ビアンエッセイ♪

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■12825 / ResNo.10)  雨に似ている11
  
□投稿者/ 秋 一般♪(17回)-(2005/09/12(Mon) 16:05:40)
    「あんたさー。いつも家にいるけど、暇なの?」
    リビングのソファに寝転びながら、テーブルの上で書類を広げている彼女の背中へと不躾に言葉を投げてみた。
    彼女はウェーブの髪を揺らせながらゆっくりこちらを振り返る。
    「失礼ね。これが見えないの?」
    言いながら手元の書類の一部を手にし、ひらひらと私の前で煽ってみせた。
    「何それ」
    彼女は私に背中を向けて、再び作業に取り掛かる。
    「卒論。これ提出しなくちゃ卒業できないの」
    あぁもう彼女も大学四年か。
    出会ってから二年が経っていた。

    ふと考えていた私の頭を、無遠慮にがしがしと撫でる誰かの手。
    「なに」
    仏頂面で顔を上げると、すぐ目の前には彼女の顔があった。
    ソファに横たわる私は体を起こしてそこにスペースを作る。
    「煮詰まった!ちょっと休憩っ」
    言って、彼女はその空いたスペースに飛び込んで体を埋めた。
    狭いソファに並ぶ二人。
    少し動けば肩が触れる、そんな距離。
    いつもはお喋りな彼女の沈黙に耐えきれなくて、私から口を開いた。
    「…あんたさ、大学卒業したらどうすんの?」

    彼女とは一切こんな話をした事がない。
    就職活動をしているのか、していたのか、それさえも疑問だ。
    けれどそんな事は些事でしかなく、彼女が何をして何を考えているかなんて、私にはどうでも良かった。
    必要なのは、彼女が此処に居るという事。
    これだけが全て。

    私の質問に彼女は眉一つ動かさない。
    むっとして。
    「ねぇ」
    再度問い掛ける。
    それでも彼女は無言のまま。
    「ねぇってば」
    わずかに声を荒げると、ようやくこちらへ顔を向けた。
    「わたしは、あんた、でもないし、名前がないわけでもないよ」
    言葉の意味を捉えきれず、私はわずかに眉をひそめる。

    「早紀。わたしは早紀よ」

    ようやく理解して。
    そして─

    「…今更呼べない」

    掠れる声で呟いたら、彼女の笑い声が聞こえてきて、妙に恥ずかしさが込み上げてきた。



    結局彼女は。
    大事な事は何一つ残さない。



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■12826 / ResNo.11)  雨に似ている12
□投稿者/ 秋 一般♪(18回)-(2005/09/12(Mon) 16:06:20)
    その時々に付き合っている彼氏と、揉める度に一早く気が付くのも彼女だった。


    「また別れたの?」
    ふふっと笑みを浮かべて私の髪をくしゃっと撫でる。
    「……亜紀が?」
    言ったの?とわずかに睨むと、彼女はそれを受け流し。
    「んーん、何も聞いてないよ」
    がしがしと私の髪を乱して、彼女は私の座るソファに腰掛けた。
    「じゃあ何で」
    わかるの?と、目だけを向けて問うたら、やはりふふっと微笑んだ。
    「律は意外とわかりやすいから」
    そしてゆっくり私の頭に手を伸ばす。
    目を覗き込むようにして、子供を諭すようにして、にっこり笑う。
    「亜紀と喧嘩した時、彼氏と何かあった時、図書館が騒がしかった時、バイト先でトラブルがあった時──同じような不機嫌な顔だけどね、怒り方が違うのよ」
    頭に乗せた手の平を頬に寄せ、指先でふにっと摘む。
    「よく、わかるね」
    摘まれた頬をそのままに、私は目を丸くさせた。
    彼女はふっと小さく笑って、手を離した。
    「それで?今度はどうしたの」
    私は観念したように小さく息を吐く。
    「…男ってさー、ヤる事しか考えてないの?」
    「何よ、唐突に」と、彼女は声を上げて笑った。
    「いつもそう。私は何にもしなくてもそこに居てくれればいいだけなのに、ある程度付き合うと求めてきてさ。それしかないのか、って。その時点で何か冷める」
    はぁ、とまた息を吐いた。
    彼女を見ると笑いを堪えるように頬を緩めていて。
    「意外と可愛いんだから、律は〜」
    私の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
    私はむっとして。
    「すぐそうやってばかにする」
    その手を払い、顔を背けた。
    「ごめんごめん」
    ばかになんかしてないよ、と。
    彼女の腕が首に回り、私は優しく抱き締められた。
    とくん、彼女の鼓動が伝わる。
    「こうされるの、嫌?」
    耳元で囁かれた言葉に、私は少し考えてから小さく頭を横に振った。
    「じゃあこれは?」
    言って、私の髪を静かに撫でる。
    「…嫌、じゃない」
    私は小さく呟いた。
    彼女はにっこりと微笑んで、私からゆっくり離れた。
    彼女の方を振り向く。
    「こういう事なのよ」
    ふふっと笑う。
    「触れ合うと嬉しいでしょう?安心するでしょう?」
    私の髪に手を伸ばし、さらさらと撫でる彼女。
    「もちろん性欲だけって人もいるけどね」
    苦笑して。
    私の頭を優しく自身の胸元に引き寄せた。
    ぎゅっと、抱き締められる。
    「でもね、それだけじゃない。触れたい、触れられたい。セックスはその為の手段の一つよ」
    つまりはこーゆー事と一緒、と。
    腕の中で私の頭を抱えたまま笑った。

