| 「サリー先生?」と、私は鈴に鳴って呼ばれた気がした。
過去を思い出せないのではなく、現在の女の名前一つ失ったことに、苛立ち始めていた私の耳に届く。
その声の方向を見ると、店の入り口にアサコが立っていた。
「どうして此処に?」と、私は尋ねた。
隣で少しだけ青い顔色のジュンコが、それでも私にニッコリとして返事をする。
「ここで人と待ち合わせをしてたんです。」
店の中が、少しだけザワザワとした。
当然だ。名の知れたアサコがいるせいだ。皆の目の中にアサコが映って増えていく。
「アサコが早利の書いたものに出てるって、全然思いつかなかったけど、そういえばそうだったわ。」と、横に座っていた女が笑いながら言った。
そうだったわ。と、ジュンコとアサコに笑っている。
私の仕事に溶け込む他人を、ちっとも気にしないこの人は、大人だ。
「ひょっとしてあたしの仕事って、この子のドレス?」と、シイナが言った。
「そうよ」
「ふーん」
カウンターの真後ろにあるテーブルに、女優と、その付き人は座った。
私は、状況を飲めても筋が読み込めなくて、質問をする。
「ドレスって?」
「あたしのウエディングドレスよ。」と、アサコが私に答えた。
「結婚、するの?」
「うん。」
私以外の全員が、落ち着いて話を聞いている。
世界では、女優が結婚するとなると、一塊の話題になるのが先の読みだ。
その程度だ。
その程度の世界だ。私達はそれでも世界では、その程度。
だから素直に祝福を。
「相手は私の知ってる人かな。おめでとう。」と言うと、アサコは微笑み返しをした。
「知ってるも何も、ここにいる誰かよ」と、女が言った。
「この店に相手が来るの?」
「そうだよー。来るんじゃなくて、もう来てるの。」と、アサコが言う。
カウンターの奥にいるヒキチすら、知っているかのように知らん顔をしていた。
シイナはアサコの洋服を眺めて、一人何かを考えている。
アサコと向き合って座っているジュンコは、奥さんから貰ったお冷を飲んで深呼吸していた。 顔色が少しだけよくなっている。
そのコップを持つ手に、アサコの指が触れて、触れたその指はそのまま、手首の辺りを撫でていた。
その撫で方で私は全てを読んだ。
「ひょっとして・・」
「そうよ。」
女が私に言った。「そういうことよ。」
私
女
シイナ
ジュンコ
アサコ
ヒキチ
ヒキチの妻
全員が一つの、透明に濁った、その偏見の砂の溜まる水槽。
漂っているのか、泳がされているのか、けれども私は、そこに沸いて出るはずの安心感や急激な結束感は、何故か感じなかった。
同じ世界。
アサコとジュンコが仕事以外で支えあっていても不思議ではない。
けれども恋愛であるのは不思議以上に、簡単に理解できない。
理解できないけれど、ああそうかと簡単に納得した。
「あたしは先生が女好きだって知ってたわよ。」と、アサコが頬杖をついて言う。
「そう?」
「うん」
そこへ男の声が割り込んだ。「Asakoでしょ!」
アサコが見上げると、奥のテーブルから来たらしい、酒に酔った20代位の男が2人。
「ううん、違うよー。」と、アサコは笑って返事した。
「えー!嘘だろ?本物っぽいよ?」 「絶対本物だって!」
小さく興奮している感じで、アサコをジロジロと眺めた。 アサコは撫でていたジュンコの手を離さず、笑ったままで違うよーと返事を繰り返す。
男の一人が携帯電話を尻ポケットから取り出し、アサコの横にかがんで勝手に撮影をしようとした。
ジュンコが言う。「ちょっと、やめなさいよ。」
「えーやっぱり違うの?」
「だから言ってるでしょー?違うよー。」
私達は会話を止めて、それが終わるのを待っていた。
けれども次の言葉が、アサコを怒らせた。
「そっかー偽者かぁ」
フラフラしながら詫びれもせずに言ってのけた。
