウンターの隅のレジに立った。
「ロイヤルミルクティーで650円になります」
葛西の声が緊張しているのが、由木にもわかった。
ちゃりちゃりと小銭を取り出し、支払う想い人。
「ごちそうさま」
発した言葉は凛としていた。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げる葛西に、
「髪の毛染めたんですね。あの金色、すごく綺麗で似合ってたのに」
彼女はさらりと告げてから、店の扉を颯爽と開いて去って行った。
最後のグラスをシンクに立てて、由木は葛西を見た。
耳まで真っ赤だ。
きっと明日は、はつらつとした葛西によく似合う、燦然と輝く金髪になっているに違いない。
一人納得し、頷く由木。
レジの前で立ち尽くしていた葛西は、カウンターの内側にへなへなとしゃがみ込んだ。
店内をざっと見渡し、今は客がいない事を確認して、由木も葛西の側に寄る。
「どした?」
「あたし、今最高にカッコ悪い」
真っ赤な顔を両手で覆う葛西。
「仕事ミスって、自信持ってるコーヒーもまずく淹れちゃってさ」
表情は見えないが、葛西の声から自身に腹を立てている事は窺えた。
「自分が許せない。すっごい馬鹿だ、あたし」
膝に顔を埋めて、独り言のように漏らす。
耳も、わずかに見える横顔も、未だに熱が冷めていない。
「それなのに舞い上がってんの。嬉しいって思ってる。ほんと馬鹿みたいだ」
う゛ーと、声にならずに葛西は呻く。
「こんなの、超かっこわりぃ…」
葛西の柔らかい黒髪に手を伸ばしてさらさらと撫でた由木は、
「私も、葛西は金髪が似合うと思ってたよ」
だから明日染めておいで、ぐずる子供をあやすようにそう言った。
─誰かを想って馬鹿になるあなたを、美しいと思う私はとてつもない大馬鹿野郎だ。
花言葉は、
物思い。
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■17757
/ ResNo.12)
花の名前【March】
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□投稿者/ 秋
一般♪(38回)-(2007/01/22(Mon) 15:10:06)
夕方になると行き交う人が途切れずに、賑わいを見せる商店街のとある一角。
女主人が一人切り盛りしていたこの花屋に、新たな顔が増えていた。
「最近暖かくなりましたねぇ」
開店準備をしながら晴天を仰ぎ見て、冬の始めにやってきたバイトが言う。
「春が近いのね」
そろそろ開花の兆しが見える赤い花の鉢植えを手に、花屋は答えた。
それは、風の強い時分に開花する、春を告げる花だった。
【アネモネ】
何故だか放っておけない、そういう気がした。
大学の行き帰りに必ず通る道、何気なく目をやった店先にその人はいた。
彼女の他に従業員はいないようで、小柄な体でせっせと動き回る姿が、家に帰ってからも目蓋に焼き付いていた。
それからだ。
毎日そこを通る度、さりげなく視線を向けるようになったのは。
時々花を買ったりもした。
その内顔を覚えられ、挨拶を交わす程度にはなった。
時間を要しながらも、二・三の言葉が徐々に会話になった。
そうして一年近く経った頃、意を決して言ってみた。
「私を雇いませんか?」
本当は給料なんていらない、ただ力になりたかっただけだけれど、そう言えば「手を煩わせるわけにはいかない」と気を遣って、花屋はイ
エスとは答えてはくれないだろう。
だからバイト、と提案した。
「え?」
案の定相手は、唐突な知人の申し出にキョトンとしている。
「あ、いや、花名さん一人じゃ大変そうだし、私も花好きだし、何か手伝える事あったらなーって。でもダメだったら別にいいんです」
返答を待つ間、沈黙が訪れるのが恐くて一人ぺらぺらとまくしたてる。
じっと考え込むような花名。
だめかな、諦めの感情が湧いた時─
「──…お願いしようかな」
「そうですよね、やっぱ。素人じゃ足手まといだし、今まで一人でやってきたわけだし──…って、は?」
「うちでバイトしてもらえる?」
「…ありがとうございます」
「よろしくね、楓ちゃん」
にっこり笑う花名に、楓は一瞬見惚れてしまってうまく言葉を紡げなかった。