    …うん。
    何だかわかったような気がした。

    それからかな。
    人との付き合いがうまく続くようになったのは。
    けれど元々相当気を許した相手じゃないと触れられるのを嫌う私は、やはり度々彼氏と喧嘩をした。
    それでも以前に比べたらずっとましになった。
    そんな時、あの人ならもっと上手く立ち回るんだろうなって、思ったけれど。



    友達も、恋人も。
    人と関わるのって、面倒だけど辛くはないね。



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■12827 / ResNo.12)  雨に似ている13
□投稿者/ 秋 一般♪(19回)-(2005/09/12(Mon) 16:07:07)
    高校生活最後の春休みが終わり。
    三年生になる直前─
    彼女は海の向こうへ旅立った。
    最初から大学を卒業したら父親の元へ帰るつもりだったらしい。
    向こうを拠点に何をしようとしているのか、私は全く聞かされていない。
    元より、彼女の進路など。
    何も、知らなかった。
    何も、知らされていなかった。
    けれど、一言も告げられなかった事に腹立たしさは不思議となくて。
    むしろ気紛れな彼女らしいと、そう思いさえした。
    彼女には、海に囲まれたこんな狭い国は似合わない。
    父親の元へ帰ったと言っても、広い世界で自由気ままにやっている事だろう。
    それじゃあ何故わざわざ日本の大学に通ったかって?
    離れたままの幼い妹が気になったから、に他ならない。
    そして。
    成長した姿を目にしてもう大丈夫だと確信した。
    だから、去った。



    彼女はもう、帰ってこないだろう。

    …きっと。



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■12828 / ResNo.13)  雨に似ている14
□投稿者/ 秋 一般♪(20回)-(2005/09/12(Mon) 16:07:46)
    彼女が居なくなっても、私の世界は廻り続ける。
    けれど、彼女が居てくれたからこそ、笑える私がここにいる。
    まだまだぎこちなくとも、拙くとも、それはきっと確実に。



    高三の夏。
    まだまだ知識を欲した私は受験生の道を選んだ。
    幸い成績はそれ程悪くはなかったから、油断さえしなければ志望校には受かるだろう。
    バイトをしながら予備校に通い。
    そんな事をしていたらあっと言う間に夏は過ぎていった。





    そして、冬休みも間近に迫った12月のある日。
    彼の人からの手紙が届く。



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■12829 / ResNo.14)  雨に似ている15
□投稿者/ 秋 一般♪(21回)-(2005/09/12(Mon) 16:08:17)
    「律、誕生日にお姉ちゃんと会うんだって?」
    亜紀の家で問題集を解いていると、カップを手に部屋へと戻ってきた亜紀が唐突に言った。
    手を休めずに答える。
    「うん。聞いた?」
    「電話があった。律の誕生日の前日にうち帰るって」
    言いながら亜紀は、とん、と湯気の立つマグカップをテーブルに置いた。
    私はそれに手を伸ばす。
    私好みのミルクがたっぷり入ったカフェオレ。
    ふうふうと冷ましている傍らで、亜紀がずずっと自分のカップに口を付けた。
    「気に掛けられてるね、律」
    その言葉に、「え?」私は思わず顔を上げた。
    「もう日本には帰って来ないと思ってたもん、お姉ちゃん」
    うん、とそれに頷く。
    私もそう思っていたから。
    「だからよっぽど律の事気に掛かってたんだなーって」
    亜紀はふっと笑った。
    「それなら亜紀の事だってそうじゃん。大学でこっち来たのは妹の事を気にしてたからじゃないの」
    「あたしはこの通り問題ないでしょ。だから大丈夫だって判断して向こうに戻ったんだよ」
    ブラックだろうそれを一口含んで。

