ビアンエッセイ♪

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■18081 / 親記事)  こんなはずじゃなかった。
  
□投稿者/ 秋 一般♪(46回)-(2007/02/23(Fri) 11:52:13)
    私は困惑していた。

    いや、動揺していた、と言うべきだろうか。
    …どちらでもいい。
    とにかく頭を抱えていたのは確かだから。

    まさか自分が。
    女である私が、"女の子"に告白されるなんて───





    【ラプソディ・イン・ブルー】





    「ターキせーんぱぁーいっ!」
    背後からの声に、私は素早く身を翻らせた。
    予想通り今まさに飛びついてこようとしていたにやけ面の後輩をひらりと交わす。
    「何で避けるんですかー」
    彼女は唇を尖らせ、不満そうに私を見つめた。
    「あのねぇ…前から言ってるでしょ。廊下でいきなり抱きついてこないで」
    「廊下じゃなきゃいーの?」
    「そういう問題じゃ───」
    言い終える前に彼女は私を抱き寄せた。
    150cmあるかないかの私の体は為す術なく抱き竦められてしまう。
    「こらっ!離せ!離しなさい!聞いてんの?!離れろってば、馨っ!ばかおるっ!」
    じたばたと暴れてみせても体に回された彼女─馨の腕はしっかりと絡まって解けない。
    ばかとはひどいなー、なんて間延びした声が頭上で聞こえる。
    「あー、先輩あったかい。こーゆーのって子供体温って言うんですかね?」
    その言葉に。
    私の中のナニかがぷつんと切れた。
    私の顔を覗き込んでへらっと笑う馨。
    そんな彼女に、渾身の力を込めて頭突きを一発。
    「あだっ!」短く呻いて、怯んだ馨の腕が緩んだ隙に素早くそこから抜け出した。
    「誰が子供だっ!」
    額を押さえて情けない顔をしている馨を一瞥し、私はくるりと背中を向ける。
    「タキ先輩ぃ〜」
    「うっさい!ついてくんな!」
    強い語調で吐き捨てて、のっしのっしと大股で歩を進めた。
    背後に今にも泣きそうな顔で立ち尽くしているであろう後輩を一人残して。


    ばーかっばーかっ馨のばーか!
    身長は私のコンプレックス。
    人よりも小さい事をどれだけ私が気にしているか、馨は全然わかっていない。
    そりゃあ馨はいい。
    170cmを優に越える長身。
    それでいてすらっとした手足を持っていて。
    ……考えただけで腹立つ腹立つ腹立つ!
    馨なんか大っっっっ嫌いだ!!
    っていう今朝の出来事が思い出されて、
    「──…多喜、何そのすごい顔」
    隣の席の佐保ちゃんに呆れた声を出されてしまった。
    「……私、そんなすごい顔してた?」
    「ん。何て言うか、鬼気迫るって感じ」
    鬼婆みたいな形相ってゆーの?、小首を傾げてこんな事を言う。
    この人は、可愛い顔してなかなかに辛辣だ。
    「ひどいなー」
    困り気味にあははと笑ってみせたら、佐保ちゃんもふっと微笑んだ。
    始業を告げるチャイムに、お喋りを中断して前を向く。
    途端にどっと疲れがのしかかってきた。
    それもこれも馨のせいだ。

    『タキセンパーイ』

    私の名前を呼ぶ、ふにゃふにゃとした笑顔を振り撒く大型犬のような後輩の顔が頭に浮かぶ。

    こうもしょっちゅう付き纏われるようになったのはいつの事だったか。

    ─芹澤馨

    一つ下の学年の一年生。
    今までまったくと言っていいほど接点のなかった彼女の名前を知ったのは、夏休みも明けて間もない頃だった。
    一体何故?と思う暇もなく、彼女は私に尻尾を振ってきたものだから名前の一つも覚えてしまうというものだ。
    それから程なくして、ぽつりぽつりと彼女の名をあちらこちらで聞くようになった。
    私が噂に無頓着だっただけで、どうやらあのアホ犬は校内ではなかなかの有名人だったらしい。

    陸上部の期待のルーキー。
    あのふざけた性格からはその肩書きに直結しないというのが素直な感想だった。
    しかし、話を聞けば聞くほど真実だと信じざるを得なくなる。
    あぁ事実は小説より奇なり。
    その上長身の彼女の姿は、女子高の校内でそれはそれは目立つだろう。
    そして持ち前の愛想の良さで人懐っこい笑顔を無差別に撒き散らすものだから、上級生からのウケは良く、大いに可愛がられているという
    わけだ。
    加えて、普段彼女と共に居るのが「王子」の異名を持つ剣道部のクールビューティー。
    その王子様も馨ほどの高身長、そんな二人が廊下を歩いていれば嫌でも目を引くに決まっている。
    決まっているのに二月前まで知らなかった私は本当に世間に疎いのだろう。
    「え、まじで知らないの?」
    情報源である友人からも言われてしまった一言である。

    それでも知らないものは知らないし、厄介なものに懐かれてしまったものだと思っている。

    あーだこーだと考えている内に授業は終わってしまったらしく、日直が黒板を消し始めていた。
    しまった!と思ってももう遅い。
    仕方なく佐保ちゃんのノートを借りようと隣の席へ声を掛けようとすると、
    「せんぱーいっ」
    後ろからタックルを受けてそのまま抱き締められた。
    振り返らずともわかっている。
    「…放せ、馨」
    冷たく言い放っても、
    「あーやっぱり先輩あったかい」
    まったく聞いてやしない。
    今朝私に怒られたばかりだというのによくのこのこと顔が出せるものである。
    もっとも馨の事だ、すっかり忘れてしまっているのだろうけど。
    「二年の教室まで何しにきたわけ?」
    「何って、暖を取りに」
    十一月入ってめっきり寒くなりましたよねー、抱き締める腕を強めながら言う。
    「だ・か・らっ何でわざわざうちのクラスに来んのかって聞いてんの!」
    負けじと馨の腕を引き離そうともがきながら返した。
    「そりゃー先輩が好きだから」
    へへっと笑う声が首筋を撫でてくすぐったい。
    こんな光景にすっかり慣れてしまった級友達は「相変わらず仲が良いねぇ」と温かい目で見守ったり、「馨ちゃんにあんなに懐かれていい
    なぁ」と羨望の眼差しを向けたり、「大型犬にじゃれつかれてる小動物の図だ」と微笑ましげに眺めたり、当人の事などまったくお構いな
    しで何とまぁ好き勝手なものだ。

    「馨ちゃーん、私達とも遊んでよ」
    笑いながら声を掛けるクラスメイトに、

    「うーん、有り難いお誘いですけどあたしはタキ先輩一筋ですから」
    ごめんなさーい、と相変わらず調子の良い声。

    「ここまで好かれると案外情が移ってるんじゃないの?」
    他人事のようににやにやと笑いながら小さく耳打ちしてきた佐保ちゃんに、私は曖昧な苦笑いを浮かべた。



    先輩に懐いている後輩、だって?
    友人達よ、声を大にして言いたい。
    それは誤解だ、と。
    そんなカワイイものじゃない。
    どうせ言えないけれど。



    『神谷多喜先輩、ですよね』

    『好きです』

    『好きなんですよ、先輩の事』



    先輩に対する憧れや尊敬の念では、ない。

    小動物を愛でる嗜好を備えているというわけでも、勿論ない。

    ヤツは私に惚れている、らしい。


    絶句する私に、にこにこと彼女は笑っていた。

    陽に透けて金髪のようにも見える薄茶色の髪と愛想の良い笑顔がゴールデンレトリバーを思わせる。


    …厄介なものに好かれたものだ。




    なかなか回した腕を緩めない馨に、私ははぁと溜め息を吐いてから、背後に向かって思いっ切り頭突きをかました。


    二学期に入ってからの二ヶ月間、得たものは愛の言葉と精神疲労とこの後輩のあしらい方だ。


    …本当に厄介なものに好かれたものだと、「あだっ」肩越しに聞こえた悲鳴を受けながら再び溜め息を吐いた。

    近所にアホ犬の躾をしてくれる訓練所はなかったものかと、顎を手で押さえながらそれでもへらっと笑う後輩を見ながら思った。

    このままでは特技が頭突きになってしまうと本気で考えてしまう辺り、私も相当なアホになっている。




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■18082 / ResNo.1)  こんなはずじゃなかった。─2
□投稿者/ 秋 一般♪(47回)-(2007/02/23(Fri) 11:53:26)
    コンクリートに染み込む、雨のような恋だった。





