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■17745 / 親記事)  花の名前
  
□投稿者/ 秋 一般♪(26回)-(2007/01/22(Mon) 14:58:14)
    いい女は、
    世界の理を知っている。


    いい女の心の内は、
    花屋だけが知っている。










    ─花の名前─





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■17746 / ResNo.1)  花の名前【April】
□投稿者/ 秋 一般♪(27回)-(2007/01/22(Mon) 14:59:09)
    とある地方都市のベッドタウン。
    駅前の商店街の一角に店を構える小さな花屋の主人は今日もせっせと花達に愛を注いでいた。
    「あのー」
    掛けられた声に作業の手を止めて振り返る。
    目の前に立つ客の格好には見覚えがあった。
    ここから10分程歩いたところにある高校の制服だ。
    そこの生徒達はこの商店街を登下校の抜け道に使っているから。
    「この花、リボン付けてもらえますか?」
    淡いブラウンのブレザーを身に纏う少女が差し出したのは、枝々に薄紅色の花を宿す鉢。
    花屋はゆるりと微笑みながら頷いた。





    【ハナミズキ】





    ─今日も居る。

    いつもと同じ時刻の通学電車の、いつもと同じ3車輌目。
    遥が立つ向かいの窓際に、肩をもたれるようにして立っている、いつもの女性。
    昨日は黒いタイトなスカートと同じく黒のジャケットというかっちりとした姿だったけれど、今日はグレーのパンツに春らしい薄い水色の
    ブラウスという装い。
    そして。

    ─あぁ、今日も素敵にいい感じだ。

    彼女の髪をうっとりとした瞳で見つめる、女子高生・遥。

    月が隠れた夜の、深い深い闇の底ような、純度の高い黒髪。
    さらさらと艶めき、毛の先まで傷みを感じさせない。
    柔らかそうなその髪に手を伸ばせばしっとりと吸いつきそうだ、眺めながら遥は思う。

    ─あの髪に触れたい。

    通学の電車でいつも見掛ける女性に、遥はいつしかそんな思いを抱くようになっていた。




    彼女は髪フェチ、というわけではなく。
    特殊な性癖を持たないどこにでもいるごく平凡な女子高生だ。
    それではなぜ髪なのか。
    それは遥の実家が美容院を営んでいる事にある。
    幼い頃から両親の仕事ぶりを間近に見て育ち、彼女自身も生まれ持った手の器用さから髪をいじるのが好きだった。
    髪の手入れも欠かさない。
    中学に上がり、周囲が色気づいてくると、遥は友人達からヘアアレンジを頼まれるようになった。
    その人の髪質・毛量から髪型を考え、スタイリングし形にしていく。
    次第に楽しくなり出した。
    それからだ、道行く人の髪に目が止まるようになったのは。
    人の髪をいじる事、高校三年生の今となってはライフワークとなっている。
    だからこそ美しい髪に出逢うと気になってしょうがない。

    ─あー、あの人絶対髪まとまりやすいよ。ワックスはあれを使うとして、色々アレンジできそうだな。そしたらもう少し明るさのトーン上
    げて…だーっ触りたい!いじらせてくれないかなぁ…。

    それも、自分好みの髪質とあっては尚更だ。
    毎朝こんな事を考えては、一人悶々としている。
    見習いでも美容師であったならカットモデルとでも言ってまだ少しは声を掛けやすかったのに、と遥は唇を噛んだ。
    高校を卒業したらその道に進むとは言え、今はまだごく普通の女子高生。
    「もし良かったら髪触らせてくれませんか?」
    なんて話し掛けられるはずがない。
    これではただの変態だ。
    警戒されるに決まっている。
    けれど高校を出るまで、こうしてこの人が同じ電車に乗っているとは限らない。
    だからこそ声を掛けてみようとも思うのだが、「おかしな人だと思われたら…」考えると怖くなり、結局は勇気が出ずに話せず仕舞い。
    同じ思考をぐるぐると巡らせて、踏ん切りがつかぬまま自分の降りる駅に到着してしまう、というのが毎朝のパターンだった。
    また今朝もそれだ…、がっくりとうなだれてとぼとぼと電車から降りる。
    改札に向かったところで違和感に気付いた。

    「やっちゃった…」

    駅の看板は、遥の通う学校の一つ先をしっかりと記載していた。
    思索に嵌まり過ぎ、あるいは見惚れていて、どうやら乗り過ごしてしまったようだ。

    調子の悪い時はとことんツイてない。
    自分のうっかりミスを運のせいにしながら、反対側のホームへと足を向ける遥。
    「遅刻する」と友人にメールを打とうと鞄から携帯電話をまさぐって。
    顔が強張る。

    「…定期がない」

    まさに、追い打ち。
    顔面蒼白の遥。
    けれども落ち込む暇の方がよっぽどもったいない。
    その場にしゃがみ込むと鞄から物を取り出し、慌てて探し始めた。
    しかし探し物は現れない。
    それほど大きくない通学バッグ、それこそ探す箇所など限られている。
    何だか惨めになってきた。
    あぁ泣きたい、泣いてしまおうか、一瞬涙腺が緩んだその時、

    「この定期、あなたのじゃない?」

    頭上から降ってきたトーンの低めの女性の声は、今の遥にとって天使の囁きだった。

    「電車から降りる時に落としたように見えたんだけど」

    はいまさに私のですありがとうございます、そう言葉を用意して、素早く立ち上がり振り返ると。

    ─え、何この漫画みたいな展開。

    瞬きを数度、不自然な早さでしてみる遥。

    そこには麗しの髪の君。

    「あ、りがとうございます…」

    ようやくたった一言だけ、からからの喉から出てくれた。

    「はい、どうぞ」

    女性は口元を小さく綻ばせ、遥にパスケースを渡す。
    そして、
    「今日はこの駅に用があるの?」
    と言った。
    「いえ、そういうわけでは──…って、何で……」
    開いた口が塞がらないとはこの事かと、若干解釈が間違っている辺り、遥のパニックが窺える。

    「降りるのは一つ手前の駅でしょう?いつも同じ電車に乗ってたから顔覚えてたのよね」

    他人だけれど顔見知り、何だかひどく変な感じがした。
    しかしこの状況をチャンスだと思える余裕が、今の遥にはなかった。
    有り難い事にとりあえずは言葉をかわせた事で、まったくの他人というわけではなくなった。
    今日は混乱してしまっていていまいち頭が働かないから、後日改めて話を持ち掛けてみよう。
    思考をそうまとめて、
    「ほんとにありがとうございました」
    再度お礼を言って立ち去ろうとした。

    「ねぇ」

    思いがけず女性の声。やはりトーンは低く、けれど澄んでいる。

    遥は足を止め、遥よりもわずかに背の高い女性を見上げるようにして見た。

    「何でしょう…?」

    「私の思い違いじゃなければ、」

    女性が肩にかかる髪を払う。
    思った通り、間近で見ると更に艶が増していた。


    「あなた、私の事毎日見てたでしょう」


    それはなぜ?、にっこりと笑みを浮かべる女性から視線を逸らせない遥は、耳まで朱に染めていた。
    これではどう言い繕ったところで誤魔化せない。

    目の前には理想の髪を持つ女性。
    手を伸ばせば届く距離に立っている。
    あれほど夢見た髪がさらさらと春風に攫われ、目を奪われているとまた、穏やかに彼女は笑った。

    遥は体内の血が煮えるのを感じて。


    ─髪に、触れさせてくれませんか。


    素直に言ってしまおうかと思いながらも、違う事までうっかり口にしてしまいそうだった。










    花言葉は、

    私の想いを受けてください。




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■17747 / ResNo.2)  花の名前【May】
□投稿者/ 秋 一般♪(28回)-(2007/01/22(Mon) 15:00:04)
    気持ちの良い日本晴れが続く中、強く強く香る花。
    その花の鮮やかな紫は、初々しい喜びを与えてくれる。
    花屋は空を仰いだ。
    なんて清々しい青が広がる日だろう。





    【ライラック】





    犬と猿。
    ハブとマングース。
    天敵同士を表す時、頻繁に用いられる例えである。
    杉崎千尋にとって浅井京子がまさにそれだった。

    「杉崎さん」

    「…げ、浅井」

    今時「げ」もないだろうと思いつつも、呼び止められてつい振り向いてしまった事を真っ先に後悔する。

    「スカートが校則よりも15cm短すぎます。それからネクタイをしっかり締めて。そうそう、上履きの踵を踏まないように」

    いつものチェックを受けながらあからさまにうんざりした顔をしてみせる。
    宿敵・浅井は見るからに不満げな千尋の顔にもどこ吹く風、
    「早く直して」
    淡々とした口調で言った。



    千尋は、そりゃあ他の生徒に比べれば校則破りもいいところだ。
    遅刻しない方が珍しいし、気分が向かなければ大抵は屋上か保健室で過ごしている。
    短いスカート、留めないブラウスのボタン、ネクタイが首にかかっているのさえ稀だ。
    その上、脱色をしたような栗色の髪。
    この明るい頭が悪目立ちに一層拍車をかけているのだが、これは地毛なのだから仕方ない、自分は一切手を加えていないのだし、というの
    が本人の主張である。
    それに多々校則を破っているもののそれが誰かに迷惑をかけたか、というのも彼女の論。
    そんな千尋に目を付けて、監視よろしく常にチェックを入れているのが鬼の風紀委員長・浅井京子というわけだ。
    正直これが生き甲斐なのではと疑わずにはいられない。
    そう思ってしまうほど、事あるごとにこの委員長様は千尋に突っ掛かってくるのである。

    俗に言う、不良と優等生。
    絵に描いたような天敵の図。

    どうにかこの場をやり過ごしてさっさと退散してしまおう、後でまた戻せばいいや、思った千尋がすっかり着崩された制服を直していると

    「また見掛けた時にだらしなかったら反省文書かせるからね」
    先手を打たれた。

    「…あたしが校則守らない事で誰かに迷惑掛けるわけ?」

    「今まさに私に掛けてるわね」

    「ほっとけばいいじゃん」

    「皆が皆そう言い出して、もしその火の粉があなたにかかったらそんな事言ってられるかしら」

    こいつの言う事はいちいち回りくどく、それでいて正論なのだ。
    口ではまるで勝てる気がしないので、これ以上の言い合いは無駄な労力だと悟り、千尋は開きかけた唇を閉じた。





