ビアンエッセイ♪

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■18091 / ResNo.10)  こんなはずじゃなかった。─11
  
□投稿者/ 秋 ちょと常連(56回)-(2007/02/23(Fri) 12:03:17)
    それは、夕焼けの魔力のせいだ。





    【トワイライト】





    暦は十二月も半ば。
    この時期の学生を悩ませるものといえば、そう、期末試験の他ない。
    私も例外ではなく間近に迫った試験の範囲と教科書を照らし合わせて、頼りになる友人・佐保ちゃんにヤマを聞いたりと、悪戦苦闘の真っ
    只中。
    これさえ乗り切れば冬休み、何とか踏ん張ってやろうじゃないかと、帰りのホームルームを終えると私が目指すのは図書室だ。
    テスト前だから賑わっているかと思えば、いつも以上にひっそりとしているなかなかの穴場。
    皆、真っ直ぐ家に帰って自室の机に向き合うか、駅前の図書館に行くのだろう。
    うちは結構な進学校だから、生徒の学習意識は高い。
    そんな所に何で私はいるのだろうと頭を捻りながら図書室に入った。
    家に帰れば勉強する気が失せる、だから私の場合は学校にいた方がはかどるのだ。
    思った通り図書室は数えるほどしか人がいない。
    その静けさに「よしっ」心中で掛け声をかけて、奥のテーブルに向かった。
    窓から西日が差し込んでいる一角を陣取る。
    ちらりと外を見やると、がらんとした校庭が広がっていた。
    試験期間中は部活停止期間でもあるから当たり前といったら当たり前なのだけれど、いつも響き渡っている運動部の活発な声が聞こえない

    誰もいない校庭だけが人の影を落とす事なく夕日でオレンジに染まっている。
    あぁこんなに静かなものなんだな、と何となく寂しく思った。
    そう言えば図書室も普段よりやけに広く感じられて、窓から差し込む光が室内を茜色に照らしている。
    夕焼けってのはどこか人をセンチメンタルにさせるぜ、となかなかにクサい台詞を呟いて苦笑した。
    ばかな事を考えていないでそろそろ勉強に取り掛かろうと視線を窓から机に移行させると、

    「うわっ!」

    いつの間にやら目の前には西日を浴びて金髪に光るゴールデンレトリバー─もとい、馨がいた。

    「先輩だめですよ、大きな声出しちゃ。ここ図書室なんだから」
    人差し指を口元に当てて「しー」という仕草。
    私は慌てて口を手で押さえて、元はといえばあんたのせいだと言わんばかりに、私の向かいに座る馨をギロリと睨みつけた。
    それでも馨は素知らぬ顔でにこにこと笑っている。
    「…何でここに?」
    自然とひそひそ声になる。
    「先輩が図書室入ってくのが見えたから」
    馨も幾分トーンを落として答えた。
    はぁぁと大きく溜め息を吐いて、
    「あんたねぇ、放課後そんなに暇なわけ?部活は───…」
    そこで気付いた。
    「はい、休みだから暇なんです」
    にっこり笑う。
    「それにしたって暇って事はないでしょ、テスト前なんだから」
    言ってみて、何気にこいつは成績がいいんだって事を思い出す。
    廊下に貼り出されていた中間試験の順位に驚いた記憶が真新しい。
    神様ってのはなんて不公平なんだろう。
    馨は、ついむすっとしてしまった私の顔を覗き込み、

    「タキ先輩と居る方が大事なんです」

    そうやって綺麗に笑ってみせたから何だか脱力してしまって、
    「…私は勉強するんだから邪魔しないでよ」
    呆れ気味に呟いて手元の教科書を開いた。
    馨は「はい」とやけに素直な返事をするものだから、それにも拍子抜けしてしまった。



    とは言うものの、

    「あのさ…そんなじっと見られてたらやりづらいんだけど」

    確かに馨は邪魔していない。
    声を掛けてこなければ、ちょっかいも出してはこない。
    ただ黙って頬杖をつき、向かいの席に座っている。
    真っ直ぐにこちらを見つめながら。

    「えー、邪魔してないじゃないですかー」

    馨は不満そうに唇を尖らせた。

    「視線が気になるのっ。迷惑!」

    人差し指をびしっと指して強い語調で言い切る。

    「え、」

    きょとんとする馨。
    しまった、少し強く言い過ぎたかなと訂正しようとして。

    「それはあたしの視線にドキドキしちゃうって事ですかね?」

    そう思った事を瞬時に後悔する。
    こいつと話しているといつも頭が痛くなるのは何でだろうと額を押さえていると、

    「まぁ冗談はこれぐらいにして、そろそろ帰りますね」

    先程までのおちゃらけたものとは違う、落ち着いた馨の声。
    顔を上げたら、
    「邪魔しちゃ悪いし」
    にっこり笑った。

    今日は妙に引き際が早いなと、また拍子抜けする。

    「それじゃ勉強頑張ってくださいね」と立ち上がろうとする馨を、

    「──馨」

    つい呼び止めた。

    「はい?」

    案の定馨はきょとんとしている。
    中途半端に立ち上がりかけて中腰の姿勢。
    「何ですか」と、また席に座って私を見た。

    何ですかも何も、私が聞きたい。
    だってほんとに「つい」だったのだ。
    言いあぐねてちらっと馨を見たら、嬉しそうにへらへらと笑っていた。

    「…何」

    「いやー、先輩が呼び止めてくれるなんて」

    それがそこまで喜ぶべき事なのだろうかと、少し呆れる。
    それでも目の前の大型犬は尻尾を振るのだ。他の誰でもなく、私に。
    しばし思案して、

    「馨は…何で私なの?」

    躊躇いがちに口にした。

    「え?」

    聞き返す声に気恥ずかしくなってつい俯く。
    「何で私が好きなの?」
    女同士なのに…と、口をもごもごさせていると、

    「──かっこよかったから」

    馨の通る声。

    …私が、かっこいい?
    この背の低さのせいで小動物扱いされる事が常の私が?

    驚いて顔を上げ、彼女をまじまじと見る。
    「私にかっこいいとこなんて──」
    ないよ、と言い切る前に馨はそれを遮るように首を振った。

    「先輩はすごくかっこいい」

    そしてゆっくりと、丁寧に言葉を紡いだ馨はいつものへらへらした表情ではなく、優しい瞳で私を見ていた。
    不覚にもドキリとして。


    そんな私をどう思ったのかはわからないけれど、馨はふっと笑うとゆったりとした動作で視線を外へと向けた。

    「もう冬ですね」

    窓の外の沈む夕日を眺めながらぽつりと漏らした馨の横顔から、私は何故だか目が逸らせなかった。





    夕暮れが図書室を朱に染めて、世界から切り取ったのだ。




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■18092 / ResNo.11)  こんなはずじゃなかった。─12
□投稿者/ 秋 ちょと常連(57回)-(2007/02/23(Fri) 12:05:58)
    いつ好きになったのかははっきりと覚えている。

    けれど、いつの間にこれほど好きになってしまったのかはよくわからない。





    【サマータイムチルドレン】





    昔から背は高かった。
    小学校を卒業する頃には160cmをとうに越えていた気がする。
    それでも中二ぐらいには成長も落ち着いたのか、168cmであたしの身長は止まった。
    その頃のあたしは中学陸上界ではちょっとしたスターだった。
    リーチの長い足、バネのような瞬発力。
    この駿足こそが、あたしの最大の武器。

    そんなわけだから、高校に入学したら運動部から引く手数多なのは当然推測できた事だ。
    そりゃ運動神経は半端じゃないし?
    知名度だってそこそこあると認識している。
    どこだって欲しがるだろうとどこか他人事のように思いながら、勿論あたしは陸上部に入部した。