    【心音】





    「また、見てた?」
    窓の外に目を遣るあたしの顔を、ひょいと伊佐が覗き込む。
    「邪魔ぁ」
    あたしは右手で伊佐を制して、再びグラウンドへと目を凝らした。
    よく晴れた昼休み、ランチを終えて制服のままバレーボールをしている女子生徒のグループ。
    その中にジャージ姿が一人紛れていれば見つける事は容易い。
    どうせ腹ごなしのお遊び、上着のブレザーだけを脱いで適当に付き合えばいいものを、友人に誘われるままジャージに着替えて参加する様
    は彼女の生真面目な性格がよく現れている。

    ─犬みたい。

    普段あたしが彼女によく言われている言葉を逆に呟いてみる。
    ボールを追って右に左にちょこまかと動き、ちっこい体を存分に生かしている。
    足がもつれてすっ転んだけれど、心配して近寄る友人に「大丈夫!」と言わんばかりにVサインを突き出して笑ってみせていた。
    くつくつと、喉の辺りから笑みが漏れる。
    あたしには怒ってばっかなのに、と思わずふふっと吹き出すと、「この寒い中よくやる」横に立つ伊佐の声が聞こえた。
    「クールビューティーの伊佐さんには考えられませんか」
    言ってやると、
    「その呼び方やめろ」
    ぎろりと睨まれた。
    「じゃ、王子?」
    「………」
    無言の圧力に、ごめんなさいと片手を上げる。
    そして窓の外に視線を戻して、やっぱり彼女を見ると笑ってしまった。

    「あの先輩には本気なんだ?」
    おもむろに伊佐が呟く。

    「本気も本気」
    彼女を見つめながら、返す。

    「馨は、どうしたいの」

    「触れたり揉んだり舐め回したり?」

    「…あんたが言うと生々しい」

    「あー…そんなんじゃなくて」

    違うんだよなぁと、自分の発した言葉に違和感を覚えてがしがしと頭を掻く。
    あ、と思い当たって。
    妙にそれがしっくりときてしまったので、一人うんうんと頷いてみる。

    「…好きになってほしい、かなぁ」

    呟いた。

    「あんたが言うと気持ち悪い」

    そう返されて、

    「王子ってばひどい言い草っ」

    冗談交じりに伊佐の方を睨み付けながら振り返ると、思いの外穏やかな顔をした伊佐がふっと笑った。
    長めの前髪から覗く涼しげな目元がわずかに細められる。
    「ちゃんと、好きなんだ?」
    何を以て「ちゃんと」なのか、そんなものはよくわからないけれど。
    伊佐の意図は何となく汲む事ができたから。
    あたしは「うん」と、子供みたいな返事をした。
    「素直じゃん」
    伊佐は、珍しくははっと声を上げて笑った。
    何となく、こいつがモテる理由がわかる気がして。
    「王子ー」
    甘えた声で言ってみせると、途端に嫌な顔をされた。
    クールビューティーの所以たる切れ長の瞳を更に鋭くされては、ますます迫力に磨きがかかる。
    にかっと笑ってみせると、伊佐は虚を突かれたようにきょとんとして、「仕方ないなぁ」と言うように前髪を指でいじりながら苦く笑った


    また、窓の外に想いを向ける。

    今日もタキ先輩は元気だ。
    あたしも嬉しい。
    だから笑える日になるだろう。




    じんわり、じんわりと。
    日毎想いは広がっていく。





    コンクリートに染み込む、雨のような恋だ。




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■18083 / ResNo.2)  こんなはずじゃなかった。─3
□投稿者/ 秋 一般♪(48回)-(2007/02/23(Fri) 11:54:31)
    今朝も登校途中に道端で抱き付いてきた馨を怒鳴って殴って頭突きした。
    彼女に懐かれてからというもの、私の朝に平穏はない。





    【コミカルライフ】





    何とか馨を引き剥がして教室に辿り着くとすでに佐保ちゃんが席に座っていたので、私は鞄を自分の机に置きながら彼女にとくと馨のアホ
    さ加減を話して聞かせた。
    毎度の事だと言うように、「ふーん」と佐保ちゃんは手にした文庫本から顔を上げずに相槌を打つ。
    「最近佐保ちゃん、ちゃんと話聞いてくれなくなった…」
    あの優しかった在りし日のあなたはどこへ?、芝居がかって机に突っ伏し泣き真似をしてみせると、
    「気色悪い」
    ぺらり、とページがめくられる音と共に一刀両断。
    本当に、顔に似合わず口が悪い。
    「……佐保ちゃーん」
    恨みがましく顔を上げて非難の目を隣に向けると、「冗談よ」とこちらを見て笑っていた。

    「尻尾振られて悪い気はしないんじゃない?」

    「でも毎回あれじゃ困るよ」

    「迷惑?」

    「当たり前じゃんっ!」

    「本気で、迷惑?」

    「う…それは、」

    言葉に詰まると、「私はいい傾向だと思うけどなー」佐保ちゃんは自身の髪の毛先をいじくりながらさらりと言った。

    「多喜って喜怒哀楽ははっきりしてるけど、他人に感情ぶつける方じゃないでしょ。怒っても我慢するタイプ」
    あ、枝毛、呟いて顔をしかめる。

    「でも今は感情を剥き出しにしてる」
    と、再び本に目を戻して言った。

    「それが、『むかつく!』とか『腹立つ!』って気持ちでもいいの?」

    「そーゆーのが表に出せるのが大切」

    むしろそっちの方が押し込めやすいものでしょ、と彼女。
    ううむと唸っていると、話は終わったとばかりに佐保ちゃんは本格的に読書へと集中し出した。

    結局話を聞いてくれるなら最初からそうしてくれればいいものを、と思いながらも無駄だと知っているので口にはしない。
    それにどうしたってこの人は突き放したりはしないから。
    大人だ、と思う。
    同じ17歳なのに、佐保ちゃんは大人だ。
    冷たく見られがちなのはその気遣いがさりげないから。
    友人歴は高校からと浅いけれど、最近何となくわかってきた気がする。
    いつでも平常心で、取り乱す事などあるのだろうか。
    私にはあんな事を言うくせに、自分はそんなとこを見せないんだ、絶対。

    小説を読んでいる風を装っているカバーのかかった文庫本が実は参考書だって事、私はとっくに気付いている。
    ファンデーションで何とかごまかしてはいるものの、白い肌にうっすら隈が滲んでいる事だって。
    頭の良い人の苦労は、私にはわからない。
    現在高二の十一月、年が明ければ受験生に一歩近付く。
    「受験」なんて私にはいまいち実感に欠けていて、来年の事だ、あと一年も先の話じゃないかとのほほんとしているけれど。
    佐保ちゃんは国立大を受けるのだと噂に聞いた。
    親や教師からのプレッシャーも相当だろう。
    それでも佐保ちゃんは何でもないという顔で平然としている。
    最近疲れている、それに気が付かないほどの友情じゃないよ、佐保ちゃん。
    根を詰め過ぎじゃないか、無理をしているんじゃないかって、そう思うけれど、この人は「別に」と言うだけだろうから。
    「今日何かあるの?」
    代わりにこんな事を聞いてみる。
    「どうして?」
    佐保ちゃんはわずかに本から顔を上げた。
    「何となく嬉しそうだから」
    「別に」とは言わず、「…帰りに幼馴染みと会う約束があって」それだけ言ってまた本に視線を落とす。
    「顔見るの久々だから元気かなってくらいで、別に…」
    嬉しいわけではない、と続けたいのだろうけれど、私は笑いを噛み締めていた。
    悩みを分けてはくれないなら、こんな部分を分かち合いたいなと、最近はそんな事を思っている。

    そして見知らぬ佐保ちゃんの幼馴染みを思い浮かべた。
    話にはちらりと聞いた事がある。
    家が隣同士の、違う高校に通う同い年。
    彼女の仲良しさんだからさぞや大人びた人なのだろうと思ったら、「自己中で無責任で喧嘩なんてしょっちゅうだ」と佐保ちゃんはぼやい
    ていた。
    クールな彼女が誰かと感情的になって喧嘩をする姿なんて想像がつかない。
    だからきっと、その「幼馴染み」が佐保ちゃんの解放される場所なのだろう。

    心配などしようものなら「余計なお世話」と突っ撥ねられてしまうだろうし、むしろ私が甘えている立場なのでそんな事は恐れ多くてでき
    ないけれど。

    佐保ちゃんにも、ぶつけられる存在がいる。

    そう思ってほっとした。
    ほっとしたところで、はっとなった。

    「にも」ってなんだ、「にも」って!
    馨は私にとって心安まる場所じゃない!断じて、だ!


