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■5861
/ ResNo.40)
奈落・32
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□投稿者/ 葉
付き人(89回)-(2009/05/16(Sat) 19:04:29)
……貧弱な身体つき、素顔を引き立てる役に立たない、濃いだけの化粧。
それなのに、娘が二人の裸の女を胸に抱き寄せた時、そこにあのひとが顕現した。
……あれを何と表現すればいいのだろう。あのひとを思わせる女優達に同じ場面を演じさせても、幼い頃に受けた感銘は得られない。
修羅場に動じない胆力。あるがままに対象を受け入れる懐の広さ……そうではない。あのひとの所作の一つ一つが鮮烈に記憶に残るのは、容易に言い表せないあのひとだけの資質によるものだ。
私はそれに気付いていたが、他の女を使って何度も再現しようとした。大概は編集段階でカットしたが、一度だけ、キャットファイトを交えた乱交物でリリースした。
私と友里の母親を彷彿とさせる女同士の乱闘を、観客を巻き込んだ乱交に移行させる節目に、あのひとを模したジャッジに女二人を抱擁させて、後日、それを観た友里に殴り飛ばされ、蹴りまくられた。
「―――恥知らずが」
友里が発した言葉はたった一言。
けれども、それで十分だった。
お互いに同じ光景を抱え込み、再現しようと足掻いている。
やれやれ、因果だな……
(携帯)
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■5862
/ ResNo.41)
奈落・33
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■
□投稿者/ 葉
付き人(90回)-(2009/05/16(Sat) 21:09:46)
「……六がいるだろうがよ、あんたには」
恨めしげに環が呟く。
「そっくりじゃねえか、あのひとに―――確かにまだおぼこだが、あと数年もすりゃあまんまあのひとだ。他のを漁る必要なんてねえだろう」
「あんたにとってもそうだろうが」
私はうんざりと言い返す。何のためにわざわざ上京し、二人で六を身請けしたのか。
恐らく、同じものを表現したがっている。そう思わなければ持ち掛けなどしなかった。
さして仲睦まじくもないのにこうして時々上洛するのは六に会うため以外にも、目的があるのは分かっている―――確認するためだ。私が絵を描いているかどうかを。
「あんたなら、今すぐにでも描けるだろ」
事あるごとに環はそう言う。
「親父は元々、あんたの親父さんと同じ正道を学んでた。あたしにはそんな下積みはない―――でも、あんたは違う」
その度に、私は同じ答えを返す。
「無理だ」
環は素養がないと譲らぬが、技術だけなら私と同じ程度に描ける筈だ。むしろ幼い頃は私より、正道をゆく父の画室に固執していた。
技量は後からついてくる。芯のない精緻な絵なら誰でも描けるが、見る者を惹きつける力は別の話だ。
情念、業、激情や諦観……技術以前に必要なものは私より、環にこそ備わっている。AV専門の頃から、私はそう思っていた。
「描きたいんだろ」
互いに、そうは口にはしない。最初から分かっているのだから。
虚飾をかなぐり捨て浅ましいほどの醜態を繰り返す母達の前にひっそりと立ち、修羅の猛りを鎮めるあのひと。見下しもせず媚びへつらいもせず、ただ静謐にそこにいたあのひと。
その姿を思う度に、一枚の絵が脳裏に浮上する。
タイトルは『青女』。庭で昏倒する環の母と放心する私の母の間にあり、そこから忽然と消えた絵だった。
(携帯)
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■5863
/ ResNo.42)
奈落・34
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□投稿者/ 葉
付き人(91回)-(2009/05/16(Sat) 22:33:45)
2009/05/16(Sat) 22:54:39 編集(投稿者)
あの人は淡い色の着物を取り出し、あたしの肩に着せかけた。
「立ってごらん」
言われるままに立ち上がり、帯はないけどきちんとした方がいいのかと思って前を掻き合わせる。
「そのままで」
あの人が短く言い、あたしは両手を下ろす。