    「律の事もね、妹だって思ってるんだよ」

    ふふっと笑った。

    「あたしと違って手の掛かる妹だからさ、誕生日を口実に様子見に来るんだよ、きっと」

    実の妹が言うんだから間違いないと、私の頭に手を伸ばした亜紀は、彼の人がしたようにくしゃくしゃと乱暴に髪を撫でた。

    嬉しさが、込み上げてくる。

    同時に、何で亜紀は普段と変わらない、いや、以前よりも社交的になった私を見ていて、潜む寂しさに気付いたのだろうか。

    じっと亜紀を見つめると、「ん?」微笑んだまま小首を傾げた。
    何だか言いようのない感情が湧いてきて、私はがばっと亜紀に抱きついた。
    「なにー?どうしたの?律にしては珍しい」
    驚きながらも笑い声を上げて、亜紀は私を抱き締め返してくれた。







    来週、私は18の誕生日を迎える。

    その日、彼女は帰ってくる。




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■12830 / ResNo.15)  雨に似ている16
□投稿者/ 秋 一般♪(22回)-(2005/09/12(Mon) 16:08:50)
    彼女から電話があったのは、ちょうど予備校から帰ってきた直後だった。
    シャワーを浴びて今日の復習をしたら寝ようか、そう考えていた矢先。
    コートのポケットに入れたままになっていた携帯が震えた。

    「久し振りね、律」

    忘れるはずがない、この声。
    私はしばらく言葉を失っていた。
    「──律?」
    再び名を呼ばれ、私は慌てて返事をする。
    「聞いてるよ。今、日本に着いたの?」
    「んーん、着いたのは夕方。もう家よ。律に電話するならこの時間だって、亜紀に言われたから」
    勉強してるみたいね?と、ふっと笑う声が受話器から漏れた。
    それが彼女の思惑通りのようで何となく悔しくて、私は彼女の言葉を無視して話を変えた。
    「…それで用事は?」
    あぁそうだったと、彼女が小さく呟くのが聞こえる。
    「明日の事で、ね。積もる話はその時たくさん話せばいいし」
    ふふふと笑う声。
    何だか私も嬉しくなった。
    「明日は律が主役だから、目一杯楽しませてあげる」
    勉強の息抜きも必要だしね、そう付け加えながら。
    「明日は学校休みでしょ?1時に駅前で」
    明るい声で言った。
    私はわくわくする気持ちを抑え、努めて冷静に「うん、それでいい」そう答えたけれど。
    やはり声の明るさは隠し切れてはいなかったと思う。
    「それじゃあ明日。律の顔見るの、楽しみにしてるわ」
    そんな風に言う彼女に、
    「明日1時にね」
    私は素っ気なく返した。
    本当はすごく、楽しみで楽しみで仕方なかったのに。


    明日、またあなたと会えて嬉しい、そう素直に伝えてみよう。

    そんな事を思いながら。


    もう一度互いに、

    「また明日」

    言葉を交わし、電話を切った。



    天気予報によると、明日は晴れるもののかなりの冷え込みで、昼過ぎから雪がちらつくかもしれないらしい。
    彼女だったら、ロマンチックね、なんて。笑うんだ、きっと。

    私はその日、遠足を待つ子供みたいに逸る気持ちを抑えながら穏やかな眠りに就いた。



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■12831 / ResNo.16)  雨に似ている17
□投稿者/ 秋 一般♪(23回)-(2005/09/12(Mon) 16:09:40)
    「…寒い」
    本日何度目かの文句を、私はぽつりと呟いた。
    やはりニュースは嘘をつかない。
    なるほど、今年一番の冷え込みというのは伊達じゃない。
    私は駅前のロータリーで缶コーヒーをカイロ代わりに震えていた。
    昨日の予報通り、はらはらと小雪が舞い始めて。
    まだ陽が出てるから寒さも和らいでるんだろうけど、ぽつりと漏らして時計を見る。
    携帯画面のデジタル時計は13:21を示していた。
    自分から時間を指定しておいて…。
    呆れつつも、確かあの人はなかなか時間にルーズ、良く言えば寛容だったっけ、そう思ってうなだれる。
    雪はまだまだわずかとは言え、容赦なく私の肩に積もってゆく。
    このまま勢いが増せば、下手すりゃ私は雪だるまだ。
    私が待たされるの嫌いなの知ってるくせに!
    寒いの苦手なの知ってるくせに!
    と、考えて。
    そう言えば彼女がまだ日本にいた頃、冬生まれなのに変なのって笑われたっけ。
    思い出して、わずかに笑みがこぼれる。
    同時に、バッグの中の携帯が鳴った。
    ぱっぱっと肩の雪を払って、携帯のディスプレイを確認する。
    「何だ、亜紀か…」
    小さく落胆しつつも、電話に出た。
    「亜紀?もしかしてさー、あの人まだ家で寝てますとかって言わないよねー?」
    おどけた口調で、それでも皮肉たっぷりに言ってみる。
    その可能性は大きくあるから。
    けれど、亜紀は何も答えない。
    受話器から漏れるのは無言の静寂。
    「…亜紀?」
    訝しみながら再び問う。
    どうやら電話口の亜紀は啜り泣いているようだった。
    「亜紀?どうしたの?亜紀っ」
    思わず声を荒げてしまう。
    が、構わず続けた。