花は好き、嘘ではない。
けれど本人も自覚している通り、楓は専門家ではない。
その辺の草花を見て「わぁ綺麗」と思うくらいの感受性はあるものの、知識という知識は皆無である。
だから必死で勉強した。
栽培方法から植え付け時期、開花期に至るまで。
それでもまだまだ足りないのだろう。
バイトとして雇ってもらって一月余り。
自分は少しでも力になれているのだろうか、と花の手入れをしながら溜め息を吐く楓。
人を助けたいと口にするには自身にそれだけの力がなければ適わないのだ、と痛感させられる。
元々花名一人でやってきたこの店、雑用ぐらいしか手放しに任せられないひよっこの楓に頼ってくれというのが無茶な注文だ。
「楓ちゃん、終わった?」
店の奥から花名が顔を出す。
終わりましたと言おうとして、大きなくしゃみが出てしまった。
一月の空気はあまりに冷たい。
店先にいるとすぐに体が冷えてしまうのだ。
「今はお客さん少ない時間だから奥にいましょう」
花名が笑う。
─私はあなたの役に立てていますか。
楓は花名を見るほどに思う。
結局は喉より先には出せないけれど。
店に入ると花の香りが充満している。
花名の日々の結晶。
生き生きとした花たちに、楓は目眩すらしそうになる。
「花名さん」
呼べば、「なあに?」と振り向いてくれた。
「花屋になるべく名前ですね、花名さんて」
店内をぐるりと眺めて言った。
「そうね、これも名前の導きなのかしら」
ふふ、と。
自身も花みたいに笑う。
「いい名前だと思います。よく似合ってる」
花名さんも花だ、楓はその笑顔に目を細めた。
「楓ちゃんの名前も、いい名だなってずっと思ってたのよ」
「私の名前?」
返された言葉にキョトンとする楓。
「¨楓¨の花言葉は¨とっておき¨」
花名はふわりと香る花のように笑った。
かぁっと体が熱くなっていくのを感じた楓は、「──ちょっと店先見てきます」顔を伏せたまま慌てて外に飛び出した。
─私はあなたの¨楓¨になりたい。
外気で頭を冷やさなければ喉から先へと出てしまいそうだったから。
それからかもしれない。
自分の名前が少しだけ特別になって、花の言葉に興味を持つようになったのは。
さわさわと風が吹く。
三月だと暦を確認しなくても、優しい陽射しが近付く春を知らせている。
しかし楓の心は、そんな柔らかな光でも暗く陰りがちだった。
そこまで足手まといではないと思う。
けれど頼りなさは否めない。
花名は一人ですべてを背負い込もうとする。
─頼ってほしいのに。
唇を噛み締めるが、そうできないのは自分が不甲斐ないからだと思い至る。
─これではここにいる意味がないじゃないか。
あーぁと、思ったよりも大きく溜め息を漏らしてしまった。
「どうしたの?楓ちゃん。溜め息なんて」
花名が心配そうに楓の顔を覗き込んだ。
「いえ、何でもないです。あぁそうそう、あくびです、あくび。ほら、今日いい天気だから」
心配を掛けるなんてそれこそ元も子もない、情けなくなりながら、楓はあははと空笑いをした。
「それならいいけど。ほんと、最近暖かくなったわねー」
手にした切り花に鼻を寄せて、「春の匂い」と愛おしそうに呟いた。
この人の花に向ける愛情は、深い。
花名と花の姿を見て楓はいつも感じる。
それ故に自分の体を省みないのだ、とも。
先日から顔色が悪い事に、薄々楓は気付いていた。
仕事第一の花名は聞き入れてくれないだろうと、黙って見守るしかないのだけれど。
それでも今日は、いつにも増して肌の艶がくすんで見えた。
目の下の隈もだいぶ濃い。
「花名さん、奥で休んでたらどうですか?店には私が出てますから」
躊躇いがちに言ってみたが、
「大丈夫よ。ありがとう、楓ちゃん」
にっこり微笑まれてしまっては、もうぐっと口を噤む他ないのだ。
そして楓の恐れていた通り、この日、花名は倒れた。
─私がいたのにっ。
楓は苛々と薬品臭い廊下を歩いていた。
大学へ行く途中で商店街を通ると、もう昼だというのに店が開いていなかった。
眉をひそめていると、昨晩救急車が来て、女性が一人運ばれたと近所の人が教えてくれた。
店を閉め、楓が帰った直後だった。
お礼もそこそこに、楓は慌てて搬送先の病院を調べて向かった。
─やっぱり無理してたんじゃないか!