    「真剣に走れ!芹澤っ」
    何本目かのダッシュを終えたところに顧問の檄が飛ぶ。
    その苛々した声の方を向くと、ストップウォッチに視線を落として顔をしかめていた。
    つぅ、と。額に汗が伝う。
    じりじりと容赦なく八月の太陽があたしの身を焦がし、手の平で流れる雫を拭った。
    「ここ最近、タイムが伸び悩んでるみたいだけど」
    コース脇であたしのフォームをチェックしていた部長がゆっくりこちらへ寄ってきた。
    「焦っちゃだめだよ」
    ぽん、あたしの肩に手を置いて笑いかける。
    「ん、だいじょぶです」
    その手をやんわり肩から外して、「ちょっと顔洗ってきますねー」へらっと笑ってその場から離れた。


    夏休みに入ってからのあたしは何とも調子が悪い。
    スランプ、というか、また成長期がやってきたようなのだ。
    最近にょきにょきと背が伸びている。
    それに伴う節々の痛み、体の軋み。
    日に日にサイズが変わるものだから、歩幅の細かい調整、ダッシュの機微やスピードに乗せる軌道を修正しては修正、その繰り返しだ。
    一向にこの成長の速度に慣れないから、まるで自分の体じゃないようで、うまく走れなくて、このところゾクリとしている。
    この間こっそり保健室で身長を測ったら173cmだった。
    とうとうどこぞの王子と並んでしまった。
    アイツだってさすがにもう伸びていないだろう。
    いつまでこうなのだろうかと、思ってみただけでまた身震いした。


    夏休み中の学校は、部活に訪れた生徒以外にも二学期に行われる文化祭準備で活気に満ちている。
    人が多いという事はそれなりに人と出くわすわけで。
    体育館脇の水飲み場に差し掛かるまで何度か声を掛けられた。見知った顔にも知らない顔にも。
    顔が知れているのも楽じゃないと思う。
    伊佐なんて入部以来道場付近に見学者が溜まっているものだから、この夏の暑さが相乗して苛立っていた。
    「私以外の部員にも迷惑を掛ける」と集中が乱される事を懸念していたっけ。
    そりゃそうだ、実力者とは言えまだ一年生。
    道場は伊佐のものではないんだから。

    蛇口を思い切りひねって、勢いよく流れる水を頭から被った。
    真夏の水道は陽射しですっかり温まってしまっている。
    ぬるくて、気持ち悪い。
    少しもすっきりしなくて、顔を上げて水滴を払うようにぶるぶると頭を振った。

    「馨ちゃん、びしょ濡れだー」

    不意に掛けられた声にふと振り返る。
    生徒が二人、立っていた。
    誰だか知らない。
    学年色のネクタイが上級生だと示している。

    「今日も部活?」

    「暑いのに大変だね」

    「近くで見ると背高ーい」

    好意的に笑いながら近寄ってくる。
    グロスが塗りたくられた唇がてらてらと太陽の光に反射した。

    「今度の大会はいつなの?選手なんでしょ?」

    あたしの方へと手を伸ばして濡れた髪に触れようとしたので、さりげなくそれを避ける。
    代わりにがしがしと自身で頭を掻いた。

    「あたし一年だし、まだわかりませんよー」

    アハハと笑ってみせると、

    「でも、馨ちゃんすっごく速いじゃない」

    「運動部なんて新歓の時すごかったもんね。争奪戦だったし!」

    謙遜する必要ないよ、と無邪気に笑った。

    「陸上の世界で有名なんでしょ?結構皆知ってるよー」

    「先生達も『我が校から全国レベルの選手が!』って期待してるもんね」

    「ねぇねぇ、100m何秒で走れるの?」


    膝がまた、ぎしりと軋んだ気がした。


    よくもまぁこうぺらぺらと喋れるものだと感心しながら、勝手な事を、と胸の内で吐き捨てる。
    こういう事は入学してから割とあった。
    今日だって何度か声を掛けられた。
    その度にあたしはうんざりする。
    第三者の言葉はいつだって無責任だ。
    期待されるなんてまっぴらなのに、あたしはあたしの為に走るんだから。


    「大会の日は教えてね。見に行くから」

    「私達、馨ちゃんのファンなんだよ」

    また、屈託なく笑う。
    その様子に苛立ちが募る。

    「えー、そうなんですか。嬉しいなぁ」

    へらりと笑って返してやった。
    あたしはあんた達など知らないけれど。

    肩にかけたタオルで髪を乱暴に拭う。
    夏の陽射しのお陰でだいぶ水分は飛んでいた。

    「じゃあそろそろ練習戻りますから」

    ひらひらと手を振って駆け出すと、
    「頑張ってねー」
    「応援してるよ!」
    背中に受ける声援。
    知らない人間の言葉なんて大して耳には届かないって事、この人達は知らないのだろうか。
    もう振り返らずにあたしは走った。


    ─あぁ、関節が痛む。


    心底心配しているという部長の眼差しと苛々した顧問の声が思い出されて、そのまま校庭に戻る気も起きず、何となく校舎に入った。
    夏休みだというのに文化祭準備に訪れた生徒がちらほら。
    誰かに会うのが億劫で、一人になれる場所はないものかと人気のない方へと歩いた。
    人は二階から上の教室や特別棟に密集しているのか、教務棟の一階は静けさが広がっている。
    喧騒が遠くで聞こえて、一階の奥の長い廊下にはあたしの足音だけが響く。
    ようやくほっと息をついた。
    目を閉じると静寂に溶け込めそうだ。
    あたしはそのまま大の字に寝そべった。
    ひんやりとした廊下の無機質さ加減があたしの背中を冷やす。
    同時に頭も冷ましてくれないか、と思った。

    腹が立つのは無責任な他人にだけじゃない。
    走れ、走れ。
    足に命じる。
    もっと速く、もっと機敏に。
    どうしてうまくやれないのかと苛立つ自分が嫌だ。
    それを危うく表に出しそうになるなんて、よほど余裕を無くしている。
    冷静になれよ、と両手で顔を覆った。


    「どうしたのっ大丈夫?!」


    突然の高い声にぎょっとする。
    うっすらと目を開けると、天井ではなく人の顔が映った。
    何で人の気配に気付かなかったのだろうと驚くあたし以上に、廊下にしゃがんであたしの顔を覗き込むように見ている目の前の彼女の方が
    慌てていた。

    「あー良かった、意識はあるね。あなた、ここに倒れてたんだよ」

    「は?」

    多分この人は何か勘違いをしている。

    「今日暑いからね、日射病かな。起き上がれる?」

    「あ、いや、大丈夫です」

    そもそも自分で寝てたんだし。
    「保健室で少し休んだ方がいいかな」と呟くので、面倒な事になったと思いながら「そんな大袈裟なもんじゃないんで」やんわり拒否した

    けれど彼女は、「日射病を侮るな!」キッとあたしを睨んだ。
    有無を言わせない迫力に気圧されるあたしに、
    「ほら、保健室行くよ」
    手を差し出して起き上がらせる。
    そして「はい、乗って」くるりと背中を向けた。

    これはもしかして─

    「…おんぶ?あたしを?」

    彼女は首だけで振り向いて「そうだよ」と答えた。

    よくよく見ればこの人は随分と小柄。
    あたしが平均身長よりも高いという事を差し引いても、だ。
    これではまるで大人と子供。
    いくら何でも無謀ではないだろうか。

    「ちょっと無理じゃない…?」
    おずおずと提案してみるあたしに苛立ったように彼女は、
    「つべこべ言わずにさっさと乗れ!」
    素直に従えとばかりに怒鳴りつけた。
    その問答無用の言い草に呆気に取られ、少しだけ可笑しくなる。
    どうせまだ練習に戻る気はない、保健室でしばらくサボろう。
    あたしは小さな彼女の肩に手を掛けた。

    やはりと言うか、あたしを背負った彼女の足取りは何とも覚束ない。
    乳飲み児が今まさに立ち上がりましたよ、といったような、よたよたとした歩き方。
    それが何ともおかしくて、くくくと笑みを噛み締めた。
    心許ないこの背中は、不思議と頼り甲斐があった。


    保健室に辿り着き、どさりとベッドに体を埋める。
    真正面から改めて見た彼女のネクタイは、意外にも二年の学年色。
    同い年だと思っていたから少し驚く。
    先輩だったのかと、デスクの方で作業している彼女を眺めていると、

