SMビアンエッセイ♪

HOME HELP 新規作成 新着記事 ツリー表示 スレッド表示 トピック表示 発言ランク ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■5993 / inTopicNo.21)  NO TITLE
  
□投稿者/ 葉 ファミリー(162回)-(2009/06/23(Tue) 22:53:54)
    すみません…

    何か、うまいこといかんなあと思いつつ書いてます。

    ちょっと不調…
    o(_ _*)o

    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■5994 / inTopicNo.22)  愛琳の家・18
□投稿者/ 葉 ファミリー(163回)-(2009/06/23(Tue) 23:40:17)
    空いた時間に、私は刺繍を教えてほしいと申し出た。
    自分でも理由の分からない思いつきだったが、夫人は二つ返事で引き受けた。
    「時間を忘れて無心になれるし、楽しいものよ」
    仕事柄、刺し子やお手玉、小物類を縫うくらいの下地はあったが、絵柄のための縫い物はした事がなかった。
    過度にすり寄る気持ちはなかったが、何かが分かるような気がした―――色とりどりの唐草模様や蓮の花、鳳凰の刺繍の向こうにあるものが。


    時折、夫人は指を動かしながら、中国語の歌を口ずさんだ。

    ――霧の深い白露
    新しいお握りをどの家でも味わう
    少女は可哀想
    髪は三つ編み
    まだ汚れていない はじめての弓型の靴……

    意味を問うと、夫人は小脚姑娘(シャオヂャオクーニャン)に祈る民謡だと答えた。
    「女の子が纏足を始めるのは大人になるための大切な儀式で、一大イベントだったの―――白露とは霜が下りそうな秋の頃、足が汗ばまない季節の吉日に、女たちは家のかまどにお赤飯のお握りをお供えして、幼い娘の纏足がうまくいくように、小脚姑娘という女神様にお祈りしたのよ」


    台所のかまどに供え物をするのは、家―――女の世界の中心だから、と夫人は言った。
    「未婚のうちは父に従い、嫁せば夫に従うというのが美徳だったのは日本も大陸も同じだけど、あちらの女性には財産権や、交渉事で夫の代理を務める権利もあった。一番の権力者は姑と言うくらい、家の中では女が強かったのよ」
    自分が育った地方都市でもそうだった、と夫人は言った。

    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■5995 / inTopicNo.23)  愛琳の家・19
□投稿者/ 葉 ファミリー(164回)-(2009/06/24(Wed) 00:44:48)
    「呉蓉芳(ウーロンファン)。それが、私のあちらでの名前」
    夫人はテーブルに指で書いた。
    「あちらの慣習でね、仲の良い親同士が互いの子供にもうひとつの名前をつけるの。戸籍とは別の通り名よ」
    「じゃあ呉さんという方が、お父様の友人ですか」
    「そう。呉小徳(ウーシァオトー)と言ってね、抗日運動の最中でも、家族ぐるみの付き合いをして下さったわ」
    その妻の名が楊柳(ヤンリウ)、娘の名が胡蝶(フーティエ)……と、唄うような響きが続いた。
    「私が物心つく頃にお姑さんは亡くなったけど、みんな纏足をしていたわ―――私は胡蝶が纏足を始めるまでは、大陸の女の人は皆、最初から小さな足なんだと思ってた」
    無理もないわね、と夫人は小さく肩をすくめた。
    「纏足の女性はね、長い布で素足を巻いて、夫にさえ裸の足は見せないの……艶本だとそれが殿方の好き心を煽るんだけど、女にとって素足を晒すのは最大の恥辱。だからそれがどんなものか知った時は、ショックだったわ」


    ……厳粛な儀式、供え物の前に跪き祈る女達、縫い上げられたばかりの小さな赤い靴。台の上に載せられた、柔らかく小さな白い足。
    「私は、面白くなかったわ」
    夫人は呟いた。
    「理解できる年齢じゃなかった。それまでは玩具も服も分け合っていたのに、なんで胡蝶だけがお姫様みたいに特別扱いされてるのかって……いくら親しくても、民族の枠は越えられないのにね」
    でも、やがて、胡蝶は明らかに憔悴し始めた。
    「足を緊縛する事による弊害が出てきたの……きつく折り曲げ束ねられた足の裏が膿み、腐臭が漂うようになった。足に巻く布を毎日取り替えて薬を塗り、乾燥させるための粉をはたくんだけど、やはり人体に有害な事に変わりはないのよ」
    女神、時には観音菩薩に祈るのは纏足が美しく仕上がるためだけではない。安全に仕上がるためでもあると夫人は言う。
    「強すぎる緊縛は血流を止めて、壊死を引き起こす事もあるの……そうなるともう、膿むだけでは済まない。腐り始めるわ」