    「ほんっっと、頭来る!浅井のヤツ!」

    仲間達が集ういつもの屋上で、苛々とコーラを飲む千尋。

    「確かに口うるさい、あの委員長」

    「それにしても千尋はしょっちゅう捕まってるよね。目付けられてない?」

    言えてる言えてる、とどこか他人事のように笑う友人達。

    「アイツのせいであたしの穏やかな生活は全部パーだ…」

    千尋がはぁぁと大きく息を吐くと、

    「向こうも案外そう思ってたりしてー」

    やはり人事のように笑う。
    結局皆、自分に飛び火しなければ構わないのだ。
    もう一度千尋は溜め息を吐いて、コーラを飲み下した。





    昼休み、一人職員室に向かって歩く。
    呼び出し相手が生活指導教員とくれば、用件を想像するのは難しくない。

    「来たか、杉崎」

    千尋が職員室に入るより先に、すでに扉の前で待ち構えていたのは生活指導・平田。
    無遠慮な視線を向けてくる様に、あぁこいつも人の粗を探す事に生き甲斐を見出だすタイプだとげんなりした。
    呼び出しの内容がわかっているのに、スカートは短く、上履きは履き潰し、だらしなく締めたネクタイに腕にはじゃらじゃらとアクセの束
    、といったいつも通りのスタイルの千尋も千尋だが。
    職員室に向かう時ぐらいきちっとしてはどうかと、浅井京子がこの姿を目にしたらきっと嘆くに違いない。
    それにも関わらず平田は、ざっと千尋の服装を眺めただけで、嫌な眼つきで千尋を見た。
    「おい」
    高圧的な声。

    「お前、こんな頭していきがるのもいい加減にしろよ」

    触れられたのは、服装や生活態度ではなかった。

    「そんな真っ黄色にしやがって。かっこいいとでも思ってんのか?周りから見たらバカみたいな色だぞ。そんなに目立ちたけりゃもっと他
    の事に力を注げ」

    いわれのない非難、千尋は唇を噛み締めた。

    「大体なぁ、そんな頭してチャラチャラしてるから成績もぱっとしねえんだ。髪の色戻して、真面目に取り組んでみろ。な?」

    服装は好んでやっている事。
    成績不振も勉強嫌いの自分のせいだ。
    生活態度が悪いのも認めよう。
    それらを咎められるなら甘んじて受け入れられるが、けれど髪は。髪の色だけは。
    これはすべての理由にならない。
    堂々とできる筋の通ったものだ。

    千尋は不快感を露わに、平田を睨みつけた。

    「何だその眼は。お前はいつも反抗的だな。その頭にポリシーでもあんのか。ただ意地になってるだけだろう?」

    停学でも何でもいい。
    たかがそんな事で何を、と思われるかもしれない。
    けれど千尋には自身を否定されたも同然、譲れない、譲る事などできない一点を馬鹿にされたのだ。
    もう我慢できなかった。
    一発コイツを殴らせろ、掴みかかろうとする。
    その千尋の前に、一足早く人影が立つ。
    危うくぶつかりそうになり、何とか踏みとどまって、邪魔をした背中をまじまじと見た。

    「お言葉ですが、先生。杉崎さんの髪は持って生まれたもので、染色脱色の類いではありません。」

    浅井だった。
    宿敵ではあっても決して味方になどなり得ない、浅井。

    「いや、しかしだな浅井。日本人がこんな金髪というのは…」

    「日本人すべてが黒髪というわけではありません。それが大半でしょうが、色素によっては赤みがかっていたり黄色みを帯びていたり、彼
    女のようにとても明るい髪というのも稀にあります」

    「ん、む…そうか…」

    成績優秀・品行方正、まさに絵に描いたような優等生の言葉に平田もたじたじになる。

    そう言えば、髪の色を注意された事などただの一度もなかった。

    「他に用がないようでしたら、服装検査は風紀委員として私が引き受けますが」

    「それじゃあ頼む。杉崎にしっかりわからせてやってくれよ」

    これ以上言い合いをしたくないのか、思わぬ浅井の登場に平田は職員室に入っていった。

    「…何で、庇った?」

    振り向いてようやく顔が見えた浅井を睨む。

    「庇う?」

    冗談を言うなというように、浅井は眉をひそめた。


    「髪の色、本物でしょう?あなたに非はないじゃない」


    教師だからといって媚びる事なく。
    浅井は、正しい事は正しい、間違いは間違いだとはっきりと指摘できる、自分の正義を持っている。
    その信念は決して曲がる事はないのだろう。

    ちょっと、見直した。
    見直したのに、
    「スカート短い。ネクタイ締めて。反省文書かせるって言ったわよね?」
    台無しだ。
    いつもの浅井だった。

    ─いつも通り、揺るがない意志を持つ浅井。

    浅井が去った後、千尋はぎゅっとネクタイを締め直した。
    思いの外締まり過ぎて、けほっと小さく咳を漏らした。





    浅井からの執拗な追求を逃れる術はたった一つ、服装を正す事。
    気付いたものの、千尋には一向に直す気配がない。
    やっぱりネクタイは息苦しくて、「あたしには生き苦しいのだ」なんて、大してうまくもない事を言ってみたり。
    それでもあの一面を見てからは、浅井の小言もそれほど煩わしくはなくなった。
    多少は控えてはもらいたいものだが。



    「あー…今日はやけに平和」

    五月晴れの陽射しが差し込む窓際は、何とも幸せに浸れる。
    千尋はのんびりとした休み時間のまどろみを満喫していた。
    気にかかるのは、どうしてこうも平和なのか?

    「そういや今日浅井来てないね」

    その答えは友人が与えてくれた。

    ─確かに。

    もう三時間目が終わったというのに一度も指導を受けていない。

    「お説教聞かなくてほっとしてんじゃん?千尋」

    からかい気味に言う友人に、「当然!」笑って返そうとして。
    どこか釈然としない。
    毎日の日課になってしまっていたあのお小言を聞かない事には物足りないのだろうか。
    考えて、あたしはマゾかと心中で一人ツッこむ。

    けれど、一度気にしてしまうとどうしたって気になるわけで。
    四限が始まっても浅井は姿を現わさない。
    欠席、その言葉が頭を過ぎったが、瞬時にそれを打ち消す。
    しかし遅刻という単語の方が、よほどあの優等生に相応しくない。

    ─浅井に限って、そんな。

    授業中もそればかり考えていた。
    もっとも上の空なのはいつもの事だが。

    結局浅井は四時間目の授業が終わってもやって来なかった。
    変だ変だと思いながら昼休みに入る。
    一度も突っ掛かられないというのは、何とも調子が狂うのだ。
    窓の外を眺めながら購買のパンをかぶりつく。
    遠くで救急車のサイレンが鳴り響いている気がした。

    「事故かなー」

    友人もそんな事を言うので、気のせいではないらしい。
    現に音が近付いて、次第に大きくなる。
    「近くで事故ったんかね?」
    千尋はパンを頬張りながらぼんやりと友人の指す指の先を眺めた。
    あぁいい天気だ、なんて目を細めながら。

    ──…まさか。

    はっとした。
    少しずつ血の気が引いていく。
    「千尋?」
    訝しげに千尋の顔を覗き込む友。
    「ちょっと…顔色ヤバくない?」
    自分でも、青ざめているのははっきりとわかった。
    居ても立ってもいられず、千尋は教室を飛び出した。
    「千尋?!」
    驚きの声を上げる友人を残して、走る。
    階段を下るのさえ煩わしくて、半ば飛ぶように降りた。
    一階に到着したら、後は昇降口まで一気に駆けるだけだ。
    体育でも真剣にならずトロトロ走っているだけの千尋が、息を切らせて駆けている。
    人波にぶつかりそうになりながらも、走って走ってもう少しで昇降口というところで、あちらからやってきた人影を追い抜かし、

    「杉崎さん、小学生じゃないんだから廊下は走らない」

    「今はそれどころじゃ──…は?」

    足を止めて、駆け抜けた分を戻って、まじまじと目の前の相手を確認する。
    鬼の風紀委員長・浅井京子、まさにその人。

    ぜえぜえと肩で息をする千尋に、

    「ばたばたと騒々がしいわね」

    顔をしかめる姿は紛う事なく浅井だ、改めて思う。
    鞄を手にし、教室に向かう階段の方へ歩いていた様子から、どうやら今登校してきたようだ。

    「あんた、何で、今頃、学校に」

    息を整えながら訊ねる千尋の顎に汗が伝う。

    浅井は鞄からハンカチを取り出して、千尋の汗をそっと拭いながら答えた。

    「あぁ、朝起きたら体調悪くて。病院に寄ってから来たの───…ちょっと、杉崎さん?何で泣いてるのよ…」






    ほっとしたら涙が出てきた、なんて。
    死んでも言えない。










    花言葉は、

    愛の芽生え。




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■17748 / ResNo.3)  花の名前【June】
□投稿者/ 秋 一般♪(29回)-(2007/01/22(Mon) 15:01:58)
    しとしとと雨が降る。
    その雫は花々の葉先を濡らし、花弁を彩る。
    傘をさして出掛ける花屋の道行く先にはこの時期の風物詩。
    こんな雨が降る日には、この藍色がよく似合う。





    【紫陽花】





    工藤センリは麗しい。
    女の目から見ても、だ。
    老若男女問わず惹きつける独特のフェロモンをこいつは漂わせているんじゃないかと、水野チサトは常々思っていた。

    現にこの広いキャンパスで、どこにいるかがすぐにわかってしまう。
    大学内のラウンジでも、食堂でも、講義中だって、工藤の周りには誰かしら居るから。はべらしているといった方がわかりやすいだろうか

    そんな風に何人も取巻きがいて、一人で居るところを見た事がなかった。
    だからきっと学外でもそうなのだろう、と容易に想像がつく。
    人に囲まれていないのなんて私の部屋にふらっと遊びに来た時ぐらいだ、相変わらず人の中心でランチをとる工藤を、水野は静かに昼も過
    ごせないなんて大変ねと他人事のように眺めていた。





    きっかけは覚えていない。
    気が付いたら側にいるようになっていた、気が向いた時にだけ。
    だから、特に親しいというわけではないと思う。
    実際のところ、工藤について何一つ知らない。
    けれど工藤は水野の事を友達と呼ぶ。
    時々アパートにやって来ては一緒にご飯を食べて、来た時と同じようにふらっと帰っていく。