    しっかり、私!と気合を入れて頬を叩くと、「今日はいつにも増してうるさいなぁ」佐保ちゃんのうんざりしたような声が聞こえた。





    怒鳴って殴って頭突きして。
    毎日毎日満身創痍な私だけど。
    「本気で迷惑」というわけではないものだから困るのだ。




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■18084 / ResNo.3)  こんなはずじゃなかった。─4
□投稿者/ 秋 一般♪(49回)-(2007/02/23(Fri) 11:55:40)
    ゆるゆると瞼が落ちてしまうのは、いつになく優しい歩き方をするせいだ。





    【ゆら、ゆらり】





    お互いの中間地点だからと言って、駅前なんかで待ち合わせをしなければよかった。

    「何か嫌な事あった?」

    私を背負っている奴が、振り返らずに言う。
    ゆらゆらゆらゆら、背中が揺れる。

    今日は部活もバイトもないからと、久しぶりに一緒に帰ろうかと言う話になった。
    いつもは夕飯後、隣り合う互いの家を家族に不審がられない頻度で行き来している。
    だからまともな「デート」なんて本当に久しぶりだった。
    それなのに待っている間ナンパ男に絡まれて、無視を決め込んだら逆上されて、逃げようとしたら転んで膝を擦り剥いて。
    そんな時になってからようやく、今私を背負っているやつが現れた。
    あんたが遅刻してくるからと、足が痛いやら悔しいやらで何だか無性に子供っぽく喚いてしまって、デートどころじゃなくなった。
    「いらない」って言ったのに、「足怪我してる」と強引に背中におぶわれて、こうして帰路を辿っている。

    「こんな事があって、嫌な事じゃないとでも?」

    嫌味ったらしく言ってやる。

    「そうじゃなくて」

    いつになくゆっくりとした速度で歩く彼女が言う。
    普段なんて、私と歩いていようとお構いなしですたすたとマイペースに先を歩いてしまうのに。

    「家で、ってこと」

    あった。
    けれどそんな事、一言だって言ってない。


    『あなた達が仲良いのは昔からだけどね、学校も違うのに少しべったりし過ぎじゃない?』

    『それに佐保、あなた最近成績落ち気味でしょう?』

    『そりゃあね、夏緒ちゃんがいい子なのは知ってるし、あの子のせいとは言いたくないけど…』

    『夏緒ちゃんだって学校のお友達がいるでしょう』

    『少し距離を置いたらどう?』


    分かっている。
    分かっているんだ、そんな事。
    けれどこれは私の問題で、何で夏緒を引き合いに出すのかと腹が立つ。
    距離を置け、余計なお世話もいいところだ。
    ましてや久々に外で会うって時に、そんな話をしなくてもいいじゃないか。
    どんな思いで傍に居るかなど、知らないくせに。
    知られるわけにもいかないけれど。


    夏緒の背中に額を押し当てる。
    情けないような泣きたい気分だ。

    「…別に」
    「わかってんだよ、あんたがあたしの事で困ってるのは」

    人の話を聞け。

    「でもしょうがないな。惚れた弱みだ」
    「…誰が誰に惚れてるって?」

    ん?と、心底不思議そうに首を傾げる夏緒。

    「あたしが、あんたに、だけど?」

    ますます顔が上げられなくなった。
    首に回した腕にわずかに力を込めて、襟足に顔を埋める。
    体育があったのだろう、ふんわりとした夏緒の香りに混じって汗の匂いがする。
    いざとなったら佐保を攫って駆け落ちかなと笑うので、背中が揺れて鼻先に当たる夏緒の髪がくすぐったかった。

    ゆるりゆるり、背中のリズムが心地良い。
    家が隣の幼馴染み、どうせ帰る先は一緒だ。
    「寝る」
    一言言って、瞼を閉じた。



    あんたと一緒じゃ共倒れだ、冗談じゃない、そんな憎まれ口を叩いたけれど。
    攫われてやってもいいと、思っている。




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■18085 / ResNo.4)  こんなはずじゃなかった。─5
□投稿者/ 秋 ちょと常連(50回)-(2007/02/23(Fri) 11:56:44)
    世界なんてくそったれだ。





    【少女達が見つめる景色】





    どうしてアイツを選んだのか、そこに意味なんてない。
    ただ一番近くに居たから、それだけだ。
    だから最近思う。
    近くに居たのがアイツだったって事に、意味があるんじゃないかって。





    気付いたら側に居た。
    幼馴染みの認識なんてそんなもんだと思う。
    同い年だし、家なんて隣だし、ちっちゃい頃の遊び相手として互いが手頃だったんだろう。
    いつも一緒にいようね、そんな愚かな約束ごとなんてした覚えはないけど、それでも気付けば行動を共にしていた。

    『どうして佐保はいつもつまんなそうな顔してんの?』

    『だってつまらないから』

    『ふーん』

    『そういう夏緒はどうなのよ。いつもにこにこ笑ってて』

    『つまらないから、だよ』

    『私は結構素直じゃないけど、あんたも相当屈折してる』

    そう言う佐保の口の端はわずかに上がっていた。




    小中と同じ学び舎で過ごしたあたし達の、そこが岐路だった。

    『佐保、合格おめでと。あそここの辺のトップ校じゃん。さすがだね』

    『夏緒こそ、先にスポーツ推薦受かってたじゃない』

    『高校から別々かー』

    『今までずっと同じ学校だったから変な感じね』

    『寂しい?』

    『……推薦落ちたらこっち来るって言ってたからちょっと期待してた』

    『不吉な事言うな。大体あたしの頭で佐保と同じとこなんか行けないって。あたしからバスケ取ったら何が残んの』

    『それはそうだけど』

    『少しぐらい否定しろよっ』




    家が隣同士とは言え、高校生になってからは生活時間はばらばら。今までのように一緒に登下校、なんてわけにはいかなくなった。
    朝練があるあたしは早くに家を出て、放課後も部活を終えて帰宅すると結構な時間になっている。
    休日は返上でやっぱり部活。
    高校生の醍醐味だとバイトまで始めちゃってたものだから、部活がない日もなかなかに忙しい。
    佐保は佐保で予備校に通い、ない日は駅前の図書館に篭り、勉強勉強の毎日のようだった。
    ゆるゆるなあたしの家に比べ、あいつの親は娘に過剰な愛情と期待を注いでいたから。
    そんなわけであまり顔を合わせる機会が無くなったあたし達。
    疎遠になるきっかけなんて案外こんなものかもしれないなんて思ったり。
    実際、毎日は目まぐるしく過ぎていったし。
    それでも時々は思い出したりしてた、何してるかな、元気かな、なんて。
    きっと、佐保もそうだったんだと思う。