    「体操服って事は運動部だよね。活動中にちゃんと水分取ってた?こーゆー暑い日は脱水症状が怖いんだよ」

    こちらへとやって来て、冷たい麦茶を注いだ紙コップをあたしに差し出す。
    受け取りながら、あれ?、と思った。

    「それから、訪問者記録書かなきゃいけないからいくつか教えてもらっていいかな」

    ひらりと、書きかけの訪問者カードを手にして。

    「あなたの名前は?」

    やっぱり、と確信した。

    ─この人、あたしの事を知らないんだ。

    「芹澤、馨です」

    自分の名前を誰かに告げるのなんて久しぶりだ、そう思って少し声が掠れた。

    「セリザワさん、か」

    どんな字書くの?とまた尋ね、さらさらとペンを紙に走らせる。

    「それじゃ保健の先生には伝えとくからゆっくり休んでね」

    あたしに毛布を掛け、保健室から出て行こうとする背中に、
    「ありがとうございました」
    声を掛ける。
    振り返った彼女は「気にしないで」と笑った。
    「私保健委員だし。廊下で行き倒れてたら放っておけないよ」
    そもそもそれは勘違いなんだけどな、苦笑する。

    「でもさすがにその体でおんぶはきついでしょ」

    茶化し気味に言ったら、

    「小さい言うなっ、お節介は性分だ!」

    怒ったように笑って、「お大事に」と一言添えると今度こそ保健室を後にした。


    小さいくせに、嵐のような人だったな。一人ごちる。
    いつの間にか膝の痛みは消えていた。
    背中の広さと肩の温かさが手の平にひっそりと残って。
    夏が過ぎると、今度こそあたしの成長期は終わった。






    ─神谷 多喜

    後になって知った彼女の名前だ。
    「喜びが多い、ね」
    ぴったりだと思った。


    最初は何となくの興味から。
    この人といたら面白いだろうな、なんて。


    夏休みが終わって二学期に入るとすぐにタキ先輩に会いに行った。
    予想通りというか、先輩はあたしの事を知らなかった。
    あの夏助けた後輩の顔をきれいさっぱり忘れていて、「え?誰?」ってきょとんとしていた。
    好きです、と言ったら、ますます狼狽えた。
    その様子が可笑しくて、しばらく楽しめそうだと思った。
    暇潰し、のつもりだったのだ。
    それなのに。






    「先輩、明けましておめでとうございます」

    「うわ、馨…新学期早々運が悪いなぁ」

    「ヒドイっ!あたしは冬休み中先輩に会えなくて寂しかったのにっ」

    「だー!抱きつくなっ!!」

    「充電ぐらいさせてくださいよー」






    気付けば季節は夏から冬へ、いつの間にかあなたばかりを追いかけている。
    多分、これから先も。




引用返信/返信 削除キー/
■18093 / ResNo.12)  こんなはずじゃなかった。─13
□投稿者/ 秋 ちょと常連(58回)-(2007/02/23(Fri) 12:07:33)
    それはひとえに、彼女の強さなのだろう。





    【Lunch!Lunch!Lunch!】





    購買でパンを二つ買ってから保健室へと向かった。
    今日は当番の日。
    昼休みも待機していなければいけないので昼食はおのずと保健室で取る事になる。
    「失礼しまーす」
    扉を開けると主は不在だった。
    本日の当番は私ともう一人。
    その彼女も風邪で欠席していると今朝聞いていたから、どうやらこの時間は私一人で過ごさなければならないようだ。
    「さみしいなぁ」
    呟きながら、手近な椅子を引き寄せてそこに腰掛ける。
    保健室は廊下の一番奥に位置しているから訪問者がない限り人気がないのだ。
    それに加えて窓の外は校庭ときている。
    わーわーとはしゃぐ生徒の声が窓を隔ててがらんとした保健室に響く。
    賑やかな昼休みの声は私をしんみりさせるのに十分だった。
    「何か惨めだ…」
    パンの一つに手を伸ばし、佐保ちゃんに来てもらえばよかったな、泣き言を漏らすと、

    「先輩いますー?」

    がらりとドアが開かれた。
    静かな空間の中ではちょっとした開閉でも大きな音を残す。
    私は反射的にそちらを見た。
    来訪者が誰だか、もはや語る必要はあるまい。
    馨は開けた時とは対称的に入口の戸を静かに閉め、こちらへとやって来る。
    「何の用?」
    怪訝な顔でその様子を見ていると、

    「ランチのお誘いです」

    弁当箱の包みをずいっと見せてへらりと笑った。
    薄茶色の髪が揺れる。

    「たまには一緒に食べましょ」

    そう言ってがたがたと椅子を移動させ、私の隣に座った。


    「え、先輩のお昼それ?菓子パンばっかり食べてるからそんなに──」

    小さいんですよと続けようとする馨の足をとりあえず踏んでおく。
    ぎゃっ!と馨が短く悲鳴を上げた気がした。

    「今日はたまたま!いつもはちゃんとお弁当だし」

    がさがさとパンの袋を乱暴に開ける。
    かぶりつこうとしたところで、
    「はい、先輩」
    何かを摘んだ箸を馨がずいっと私の目の前に差し出したから、ついぱくりと食べてしまった。
    じゃこと分葱が入ったほんのり醤油の風味が香る和風の卵焼き。
    私の好みは砂糖たっぷりの甘い甘い卵焼きなのだけれど、これは。

    「…美味しい」

    ごくりと飲み込んでから小さく呟くと、馨は「でしょ?」と得意げに笑った。

    「おかず多めにあるんでつまんでください」

    購買のパンという何とも味気ない私の昼食にはこの彩り豊かなおかず達は有り難い。
    私に割り箸を一膳手渡してから、「いただきます」と馨も弁当に箸をつけた。
    卵焼きだけじゃない、きんぴらも白和えも肉じゃがも、和テイストの馨のお弁当はどれも美味しかった。
    おいしいおいしいとぱくついていたら、馨は自分はちっとも手を付けないでにこにこと笑って私を見ていた。
    それが少し気まずくて、
    「せっかくお母さんが作ってくれたんだから馨も食べなよ。さっきから私ばっかり食べてるじゃん」
    怒ったように言う。
    「美味しいですか?」
    「うん、すごく」
    素直に頷くと、へへっと嬉しそうに馨は頬を緩ませた。

    「あたしが作ったんです、これ」

    「───…へ?」

    馨の言葉を理解するのに多大な時間を要した。

    「きんぴらも肉じゃがも卵焼きも?」

    「はい」

    「お母さんじゃなくて?」

    「はい」

    「馨が?」

    はい、とやっぱり笑う。
    人間見掛けによらないものだ、思わずううむと唸ってしまった。

    「いつも自分でお弁当作ってるの?」

    「そうですよー」

    馨の朝は部活の朝練で相当早いはずだ。
    私には真似できそうになない。

    「馨が料理うまいなんて意外だったなぁ」

    心底驚いたといった感じで、感嘆の声が漏れる。
    ちょっとだけ尊敬してしまったから。

    「お母さんから教わったの?」

    訊きながら、ついでにきんぴらに箸を伸ばした。

    「あぁ、うち母親いないんで。家の中の事やってる内に覚えちゃったんでしょうね」

    しゃり、と。
    口の中でごぼうが弾けた。

    …──ん?んんん?

