| 私は屈んで、 そっとアリスの頬に触れた。 壊れないように、優しく。そっと。 するとアリスは音もなく瞼を開き、 色素の薄い瞳で私を見上げたので、 私は微笑んで彼女に「おはよう」と言った。 それからアリスの髪に付いたオリーブの葉を手で軽く払い、 「いい夢、見てたのかな。起こしてごめん。でもお弁当早く食べないと、午後の仕事に遅れるわ」 と、弁当の包みを掲げて見せた。 アリスは目を細めて微笑んだ。 「一瞬、夢が叶ったのかと思った」 「え?」 「アリスの物語の最後を知ってる?」 ・・・ああ、不思議の国の話か。 「うん、なんとなく。確か、夢オチだったのよね」 「そう。トランプに襲われて悲鳴を上げたアリスは目を覚まして、 自分がお姉さんの膝に頭を載せて眠っていた事に気付くの」 アリスは眩しそうに遠くを見ながら、続ける。 「“本当によく寝たわね”って言いながら、お姉さんはアリスの頭に落ちてきていた葉っぱを優しく払い除ける。 アリスが夢の国での冒険を話して聞かせると、お姉さんはアリスにキスをして、こう言う。 “it was a curious dream, dear, certainly! But now run in to your tea, it's getting late”」 うっとりするほど綺麗な声と発音で、 アリスは歌うように本の中の台詞を口ずさんだ。 「子供の頃、何度も何度もこの箇所を繰り返して読んだ」 遠くを見つめるアリスの横顔に、
私は見とれて、
見惚れた。 「眠る前に本を閉じてからも、目を閉じてからも、頭の中で唄うの。 it was a curious dream, dear・・・dear. My dear」 ベッドの上で小さく小さく丸まって、自分の腕で体を抱いて、 自分の為に子守歌を歌う、 小さなアリスを思い浮かべ、 私の胸は切なさで痛んだ。 「いつか私のことも、そうやって起こしてくれる人が現れたらいいと思った。 “あなたは奇妙な夢を見ていたのよ”って。 “そんなことより、走っていってお茶にしましょう”って。 誰かがそう言って、私の今までの人生を全て夢に変えてくれる事を、私は毎晩願ったの」
これ以上、
聞いている事は出来なかった。
幼いアリスが、どんな思いで自分を“アリス”と名付けたのか、 それを考えると、 胸が押し潰されそうになった。 眠れば悪夢を見、 目が覚めても、全て夢だと思いたい程の日常が待ち受けているだけの、 そんなアリスの苦しみを、
今すぐここで取り去る事が出来たなら、
その力が私にあったなら、
どんなにか良いだろう。
溢れる思いは言葉にならなかった。 自分の痛々しい物語を、美しい声で歌い上げるアリスの唇を、
私は言葉の代わりに唇で制した。
私達は、 本当にほんの数秒、軽く唇を重ねた。 顔を離すと、アリスは私が何かを言い出すのを待つような目で、 じっと私を見つめた。 “全ては夢なのよ” と、今はまだ、言えない。 アリスの見ている悪夢の正体さえ、私は知らないのだから。
今の私に言える事は―――
「お昼、作って来たから。早く食べよう」
そう言った私を、アリスはしばらく黙って見つめ、 それからうつむき、小さくコクッと頷いた。 アリスの睫毛に光るものが見えた気がしたが、 私は気付かないふりをした。 その涙が何を意味するのか、 うれし涙なのか、それとも、 やはり自分を救うことの出来る人間などいないのだという、
絶望の涙なのか、 私には分からなかったからだ。 けれど必ず、 そう必ず、 私はアリスを救い出してみせる。 真っ赤な薔薇と血の雨が降る悪夢のガーデンから、 花の咲かない暗く冷たい現実から、 アリスを連れ出してみせる。 私は、固く心に誓った。
アリスと初めてキスをしたこの場所を、 この日の輝きを、 木漏れ日や風の薫り、 その全てを、 私は今も忘れていない。
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