さっきの旅館のみたいに安っぽくごわごわした浴衣じゃなくて、滑らかで綺麗な刺繍の入った着物だった。明らかにあたしには不釣り合いなのに、じっと見上げられて冷や汗をかきそうだ。
「まっすぐに前を見て、肩の力を抜いて」
あたしは言われた通りにした。
紙がこすれるかすかな音と、墨の匂い。
ちらりと目だけ動かすと、あの人は広げた画布に屈み込んでいる。
やっぱり絵描きさんなんだ―――あたしはぼんやりとそう思い、あたしなんて綺麗じゃないのにと申し訳ない気分になった。
それでも、あの人が泣いてるのを見るよりずっといい。気のきいた言葉も思いつかないし、何でもすると言ったのだから。
「―――舟の内より齢十八九ばかりなる女房の、まことに優に美しきが、柳の五衣に紅の袴着て、皆紅の扇の日いだしたるを舟のせがいに挟み立て、陸へ向いてぞ招いたる」
細い絵筆を走らせながら、あの人は流れるように口ずさむ。
「平家物語の巻第十一、『那須与一』の冒頭―――最後の戦いを控え、海岸から平家の船団を臨む源義経の軍勢は、船団から一艘の小舟がこちらに向かって漕ぎ出すのに気付く。その小舟の舳先には紅一色の中央に金の日の丸を描いた扇が立てられ、華麗な衣を纏った若く美しい女御が一人、乗っていた」
平家物語には白拍子や女武者、貴種の女御らが登場するけれど、最後の戦いを前に、滅ぼされる平家から滅ぼす源氏に向けて差し向けられる一人の女御には、名前すら与えられていないとあの人は言う。
「……その人を、描くの?」
あたしは尋ねた。それにどんなに大きな意味があるのか分からないけど、きっと大変な事なんだろう。
「描けるなら」
顔を上げずにあの人が答え、すぐに手を止め、迷ったように首を振る。
「そうじゃない、描き切るつもりで……いや、何も考えず……」
そして荒々しく絵筆を脇に投げ、顔を覆った。
また要らぬ事を言ってしまったのかとあたしは焦る。
……どうしてあたしはこうなんだろう。言いたい事は分かっているのに、どうしてそれが言葉にならないんだろう。
しばらく逡巡し、これしか出ないと思った言葉をあたしは口にした。
「描けるよ」
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■5864
/ ResNo.43)
奈落・35
▲
▼
■
□投稿者/ 葉
付き人(92回)-(2009/05/17(Sun) 00:07:35)
『青女』。
最初は私の父の作とされ、後に鑑定家によって環の父の作品と判明した絵だ。
「どこに行っちまったんだろうな、あの絵」
思い出したように環が呟く。
最終的な所有者は描き手の環の父に落ち着いたが、彼はその絵を売らずに封印していた。
「あたしは、あんたを迎えに来た弟子が持ち帰ったと思ってた」
「お袋が持ち出したのさえ知られてなかった。あたしは、あんたの親父さんが拾って持ってると思ってた」
「家にはなかった。遺品の中にも」
真贋論争の後、環の父はともかく私の父を憚った業界人達は画集や記事から『青女』の存在を抹消し、今では当時の記事を検索しなければ見られない。しかしそれすら、不鮮明なコピーでしかない。
「……うちのお袋が持ち出した気持ちは分かる」
それならば私にも分かる。潔癖で気位の高い私の母は、秘画を生業とする環の父を蔑んでいた。その蔑みの対象であり、その妻を罵るネタの絵師が、自分の夫の真骨頂と賞賛される絵を描いたのだ。それは環の母にとって、相手に痛恨の一撃を与え得る武器だったろう。
「……うちのお袋なら、切れる」
夫がどれだけ名声を得ようと、妻が偉くなったわけではあるまいに。
環の母も私の母も大差はない。どちらも愚かで、痛ましい。若い頃は思い出すのも耐え難かったが、それなりに年齢を重ねた今なら多少は分かる。母達にはああいう馴れ合いが必要だったのだ。画業にしか興味がない夫と暮らしていくには。
「殴られるのを承知で言うけどよ」
環にしては珍しく、小さな呟きを聞いた事がある。
「一種のプレイだったんじゃないかな、あれ……誰も止めなきゃ、やっちまってたんじゃないのかな……」
私はその時、聞こえないふりをした。
海の緑青、夕闇の群青、柳襲ねの衣の青と白。
濃淡さまざまな青一色の世界の中で、美しい女御は一人ひっそりと立ちつくす。
その表情から胸の内を窺い知る事は叶わない。一族の滅亡を目前に、その目が何を見ているのかは分からない。しかし、その身は既に深い海の底にいるようだ………
(携帯)