    あまりにも自然な、まるで世間話をするようなさらりとした軽い物言いに、大して疑問も持たずついつい聞き逃すところだった。
    「え?家事も全部やってるの?すごいね、馨!」と、興奮したテンションで尊敬の眼差しを向けそうになって、ぎりぎりのところで思い止
    まる。

    『うち母親いないんで』

    けれどもよくよく考えてみれば。
    それって、つまり。


    「料理は結構好きですけどねー」

    のんびりとした口調で話を続ける声の主を見る。
    私にとって衝撃発言をした当の馨は至って普通だった。
    私の視線に気付くと、いつものように目尻を下げてへらりと笑う。

    「あのさ──…」

    何かを言い掛けて、やめた。
    馨の事情。
    変に邪推しても本当のところはわからない。
    興味本位で立ち入っていい領域ではないような気がした。
    同情や憐憫の目で見るつもりは更々ないけれど、無遠慮に触れる必要も今はない。
    その境目は、わきまえているつもりだ。

    「何ですか?」

    愛想の良い瞳がじっと私を見つめる。

    「──ごちそうさま。すごく美味しかったよ」

    飲み込んだ言葉の代わりに素直な感想を告げた。
    馨はますます目元を緩めて、ふにゃりと顔を綻ばせた。

    「よかった、嬉しいなぁ」

    きっと、馨にとっては何でもない事なのかもしれない。
    それをさらりと言える強さを、笑っていられる強さを、彼女は持っているのだ。

    「卵焼き、また食べたい」

    「あ、気に入りました?あれは結構自信作なんです」

    また作ってきますね、そう言う馨の笑い声が何となく心地良く耳に残った。





    もしかしたら私の勘違いで、彼女の母親は世界を股にかけるばりばりのキャリアウーマンだから滅多に家に帰らない、という顛末かもしれ
    ないし。
    本当に私の想像通りだとしても、ここにいる馨は相変わらずへらへらと笑っているような気がして。



    馨が馨でよかったと、心から思ったんだ。




引用返信/返信 削除キー/
■18094 / ResNo.13)  こんなはずじゃなかった。─14
□投稿者/ 秋 ちょと常連(59回)-(2007/02/23(Fri) 12:08:40)
    嫌いだ嫌いだと言い続けていたら随分口に馴染んでしまって、いつしか本来の意味を失って「キライダ」というただの単語になりそうだ。






    【コトノハ】





    「ターキせーんぱーいっ!」
    授業の終了を告げるチャイムと共に教室のドアが勢いよく開かれて、駆け込んできたのはゴールデンレトリバーを思わせる明るい髪に人懐
    っこい笑顔を兼ね備えた芹澤馨。
    英語の教科書をしまっていた私に問答無用でタックルしてくる。
    今授業が終わったばかりだというのに2階にある一年の教室から3階の二年の教室に何故すでにいるのか。
    言ったところで適当に受け流されるだけだろうから口には出さない。
    抱きつかれる事にすっかり慣れてしまった私は、せめて体当たりは止してくれと投げ遣りに思う辺り、諦め癖が身に付き始めている。

    「あー、やっぱり先輩の抱き心地は最高ですね」
    「そりゃどうも」
    「てゆーか、大好きです。愛してます。くっついてるだけで胸がドキドキしちゃってもう大変なんですよ。これはきっと恋ですね!恋に違
    いないっ!!」
    「いや、勘違いじゃないかな芹澤さん。それは恋じゃなくて変なんだ、変に違いない。私の事は気にしないで今すぐ病院行っといで」
    「先輩ヒドイ!あたしはこんなに愛してんのにー」
    「…だからそもそも女同士だってば」
    「大丈夫!愛は生物間をも超えます!」
    「せめて性別までにしときなよ…」

    言ってしまってから、しまったと思った。
    案の定馨は「それじゃあ問題ないですね」とにんまり笑った。
    傍らの佐保ちゃんは「いまいちあしらいきれてないのよねー」と呆れ気味に私を見て、すっかり日常茶飯事化してしまったこのやり取りに
    飽きたかのように鞄から文庫本を取り出して読み始めた。
    「佐保ちゃんー…」と助けを請う私を断固無視、もはや私は一人でこいつに対峙しなければならないようだ。

    「大体休み時間ごとに来ないでよ。たまには自分の教室で過ごしてクラスメイトとの親睦を深めたら?」
    「ばっちり仲良いからだいじょぶですっ。それより先輩と親しくなりたいなー」
    「私はノーサンキュー」
    「つれないなーもー。余計燃えちゃうじゃないですか」
    「何でそう前向きなの…」

    私はうんざりとしながら頭を垂れた。
    馨の腕は依然として私の体をがっちりと掴んだままだ。

    「何度も言ってるけど、私は馨なんて嫌いだよ」

    「うん」

    「だから嫌いだってば」

    「うんうん」

    「嫌いだって言ってるじゃん!」

    聞こえてんのかこのやろうと首だけで振り向いて背後の馨を睨みつけると、

    「あたしは好きです」

    思いの外間近に迫っていた顔、数cm先の馨がにっこりと笑った。

    「…嫌いだ私は」

    「あたしは好きですってば」

    愛想の良い瞳を目一杯垂らして、思わず見惚れてしまいそうになる極上の笑みを浮かべる。
    さすが愛され体質芹澤馨、素敵な笑顔だこんちくしょう。
    怯んだ私は顔を背けた。

    「私は絶対馨を好きにならないよ」

    「そうですか」

    「…馨は、それでいいの?」

    「だってそれ、あたしが先輩を好きでいる事と何も関係ないでしょう」

    喉がからからと渇いて、言葉が詰まる。

    「…──本気ならそんな簡単に何度も好きだって言えるはずないっ」

    目をぎゅっと瞑って苦し紛れに言い捨てると、頭の辺りで、馨がふっと笑う声が聞こえた。


    「本気だから、言っても言っても足りないんです」


    そう言った後に馨はぎゅうっと腕に力を込めたから、締め付けられた体が苦しくて、そちらに気を取られたせいでそれきり私は何も言えな
    くなってしまった。
    と、思いたい。
    耳元で、「好きですよ」ぽつりと小さく囁かれた声に、胸の奥がじりじりと疼いた。






    嫌いだ嫌いだと言い続けている内に本来の意味を失って、いつのまにか「キライダ」というただの単語になってしまった。
    いつか「スキダ」と言わされてしまいそうで怖い。




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■18095 / ResNo.14)  こんなはずじゃなかった。─15
□投稿者/ 秋 ちょと常連(60回)-(2007/02/23(Fri) 12:09:35)
    黄昏時の暮れゆく空に溶け合う夕日の光は、彼女の髪の色とよく似ていた。





    【笑う人】





    それを思い出した時にはすでに駅前まで来てしまっていた。
    明日提出するレポート用の資料。
    こつこつと読み進め、昨日の保健室当番の時にも暇を見ては目を通し、ようやく読み終えた。
    そして今日早速家で書き上げようと思っていたら、鞄の中に見当たらない。
    読後にすっかり気が抜けて、どうやら保健室に忘れてきてしまったらしい。
    太陽が沈み、夕闇に包まれ出した辺りを見回して、どうしよう、と考える事数十秒。
    すでに今日の当番は帰ってしまっている時間だ。
    けれど瑞樹先生はまだ居るはず。
    先生さえ居れば保健室は戸締まりされない、それなら私の大事な資料も十分に奪取可能。
    電車に乗る前で良かったとポジティブに考え、今来た道を引き返した。



    学校が近付くと、私が向かう先から生徒が来ては、すれ違う。
    下校道を逆流しているのだからそれは当たり前の事で、けれど何となく不思議な気分だ。
    校門をくぐった先に見えるグラウンドは、すでに運動部が後片付けを終えていて閑散としている。
    だから校内だって当然がらんとしているなんて予測できた事だけれど、やはり人気のない学校は昼間とは違う顔をしていて薄気味悪い。
    できれば一人で歩くのは遠慮したいのだ。
    目指す保健室は廊下の奥、この時間帯でも残っている先生達が集う職員室とは対極の位置だから、偶然ばったり誰かに会うなんて期待でき
    ない。
    早いところ用事を済ませて帰ろうと、足早にもなってしまうというもの。
    目的の部屋に辿り着き、ようやく安堵する。
    戸を少し引いてみると鍵がかかっている様子はないので、更に安心して。
    そのまま一気に開き、ここに居るであろう瑞樹先生に声を掛けた。
    「失礼します。ちょっと忘れ物しちゃって──」
    声は虚しく主不在の室内に響いた。
    電気が点いていない様子を見ると、どうやら本気でどこかへ行っているようだ。
    陽が落ちて薄暗い保健室は、射し込む夕焼けの光でぼんやりと輪郭が浮かんでいる。
    どことなく神秘的なその光景に、不思議と恐怖心は薄まった。
    蛍光灯のスイッチに触れた手をゆっくり離して、夕焼けを明かり代わりに本を探す。
    瑞樹先生のデスクや訪問者記録用の作業机、棚の上、あちこちを見て回って、ようやく目当てのものが見つかった。
    あぁやっと帰れる、胸を撫で下ろしたら。
    奥のベッドで、ごそりと、何かが動く気配。
    誰も居ないと思い込んでいたから、驚きのあまり心臓が口から飛び出るかと思った。
    ばくばくとした動悸に合わせて少し変な汗が滲む。