    あの取巻き達の方がよっぽど親しいんじゃなかろうか、そうは思うものの、やはりどこか自分と彼女らは工藤にとって違うようにも思える

    それを求めているようにも。
    だから部屋に来るなら迎え入れ、普段はそれほど関わらない、そんな距離を保っている。





    長雨が続くある日の事。
    ゼミが休講になってしまった。
    帰ろうにも、その次に講義があるのでそういうわけにもいかない。
    サークルの部室で時間を潰す事にして、水野はそちらへ足を向けた。
    朝から静かに降る雨は、止む事を知らない。
    夕方のような暗がりは時計を見なければ今が昼前だという事を忘れさせる。
    肌にまとわりつく生暖かい空気が不快で、足早に部室棟へと入った。
    傘を丁寧に畳んで、部室のドアの取っ手に手を掛けようとすると、扉はわずかに開かれていて。
    その隙間から華奢な体躯を引き寄せる工藤の姿が見えた。
    誰彼構わず来る者拒まず、取っ替え引っ替えだとは噂に聞いていたけれど。

    ─せっかく綺麗に畳めたのに。

    工藤は傍らの彼女の顎に手を添えるとゆっくり顔を近付ける。
    頬を朱に染めながらも目を瞑る女の顔を視界の端に捕らえ、水野は傘に手を掛けてその場から静かに離れた。
    ぱたん、と。
    小さく扉を閉じて。



    その日の講義を終え、アパートに帰ってくると部屋の前には見慣れた人影が立っていた。
    雨の中に佇む姿は無性に様になっている。
    水野の姿を捕らえると、
    「水野ー」
    片手を軽く上げた。
    「はいはい、待ってて今開けるから」
    鍵を取り出す間、大人しく待っている工藤が何だか可笑しい。
    くっくっと笑いが込み上げる。
    「なに」
    首を傾げる工藤。
    「別に」
    水野は答える。
    二人はいつもこんな感じだ。
    交わす言葉は少ない。
    過ごす時間は静寂の方が多いのではないだろうか。

    「──…センリ」

    水野が開けたドアに、勝手知ったるといった感じで工藤が上がり込もうとしていた矢先の事だった、沈黙が破られたのは。
    声の主は二人以外の第三者だったけれど。

    なかなか部屋に入らない工藤を不審に思い、中からひょいと顔を出す水野。

    ─あ、部室の。

    工藤がめんどくさそうな視線を向ける先は、今日見たばかりの顔だった。

    「その子が、彼女?」

    余裕を見せようと引きつった笑顔を懸命に浮かべているが、声が震えている為にその努力はまったくもって滑稽だ。

    「水野はそんなんじゃないよ」

    煩わしそうに髪を掻き上げる工藤は、ぞくりとするほど美しく、冷たい瞳をしていた。

    「じゃあ何?」

    「友達」

    「そんなに仲良さそうにしてて?優しい顔するくせに?友達?私は何だったの?」

    工藤は心底面倒臭そうに長く息を吐く。

    「最初から何も関係なかったでしょ、あなたとは」

    鋭い瞳、射抜かれて殺されそうだ。

    「ひどい…手を出しといてそんな言い草ないじゃない──…」

    彼女の声はもはやほとんど掠れてしまって、今にも崩れそうだった。

    「人聞き悪いな、誘ったのはあなたの方。してほしいって言うからしたんだよ、キスも、その先も」

    責任転嫁は良くない、にっこり笑う工藤は恐ろしく美しかった。




    「よかったの?あんな状態で帰しちゃって。彼女じゃないわけ」
    人の家の前で修羅場を繰り広げた彼女は、最後の工藤の言葉、あるいは笑顔だったかもしれない、とにかくそれが決定打となったようでよ
    うやく帰ってくれた。
    立っているのもやっとという感じでふらふらとした足取り、雨が降る道を一人歩く姿は見ていられないほど哀れだったが。

    「彼女じゃないって」

    水野が淹れたコーヒーに「砂糖もっと」と文句をつけて工藤は答える。

    「じゃあ友達?」

    「あたしの友達は水野だけだよ」

    「普段周りにいる人達は」

    「ただの周りにいる人達」

    定義がよくわからんと思いながら、砂糖とついでにミルクをたっぷり追加してやったコーヒーを工藤に渡す。

    「さっきの子も?」

    「そうなるね」

    「それじゃ他の子にもキスするんだ?」

    「頼まれれば」

    ウマイと言ってマグカップを啜る工藤を横目に、水野もコーヒーに口を付けた。こちらはブラック。

    「私にも?」

    「水野にはしないよ。友達だから」

    だからその定義がよくわかんないんだよなー、湯気を追って天井を眺めた。

    「キスしてエッチして視線も気持ちもって求められるのはイヤだ」

    工藤の声にそちらを見る。

    「じゃあしなきゃいいのに」

    「気持ちがないからできるんだよ」

    工藤は薄く笑った。

    変なの、と水野は呟いた。
    気持ちを伴うからこその行為ではないのだろうか。

    「それで、気持ちがあるから水野とはしない」

    ふーんと答えると、「友達だからね」と笑んだ。
    やっぱり工藤の思考回路はよくわからない。
    もう少しかい摘まんで言ってくれればいいのに、と思う。

    「要するに関係性の問題?」

    「そうなるね。あたしはこのバランスを崩したくない」

    「私は何も変わらないと思うけど」

    「──…試してみる?」

    コトリと静かにカップを置く工藤を見て、水野は特に何も考えずに瞼を下ろした。

    どうしてこう、暗闇というのは感覚が鋭くなるのだろう。

    部屋の外の雨音が立体的になる。

    そして工藤が、掠めるようにキスをした。


    「ほら、変わらない」

    目を開くと同時に水野は言う。

    「苦い」

    工藤は舌を出し、顔をしかめていた。

    「私のブラックだもん。相変わらず甘党だね、工藤は」

    「あー口直し口直し」

    テーブルに置いたマグカップを掴んでぐびぐびと飲み干す工藤。
    そんな様子を見つめる水野は、窓の外へと視線を向けた。


    本格的に梅雨入りしたようだ。
    雨が明けるのは暫く先になるだろう。

    ─今日はたくさん喋ったな。

    多くの会話の後は、いつも通りとは言え、静寂をより一層引き立てる。
    窓に手を伸ばして、からからとそれを開けた。
    瞬間、雨音が強まって、じとりとした湿った風が雨の匂いと共に水野の頬を撫でる。
    沈黙は、この梅雨の雨粒でも掻き消されそうになかった。









    誰もこの美しい人を捕らえる事はできない。









    「あんたいつか刺されるよ」



    「そしたら水野が骨拾って」





    6月の風が運ぶのは、湿った匂いとキスの記憶。










    花言葉は、

    あなたは美しいが冷淡だ。




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■17749 / ResNo.4)  花の名前【July】
□投稿者/ 秋 一般♪(30回)-(2007/01/22(Mon) 15:02:48)
    地方都市の良い所は、そのロケーションにある。
    駅前は栄えていて賑やかだけれど、ちょっと先へと行けば川。
    一面に広がる田んぼや畑。
    水田の畦道にようやく咲き揃った野の花が、いよいよ夏の訪れを、ゆったりとした足取りで散策する花屋に予感させた。





    【あざみ】





    幼い子供にとって、親が世界のすべてだったりする。
    だから自分を見てほしくて、褒めてほしくて。
    努力して努力して努力して…──

    『もうお前に期待しないよ』

    中学受験に失敗した時の両親の幻滅した眼と落胆の言葉に、志帆はキレた。
    文字通り、プツンと。
    いや、それはさすがに喩えだが志帆の中でははっきりと音がした。
    俗に言う堪忍袋の緒だったのか、緊張の糸だったのか、我慢の臨界点だったのか、それは当の志帆にもわからない。
    けれど確かにキレたのだ。
    ぷつん、と。



    それからご近所でも評判の『良い子の志帆ちゃん』は高校生になる時分にはすっかりひねくれてしまって、そんな肩書きも忘れ去られてい
    った。

    ─勝手に期待して勝手に失望する勝手な大人にはこっちだって期待はしない。

    志帆はある意味悟りを開いていた。


    幼少期より培われてきた性格は今更修正できないのか学校こそ真面目に行くものの、途中で早退、試験のボイコットは当たり前、誰に対し
    ても固く口を閉ざし仏頂面なので友人などできるはずもない。
    両親とはまともに口を聞かなくなった。
    反抗期と言ってしまえばそれまでだが、今まで優等生だった娘の成績の急降下は親として体裁が悪い。
    彼らは半ば強引に、家庭教師を娘につけた。


    これすら親の身勝手だ、志帆は思う。
    私の為だと言っておきながら結局は自分達の世間体の為なのだ、と。
    その家庭教師が来る日になって、朝方母親に言い含められた通りに放課後ちゃんと自室で待機している辺りが元来の真面目さが抜け切って
    いないけれど。
    それを自覚しているので、志帆はそんな自分にも腹が立った。


    いよいよ、だ。
    時計が約束の時刻を示す。
    けれど待てども待てども彼の人がやって来る気配はなかった。
    日にち間違えた?、不審がって手帳を確認しても間違いなく今日で合っている。

    ─時間にルーズな奴って大っ嫌い。

    苛々と時計を睨んでチッと舌打ちしたその時、

    「お待たせー」

    ノックの後、こちらの返事を待たずに部屋のドアが開かれた。
    入ってきたのはやたらとファンキーな人物。
    一瞬で目を引くオレンジの髪に、ぼろぼろのダメージデニム、「あちー」と言いながら片手で手団扇、空いているもう片方でバイクのヘル
    メットを小脇に抱えていた。
    清楚な女子大生を想像していた志帆にとって、目の前の人物が自分の家庭教師だなんてにわかに信じ難い。
    母親が見たら卒倒しそうだ、と思うと同時に、何でこんなのに依頼した?と怪訝そうにじろじろ眺める。