    「亜紀?亜紀っ!」

    答えない。

    「ねぇ!亜紀っ」

    呼び続けて。

    「亜紀ってば──」
    「──お姉ちゃんが!」

    重なる声。









    「お姉ちゃんが……」










    「……───え?」










    震える声は、あっけない最期を告げた。






    次第に勢いを増してきた雪の降る街で、私は独り、迷子の子供のように声を上げた。
    うわーっと、大気が張り裂けてしまえばいいと思うくらい。
    通行人の怪訝な目など全く気にはならなくて。
    ただただ泣きじゃくっていた。
    母親を待つ幼子のように。
    その行為は、泣く、と言うよりも。
    吼えた。
    私は吼えた。
    空に向かって。
    その声は雪に掻き消され、空気に飲み込まれ、地面へと落ちてゆくだけだった。






    そして私は、18になった。












    また明日って言ったのに──…


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■12832 / ResNo.17)  雨に似ている18
□投稿者/ 秋 一般♪(24回)-(2005/09/12(Mon) 16:10:14)
    人間とはこうもあっさり逝ってしまうものだとは。
    多くの知識を吸収し尽くしたと思っていた私は、まだまだ足りないのだと思い知った。
    あの日に降った雪は、道路に落ちても積もらずにただ道を濡らすばかりで。
    それでも、それが過ぎれば水たまりになる。
    相手の車は速度オーバーだったらしい。
    運悪く雪でできた水たまりにはまってスリップ。
    そして運悪くその先にいたのが──というわけ。
    水たまりは作れても、衝撃を吸収してくれるクッションになれるほど積もってはいなかったから。
    ただのコンクリートの地面。
    打ち所が悪かった。
    他に外傷は、何一つなかったのに。



    彼女の告別式は厳かに行われた。
    この日も、真冬の冷たさを和らげるような快晴の中、はらはらと雪が舞い散っていて。
    そのアンバランスさが誰かを思わせる。
    集う人々は彼女の学生時代の友人にとどまらず、様々な職業、年齢層。
    彼女らしいと言うか何というか、その人脈の広さに息を吐いた。
    次々と別れを告げる人々。
    棺の中の彼女は、こんなにも、こんなにも、綺麗なままなのに。
    もう息をしていないなんて、彼女の悪い冗談なんじゃないのかと疑いたくなるほどだ。
    それでも真実は、いつだって残酷だから。
    亜紀に手を引かれて彼女の前に立った私は、その手を振り払って外へ逃げた。

    まだお別れを言えるほど、私は強くはなかったから。

    亜紀の制止の声も振り切り、走る、走る。
    雪のぱらつく外の空気は、私の肌をぴりぴりと刺激した。



    18になった日─

    初めて泣いた。

    声を上げて哭いた。



    今はもう。
    喉はからからで、ただただ眼が熱いだけだ。
    呼吸の音だけが、やけにひどく耳につく。





    涙はとうに枯れ果てた。
    それでもぽつりぽつりと、頬を濡らす雫。


    雪は─
    いつの間にか雨へと変わっていた。



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■12834 / ResNo.18)  雨に似ている19
□投稿者/ 秋 一般♪(25回)-(2005/09/12(Mon) 16:12:49)
    もう、亜紀の家には行けなくなった。
    行けば黒い縁に飾られた彼女の笑顔と向き合わなければならないから。

