| 鯖の生姜煮の匂い。
白いご飯にね、とってもあうの。と、アサコが好んで求めた一つ。
匂いだけでご飯が食べられちゃうのよと、笑う。
時計を見ると、もう昼に届こうとしていた。
昨日のジャリジャリとした出来事が、まだ舌に残っている気がする。
好ましくない感情を味わったときに、私はアサコの「鯖の生姜煮が食べたいわジュンコさん。」を思い出すのだ。
ペットボトルを手にして、寝室に戻ると、まだアサコは夢にいた。
自分のせいで流れた赤いものや、自分のせいで刻まれた傷から逃げて、夢の中にいた。
アサコの名前が公に出てしまってはいけないと、私は何とかあの夜の場にいた人間全てに相応の対応を済ませ、最後に彼女を寝室に運んだ。
眠る前にアサコは言った。
「自分の意味って知ってる?」
そうしてシーツの冷温を怖そうに受け入れて、私の指を柔らかく引っ張って話す。
「お薬飲む?」
「ううん、いらない。ねえジュンコさん。自分の意味よ。」
「・・・。」
アサコは真っ赤になった眼で私を見て言った。
「アサコの意味は、アサコ以外の人しか、解らないの。」
「自分のことは自分が一番知ってるでしょ。」
アサコが指を解くと、私の胸に触れた。
「アサコは女優で、だから顔が知られてて、何処にいっても何か起きちゃうことなんて。」
ことなんて、知ってる。誰でも知ってる。と、アサコの指が私の胸に触れたまま、心臓を読んでいた。
「でも、アサコだけが知ってるアサコなんて、全然解んない。」
私は胸から彼女の手を外し、布団の中にしまった。
自分以外の誰かを、知り尽くせてしまったら。
嬉しくて怖いのかもしれない。
アサコが私の眼に映らなくなることを、アサコが知ることは、怖い。
けれども知らずにいることも怖い。
あと何十回何百回見られるかも疑い深くなっていくばかりの愛しい寝顔を眺めて、私は静かに曇った。
もう女同士の愛が何を言われる場所も時代も世界も、段々と小さくなっていく。
窓に気づくと、雨が降っていた。
それよりも、別室で眠っている、ハツエはどうなっているのか。
眠ったまま。
突然という理由によって、眠ったまま。
目が覚めたとき、何が待っているかを知ることも出来ずにいる。
アサコが目覚める時はいつだって、優しさを伝えるにきまってた。
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