    「やーやー君かな、あたしの生徒は」


    疑惑の目を向ける志帆にまったく構わず、渦中の人は人懐っこく笑った。

    床にどかっとあぐらをかくと、視線を志保へと向けてまた笑う。
    「あたし、操。君のセンセー。うちの母さんが君んとこの母さんと知り合いでね。現役大学生っつー事で頼まれたわけよ」
    カテキョ代浮かせられるからだよ絶対、嫌になっちゃうよねーまったく、人使い荒いっての、
    一人ベラベラ喋る目の前の自称・先生を見て、「知り合いだからか」とようやく合点がいった。
    けれど母よ、リサーチ不足だ。
    情報は「友人の娘は大学生」とだけだったのだろう。
    事前に操の事を知っていれば常識的でお固い母が、見た目からして敬遠したがるタイプの彼女を志帆の家庭教師に迎えるわけがない。
    現に先程、お茶を持って部屋の様子を探りに来た母の顔は引きつっていた。

    「そんで君は?」

    アイスティーを一口啜って、にこにこと人好きのする笑顔の操。
    さっきまで一人トークショーだったくせにいきなりこちらへ話を振られても、志帆にはわけがわからない。

    「名前だよ、名前。はい、自己紹介いってみよー」

    ぱちぱちと手を打つ操に呆気に取られ、
    「…ばかじゃないの」
    ようやく我に返って一言吐き捨てた。

    危うくペースに引き込まれるところだった。
    勝手に盛り上がっといて、場を白けさせたらつまんない奴だって、その懐っこい瞳の奥に軽蔑の色を見せるんだ。

    考えてぞくりとした。

    家庭教師なんて必要ないからもう帰って、と口を開く。
    開いたけれど、言葉は継げなかった。

    口元は笑っているが、操は真剣な顔付きで志帆を見つめていた。
    こんな風に真っ直ぐに誰かと対面するのは久しい。
    目を、逸らしたくなる。

    「名前は?」

    身構える志帆に、驚くほど優しい声で操が訊ねる。
    けれど志帆は頑として答えようとしない。
    わずかに操は目を細めた。

    「初対面では名前を教え合う、これ常識。勉強できなくてもいいけど礼儀がなってない子はお姉さん嫌いだなー」

    口調こそおどけていても本気だという事は見て取れる。
    けれど半ば意地になっている志帆は素直に聞き入れたくなかった。

    「…約束の時間を守らないのは礼儀知らずじゃないわけ?」

    代わりに反論を試みる。
    どうせ言い訳を並べられて上手くかわされてしまうのだろうけれど。
    大人はこんなもんだ、鼻を鳴らす志帆。
    しかし──

    「あーそりゃ確かにあたしが悪い。ごめんなさい」

    予想に反して、目の前の先生は惜し気もなく素直にぺこりと頭を下げた。
    本日何度目だろう、志帆はぽかんと口を開けた。

    「うん、時間は守らなきゃ。いやーごめんね、昔っからあたしはだらしないって言われててさ。でもそれじゃだめだね。相手に失礼だね。
    今度から気を付けるよ。いやほんと、ごめんなさい」

    はぁ、と間抜けに答える志帆に「で、お名前は?」顔を上げてにいっと笑う操。
    振り出しに戻る。
    志帆はげんなりし、「しつこいなぁ」とそっぽを向いて、拒否の姿勢を示す。
    操は顎に手を当て、ふむ、と一考。

    「まぁそんなに言いたくなきゃいーけどね」

    「…は?」

    いきなり追求をやめた操に脱力する志帆。

    「反骨精神大いに結構」

    そちらを見やると、うんうんと一人で納得したように頷いている。

    「まぁあれだ。君が嫌がってもあたしが先生なのはもう決まっちゃってるわけだ」

    胡散臭そうに眺める志帆に、「おや、何だいその眼は」心外そうな声を上げる操は、

    「よろしく、志帆ちゃん」

    にいっと歯を見せて不敵に笑った。
    今日はなんて間抜け面を晒す事の多い日だろう、志帆は本日最高に口をあんぐりと開いた。
    「な…何で、」
    名前、と続けようとしたが声が出ない。
    代わりに操がにししと笑った。

    「自分の教え子の名前、知んないわけないっしょー」

    この人懐っこい笑顔がこんなにも憎らしく見えるなんて。
    食えない奴だ、と顔をしかめる。

    「さっきはああ言ったけど、意地っ張りな子好きだよあたし」

    目の前であははと豪快に笑う操。

    ─変な大人。

    そう思った志帆の胸には不思議と嫌悪はなかった。




    操という人は外見そのままの、変人だった。志帆に言わせれば。
    週三回の授業の内一回は必ず遅れるし、志帆の部屋でも平気で煙草を吸う。
    一度、まだ夕方だというのに妙に酒臭い時があった。
    聞けば、休講だったのでサークル仲間と昼間から呑んでいたのだとご機嫌な調子で言っていた。
    志帆はこの先生らしからぬ先生に呆れるばかりだ。
    けれども操はこう見えてなかなかに優秀な人物だった。
    大学名を聞いて思わず絶句した。
    母が家庭教師にと決めたのはこのブランドだろう。
    教え方も上手かった。
    本来優等生気質の志帆、飲み込みは早い。
    その度に、
    「おー、さすが志帆」
    操は褒めてくれる。
    嬉しくないと言ったら、───…嘘になる。


    最初の内こそ訝しがっていた母も、期末試験が終わる頃にはすっかり操を受け入れていた。
    娘が真面目に机に向かい、その上成績にしっかりそれが反映されていれば、認めざるを得ないのだろう。


    「うんうん、やっぱり志帆は頑張れる子だね」

    夏真っ盛りの夕方。
    答案を確認し終えた操は満足そうに頷いた。
    自分の教え方のお陰で、と操は言わない。
    純粋に志帆を褒めてくれるから、くすぐったくてしょうがない。
    照れ臭さからそっぽを向く志帆に、
    「よーし、頑張ったご褒美をあげよう」
    操が言う。

    思わず振り向くと、すぐ目の前には操の顔。
    「何がいい?」と笑った。

    突然の申し出に、願いなど浮かぶはずがない。
    けれども密かに思っていた事はあった。

    「…夏休み入ったら、バイク乗せて」

    恥を忍んでぼそぼそと告げる。

    操は一瞬キョトンとして、「なーんだそんな事か」とすぐさま笑った。

    「それぐらいなら今すぐにでも」

    ぱっと立ち上がって志帆の手を引く。
    「──え?今から?」
    慌てる志帆に構わず操はすたすたと先を行き、気付いたら家の外。
    「しっかり捕まっててー」
    操の跨がるバイクは、すでに発車寸前だった。



    運転の方は良くも悪くも操であって。
    志帆は予想以上の風を切る速さにげんなりしながらも、気持ちの高ぶりは隠せなかった。
    住宅街を突き抜け河川敷きのサイクリングコースに出た当たりでバイクを止めて、ぶらぶらと二人歩く。
    川沿いには林、まだまだ自然が残されている。
    夏の陽射しを遮る木陰が幾分夕方の暑さを和らげていた。

    「おー田んぼ。まだまだ青いねぇ」

    畦道に降り立って、操が水田を一望する。
    緑の中に立つ操のオレンジ色の頭は何ともミスマッチで、志帆は小さく吹き出した。
    「夏になったばっかだもん」
    笑みを噛み殺しながら答える。
    そして操の方に向かおうとして、ぬかるみに足を取られた。
    寸でのところで操の手が志帆の腕を掴む。

    「この辺泥だから気を付けて」

    ありがと、と礼を言って離れようとしたが、操はなかなか掴んだ手を緩めない。
    それどころか、志帆の手を取り指を絡めて握り直した。

    「こーやって手繋いでれば滑っても大丈夫」

    にいっと笑う。

    「やだよ、先生がコケたら道連れにされる」

    「失礼な。あたしは志帆みたいにトロくない。むしろ志帆が転んでも支えてあげられるよー」

    どっちが失礼なんだか、溜め息を吐きつつも繋いだ手は随分と馴染んでいた。
    「まぁそう嫌がらずに。手が淋しいのよ」
    またこの人はよくわからない事をと呆れた目を向けると、

    「手持ち無沙汰だと吸いたくなってね」

    操は空いている方の手でぷかりと煙草を吸う仕草をした。
    そう言えば彼女の煙で咳込んでから、吸っている姿を見た記憶がない。

    「だからこうしててよ。ね」

    結構手繋ぐの好きだしー、へらへら笑う操の横顔を盗み見て。



    あぁ嫌だな、志帆は嘆息した。
    こういうのはやめてほしいのだ。



    ─うっかり信じてしまいたくなる。



    繋ぐ左手にぐっと力を込めたのを、操は何も言わないでくれた。





    ─きっと、この手を離せなくなるのは私の方だ。










    花言葉は、

    私に触れないで。




引用返信/返信 削除キー/
■17750 / ResNo.5)  花の名前【August】
□投稿者/ 秋 一般♪(31回)-(2007/01/22(Mon) 15:03:32)
    強い芳香を放つ純白の花に、花屋は目を向けた。
    夕方から開き始めたこの花。
    宵の頃、深淵に咲き誇ることだろう。
    朝にはしぼんでしまうけれど。
    美人薄命とはよく言ったものだ、花屋は小さく笑った。
    不安定で危うく、けれど哀しくも美しい。
    だからこそ惹きつけられて止まないのだろう、と。





    【月下美人】





    廊下を小走りで歩く生徒がいた。
    名前をヒサと言う。
    本当は全力疾走したい気持ちでいっぱいだったけれど、最近何かと生活指導がうるさいので葛藤の末に何とか譲歩した結果が駆け足のよう
    なスピードを出せるこの歩行法だった。
    途中すれ違う生徒達には怪訝な顔をされたけれど、そんな事はこの際どうだっていい。
    とにかく一秒でも早く目的地に辿り着きたかったのだ。
    「失礼します!」
    誰かに迷惑が掛かるのでは?などとは全く考慮せず、がらりと音を立てて勢いよく保健室のドアを開け放つ。
    ドアの音だけが空しく響き、そこには他の生徒どころか主たる養護教員の姿もなかった。
    けれどヒサには、そんな事すらどうでもいい。
    室内の奥、三つ並んだベッドの内の、隅の一つにカーテンが引かれていた。
    それを確認すると、迷う事なくそちらへ足を向けた。
    「…──ミエ?」
    先程の無遠慮な扉の開け方とは打って変わって、そろりと静かにカーテンの隙間から顔を覗かせる。
    ミエ、と呼ばれた少女は、ちょうどベッドから起き上がったところだった。
    「ヒサ、ドア乱暴に開け過ぎ。他に人いたらどうするの」
    寝苦しくないよう解いていたのだろう、襟元でネクタイを締め直しながら、ミエはくすくすと堪えるように笑った。
    「だって集会中に倒れたって聞いてさー。慌てちゃったんだよ」
    バツが悪そうにヒサは頬を掻く。
    「今日すんごい暑いから嫌な予感したんだよねー」
    言いながら、ベッドの縁に腰を下ろした。
    「そもそも何で今日わざわざ学校来るかなぁ。夏は貧血起こしやすいくせに。授業ならともかく、たかが登校日じゃん。休んで夏休みエン
    ジョイしてりゃいいのに」
    咎めるように軽く睨む。
    ミエは控え目に笑った。

