| まーちゃんの結婚を知った日も。 まーちゃんの苗字が変わった日も。 まーちゃんに気持ちを告げた日も。 変わらず皐月は側にいた。 『あたしが居るじゃん』 そう言いながら、私の側に。
どんな思いで、皐月は私の隣にいたのだろう。
あの日、まーちゃんへの想いを吹っ切ったあの時に、私を腕に収めたまま人知れず流した皐月の涙の一雫を、私は今でも思い返す。
「おはよ、弥生」 教室に入ると、私の姿を確認した皐月がたたっと足早に向かってきた。 「古文やった?」 窺うように上目遣いで私を見る。 「またぁ?」 わざとらしく大袈裟に溜め息を吐いてみせるけれど、 「いつもありがとーございます!」 拝むように手を合わせてにかっと笑う皐月に肩の力を抜かれ、つい笑みが漏れてしまう。 「しょうがないなぁ、もう」 笑うのを堪えながらわざとらしく顔をしかめてノートを渡すと、「さすが弥生」調子良く受け取った皐月はさっさと自分の席に戻って行った。 せっせとノートを書き写している。 茜や陽子に茶々を入れられ、始めの方こそ構わないものの、結局最後はふざけ合う。 本当に、三人揃うとどうしようもない、いつもの風景だ。 私が見ている事に気付いたのか、ちらりとこちらに目をやった皐月はにかっと笑って手を振った。 私も小さく手を上げて、それに応える。
いつもの、皐月。
──でもね?
私はもうすでに気付き始めている。 確信してしまっている。
「…うん、決めた」 ぎゃーぎゃーと、茜と陽子と騒ぎ合う皐月の姿を遠目に、私はぎゅっと拳を握った。
その日は朝から快晴だった。 放課後もなお雲の切れ間から太陽の光が漏れて、ぽかぽかとした陽気だった。 二月も中旬。 冬の色こそまだ濃いものの、春の気配がようやく感じられる季節だ。 つんと鼻の奥まで突き刺すような冷たさの中に薫る暖かな陽射しを浴びながら、そんな事を思った。
「弥生、今帰るとこ?ちょうど良かった、一緒に帰ろ」
昇降口で靴を履き替えていると聞き慣れた声を背に受けた。 「今日は一日中あちこちで甘ったるい匂いがしたよねー」 廊下をすたすたと歩いて来て下駄箱からスニーカーを取り出す皐月は、くんくんと鼻をひくつかせる。 「女子高でも二月十四日って一大イベントなのかね。あちこちで受け渡ししてたよ」 ふたり、並んで校門を出ながら。 「バレンタインだもん。女の子にとっては女子高でも何でも特別な日だよ」 言うと、「そーゆーもんかねー」皐月は欠伸を噛み殺しながら大きく腕を伸ばした。 「皐月は?」 ぴたり、と。大きく伸びた腕が動きを止める。 「皐月はあげないの?」 好きな人に、そう付け加えると、 「…あー」 足を止めた皐月はゆっくり腕を降ろしながら、 「あたしはあげらんない、好きな人には」 小さく呟いた。 私も歩みを止め、静かに訊いた。 「何で?」 ぐっと皐月は口をきつく結ぶ。 「何でだめなの?」 私から顔を背け、地面に視線を落とした。 「…好きになっちゃいけない人を好きになったから」 独り言のように、 「だから、あげらんない」 そう漏らす。 私は手を伸ばして、いつかの皐月がしてくれたみたいにくしゃくしゃと髪を撫でた。
ふっと笑って。
「私、チョコ大好きなのに」
びくっと肩を震わせ、皐月はばっと顔を上げた。 目を大きく見開き、驚いたようにまじまじと私を見つめる。
私は続ける。
「だから皐月から貰えなくて残念」
「気付いて──…?」
唖然とする皐月。
「ごめんね、今まで気付けなくて」
ごくりと、唾を飲み込むように。 皐月の喉が大きく動いた。
きつくきつく目を閉じて、眉根を強く寄せる。
私が何かを言おうとした時、苦しそうに顔をしかめていた皐月はぱっと目を開き、いつものようににかっと笑った。
「何だー、バレてたか」
ぺろっと舌を出し、おどける皐月。
「隠せてるつもりでばかみたいだ、あたし」 ばれてんじゃんねぇ、また笑う。 「弥生もわかってんなら言ってよ」 あははと声を上げて笑う。 そんな皐月を黙って見つめていると、みるみる目尻が下がって情けなく笑った。
「大丈夫、わかってるから」
手の平で顔を覆う皐月。
「ちゃんとわかってるよ…」
隠した手の隙間からわずかに見えた皐月の口元は、笑っているけれど震えていた。
「──…あたしじゃ真知の代わりにはなんない」
自分に言い聞かせるように言葉を吐き出し、ごしごしとブレザーの袖で目元を拭って、皐月はへらっと笑った。
「そうね」
私はひとつ息を吐き、努めて冷静に言った。
「皐月はまーちゃんの代わりにはならないね」
皐月の、口の端が歪んだ。
そして無理矢理笑って紡ごうとする皐月の言葉を──
「──…だよねー。あたしが真知の代わりになれるわけが───」「だって私は皐月が好きだから」
──遮った。
「だから皐月がまーちゃんの代わりをしようとしたら困るの」 皐月がいいの、髪をぐしゃぐしゃに撫でて微笑んでみせた。
「ずっと私を見ていてくれてありがとう」
優しく優しく、口にする。
「好きよ、皐月」
自然と零れ落ちる言葉は、穏やかに響いた。
「今まで側に居てくれて、ありがとう」
─これからも居てくれるでしょう?
静かに瞼を閉じた皐月の頬にすっと一筋、涙が伝って。
ゆっくりと瞳を開くと、
「当たり前じゃん」
あたしはこの先も弥生の側に居るよ、と。 にかっと笑った。
私があげたチョコを、皐月はしょっぱいと文句を言った。 それは皐月が泣いた後だからでしょ、口を尖らせて言い返すと、ばつが悪そうにはにかんだ。
初めて交わしたキスからはほのかな甘さのチョコの味がしたから。 やっぱり皐月の舌がおかしいんだ、もう一度文句を言うと、 「チョコの味なんてした?」 わかんなかった、とぼけるように言って、再び顔を近付けた。
来年は、互いにチョコレートを交換しよう。
そして、ずっとずっと私の隣で笑っていてね。
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