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■5866
/ ResNo.44)
奈落・36
▲
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■
□投稿者/ 葉
付き人(93回)-(2009/05/17(Sun) 14:53:43)
……単に軍記物、叙事詩という分類ではなく、平家物語は浄土思想の教科書だ。
全編に渡って盛者必衰の無常感に彩られ、そこから逃れる先は浄土しかなく、人はそれ故に念仏・仏に縋らざるを得ないのだとかきくどく。
寺社に納められた絵巻物や、漂泊の宗教者が持つ図画などと同じ事。布教の材料として物語を利用するのは古今東西、いつでもどこでも変わらない。
友里が恐らくは私の作品を全部観ているように、再会してから私もずっと友里の作品に目を通している。
表向きの顔と同じく、友里の書くものは過剰な思い入れを感じさせず、端正だ。
どこかで批評されていたのを見たが、小説家と言うより民俗学者のような考察力に優れていると私も思う。まめに地方を回り、伝承や風習を見て、文献を吟味していなければ書けないようなものを書いている。正直、参考になる題材も多い。
でも―――
(疲れねえか、あんた)
我が身を振り返りつつ、そう思う。
知識の羅列と物語を作るのは別の話だが、底の浅くない、容易に元ネタを透けさせない物語を紡ぐにはそれなりの知識の蓄積が要る。
創作には先人の模倣や影響がついて回るが、プライドのある創作者ほど容易にそれを悟らせない。膨大な作品や知識を脳に抱え込み、そこから自分だけの作品を作らなければならない。
それは映像を生業とする私にも同じ事だ。あの大監督と同じカット割り、あの巨匠と同じ構図と言われるようでは駄目なのだ。他人に模倣される時こそ本望、そういうものなのだ。
でもなあ……
お互い、回り道してないか?
面と向かっては言えねえよ、こっちも他人の事は言えないからな。
本当は描けるのに、描きたくないんじゃないのか。
あたしもあんたも。
(携帯)
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■5867
/ ResNo.45)
奈落・37
▲
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□投稿者/ 葉
付き人(94回)-(2009/05/17(Sun) 17:06:46)
「描けるよ」
そう言うあたしを、あの人は抱え込んだ。
「―――だめ」
優しく抱き締められるのは嬉しかったし、額や頬にキスされると気持ち良くて力が抜けそうだけど、今はそういう時じゃないとあたしは思った。
「だって……描きたいんでしょ?」
あの人は答えず、あたしの唇を塞ぐ。軽く吸い上げ、舌を絡められると頭がぼんやりしてきて、視界が霞む。
「だめ―――ねえ、駄目だよ……」
一生懸命訴えるけど、声に力が入らない。あの人は時間をかけて唇であたしのささやかな抵抗を封じ、あたしの背中を支えていない方の手でゆっくりと胸を撫でた。
「……や……っ」
背筋がざわつく。あたしは思わず声を上げたが、自分でもはっきり分かるくらいに甘えた声だった。
あたしの肩から滑り落ちた着物を床に広げ、あの人はそこにあたしを横たえた。
(携帯)
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■5868
/ ResNo.46)
奈落・38
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□投稿者/ 葉
付き人(95回)-(2009/05/17(Sun) 20:13:52)
(……他に、どんな生き方がある)
私を環だと思い込んでいる娘を手荒に抱いた時、自分はこういう人間なのだと痛い程思い知った。
愛する者も愛してくれる者もない。ただ逃れたいものから逃れるためにあのひとの面影に縋りつき、再現できる筈のないものの復活を望んで生きている。
「無くしたものは、全く同じ形では帰って来ない」
元々は、一晩限りの相手を漁る店で眼を飛ばし合ったのが縁だった骨董屋から言われた事がある。
「いくら似ていても別人だ。重ねすぎたら、六が悩む」
自身も何かの埋め合わせに無原罪の娘に手をつけず側に置いている以上はあまり立ち入った事は言わないが、それを無視して環と立ち回りを演じた時には、私と環以上の暴発を向けられた。