    「誰か…いるの?」

    恐る恐る声は掛けてみて、けれど冷静に考えればまだベッドの利用者が残っているからここも開いているのだという事に思い当たる。
    それではあまりうるさくしては悪い。
    用事も済んだ事だし、失礼しましたと小さく告げて、そろそろと静かに立ち去ろうとしたその時に。

    「──…タキ先輩?」

    弱々しい声。
    あまりに聞き慣れないものだったから、誰だかわからなかった。
    振り返って、呼ばれた先のベッドの上の人物を見て、ますます聞き違いではなかったのかと耳を疑った。
    だってあんな、か細い響き。
    彼女から聞いた事がなかった。

    「…馨?」

    思わず、窺うように聞き返す。
    薄暗くてよく見えないけれど、夕日にぼんやり照らされた馨はいつも通りへらりと、笑った気がした。
    けれどどうも様子が変だ。
    「どうしたの、そんなに具合悪い?」
    少し心配になり、ベッドに近付く。
    馨はベッドから上半身を起こすと、
    「や、何でもないです。ちょっと眠くてベッド借りてただけですから」
    ひらひらと私に向かって手を振った。
    まるで来るなと言われているようで。
    私はそのまま足を止めずにずかずかと歩を進め、馨のベッドの横に立った。

    「何か、元気ない」

    顔を覗き込もうとすると馨は、

    「寝起きだからですよ」

    だからあんまり見ないでください、顔を背けてふざけたように言ったけれどその声には覇気がない。

    「──馨」

    強く、呼ぶ。

    視線が痛かったのだろうか、観念しましたとばかりにゆっくり馨はこちらを向いた。
    「ほんと、何でもないですから」
    アハハと笑う。



    やっぱり、おかしい。



    だっていつもの、へらへらと脳天気な馨の笑い方じゃない。
    一瞬、泣いているように見えたんだ。
    じっと見つめる私の視線に耐えかね、また、困ったようにふにゃりと笑う。
    何だか心がざわついて、思わず、といった感じでつい馨に手が伸びた。
    伸ばしたところでどうしようと思った。
    行き場のない指先に少し躊躇ってから、馨の髪にそっと、遠慮がちに触れてみる。
    馨は驚いたようにわずかに目を見開き、それでも拒みはしなかったから。
    触れた手をそのままに、髪を撫でた。
    優しく、優しく。
    撫で続ける。
    じっと黙って私にされるがままの馨は徐々に俯いてしまい、
    「もしかして触られるの嫌だった?」
    声を掛けようとした瞬間、馨の腕が私の腰に回された。
    そのまま引き寄せられ、彼女は顔を見せまいと、私の腹部に顔を埋めるようにして隠す。
    突然の出来事にくすぐったい!と引き離してやろうかと思ったけれど、わずかに漏れた押し殺した声に、そんな気は失せてしまった。
    またぽんぽんと、頭を撫でてやる。
    馨の髪は、見た目以上に柔らかくてまるで毛並みのいい子猫みたいだ。
    すべてを吐き出してしまえばいいのに、と薄茶色の髪を梳くように指に絡めてぼんやり思った。
    腹部にかかる馨の息遣いが何かを必死に堪えているようで痛々しい。
    女の子にしては背の高い彼女の肩は意外にも華奢で、私の腰にしっかりと回された長い腕は思いの外細かった。
    だから余計に、小さな子供のように見えたのだろうか。

    「大丈夫だよ」

    無責任かな、とも思ったけれど。

    「大丈夫、大丈夫」

    それでも声を掛けずにはいられなかった。
    手が伸びた時と同じように。

    「しばらくこうしてるから」

    肩ならぬ腹を貸すというのが少しばかり格好がつかないな、と苦笑する。
    ぎゅっと、腰に回された腕に力がこもり、

    「…ありがとうございます」

    顔を寄せられたお腹の方からぽつりとくぐもった声がした。
    わしゃわしゃと頭を撫でてそれに応えると、無言で馨を抱きしめた。
    私の小さな体じゃすべてを包み込んではやれないが、温もりぐらいは分けれるだろう。
    今すぐ笑わなくてもいい、せめて楽に呼吸ができるまで。









    彼女は泣かないんじゃなくて、きっと、泣けない人なのだと思う。




引用返信/返信 削除キー/
■18096 / ResNo.15)  こんなはずじゃなかった。─16
□投稿者/ 秋 ちょと常連(61回)-(2007/02/23(Fri) 12:10:34)
    差し出された手に、縋ったのなんか初めてだ。
    その心地良さに戸惑っているなんて言ったら、あなたは笑うだろうか。





    【cry-baby】





    母は、子育てに向いていない人だった。
    奔放で我が儘で、気が向いた時にだけ猫っ可愛がりするような。
    それでもあたしを撫でる手は、抱き締める腕は、いつだって温かくて優しくて。
    ─カオル。
    甘い声で名を呼ばれる度、嬉しくなって飛びついた。

    そんな母と堅く生真面目な父が今まで一緒に居た事が不思議なわけで、あたしが八歳の誕生日を迎える前に、母は出て行った。

    「頭を冷やす為に少し距離を置くだけだよ」
    父は言った。
    「会いに来るからね」
    母は言った。

    その言葉通り、頻繁ではなかったけれど、放課後たまに小学校の前で母が待っていてくれた。
    相変わらずの甘い声であたしを呼び、駆け寄ったあたしの手を包むように握る。そして決まってファミレスでパフェを頼んでくれるのだ。

    今までだって気まぐれにあたしを可愛がっていた母。
    外で会うだけの違いに、それほど戸惑いはなかった。

    高学年になると、「いつお母さんは帰ってくるの?」聞く事はなくなった。
    会う頻度は徐々に減り、電話を掛けても繋がらない事が増えた。
    だから今度はこちらから出向こうと、中学に上がって間もない頃、母の住むマンションに会いに行った。
    制服姿のあたしを見て、何と言うだろう。
    大きくなったわね、と目を細めるだろうか。
    やっぱり可愛い可愛いと、頭を撫でてくれるだろうか。
    期待と、久しぶりに顔を見る緊張感で、どきどきしながらチャイムを鳴らす。

    「はい。どなた?」

    インターホン越しに、母の声。
    馨です会いに来ました、言葉を紡ぐ前に、

    「誰?宅配便か何か?」

    父ではない、男の声。

    あたしは静かにそこから離れた。


    母はもう帰ってこないのだ、と。
    ようやく悟った。
    それでもいつかあたしを迎えに来て、一緒に行こうと手を取ってくれるんじゃないかって、心のどこかで信じていて。
    その日が来るのを密かに待ちわびていたのだ。





    先週、8年もの別居を経て、とうとう両親が離婚を決断した。

    ─今日は早く帰っておいで。

    今朝出掛けに掛けられた父の言葉が頭を掠める。
    不運にも今日は部活が休みだ。
    ホームルームが終わった今、真っ直ぐ家に帰れてしまう。
    次々と教室を後にするクラスメイトの背中を眺めて、机に突っ伏した。
    瞼をひっそりと閉じる。

    ─久しぶりに家族三人で、夕食を食べよう。

    またひとつ浮かんだ言葉に、最後の晩餐ってわけね、独りごちた。

    もう、家族ではなくなるのに。
    思わず反吐が出そうになった。

    望み続けるのは相当な気力がいる。
    だったら最初から期待なんてしない方がいいのだと、理解するのに随分遠回りをしてしまった。
    あたしはこのまま、父と暮らす事になっている。

