| ケイコは、中小企業のOLだ。 ケイコは落ち込んでいた。仕事でミスが 重なり、上司にひどく叱られたのだ。 仕事が終わり、帰りの途についても、 まだ引きずっていた。 改札を出て交差点の前で、信号が変わるのを 待っていた。頭の上からは、電車がやかましく 通り過ぎる音が降ってくる。 この交差点を渡り、500mほど歩くとアパートに着く。 「はぁ〜〜。」と溜息が漏れる。 やがて信号が変わり、歩行者用信号が 急き立てるように鳴り出した。 周りの人たちが、ケイコを残して渡り出す。 なんとなくこのまま帰りたくなかった。 ケイコは踵を返し、駅裏へ歩き出した。 別に呑みに行きたいわけじゃなかった。 女ひとりで、居酒屋に入れるほどの根性はない。 ただ、歩きたかった。でもすぐに後悔した。 呑み屋の多い駅裏は、酔っぱらいも多かった。 女ひとりは珍しいのか、ジロジロ見られた。 いやだなぁ〜。 前から運動部系の学生数人の酔っぱらいが来た。 大きな声で笑ったり話したりしている。 その内のひとりがケイコに気づき、 隣りの仲間になにか喋った。 思わず立ち止まり横道を探したが、なかった。 彼らはあきらかにケイコを見ながら近づいてくる。 逃げるように、すぐ横の木のドアを開けていた。 そこは小さなライブハウスだった。 これから始まるようで、ステージの前には 数人の女の子達がいる。 ネクタイをしたサラリーマン風のおじ様達もいた。 ケイコはソルティードッグを注文して待った。 やがてその人がギターを持って登場した。 おんな?オトコ? 前の女の子達が歓声をあげる。 パラパラと拍手があった。 黒髪に白いメッシュの入ったベリーショートヘアー。 穴の空いたスリムジーンズ、よれたTシャツに革ジャン。 その人はあいさつもせずに、ギターを弾きだした。
いきなり音の洪水がケイコを包む。 すごい‥‥音楽には詳しくないが、 素人目に見ても凄さは感じた。 とてもひとりで弾いているとは思えない。 やがて激しい一曲目が終わり、一転して 静かな曲が始まった。 その時、その人と目が合った。 ケイコの胸の奥でズキッと痛みが走った。 弾きながらも、その人は目を逸らさない。 ケイコも視線を外せなかった。 そしてハスキーヴォイスで歌う。 あっ!‥‥ギターの音とハスキーヴォイスが 素肌に直接しみ込むような感覚があった。 身体の中心が熱を持つのが感じた。 ラブソングだ。 英語なので歌詞は正確には解らないが ケイコはそう感じた。
その人は圧倒的なテクニックで五曲ほど 演奏して、やはり挨拶もなく、さっさと 袖に隠れた。 しばらく呆然としていたが、名前も解らないことに気づいた。 店を出て、表のポスターを確かめると ライブスケジュールが貼りだしてあり、 今日の欄に
『アッシュ』
とだけ書かれている。 「女か男かわかんないじゃない!」 思わずつぶやくと、背後にアルコールの 臭気がした。 いつの間にか、酔っぱらいのおじさん達がいた。 「ねえちゃん、かわいいねぇ。これから 一緒に呑まないかい?」 「ごっ、ごめんなさい。待ち合わせしてるの。」 「また、またぁ〜。‥‥いてっ!」 おじさんを突き飛ばして、『アッシュ』がケイコの前に立った。 「走るよ!」 アッシュはケイコの手を取り、走り出した。 アッシュの手は意外に小さく、 とてもあんな演奏ができるとは思えなかった。 踏切の高架下まで、一気に走った。
ハァ‥‥ハァ‥‥ハァ‥‥ハァ‥‥
荒い息を整えながら、アッシュが言った。 「僕、おんなだよ!」 そして、強引にケイコを抱き寄せ、くちづけた。 「えっ‥‥んん〜。」 首すじにもキスをする。 「あっ‥‥いやっ、やめて!」 思わずケイコはアッシュを突き飛ばしていた。 頭の上を電車が轟音とともに通り過ぎていく。 ケイコは、逃げるように走って帰った。
続く
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