支えられない自分にも、一人だと思っている花名にも、腹が立つ。
「花名さん?楓です、入っていいですか?」
目的の部屋の前、声を掛けると「どうぞー」花名の声。
ベッドに横たわる花名は、昨日より幾分顔色が良くて、怒りも忘れてほっとした。
簡単に許してなるものかと、すぐさま顔をしかめたけれど。
「──やっぱり体調悪かったんじゃないですか」
できる限り低い声で言う。
病人を責めるような真似はしたくなかったけれど、それでもわかってほしかったのだ。
「もし花名さんが死んだらあの花達はどうなるんですか。いくら花が大事でも、花名さんがいなければ生きられないんですよ」
「楓ちゃん…倒れたっていっても、ただの過労なの」
花名は苦笑した。
「お医者さんも大袈裟ね、入院なんて。でも明後日には退院できるから」
だからほんとに大した事じゃないのよ?、子供を説き伏せるように優しく言葉を紡ぐ花名は、楓を見て小さく息を飲んだ。
花名のベッドの前で立ち尽くしている楓は、涙ぐんできつく口を結んでいる。
鋭く花名を見つめながら。
「…ごめんね、楓ちゃん。心配させちゃったわね」
ふふ、と微笑む花名の言葉を楓は遮る。
「──私が心配するってわかってるならどうして無理するんですか」
楓の声は、怒りで、悲しみで、情けなさで、震えていた。
「花名さんはいつもそうです。一人で何でもやろうとして人の手を借りようとしない。そんなに私は頼りになりませんか?私じゃ力になれ
ませんか?」
喉の渇きさえ忘れて、楓は思いの丈を連ねる。
「あなたは一人じゃないんです。私はまだまだ頼りないかもしれませんけど、どんな事でもやりますから。何でも言っていいんです。じゃ
なきゃ私は何の為に花名さんの側にいるんですか」
ふう、と息を継いで、
「もっと私を信じてほしい」
最後に告げた言葉が、一番伝えたかったものかもしれない。
花名は目を伏せた。
長い睫毛が影になって、肌の白さを一層際立たせる。
「ごめんね」
ぽつりと、花名は一言だけ漏らす。
楓は唾を飲み込んで、続く言葉を待った。
「そう感じさせて、ごめんね」
顔を上げて花名は、楓を見つめた。
不意に視線を受けて、楓はたじろぐ。
けれど顔は背けなかった。
「手伝ってくれるって楓ちゃんが言った時、嬉しかった」
唄うように話す人だ、楓はその声に泣きそうになる。
「今まで一人のお店だったから、楓ちゃんが来てくれてから明るくなったわ」
「私は、いてもいいですか」
「すごく支えられてるの。だからそんな風に言わないで」
花名はふっと笑って楓を手招きした。
素直にこちらへと近寄る楓の耳元でこそりと囁く。
「私が今育ててる花、知ってる?」
「──…アネモネ、ですか?」
そう、と花名は嬉しそうに頷く。
「あれね、花が咲いたら楓ちゃんにあげようと思ってたの」
「──…え」
楓の思考は一瞬停止した。
ぎこちなく花名を見ると。
花名はふわりと微笑む。
どうやらこの花の持つ意味を知った上で言っているのは間違いない。
その真意を察すると、楓の顔はみるみる赤くなった。
「それってつまり──」
言い淀む楓に、
「私には、楓ちゃんは¨楓¨なの」
柔らかく、穏やかに、花名は笑った。
それはまるで春風にそよぐ一輪の花。
この人の、この笑い方が好きだ。
などと思う余裕もなく、楓はますます赤くなった。
あの、春を告げる花のように。
花言葉は、
あなたを愛します。
完結!