    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■5996 / inTopicNo.24)  愛琳の家・20
□投稿者/ 葉 ファミリー(165回)-(2009/06/24(Wed) 02:09:44)
    ……人間が、生きながら腐乱する臭い。
    私はそれを知っている。重度の褥創(床ずれ)や、糖尿病などの疾患によって壊死を起こした患部の臭いだ。それはどこか甘く、排泄物や吐物などとは比べ物にならないほど耐え難い。


    「胡蝶のお母さんもお祖母さんも無事に足を完成させたのに、胡蝶は不運だった……悪い菌が入ったと聞いたわ。彼女は眠れず、食べられず、みるみるうちに別人になった。獣みたいに叫び続けるか、ヒステリックに家族を罵るかしかしなくなった」
    「それで……?」
    恐る恐る、私は尋ねた。
    夫人は手元の布に目を落とし、淡々と呟いた。
    「いろんなお医者にかかった後で、お父さんが手に入れてきた薬で楽になったわ……でも、一日中ぼんやりして、起き上がれなくなった―――阿片よ」
    私は目をそむけた。
    癌で他界した父の最期の頃、モルヒネを投与していた頃を思い出したのだ。
    「纏足を始めたのが七歳……胡蝶は、十歳にはならなかった」
    夫人の声は続いていた。
    「……私の父がね、日本人社会のつてを辿って売人を探したの―――阿片は既に闇で売買される時代だったし、あちらの売人の扱うものは粗悪品が多かったから」
    生家を出て、北京の寄宿学校に入ったのはそれから間もなくの事だと夫人は言った。


    「家を出る日、胡蝶のお母さんから靴を貰ったわ」
    夫人が呟いた。
    「願掛け靴と言って、纏足靴をさらに小さくしたミニチュアで、それを祭壇に祀ったりするんだけど……装飾の刺繍の他に、文字が縫い取られてたわ」

    『我所願 爾欲安然』

    一文字ずつ、夫人は諳んじてみせた。
    「あなたの平穏を祈るという意味……価値観や慣習は違うけど、野蛮だと思った事はなかった。その靴も大事にしてたけど、終戦後のどさくさで無くしてしまったわ」


    今持っている靴は、自分で縫ったものばかりだと夫人は言った。


    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■5997 / inTopicNo.25)  愛琳の家・21
□投稿者/ 葉 ファミリー(166回)-(2009/06/24(Wed) 22:05:24)
    その夜、私は夢を見た。

    夢の中でも、花の香りの中にいた……むせ返るような華やかな薔薇、濃密なクチナシ、淫蕩な百合。そしてそれらが開ききり、色あせる間際に放つ甘い腐臭。


    目の前に細かい彫刻を施された唐風の寝台と、幾重にもそれを覆う薄絹の天幕がある。
    私はそれに手をかけ、一枚ずつめくり始めた。視線の隅に鳳凰をかたどった青銅の燭台と、細い煙をあげる香炉があった。
    気が遠くなるほどの薄絹の帳を掻き分けて、私は立ちすくむ。


    「お客様、ようこそ」
    寝台の上に少女がいた―――まだ十代の初めくらいなのに、その身は豪奢に飾り立てられている。
    金糸や銀糸、鮮やかな色彩で縫い取られた襟元や肩掛けから流れるような薄絹の衣をまとい、その上には翡翠や珊瑚、瑪瑙の玉を連ねた首飾りが幾重にも垂れている。髪は古風に結い上げられて大輪の白牡丹を一輪あしらい、そこからも珊瑚玉が肩まで垂れる……見覚えのある髪飾りだった。


    寝台にしどけなく横座りになった少女を見下ろし、私は息を飲む……この娘には会った事がある。でも、それがいつ、どこでだったのかが思い出せない。


    目尻に紅を履いた大きな瞳は濡れたような光を宿し、唇は媚びをたたえて微かに開いている……肌の色は白磁のようで、寝台に投げ出された指の先に至るまで滑らかだ。


    少女は、私に向かって手を差し伸べた。
    「……胡蝶?」
    私はぼんやりと呟いた。
    視線を寝台に走らせ、細い指先が薄絹の裾をつまみ上げるのに目を凝らした。
    紅い靴が姿を表した―――すんなりした弓型の小さな靴……花嫁の履く纏足靴と分かった瞬間、私は反射的に身を引いた。


    少女はゆっくりと靴を脱ぎ、脇に押しやった。
    淡い紅色の、包帯のような布でぐるぐる巻きになった足が目の前にあった。少女は物言いたげな瞳で私を見上げ、身を屈めて足に触れ、布を解きにかかった。