    「心配した?」

    「した」

    もっと自分の体質自覚してよ、そう言おうとしたヒサの頬に、ミエは手を伸ばした。
    汗ばんだヒサの肌の熱が、ひんやりとしたミエの手の平にじんわりと広がる。
    一瞬だけ、ピクリとヒサの体が強張ったのを、ミエは見逃さなかった。

    「好きって言ったから、嫌われたと思った」

    「……嫌わ、ないよ」

    「でもヒサ、夏休み中私の事避けてたじゃない」

    「それは──…っ」

    ぐっと口ごもるヒサに、ミエはもう片方の手も伸ばした。
    両手でヒサの顔を包み込む。
    真っ直ぐに視線を向けられて、ヒサは困ったように眉毛を下げた。

    「…話逸らさないで。ミエの体の事、あたしは結構心配してるんだから。今日みたいに陽射しがキツい日は出歩かないでよ」

    言って、ミエの手から逃れようとしたものの、思いの外彼女の力は強い。

    「今日来たのはね、学校にはヒサがいるからよ」

    冷たかった手が熱を帯び始めていた。
    ヒサの体温で温まったのだろうか。

    「会いたかったから、来たの」

    ヒサはもう、目を逸らす事ができなかった。
    ただただミエを見つめる。

    「ヒサが好き」

    ミエはやはり真っ直ぐな瞳を向けている。

    「好きなの」

    「───…」

    情けない顔をしてぎゅっと口を結ぶヒサにわずかに身を乗り出して顔を寄せたミエは、触れる程度に唇を重ねた。

    「私はヒサに、こういう事したいと思ってる」

    顔を離すとにっこり微笑む。
    いつものように余裕たっぷりのようでいて、泣いているようにも見えた。
    一瞬間の静寂が二人を包む。
    やがて躊躇いがちにヒサが口を開いた。

    「…あたし達は女同士で」

    「うん」

    「友達で、」

    「うん」

    「だからだめだよ、こんなの」

    「………」

    「友達はキスなんかしないんだ」

    「──…うん」

    ミエは瞼を固く閉じた。


    「ごめんね」


    何に対しての謝罪なのか。
    キスをして「ごめん」?
    好きだと言って困らせて「ごめん」?
    好きになってしまって「ごめん」?
    その全部であり、全く別の意味だったかもしれない。


    「ヒサが嫌ならしない。もう好きって言わないから。だから嫌いにならないで…」

    搾るような声を吐き出して、頬に触れていた手をミエはゆっくりと離した。

    「──…嫌えるわけないじゃん」

    ヒサがぽつりと呟く。

    「ミエの事、すごく大切だよ」

    「………」

    「あたしは…これからもミエと友達でいたい」

    「…───ありがとう」

    普段は堂々としていて弱みを見せない友人の涙を見ないように、ヒサは窓の外へ目を向けた。
    夏の午後は長い。
    すでに夕方と呼べる時刻に差し掛かっているのに、まだまだ陽は高かった。
    一度ミエを横目で見てから、ヒサは静かに立ち上がった。
    「そろそろ帰るけど、ミエは?」
    声を掛けられたミエは、ちらりと窓の外を眺め、
    「もう少し陽が陰ってからにする」
    起こしていた身をベッドに埋めた。
    「…ん、わかった。無理しないようにね」
    一言友人に言葉を投げ掛け、くるりとヒサは背を向ける。
    「それじゃあ夏休み明けに」
    ひらりと片手を振って歩き出そうとするその背中に、
    「ヒサ」
    声が届いた。
    振り返らずに足だけ止める。



    「始業式には、ちゃんと友達に戻ってるから」



    背中越しに聞こえたミエの声は、もうすっかりいつも通りだった。
    けれどどこか弱々しく響いた気がした事に、ヒサは気付かない振りをする。

    「──…うん、じゃあね」

    掠れないようにそう答えて、今度こそ彼女は歩き出した。





    ヒサは怖かった。
    歯止めが効かなくなる事が。
    二人が引き裂かれる事が。
    だから「友達」という言葉で誤魔化した。
    逃げ道に使った。
    同性同士が歩む道に光が射すなんて、知らなかった。
    「それ」は禁忌なのだと、許されないのだと、信じ込んでしまっていたから。

    ただ、失いたくなかったのだ。





    『あたしだってほんとは──…』

    ヒサの唇から小さくこぼれた本音は、後ろのミエには届かない。




    それは。
    純白の花の香りと幼さ故の青き感情が漂う、
    暑い、暑い、夏の日の事。










    花言葉は、

    道ならぬ恋。




引用返信/返信 削除キー/
■17751 / ResNo.6)  花の名前【September】
□投稿者/ 秋 一般♪(32回)-(2007/01/22(Mon) 15:04:23)
    今宵は十五夜お月さま。
    商店街の和菓子屋は朝から店頭に団子を並べていた。
    生憎の空模様で、雲が陰りを見せているけれど、何とか天気は夜まで持つらしい。
    花屋も、狐の尻尾に見紛うようなふさふさの穂を店の入口に彩った。
    秋の七草の一つ、尾花を。





    【ススキ】





    大学を卒業して早半年。
    すっかり社会人然としたかつての友人達はそれぞれに生活のリズムがばらばらで、なかなか顔を合わせる機会がない。
    結局お盆休みも予定を揃える事ができなかった。
    だからというわけではないけれど、せっかくの十五夜、学生時代つるんでいたメンバーでアルコールを持ち寄ってお月見をしようという話
    になった。
    仕事の終業は各自異なるから、夜集合というアバウトな待ち合わせ。
    けれども来た者から順次始めていればいいという適当なスタンスが、かつてのようで心地良い。

    マナはいつも以上のスピードで仕事を終えると、上司に残業を命じる暇を与えず会社から飛び出した。
    目指すは、4年間通った大学、その目の前の河川敷き。


    半年振りに、大学最寄りの駅に降り立つ。
    真っ直ぐに伸びた見慣れた商店街を通り過ぎ、住宅街も突き抜けると川沿いの通りに出た。
    ぼんやりとした月明りを頼りに、ぶらぶらと一人土手を歩く。
    通い慣れたはずの道なのに、どこか懐かしくて。
    思わず涙ぐみそうになったから空を見上げた。
    雲が多くて、月は時折顔を覗かせては隠れてしまう。
    それでも、この暗がりが、今はちょうどいいとも思う。

    「マナ!」

    唐突に前方から呼ばれて、慌ててマナは前を向いた。
    こちらに大きく手を振っている人影。
    顔はよく見えない。
    小走りで近くまで駆け寄って、ようやく確認できた。
    ダークグレーのスーツを颯爽と着こなしているメグミを。

    「遅かったねー」
    ひらりと、振っていた左手を下ろしながらメグミ。

    「えぇ?これでも仕事終わってすぐ駆けつけたんだよ?」
    私が絶対一番だと思ったのに、ぶつぶつとこぼすマナに「じゃあ皆が早かったんだ」だははと笑う。

    「行こう、あっちに皆集まってる」

    メグミはマナの手を取って、駆け出した。

    「皆、仕事して来たのー?来るの早すぎ!」

    「待ち切れなかったんでしょ、それだけ楽しみにしてたって事だよ」

    私もその一人だとこちらを振り向いてにっと八重歯を見せたメグミに、あぁ相変わらずだなとマナはどこかほっとした。



    月見の席は、それはもう飲めや歌えやの大騒ぎだった。
    よくもまあこんなにはしゃげるものだと、呆れる半面やはり楽しい。
    講義がない日もキャンパスを訪れ、くだらない事でいつまでも盛り上がっていた学生の頃のようだ。
    けれど、一人、また一人と、
    「明日、早朝会議だから帰るわ」
    「持ち帰りの仕事があるから今晩やらなきゃなんなくて」
    「実は仕事中抜けしててさ…そろそろ戻る時間なんだよね」
    そう言って河原を去っていく背中を見ると、急に心が冷えていく。
    そう言えば皆、見慣れたラフな恰好ではなく、なかなかにかっちりした服装だ。

    ─これが大人になるって事かな。

    自分自身も、そして隣に座るメグミも、ビシっとしたスーツを着ている事に今更ながらに気が付いた。
    メグミなんて学生時代は古着が大好きだったのだ。
    ところが今はキャリアウーマン風のパンツスーツが着慣れたようによく似合っている。
    胸の奥で寂しさが疼いて、マナは手にした缶ビールを一気に煽った。



    宴会開始から二時間弱。
    いつの間にか仲間達は、時計を見ながら散り散りになっていき、マナとメグミ、二人だけがその場に残っていた。
    皆、抱えるものがある。
    昔のようにはいかないのだと頭ではわかっているものの、寂しさは止まらない。

    夜空を見上げる。
    暗い暗い闇の中、雲に隠れた月を探すのは困難だ。

    「私達も帰ろっかー…」

    中身のない空き缶の重みが何とも心許なく手の内で踊る。

    また来年も集まってお月見やろう、なんて言っていたけれど。
    実現はしないだろうとどこか確信していた。
    それでも、実行したとして。
    今日のように全員揃う事は、多分もうない。
    来年には誰かが欠け、その翌年も誰かが減り、少しずつ集まらなくなる。