「―――盛るなら、よそでやれ」
唸りを上げて飛んできたテーブルの勢いに怯んだ時に、頭上から降ってきた冷たい声を忘れない。
最初は、何を言われたのか分からなかった。
床で環を押さえつけたまま顔を上げると、遠巻きに見守る友人知人の中に、どうしてよいか分からずおろおろと涙ぐんでいる六道が見えた。
我に返り視線を落とすと、恐らく私と同じ表情をしている環と目が合った。
……それまで、考えもしなかった。
(携帯)
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■5869
/ ResNo.47)
奈落・39
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□投稿者/ 葉
付き人(96回)-(2009/05/17(Sun) 21:13:05)
2009/05/17(Sun) 21:26:28 編集(投稿者)
「だめ……」
言葉に意味はなく、ただひとりでに、言葉の形をした喘ぎをあたしは漏らす。
あの人はあたしの首筋に唇を触れたまま、はだけた胸元に手を這わせる。
「……だめ…」
あたたかい手で素肌に触れられると、息が詰まりそうになる。そんなに大きくもなく綺麗な形でもない乳房をあの人の手が包み込み、優しく撫でられると身体の芯がむずむずしてくる。
「あ………」
あの人の身体がせり上がり、耳たぶをそっと噛まれてその後ろを舐められる。あたしはぎゅっと身をすくめ、あの人の背中に腕を回した。
「………」
えっ?
今、あの人が何か言った。
あたしの名前?―――そう言えば、あたし、あの人に名前を言ったっけ…?
あたしが密かにうろたえる間に、あの人はあたしの胸元に顔を寄せていた。
「―――あっ……」
鼻先が乳房に埋まり、あの人の息でくすぐられる。身体をさらに縮める暇もなく片方の乳首に指がかかり、もう片方に唇が当たってあたしは気が変になりかける。
……夕暮れなのかな、窓から差し込む光で部屋全体がオレンジ色だ。それに何だか、風が強いような……
引用返信
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■5870
/ ResNo.48)
奈落・40
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□投稿者/ 葉
付き人(97回)-(2009/05/17(Sun) 22:11:30)
多分、再現できねえよ。
互いに憑かれてるけれど、考えてもみろよお姉様―――親父達やお袋達みたいになりたくないなら、あの連中が創り出したものを再現できる道理がねえ。家族を視界に入れない情の無さ、見栄も外聞もなく取っ組み合える自己中さ、そういうものにどっぷり浸からなきゃ、見えてこないもんなんじゃないかねぇ。
―――お姉様、お姉様……時折、一人の時に何となく、私はそう呟いてみる。
血の繋がりはないけれど、家族と呼べるのは友里くらいだ。六は可愛いが、良しにつけ悪しきにつけ、同じ血を持っていると思えるのは友里しかいない。
ぶん殴られて半殺しの目に遭った時、会社を移った時にまとわりつかれて往生した女優の話をぶちまけてやろうかと思った。
……見る目が無いにも程がある。そいつは薬中で手癖も悪く、私は関わり合いになりたくなくて避け回っていた。そんな女にこんなふうに抱かれたんだと並べ立てられ、私はそいつを殴り飛ばした。そして女が地べたに倒れて大声で泣き出した時、何に激昂したのか分からなくて茫然としたのだ。
……ぶちまけたら、どうなってたかな。
あのお高く止まった骨董屋、あいつが邪魔しなけりゃあ、言ってたかもな。『青女』を突きつけて致命傷を喰らったお袋と、同じ道を辿っていたのかも。
それでも、あの時は口より手足が動くのが早かった……と言うのは、方便か。
―――ああああ、人生最悪の晩だった。
筋金入りのSだと思っていたのに……
(携帯)
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■5871
/ ResNo.49)
奈落・41
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□投稿者/ 葉
付き人(98回)-(2009/05/17(Sun) 22:35:42)
―――なあ、考えた事ないか。
―――何を。
―――描けたら、その後はどうなる?