    「だめ……」
    私は首を振り、不自然な形状の小さな足から目をそむけた。
    不意に、腐臭を強く感じる―――女なら誰でも知っている、長時間ストッキングを履き続けた時の……いや、それよりもっと濃い、明らかな腐敗臭。それを誤魔化すために擦り込まれた香料入りの軟膏や、粉薬と混じってさらに複雑になった腐臭―――芳香?……


    少女が私の手を取った。
    驚くほどしなやかで柔らかい手が私の手を彼女に導き、足の裏に触れさせた。
    私はぞくりと身体を震わせ顔を上げ、私を見つめている少女と視線を合わせた。

    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■5998 / inTopicNo.26)  愛琳の家・22
□投稿者/ 葉 ファミリー(167回)-(2009/06/24(Wed) 22:32:35)
    おぞましかった。
    だが、手を引く事ができなかった。


    「愛琳……?」
    震える声で、私は呟く。
    少女はにっこりと微笑むと、あらわになった両足で、私の手を包み込んだ。



    翌朝、私は全身汗まみれで目を覚ました。
    体中がだるくて重く、眠った気がしなかった。
    夢と呼ぶには生々しく、細部まではっきりしすぎていた。
    (―――こんなものを読んだせいだわ)
    枕元の『金瓶梅』に手を伸ばし、ベッドサイドの机に放り投げる……美女の纏足を純粋に性具とみなす、中国古典の艶本を読みながら眠ったのが悪かった―――今日は一日中フルで訪問先を回らねばならないからと、早めに床についたのに。


    手早く身支度を済ませて訪問先に出向く時間を確認し、仕事用の鞄を引き寄せた時に、おや?と思った。
    鞄のファスナーが途中で引っかかる。何かを挟んでいるようだ。
    「――――え?」
    ファスナーのつかえを直し、鞄から取り出した物を一瞥した私は息を飲み、手にしたそれを投げ出した。


    包帯の切れ端のようなもの―――淡い紅色の布が、床の上にとぐろを巻いていた。


    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■5999 / inTopicNo.27)  愛琳の家・23
□投稿者/ 葉 ファミリー(168回)-(2009/06/26(Fri) 01:17:26)
    「……ですから、その方はうちのヘルパーさんじゃないんです」
    午前中の訪問を終えて事業所に戻ると、窓口で何やら揉めていた。
    「何度も申し上げたように、別の事業所の方がお辞めになった理由は、こちらでは伺っておりませんし―――」
    中年の男性を相手に、いつもは饒舌な主任が苦りきった声をあげている。その横を通り過ぎる時、主任が私に気付き、袖を捉えた。
    「ちょうど良かった……ねえ坂下さん、槙原さんのお宅には、奥様以外には誰も住んでないわよね?」
    「えっ?」
    不意の質問に私はたじろぎ、窓口から身を乗り出している男性に睨まれて当惑した―――やけに攻撃的な、険のある眼差しだった。
    「家内のいた社協からは、こっちで聞けと言われたんだ」
    かなり長い間、主任と押し問答をしていたらしい。痩せて神経質そうな男性は私に向き直り、苛立たしげな声で言った。
    「家内が辞めていたなんて聞いてない。山のお屋敷の婆さんと、その家族の専属になったと言ってた―――その家内が帰って来なくなったなら、勤め先に聞くしかないだろうが」
    「……家族……?」
    私はぼんやり問い返し、助けを求めるような主任の視線と、遠巻きにこちらを見ている職員の視線を意識した。
    「家族と言われても……飼い犬なら、確かにいますが……」
    「犬と人間の区別くらいつく。あんた、馬鹿にしてるのか」
    男性はカウンターを叩いて声を荒げた。
    それからしばらく、男性は『山のお屋敷』の住所を教えろとしつこく粘った。ようやく所長が出てきて私は解放され、後でまた呼び出された。


    「旦那さんに内緒で辞めてたみたいね」
    主任は疲れた表情で呟いた。
    「社協にも聞いてみたけど、何も知らないの一点張りよ……まあそうよねぇ、自己都合で辞めた人の行き先なんて、知ってるわけないわ」
    「槙原さんのお宅に行ってたヘルパーさん……ですか」
    主任は頷いた。
    「あちらで一番長い人だったみたいね……でも、仕事はできても夫婦仲は分かったもんじゃないわね。旦那がああして聞き回らなきゃならないなんて」
    ……私はひそかに迷っていた。騒ぎの最中に思い出した事、あの髪飾りを持ち帰った日に槙原夫人宅に来客があった事を言うべきなのか。
    (あの人は、同業者だった……)
    さっきの男性と年格好も近く、夫婦と言われても違和感はない。私は逡巡したが、主任にそれを話した。


