| キリリ。
静寂が広がる真夜中の部屋の中で、何かが軋むような小さな音が鳴った。 カーテン越しの月明かりで照らされているのは、文房具店で売っているようなカッターナイフ。 数cmだけ伸ばされたカッターの刃は、袖を捲り上げた左手首に当てられていた。 彼女のそんな危険な行為を止めてくれる人は、一人暮らしをしているこのマンションの部屋にはいない。 項垂れた顔からは表情は読み取れないが、ただ当てられていただけの刃がゆっくりと、確かめるように引かれた。
「ッ・・・・」
唇の端を噛んで刃を引き終わると、数秒後には真っ赤な一本の線が浮かんでいた。 それだけでは足りないと、もっと欲しいと言わんばかりに、その線はどんどん増やされて、最終的には20本にも達した。 何度ティッシュで拭っても滲んでくる血の上に、慣れた手つきで清潔な白いガーゼを被せ、ガーゼの上から慎重に包帯を巻く。 真っ白い包帯とガーゼで覆われた、熱く熱を持ち、ズキズキと酷く疼く左手首を眺めながら、彼女は眠りについた。
次の日の朝、中田聖は低血圧で今だ眠たい、寝ていたいと訴える身体を無理に動かして出勤した。 昨日は春並みの暖かさだったのに、今日は正反対。雨も降るし、気温も低く冬らしい。 はあ、と憂鬱な気持ちが晴れるわけでもないのに深い溜息を付いて、自分に割り当てられた席に座った。
「どうかしたの?そんなに暗い顔して」
前の席に座っている2年先輩の女性、明石理恵が、バッチリメイクを施した整った顔を柔らかく微笑ませた。 最近彼氏と婚約して指輪を貰った、と言っていた彼女は、もの凄く幸せそうに笑う。 その左手の薬指には、彼氏から貰ったらしい金のシンプルな指輪が光っている。 パソコンで何やら書類を作成していた途中らしく、キーボードの上には両手が乗っけられている。
「いえ・・・・最近寝不足、っていうか。雨嫌いなんで」
昨日やり残した仕事でも済まそうかとファイルを漁る聖に、またも理恵の柔らかな微笑みが向けられた。 元々綺麗なお姉さん、といったような顔立ちをしている理恵が笑うと、まるで女神や母親のように見えて仕方がない。 染めた胸元まで伸ばされて巻かれた茶髪を揺らしながら、わざわざ首を傾げて笑う。
「ちゃんと眠らないと、仕事もはかどらないわよ?」
はい、と弱々しく笑って返した聖は、実は高校生の頃から度々不眠症に陥る事を理恵に隠した。今、まさにそんな時である事も。 くまは出来ない体質らしくて今まで1度もできた事がない、というのが唯一の救い。寝たいのに寝れない。 昨日は珍しく少しだけ眠りにつけたけど、結局2時間ぐらいしか寝れていない。もう1ヶ月ぐらいほぼ不眠のままだ。
「そういえば、今日、他の部署から新しく人が異動して来るみたいよ?女の人だって聞いたけど」
「そうなんですか?初耳ですけど・・・・ちなみに、どこからの?」
「えぇーと・・・・ごめんね、思い出せないわ。昨日バーで飲みながら話してたから」
「いえ、気にしないで下さい」
やっと探していた書類を見つけ出した聖は、半分適当さが混じった言葉で会話を終了させた。 まだ8時前、異動して来るその女の人が紹介されるのは、あと約10分後ぐらいだ。 どんな人なのか少しだけ気になりながらも、聖はパソコンの電源を入れた。
|