| とある地方都市のベッドタウン。 駅前の商店街の一角に店を構える小さな花屋の主人は今日もせっせと花達に愛を注いでいた。 「あのー」 掛けられた声に作業の手を止めて振り返る。 目の前に立つ客の格好には見覚えがあった。 ここから10分程歩いたところにある高校の制服だ。 そこの生徒達はこの商店街を登下校の抜け道に使っているから。 「この花、リボン付けてもらえますか?」 淡いブラウンのブレザーを身に纏う少女が差し出したのは、枝々に薄紅色の花を宿す鉢。 花屋はゆるりと微笑みながら頷いた。
【ハナミズキ】
─今日も居る。
いつもと同じ時刻の通学電車の、いつもと同じ3車輌目。 遥が立つ向かいの窓際に、肩をもたれるようにして立っている、いつもの女性。 昨日は黒いタイトなスカートと同じく黒のジャケットというかっちりとした姿だったけれど、今日はグレーのパンツに春らしい薄い水色の ブラウスという装い。 そして。
─あぁ、今日も素敵にいい感じだ。
彼女の髪をうっとりとした瞳で見つめる、女子高生・遥。
月が隠れた夜の、深い深い闇の底ような、純度の高い黒髪。 さらさらと艶めき、毛の先まで傷みを感じさせない。 柔らかそうなその髪に手を伸ばせばしっとりと吸いつきそうだ、眺めながら遥は思う。
─あの髪に触れたい。
通学の電車でいつも見掛ける女性に、遥はいつしかそんな思いを抱くようになっていた。
彼女は髪フェチ、というわけではなく。 特殊な性癖を持たないどこにでもいるごく平凡な女子高生だ。 それではなぜ髪なのか。 それは遥の実家が美容院を営んでいる事にある。 幼い頃から両親の仕事ぶりを間近に見て育ち、彼女自身も生まれ持った手の器用さから髪をいじるのが好きだった。 髪の手入れも欠かさない。 中学に上がり、周囲が色気づいてくると、遥は友人達からヘアアレンジを頼まれるようになった。 その人の髪質・毛量から髪型を考え、スタイリングし形にしていく。 次第に楽しくなり出した。 それからだ、道行く人の髪に目が止まるようになったのは。 人の髪をいじる事、高校三年生の今となってはライフワークとなっている。 だからこそ美しい髪に出逢うと気になってしょうがない。
─あー、あの人絶対髪まとまりやすいよ。ワックスはあれを使うとして、色々アレンジできそうだな。そしたらもう少し明るさのトーン上 げて…だーっ触りたい!いじらせてくれないかなぁ…。
それも、自分好みの髪質とあっては尚更だ。 毎朝こんな事を考えては、一人悶々としている。 見習いでも美容師であったならカットモデルとでも言ってまだ少しは声を掛けやすかったのに、と遥は唇を噛んだ。 高校を卒業したらその道に進むとは言え、今はまだごく普通の女子高生。 「もし良かったら髪触らせてくれませんか?」 なんて話し掛けられるはずがない。 これではただの変態だ。 警戒されるに決まっている。 けれど高校を出るまで、こうしてこの人が同じ電車に乗っているとは限らない。 だからこそ声を掛けてみようとも思うのだが、「おかしな人だと思われたら…」考えると怖くなり、結局は勇気が出ずに話せず仕舞い。 同じ思考をぐるぐると巡らせて、踏ん切りがつかぬまま自分の降りる駅に到着してしまう、というのが毎朝のパターンだった。 また今朝もそれだ…、がっくりとうなだれてとぼとぼと電車から降りる。 改札に向かったところで違和感に気付いた。
「やっちゃった…」
駅の看板は、遥の通う学校の一つ先をしっかりと記載していた。 思索に嵌まり過ぎ、あるいは見惚れていて、どうやら乗り過ごしてしまったようだ。
調子の悪い時はとことんツイてない。 自分のうっかりミスを運のせいにしながら、反対側のホームへと足を向ける遥。 「遅刻する」と友人にメールを打とうと鞄から携帯電話をまさぐって。 顔が強張る。
「…定期がない」
まさに、追い打ち。 顔面蒼白の遥。 けれども落ち込む暇の方がよっぽどもったいない。 その場にしゃがみ込むと鞄から物を取り出し、慌てて探し始めた。 しかし探し物は現れない。 それほど大きくない通学バッグ、それこそ探す箇所など限られている。 何だか惨めになってきた。 あぁ泣きたい、泣いてしまおうか、一瞬涙腺が緩んだその時、
「この定期、あなたのじゃない?」
頭上から降ってきたトーンの低めの女性の声は、今の遥にとって天使の囁きだった。
「電車から降りる時に落としたように見えたんだけど」
はいまさに私のですありがとうございます、そう言葉を用意して、素早く立ち上がり振り返ると。
─え、何この漫画みたいな展開。
瞬きを数度、不自然な早さでしてみる遥。
そこには麗しの髪の君。
「あ、りがとうございます…」
ようやくたった一言だけ、からからの喉から出てくれた。
「はい、どうぞ」
女性は口元を小さく綻ばせ、遥にパスケースを渡す。 そして、 「今日はこの駅に用があるの?」 と言った。 「いえ、そういうわけでは──…って、何で……」 開いた口が塞がらないとはこの事かと、若干解釈が間違っている辺り、遥のパニックが窺える。
「降りるのは一つ手前の駅でしょう?いつも同じ電車に乗ってたから顔覚えてたのよね」
他人だけれど顔見知り、何だかひどく変な感じがした。 しかしこの状況をチャンスだと思える余裕が、今の遥にはなかった。 有り難い事にとりあえずは言葉をかわせた事で、まったくの他人というわけではなくなった。 今日は混乱してしまっていていまいち頭が働かないから、後日改めて話を持ち掛けてみよう。 思考をそうまとめて、 「ほんとにありがとうございました」 再度お礼を言って立ち去ろうとした。
「ねぇ」
思いがけず女性の声。やはりトーンは低く、けれど澄んでいる。
遥は足を止め、遥よりもわずかに背の高い女性を見上げるようにして見た。
「何でしょう…?」
「私の思い違いじゃなければ、」
女性が肩にかかる髪を払う。 思った通り、間近で見ると更に艶が増していた。
「あなた、私の事毎日見てたでしょう」
それはなぜ?、にっこりと笑みを浮かべる女性から視線を逸らせない遥は、耳まで朱に染めていた。 これではどう言い繕ったところで誤魔化せない。
目の前には理想の髪を持つ女性。 手を伸ばせば届く距離に立っている。 あれほど夢見た髪がさらさらと春風に攫われ、目を奪われているとまた、穏やかに彼女は笑った。
遥は体内の血が煮えるのを感じて。
─髪に、触れさせてくれませんか。
素直に言ってしまおうかと思いながらも、違う事までうっかり口にしてしまいそうだった。
花言葉は、
私の想いを受けてください。
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