    「……もし、それがさっきの人の奥さんだとしても……」


    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6000 / inTopicNo.28)  愛琳の家・24
□投稿者/ 葉 ファミリー(169回)-(2009/06/26(Fri) 01:48:05)
    主任は、聞きたくなかったという表情を隠さなかった。
    「それをそのまま伝える訳にはいかないわね。ヘルパーを辞めて、個人同士の関係になったんなら尚更よ」
    ……それは確かにそうだった。今はそれだけ、個人情報の扱いは厳しい。
    「そう言えば……」
    主任はふと口調を変えて、私を見つめた。
    「あなた、槙原さんにとても気に入られてるようだけど……知ってる? 槙原さんがうちの所長に、ヘルパーを後見人に申請できるか尋ねたことを」
    「―――え?」
    私は目を見張った。
    成年後見人制度というものがある―――認知症などで財産管理ができなくなった人の代わりに第三者にそれらの権利を託す制度で、早くから指名しておく事もできる。手続きは裁判所で行うもので、実質的な相続人だ。
    「知りません―――槙原さんからも、何も聞いてません」
    「あなたは職分をわきまえた人だから、変な心配はしていないけど……」
    主任は力を込めた声で、諭すように言った。
    「そんな話が出ても乗らないでね―――事業所にとって、決して名誉な話じゃないから」


    「……分かっています」
    私は悄然と肩を落とし、自分の席に戻った。
    夫人の考えている事が分からない。
    裕福な高齢者がヘルパーに過分なお礼をする事はよくあるし、実際、夫人はあの高価そうな髪飾りを私に与えようとした―――だが、それとは質が違う。


    結局はその日は一日中不調で、ただでさえ拭えない疲労感が倍になっただけだった。

    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6004 / inTopicNo.29)  愛琳の家・25
□投稿者/ 葉 ファミリー(170回)-(2009/06/27(Sat) 23:07:21)
    2009/06/28(Sun) 16:14:35 編集(投稿者)

    「―――あ」
    私の呟きに、絨毯でまどろんでいた瑞雪と雪亮が顔を上げる。


    縫い針に細く血が伝う。私は手にしていた絹の布を慌てて遠ざけ、仕上がりかけていた白蓮の刺繍を汚さないようにした。
    「まあ―――大丈夫?」
    向かい側で針を運んでいた夫人が立ち上がり、手を伸ばす。
    「大丈夫です」
    私はハンカチで血を拭い、笑顔を作った。
    「消毒をしなきゃだめよ。小さな傷でも、命取りになる事はあるんだから」
    夫人が救急箱を取ってくるまでの短い間、私は振り返って窓を見つめた。
    (まだ、いる……)
    その日の初めから、屋敷の外には烏がいた。
    山の中だし、野鳥がいてもおかしくはない……でも、時間が経つにつれて増えている。今は十羽くらいだろうか、しきりに鳴き声がする。
    「あまり根を詰めてもよくないわ。今日はもう、このくらいにしましょうね」
    指先にバンドエイドを巻く私に夫人はそう言い、窓をちらりと見て呟いた。
    「―――烏鳴きのする日だこと。お迎えが近いのかしらね」
    そして居間の片隅の蓄音機―――使えるとは思わなかった―――に歩み寄り、レコードを選んで針を落とした。


    絹を裂くように高い、細い歌声が流れ出した。
    「李香蘭―――?」
    「あちらの読み方では、リーシャンランね」
    夫人は振り返り、微笑んだ。
    「私と同じ年齢だけど、今なお凛然としていらっしゃるわ……娘時分には、ずいぶん憧れたものよ」
    満映の花形女優でなく、日本の国会議員としてしか私は知らない。
    「ご存知でした? 彼女が日本人だとは……」
    「とんでもない」
    夫人は笑顔で首を振る。
    「当時大陸にいた日本人も、大方はあの方が中国人だと思っていたわ―――私もあちら生まれで大陸に親しんで育ったけど、あの方ほど完璧ではなかった。大陸の麗人(リーレン:美人)とは、まさにあの方の事だと思っていたの」

引用返信/返信 削除キー/
■6005 / inTopicNo.30)  愛琳の家・26
□投稿者/ 葉 ファミリー(171回)-(2009/06/28(Sun) 00:30:09)
    麗人―――と言った夫人は何かを思い出したように首を傾げ、蓄音機の傍らの箪笥に置かれた写真立てを手に取った。
    私は少し身を固くした。
    愛琳という少女……何故だか、意識してこの写真を見ないようにしていたのだ。
    夫人は写真立てを裏返し、写真を外した―――そこには愛琳だけでなく、もう一枚の写真が入っていた。


