| 「んーーーーっ。それにしても、そんな血生臭い事件を起こしておいて、 紅野心はよく芸能界に生き残れたわね」
首を捻って関節を鳴らしながら私がそう言うと、
すみれちゃんがいつの間にか持ち出して来ていた、
プレッツェル菓子の箱を開けながら頷く。
「確かにそうですよね。私生活がオープンなハリウッドとは対照的で、 日本の芸能界って、ちょっとした人間臭さが命取りになったりしますもんね。 お酒の席で一般の人に軽い怪我をさせてしまって、 そのせいで、人気の絶頂から瞬く間に転落したり」 私もすみれちゃんの言葉に頷き返す。
確かに日本という国は、 物や企業や団体や人物に対して一度付いたマイナスのイメージに長く執着する嫌いがある。 良く言えば潔癖(これが誉め言葉と言えるかは微妙なところだが)、 悪く言えば不寛容。 芸能界などは、 汚名を返上しようと懸命になればなるほど、 その骨折りの姿に聴衆は興を冷ますのだ。 費用と時間を大量にかけて振る舞った料理でも、 “お粗末様でした” と言って謙遜するのが美徳とされるこの国では、 優雅に泳ぐ白鳥の水面下の努力を晒す事は、タブーなのである。 激太りしたスターが、 自身のダイエット生活をノンフィクション番組として放映し、 その話題性で更に飛躍する、 なんて事も珍しくない米国とは、まさに真逆である。 「ところがむしろ、紅野心は兄殺しをきっかけにその地位を確立したようなもんっすよ」 そう言った三葉は私のデスクの上からアリスのデスクへ座ったままズリズリと移動し、 長い腕をすみれちゃんの方に伸ばした。
すみれちゃんは微笑んで一袋、菓子の包みを三葉の大きな掌に載せた。 「そう、確か彼女が助演で出てた映画の公開の時期と、事件がちょうど重なったのよね。魔性の女の役」 「璃々子さんも見ました?【Underground】。 あれ、一時上映禁止になったんすよね。紅野心の無実が決まるまで。 それが逆に皆の興味をそそって、一気に紅野心の名前が日本中に知れ渡ったんすよ」 バリっと軽快な音を立てて、三葉が菓子のビニールを破る。 「それまでは無名だったの?」 「知る人ぞ知るって感じっすかね。藤鷲塚家の名前も出してなかったみたいっすから。 演技の定評はマニアの間では凄かったらしいっすけど。 【Underground】の中の紅野心が、これまた過激に美しくて。オールヌードだったんすよ。 実際に兄を殺したっていう背景が、マイナスじゃなくプラスになる程、妖艶なイメージでファンを虜にしたんすよ。 まぁ、大した女っすね」
言い終わるか終わらないかのうちに、 三葉は大きな口を更に大きく開いて、 5、6本束にした15センチ程の細長い菓子を半折りでその空間に押し込んだ。
と、その時入り口のドアが開き、
今まさに話の中心だった女優の若かりし頃を連想させる顔が現れ、
私達の方を一瞥してみせ、
慌ててアリスのデスクから跳ね降りた三葉は「ググッ」と妙な音を立てたかと思うと、 物凄い勢いでむせ始めた。 「きゃーーー!お水お水!!」 すみれちゃんが慌てて給湯室へ駆け出し、 三葉も真っ赤な顔をしてそれに続く。 「何やってんだか」
リリーもアリスの椅子から腰を上げ、自分のデスクへ戻って行く。 そんなドタバタ状態など耳に入っていないかのように、 アリスはいつもの涼しげな顔で歩いて来、 私の隣りの自分の席へ腰掛けた。 そしてパソコンの電源を上げる。 一昨日の夜、 アリスの不可思議な寝言を聞いた後、 私は結局アリスに膝枕を貸したままの態勢で眠ってしまい、 翌朝9時過ぎに目を覚ますと、 既にアリスの姿は消えていた。 ただ今回は、 一度目にアリスを泊めた時とは違って、 綺麗に畳まれた服の上に、 一枚の書き置きが残されていた。 