    この年の12月は、寒い、寒い月で。
    雪が散る日の私は、外へ出る事はしなかった。

    学校へ行くのさえ億劫になっていたので、冬休みの訪れは私にとって救いだった。

    亜紀は毎日、私の様子を見にやって来る。
    その度に私は、受験生の手を煩わせたくないからと言って追い返した。
    俯く時間が増えてゆく。
    目の開き方も、声の上げ方も、呼吸の仕方さえ忘れてしまえればいいのに。
    そんな事も叶わずに、貪欲な私は、未だ生きて続けている。



    様々な事を私に与えた彼女も、
    鼓動の止め方だけは教えてくれなかった。



引用返信/返信 削除キー/
■12835 / ResNo.19)  雨に似ている20
□投稿者/ 秋 一般♪(26回)-(2005/09/12(Mon) 16:13:24)
    冬休みも終わりに近付き。
    相も変わらず雪は降る。
    その日も亜紀は訪ねてきたけれど、玄関に立つ私はその扉を開ける事はしなかった。

    「律?顔だけでも見せてよ。そしたらすぐに帰るから」
    亜紀の優しい声がドア越しに伝わる。
    「ねぇ、律?」
    優しく優しく、亜紀は私に話し掛けるけれど。
    「…帰って」
    今の私にはそんな事しか言えなかった。
    「律…少しでもいいから出て来て?」
    それでも亜紀は根気強く声を掛けてくれるから。
    苛まれる、余計に。
    「──…もう放っといて」
    ぽつりと呟く。
    「…律?」
    亜紀の声は、私の心を締め付ける。
    苦しくなるんだっ…!
    「私に構うなって言ってんの!」
    ドアに向かって私は叫んだ。
    「もう、構わないでよ…!」
    この扉一枚を挟んだ先にいる亜紀に向かって。

    帰って来なければ…。
    いや、私と出会いさえしなければ…。
    そしたら私だって…──
    苦しい。
    苦しい。
    こんな感情、要らなかった。
    知りたくなかった。
    知らなければ良かった。
    それならいっそ─

    「出会いたく…なかった──…」

    放たれた言葉に。
    ばん、と。
    扉が殴りつけられた。

    「──このっ…いい加減にしろっ!いつまでいじけてるつもり?!」

    亜紀の怒号が響き渡り。
    わずかに驚いた私は、ごくりと息を飲み込んだ。

    「律がそんな風になってたら、何の為にお姉ちゃんはこっちに帰ってきたと思ってんのっ?!」

    びくり、と。
    肩が震えて。

    「あんた、お姉ちゃんが向こう行っちゃってからもちゃんとやってたじゃん!側に居なくても楽しそうに笑えてたでしょ!」

    どん、と。
    ドアを叩く音が響く。

    「もう会えないけど!教えてもらった生き方まで忘れんなっ!」

    ざわざわ、と。
    眠っていた感情が揺すぶられて。

    「──…動いてる律が好きだよ?笑って、拗ねて、素直に感情を表に出す、お姉ちゃんに出会って変わった、そんな律の方が…ずっといいよっ…」

    震えるその声に。
    私は静かに扉を開けた。

    「──やっと顔見せた」
    呆れたように溜め息を吐く亜紀。
    軽く私の額を小突いて。
    恐る恐る私は、顔を上げた。
    その視線の先には─
    目を赤く腫らした亜紀がいた。

    私はばかだ。
    いつから亜紀の顔をまともに見ていなかっただろう。
    亜紀も…亜紀だって。
    平気なはずなどなかったのに。


    気丈な亜紀の涙を、幼い頃から一緒に過ごしてきた私は、初めて目にした。


    「……泣いてる」
    自分の頬に伝う涙にはお構いなしに、亜紀は私の目尻をぐいっと拭った。
    そして、大して背丈が変わらぬ私の背中に腕を回して引き寄せる。
    片方の手の平でがしがしと乱暴に髪を撫でて。
    「あんたはこんな風に泣けるようになったんだ…!悲しい、って。ちゃんと心が感じてんだ…つまんない顔してた律より、人間らしくて好きだよ……」
    回された腕に、力が込められた。
    「だから…出会わなきゃ良かった、なんて。そんな事言うな!律が言うなっ!」
    叫びながら、泣きじゃくりながら、亜紀は私を抱き締める腕だけは緩めなかった。
    私は彼女の肩に顔を埋めて。
    「───……うん。うんっ……!」
    むせび泣きながら、必死に声を吐き出した。



    枯れたものだと思っていた涙は、後から後から溢れ出て。


    無力な子どもがふたり、涙にまみれて、雪にまみれて、玄関で抱き合ったままわんわんと泣いていた。


    雪が雨へと変わるまで─



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