    がたん、と。
    立ち上がった瞬間、思った以上に大きな音がたった。
    教室に残っていた数人の目がこちらに集中する。
    へらへらと笑ってその場をやり過ごし、廊下に出た。
    ぶらぶらと歩きながら、自分の頬を引っ張る。
    きっとうまく表情を作れていない。
    こうなるだろうとは冷めた頭の中でどこか予想していたし、今更駄々をこねたところでどうなるものでもないとわかっていた。
    けれど素直に家に帰る気は起きない。
    三人揃って食卓を囲めば、あとは家族が終わるまでのカウントダウンの始まりだ。
    なるべく人の居ないところへと思いながら保健室に足を向けた。
    戸の隙間から中を窺うと、どうやらタキ先輩は当番ではないようだ。
    情けない顔を見られなくて済む、とほっとして、室内へと入った。



    奥のベッドに潜り込んだあたしは、枕に顔を埋めてじっと息を潜めていた。
    放課後の音が遠ざかりはじめて、保健委員がそろそろ下校時間だからと声を掛けても狸寝入りを決め込んで。
    「私が帰る頃に起こすから寝かせておけ」と言って放っておいてくれた瑞樹先生に感謝する。
    そっと顔を上げると電気の消された室内は、静けさと落ちる夕陽の色に染め上げられていた。
    寝返りをうって仰向けになる。
    天井の白さもオレンジだ。
    また、目を閉じた。
    瞼の裏に暗闇が広がる。

    ─カオル。

    それなのにどうしてありもしない声ばかりが耳に響いてしまうのだろう。
    あたしの頭を撫でる白い手が浮かんで、喉の辺りが詰まった。
    吐き気すら湧いてくる。
    息苦しくてどうしようもなくて胸をぎゅっと鷲掴んで、あぁ大声で叫んでしまえば少しは楽になれるのだろうかとどうせ出来もしない事を
    考えていると、

    「誰か…いるの?」

    薄暗い保健室に小さく反響した声にはっとする。
    この声は。
    どうして、何で。
    思うより先に声が出てしまった。

    「──…タキ先輩?」

    ぽつりと漏らしてしまってから、瞬時にしまったと舌打ちする。
    何も応えずにやり過ごせば良かった。
    案の定あたしに気付いた先輩は「具合悪い?」と、こちらへやって来る。
    体を起こして何でもないですとへらりと笑ってみせても、納得してはくれなかった。

    早く出て行ってはくれないだろうか。
    こんな顔、一秒だって見られたくないのに。

    不満そうな先輩の視線が痛い。
    それでも何とか体裁を繕って笑ってみせる。

    もう少し、もう少しだけ笑い続けろ。
    アハハと笑いながら心の中で強く思うと。
    不意に先輩の手がこちらへ伸ばされた。
    目の前で一度躊躇して、そしてそっと、あたしの髪に触れる。
    くしゃりと、優しく撫でる温かい手の平。

    あぁ、まずい──…

    鼻の奥がつんとして、気付くとあたしは先輩を抱き寄せて彼女のお腹に顔を埋めていた。
    一瞬体が強張って、けれども腰に回した腕を振り払わない先輩は、優しく、優しく、あたしの頭を撫で続ける。
    「大丈夫だよ」と、まるで子供をあやすように。

    喉がじわりと熱くなって。
    「ありがとうございます」と言ったと同時に埋めた顔が更にお腹と密着して息苦しくなる。
    抱き締められたと気が付くのにさほど時間はかからなかった。


    あの時も、あの時も。
    この人はつくづく放っておけない人なんだなと思う。

    何故こうも当たり前のように現れてくれるのだろう。


    あたしの頭を抱える腕の中でもぞもぞと動いたら、
    「あ、ごめん。苦しかった?」
    少しだけ力が緩められた。
    顔をちょっと上げて先輩を見上げると、
    「ん?どうした?」
    思いの外柔らかい眼差しであたしを見つめ返してくれたから。
    「もう少しだけお願いします」またお腹に顔を寄せると、
    「しょうがないなぁ」
    腕に優しく力が込められて、ふふっと笑う声がくすぐったかった。


    あぁやっぱり、この人は差し出した手を引っ込めない。
    そう思って嬉しくなる。


    お腹から伝わる優しさに眼の奥がじわじわと緩んで、すうっと息を吸い込んだらだいぶ楽に呼吸ができた。




引用返信/返信 削除キー/
■18097 / ResNo.16)  こんなはずじゃなかった。─17
□投稿者/ 秋 ちょと常連(62回)-(2007/02/23(Fri) 12:11:26)
    あひ見ての後の心にくらぶれば
    昔は物を思はざりけり

    (歌意)
    あなたに逢って契った後のこの恋しい心に比べると、以前のあなたへの物思いは、まったく想っていないのと同じことであった。





    【longing girl】





    ─by 権中納言敦忠、と。


    ノートに黒板の文字を書き写し、最後に詠み人の名を記す。
    只今古典の授業の真っ最中。
    担当の国語教師は現在の単元である小倉百人一首が相当お気に入りのようで、一首一首の解説の熱の入り方といったら半端ではない。

    「つまり逢瀬を重ねて情事を終えるごとに想いは募って、その前まで感じてた気持ちなんて比じゃないって事ね。どんどん相手への想いが
    ヒートアップしてるのよ!」

    おいおいヒートアップしてんのはあんただよ、と心の中でツッコミを入れつつ、教科書に視線を落とす。

    ─恋の歌ばっかりだ。

    千年も昔の先人達も、愛だ恋だと右往左往していたのかと思うと少しだけ親近感が湧く。
    人間、いつの時代も思う事は変わらないらしい。
    まだだらだらと講釈を垂れて先へ進む気配がまったくない国語教師を一瞥し、ぱたんと教科書を閉じた。
    そして窓の外へと目を向ける。
    窓際の最後尾、この席は授業中の気分転換にはもってこいのベストポジションだ。

    ─あーいい天気。

    さっぱりとした日本晴れ。
    二月の空は澄んでいて、雲に隠される事なく浮かぶ太陽の光が窓越しに反射して眩しい。
    目を細めながらも真っ青な空をぼんやり眺める時間はなかなか悪くはなかった。
    こんなに天気いいんだから授業抜けたいな、タキ先輩は何してんだろ、ちゃんと勉強してんのかなあの人は、あぁせっかくだからお昼は外
    で食べよう。
    ぼうっと思案して、ふと上から下へと目線を移した。
    眼下に広がるグラウンド。
    この時期の体育は問答無用でマラソンだ、ジャージ姿の軍団がひたすらトラックを走っていた。

    ─あ、タキ先輩。

    同じ格好をしたごちゃごちゃとした集団の中で一際ちんまい人影ひとつ。
    普通なら見分けもつかない人の塊の中、誰か一人を見つけるなんて、あたし自身驚いた。
    「お前の五感は動物並か」と伊佐に言ったら呆れられてしまいそうだ。
    あたしを散々犬と呼ぶ、あの人の声が聞こえたような気がして笑みを堪えるのが大変だった。
    いいですいいです犬でもなんでも。
    偶然目にしただけでこんなにも嬉しいから。

    窓の外をじっと見つめる。
    想いの先はグラウンド。

    この授業の後にもしも会いに行ったらあたしを追い払うのも厭うほどにぐったりしている事だろう。
    容易に想像がついて、また頬が緩んだ。





    あの日の、保健室で。
    一層意識するようになったのは間違いない。


    昨日より、今日。
    今日より、明日。

    日に日に、加速する。





    あぁ、まさしく─

    『昔は物を思はざりけり』

    だ。




引用返信/返信 削除キー/
■18098 / ResNo.17)  こんなはずじゃなかった。─18
□投稿者/ 秋 ちょと常連(63回)-(2007/02/23(Fri) 12:12:18)
    些細な望みさえ諦めようとするあいつの頭を、思い切りぶっ叩いてやろうと思った。





    【指先から世界を】





    昼休みを告げるチャイムが鳴る。
    授業から解放された生徒達が一斉に活気づく中、私も昼練に向かおうと席を立った。
    ふと、最近様子のおかしい窓際の馨に目を向ける。
    授業の終わりに気付いていないのか、未だに机の上に古典の教科書を出しっぱなしのままぼけっと外を眺めている。
    その馨に近付き、
    「授業終わったけど」
    声を掛けた。
    聞いているのかいないのか、心ここにあらずといった感じで「んー…」と気の抜けた返事。
    ふぅ、短く息を吐いて。