    ─そうやって疎遠になっていくんだ。

    アルコールのせいだろうか、やけに感傷的になっているなと思いながらマナは鼻を啜った。
    すると突然、頭をわしゃわしゃと撫で回された。
    メグミだ。

    「…何?」

    「泣いてるから」

    メグミの言葉にマナはぎょっとした。

    「──…泣いてないっ」

    慌てて否定するも、

    「泣いてるよ」

    メグミは依然として撫でる手を止めなかった。

    「だって月も出てないし、こんなに暗いのに見えるわけないじゃんっ!」

    「見えるよ」

    メグミの声は優しかった。
    払い除けようとした手が、思わず止まる。

    「見えるんだよ、私には」

    もう一度確かめるようにメグミは言う。
    しっとりと落ち着いた彼女の声に、マナは息を飲み込んだ。
    やはりこちらからはメグミの顔をはっきりと見て取る事はできない。
    けれど。

    ─そういえばさっきも、私がわからなかった暗闇の中でメグミは私の名前を呼んだ。

    堪えきれず、マナは顔を伏せた。
    静かな、暗い、夜。
    川の流れだけが響く。
    このまま闇に飲まれてしまいそうだ。
    また涙が込み上げそうになったその時、

    「あ。ねぇマナ、見て」

    ぽんぽんと無遠慮にメグミが頭をはたいた。
    「…今度は何よ」
    眉間を寄せて渋々顔を上げる。

    「ほら、まんまるお月さま」

    上空では風が強くなったのだろうか、雲がやけに早く流れ、黄金の月が光を放っていた。
    これぞ十五夜の醍醐味だと、メグミは子供みたいな声を上げる。

    「やっとお月見らしくなってきたねー。さっきは全然見れなかったから、改めて月を肴に、どう?」

    くいっと杯を煽る仕草をしてうきうきと喋るメグミは、本当に嬉しそうだ。
    マナも思わずふっと吹き出す。

    「来年は最初っから晴れてりゃいいね」

    「…お月見、来年もやるの?」

    「へ?やんないの?」

    「だって皆集まらないかもしれない」

    「マナは来るでしょ?」

    何を根拠にそんな事を…、一瞬絶句したけれど、次第におかしくなってきて、終いにはくつくつと笑みが込み上げてきた。

    「マナが来ればいーよ」

    楽しそうなメグミの声。

    「二人だけでもいいじゃん。やろうよ、月見」

    「来年も再来年も?」

    「うん、その次もまた次の年も」

    「どれだけやるつもりなのよ」

    「ずっとだよ!」

    月明りに照らされて、ぼんやりとした輪郭しか持たなかったメグミの顔がようやくはっきり見えた。


    どんなにスーツが似合ってたって、出来る女になっていようと、にっと笑って八重歯を覗かせるメグミだけはいつまでも変わらない。
    昔からマナの大好きだった笑い方そのままだった。










    花言葉は、

    心が通じる。




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■17752 / ResNo.7)  花の名前【October】
□投稿者/ 秋 一般♪(33回)-(2007/01/22(Mon) 15:05:08)
    白地に映える赤紫色の斑点が、ある野鳥の胸の模様にそっくりだ。
    だから同じ名を付けられたと言う。
    店のシャッターを開けると爽やかな秋晴れ。
    強い陽射しを嫌うこの花を日陰に配置し店先へと出てくると、朝の賑やかな喧騒が花屋を迎えた。
    ちょうど登校時間なのだろう、連れ立って歩く女子高生が二人。
    一人はペラペラと喋り、一人はニコニコと聞いている。
    その様子を微笑ましそうに眺める花屋は、朝の空気を目一杯吸い込んだ。





    【ほととぎす】





    高校二年生の日高さんは、同じく高校二年生でクラスメートの早見さんの事が好きだった。
    勿論二人は¨女の子¨である。
    けれどそんな事は大した障害ではなかった。
    少なくとも日高さんにとっては。





    「はーやみ、英語の和訳見せて。今日も好きだよ」

    今日も今日とて日高さんは愛を囁く。

    「ほら」

    慣れた手つきでノートを差し出し、早見さんはふんわりと上品に笑う。

    「さっすが早見、ありがとー。それから好きだよ」

    「今回は範囲が広いから、早く取り掛からないと写し終わらないわよ」

    「うんうん、わかった。やっぱり好きだよ」

    「そうそう、こないだ貸してくれたCD、結構好みだった。他にもある?」

    「ほんとー?あるある、明日持って来るよ。そんでもって好きだよ」

    「あ、先生に呼ばれてるんだった。じゃあね、日高。さっさと写してノート返しなさいよ」


    終始がこんな調子だ。

    遊びに誘えば乗ってくれるし、誘ってくれる事もある。
    こちらの愛の言葉に面と向かって拒絶された事は今のところ、ない。
    嫌われてはいないはず、日高さんは思う。
    けれど近付いたと思ったら遠ざかり、諦めようとするとやはりいつもの位置にいたりする。
    付かず離れず、絶妙な距離を保つ二人。
    はっきりと「あなたの想いには応えられない」とでも言ってくれれば、日高さんとしても何とか気持ちの踏ん切りがつけようもあるのだが
    、掴み所のない早見さんの考えなんてさっぱりわからなかった。
    元々他の級友達よりも大人びた風情が漂う早見さん。
    笑顔一つで周囲を丸め込んでしまうものだから、実に本当の感情が読み難い。

    ─きっと腹ん中は真っ黒だ。

    日高さんは、想いを寄せる相手にそんな失礼極まりないイメージを抱いていたりする。
    それでも好きだと言うのだから、一途というかひたむきというか、単純すぎるが故に¨恋は盲目¨を地でいく日高さんは実はすごいのかも
    しれない。




    ある日の昼休み。
    購買戦争を勝ち抜いた日高さんは、人気商品のカツサンドと焼きそばパンを手に緩んだ顔で廊下を歩いていた。
    早見さんの好物であるヨーグルトもちゃっかりゲットしている辺り、なかなか彼女も抜け目ない。
    教室に早見さんの姿は見られなかったので、見つけた先で食べればいいやと戦利品を持って彼の人を探す日高さん。
    中庭のベンチでようやく愛しの早見さんを捉らえ、声を掛けようとして、やめた。
    彼女が一人ではなかったから。
    側には知らない男子生徒。
    やり取りは聞こえなくても、この状況を読めないほど日高さんはばかではない。
    というか、よくある事なのだ。
    またかと思いながら、日高さんは遠目に二人を眺めていた。

    こう言っては何だが、早見さんは中身の方は置いといて見た目だけなら素晴らしい造形をしている。
    そんな彼女ににっこりと微笑まれたらドキリとしない方がおかしい。
    あくまでも中身は抜きで、の話だが。

    そんなわけで引っきりなしに早見さんへと近寄る輩が多いので、その度に日高さんはやきもきしなければならない。
    早見さんがそれらにイエスと言った試しはないし、これからもそれは有り得ないとどこか確信めいた自信はあるのだが、それでも日高さん
    の心臓はキリキリと痛む。

    ─早見にはきっとこんな気持ちわかんない。

    カツサンドの袋を開けて、ぱくつきながら日高さんはその場を後にした。




    別のある日。
    登校してきた日高さんは自身の下駄箱の前で固まっていた。
    非常に古典的だが、これは──

    「ラブレター?」

    ひょいと後ろから覗き込まれて、「わぁ!」と日高さんは声を上げた。

    「ははははは早見、い、い、いつからそこに」

    動揺しすぎである。

    「さっきから。日高、ずっとそこに固まったまま動かないんだもの。いい加減邪魔」

    早見さんはしっしっと追い払う仕草をして、日高さんをそこからどかす。
    「はやみ」と「ひだか」、出席番号の関係で二人の下駄箱の位置は上下である。

    「で?どうするの、それ」

    早見さんは上履きを取り出しながらこちらを見る。
    そんなの決まってるじゃん、と瞬時に言おうとした日高さんはそれを押しとどめた。

    正直、彼女は疲れていた。
    早見さんと居るのは楽しいけれど、もはやこの先どう手を打っていいのかわからなくなっていた。

    「…──日高?」

    即答するものだと思っていた日高さんが押し黙ってしまったので、その予期せぬ反応に早見さんは怪訝そうに日高さんの顔を覗き込んだ。


    「…わかんない」

    日高さんの呟きが地面に落ちる。

    「でも話するだけしてみてもいいかなーって」

    そして早見さんを見た。

    「もしいい人だったらお友達から〜、ってやつ?」

    へらっと笑う日高さん。

    「ほら、そしたらこれ以上早見に付きまとって迷惑掛けなくて済むし」

    早見さんはふぅと小さく息を吐き、「そう」と、とてもつまらなそうに呟くと、さっさと靴を履きかえて教室へと向かってしまった。
    日高さんはただただわけがわからずに、あの冷たい声に「怖い…」と素直な感想を口にした。
    美しい人の真顔は、恐ろしく迫力があるのだ。




    やはりというか、何と言うか。
    案の定、その日の早見さんは怖かった。というより変だった。
    日高さんに対していちいち棘があるのだ。
    ノートを貸してくれなければヨーグルトも受け取ってくれない。
    通りすがりに肩にぶつかり、足を踏む。
    友人と笑い話に花を咲かせている最中、感じる視線に振り返れば鋭い瞳で睨みつけられている。
    話し掛けても無視か嫌味のオンパレード。
    元々毒はある人だけれど、本気で相手を傷つけたりはしないので、日高さんは結構真剣に怯えていた。

    ─今日に限って何でこんなに不機嫌なんだろう。

    声を掛けて、「何の用?」と向けられた笑顔に心の底から恐怖したのは初めてだ。
    事実ちょっと半泣きだった。

    ─あたし何かしたっけ?