    部活が終わってあぁお腹減ったななんて呟きながら家路を辿る。
    夕暮れをとっくに過ぎて、辺りはもう濃い闇。
    だから家の門扉に手をかけるまでそこに人が立ってるなんて気付かなかった。
    佐保、がいた。
    夕食後うちに来て、ずっと待っていたらしい。
    その時のあたしは、ひどく驚いたようでいて、何だかそれを予期していたようでもあったかもしれない。
    母親に「ただいま」と佐保の来訪だけを告げて、あたしの部屋へ入った。
    空腹は忘れていた。
    ほんの三ヶ月だ、離れていたのは。
    それなのにあたしの部屋に佐保がいる、とても懐かしい光景に思えた。
    一番最初に何を口にしたのかなんて覚えてない。
    そもそも何を話したのかさえ忘れてしまった。
    しばらく言葉を交わしていた気がする。
    やがて会話が途切れて、沈黙した。
    静寂が続いて、佐保の方を見るとこちらを向いていた佐保と目が合った。
    何も考えてなかった。
    ただ何となく、だ。
    1mと離れていない距離の佐保にとても自然に手が伸びた。
    佐保の頬に手の平を添える。
    思った通り、すべすべしていた。
    佐保は黙ってあたしを見つめていた。
    親指の腹で佐保の唇をなぞって、それからあたしは触れる程度に口づけた。
    顔を離すと、佐保は大して驚いてはいなくて。
    ただ、小さく口を開いた。

    『どうしてキスしたの?』

    『したかったから』

    『珍しく正直ね』

    『佐保は?どうして避けなかったの?』

    『してほしかったから』

    『そっちこそ。珍しく素直』

    くくっと笑うと佐保も笑った。
    どうやら縁というものは、そう易々と千切れるものじゃないらしい。




    「夏緒?寝てるの?」
    部屋の外で佐保の声がする。
    あたしはベッドの上で雑誌に顔を埋めて突っ伏していた。
    佐保が来るまでの暇潰しのつもりがいつのまにか寝てしまったようだ。
    それにしても随分懐かしい夢を見たものだと、一度大きく伸びをしてから立ち上がって佐保を部屋へと招き入れた。
    ベッドを背にしてラグマットに座ると、佐保もあたしの隣に座り込んだ。
    あたしの肩に頭を預けるようにして静かに寄り添う佐保に、珍しいなと思う。
    視線だけを佐保に向けて、ちらと顔を覗き見る。
    佐保は瞼を伏せ、緩やかに呼吸していた。
    相変わらずの白い肌、だからこそ余計に目の下の隈が目立つ。
    少し痩せた気もする。
    大丈夫?、無理するな、そんな言葉は絶対言わない。そもそも思ってもいない。
    佐保だって弱音は吐かないし、あたしに心配される事に吐き気すら覚えるだろう。
    だから素直に肩を貸してやる、それぐらいがちょうどいい。

    「この後図書館?」

    何の気なしに言葉をかける。
    部活もバイトもない日曜日。
    いつも通り図書館に行く佐保は、その前に少しだけあたしの家に寄ると言っていた。
    現に今こうして隣にいる。

    「んー」

    あたしの問いに、気の抜けたような返事。
    気にせずに続けた。

    「あたしもそろそろ進路ちゃんと考えっかなー」

    「引退まではバスケに打ち込んでなさいよ。あんたの取り柄なんだし」

    「それもそうか」と笑ったら、佐保は綺麗に苦笑した。

    「──大学も、やっぱりバスケで推薦狙ってる?」

    「んーん、部活はもういい。バスケは続けるけどね、あくまでも趣味の範疇」

    今回は一般で試験受けなきゃなー、つーかあたし大学そんなに知んないわ、まずは大学選びからかめんどいなちくしょう、などとぼやいて
    いたら、

    「私と同じ大学受ければ?」

    悪戯めいた佐保の声。

    「…無茶言うな。そんなとこ行くなんて言ったらお母さんびっくりしてぶっ倒れちゃうって」

    「それじゃあ私が夏緒と同じとこ行こうかな」

    「それこそあんたんとこのおばさんがぶっ倒れるっつーの」

    くすくすと佐保が笑いを堪えているのが肩越しに伝わる。
    ひとしきり笑って落ち着くと、

    「──…夏緒がいたら、楽しいだろうな」

    息をするようにぽつりとこぼした。

    「…高校楽しいっしょ?」

    「うん」

    「あたしも楽しんでるよ」

    「知ってる」

    佐保は顔を上げた。
    自然とあたしもそちらを向く。
    だから目が合うのも必然。

    「一緒にいられる時間て限られてると思うの。当人の意志に関わらず、ね」

    縋るような瞳ではないけど、ひどく力が込められた視線。
    やっぱりコイツって綺麗な顔してんだ、的外れな事を思う。
    冷たさすら漂う美貌を少しは崩して笑ったらどうか、と。
    いつだったか、あんたは緊張感に欠けるのだと呆れたようにぼやかれた事を思い出す。
    それは少々間の抜けたこの垂れ目に文句を言っていただきたい。

    「限られた時間なら、どう過ごすかじゃなくて誰と過ごすかだわ」

    静かに、淡々と言う佐保。

    「どうして佐保はそんなに切迫した物の考え方するかなぁ」

    「夏緒が楽観的過ぎるの」

    キッと、睨まれる。


    「──私は瞬きすら惜しいのに」


    「そんなにあたしを見てたいかい?」と言ったら、更に鋭く睨まれた。
    その筋の血を引いているんじゃないだろうかと時々思う。

    「誰と過ごすか、ねぇ」

    けれどこれは真実かもしれない。
    『一緒に居たい人と居る』
    言葉にすると単純だけど、これがなかなかままならないものだから。

    「またおばさんに何か言われた?」

    なるべく自然に訊ねたけど、案の定佐保は「…別に」と答えて口を噤んでしまった。

    どうして誰かの隣に立つという事が、簡単そうに見えてこうも難しいのか。
    あたしだってわかってる。
    それを難しくさせてるのはいつだって身近な第三者だって事も。
    本当に、馬鹿げてる。

    「そろそろ図書館行く」

    あたしの肩から佐保の重みが消えた。
    同時にすーっと熱も引く。
    佐保はさっさと立ち上がると、「じゃあね」と言って部屋の戸に手を掛けた。
    開かれた扉に吸い込まれるようにして消える背中を見ながら、瞬きさえ惜しんで目に焼きつける暇を与えてくれないのはどっちだ、そんな
    らしくもない事を思ってしまった。
    やれやれと頭を掻いて立ち上がる。
    階段をぎしぎし言わせながら下りると、玄関でブーツを履いていた佐保はその物音に振り向いた。
    「コンビニ行くから。駅まで一緒行こ」
    何も答えない佐保。
    返事の代わりにあたしがスニーカーを履くのを待っていた。


    日曜の昼下がり、冬を感じさせる空気に身震いし、それでも陽射しは暖かい。
    見上げた空の近さに、今なら手を伸ばせば届くんじゃないかと思う。
    「珍しい」
    「ん?」
    「ふたりで外歩くの」
    「あー」
    そう言えば久しぶりかもしれない。
    空はさすがに無理だから、だいぶ家から離れたところでこっそり佐保に手を伸ばしてみた。
    佐保はちょっと驚いて、そして静かに指を絡めて応えてくれた。

    「あたし、佐保と同じ大学目指してみようかな」

    「…どうしたの、急に」

    「んー、瞬きを惜しんでみようかと」

    「何それ、意味わかんない」

    「一緒に居たい、って事」

    ばかじゃないの、小さく漏らして俯いた佐保の耳は真っ赤だ。

    「…じゃあ勉強しなきゃね」

    「うん。でも当面は部活があるし、そもそもあたしの学力じゃやっぱ不安だなー」

    「やる前から弱気でどうするの。絶対受かってやる、ぐらいの意気込み見せてよ」

    「受験するからには合格する気はあるけどさ、まぁそこはあたしだし、死なない程度に一応必死で頑張るよ。だからそんなに期待しないで
    楽しみにしてて」

    「何なの、その消極的なやる気は…」

    苦笑しながらも佐保は楽しそうだった。
    つられてあたしも笑った。
    居たい人と共に居る。
    そんな単純な事さえも簡単に叶えてやれず、ましてや願いなんて呼んでしまうほどに、あたし達はまだまだ無力な子供だ。
    だからせめて、駅前までこの手が繋がったままならいい。