引用返信
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■17760
/ ResNo.13)
NO TITLE
▲
▼
■
□投稿者/ マキノ
一般♪(2回)-(2007/01/22(Mon) 17:47:19)
純粋な気持ちだったあの頃
悩める苦しい幸せ
今は思い出
大人になり感情だけじゃ動けなくなった悲しい現実
純粋に生きてもいいのでしょうか?
槇さんも同じ?
秋さんも同じ?
(携帯)
引用返信
/
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■17762
/ ResNo.14)
Re[1]: 花の名前
▲
▼
■
□投稿者/ ケイ
一般♪(1回)-(2007/01/22(Mon) 20:22:39)
全部が穏やかな空気が流れている気がして、
すごく好きです。
人を思う気持ちの微笑ましさと切なさと。
どちらも素敵に書かれていて引きこまれていました。
素敵なお話を読ませてくださってありがとう。
引用返信
/
返信
削除キー/
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■17771
/ ResNo.15)
あぁあ
▲
▼
■
□投稿者/ 肉食うさぎ
一般♪(2回)-(2007/01/22(Mon) 22:56:20)
一つの物語を読み終えて
息をついて
あぁいいなぁなんて思わせる、凄く穏やかな文面に
とても引き込まれてしまいました
どうやらに私は
秋さんの文章に、相当惚れ込んでるようで
それをまじまじと文面に乗せる私は
どうやら相当の阿呆のようで
(携帯)
引用返信
/
返信
削除キー/
編集
削除
■17791
/ ResNo.16)
感想
▲
▼
■
□投稿者/ トモ
一般♪(2回)-(2007/01/25(Thu) 22:55:24)
いつもながら、秋さんの描く世界に引き込まれます。12のお話を読んだのに、それぞれがまとまっていて、身近にありそうな話題で。上手く表現出来ないけれど^^; それに、最後のお話では花屋さんもしっかり加わっていて安心しました!
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■17803
/ ResNo.17)
素敵です
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□投稿者/ sea
一般♪(1回)-(2007/01/27(Sat) 03:22:36)
本当に素敵です。
一つ一つの月の世界がとても丁寧につくられていて、、、
泣いたり、笑ったりして、全部を読み終えたあと、とてもあたたかな気持ちになりました。
素晴らしい小説を読ませていただいてありがとうございました。
(携帯)
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■17804
/ ResNo.18)
NO TITLE
▲
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□投稿者/ 愛花
一般♪(1回)-(2007/01/27(Sat) 07:32:57)
すべて素敵にまとまっててよかったです。読み終えたあと、ため息が出ちゃいました(^^)
秋さんの作品、大好きです。
(携帯)
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■17805
/ ResNo.19)
Re[1]: 花の名前
▲
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□投稿者/ れい
@
一般♪(7回)-(2007/01/27(Sat) 15:32:37)
すごく、面白かった、よかったです。
最後の終わり方が素敵です。
様々な表情を、その場の空気を、見せてもらった気がします。
ありがとうございます。
これからも、気が向いたときにかいてくださいね。
応援しております。
れい
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■No17762に返信(ケイさんの記事) > 全部が穏やかな空気が流れている気がして、 > すごく好きです。 > 人を思う気持ちの微笑ましさと切なさと。 > どちらも素敵に書かれていて引きこまれていました。 > > 素敵なお話を読ませてくださってありがとう。
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/
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/
.jpg
/
.jpeg
/
.png
/.txt/.lzh/.zip/.mid
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