    私はそれに見入った。
    表にあった愛琳の写真は、この二枚目を引き伸ばしたものだとすぐに分かった……マスタープリントとおぼしきこの一枚には、もう一人の人物が写っている。
    愛琳が古風な衣装で飾り立てられているのに反し、もう一人は洋装の東洋女性だ……ゆるく巻いた髪を肩まで垂らし、腕や肩を露出した、身体のラインを強調するイブニングドレスを優雅に着こなしている。
    「この人も女優さん……ですか?」
    目鼻立ちのはっきりした妖艶な美貌の持ち主を見て、私は尋ねずにはいられなかった。
    「いいえ」
    夫人は首を振った。
    「その人は実業家よ―――劉燕華(リュウイェンホア)と言ってね、上海でお世話になった方」
    「婦人運動の?」
    問いかけながら、私の目は写真の人物の足に釘付けになっていた。


    劉燕華という女性はハイヒールの足元を強調するかのようにドレスの裾を僅かに持ち上げ、もう一方の手を肩に置かれた愛琳の足先は―――纏足靴だった。
    「……そうね」
    夫人の声が、自分の質問に答えたものだと分かるまでに数刻かかった。
    「いろんな意味で、私の見識を広げてくれた人だわ。燕華は……」
    夫人の口調はどこか含みのあるものだったが、私は別の事で混乱していて気付かなかった。


    私が夢で見たのも、纏足をした愛琳だった。
    夫人は以前、愛琳を清朝の末裔だと言った。
    だが清朝は満州族の王朝で、纏足をする慣習はない……


    窓の外でけたたましく烏が騒ぎ、羽ばたく音が響いていた。


    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6007 / inTopicNo.31)  愛琳の家・27
□投稿者/ 葉 ファミリー(172回)-(2009/06/28(Sun) 17:24:52)
    「満映のスターだった李香蘭も、私も中国名を使って過ごしていたけれど……」
    夫人は再び椅子に座り、テーブルに肘をついて両手を組み合わせた。
    「燕華は逆に、日本名を使ってたわ―――お商売のためとはいえ、当時の中国では勇気のいる事よ。日本人は東洋鬼子(ドンヤングェイズ)と呼ばれ、英国人や仏国人と同様に憎まれていたから」
    「……国民が満州国を認めていなかったのは知っています」
    夫人は笑った。
    「あちらの人は、今でも満州国でなく『偽満州国』と呼ぶわ。夢を見たのは日本だけ―――ああ」
    ふと思い出したように、夫人はぽんと手を叩いた。
    「燕華の店で、一度だけ満州国の立役者を見かけたわ……ご存知? 満映の理事長だった方」
    私にもその程度の知識はあった―――映画『ラストエンペラー』にも出てくる、元憲兵大尉・甘粕正彦。日本で関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者とその内縁の妻、甥の少年を虐殺したと言われる人物だ。


    「ちらりとお見かけしただけだけど、瀟洒で端正な方だったわ―――当時、上海租界では日本の軍人はマナーが悪くて、英仏人からはとても評判が悪かったの。燕華の店でもそうだったけど、稀にあの方みたいな空気を持つ日本人がいた……軍人でなく商人とか、ちょっと素性の掴めない人達ね」
    廃帝だった宣統帝を擁して満州国を打ち立てた日本人や、数々の租界地で権力を振るった西洋人。当時の上海租界は魑魅魍魎の渦巻く別天地だったと聞く……そんな魔都で、夫人は何をしていたのだろうと私は訝しむ。



    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6010 / inTopicNo.32)  愛琳の家・28
□投稿者/ 葉 ファミリー(173回)-(2009/06/28(Sun) 18:24:26)
    「社会勉強よ」
    明快に、夫人は言った。
    「北京の寄宿学校を出て、親戚のつてを辿って上海に出たの。家族は反対したけれど」
    抗日運動の激化に伴い、夫人の家族は住み慣れた撫順を離れ、北京の知人宅の離れを借りていた。
    「一人でも少ない方が借家暮らしは楽だろうし、私が働けば仕送りもできるから―――と言うのは建て前で」
    自由が欲しかった、と夫人は笑った。
    「規則でがんじがらめの学校を出たばかりで、自由に飢えてたの。日系の小さな貿易会社で、事務員の職を見つけたわ」
    そこに勤めるうちに先輩に誘われ、貧民街での慈善活動や困窮している女性の支援活動を知ったと夫人は語った。