    世界は猜疑と欺瞞で満ち満ちていて、ちっとも綺麗なんかじゃなくて、つまりあれだ、言葉を取り繕わなければ、くそったれだ。
    それでも時々くすんだ光も射すから、霞む視界に目が眩む。


    あぁ、掃き溜めに花束をしみったれた空に愛の手を。




引用返信/返信 削除キー/
■18086 / ResNo.5)  こんなはずじゃなかった。─6
□投稿者/ 秋 ちょと常連(51回)-(2007/02/23(Fri) 11:57:45)
    「あ、忍くんが練習してる」
    「袴姿似合ってるね〜」

    武道場の入口は今日も相変わらず騒がしい。
    いくらひそひそ声でも数が揃えば騒音と変わらないというものだ。
    せっかくの昼休み、神経を研ぎ澄まし自主練に興じているというのに、何故こうも群がるのか。
    道場の入口付近で留まっているからまだ許せるが、中にまで上がってこられたらいくら私でも怒りを抑える自信がない。
    入口からこちらを覗き込むようにしてたむろする彼女達を一瞥し、

    「忍くん、相変わらず素っ気ない」
    「でもそこがクールでいいんじゃない」
    「学校の王子様だしね」

    それらの声を掻き消すように、わずかに息を吸い込んで竹刀を構えた。





    【傍らに立つ】





    昼休みも終わりに近付いた頃、更衣室で手早く制服に着替えて道場を後にした。
    案の定入口にはまだ数人の上級生の群れ。
    小さく息を吐くと、
    「あ、伊佐お疲れー」
    その輪の中に頭一つ分飛び出た、馨の姿があった。
    何してんだ、と目だけで問う。
    馨はにぃっと笑む。
    「忍くん待ってる間、馨ちゃんとお喋りしてたのよ」
    馨を囲む内の一人がやけに甘ったるい声で言った。
    だから何で待ってんだ、うんざりして顔をしかめると、
    「そうそう、楽しくお喋りしてたんですよねー」
    相変わらずの愛想の良い笑顔で馨が相槌を打った。
    それに応えて周囲も笑顔で頷く。
    「あーでももう昼休み終わりですね」
    伊佐が着替えるの遅いからー、と腕に嵌めた時計を見てわざとらしく馨は溜め息を吐いた。
    「先輩達急がなきゃ。次、教室移動なんでしょ?授業遅れちゃいますよー」
    そして彼女らににっこり笑い掛ける。
    その言葉にはっとなって、

    「そうだった!」
    「忍くん、練習お疲れ様!」
    「それじゃあね、忍くん、馨ちゃん」
    「またねー」

    慌てて武道場と校舎を繋ぐ通路を駆けて行った。
    その背中にひらひらと馨は手を振っている。
    ひら、と。
    その手を降ろしながら。

    「忍¨クン¨、だって」

    呼び名の部分に力を込めて、くっくっと可笑しそうに喉を鳴らした。

    「伊佐は女なのに」

    低く、吐き捨てるように言う。
    その眼はまったく笑っていない。

    「王子、王子」と、普段はからかうように私を茶化すものの、その異名を嫌悪しているのは私以上に馨だ。

    「こんな見た目だ、しょうがない」

    私は息をするように漏らして、二人並んで通路を歩き出した。
    「だからって」
    不満げに鼻を鳴らす馨をちらりと見て、
    「目、怖い」
    言ってやる。
    馨は一瞬「は?」と眉を寄せ、すぐに「あぁ…」と小さく息を吐くと、私の方を見てにっこり笑った。
    馨は、本当に綺麗な笑顔をすると思う。
    上手に上手に、笑う。
    その笑顔を私はあまり好きではない。

    「完璧過ぎる笑みは逆に嘘っぽく見えるよ」

    馨をちらと一瞥し、言う。

    「あら、なかなか言うね」

    馨はおどけた口調で言って、やっぱりいつものようにくっくっと楽しそうに笑った。

    「どうせ伊佐にしかわかんないよ」

    相変わらず顔は笑みを絶やさないが、声は幾分真剣に響いた。


    通路を渡りきり、校舎に差し掛かると生徒の数も増え始める。
    ちらちらとこちらを盗み見するような視線。
    私の顔を見ては連れ合いと互いにこそこそと耳打ちをする。
    その会話の端々に「王子」だの「伊佐くん」だのと聞こえる単語。
    堪らなく不快だ。
    不意にぽんと軽く背中を叩かれる。
    馨の手。

    「伊佐ってば目怖い」

    先程の仕返しか、私の顔を覗き込んだ馨は自身の眉間を指先で示してにぃっと笑った。
    そしてその笑みを緩めると、

    「──伊佐は伊佐なんだから、¨皆の王子¨になる必要なんかないんだよ」

    諭すように、穏やかに、言う。
    私は小さく息を飲み込んだ。

    馨は本当に人の感情に聡いと思う。
    どこまでわかっているのだろうか、とも。

    「…ん、大丈夫」
    返事をすると、「そっか」それ以上は何も言わなかった。

    「そっちは?最近、家どうなの」

    一呼吸置いてから訊ねる。
    馨は一瞬きょとんとして、「…──べーつに。相変わらずだよ」と口の端を持ち上げる。

    「人の心配はするくせに私には心配させてくれないな、いつも」

    「そんなんじゃないってば」

    アハハと馨は苦笑した。

    「あたしん家は前からああじゃん?今更どうもないって」

    「強がるな」

    馨を真っ直ぐに見据えると、「信用ないなー」と薄茶色の髪を掻き上げて、

    「あたしが元気でいるってだけじゃだめ?」

    にっこりと、綺麗に笑った。

    これ以上はもう何も言えない。
    言ったところでどうせのらりくらりとはぐらかされるだけだ。
    肝心な事は、馨は何も口にしないだろう。
    私は嘆息した。

    本当にポーカーフェイスが上手くなったなと思う。馨は笑顔の中にすべてを隠す。

    小学生からの悪友だけれど、はぐらかし方は今よりもっと素直だった。
    笑い方も、もっとずっと。


    それでも──…


    「あの先輩、保健委員だったんだな」
    会話が途絶えてしまって廊下に二人分の足音だけが響く中、呟いてみせる。
    瞬時に馨は、
    「タキ先輩?」
    こちらを向いた。

    「こないだ保健室でちょこまか動いてた」

    先日たまたま通り掛かった時に季節外れの大掃除をしていた。
    ばたばたとソファやら机を移動させ箒を駆使し、埃が舞っている室内。
    これから来訪者がある事も十分考えられるのに衛生的にどうなのかと、疑問に思う反面、雑巾で床を拭き終わってやけに清々しくいい笑顔
    を浮かべる小さい人を見てちょっとおかしくなった事を思い出す。

    案の定馨は、
    「イイ!さすがタキ先輩っ!」
    ぶはっと吹き出した。

    「何でも一生懸命だから、あの人」

    「やる気が空回りしてるようにも見えるけど」

    「そこがカワイイんじゃん」

    くくく、と馨は喉を鳴らす。

    「ってか、よく知ってたね。タキ先輩の事」

    「あれだけ横で騒がれれば覚えるよ」

    「あ、さては惚れた?惚れちゃった?」

    「何でそうなる…」

    「でもそれはだめだな、先輩はあたしのだ」

    「まだ馨のじゃないだろ」

    「あー!やっぱ伊佐も狙ってんだ!」

    誰かこいつの口を塞いでくれ、頭が痛くなってきたけれど。

    「──相当好きだね、そのタキ先輩とやらを」

    「そりゃ好きさ」

    破顔一笑とはまさにこういう事だろう、馨は目一杯目を細めて、頬を緩めて、邪気なく笑った。

    心からの、笑顔。
    昔から見慣れた、馨らしいと思える、私の好きな笑顔。

    例の彼女を想う時、馨は¨本当に¨笑う。

    感謝しないとな、私も馨につられるように顔を綻ばせた。

    そんな私の視線に気付いたのか、馨は少しだけバツの悪そうな顔をして、
    「何か伊佐はお見通しって感じでムカつくなー」
    唇を尖らせた。

    「心配させてくれないって言うなら、こっちだってそうだっつーの」

    軽く睨むようにして私を見る馨。

    「あたしに隠してる事あるっしょ」

    伊佐は秘密主義だからなー、わざとらしく溜め息を吐く。
    お見通しなのはどっちなんだか、と私は苦笑した。
    そうは言ってもそれ以上は決して詮索しないところが心地良い。