『心地良い枕をありがとう』 簡潔で、何か少し色っぽいその文章の美しい楷書体に、 寝起きの私はしばし見とれたものだ。 その文字を残した指が、 今は私の隣で軽やかな音を立ててパソコンのキーを打っている。 爪には淡いグリーンのマニキュアが施されていて、 その色より少し濃い目の半袖のブラウスと、 よく合っている。 下はローライズのプリーツスカート。 アリスの装いには、おおよそ好みという名の偏りが見られない。 シックだったり、アヴァンギャルドだったり、 ストイックだと思えば、次の日には大胆なセクシースタイル。 まるで専属のスタイリストが付いてるようで、 本当いつも、芸能人みたい。 そうそう、芸能人といえば、女優の紅野心とは親戚か何か? ・・・なんて、バカみたくあっさり言ってしまえたらイイのに。 そんな事を考えていると、 さり気なく見ていたつもりが、 私はいつの間にかアリスを凝視していたらしく、 いささか怪訝そうに、彼女は私を覗き返してきた。 「・・今日の服、可愛いね」 咄嗟に出た私のセリフにまず反応を示したのは、 アリスではなく、 私達の向かいに座るリリーだった。 目を大きく見開いて、 物言いたげな顔つきで私を睨む。 「何よ」 「別に」 リリーが書類に目を落とすのを見届けてから、 私は再びアリスに向き直った。 「アリスって、色んなタイプの服着るよね」 またもやリリーの視線を感じたが、 今度はそちらを向かないでおいた。 「そう、かな」 逆にアリスが、 リリーの存在を気にするように、視線を泳がせて答えた。 第三者が居合わせる場で、 仕事以外の話を振られるのが、初めてだからだろう。 「そうだよ、感心するくらい。服、好きなの?」 私が構わず続けると、 早くもこの状況に適応したのか、 アリスは動揺をすっかり無くして、 「んーー特には」 と、いつものポーカーフェイスで返してきた。 「特に興味無いって?でも、同じ服着てた事ないじゃない」 と、私はすみれちゃんが以前言っていた事を思い出し、 受け売りでそう述べた。 「絢が大量に買ってくるから」 私は思わず三葉の居所を確認した。 給湯室からすみれちゃんと笑い合う声が聞こえてきたので、 一安心する。 「そうなんだ。所長、優しいじゃんね」 私がそう言うと、 アリスは微かに困惑した顔をして、 考えるような間を少し空けた後、 「そうだね」 と言った。 ―――やっぱり。 アリスは否定しないと、思っていた。 『うん、絢はすごく優しい』 なんていう返事が来るとも思っていなかったが、 けれど、こういう時アリスは、 『頼んでもいないのに』 『ただの自己満足でしょう』 などと、皮肉る事はきっと無いと、 私には分かっていた。 アリスのこういうところに、 私はすごく惹かれてるんだと、自覚する。 アリスの心が真っ直ぐな事、 瞳が澄んでいる事、 アリスの虜になる人間は、 それに気付かない。 そしてアリス自身も、気付いていない。 恋人を自分の所有者としか見ないアリス。 相手が感情的になればなるほど、 自分はどんどん機械的になる。 自分に向けられる憎しみや怒りを無表情で吸収するのは得意で、 けれど温かさや愛情を認識する事は、 アリスにとっては不可能に近い、不得意分野なのだろう。 それでも、 相手をけなす事はしない。 アリスにとって、 その純粋さは、邪魔でしかないのかもしれないけれど、 そういう特質って、 いざ手に入れようと思っても、 なかなか上手くいくものじゃないんだよ。 なんて、 そんな事を言えば、 アリスはもっと困った顔をするんだろうな。
私自身、
そんな道徳の教科書みたいな事を考える自分に、
困惑してしまう。
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