    「そういう活動は軍部からも奨励されたわ。今にして思えば宣撫の一環でしょうけど」
    言葉尻に、夫人は皮肉を滲ませた。
    「退廃した中国人に救済の手を差し伸べる大和撫子と新聞に載った事もあるらしいけど、上海の日本人社会では冷淡な扱いだったわ―――お定まりの炊き出しや慰問、路傍に倒れてる阿片中毒者の世話をしてもキリがないって……確かに、当時の上海を形成してたのは弱肉強食の論理だった」
    今の日本でも似たようなものだと私は思った―――日本の福祉制度はちぐはぐで、歴史も浅い。そもそもが共同体から弱者を遠ざける措置制度から発し、そこから脱しきれていない。また、関係機関にコネがあれば良質なサービスを受けやすいという現実も純然と存在する。美辞麗句を連ねた建て前との落差は深いままだ……


    「"―――どのような世界が作られようと、この世は屠殺場と厨房と食卓の混沌"」
    淡々とした口調で夫人は言った。
    「劉燕華の言葉よ。彼女は慈善活動や婦人運動の出資者の一人だったけど、そういった活動の本質を見抜いていた。あくまでも事業の一環で、聞こえのよい投資先に出資していただけだった」


    「そういう事は……」
    私は口を開きかけ、夫人の目を見て言葉を飲み込んだ。
    言う必要もない事だ。
    そういう事は、今でもある。


    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6011 / inTopicNo.33)  愛琳の家・29
□投稿者/ 葉 ファミリー(174回)-(2009/06/28(Sun) 21:47:38)
    帰り際、いつもは玄関まで見送る夫人が珍しく居間で別れを告げた。
    「話し疲れたみたいだわ―――申し訳ないけど、少し横になるわね」
    見れば確かに少しばかり、目の下の影が濃い。
    「すみませんでした……ゆっくりお休みください」
    つい忘れがちだが、もう90歳近いお年寄りなのだ。私は少し恐縮して身じまいを整え、居間を出ようとした。


    「結子さん」
    背中に声がかかった。
    「もうお聞きかもしれないけど……私が死んだら、この家に住んで下さらない?」
    私は振り返った。
    夫人はテーブルから離れてソファに身を沈め、静かに天井を仰いでいた。
    「……いずれ家庭を持って家に納まる。あなたは、そういう事は考えていないでしょう?」
    私は、返す言葉を持たなかった。
    「私もそうだったから分かるのよ」
    夫人は淡々と呟いた。
    「私は結婚はしたけれど、妻になり家庭を持ったという実感はなかったわ―――夫は良い人だったけど、それだけの事だった」
    こんな声は初めて聞く。暗く、鬱々とした、深い穴の底から響いてくるような声だった。


    「何をして欲しいとも言わないわ」
    夫人は私を見ていなかった。それでも、声には私を逃すまいとする意志が籠もっていた。
    「家も、何もかも、処分してくれて構わないわ。ただ私が死んだ後、むなしく廃墟になるのが忍びないだけ……おかしな話かしら?」
    私はしばらく立ちすくんだ。
    もし切り出されても断るつもりでいたし、今この時もそうするつもりだった。
    だが、何故だか即答する気になれなかった。理性に靄がかかったような、どこか他人事のような感覚が私を包んでいた。


    「急ぎはしないわ、考えておいてね」
    そんな私の様子をよく理解していると言いたげに、夫人は口調を和らげた。
    「……失礼します」
    私は一礼し、居間を出た。

    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6012 / inTopicNo.34)  愛琳の家・30
□投稿者/ 葉 ファミリー(175回)-(2009/06/28(Sun) 22:19:29)
    玄関を出て、私はぼんやりと辺りを見回した。
    季節柄、薔薇の花は半減したが、それまで目立たなかった生け垣の白い花―――クチナシの花が徐々に増えてきた。一輪でも香気の強いクチナシの花群にめまいを覚え、私は足元がふらついた。


    (……まだ、烏がいる)
    耳触りな鳴き声、羽ばたく音のする方向に目を向ける。薔薇園の片隅、剪定した枝や刈り取った雑草を集めた場所に、数羽の烏が集まっている。
    (モグラかイタチ……小動物でも死んでいるのかしら)
    何となくそちらに歩み寄ろうとした時、私の足元に何かが降った。


    反射的に、私は振り返って上を見上げた。
    二階に続く階段の踊り場に嵌め込まれた窓に、二つの小さな手の平がはっきり見えた。
    「え…………?」
    ぼんやりと濁っていた思考力が停止した。私はその場に凍りつき、強く首を振って目を凝らした。