    それを察して、馨は屈託なくにかっと笑った。

    この笑い方を忘れてほしくないからと、言葉を交わした事のない馨の想い人に無責任な願いを託した。
    届かなくていい、思っただけだ。
    祈りなんてそんなものだろう。


    「あ、5限タキ先輩体育だ。確かソフトボールだったかな。全力で空回る姿を見ないとね」


    「…時間割まで把握してるのか」





    今日もこうして、互いの傍らに立つ。




引用返信/返信 削除キー/
■18087 / ResNo.6)  こんなはずじゃなかった。─7
□投稿者/ 秋 ちょと常連(52回)-(2007/02/23(Fri) 11:58:41)
    視界に入れてしまってからしまったと思った。
    瞬時に目を背け、見なかった事にしてその横を素知らぬ顔で通り過ぎようとして。
    何だかんだ言って私はお人好しなんだよなと、小さく溜め息をついてから、昇降口でぼんやりと立ち尽くしている見慣れた人影の隣に立っ
    た。





    【レイニーデイ─冷たい微熱】





    今日は朝からどんよりとした曇り空だった。
    テレビのお天気お姉さんも午後には雨が降るでしょうと、出勤登校する人々に傘の持参を強調していた。
    予報は大当り。
    放課後、図書室に篭ってレポート用の資料集めをしていたら帰る頃にはもはや外はとっぷりと日が暮れて薄暗い。
    昼休み辺りからぽつりぽつりと降り始めていた雨も、今はすっかりザァザァと雨足を強めていた。
    お姉さんを信じてよかった、鞄から折たたみ傘を取り出す。
    さぁ帰ろうと靴を履き替えたところで、見てしまったのだ。
    昇降口の入口で一人佇む背中を。
    すらりとした体躯、きらきらと明るい薄茶色の髪。
    後ろ姿だけでそれが誰だか十分わかってしまう。
    わかってしまったので気付かなかった事にしてしまう事にした。
    そう決め込んだ。
    どうせあいつなら、持ち前の愛想の良さと顔の広さで通りかかる生徒の傘に入れてもらう事なんてわけないだろう。
    だから私が入れてやる必要なんてないのだ。
    心の中で強く頷いて、できるだけ静かに通り過ぎようとした。

    ──…それなのに。

    下校時間はとっくに過ぎて、ほとんどの生徒は帰宅してしまっている。
    通りかかる生徒なんてもはや皆無かもしれないなんて事に、何で気付いてしまったのだろう。

    あぁ、もうっ!

    私はずかずかとその人影に近付いて、ずいっと広げた傘を差し出した。

    こちらをゆっくりと振り向いた顔は、私と傘を交互に見て驚いたようにわずかに目を大きくさせた。

    「…入れば」

    私の言葉に、いつものようにハイテンションにじゃれついてくるどころかきょとんとしている。

    「あーもう!馨もどうせ電車通学でしょ?駅までなら入れてやるって言ってんの!入るの?入らないの?」

    早口でまくしたてると、「やー助かります。ありがとうございます」ようやく目尻を下げてへらりと笑った。
    その穏やかな声にも拍子抜けする。
    何だかいつもと違うテンションだと調子が狂ってしまうじゃないか。
    犬って雨に弱かったっけと思いながら昇降口から出ようとすると、馨が私の方へと手を伸ばし傘の柄を掴んでひょいと取り上げた。
    「あたしが持ちます」
    にっこり笑う馨。
    「え?いーよ、私が持つって」
    取り返そうと手を伸ばすと、傘を持った手を高々と上げられてしまった。

    「ほら、先輩が持ったらあたしが入れないし」

    あぁ成程、身長差があるからね。
    と瞬時に納得してしまった自分に腹が立つ。
    そういうつもりはなかったのだろうけど暗にちっちゃいと言っている馨にも腹が立って、思い切り脛を蹴っ飛ばしてやった。
    案の定馨は声にならない呻き声を上げる。
    それで傘持ちの許可としてやろう。

    「先輩、女の子なんだからこう乱暴なのはどうかと」

    「余計なお世話」

    「そんな事言ってると婚期逃しますよー」

    「もっと余計なお世話だっ」

    「まぁ最終的にはあたしがもらってあげますけど」

    「ほんとに馨と話してると疲れるなぁ…」

    「ん?お疲れですか?どっかで休憩してきます?この辺ホテルあったかなー」

    「ねぇ芹澤さん。人と会話する気あるのかな」

    歩き始めると馨は相変わらずの軽口を叩く。
    そのいつも通りの様子にどこかほっとする。
    初冬の雨は外気を冷やして、カーテンのようにザァザァと降り注いでは周囲の音と視界を奪っていた。
    その上傘のせいで余計に世界が狭まっている。

    「あ、先輩もうちょっとこっちに寄って。濡れちゃいますよ」

    右側に立つ馨の腕に肩がぶつかった。
    慌てて離れようとすると、「だから濡れちゃいますってば」馨にそれを押しとどめられる。
    何となく腕と肩が触れ合ったままで歩き続ける。
    ブレザーを隔てて、そこだけ熱が宿っていて何だかそわそわした気分になった。
    この温度はあたしか、馨か、どちらのものだろうか。
    毎日毎日抱きつかれて慣れているはずなのに、この距離には何となく照れてしまった。
    そういえば並んで歩くなんて初めてかもしれない。
    この帰り道、軽口は叩くものの馨からは触れてきていない事にも気が付く。
    あぁ、本当に調子が狂う。

    「だいぶ弱くなりましたね、雨」

    駅前のアーケードまで差し掛かると傘を下げながら馨が言った。
    雨粒を振り払い、綺麗に折り畳んだ傘を私に差し出す。
    「ありがとうございました」
    にっこりと笑って。
    「あぁ、うん…」
    ぼんやりと答えて受け取ると、くるりと私の正面に立ち、
    「それじゃあたしあっちなんで」
    へらへらと笑いながら手を振った。
    馨の前髪からぽたり、と。雫が落ちる。

    ─あれ?

    声をかける暇もなく、「タキ先輩、また明日」馨は反対側のホームへ駆けて行ってしまった。
    その背中を呆然と、そして半ば呆れつつ見送る。

    並んで歩いていた時は気付かなかったけれど、正面を臨んでようやく見えた。
    馨の藍色のブレザーは深い紺に変わっていて。髪からも雨粒が垂れていた。
    無傷だったのは私が居た左側の腕だけで。
    元々大きな造りではない折り畳み傘、二人も入ればぎゅうぎゅうだ。
    きっと私の方に傾けていたのだろう。
    そのお陰か、私のブレザーは雨の被害なんてさっぱり感じさせず、変色すら見られない綺麗なものだ。

    馨め、あれ程私が濡れないか気遣っていたくせに。

    「自分が濡れてんじゃん…」

    さりげなくかばうのはやめてほしい。
    どうしていいかわからなくなるじゃないか。


    呟いて、そっと右肩に触れてみた。
    だいぶ冷めてしまったものの、そこにはしっかりと確かな温度が残っていて。
    その熱は、やっぱり私の調子を狂わせる。




引用返信/返信 削除キー/
■18088 / ResNo.7)  こんなはずじゃなかった。─8
□投稿者/ 秋 ちょと常連(53回)-(2007/02/23(Fri) 11:59:56)
    せっかく見逃してあげたのにのこのこやってくるなんて。
    呆れるぐらい、根っからの善人だ。
    ばかだね、なんて迂闊なのだろう。
    ますます愛しくなってしまうじゃないか。