途端にアサコが立ち上がって、笑ったまま男の頭にジュンコの飲みかけの水を振り掛けた。
そうするだろうと思っていたが、私は見ていた。
ジュンコが止めるのは、間に合わなかった。
「何すんだよ。」と、男が笑って言う。一緒にいた男も笑っている。
「偽者扱いしないでよ。」
「本物じゃねーんだから偽者だろ??」
それは違うだろう。
「それ違うだろ。」
シイナが言った。「っていうよりさ、あっち行ってくんない?」
「はぁ?」
「あたし達、大事な話してんだから邪魔すんなよ。」
「何ー大事な話ってー俺らも入れてーーよーーーーー」
水を引っ掛けられても腹を立てず、シイナを煽っている。
たちが悪そうな感じになり始めていた。
「ね!本物?やっぱ本物?それとも偽者?」
また同じことを言い始める。
アサコとジュンコは目を合わせて、店を出ようとしている。 迷惑かけちゃ、ダメだから。出よう。
と、アサコの腕を男が掴んだ。「逃げないでよーーーー」
「ちょっと離してよ。」 「何で逃げんのーー」
「離せよ。」と、シイナが立ち上がった。
私も向きを変えた。 女もそちらを見る。
「離してよ。」と、アサコが腕を振ったが、離さない。
「じゃあ一枚だけ写メしてよー」 「離してよ!!!」
「離せよ。」と、シイナが男の肩を掴んで言った。いけない。
遅かった。
「何だよお前、何様?」 「嫌がってんだろ?」 「何?レズのファンみたいなことすんなよ」
私はヒキチに目配せした。
「とにかく離せよ」 「離してよ!」
「ギャアギャア煩ーんだよ。」と、もう一人の男がシイナの胸を押した。
よろめいてカウンターに背中が当たり、飾ってあったピンクのラクダが倒れた。
ガシャンという音。
「シイナ!」と、アサコが叫び、腕を振る。「離して!バカ!」
シイナが男にグラスを投げた。
まともに当たって、顔を抑えてうずくまる。
アサコの腕を離してもう一人がそれに近寄る。
ジュンコがアサコの手を引いて寄せ、男から離れる。
グラスをぶつけられた男の額から赤いものが見えた。
ヒキチは受話器を耳に当てている。
「痛ってー・・・っこの野郎・・」
男がシイナを殴ろうと拳を振った。
シイナの顔、ではなく・・
「ハツエ!!!!!」
「ハツエさん!!!!!」
かばった女の顔に当たり、女が倒れた。異様にゴツと鈍い音がした。 殴られた勢いで倒れ、頭をカウンターに当ててしまったのだ。
シイナとジュンコが叫ぶ。
ハツエを抱き起こすとを、彼女からも赤いものが見えた。
何も言わない。
ハツエは私に、何も言わなかった。
ヒキチがカウンターから出てきて言った。
「出ろよ。外に出ろ」
ハツエを殴って酔いが醒めた男と、アサコに絡んだ男は、少し正気が戻って青くなっている。
他の客達が同じ目で見ていた。
男が財布から紙幣を出すと、床に投げて、慌てて店の外へ出て行った。
今思えば、自分の力で完全に蘇らなかった彼女の名前、ハツエという名前、そういったハツエについての程度こそが、私の中での彼女の薄さを示していたと思う。
何故、忘れたのかより
何故、思い出せなかったのか。
こんな形で思い出したことが、私には拍子抜けだった。
「ハツエ・・」と、私は彼女を抱き起こし、額に触れる。
ハツエは、やっと薄目で笑い、そのまま目を閉じた。
「ハツエさん!」
「あんまり動かすな。」
わぁという店内と、サイレンと、ヒキチ夫婦と、そしてシイナが私の隣で彼女をずっと呼んでいた。
ハツエさん
ハツエさん
抱きかかえた彼女から、薄い、果実の匂いがした。
「ハツエ」
私はハツエを呼ぶことが出来た。
けれどもその時にはもう、私とハツエは、役割を交代したのだった。
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