    駅までの帰路を一人寂しく辿りながら、思案する。
    いつもは早見さんと一緒に歩く道だ。
    約束こそしてないものの、何だかんだ言いつつも早見さんは隣に居てくれた。

    ─あたしが何したっつーんだ…。

    一人で歩いていて、悲しくなってきて、それでもなけなしの脳みそをフル稼働させて日高さんは考える。
    あまり考え事は得意じゃないのに。
    情けなくて泣きそうになってきた日高さんの頭からは煙が出てきそうだった。

    「だーっもう知るか!わけわかんねーっ!」

    ショート寸前まで追い詰められ、ついには道の往来で叫び出す始末。

    「いつもいつも笑顔で何考えてんのかわけわかんないのに、いきなり無表情だったり睨んできたり、何だっつーの!怒る?怒ってんの?そ
    れならそうと言えばいいじゃん!大体怒られる筋合いなんか────……あ」

    叫んで叫んで、心の内をぶちまけて。
    ようやくある一つの結論に辿り着いた日高さん。


    思い違いではないならば。
    それはとてもシンプルな事。


    やっとその事に気付いた日高さんは泣きそうになった。
    勿論先程とは別の意味で。




    翌朝教室に行くと、すでに早見さんは自分の席に着席していた。
    頬杖をついて何やら雑誌を読んでいる。

    「早見、おはよ」

    声を掛けながら早見さんの前の席に座る。

    「おはよう」

    雑誌から顔を上げて挨拶を返す早見さんは、にっこりと笑んだ。
    昨日の静かなる威圧感が嘘のよう、すっかりいつも通りの早見さん。
    日高さんは少なからず、いや、大いに安堵した。

    ─昨日は眼光で人が殺せたもん。

    やはり相変わらずの失敬な事を考えている。
    そしてこっそり深呼吸をして、早見さんが目を落とす雑誌をぱたんと閉じた。
    早見さんは「何?」とでも言うように、ちらりと視線だけを日高さんに向けた。


    「ねー、早見。あんたあたしの事好きなくせに何であたしのものになんないの?」


    日高さんの言葉に、早見さんは「あら、面白い事を言うわね」と目を細めた。
    頬杖をついたまま、「そうね…」と短く逡巡し、

    「簡単にものになって飽きられるのはごめんだわ」

    余裕たっぷりに言って、本当に17歳かと疑いたくなるような何とも艶っぽい笑みを口元に浮かべる。

    悪い顔だなー、日高さんは思った。
    こんな表情ができる17歳はそうそういない。

    見惚れる日高さんの視界に、こちらへと伸ばされた早見さんの指が映る。



    「追い掛けて、追い掛けて、ずっと私だけを見てればいいの」



    つつ、と。
    指先を伸ばした早見さんは、人差し指の腹で日高さんの顎のラインをなぞった。
    ぞくぞくと、背中に電流が這う。

    「だから、よ」

    質問の答えをそう締め括って、やはり上品に早見さんは笑った。

    そんな駆け引きはいらないよ、などと心中で毒吐きながらも、こんなに素敵な笑顔を見せられてはもはや日高さんは何にも言えなくなって
    しまうのだった。

    ─本当に、早見には悪い顔がよく似合う。

    こんな事を妙に納得しながら「やっぱ好きだなー」と考えている辺り、日高さんはだいぶ終わっている。

    掴まれた心は、そう容易く離してはくれないらしい。






    この世界にはこんなにも人が溢れているのに、
    どうしてたった一人を独占したくなるのだろう。










    花言葉は、

    永遠にあなたのもの。




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■17753 / ResNo.8)  花の名前【November】
□投稿者/ 秋 一般♪(34回)-(2007/01/22(Mon) 15:05:54)
    「私の事はいいの」
    少女は言った。
    「あの人にはもっと自分の事を考えてほしい」
    風鈴の形のような愛らしい黄色い花をそっと撫で、花屋は静かに耳を傾けていた。





    【サンダーソニア】





    姉のミフユが婚約した。
    その事に、トーコは心から喜び、そして祝福していた。
    物心ついた頃にはすでに両親が他界していたトーコにとって、この一回り年の離れた姉が親代わりだった。
    今でこそトーコを養えるほどの収入があるが、姉が中学・高校といった時分には幼児一人を抱えるのはさぞかし苦労があっただろう。幼い
    トーコにはわからなかっただろうけれど。
    授業参観も学芸会も運動会も、時間の合間を縫ってはちゃんと来てくれた。
    ミフユの愛情を一身に受けてすくすく育ったトーコは、両親がいない事に淋しさを感じた事がない。
    いつも側には、姉がいたから。
    トーコが高校に上がる時、入学式の前日に制服に袖を通して見せたら思わず涙ぐんでいたミフユの姿を見て、トーコは思った。
    これからは自分の為に生きてほしい、と。
    そうして幸せを掴んでほしい、と。
    心から願っていた。
    どれだけ感謝してもまだまだ足りないから。





    秋という季節はとうに過ぎて、全身を駆ける風に身震いするようになった、トーコ高三の初冬。

    「トーコちゃん。私ね、結婚しようと思うの」

    姉が婚約した。
    恋人の影を見せなかったミフユの言葉に驚き、それも次第に喜びへと変わった。
    「実際にはあなたが卒業するまでしないけど」
    そう言って微笑むミフユ。
    この姉らしい気遣いに、そんな事気にしなくていいのにと思いながら、この優しさにいつも守られてきたのだと改めて思う。
    温和で優しい姉。
    相手はどんな人物だろうと思案して、結婚してこれまでの波乱の人生をひっくり返すような幸福に包まれてほしい、部屋に戻ってこっそり
    泣いた。
    後日、正式に結納を取り交わすという。





    バスケットボールのゴムの感触が驚くほど手に馴染んで、まだ忘れていないんだなとトーコはボールを持つ手に力を込めた。
    三年生は本来ならばこの時期すでに引退しているのだが、トーコの通う高校のバスケ部では、秋の終わりに行う交流校との親善試合が事実
    上の引退式だった。
    だから夏の大会が終わって引退した三年生達は、この試合が近付くと練習へと参加する。
    トーコもその一人だ。
    思えば姉のお陰だ、ここまでバスケを続けられたのも。
    スポーツにしろ習い事にしろ、継続する為にはお金が掛かる。
    けれど、やりたいと言った事に嫌な顔をされた事なんて一度もない。
    だから小学生のミニバス時代から今まで、思い切りバスケに打ち込んでこれた。
    久しぶりに履いた擦り切れてボロボロのバッシュが妙に愛しく感じられ、放ったボールは綺麗な弧を描いてゴールに吸い込まれていった。






    「お姉ちゃん!」
    仕事から帰ってきた姉にただいまを言う暇を与えず、トーコが飛び付く。
    「どうしたの、トーコちゃん」
    それを受け止めながらミフユはふわりと笑った。

    「選手!私、ベンチ入りしたよ!」

    「あら、引退試合の?」

    「そう!試合出れなかったら燻ったまま終わりだったけど、これで最後まで大暴れできる!そしたら心置きなく引退できるよ〜」

    「トーコちゃんの最後の試合なら応援に行かなきゃね」

    頭を撫でてくれるミフユの手がくすぐったい。
    目が合うと、相変わらず温和な笑顔。

    「うん、絶対見に来て!日にちはね──…」

    トーコが告げると、ミフユは目尻を下げて困ったように笑った。
    トーコははっとして、「いや、やっぱいいや」姉から離れて慌てて手を振る。

    「でも…」

    「いいのいいの、大体高三にもなって保護者が応援にくる子なんてそんなにいないし」

    「トーコちゃんの、大事な試合でしょ?」

    「ほんといーってば!あのねお姉ちゃん、優先順位ってもんがあるでしょ。お姉ちゃんはお姉ちゃんの事を考えて」

    「──…うん」

    夕食の時も、リビングでテレビを見ている時も、互いにその事には触れなかった。

    ─しょうがないよね。

    洗い物を片付ける姉の背中にトーコは呟きを落とす。

    結納の日取りと、同じ日だった。





    朝家を出る時は身を切る風に首をすぼませていたけれど、ウォーミングアップを済ませた今はじっとりとわずかに汗ばんでいて体が軽い。

    準備万端だ、早くゲームを始めたくてうずうずしている。
    今日どれだけ出番が巡ってくるかはわからない。
    それでも1プレー1プレーを大切にしよう、コートを睨むように見た。
    コーチの集合の掛け声が聞こえて、もう一度コートを見つめてから、トーコはそちらへ走り出した。




    夏を終えて受験生モードに切り替わっていた三年生にしては、現役のような機敏な動きを見せていた。
    年季が違う、まだまだ若い者には負けてられない。
    けれど試合を終えると皆目に見えてぐったりしていて、打ち上げは別の日に延期し、今日のところは解散となった。
    帰り道を歩くトーコの足も重い。
    けれど、心は軽やかだ。
    明日辺り肩が上がらないかもなと苦笑する。

    試合は抜きつ抜かれつのシーソーゲーム。
    少しも緊張を緩められない。
    後半残り5分弱、12点差をつけられたところでトーコの出番がやってきた。
    交代の声がベンチに掛かる。
    この5分間に、すべてを捧げた。

    「あー惜しかったなぁ」

    ぐるぐると肩を回す。
    少し痛い。すでに筋肉痛の兆候がある。

    「でも、楽しかったな」

    未だ熱を帯びる、自身の手首をそっと撫でた。

    投入後、疲れの見え始めた相手のわずかな隙を突いて、攻める、攻める。
    一度は追い付き、追い越し、また抜かされて、僅差の接戦を繰り広げる白熱したゲーム展開。
    5分とは言え、ひとつひとつのプレイに全力で臨むトーコの息も上がってきた。

    終了の笛まで残り20秒。
    スコアボードは一点差。

    トーコにパスが回される。
    考える事もなくボールを構え、ゴールを見据え、シュート態勢に入り──

    ピィィィィーー

    トーコの手からボールが放たれるより一瞬早く、審判の笛が鳴り響いた。
    綺麗な綺麗な弧を描いて、ボールはゴールに吸い込まれたけれど。


    「あれはほんとに惜しかった」

    もう一度呟く。
    けれど不思議と悔いはない。
    試合は惜しくも負けてしまったが、自分のプレイは満足いくものだったから。

    ─お姉ちゃんにも見てほしかったな。

    思って、すぐさま考えを振り落とすように頭を振る。
    浮かんだ顔に、あぁそういえば今日は相手の実家に泊まってくるんだっけ、思い出した。
    きっと夕飯は出掛ける前に何かしら用意してくれているだろうけど無ければコンビニにでも行けばいい、考えながら家のドアに鍵を差し込
    む。