―――意味が分からん。
―――分からない訳ないだろう。もう、やる事がなくなるんじゃないか? そのためだけに生きてきたなら。
―――六がいる。
―――あたしらがいない方が、幸せかもしれない。あんたもそう思ってる筈だ。
―――描けたら、死ぬのか?
―――どうだろな、怖くはないけど。
―――描けなかったら?
―――最悪の事をするんだよ。生き続ける。
―――死にたいのか?
―――独りじゃ嫌だな
―――何が欲しい?
―――物語かな、生きていくための。
(携帯)
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■No5863に返信(葉さんの記事) > 2009/05/16(Sat) 22:54:39 編集(投稿者) > > あの人は淡い色の着物を取り出し、あたしの肩に着せかけた。 > > > 「立ってごらん」 > 言われるままに立ち上がり、帯はないけどきちんとした方がいいのかと思って前を掻き合わせる。 > 「そのままで」 > あの人が短く言い、あたしは両手を下ろす。 > さっきの旅館のみたいに安っぽくごわごわした浴衣じゃなくて、滑らかで綺麗な刺繍の入った着物だった。明らかにあたしには不釣り合いなのに、じっと見上げられて冷や汗をかきそうだ。 > 「まっすぐに前を見て、肩の力を抜いて」 > あたしは言われた通りにした。 > > > 紙がこすれるかすかな音と、墨の匂い。 > ちらりと目だけ動かすと、あの人は広げた画布に屈み込んでいる。 > やっぱり絵描きさんなんだ―――あたしはぼんやりとそう思い、あたしなんて綺麗じゃないのにと申し訳ない気分になった。 > それでも、あの人が泣いてるのを見るよりずっといい。気のきいた言葉も思いつかないし、何でもすると言ったのだから。 > > > 「―――舟の内より齢十八九ばかりなる女房の、まことに優に美しきが、柳の五衣に紅の袴着て、皆紅の扇の日いだしたるを舟のせがいに挟み立て、陸へ向いてぞ招いたる」 > 細い絵筆を走らせながら、あの人は流れるように口ずさむ。 > 「平家物語の巻第十一、『那須与一』の冒頭―――最後の戦いを控え、海岸から平家の船団を臨む源義経の軍勢は、船団から一艘の小舟がこちらに向かって漕ぎ出すのに気付く。その小舟の舳先には紅一色の中央に金の日の丸を描いた扇が立てられ、華麗な衣を纏った若く美しい女御が一人、乗っていた」 > > > 平家物語には白拍子や女武者、貴種の女御らが登場するけれど、最後の戦いを前に、滅ぼされる平家から滅ぼす源氏に向けて差し向けられる一人の女御には、名前すら与えられていないとあの人は言う。 > > > 「……その人を、描くの?」 > あたしは尋ねた。それにどんなに大きな意味があるのか分からないけど、きっと大変な事なんだろう。 > 「描けるなら」 > 顔を上げずにあの人が答え、すぐに手を止め、迷ったように首を振る。 > 「そうじゃない、描き切るつもりで……いや、何も考えず……」 > そして荒々しく絵筆を脇に投げ、顔を覆った。 > また要らぬ事を言ってしまったのかとあたしは焦る。 > ……どうしてあたしはこうなんだろう。言いたい事は分かっているのに、どうしてそれが言葉にならないんだろう。 > しばらく逡巡し、これしか出ないと思った言葉をあたしは口にした。 > > > 「描けるよ」
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