    【レイニーデイ─識る】





    雨が降ったから放課後のグラウンドは使えなかった。
    外練が中止の場合は室内で筋トレメニューというのが陸上部。
    けれどこの日は体育館の使用許可が下りず、そのまま部活は急遽休みになってしまった。

    ─今日雨だなんて聞いてない。

    教室の窓から、無遠慮に降りしきる大粒の雨を睨みつけて心中で舌打ちする。
    帰ろうにも傘がない。
    この様子じゃ駅まで走ればびしょ濡れだ。
    その辺の人間を捕まえて相傘してもらうのは容易いけれど、今日は駅までの距離を適当なお喋りに付き合ってへらへらと笑っていられる気
    分でもなかった。

    「馨ー、帰らないの?あ、もしかして傘ないとか?入ってく?」

    帰り支度を始めているクラスメイトに声を掛けられる。

    「ありがとー。でも用事あるからまだ帰んない」

    窓辺から頭だけで振り向いて、にっこり笑って「ばいばーい」と調子良く手を振った。
    わかったじゃあね、そう言いながら、一人、また一人と教室から人が減っていく。
    また窓の外を見る。
    雨足が弱まった頃に一気に走って帰ろうかと思っていたが、その気配はまったくない。
    一つ、溜め息が漏れた。
    仕方ない、伊佐の部活が終わるのを待って一緒に帰ろう。
    そう考えて自分の机に着いて、頬杖をつきながらぼんやりと雨を眺めていた。



    いつ、眠ってしまったのか。
    全然覚えていない。
    気が付いたら窓の外は暗い、教室も暗い。
    雨の音だけがやけに耳障りで、未だに遠ざかっていない事を主張していた。
    しまった、と顔をしかめる。
    時計はとっくに下校時刻を過ぎている。
    廊下に出ても人の気配はしない。
    この分じゃ、伊佐もとうに部活を終えて家路についているだろう。
    まいったな、つい口からこぼれたものの、それほど焦りも不安もなく、薄暗い廊下をゆったりとした足取りで歩いた。
    昇降口に辿り着いたところで、さてどうしよう、改めて考える。
    やはり人っ子一人いない。
    土砂降りの雨の中、いくら駿足が自慢のあたしでもさすがに飛び出していこうとは思わない。
    やっぱり雨が上がるまで待つしかないかな、ぼうっとその場で突っ立っていると背後で足音がした。
    そちらを静かに振り向くとちらりと小さな人影が過ぎった。
    それはそのまま二年の下駄箱の方へと向かう。
    あたしは視線を外へと戻した。
    先程の人影は靴を履きかえ終えた様子。
    ちらちらとこちらを窺っている気配がする。
    あたしは顔を外へ向けたまま、横目で彼の人を一瞥して気付かれないよう息を吐いた。

    ─ばかだなぁ、先輩。

    少しだけ呆れる。
    せっかく気付かない振りをしてあげているのに。
    普段あれだけあたしに関わりたくなさそうなのだ、ここは構わずにさっさと帰ってしまえばいい。

    ─もう暗いんだから早く行ってくださいよ。

    つい苛々してしまう。
    雨は相変わらずざあざあと欝陶しい。
    余計に心がささくれだつ。
    ようやく背後で彼女が動く気配がして、ほっとする。
    はぁ、と息をついた。
    その時だ。
    ばっと目の前に傘が差し出された。
    一瞬何が起きたのかわからず、瞬きを数度。
    私の視界には淡いオレンジの傘、少しだけ目線を落とすと、

    「…入れば」

    むすっとした顔のタキ先輩がいた。
    呆気に取られてついきょとんとしてしまう。

    「あーもう!馨もどうせ電車通学でしょ?駅までなら入れてやるって言ってんの!入るの?入らないの?」

    そんなあたしに先輩はちょっと怒ったようにまくしたてた。

    「──…ありがとうございます」

    何とも気が抜けた返事をしてしまった。
    そして多分恐ろしく間抜けな笑顔だった気がする。
    不意打ちでうまく笑えなかったのだ。

    二人して雨の中を一歩踏み出す。
    あたしといる時の先輩は割としかめっ面。
    そんなに嫌なら無視して帰ってしまえばよかったのに、思わず笑みが漏れる。


    この人は、見捨てられない人なのだ。


    どこまで人がいいのか。
    素直で、正直で、真っ直ぐで、ばかがつくほどお人好し。
    堪らなく、愛しい。





    嬉しくても泣きたくなるなんて、知らなかった。





    黙ってしまったあたしを、「馨?」怪訝な顔で見上げた先輩にへらりと情けなく笑うのだけで精一杯だ。




引用返信/返信 削除キー/
■18089 / ResNo.8)  こんなはずじゃなかった。─9
□投稿者/ 秋 ちょと常連(54回)-(2007/02/23(Fri) 12:01:03)
    当番の日は朝と昼休みと放課後に保健室へと顔を出す。
    そして手当を求めてやって来た訪問者に対応したり、この部屋の主たる保健医の瑞樹先生に命じられた雑務をこなす。
    それが保健委員である私の仕事。

    放課後は馨も部活に出ているし、唯一安らげる私の憩いの一時だった。





    【放課後クラッシャー】





    ─今日は当番の日だ。

    保健室に向かう足を早める。
    少しだけホームルームが長引いてしまった。
    階段を一気に駆け降りて注意されない程度に廊下を小走りする。
    目的の扉の前で深呼吸。

    「遅れてごめんなさいっ」

    謝りながら勢いよくドアを開けると、目の前にはどーんと壁があった。
    よくよく見れば当たり前だが壁ではない。
    ちょうど出て行こうとしていたのだろう、私と同じく制服を纏った生徒だった。
    私の目線は目の前に立つ彼女に遮られてまったくもって視界ゼロ。
    背の高い子だなぁと見上げてみると、彼女もまた私を見下ろしていた。
    長めの前髪がさらりとなびいて、そこから覗いた黒耀石のような瞳と目が合った。
    どこかで見た事がある、と思って。

    ─王子だ。

    よく馨と二人で居る、確か伊佐忍、だっけ。

    彼女は私を一瞥すると、ぺこりと軽く頭を下げてから私の横を通り過ぎて廊下へ出た。
    長い脚ですたすたと歩き、あっという間に背中が小さくなっていく。
    それをぼけっと眺めていると、

    「神谷、珍しく遅かったね」

    凛とした声が私に届いた。

    慌てて保健室に入って、「ごめんなさい!ホームルールが長引いちゃって!」深く頭を下げる。

    「怒ってはいないよ」

    その声にゆっくりと顔を上げると、まっさらな白衣を身に纏った瑞樹先生は薬品棚に手を伸ばしながらくすくすと笑っていた。

    しゃんと伸びた背筋。
    それほど大きい方ではないけれど身長が高く見えるのは、この綺麗な姿勢のせいだろう。
    背中にかかる真っ直ぐな黒髪も、先生によく似合っていた。

    「さて、と」

    薬品棚をぱたんと閉じて、先生は私に向き直る。

    「せっかく罪悪感を感じている事だし、一つ雑用を頼もうかな」





    そういうわけで保健室の窓際のデスクで一人ちまちまと作業をしている。
    先月行った保健調査アンケートの集計だ。
    それも全校生徒分。
    その量にうんざりする。
    「一生徒が個人のプライバシーを垣間見ちゃっていいんですか?」
    意見してみたけれど、
    「無記名だから大丈夫だ。それにどうせ回答結果は広報に載せる。問題ないだろう?」
    悠然とした調子でにっこり微笑まれてはもはや何も言い返せない。
    反論を試みようとは思ってもいないけれど。
    そして「じゃあ頼む」と、先生はさっさと保健室から出て行ってしまった。
    残されたのは私一人。
    もしかして訪問者の対応も私が?
    それに気付いて、先生のマイペースぶりを少し恨んだ。
    「仕方ない、やるかっ」
    肩をぐるぐる回して気合を入れる。
    アンケートの束に手を伸ばして早速取り掛かった。
    不思議なもので集中している時というのは周囲の音がまったく耳に入らない。
    そして不意に鳴り始めるのだ。