    入った瞬間、部屋の中から漂う香ばしい薫り。

    ばたばたと駆け込むと、
    「おかえり」
    キッチンで食事の支度をしている姉が一人。

    「お疲れ様。お腹空いたでしょう?もう少しだけ待ってね。お風呂も湧いてるよ」

    お言葉に甘えようと、荷物を置いてタオルを掴むトーコ。
    浴室に向かう前に姉に声を掛ける。

    「何でいるの?泊まってくるんじゃなかったっけ」

    ミフユは相変わらず柔和に、けれどどこか曖昧に笑った。

    「惜しかったね、最後のシュート。でもすごくいい試合だった」

    ミフユの言葉に、トーコはさっと顔色を変えた。

    「…試合、来たの?結納は?今日結納の日でしょ?何やってんの、お姉ちゃん!」

    思わず掴みかかりそうになるのを我慢して姉の方へと近寄る。

    「結納を違う日にしてほしいって頼んだら、もう日取りも決まってるし無理だ、って」

    ミフユの声を聞くトーコは、今にも泣きそうな顔をして彼女を見ていた。

    「この日に特別な何かがあるのかって聞かれたから、妹の大事な試合があるって答えたの。そしたらたかがそんな事か、って。向こうのご
    両親も何を言ってるんだって怒っちゃってね。結婚は白紙」

    「ばっ…」

    ばかじゃないの、と言ってやりたかった。
    ¨たかが¨だ、¨そんな事¨だ。
    トーコだってそう思う。
    自分のこれからを左右するものに比べたら妹の引退試合など天秤をかけるに値しない、と。
    それなのに。

    「失礼しちゃうよね、トーコちゃんの最後の試合を大したものじゃないなんて」

    「お姉ちゃん、ばかだよ…」

    先程飲み込んだ言葉を、涙混じりにこぼす。

    泣かないの、と妹の目尻を指先で拭ってミフユは困ったように微笑んだ。

    「トーコちゃんの成長を見てきた私にはね、大切な事だよ。こんなに立派になってくれて、見届けたいと思うのは親心でしょ?」

    「…それで婚約破棄するの?ばかだよ…ほんとばかだお姉ちゃんは」

    ばかばか言わないでよと、ミフユは苦笑する。



    「あなたの事も含めて幸せを考えてくれる人じゃなければ、こっちからお断りだわ」



    すん、と。
    トーコは鼻を啜った。
    いつだってこの人は、本当に人の事ばっかりだ。
    どうしてもっと自分を中心に物事を考えない。



    「あら、いい具合いに揚がってる」

    すでにミフユは話を切り上げてコンロの鍋に向き合っていた。

    「ほら、トーコちゃん。揚げたてを召し上がれ」

    玄関に漂っていた香ばしい薫りの正体はどうやらコレ。
    顔の前に突き出された揚げ物は一目で大好物のクリームコロッケだとわかった。
    お祝い事のある日には、必ずミフユが作ってくれるものだから。
    さくりと一口噛ると中身のクリームが広がって、あまりの熱さに涙ぐんで上を見上げた。






    この優しい人が、
    誰よりも幸せになればいい。










    花言葉は、

    祈り。




引用返信/返信 削除キー/
■17754 / ResNo.9)  花の名前【December】
□投稿者/ 秋 一般♪(35回)-(2007/01/22(Mon) 15:06:38)
    体の芯まで冷え込み、街中はどこか色彩に欠けるこの季節に際立つ鮮やかな花。
    鳥が羽ばたくようなその姿は、極楽鳥花と呼ばれるに相応しい。
    花屋はかじかむ手に息を吹きかけた。
    色が乏しい冬を、彩ってくれる花たちに感謝して。





    【ストレリチア】





    お腹を空かせたらそっと近付き、牙を立て、噛み砕き、引き千切る。
    そんな肉食獣、例えばライオンのような。

    狙った獲物は数知れず、食われた獲物は星の数ほど。
    遠矢澪は、今日もいたいけな草食動物を探して狩りをする。

    近頃のお気に入りは新人の宮下愛理だ。
    最近澪の部署に配属されたばかりで、教育係を任された。
    柔らかそうな緩く巻かれた髪、白い肌によく映えるピンクの唇、「よろしくお願いします」ふんわりと甘い声で笑う。
    小柄な体で一生懸命資料のファイルを運んでいるその姿は、さながら─

    ─美味しそうなうさぎだ。

    澪は、後輩を眺めながら舌舐めずりをした。

    「遠矢先輩、これはどうすればいいですか?」

    「あぁ、それはね─」

    勿論顔には出さないが。

    そんなわけで、獣は「しめしめ」と可愛いうさぎの出現に喜んでいた。
    どう食ってやろうか、と。



    ところが、だ。
    このうさぎ、なかなか一筋縄ではいかない。
    警戒されているというわけではない。
    むしろ無防備。
    食事も何度か共にした。
    けれど、澪がいざ仕掛けようとするとことごとくかわされる。
    恐ろしい事にこのうさぎ、天然過ぎてこちらの誘いに気付かないのだ。


    澪は溜め息を吐く。
    いつもならとっくに狩りは終わっている頃、こんな事は初めてだ。
    どんな獲物だって、澪が誘えばどこか心の隅に期待を覗かせていた。
    事に及んで拒絶された事なんてただの一度もない。
    それが現状はどうだ。
    事に及ぶどころか、獲物はこちらの誘惑にさえ気付かない。
    そればかりか、
    「遠矢先輩、今日飲みに行きません?」
    なんて言って純粋に懐いている。

    ─無垢な笑顔を向けないでよ…。

    頭を抱える澪に、やはり相変わらず愛理はぽわぽわとしているのだった。




    この日だと、澪は決意を固めた。
    多少卑怯な手を使ってでも。

    「ん〜パスタ美味しかったですねぇ」

    店を出た先で愛理が澪を見上げる。
    仕事を終えてから、一緒に夕食でもどうかと澪が誘ったのだ。
    まだまだ底冷えする寒さではないけれど、やはり12月、夜ともなるとぐっと冷え込む。
    二人の吐く息は闇を白く彩った。

    「…先輩?どうしました?」

    顔が強張っている澪を見て、不安そうに訊ねる愛理。

    「顔色悪いですよ!大丈夫ですか?!」

    「ん…昨日からちょっと体調崩しててね。でも大丈夫だから」

    小さく笑ってみせ、けれど足がもつれる。

    「大丈夫じゃないですよ!フラついてるじゃないですか!」

    愛理は慌てて近くのベンチに澪を座らせ、
    「家まで送っていきます。すぐタクシー拾ってくるので待っててくださいね!」
    駆け出した。

    「ありがとう…」と弱々しく呟いた澪は愛理の背中を見送り。
    ニヤリ、と。笑った。


    今まで何度も部屋に誘い込もうと画策したが、どれだけ飲んでもさっさと愛理は終電で帰ってしまっていた。
    時には終電よりも早く。
    澪の邪念を察する事なく、その天然さで数々の危機を回避してきたと言える。
    澪からすれば、それが厄介だった。
    こんなにも引っ掛からない女がいるなんて。
    考え抜いた末、そこを利用しようと閃いた。
    多少姑息ではあるけれど、こうすれば優しい愛理は必ずや送ると言い出すと思っていた。
    先輩である自分を心から案じ、見捨てるわけができないだろうと。

    ようやく獲物を捕まえた。




    獣のテリトリーに誘い込まれたうさぎは、それに気付く事なく現在甲斐甲斐しく獣の世話を焼いていたりする。

    「熱、どうでした?」

    キッチンから顔を覗かせる愛理に、澪は布団から顔を出して体温計を差し出した。
    元々仮病、勿論熱などあるわけない。
    体温計はすでに細工済みだ。擦っただけだが。
    ベッドに寄って体温計を受け取った愛理は「どうしよう、結構高いな…」深刻そうに呟いた。
    澪の額にひんやりとしたタオルを乗せて、
    「救急病院に電話しますね」
    立ち上がる。
    その愛理の手を澪は掴んだ。
    掴んだまま、こちらに引き寄せる。
    体勢を崩した愛理は、澪にのしかかる恰好で倒れた。

    「ごめんなさい!」

    急いで離れようとする。
    けれどその前に澪が、愛理の体に腕を回した。

    「先輩?」

    「…寒い」

    さぁここからだ、ほくそ笑む獣。

    温めて、と続けようとして。

    「寒いんですか?それを早く言ってください!」

    うさぎにそれを遮られた。

    愛理は澪の腕から抜けると、「ちょっと失礼します」チェストの中を探り始める。

    「これ羽織ってください」

    厚手のカーディガンを差し出してからキッチンに向かってしまった。
    受け取ったカーディガンを手に、ぽかんとする澪。

    「あ、起き上がってないでちゃんと寝ててください。それからこれも着て。冷えちゃいますから」

    キッチンから戻ってきた愛理の手には湯気の立つマグカップ。
    それを枕元に置いてからテキパキと澪に服を着込ませる。
    「あったまりますよ」
    とふんわり笑って、先程のマグカップを手渡した。
    しょうが湯だった。
    澪の家にこんなものはない。
    きっと、タクシーを待つ間にあれこれと買い込んでくれたのだ。

    「飲んだらそのまま寝ちゃいましょう。ね?」

    空になったマグカップを澪の手から優しく取った愛理は、ベッドに横たわるよう澪を促した。
    そっと布団をかけて、自身の手を澪の額に乗せる。
    寒い中ちょこちょこ動いてくれていたのだ、そのやさしい手はひんやりと心地が良かった。

    ─まいったな。

    珍しく澪は困っていた。

    天然に敵う邪気なし。

    この純粋さはやりにくい事この上ない。
    愛理は心底澪を心配し、看病してくれている。
    あまりにも真っ白な相手には手が出しづらいのだと、二十数年生きていてようやく澪は気が付いた。


    けれども。

    「先輩が眠るまで居ますから、安心して寝てください」

    帰る時はちゃんと鍵かけて郵便受けに入れておきますからと、甘く笑う愛理に。

    ─まぁいいか…。

    すっかり毒気を抜かれてしまっているのも事実だ。


    額に伝わる柔らかな愛理の手の平が気持ちいい。

    ─今日のところはこのまま眠ってしまうのも悪くはない。

    思いながらもすでにとろとろと瞼は重くて、溶けていく思考に意識を委ねた。

    獲物を食いそこねた、獣。
    その寝顔はどうにも安らかだった。



    そして狙われていたうさぎはというと。
    すやすやと眠る先輩の額に手を置いたまま、その寝顔をじっと眺めている。
    時折さらりと澪の髪を撫で──

    「かわいいなぁ先輩。無防備で」

    甘い声で囁く。
    すぅすぅと寝息を立ててすでに眠りに落ちている澪には、ふっと微笑む愛理の声を聞く事は適わなかった。








    ──…さぁ、獣はどっちだ。










    花言葉は、

    恋の伊達者。




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