    「昼休みだよ」

    「うん」

    「行かないのか」

    「どこに」

    「先輩のとこ」

    「…………」

    そう、このところ様子がおかしいというのは。
    馨が例の先輩に会いに行かないのだ。
    以前は休み時間の度に二年の教室へと出掛けていた。終業のチャイムが鳴ると同時に駆け出す勢いで。
    偶然ばったりと出会えば所構わず引っ付いていたりもしたっけ。
    相手が鬱陶しがるほどに。
    それなのにここ二週間の馨といったら授業を終えても今みたいにぼうっとしている。
    廊下で彼の人の姿を見つけても、挨拶もそこそこに逃げるようにして立ち去ってしまう。
    一体どうしたというのか。

    ちら、と馨の視線の先を追うと、体育を終えたジャージ姿の一群が校舎に戻っていくのが見えた。

    ─なんて顔で見てんだか。

    呆れて思わず溜め息を吐いてしまった。
    きっとあの中に想い人がいるのだろう。
    「いるんだろ」と窓の外を指差したら、「うん」と小さく頷いた。

    それなら行けばいいのに。
    そんな目で見つめるぐらいなら。

    ジャージの集団がすっかり校舎に入ってしまってから、はぁ、と馨にしては珍しく大きく息を吐く。
    私はぺしっと後頭部を叩いた。
    「何すんの」
    抗議の目でこちらを見上げる馨。
    それを無視して、

    「最近会いに行かないじゃん。どうした?」

    じっと、真っ直ぐに馨を見た。
    馨は「あー…」と、困ったように視線を宙へと彷徨わせ、

    「…──何か照れくさくて。自覚したら余計に」

    頬を掻きながら苦笑した。

    「顔見たいし会いに行きたいし抱きつきたいけどさ、本人目の前にすると体が動かなくなんの」

    何かを思い出すようにすっと目を細める。

    「今みたいに見てるだけで心臓ドキドキするんだよ」

    そして、随分と柔らかい顔でふっと笑った。

    「…何を今更」
    呆れたように呟く私に、
    「そう、今更。わかっちゃったんだよなー」
    また笑う。

    「それで?これからどうするの」

    すっかり毒気を抜かれてしまって、やれやれと頭を掻く。

    「馨はどうしたいわけ」

    以前も投げた事がある言葉をもう一度訊いてみた。

    「…笑っててほしい、かな」

    馨は、以前と違う言葉をぼんやりした様子で呟いた。

    「こうやって眺めて、あぁ今日も楽しそう、元気にしてる、って。笑ってるの見れたら嬉しい」

    そんな様子に苛立って、

    「随分控えめな事を望むんだな」

    思わずぶっきらぼうに言ってしまった。
    私の眉間の皺に、馨は少し苦笑する。
    そして視線を足下へと落とした。

    「──近付きすぎるのは怖いんだよ」

    どういう事かと聞き返すよりも先に、

    「期待はしないけど、うっかり勘違いしそうになる」

    誰に向かって言うでもなく、ぽつりと、噛み締めるようにして漏らした。
    まるで自身を戒めているみたいだ。

    「…してもいいだろ」

    低く呟くと、馨は困ったように曖昧に笑ってもう何も答えなかった。



    馨は望まない人間だ。
    元々欲は稀薄な方だけど、中学に入ってからその傾向はますます強くなった気がする。

    もっと我が儘になればいい。
    手を伸ばしたって誰も咎めやしないのに。
    得られるものにも見ない振りをするのだ、こいつは。



    またぼんやりと窓の外を眺めている馨の頭を先程よりも強い力ではたく。

    「痛っ。何だよ、もー」

    唇を尖らせ、私を睨む馨。
    もう一度手を伸ばし、今度はわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。

    「あんたのバカさ加減に呆れてるんだ」

    馨は「何だよそれ」と何か言いたそうにしていたけれど、ぎろりと睨みつけてそれを制す。
    ぐりぐりと撫でる手を弱めずにいると、馨はぷっと可笑しそうに吹き出して、「今日の伊佐、変」ケラケラと笑い出したから。
    「馨よりマシだろ」
    つい口元が緩んでしまって、出かけた言葉はそのまま飲み込む事にした。








    望みなんてのは願いとか祈りとか手が届かないものじゃないって事に、どうしたら気付いてくれるだろうか。
    欲しいと素直に口にするのは憚るようなものじゃないと、どうしたら。

    掴む事はできなくても、指先の一本でも触れるだけで何かが変わるかもしれないのに。




引用返信/返信 削除キー/
■18099 / ResNo.18)  こんなはずじゃなかった。─19
□投稿者/ 秋 ちょと常連(64回)-(2007/02/23(Fri) 12:13:14)
    今までが今までだったから戸惑っているというか調子が狂っているだけの話。
    それ以上の深い理由はないはずだ。





    【ラジカルロジカル】





    かちかち、かちかち。
    シャーペンをノックする音が響く、何とも穏やかな昼下がりの保健室。
    かちり、またシャーペンが鳴って、

    「何をそんなに苛ついているんだ、君は」

    瑞樹先生の声にはっと我に返ると、机の上には既に二本の芯が転がっていた。
    先生に向けて苦笑いを浮かべ、そそくさとそれを拾ってシャーペンに収める。
    当番である今日はやけに暇で、私は腰掛けた椅子の上で足をぶらつかせた。
    ぼんやりと気を抜くと、カチ、またシャーペンの芯が出る音。
    薬品棚の整理を終えた先生はこちらへとやって来て、

    「最近芹澤の姿を見ないね」

    心に引っ掛かっている事をさらりと口にする。
    「それが、何ですか」
    努めて平静に答えたけれど。
    「神谷が当番の日は度々会いに来ていただろう?」
    喧嘩でもしたかい、と笑うので、
    「喧嘩するような仲じゃないです」
    思わず露骨に嫌そうな声が出てしまった。
    先生は「おや」と意外そうな声を上げる。

    「教室や廊下でもべったりだと聞いたがね」

    誰がそんな事を、と思って、あぁここは天下の瑞樹先生の保健室だったと納得する。
    ざっくばらんで面倒見が良い先生の人気は高いから、怪我人や病人だけでなく元気な生徒でさえもお喋りにやって来るのだ。
    だから校内の情報には事欠かない。
    私の考えを察した先生は、
    「芹澤はなかなか有名なようだからね。話はよく聞くよ」
    ゆるりと笑った。

    「…一方的に馨が私の所に来るだけで、いつも一緒にいるわけじゃありません」

    「苛立っているのはそれが原因だと思ったんだが」

    「違いますっ」

    「そうか」

    ふっと笑うこの瑞樹先生には敵わないのだと、いい加減認めるべきなのだろうか。
    何もかも見透かされているみたいだ。


    気にしているわけではない、と思う。
    けれどももやもやとするものは。
    何でだかはわからないけれど、馨の襲撃がここ最近ぱったりと止んだ事。
    授業が終わって休み時間に入っても、背後の気配を警戒したところで抱きつく大型犬はいない。
    登校中や廊下で偶然会った時だって、いつ飛びついてくるかと身構えているとぺこりと頭を下げるだけで呆気なく行ってしまう。
    一体全体何なのだと、首を傾げるばかりである。
    それはともかくようやく穏やかな日常を取り戻したのに、その静けさに物足りなさを感じている自分が嫌だ。
    本来こうあるべきなのだ、目を覚ませと言いたい。
    大体あいつこそなんだ、尻尾を振るのも突然なら見向きもしなくなるのも突然なんて。
    今まで散々振り回しておいて飽きてしまったというのか。
    そうなったらさっさと撤収?冗談じゃない、ふざけんなっ!
    と、また考えてしまっている自分が堪らなく嫌だ。

    「神谷」

    瑞樹先生が苦笑している。
    私の手元を指差すのでその人差し指の示す先を見ると、シャーペンの芯が三分の二ほど出ていた。
    何やってんだろ、自身に呆れながら芯を引っ込めようとして。