    手の平は、もう見えなかった。
    私はしばらく呆然と窓を見上げ、それからゆっくりと足元を見下ろした。
    (……まただわ)
    つい先日鞄から出てきたのと同じ、淡い紅色の布の切れ端が落ちていた。私は屈み込んでそれを手に取り、小さく息を吸い込んだ。


    『救命阿』(たすけて)


    たどたどしい、鉛筆の走り書きが目に焼き付いた。



    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6013 / inTopicNo.35)  NO TITLE
□投稿者/ ゆうあ 一般人(1回)-(2009/06/29(Mon) 00:23:18)
    いつも読ませてもらってます
    文章が綺麗で引き込まれます
    これからも読ませてもらいます^^

    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6014 / inTopicNo.36)  愛琳の家・31
□投稿者/ 葉 ファミリー(176回)-(2009/06/29(Mon) 01:09:13)
    アパートに戻った私は鞄を投げ出してベッドに倒れ込み、そのまま泥のように眠りに落ちた。


    ―――頭の隅で、これは普通ではないと分かっていた。たとえ雨でも髪や体に染み付いた花の香りをを飛ばすために車の窓を開けて帰るのに、まとわりつく甘い香りは全く薄れない。
    しかも、それならば頭痛に悩まされるはずなのに、私を捉えているのは脱力感だった……けだるく、熱に浮かされたようで、ふわふわする。体質に合わない鎮痛剤に酔っているみたいだ。
    閉じたまぶたの裏には様々な色彩がちらつき、時間が経つにつれて薄くぼやけ、闇に溶けた。


    ……哄笑が聞こえる。
    女の声。ひどく楽しそうな、残酷な響きの笑い声だ。
    (お気に召して? 貴女を侮辱した軍人さんをお招きしたのよ)
    (やめて―――)
    二人の女の会話が聞こえる。片方は明らかに狼狽し、取り乱している。
    (酷すぎるわ。私がいつ、こんな事をお願いしたの?……早く止めさせて、あの子にあんな事をさせないで)
    あの子?―――私は耳だけを働かせる世界に意識を集中させる。二人の女だけでなく、まだ誰かがそこにいるのか。


    (心配してるのはあの子の事?……ならば尚更、お気になさらず。これはね、あの子がいつもやってる仕事だもの)
    (そんな………)
    取り乱す女の声から力が抜け、もう一人の声はさらに艶やかに、凄みを帯びた。
    (面白いでしょう? 三級国民、蛮族と見下す民族の房事に我を忘れてのめり込む帝国軍人の図―――今は阿片で理性が効かないだけだけど、素に戻ったらどうするかしらね?)
    (そんなの―――生きていられないわ)
    (これ位で生きてられないなら、生きてなくてもいいんじゃない?)
    再び哄笑―――芯から楽しそうな声だった。
    (逝くのなら、今そこでお逝きなさいな、兵隊さん―――無理に戦場で逝かなくたって、極上の足淫の最中に逝く方が幸福というものよ)
    (やめさせて! 口から泡が―――ああ……)


    声が途切れた。
    視界というものがない闇の中を私は漂い、やがて、一言だけ聞き取った。


    (ご褒美をあげましょうね、愛琳)



    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6015 / inTopicNo.37)  NO TITLE
□投稿者/ 葉 ファミリー(177回)-(2009/06/29(Mon) 09:29:42)
    ありがとうございます。
    なかなか上手く書けませんが、読んで頂けるだけでも嬉しいですm(u_u)m

    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6017 / inTopicNo.38)  愛琳の家・32
□投稿者/ 葉 ファミリー(178回)-(2009/06/30(Tue) 01:54:03)
    2009/06/30(Tue) 01:59:00 編集(投稿者)

    眠りは深かったが、どこかで醒めていた。
    全身の力が抜けて意識だけが働く中で、私はそれまでに集めた知識をたぐり寄せる……夫人が生まれたのは1920年。満州国建国より11年早く、その滅亡―――日本の敗戦時には25歳……


    (日本人・満州族・漢族・蒙古族・朝鮮族―――五族協和の王道楽土、民族自決の理念から成る我らの理想郷……)
    瀟洒で端正な紳士が腕を広げて優雅に一礼し、芝居の口上のように滔々と述べる姿が見える気がした。
    (此処は壮麗な砂上の楼閣。古くから住まう者を追い払い、やれお国の策だと新天地だと麗句を連ね、居場所を求める者を根こそぎ植えた、欺瞞と言う名の桃源郷を御覧あれ)