    廊下を行き交う人の雑踏、笑い声。
    グラウンドの喧騒。

    放課後の音が何となく好きだ。


    ふと顔を上げて窓の外に視線を移した。
    保健室は怪我人を至急運び込めるようにグラウンドに面している。
    だから部活動に勤しむ生徒の様子がよく見えた。
    夕日が差し込み、その眩しさに目を細める。

    コートの一角でテニス部が素振りをしている。
    校庭の中央でソフトボール部が守備練習をしている。
    トラックの周辺には陸上部が集まっていて、その集団の中に一際目立つ茶髪が一人。
    夕焼けを浴びてキラキラと金色の光を放っていた。

    記録を計るのだろうか、コースに並ぶ部員達。
    馨も例外ではない。
    5人ずつ、順にスタートしていく。

    馨が位置に着いた。
    笛の音が響いて、一斉に駆け出す。
    彼女が走るところを、私は初めて目にした。
    いつものへらへらした表情とは違う、ゴールを睨みつける鋭い眼。
    駆ける姿はしなやかな獣のようで、風を切る音まで聞こえてきそうだ。
    人間というのはこんなにも颯爽と走れるものなのかと、私は食い入るように見つめていた。

    ゴールの瞬間まで鮮やかだ。

    ごくりと、喉が鳴る。
    そこでようやく我に返った。
    馨から、一瞬足りとも目が離せなかった。

    治まらない動悸が忌々しくて、何だか無性に悔しい。
    だから素早くアンケートに目を戻した。
    けれどもグラウンドが気になってしょうがない。
    もう一度走るところが見たい、なんて思ってしまっている。
    だって、あんな姿知らない。
    反則だ。
    瞼の裏の残像に、思い返すだけで胸が高鳴る。
    こんなにも人をわくわくさせるなんて、とんでもないエンターテイナーだ。



    「集計ご苦労様。終わったかい?」

    ようやく保健室に帰還した瑞樹先生に声を掛けられるまで、私はちらちらと視線を外と書類に行ったり来たりさせていた。
    もちろんアンケートはちっとも進んでなどいない。
    「ごめんなさいっ!すぐ終わらせちゃいますから!」
    慌ててペンを握る私。
    「いや、もう下校時間だ。帰る準備をしなさい」
    もうそんな時間?!と、壁にかかった時計を見て驚く。
    くくくと、瑞樹先生は目尻を下げて苦笑した。

    「珍しいな、神谷が仕事を忘れてぼんやりしているなんて」

    何か気になる事でも窓の外にあるのかな?と訊ねる先生に、私はあははと曖昧に笑った。







    私の平穏な放課後は、馨のせいでこうも易々と崩された。
    だってこの日から、気付けばグラウンドが気になって放課後を楽しむどころじゃないのだから。




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■18090 / ResNo.9)  こんなはずじゃなかった。─10
□投稿者/ 秋 ちょと常連(55回)-(2007/02/23(Fri) 12:02:06)
    身長173cm。
    剣道部所属。
    人よりは短い髪に、元来の目付きの鋭さ、加えて口数の少なさ。
    そこをクールと捉らえられ、ついたあだ名が『王子様』。



    ─シノ。

    彼女は、誰も呼ばない呼び方で私の事を呼ぶ、唯一の人。

    ─可愛いね。

    カッコイイ、とは幾度となく言われてきたけれど。
    こんな風に言われたのも初めてだ。


    ─シノは、可愛いね。


    王子の私も、彼女の前ではお姫様だった。





    【いつか、あなたと】





    その部屋の前まで来て、室内の気配を探る。
    人気がないのを確認してから保健室のドアを静かに開けた。
    案の定そこに居たのは一人だけ。
    自身の縄張りともいうべくこの部屋のソファに腰を下ろし、珍しく気難しい顔をして手にした書類と向き合っていた。

    扉の音で来訪者に気付いたのか「おや、客か?」という顔でこちらを振り向き、それが私だと確認すると「あぁ君か」と目元をわずかに緩
    ませた。
    「少し待っていてくれるかな。すぐ済む」
    そう言って書類に目を戻す。
    私はなるべく邪魔をしないように静かに彼女に近付き、そっと背後に立った。
    相変わらずこの人の白衣は染み一つなく真っ白だ。
    今日はいつもさらさらと艶めく黒髪をアップにしていて、うなじの白さが際立つ。
    その首筋に静かに手を伸ばし指先を這わせると、
    「待っておいでと言っただろう?」
    彼女はゆっくりとこちらを振り返って咎めるように私を睨み、けれど口の端はわずかに上がっていた。

    「仕方のない子だな、君は」

    くっくっと可笑しそうに苦笑する。

    「そんなところに立っていないでこっちへおいで」

    そして自身の隣をぽんぽんと軽く叩いた。
    それに従って私はソファの正面に回り、空いているスペースへ腰を下ろす。
    彼女は満足そうに微笑んでいた。
    そうしてまた書類に向き合う。
    私は少しだけ屈んだ恰好で膝に肘をつき、彼女の横顔をぼんやり眺めた。
    また、手を伸ばしたくなる。
    私の視線に気付いたのか、彼女はちらとこちらを見た。
    そして「本当にしょうがないな」と苦笑する。

    「シノ」

    私の代わりに手を伸ばしたのは彼女だった。
    指先で私の前髪を弄る。
    視界にちらちらと映る白い手が眩しい。
    彼女は前髪を掻き分けて額にそっと口付けると、くしゃりと髪を撫でつけてから手を離した。
    その手を今度は私が取る。
    指と指とを絡めてゆっくりとソファに下ろす。
    二人の間には繋がれた、手。
    触れていれば安心できる、なんて。堪らなく子供じみているとも思ったけれど。
    彼女はふっと笑っただけだった。

    「シノは可愛いね」

    「…そんな事を言うのは瑞樹先生だけです」

    「そうか」

    また、笑う。



    女性らしい容姿にそぐわない口調。
    すべてを見透かしているかのような余裕。
    私が外見におよそ似つかわしくない行動をしても「君らしいな」と一笑する。
    この人の前では、私は限りなく裸に近い。



    「いつまでこのままなんですか、私達は」

    ぎゅうっと、繋ぐ手にわずかに力を込める。

    「今は、私の大事な生徒の一人だからね、君も」

    いつも通りの凛とした声で、先生は静かに言葉を落とした。

    「それに私も、皆の保健室の先生、だ」

    少しだけ困ったように片眉を下げ、苦笑する。
    そしてひっそりと続けた。

    「君の卒業までの辛抱だよ」

    「あと二年もあります」

    私は奥歯を噛み締めた。
    そんな先の話、と。
    けれど先生はゆったりと構えて、

    「なに、それぐらい。待つさ」

    ふっと笑った。

    「私の卒業を待てるんですか?」

    「約束しようか」

    「…約束とか未来の話なんて、途方もない奇跡みたいなものでしょう」

    くっくっと、やっぱり先生は可笑しそうに笑う。

    「君は本当に可愛いな」

    「からかってるんですか」と少しだけ恨めしげに睨むと、


    「奇跡など信じなくてもいいよ。シノは私を信じればいい」


    思いの外優しい眼差しを私に向けていた。

    「二年もすればシノはもっとイイ女になるだろうからね。それを楽しみに待つというのも、また一興だ」

    悠然と、楽しそうに笑う。



    繋がれた手の感触も隣に座るこの人の温もりも、今ここに確かに在るものだ。


    …奇跡なんて来なくても構わない。
    信じるのは──…


    私は先生をじっと見て、そして静かに顔を寄せた。
    彼女は「おや」と口元を緩め、やがてゆっくりと瞼を閉じた。






    普段は王子の呼び名に違和を感じているものの、この人の前では格好良い王子様で在りたいと思う事もある。
    けれどいつだって私は守られてばかりで、それが居心地良いものだから、つい甘えてしまう。

    だから今は。今だけは。

    守ってもらうお姫さまでいたい。

    いつかきっと、返すから。




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