    「気になるのなら自分から会いに行ってはどうだ」

    指先に妙な力が入って、ベキッと折れた芯がいずこかへ吹っ飛んだ。

    「顔を出さなくなって寂しいんじゃないか?」

    「そんな事ないです!清々してますよ」

    ふんと鼻を鳴らしてみせると、

    「──神谷がそれでいいのなら私は何も言わないが」

    口の端を上げて笑む先生は、幾分真剣な眼差しを私に向けた。

    「もし誤魔化しているのならやめなさい」

    先生の声はよく通って、耳の奥まで響いていく。

    「気付いた時には思い出になってしまうよ」

    「…どういう意味ですか?」

    「さあ」

    「──…混乱させるだけならやめてください」

    つい責めるような言い方をしてしまって、しまった、と思う。

    「それはすまなかったね」

    けれど先生は、いつもの調子でゆるりと微笑むだけだった。








    きっと。
    この半年間の騒々しさに慣れてしまっているだけで、久しぶりの安息に戸惑っているだけなのだ。




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■18100 / ResNo.19)  こんなはずじゃなかった。─20
□投稿者/ 秋 ちょと常連(65回)-(2007/02/23(Fri) 12:46:28)
    理屈でもない、言葉でもない、咄嗟に取った行動が案外本心だったりするわけで。





    【グランドファンファーレ】





    「私はそれ、わかる気がする」

    保健室から戻ってきて、隣の席の佐保ちゃんに「瑞樹先生の話は難しくてよくわかんないよ」と同意を求めようとしたら、こう返された。


    「意地張ってたら手遅れになるって事じゃない?」

    「手遅れって、何が?」

    「それぐらい自分で考えなさい」

    佐保ちゃんは素っ気なく言い放つ。

    まったく、佐保ちゃんも先生と似たようなもったいぶった物言いをする。
    案外この二人は似た者同士なのかもしれない。

    佐保ちゃんは毛先をいじっていた手を止めて、机に肩肘をつくと私の方に顔を向けた。

    「気になっては、いるんでしょ?」

    「別、に」

    「本当に?」

    じっと真っ直ぐに見つめられ、言葉に詰まる。
    ほら見なさい、と得意げな顔をする佐保ちゃん。
    「原因として思い当たる事はないの?」
    あれだけ蹴ったり頭突きしたり罵声を浴びせたのにめげなかったあの子がこうも突然身を引くなんて何かあったんでしょ、なかなか鋭い事
    を言う。
    私は黙って俯いた。


    原因か、はわからないけれど。
    保健室の一件、あの次の日から馨は私を避けだした。
    不用意な何かをした覚えはない。
    けれど思い当たる事と言ったらその日しかないのだ。
    あんな姿を見せてのこのこ顔を出すのが恥ずかしいのかとも思ったけれど、引っ付き抱きつき蹴られる姿を公衆の面前で晒していた今まで
    の方がよほど恥ずかしい。
    そんなの今更だ。
    それについ抱き締めてしまった私の方こそ、会ったところでどんな顔を見せればいいのかと恥ずかしいというのに。
    今思うとなんて大胆な事をしたのだろうと、己の行動に顔が火照る。


    はぁと溜め息を吐く声が聞こえて。
    顔を上げ、佐保ちゃんの方に視線を向ける。

    「ごちゃごちゃ考えるくらいならこっちから出向けばいいじゃない」

    「何で私が」

    「それが意地張ってるって言ってるの」

    佐保ちゃんは呆れたように私を見た。

    「素直にならないと、本当に手遅れになるわよ」

    「だからそれが意味わかんないってば」

    本当にわかってないのねー、と呆れるを通り越して感嘆の声を上げ、

    「とりあえず本人に会ってみて直接確かめてみたら?」

    淡々とした口調で言う佐保ちゃんに、

    「行かないってば!」

    つい声を荒げて言い返してしまった。
    しん、と場が静まる。
    私が口を開くよりも先に、

    「あっそ」

    だったらもういいわ、と佐保ちゃんはひどく興醒めしたように言い捨てて鞄から文庫本を取り出した。

    あ、落胆させた。
    そう思って何か言い繕おうかと思ったけれども、そもそも私は悪くないじゃん、思い直して一人憤慨する。
    佐保ちゃんにしても瑞樹先生にしても、何で揃いも揃って私をけしかけようとするんだ。

    私はふんと鼻を鳴らして5限の授業の教科書を取り出した。
    授業の始終にさっぱり気付かなかったけれど。




    そして、だ。
    何でこんなところに私が突っ立っているのか。
    自分が不思議でならない。
    知らない内にホームルームまで終わっていて放課後を迎えていた私の午後。
    当番だから保健室に行かなきゃ…、鞄を掴んでぼんやりしながら教室を出たところまでは覚えている。
    問題なのは、今、何故、一年の教室が並ぶ廊下に立っているのか。
    きっと佐保ちゃん達がおかしな事をたくさん言ってきたせいだ。
    そうでなければこんな場所、私には到底関係がない。
    「どうでもいいどうでもいい」と胸の中で何度も繰り返して保健室へと足を向けようとする。
    その廊下の先に、

    ─あ、馨…。

    一年生の階なのだからいる事に不自然な点はないけれど。
    久しぶりに目にした、明るい髪と愛想の良い顔。
    友達だろうか、王子ではない誰かと廊下で立ち話をしている。
    この場でばったり会ってしまってはまるで私から顔を見に来たみたいで、何とも癪だ。
    向こうも取り込み中のようだし、さっさと退散しよう。
    くるりと踵を返──

    ──そうとしたのに。


    何やら楽しげな馨と友達。
    相手のネクタイをよくよく見てみれば学年色は三年生のもの。

    ─上級生のお姉様と仲がよろしいようで。

    思わず皮肉めいた言葉が浮かび、私には関係ないじゃないかと顔をしかめる。
    どんな会話を繰り広げているのか知らないが、相手の言葉に相槌を打って随分とまぁ柔らかく笑む馨。
    相手もそれに気を良くしたのか、馨の薄茶色の髪にそっと手を伸ばした。



    そう、私には関係ないけど。
    何か…むかつく。
    この光景は何だかとっても面白くない。
    思った時には既に私は廊下を駆け出し、一直線に馨へと向かっていた。
    「あ。タキせんぱ──」
    こちらに気付いた馨が声を掛けようとしてきた瞬間、勢いよく踏み切ってそのまま馨に跳び蹴りをする。
    「だっ」見事馨の脇腹に的中し、彼女は短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
    「何すんですかぁ…」
    うっすらと涙すら浮かべ、恨めしげに私を見上げる馨。
    それでも苛つきは治まらず、先程の上級生がしたのとは正反対に、ぐしゃぐしゃと乱暴に馨の髪を掻き乱すように撫でつける。
    目をぱちくりと瞬かせる馨の胸倉を両手で掴んで力いっぱい引き寄せて。
    わ、と声を上げながらバランスを崩した馨が私に向かって倒れ込み、それに巻き込まれる形で私は馨に押し潰された。
    いてて、と頭を掻きながら「だいじょぶですか、先輩」と体を起こす馨。
    同じ目線。
    いつもよりも馨の顔がやけに近い。
    へらり、と。馨が笑ったその瞬間。
    私は彼女の頭に手を掛けて強引にこちらへ引っ張ると、
    「あだっ!もーさっきから何なんですか──」
    不満の声を上げる馨を無視してそのまま唇を重ねた。


    廊下に集まり事の次第を傍観していたギャラリーのどよめき。


    口をぽかんと間抜けに開けて呆然とする馨。






    『私は絶対馨を好きにならないよ』


    いつかの私の言葉が脳裏を過る。






    「──…え?えええ?!」

    かーっと顔を紅潮させて混乱する彼女以上に目を白黒させて困惑しているのは多分私だ。


    そっと、自分の唇をなぞって。







    数秒後、私は彼女にきっとこう呟くだろう。




    ─こんなはずじゃなかった。










    【fin】









    Aki presents the last story.

    I leave this place.

    Thanks to all of everybody who read.




    autumn-color@xxne.jp




完結!
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