    ……紳士は終戦に臨んで青酸加里を仰いで退場し、それまで権勢を振るった関東軍は、在留邦人を守る義務を放棄した。


    (―――立場が逆になったわね)
    くすくすと言う含み笑い。
    再び、私の耳に声が響いた。
    (お話しした事はなかったけど、私も貴女と同じ撫順生まれよ―――貴女には覚えはないかしら、12歳くらいの中秋節の頃のこと)
    答える声はなかったが、気にする様子もなく声は続いた。
    (日本人が匪賊と呼ぶ集団が、撫順の採炭所に一斉に火をつけ日本人職員を惨殺し―――それに激怒した関東軍が早くも翌朝に、近くの集落の中国人住民を虐殺した……)
    (―――知らないわ)
    細く弱々しい、ほとんど聞き取れない声が抗弁する。
引用返信/返信 削除キー/
■6018 / inTopicNo.39)  愛琳の家・33
□投稿者/ 葉 ファミリー(179回)-(2009/06/30(Tue) 03:02:57)
    (本当に知らない―――当時、あちこちでいざこざがあったのは覚えているわ。でも、父や母からは何も聞いていなかった)
    (他人から聞かされなければ分からないというのは幸福ね)
    忍び笑いを含んだ声が言う。
    (私は悲鳴や呻き声、断末魔でそれを知ったわ。とっさに押し込まれたかまどの中で……両親は家から狩り出され、集落の住民ともども機関銃の掃射を浴びて、焼かれた上にダイナマイトで崩した土砂に埋められた)


    長い沈黙。
    やがて、弱々しい声が呟く。
    (―――私を、憎んでいるのね)
    (私が? どうして?)
    にわかに、不機嫌そうな声があがった。
    (貴女を憎む理由がないわ。関東軍の兵士でも将校でも、貴女の国の皇帝でも同じことよ……私は貴女が好きよ。そうでなければ、こんな話はしやしないわ)
    (……なぜ?)
    問いかける声に、怒りがこもった。
    (ご両親を関東軍……日本人に殺されて、なぜそんな事が言えるの。貴女は)


    (この世は屠殺場と厨房と、食卓との混沌―――)
    歌うような声が響く。
    (あの虐殺の前には、私の同胞の抗日ゲリラが貴女の同胞を襲ったわ―――それからは私達が屠られ解体される役回りだったけど、今は逆だわ。そういう事よ)
    (燕華―――)
    苦しげに声を絞り出す女を遮って、朗らかな声が畳みかけた。
    (だから黙って私の言う通りにしなさい―――もうすぐ、上海にも日本人の居場所はなくなるわ。その気がなくても何でもいいから、あの人の妻として出国するのよ)
    (燕華………)
    (使えるツテは使いなさい。何を運ばされるかも忘れなさい―――あの人は純粋に信じているわ、託されたのはお国を救う文書だと)


    閉じているはずの瞼を静かに閉ざし、私は集中していた意識の手綱を離す。
    聞くに耐えない……だが妙に納得のいく言葉だと思い、そう思う自分を疲れていると感じていた。



    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/
■6025 / inTopicNo.40)  愛琳の家・34
□投稿者/ 葉 ファミリー(180回)-(2009/06/30(Tue) 22:29:57)
    翌朝目覚めると、私の手には紅色の布が握られていた。


    それを異常だとは思わなくなっていた。
    私は重い身体を引きずりシャワーを浴びて服を着替え、それまで一度も、急に休んだ事のない職場に電話をかけた。
    仕事には関係のない鞄に免許証や財布を詰め替えて身なりを整え、少し考えてからあの布に再び手を伸ばした。


    鼻先に押し当てると化粧粉の香りと微かな悪臭、そして花に似ているが花ではない、こちら側の世界では嗅ぐはずのない芳香が鼻腔を伝わり、脳を満たした。


    悪酔いする程ではなかったが、運転には細心の注意を払った―――もちろん事故も怖かったが、誰かに停められるわけにはいかない道程だ。


    市街地を抜け、山々の稜線が近づく頃に雨は止んだ。私は車の窓を開け、水気を含んだ風を受けてようやく寛いだ……夫人の屋敷に続く峠は螺旋を描く緑陰のトンネルだ。ひとつ、またひとつとカーブを曲がり、上へ上へと行くにつれ、俗世はどんどん遠ざかる……


    「あんた―――」
    車を降りて、隣にもう一台の車があるのを眺める私に声がかかった。
    無感動な目を、私は向けた。門の内側、昨日、烏が集まっていた薔薇園の一角に、見覚えのある男が膝をついていた。



    (携帯)
引用返信/返信 削除キー/

<前の20件 | 次の20件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 >>

[このトピックに返信]
Mode/  Pass/

HOME HELP 新規作成 新着記事 ツリー表示 スレッド表示 トピック表示 発言ランク ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -