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Nomal 愛琳の家 /葉 (09/06/10(Wed) 21:48) #5972
Nomal 愛琳の家・2 /葉 (09/06/10(Wed) 22:35) #5973
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│                          └Nomal 愛琳の家・30 /葉 (09/06/28(Sun) 22:19) #6012
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Nomal NO TITLE /ゆうあ (09/06/29(Mon) 00:23) #6013
  └Nomal NO TITLE /葉 (09/06/29(Mon) 09:29) #6015
    └Nomal 愛琳の家・32 /葉 (09/06/30(Tue) 01:54) #6017
      └Nomal 愛琳の家・33 /葉 (09/06/30(Tue) 03:02) #6018
        └Nomal 愛琳の家・34 /葉 (09/06/30(Tue) 22:29) #6025
          └Nomal 愛琳の家・35 /葉 (09/06/30(Tue) 22:56) #6026
            └Nomal 愛琳の家・36 /葉 (09/07/01(Wed) 00:03) #6028
              └Nomal 愛琳の家・37 /葉 (09/07/01(Wed) 22:11) #6030
                └Nomal 愛琳の家・38 /葉 (09/07/01(Wed) 23:05) #6031
                  └Nomal 愛琳の家・39 /葉 (09/07/02(Thu) 00:36) #6032
                    └Nomal 愛琳の家・40 /葉 (09/07/02(Thu) 01:22) #6033
                      └Nomal 愛琳の家・41 /葉 (09/07/02(Thu) 01:45) #6034
                        └Nomal 愛琳の家・42 /葉 (09/07/02(Thu) 02:22) #6035
                          └Nomal 愛琳の家・43 /葉 (09/07/02(Thu) 09:54) #6036
                            └Nomal 愛琳の家・44 /葉 (09/07/03(Fri) 00:45) #6041
                              └Nomal 愛琳の家・45 /葉 (09/07/03(Fri) 01:14) #6042
                                └Nomal 愛琳の家・46 /葉 (09/07/03(Fri) 01:50) #6043 完結!
                                  └Nomal NO TITLE /パト (09/07/13(Mon) 16:40) #6063
                                    └Nomal NO TITLE /葉 (09/07/14(Tue) 02:47) #6064


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■5972 / 親階層)  愛琳の家
□投稿者/ 葉 軍団(144回)-(2009/06/10(Wed) 21:48:01)
    2009/06/13(Sat) 22:53:55 編集(投稿者)

    『愛琳(アイリン)

    お前の髪は夜の森
    お前の瞳は黒い水晶
    お前の唇は深海の紅珊瑚
    お前の肌は蜜を溶かしたつめたい白磁

    お前の足は、金の蓮…』


    街を離れて更に一時間ほど車を走らせ、いくつかの峠を過ぎた場所、道の行き止まりにその洋館がある。
    季節にもよるだろうが、今訪れれば確実に目を惹くのは、おびただしい薔薇の花。大輪のもの、小粒なもの、艶やかな花弁を重ねたものや可憐な一重咲きのもの……色彩も絵の具箱をひっくり返したように夥しく、梅雨入りしたばかりの細かい雨を浴びて鮮やかに咲き乱れている。

    国道からは既に遠く離れており、近くに民家はない。勤務先から渡された地図を頼りに初めて訪れた時には、いつの間にかタイムスリップでもしてしまったのかと本気で思った―――彫刻を施された背の高いアーチ状の鉄の門といくつかの尖塔を持つ石造りの洋館は、古いゴシック・ホラーを連想させた。ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」、シャーリイ・ジャクスンの「山荘綺談」、リチャード・マシスンの「地獄の家」……その系統を。


    だが、多くの怪奇小説の狂言回しの例に漏れず、私もまた最初からこの屋敷にさしたる恐れも畏怖もなく、ただ自分の役割を果たす事だけを考え、踏み入れた。


    ……いとも無造作に。
[ □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 5972 ] / 返信無し
■5973 / 1階層)  愛琳の家・2
□投稿者/ 葉 軍団(145回)-(2009/06/10(Wed) 22:35:12)
    2009/06/28(Sun) 15:53:29 編集(投稿者)
    2009/06/13(Sat) 23:05:25 編集(投稿者)

    「ちょっと訳ありのお宅なんだけど……」


    事務所で私を手招きした主任は、他の職員を憚るように声をひそめた。
    「認知症や障害はないの。ただ高齢なだけで―――だから身体介護でなく、生活援助になるんだけどね」
    渡された書類―――サービス計画書に目を落とし、私は呟く。
    「……遠いですね」
    違和感は住所だけでなく、計画策定者の氏名もだ。この訪問介護事業所は、事業所のケアマネージャーが担当する利用者宅への訪問が原則なのに。
    「そこの社協(社会福祉協議会)が入ってたんだけどね」
    主任は首を捻りつつ、困ったような声で続けた。
    「とても気難しい方みたいで、うちに任せたいって言ってきたのよ。あそことは付き合いがあるから、断り切れないし…」
    「往復で三時間、生活援助3なら訪問時間は一時間半…」
    私は書類と主任を見比べた。
    ヘルパー稼業は実働でナンボ。数をこなさねば稼ぎにならない。よそに回る時間が無くなるのは、損でしかない。
    「週一回でいいの。特例だから、割増つけるわ」
    ほっとしたように主任は言った。


    (割増と言ってもなあ…)
    断る権利がないのもまた、この稼業には付き物だ。
    (大正9年撫順生まれ、終戦時は上海在住、亡夫は貿易商。福祉事業や婦人解放運動に参加。子供なし、係累なし…)
    渡された書類には経歴が記されているが、人の人生や人となりなぞ、そう簡単に紙に書き写せるものではない。
    (……一体、どんな人なのやら)
    ひと通り目を通した書類や地図を鞄に詰め込み、私はいつものように覚悟を決めた。
[ 親 5972 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 5972 ] / 返信無し
■5974 / 1階層)  愛琳の家・3
□投稿者/ 葉 軍団(146回)-(2009/06/12(Fri) 00:19:22)
    2009/06/13(Sat) 23:08:12 編集(投稿者)

    ……呼び鈴を押し、数刻の後に門に手をかけた。
    閂は下りていなかった。鈍くきしんだ音と共に門が開き、私はあらためて薔薇園の色彩にたじろいだ。
    (かなりのお金持ちみたいだけど……)
    職業柄、既に働き始めた観察眼で辺りを見渡す。
    素人目にも、薔薇園はよく手入れされている。定期的に職人が入っているのは一目瞭然だった。
    (それだけの資産家なら、時間雇いのヘルパーなんて必要ないのに)
    玄関に続く石畳を踏みながら、私はひとりごちる。よほどの人嫌いなんだろうか?……


    一歩ずつ進むにつれて、むせ返るような薔薇の香りとは違う甘い匂いを感じた―――風もなく、しとしとと降る雨の中で空気はあまり動かない。微かだがどこか粘りつくような濃密な香りの源を探して立ち止まる私の前に、不意に白いものが駆け寄った。


    「……瑞雪、雪亮、臥! 臥!」
    白いもの―――二頭のボルゾイ犬は、おののく私の前に頭を垂れ、従順に身を伏せた。
    とっさに向けた視線の先に、開け放たれた扉とそこに立つ人影が見えた。
[ 親 5972 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 5972 ] / ▼[ 5976 ]
■5975 / 1階層)  感想
□投稿者/ 真理 一般人(8回)-(2009/06/12(Fri) 02:24:57)
    今回もおもしろそう^^
    とても楽しみにしています♪
[ 親 5972 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 5975 ] / ▼[ 5977 ]
■5976 / 2階層)  NO TITLE
□投稿者/ 葉 軍団(147回)-(2009/06/13(Sat) 00:50:46)
    面白くなればいいのですが……

    また、気長にお付き合い下さい(*u_u)

    (携帯)
[ 親 5972 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 5976 ] / ▼[ 5978 ]
■5977 / 3階層)  愛琳の家・4
□投稿者/ 葉 軍団(148回)-(2009/06/13(Sat) 01:30:20)
    2009/06/28(Sun) 15:58:26 編集(投稿者)
    2009/06/13(Sat) 23:38:50 編集(投稿者)

    「……瑞雪(ルイシュエ)に雪亮(シュェリァン)、雪のように明るいという意味よ」


    紅茶を勧めながら、槙原夫人は唄うように呟いた。
    「昔、大陸にいた時にも飼っていたの―――年を取ると、何だか無性に恋しくなってね」
    二頭の純白のボルゾイは、毛足の長い絨毯の上で身体を伸ばして寛いでいる。四肢と鼻面の長い、とても優美な犬だった。
    「犬嫌いの方でなくて良かったわ。この子たちを怖がる人も結構いるのよ」
    「犬は好きです」
    繊細な拵えのティーカップをおずおずと両手で包みながら、私も呟く。
    外観も瀟洒だが、通された居間はヘルパーの制服が恥ずかしくなるような部屋だった。
    精緻な彫刻の入った紫檀の箪笥、テーブルセット、青貝を嵌め込んだ衝立……しつらえは洋間だが、家具調度にはアジアの空気が漂っている。
    未だに狐につままれたような心地がする―――それはこの洋館だけでなく、その主に対してもだ。


    (大正9年生まれなら、もう90近い筈だけど―――)
    それなのに夫人は肌も滑らかで皺も目立たず、背筋もすんなり伸びていた。
    髪こそ白銀に近いグレーだが、品よくまとめて淡い色のスカーフで包んでいる。顔立ちは端正に整っており、輪郭がやわらかい。たとえ60代と言われても違和感のない外見と物腰だった。
[ 親 5972 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 5977 ] / ▼[ 5979 ]
■5978 / 4階層)  愛琳の家・5
□投稿者/ 葉 軍団(149回)-(2009/06/13(Sat) 02:02:38)
    2009/06/14(Sun) 00:15:37 編集(投稿者)

    私は当惑した。
    (よその事業所が匙を投げるくらいなら、よほど癖のある人だと思ってたけど…)
    夫人の立ち居振る舞いや物言いからは、私が知る限りの『訳ありの利用者』は感じられない。
    勿論、人には裏もある。一見にこやかで腰の低い人が、名のうてのクレーマーという事もある。ただ大抵は、どこかにその棘が現れるものだが…


    「そんなに緊張なさらないで」
    夫人がやわらかい笑みを向ける。
    「事情は何となく分かるけど、お若い方を困らせて喜ぶような年寄りじゃありませんよ。心配しないで」
    「……いえ、そんな」
    私は恐縮して肩をすぼめる。
    「お買い物やお掃除など、家事援助をご希望だと伺ってきましたが……」
    ホームヘルプサービスは時間と領域が厳密に定められ、それを逸脱する事はできない。とりあえず確認しておかなければと私は焦った。
    だが、夫人は鷹揚に手を振った。
    「援助だなんて、こんな独り住まいだし、お願いする事もあまりないの―――こうして訪ねてきて頂いて、話相手になって頂くだけでも有り難いわ」
    使っている部屋もごく一部だし、と夫人はつけ加えた。


    私は更に困惑したが、契約書だけは事業所に持ち帰らねばならないからとサービス内容を確認し、何とか契約の成立と確認までをやり終えた。
    まずは初回訪問の目的を果たして辞去する間際、私は甘い匂いを嗅いだ。
    ……屋敷に入る前に、薔薇園の中でも嗅いだ匂いだった。私は頭を巡らせ、今まで背中を向けていた紫檀の箪笥を振り返った。


    (クチナシ……)
    箪笥の上に、瑞々しい濃緑の葉との対比も鮮やかな、八重咲きの白い花が活けられていた。
    (―――献花?……)
    私は目を凝らした。活けられた花の後ろには、写真を納めた額が立てかけられている。その写真に視線を移し、私はひそかに息を飲んだ。
[ 親 5972 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 5978 ] / ▼[ 5980 ]
■5979 / 5階層)  愛琳の家・6
□投稿者/ 葉 ファミリー(150回)-(2009/06/14(Sun) 23:56:40)
    ……白黒の、とても古い写真のようだった。
    まだ年端もいかぬ少女の胸から上のアップだが、明らかに日本人ではない……京劇俳優のような豪奢な刺繍入りの民族衣装、独特の形に結い上げられた髪に大輪の牡丹の花を挿した、人形のような美少女だ。
    気付かなければ見過ごしかねない儚さだが、一度見れば引き込まれそうな表情だった―――目尻に紅を掃いた瞳は大きく見開かれ、形のよい唇は僅かに開いている。おそらくスナップ写真を引き伸ばしたものだろうが、少女はこちらを見て怯えたように目を見張り、微笑む寸前にも、恐怖に叫びをあげる寸前にも見える。そして、そのどちらとも取れる表情が、少女の繊細で儚げな美貌を引き立てていた。


    「……ああ、その娘」
    私は夫人の声に振り返る。
    「上海にいた時に、お世話になった方の娘さんよ。綺麗でしょう?」
    私は頷いた。
    「愛琳と言うの。清朝の血を引くお姫様だったけど、長生きしなかったわ」
    反射的に思い出したのは、天城山で日本人学生と心中した愛親覚羅慧生(ラストエンペラー・宣統帝の姪)の清楚な面差しだった。
    「……高貴な者は長生きしないわ。特にあの国では」
    夫人が独り言のように呟いた。
    私には、理解する術もない独白だった。

    (携帯)
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▲[ 5979 ] / ▼[ 5981 ]
■5980 / 6階層)  愛琳の家・7
□投稿者/ 葉 ファミリー(151回)-(2009/06/15(Mon) 00:33:56)
    煙るような霧雨の中、私は帰途についた。
    「お仕事と思わず、普段着で気楽にいらっしゃいね」
    二頭のボルゾイと共に見送りに出た夫人の笑顔を思い出す……前任者の何が気に触ったのか、今日のやりとりからは察する事ができなかった。それは確認しておくべきだと強く感じた。
    (……あとの問題は、これくらいよね)
    頭の芯に、針で刺すような痛みがあった。
    私は芳香剤や香水の匂いに弱い。強い香りを嗅ぎ続けると、決まって頭が痛くなる。介護につきものの排泄物や嘔吐物の臭いは平気だけれど、そんなものとは無縁なあの家では、しばらく頭痛に悩まされそうだ。
    (あと………)
    帰り際にもうひとつ、漠然とした疑問が残った。
    門を出て車に乗り、玄関に立つ夫人に最後の会釈をするために振り返った時、何か動くものが視界に入った。
    それは玄関のさらに上、尖塔に取りつけられた小窓だった……ほんの一瞬、小窓の向こうに人影がよぎったように見えた。
    はっとして目を凝らすと、そこには何も映さない窓があるだけだった。


    (独り住まいだと言ってたし……)
    目の錯覚だったかもしれない。私はそう思い直し、緩やかな螺旋を描く峠道を下り続けた。

    (携帯)
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▲[ 5980 ] / ▼[ 5982 ]
■5981 / 7階層)  愛琳の家・8
□投稿者/ 葉 ファミリー(152回)-(2009/06/16(Tue) 01:29:45)
    奇妙な日々が始まった。


    週に一度、私は半日近くを槙原夫人の屋敷で過ごした。
    福祉法人や団体への寄付、有力者との親交がある夫人はごく自然に既存の介護サービスの枠を越え、私の長時間逗留を認めさせた。
    私にとって、それは仕事とは呼べない時間だった……簡単な買い物の品を携えて屋敷を訪れ、夫人と共に料理をしたり、庭の手入れをしたり、ほんの限られた部屋の片付けをする程度。あとは居間でお茶を飲みながら、とりとめない世間話をするだけだ。
    最初のうちは緊張し、戸惑った。こうして試されているのではないかという不安もあった。だが、そんな日々を繰り返すうちに私は慣れた―――芳香に満ちた屋敷にも、槙原夫人にも。


    「結子さん、お茶にしましょう」
    瑞雪と雪亮に戯れかかられながら芝生を刈っていた背中に声がかかる。『お茶にしましょう』は、今日の仕事はもう終わりという合図だった。
    身なりを整えて居間に入ると、紅茶と蒸したての花巻が待っていた。
    夫人はお菓子を作るのが上手く、洋菓子だけでなく蜂蜜をまぶした揚げパンや小粒な饅頭(マントウ)など、中華街で見られるようなものをよく作る。
    「子供の頃は、餡も何もない、ただ小麦粉を練って揚げただけのものを食べたものよ」
    温かい花巻に鼻を寄せる瑞雪と雪亮に冷ました小片を与えながら、夫人が呟く。
    「満州国の建国式典は、それは華々しいものだったそうだけど、住んでいた日本人は豊かな人ばかりじゃなかったわ―――私の家もね」
    「満州鉄道の技術者だったんですよね、お父さまが……」
    紅茶をひと口飲んで、私も呟く。夫人は小さく頷いた。
    「専門馬鹿と言うのか遊びも知らず、黙々と働く人だったわ。そこが向こうの人に好かれる理由だったんでしょうけど」
    父親が現地の中国人技術者と親交が厚かったのが自分の行く末に幸いした、と夫人は語った。


    私はテーブルの隅に押しやられた、つい先刻まで夫人が針を運んでいた布に視線を向けた。

    (携帯)
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▲[ 5981 ] / ▼[ 5984 ]
■5982 / 8階層)  愛琳の家・9
□投稿者/ 葉 ファミリー(153回)-(2009/06/17(Wed) 02:15:19)
    「綺麗な刺繍ですね」
    私がそう言うと、夫人は肩をすくめて笑った。
    「素人の手すさび、ボケ防止のようなものよ」
    引き寄せてテーブルに広げると、そこに蓮池が現れる。淡い藤色の生地を池に見立て、ほのかに紅い睡蓮とたなびく雲、精緻な紋様などを丹念に刺繍したものだった。
    「―――これはね、外からは見えない細工なの。どこに使うと思う? 靴の裏よ」
    「裏?」
    私は首を傾げた。
    「そう、靴底にね。それもこんなに小さい靴の裏」
    夫人は片方の手の平を広げてみせた。そしてつと立ち上がると、箪笥の引き出しを開けて取り出したものをテーブルの上に置く。


    「……まあ」
    私は目を見張った。
    それは小さな靴だった。踝を包むほどの深さで爪先まで滑らかなカーブを描き、先端が細く尖っている。
    ヒールは無いぺったんこ靴だが、靴底もまた爪先から踵にかけて弓形になっており、真紅の布地にあしらわれた唐草模様も、靴自体もハンドメイドだとひと目で分かる。本当に手の平に載るような、可愛らしい靴だった。


    夫人が靴底を見えるように傾けると、私は再び目を見張った―――地面を踏むべき靴の裏には、側面に刺されたものより更に細かく、優美な刺繍が施されていた。
    「これは婚礼用の靴。実際に履くためのものよ」
    夫人は柔らかく言った。
    「昔の中国にはね、足が小さい事が女の美の基準だった時代があって、そういう女性達が自分の履く靴を作ったり、贈り物にしたりしてたのよ」
    ……話には聞いた事がある。でも、初めて見た。
    「纏足―――ですか」
    「そう。よくご存じね」
    夫人は、にこやかに頷いた。
    「纏足と言うとどこかグロテスクな印象だけど、あちらでは金蓮とも言ったわ……三寸金蓮、十センチくらいの足が最も美しいってね」


    幼児のうちに足の親指だけを残し、他の指を内側に深く折り曲げて布で緊縛し、足がそれ以上成長しないようにする慣習。
    そうして完成した小さな足を、蓮の花びらに喩える時代があったのだと夫人は語った。

    (携帯)
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▲[ 5982 ] / ▼[ 5985 ]
■5984 / 9階層)  愛琳の家・10
□投稿者/ 葉 ファミリー(154回)-(2009/06/18(Thu) 01:04:53)
    2009/06/18(Thu) 01:10:14 編集(投稿者)

    「……歩きにくいでしょうね」
    幼児か人形が履くような靴を見つめ、私はそれくらいの感想しか口に出せなかった。
    たとえ小指でも、欠損したらバランスを取りづらくなると聞く。足の親指以外を折り曲げられ、足裏さえも十分に地に着けられなければ、どんなに不自由な事だろう。
    「そうでもないのよ」
    だが、夫人は穏やかに言葉を続けた。
    「もともとは貴族やお金持ちだけの慣習だったけど、時代が下がると庶民の間にも広がって、畑仕事や漁に出る女性もいたわ―――私が物心つく頃には廃れてきてたけど、それでもよく見かけたものよ」
    夫人は赤い婚礼用の靴の隣に藤色の布を広げ、刺繍の柄を指差した。
    「蓮の花と竹の梯子、そして灯籠。これはお葬式用の靴の柄。花嫁やお年寄りは、自分でこれを用意するの」
    「履けば見えない場所なのに……」
    隠れてしまう部分に勿体無い、と素直に思った。奥ゆかしさや美意識の違いだろうが、現代の中国のイメージとはずいぶん違うような気がした。
    それを口にすると、夫人は涼やかな笑い声をあげた。
    「それはあなた、価値観は変わるものですよ……西洋にはコルセットがあり、日本には窮屈極まりない和服があったわ」
    ただ…と夫人は呟く。
    「ただ、纏足が廃れたきっかけは、英国から来た宣教師や婦人運動家の働きかけによるものよ。だから、西洋の価値観に押し切られたと言えなくもないわね」


    私は、少し違和感を覚えた。
    槙原夫人も、かつては婦人運動に参加した筈なのだがと。
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▲[ 5984 ] / ▼[ 5986 ]
■5985 / 10階層)  愛琳の家・11
□投稿者/ 葉 ファミリー(155回)-(2009/06/18(Thu) 01:55:51)
    その日の帰り際、私は初めて来訪者と出くわした。
    挨拶を済ませて玄関の扉を閉め、門に向かって歩き出した時だった。私の車の隣にタクシーが滑り込み、そこから一人の年配の女性が降りてきた。
    「こんにちは」
    反射的に会釈してから、私はその女性に同業の匂いを嗅ぎ取った―――大柄で派手な身なりだが、雰囲気で何となく分かる。
    女性は私を一瞥し、ふん、と言う表情で私の横を通り過ぎた。
    (……何、あれ?)
    良い気分はしなかった。同業ならば、他社の所属でも挨拶のひとつはするものだ。
    (よそのヘルパーは入っていない筈だけど……)
    何とはなしに立ち止まって見ていると、女性はぞんざいに呼び鈴を鳴らし、勝手に扉を開けて中に消えた。それと入れ違うように瑞雪か雪亮のどちらかが扉をすり抜け、尻尾を振りながら私に駆け寄った。


    「……だめよ、雪亮」
    見た目は同じだが、首輪のタグで見分けがつく。私はじゃれつく雪亮の前に屈み込み、目をしばたいた。
    雪亮が何かをくわえている……細い、棒のようなもの。私はそれを手に取り、眉をひそめた。
    (……髪飾り)
    雑貨店で見るようなイミテーションのものではない。細かい唐草模様を彫り込んだ象牙の先から、小粒の珊瑚玉を垂らした美しい品だ。
    「雪亮―――」
    慌てて声をかけるが雪亮は既に私に背を向け、半開きの扉から屋敷の中に駆け込んでしまった。
    (―――どうしよう)
    いつもなら、このまま引き返して夫人に渡せばよい事だった。だが、来訪者とその様子から、すぐにそうするのはためらわれた。
    (郵便受けに入れておけるような物じゃないし……)
    私はしばらく逡巡し、後で電話でも入れてから、来週の訪問時に返すしかないと思い直した。
    (調子が狂うなあ……)
    胸のうちでぼやきながら髪飾りを鞄に納め、私は屋敷を後にした。



    (携帯)
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▲[ 5985 ] / ▼[ 5987 ]
■5986 / 11階層)  愛琳の家・12
□投稿者/ 葉 ファミリー(156回)-(2009/06/19(Fri) 01:35:54)
    2009/06/19(Fri) 01:41:47 編集(投稿者)

    その夜も、次の日も、夫人への電話は繋がらなかった。
    私は落ち着かなかった。たまに聞くが、ヘルパーが訪問宅の金品を盗んで逮捕されたニュースをテレビで見たりして、自分がいかにも高価そうな髪飾りを無断で預かっているのが憂鬱だった。それもあってか日常業務に気が入らず、空き時間に事業所でぼんやりしていると、背後から声をかけられた。


    「元気ないじゃない、もう夏バテ?」
    顔見知りの訪問看護師だった。
    「そう言えば、山のお屋敷に行ってるんだって?」
    その言葉に顔を上げる―――この訪問看護師は複数の事業所の依頼に応じ、あちこちの管轄に出向いていた。
    「知ってるの、あのお宅のこと」
    「病気持ちじゃないから、私は行った事ないけどね」
    看護師は気さくな口調でそう言うと、ちょっと訳ありげに声をひそめた。
    「―――知ってる? あのお宅を担当したヘルパーさんって、みんなもういないのよ」
    「………え?」
    私は彼女を見つめた。
    「どういうこと?」
    「辞めちゃったのよ」
    彼女は肩をすくめてみせた。
    「三人くらいだったけど、あのお宅を担当してた人が立て続けに辞めてったわ―――何でかは知らないけど、それであのお宅をこっちに回したのよ。ただでさえ人手不足だからって」
    「……知らなかった」
    ぼんやりと呟く私の肩を、彼女はぽんと叩いて笑い声をあげた。
    「やだ、深刻な顔しないでよ……確かにベテランばかり唐突に辞めたけど、ただの偶然かもしれないじゃない」
    それからひとしきり他事業所の内情やクレーマーの利用者の噂話を披露して、彼女は去った。


    私には疑問だけが残った。
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▲[ 5986 ] / ▼[ 5988 ]
■5987 / 12階層)  愛琳の家・13
□投稿者/ 葉 ファミリー(157回)-(2009/06/21(Sun) 00:18:04)
    通常業務――数軒の訪問を終えてアパートに戻ると、私は家事や入浴をできる限り早く済ませる。
    だからと言って、何か特別な目的がある訳ではない。ぼんやりと過ごすのが殆どだったが、そんな時間がなければやっていけない……たとえ限られた時間でも、他人と密接に関わる仕事は精神を擦り減らす。時には、自分自身が無くなるような気さえする。


    だから帰宅後は仕事のことは極力考えないようにしていたが、私はPCを引き寄せ、検索サイトに「纏足」の二文字を送信した。
    ……無数の検索結果が表示された。歴史的・学術的なものもあったが、アダルトサイト上の記載にヒットしたものも多かった―――身体改造フェチや足フェチ、監禁願望のある人間には魅力的な慣習だからだろう。男の持ち物としての女性が逃げ出さないようにとまでは思っていなかったが、性的な理由―――立ちづらく歩きづらくする事で局部の筋力を高めるとか、改造された足そのものが玩弄の対象となる―――はあるような気がしていた。熱心なフェミニストなら、激怒して然るべきものだろうと。


    (携帯)
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▲[ 5987 ] / ▼[ 5989 ]
■5988 / 13階層)  愛琳の家・14
□投稿者/ 葉 ファミリー(158回)-(2009/06/21(Sun) 01:39:30)
    閲覧したサイトには、纏足の施術法や身体への影響を詳しく載せている所があった。


    施術を始めるのは五歳から七歳。包帯のような長い布で足指を足裏に折り曲げて緊縛し、指先から踵にかけて前後からも縛るために足自体が圧縮されたようになる。土踏まずも殆どなくなり、足裏に深い亀裂を刻んだような見かけになる―――骨の位置が変わるために足の甲は厚くなり、上部はアーチ状に膨らみ、足裏は弓のように弧を描く。接地面積の狭さゆえに歩行はすり足のゆっくりしたものになり、臀部や大腿部の筋力は強くなるが、膝から足首までの筋肉はあまり使わないため萎縮する。施術の完成には十年ほどの歳月を要し、完成した足のケアには生涯をかける……


    (骨を壊すわけではないのか)
    伝統的な施術法を見て少し意外に思った。以前何かで、骨を叩き潰すと読んだ記憶があったのだが。
    そのサイトには、1880年撮影と記された、纏足した女性の写真があった。
    細身で髪をひっ詰めにした、上流階級らしい身なりの中年女性がソファに座り、片方は素足、片方には靴を履いた足を見せている。ゆったりした衣装から覗く纏足靴の足先はちんまりと小さく、台に載せた素足はぎゅっと圧縮され、有り得ない位置から親指以外の足指が見えている。土踏まずは確かに亀裂になっており、知識がなければ先天的な奇形と間違いそうだ。


    たくさんの纏足靴の写真もあった。
    纏足は中国全土のものではなく、主に漢民族の慣習だった。しかし行っていた地方によって、靴には福建、台湾、山東、山西、広東など、その土地特有のデザインがあった。
    ……どの靴も華麗な刺繍が施され、美しい。木製の高いヒールがついたもの、爪先が尖ったもの、くるりと反ったもの、足首まで包むブーツ型のものもある。私が槙原夫人の家で見たものは、最も型がすっきりして装飾の華やかな山東型だった。
    素材も絹や木綿、サテンなど、豪奢なものもあれば庶民的なものもある―――骨董品として収集する人もいるそうだが、確かにその価値はあると思った。蓮の靴(Lotus Shoes)という呼び名も響きがよく、雅やかだ。

    (携帯)
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▲[ 5988 ] / ▼[ 5990 ]
■5989 / 14階層)  愛琳の家・15
□投稿者/ 葉 ファミリー(159回)-(2009/06/21(Sun) 03:18:22)
    (……それで、だろうか?)
    私はひっそりと自問する―――槙原夫人が纏足靴を持ち、その装飾に使うべき刺繍をしているのは、靴の美しさに惹かれているから……なのだろうか。


    私は複数のサイトを巡り、纏足がいつ、どのようにして消滅したかを調べた。
    夫人が言ったように、19世紀初頭に最初に反対運動を起こしたのは英国人だった―――中国は清朝末期、西太后の晩年に当たる頃。西欧やロシア、日本などに国土のあちこちを占有され、過剰な干渉を受けていた時代だ。1860年代に英国の宣教師らが纏足を野蛮な慣習として廃絶を訴え、1895年には女性の権利回復を願う中国在住の婦人運動家がそれに続いた。
    清朝の皇帝はたびたび纏足廃止令を出していたが、非漢民族で纏足をしていなかった西太后も禁止令を出した。
    国土の広さと慣習の浸透の深さゆえに歳月がかかったが、根気よく続けられた廃止運動が実を結んだ。19世紀のうちに纏足する女性はいなくなり、纏足をしていた女性の多くは緊縛を解いた。
    (西欧の価値観に押し切られたとも言えるわね)
    槙原夫人の言葉を思い出す……夫人の立ち位置は、どちらなんだろう?


    私は仕事用の鞄に手を伸ばし、ハンカチに包んだ髪飾りを取り出した。
    繊細な唐草模様が彫り込まれた象牙は年代を経てかすかに黄ばみ、電灯に透かすとまどろむような飴色に見える。細い銀鎖に繋がれた珊瑚玉だけが鮮やかに紅い。
    品物は美しい。華麗なしつらえの纏足靴も、見惚れてしまうほどに美しい。


    ―――品物だけなら。



    (携帯)
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▲[ 5989 ] / ▼[ 5991 ]
■5990 / 15階層)  愛琳の家・16
□投稿者/ 葉 ファミリー(160回)-(2009/06/22(Mon) 00:22:53)
    翌週の訪問日、いつものように私を出迎えた夫人は、まず電話に出られなかった事をしきりに詫びた。
    「少し取り込んでいたの、片付けなきゃならない用事が重なって……」
    どこがという訳ではないが、夫人は少し疲れているように見えた。頭痛予防のために屋敷では呼吸を浅くしているが、私は花の香りに混じった湿布の匂いに気付いていた。
    私が髪飾りを差し出しそれを持っていた経緯を話すと、夫人は少し驚いた顔をした。
    「……雪亮が? これを?」
    「ちょうどお客がいらした所で……それで、何度かお電話したんですが」
    探るような視線を受けて私は頷いた―――猜疑心の強い利用者ならば、構築しかけた信頼関係が壊れるきっかけになる場面だ。しかし夫人はすぐにいつもの寛容さを取り戻し、
    「いいのよ、取っておきなさい」
    と笑顔で言った。
    「雪亮があなたにあげたものだから、それはあなたの物だわ」
    私は慌てて固辞した―――職場の規定にも、職業倫理にも反する事だった。
    「……私には、頂く理由がありません」
    そう言う私を見る夫人の眼差しが、ほんの一瞬だけ揺らいだように感じた。
    何かを思い出したような表情だった。


    「あなたは……」
    その後のお茶の時間に、夫人はぼんやりと呟いた。
    「このお仕事を始めて、何年になるの?」
    「8年目になります」
    「……お仕事は楽しい?」
    私は夫人の顔を見直した。夫人は紅茶のカップに視線を落とし、スプーンを動かしている。
    「……うまく言えませんが」
    何故かは分からないが、本音で答えなければならないと私は思った。
    「楽しいと思ったら、終わりだと思っています」
    「―――どうして?」
    夫人は即座に問い返した。
    「とても有意義なお仕事じゃなくて?―――手助けが必要な人にとっては、有り難いお仕事よ」
    私は少し考え、口を開いた。
    「もちろん、感謝して下さる方はおられるし、嬉しいと思います……けど、考えてしまうんです。自分は本当に、その方の望むことをしたんだろうかと」
    夫人がカップを掻き回す手を休め、私を見ていた。
    今度は私がカップを覗き、うなだれた。
    「趣味や気晴らしなら別ですが―――他人を手助けする仕事で自分が楽しいと感じるのは、自己満足……自己陶酔ではないかと思います。偽善ならばまだ、自覚があるでしょうが」


    言いながら、私は気が滅入った。
    多少なりとも内省を知る同業者なら、それは抱えていてもおかしくない葛藤であり、欺瞞だった。

    (携帯)
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▲[ 5990 ] / 返信無し
■5991 / 16階層)  愛琳の家・17
□投稿者/ 葉 ファミリー(161回)-(2009/06/22(Mon) 01:31:33)
    「……迷いは、無いに越した事はありません」
    私は呟く。
    「それに、強い信念があるから良い仕事ができるのだとも思います……でも、楽しいと感じるのは違う。そこには自分しかいない」
    しばしの沈黙の後、私は夫人の声を聞いた。
    「興味深いわ、とても」
    低く穏やかな口調だった。


    「私があなたくらいの年齢の時にはね」
    冷めてしまった紅茶を淹れ直しながら、夫人は言った。
    「私にはそんな思慮はなかったわ―――裕福な外国人の、暇潰しの慈善事業……そう言われる事も気にならなかった。むしろ人から後ろ指を差され、嘲笑われるのを誇りに思っていた」
    淡々と夫人は続けた。
    「……言い訳をさせて貰えば、確かに当時の大陸には悲惨な境遇の女性が多かったのよ。纏足もまだ完全には消えておらず、農村では嫁不足のために幼い女の子が売買され、多くの阿片中毒者が身体を蝕まれ、緩やかに廃人になっていた。それに見て見ぬふりをして、哀れむだけではいけないと思った……」


    私はゆっくりと口を挟んだ。
    「それで、婦人運動を―――?」
    夫人はポットを置いて椅子に戻り、静かに答えた。
    「一年にも満たない、ほんの短い間の思い出よ……終戦後、結婚して帰国するまでのね」
    ……私は、ふと目を凝らした。
    何気なくカップに添えられた細い指先に、バンドエイドが巻かれていた。
    そこにはまだ、淡い血の色が滲んでいた。

    (携帯)
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▲[ 5972 ] / ▼[ 5993 ]
■5992 / 1階層)  Re[1]: 愛琳の家
□投稿者/ チノ 一般人(1回)-(2009/06/22(Mon) 12:49:36)
    つづき、楽しみにしています^^
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▲[ 5992 ] / ▼[ 5994 ]
■5993 / 2階層)  NO TITLE
□投稿者/ 葉 ファミリー(162回)-(2009/06/23(Tue) 22:53:54)
    すみません…

    何か、うまいこといかんなあと思いつつ書いてます。

    ちょっと不調…
    o(_ _*)o

    (携帯)
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▲[ 5993 ] / ▼[ 5995 ]
■5994 / 3階層)  愛琳の家・18
□投稿者/ 葉 ファミリー(163回)-(2009/06/23(Tue) 23:40:17)
    空いた時間に、私は刺繍を教えてほしいと申し出た。
    自分でも理由の分からない思いつきだったが、夫人は二つ返事で引き受けた。
    「時間を忘れて無心になれるし、楽しいものよ」
    仕事柄、刺し子やお手玉、小物類を縫うくらいの下地はあったが、絵柄のための縫い物はした事がなかった。
    過度にすり寄る気持ちはなかったが、何かが分かるような気がした―――色とりどりの唐草模様や蓮の花、鳳凰の刺繍の向こうにあるものが。


    時折、夫人は指を動かしながら、中国語の歌を口ずさんだ。

    ――霧の深い白露
    新しいお握りをどの家でも味わう
    少女は可哀想
    髪は三つ編み
    まだ汚れていない はじめての弓型の靴……

    意味を問うと、夫人は小脚姑娘(シャオヂャオクーニャン)に祈る民謡だと答えた。
    「女の子が纏足を始めるのは大人になるための大切な儀式で、一大イベントだったの―――白露とは霜が下りそうな秋の頃、足が汗ばまない季節の吉日に、女たちは家のかまどにお赤飯のお握りをお供えして、幼い娘の纏足がうまくいくように、小脚姑娘という女神様にお祈りしたのよ」


    台所のかまどに供え物をするのは、家―――女の世界の中心だから、と夫人は言った。
    「未婚のうちは父に従い、嫁せば夫に従うというのが美徳だったのは日本も大陸も同じだけど、あちらの女性には財産権や、交渉事で夫の代理を務める権利もあった。一番の権力者は姑と言うくらい、家の中では女が強かったのよ」
    自分が育った地方都市でもそうだった、と夫人は言った。

    (携帯)
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▲[ 5994 ] / ▼[ 5996 ]
■5995 / 4階層)  愛琳の家・19
□投稿者/ 葉 ファミリー(164回)-(2009/06/24(Wed) 00:44:48)
    「呉蓉芳(ウーロンファン)。それが、私のあちらでの名前」
    夫人はテーブルに指で書いた。
    「あちらの慣習でね、仲の良い親同士が互いの子供にもうひとつの名前をつけるの。戸籍とは別の通り名よ」
    「じゃあ呉さんという方が、お父様の友人ですか」
    「そう。呉小徳(ウーシァオトー)と言ってね、抗日運動の最中でも、家族ぐるみの付き合いをして下さったわ」
    その妻の名が楊柳(ヤンリウ)、娘の名が胡蝶(フーティエ)……と、唄うような響きが続いた。
    「私が物心つく頃にお姑さんは亡くなったけど、みんな纏足をしていたわ―――私は胡蝶が纏足を始めるまでは、大陸の女の人は皆、最初から小さな足なんだと思ってた」
    無理もないわね、と夫人は小さく肩をすくめた。
    「纏足の女性はね、長い布で素足を巻いて、夫にさえ裸の足は見せないの……艶本だとそれが殿方の好き心を煽るんだけど、女にとって素足を晒すのは最大の恥辱。だからそれがどんなものか知った時は、ショックだったわ」


    ……厳粛な儀式、供え物の前に跪き祈る女達、縫い上げられたばかりの小さな赤い靴。台の上に載せられた、柔らかく小さな白い足。
    「私は、面白くなかったわ」
    夫人は呟いた。
    「理解できる年齢じゃなかった。それまでは玩具も服も分け合っていたのに、なんで胡蝶だけがお姫様みたいに特別扱いされてるのかって……いくら親しくても、民族の枠は越えられないのにね」
    でも、やがて、胡蝶は明らかに憔悴し始めた。
    「足を緊縛する事による弊害が出てきたの……きつく折り曲げ束ねられた足の裏が膿み、腐臭が漂うようになった。足に巻く布を毎日取り替えて薬を塗り、乾燥させるための粉をはたくんだけど、やはり人体に有害な事に変わりはないのよ」
    女神、時には観音菩薩に祈るのは纏足が美しく仕上がるためだけではない。安全に仕上がるためでもあると夫人は言う。
    「強すぎる緊縛は血流を止めて、壊死を引き起こす事もあるの……そうなるともう、膿むだけでは済まない。腐り始めるわ」


    (携帯)
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▲[ 5995 ] / ▼[ 5997 ]
■5996 / 5階層)  愛琳の家・20
□投稿者/ 葉 ファミリー(165回)-(2009/06/24(Wed) 02:09:44)
    ……人間が、生きながら腐乱する臭い。
    私はそれを知っている。重度の褥創(床ずれ)や、糖尿病などの疾患によって壊死を起こした患部の臭いだ。それはどこか甘く、排泄物や吐物などとは比べ物にならないほど耐え難い。


    「胡蝶のお母さんもお祖母さんも無事に足を完成させたのに、胡蝶は不運だった……悪い菌が入ったと聞いたわ。彼女は眠れず、食べられず、みるみるうちに別人になった。獣みたいに叫び続けるか、ヒステリックに家族を罵るかしかしなくなった」
    「それで……?」
    恐る恐る、私は尋ねた。
    夫人は手元の布に目を落とし、淡々と呟いた。
    「いろんなお医者にかかった後で、お父さんが手に入れてきた薬で楽になったわ……でも、一日中ぼんやりして、起き上がれなくなった―――阿片よ」
    私は目をそむけた。
    癌で他界した父の最期の頃、モルヒネを投与していた頃を思い出したのだ。
    「纏足を始めたのが七歳……胡蝶は、十歳にはならなかった」
    夫人の声は続いていた。
    「……私の父がね、日本人社会のつてを辿って売人を探したの―――阿片は既に闇で売買される時代だったし、あちらの売人の扱うものは粗悪品が多かったから」
    生家を出て、北京の寄宿学校に入ったのはそれから間もなくの事だと夫人は言った。


    「家を出る日、胡蝶のお母さんから靴を貰ったわ」
    夫人が呟いた。
    「願掛け靴と言って、纏足靴をさらに小さくしたミニチュアで、それを祭壇に祀ったりするんだけど……装飾の刺繍の他に、文字が縫い取られてたわ」

    『我所願 爾欲安然』

    一文字ずつ、夫人は諳んじてみせた。
    「あなたの平穏を祈るという意味……価値観や慣習は違うけど、野蛮だと思った事はなかった。その靴も大事にしてたけど、終戦後のどさくさで無くしてしまったわ」


    今持っている靴は、自分で縫ったものばかりだと夫人は言った。


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▲[ 5996 ] / ▼[ 5998 ]
■5997 / 6階層)  愛琳の家・21
□投稿者/ 葉 ファミリー(166回)-(2009/06/24(Wed) 22:05:24)
    その夜、私は夢を見た。

    夢の中でも、花の香りの中にいた……むせ返るような華やかな薔薇、濃密なクチナシ、淫蕩な百合。そしてそれらが開ききり、色あせる間際に放つ甘い腐臭。


    目の前に細かい彫刻を施された唐風の寝台と、幾重にもそれを覆う薄絹の天幕がある。
    私はそれに手をかけ、一枚ずつめくり始めた。視線の隅に鳳凰をかたどった青銅の燭台と、細い煙をあげる香炉があった。
    気が遠くなるほどの薄絹の帳を掻き分けて、私は立ちすくむ。


    「お客様、ようこそ」
    寝台の上に少女がいた―――まだ十代の初めくらいなのに、その身は豪奢に飾り立てられている。
    金糸や銀糸、鮮やかな色彩で縫い取られた襟元や肩掛けから流れるような薄絹の衣をまとい、その上には翡翠や珊瑚、瑪瑙の玉を連ねた首飾りが幾重にも垂れている。髪は古風に結い上げられて大輪の白牡丹を一輪あしらい、そこからも珊瑚玉が肩まで垂れる……見覚えのある髪飾りだった。


    寝台にしどけなく横座りになった少女を見下ろし、私は息を飲む……この娘には会った事がある。でも、それがいつ、どこでだったのかが思い出せない。


    目尻に紅を履いた大きな瞳は濡れたような光を宿し、唇は媚びをたたえて微かに開いている……肌の色は白磁のようで、寝台に投げ出された指の先に至るまで滑らかだ。


    少女は、私に向かって手を差し伸べた。
    「……胡蝶?」
    私はぼんやりと呟いた。
    視線を寝台に走らせ、細い指先が薄絹の裾をつまみ上げるのに目を凝らした。
    紅い靴が姿を表した―――すんなりした弓型の小さな靴……花嫁の履く纏足靴と分かった瞬間、私は反射的に身を引いた。


    少女はゆっくりと靴を脱ぎ、脇に押しやった。
    淡い紅色の、包帯のような布でぐるぐる巻きになった足が目の前にあった。少女は物言いたげな瞳で私を見上げ、身を屈めて足に触れ、布を解きにかかった。


    「だめ……」
    私は首を振り、不自然な形状の小さな足から目をそむけた。
    不意に、腐臭を強く感じる―――女なら誰でも知っている、長時間ストッキングを履き続けた時の……いや、それよりもっと濃い、明らかな腐敗臭。それを誤魔化すために擦り込まれた香料入りの軟膏や、粉薬と混じってさらに複雑になった腐臭―――芳香?……


    少女が私の手を取った。
    驚くほどしなやかで柔らかい手が私の手を彼女に導き、足の裏に触れさせた。
    私はぞくりと身体を震わせ顔を上げ、私を見つめている少女と視線を合わせた。

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▲[ 5997 ] / ▼[ 5999 ]
■5998 / 7階層)  愛琳の家・22
□投稿者/ 葉 ファミリー(167回)-(2009/06/24(Wed) 22:32:35)
    おぞましかった。
    だが、手を引く事ができなかった。


    「愛琳……?」
    震える声で、私は呟く。
    少女はにっこりと微笑むと、あらわになった両足で、私の手を包み込んだ。



    翌朝、私は全身汗まみれで目を覚ました。
    体中がだるくて重く、眠った気がしなかった。
    夢と呼ぶには生々しく、細部まではっきりしすぎていた。
    (―――こんなものを読んだせいだわ)
    枕元の『金瓶梅』に手を伸ばし、ベッドサイドの机に放り投げる……美女の纏足を純粋に性具とみなす、中国古典の艶本を読みながら眠ったのが悪かった―――今日は一日中フルで訪問先を回らねばならないからと、早めに床についたのに。


    手早く身支度を済ませて訪問先に出向く時間を確認し、仕事用の鞄を引き寄せた時に、おや?と思った。
    鞄のファスナーが途中で引っかかる。何かを挟んでいるようだ。
    「――――え?」
    ファスナーのつかえを直し、鞄から取り出した物を一瞥した私は息を飲み、手にしたそれを投げ出した。


    包帯の切れ端のようなもの―――淡い紅色の布が、床の上にとぐろを巻いていた。


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▲[ 5998 ] / ▼[ 6000 ]
■5999 / 8階層)  愛琳の家・23
□投稿者/ 葉 ファミリー(168回)-(2009/06/26(Fri) 01:17:26)
    「……ですから、その方はうちのヘルパーさんじゃないんです」
    午前中の訪問を終えて事業所に戻ると、窓口で何やら揉めていた。
    「何度も申し上げたように、別の事業所の方がお辞めになった理由は、こちらでは伺っておりませんし―――」
    中年の男性を相手に、いつもは饒舌な主任が苦りきった声をあげている。その横を通り過ぎる時、主任が私に気付き、袖を捉えた。
    「ちょうど良かった……ねえ坂下さん、槙原さんのお宅には、奥様以外には誰も住んでないわよね?」
    「えっ?」
    不意の質問に私はたじろぎ、窓口から身を乗り出している男性に睨まれて当惑した―――やけに攻撃的な、険のある眼差しだった。
    「家内のいた社協からは、こっちで聞けと言われたんだ」
    かなり長い間、主任と押し問答をしていたらしい。痩せて神経質そうな男性は私に向き直り、苛立たしげな声で言った。
    「家内が辞めていたなんて聞いてない。山のお屋敷の婆さんと、その家族の専属になったと言ってた―――その家内が帰って来なくなったなら、勤め先に聞くしかないだろうが」
    「……家族……?」
    私はぼんやり問い返し、助けを求めるような主任の視線と、遠巻きにこちらを見ている職員の視線を意識した。
    「家族と言われても……飼い犬なら、確かにいますが……」
    「犬と人間の区別くらいつく。あんた、馬鹿にしてるのか」
    男性はカウンターを叩いて声を荒げた。
    それからしばらく、男性は『山のお屋敷』の住所を教えろとしつこく粘った。ようやく所長が出てきて私は解放され、後でまた呼び出された。


    「旦那さんに内緒で辞めてたみたいね」
    主任は疲れた表情で呟いた。
    「社協にも聞いてみたけど、何も知らないの一点張りよ……まあそうよねぇ、自己都合で辞めた人の行き先なんて、知ってるわけないわ」
    「槙原さんのお宅に行ってたヘルパーさん……ですか」
    主任は頷いた。
    「あちらで一番長い人だったみたいね……でも、仕事はできても夫婦仲は分かったもんじゃないわね。旦那がああして聞き回らなきゃならないなんて」
    ……私はひそかに迷っていた。騒ぎの最中に思い出した事、あの髪飾りを持ち帰った日に槙原夫人宅に来客があった事を言うべきなのか。
    (あの人は、同業者だった……)
    さっきの男性と年格好も近く、夫婦と言われても違和感はない。私は逡巡したが、主任にそれを話した。


    「……もし、それがさっきの人の奥さんだとしても……」


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▲[ 5999 ] / ▼[ 6004 ]
■6000 / 9階層)  愛琳の家・24
□投稿者/ 葉 ファミリー(169回)-(2009/06/26(Fri) 01:48:05)
    主任は、聞きたくなかったという表情を隠さなかった。
    「それをそのまま伝える訳にはいかないわね。ヘルパーを辞めて、個人同士の関係になったんなら尚更よ」
    ……それは確かにそうだった。今はそれだけ、個人情報の扱いは厳しい。
    「そう言えば……」
    主任はふと口調を変えて、私を見つめた。
    「あなた、槙原さんにとても気に入られてるようだけど……知ってる? 槙原さんがうちの所長に、ヘルパーを後見人に申請できるか尋ねたことを」
    「―――え?」
    私は目を見張った。
    成年後見人制度というものがある―――認知症などで財産管理ができなくなった人の代わりに第三者にそれらの権利を託す制度で、早くから指名しておく事もできる。手続きは裁判所で行うもので、実質的な相続人だ。
    「知りません―――槙原さんからも、何も聞いてません」
    「あなたは職分をわきまえた人だから、変な心配はしていないけど……」
    主任は力を込めた声で、諭すように言った。
    「そんな話が出ても乗らないでね―――事業所にとって、決して名誉な話じゃないから」


    「……分かっています」
    私は悄然と肩を落とし、自分の席に戻った。
    夫人の考えている事が分からない。
    裕福な高齢者がヘルパーに過分なお礼をする事はよくあるし、実際、夫人はあの高価そうな髪飾りを私に与えようとした―――だが、それとは質が違う。


    結局はその日は一日中不調で、ただでさえ拭えない疲労感が倍になっただけだった。

    (携帯)
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▲[ 6000 ] / ▼[ 6005 ]
■6004 / 10階層)  愛琳の家・25
□投稿者/ 葉 ファミリー(170回)-(2009/06/27(Sat) 23:07:21)
    2009/06/28(Sun) 16:14:35 編集(投稿者)

    「―――あ」
    私の呟きに、絨毯でまどろんでいた瑞雪と雪亮が顔を上げる。


    縫い針に細く血が伝う。私は手にしていた絹の布を慌てて遠ざけ、仕上がりかけていた白蓮の刺繍を汚さないようにした。
    「まあ―――大丈夫?」
    向かい側で針を運んでいた夫人が立ち上がり、手を伸ばす。
    「大丈夫です」
    私はハンカチで血を拭い、笑顔を作った。
    「消毒をしなきゃだめよ。小さな傷でも、命取りになる事はあるんだから」
    夫人が救急箱を取ってくるまでの短い間、私は振り返って窓を見つめた。
    (まだ、いる……)
    その日の初めから、屋敷の外には烏がいた。
    山の中だし、野鳥がいてもおかしくはない……でも、時間が経つにつれて増えている。今は十羽くらいだろうか、しきりに鳴き声がする。
    「あまり根を詰めてもよくないわ。今日はもう、このくらいにしましょうね」
    指先にバンドエイドを巻く私に夫人はそう言い、窓をちらりと見て呟いた。
    「―――烏鳴きのする日だこと。お迎えが近いのかしらね」
    そして居間の片隅の蓄音機―――使えるとは思わなかった―――に歩み寄り、レコードを選んで針を落とした。


    絹を裂くように高い、細い歌声が流れ出した。
    「李香蘭―――?」
    「あちらの読み方では、リーシャンランね」
    夫人は振り返り、微笑んだ。
    「私と同じ年齢だけど、今なお凛然としていらっしゃるわ……娘時分には、ずいぶん憧れたものよ」
    満映の花形女優でなく、日本の国会議員としてしか私は知らない。
    「ご存知でした? 彼女が日本人だとは……」
    「とんでもない」
    夫人は笑顔で首を振る。
    「当時大陸にいた日本人も、大方はあの方が中国人だと思っていたわ―――私もあちら生まれで大陸に親しんで育ったけど、あの方ほど完璧ではなかった。大陸の麗人(リーレン:美人)とは、まさにあの方の事だと思っていたの」

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▲[ 6004 ] / ▼[ 6007 ]
■6005 / 11階層)  愛琳の家・26
□投稿者/ 葉 ファミリー(171回)-(2009/06/28(Sun) 00:30:09)
    麗人―――と言った夫人は何かを思い出したように首を傾げ、蓄音機の傍らの箪笥に置かれた写真立てを手に取った。
    私は少し身を固くした。
    愛琳という少女……何故だか、意識してこの写真を見ないようにしていたのだ。
    夫人は写真立てを裏返し、写真を外した―――そこには愛琳だけでなく、もう一枚の写真が入っていた。


    私はそれに見入った。
    表にあった愛琳の写真は、この二枚目を引き伸ばしたものだとすぐに分かった……マスタープリントとおぼしきこの一枚には、もう一人の人物が写っている。
    愛琳が古風な衣装で飾り立てられているのに反し、もう一人は洋装の東洋女性だ……ゆるく巻いた髪を肩まで垂らし、腕や肩を露出した、身体のラインを強調するイブニングドレスを優雅に着こなしている。
    「この人も女優さん……ですか?」
    目鼻立ちのはっきりした妖艶な美貌の持ち主を見て、私は尋ねずにはいられなかった。
    「いいえ」
    夫人は首を振った。
    「その人は実業家よ―――劉燕華(リュウイェンホア)と言ってね、上海でお世話になった方」
    「婦人運動の?」
    問いかけながら、私の目は写真の人物の足に釘付けになっていた。


    劉燕華という女性はハイヒールの足元を強調するかのようにドレスの裾を僅かに持ち上げ、もう一方の手を肩に置かれた愛琳の足先は―――纏足靴だった。
    「……そうね」
    夫人の声が、自分の質問に答えたものだと分かるまでに数刻かかった。
    「いろんな意味で、私の見識を広げてくれた人だわ。燕華は……」
    夫人の口調はどこか含みのあるものだったが、私は別の事で混乱していて気付かなかった。


    私が夢で見たのも、纏足をした愛琳だった。
    夫人は以前、愛琳を清朝の末裔だと言った。
    だが清朝は満州族の王朝で、纏足をする慣習はない……


    窓の外でけたたましく烏が騒ぎ、羽ばたく音が響いていた。


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▲[ 6005 ] / ▼[ 6010 ]
■6007 / 12階層)  愛琳の家・27
□投稿者/ 葉 ファミリー(172回)-(2009/06/28(Sun) 17:24:52)
    「満映のスターだった李香蘭も、私も中国名を使って過ごしていたけれど……」
    夫人は再び椅子に座り、テーブルに肘をついて両手を組み合わせた。
    「燕華は逆に、日本名を使ってたわ―――お商売のためとはいえ、当時の中国では勇気のいる事よ。日本人は東洋鬼子(ドンヤングェイズ)と呼ばれ、英国人や仏国人と同様に憎まれていたから」
    「……国民が満州国を認めていなかったのは知っています」
    夫人は笑った。
    「あちらの人は、今でも満州国でなく『偽満州国』と呼ぶわ。夢を見たのは日本だけ―――ああ」
    ふと思い出したように、夫人はぽんと手を叩いた。
    「燕華の店で、一度だけ満州国の立役者を見かけたわ……ご存知? 満映の理事長だった方」
    私にもその程度の知識はあった―――映画『ラストエンペラー』にも出てくる、元憲兵大尉・甘粕正彦。日本で関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者とその内縁の妻、甥の少年を虐殺したと言われる人物だ。


    「ちらりとお見かけしただけだけど、瀟洒で端正な方だったわ―――当時、上海租界では日本の軍人はマナーが悪くて、英仏人からはとても評判が悪かったの。燕華の店でもそうだったけど、稀にあの方みたいな空気を持つ日本人がいた……軍人でなく商人とか、ちょっと素性の掴めない人達ね」
    廃帝だった宣統帝を擁して満州国を打ち立てた日本人や、数々の租界地で権力を振るった西洋人。当時の上海租界は魑魅魍魎の渦巻く別天地だったと聞く……そんな魔都で、夫人は何をしていたのだろうと私は訝しむ。



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▲[ 6007 ] / ▼[ 6011 ]
■6010 / 13階層)  愛琳の家・28
□投稿者/ 葉 ファミリー(173回)-(2009/06/28(Sun) 18:24:26)
    「社会勉強よ」
    明快に、夫人は言った。
    「北京の寄宿学校を出て、親戚のつてを辿って上海に出たの。家族は反対したけれど」
    抗日運動の激化に伴い、夫人の家族は住み慣れた撫順を離れ、北京の知人宅の離れを借りていた。
    「一人でも少ない方が借家暮らしは楽だろうし、私が働けば仕送りもできるから―――と言うのは建て前で」
    自由が欲しかった、と夫人は笑った。
    「規則でがんじがらめの学校を出たばかりで、自由に飢えてたの。日系の小さな貿易会社で、事務員の職を見つけたわ」
    そこに勤めるうちに先輩に誘われ、貧民街での慈善活動や困窮している女性の支援活動を知ったと夫人は語った。


    「そういう活動は軍部からも奨励されたわ。今にして思えば宣撫の一環でしょうけど」
    言葉尻に、夫人は皮肉を滲ませた。
    「退廃した中国人に救済の手を差し伸べる大和撫子と新聞に載った事もあるらしいけど、上海の日本人社会では冷淡な扱いだったわ―――お定まりの炊き出しや慰問、路傍に倒れてる阿片中毒者の世話をしてもキリがないって……確かに、当時の上海を形成してたのは弱肉強食の論理だった」
    今の日本でも似たようなものだと私は思った―――日本の福祉制度はちぐはぐで、歴史も浅い。そもそもが共同体から弱者を遠ざける措置制度から発し、そこから脱しきれていない。また、関係機関にコネがあれば良質なサービスを受けやすいという現実も純然と存在する。美辞麗句を連ねた建て前との落差は深いままだ……


    「"―――どのような世界が作られようと、この世は屠殺場と厨房と食卓の混沌"」
    淡々とした口調で夫人は言った。
    「劉燕華の言葉よ。彼女は慈善活動や婦人運動の出資者の一人だったけど、そういった活動の本質を見抜いていた。あくまでも事業の一環で、聞こえのよい投資先に出資していただけだった」


    「そういう事は……」
    私は口を開きかけ、夫人の目を見て言葉を飲み込んだ。
    言う必要もない事だ。
    そういう事は、今でもある。


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▲[ 6010 ] / ▼[ 6012 ]
■6011 / 14階層)  愛琳の家・29
□投稿者/ 葉 ファミリー(174回)-(2009/06/28(Sun) 21:47:38)
    帰り際、いつもは玄関まで見送る夫人が珍しく居間で別れを告げた。
    「話し疲れたみたいだわ―――申し訳ないけど、少し横になるわね」
    見れば確かに少しばかり、目の下の影が濃い。
    「すみませんでした……ゆっくりお休みください」
    つい忘れがちだが、もう90歳近いお年寄りなのだ。私は少し恐縮して身じまいを整え、居間を出ようとした。


    「結子さん」
    背中に声がかかった。
    「もうお聞きかもしれないけど……私が死んだら、この家に住んで下さらない?」
    私は振り返った。
    夫人はテーブルから離れてソファに身を沈め、静かに天井を仰いでいた。
    「……いずれ家庭を持って家に納まる。あなたは、そういう事は考えていないでしょう?」
    私は、返す言葉を持たなかった。
    「私もそうだったから分かるのよ」
    夫人は淡々と呟いた。
    「私は結婚はしたけれど、妻になり家庭を持ったという実感はなかったわ―――夫は良い人だったけど、それだけの事だった」
    こんな声は初めて聞く。暗く、鬱々とした、深い穴の底から響いてくるような声だった。


    「何をして欲しいとも言わないわ」
    夫人は私を見ていなかった。それでも、声には私を逃すまいとする意志が籠もっていた。
    「家も、何もかも、処分してくれて構わないわ。ただ私が死んだ後、むなしく廃墟になるのが忍びないだけ……おかしな話かしら?」
    私はしばらく立ちすくんだ。
    もし切り出されても断るつもりでいたし、今この時もそうするつもりだった。
    だが、何故だか即答する気になれなかった。理性に靄がかかったような、どこか他人事のような感覚が私を包んでいた。


    「急ぎはしないわ、考えておいてね」
    そんな私の様子をよく理解していると言いたげに、夫人は口調を和らげた。
    「……失礼します」
    私は一礼し、居間を出た。

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▲[ 6011 ] / ▼[ 6014 ]
■6012 / 15階層)  愛琳の家・30
□投稿者/ 葉 ファミリー(175回)-(2009/06/28(Sun) 22:19:29)
    玄関を出て、私はぼんやりと辺りを見回した。
    季節柄、薔薇の花は半減したが、それまで目立たなかった生け垣の白い花―――クチナシの花が徐々に増えてきた。一輪でも香気の強いクチナシの花群にめまいを覚え、私は足元がふらついた。


    (……まだ、烏がいる)
    耳触りな鳴き声、羽ばたく音のする方向に目を向ける。薔薇園の片隅、剪定した枝や刈り取った雑草を集めた場所に、数羽の烏が集まっている。
    (モグラかイタチ……小動物でも死んでいるのかしら)
    何となくそちらに歩み寄ろうとした時、私の足元に何かが降った。


    反射的に、私は振り返って上を見上げた。
    二階に続く階段の踊り場に嵌め込まれた窓に、二つの小さな手の平がはっきり見えた。
    「え…………?」
    ぼんやりと濁っていた思考力が停止した。私はその場に凍りつき、強く首を振って目を凝らした。


    手の平は、もう見えなかった。
    私はしばらく呆然と窓を見上げ、それからゆっくりと足元を見下ろした。
    (……まただわ)
    つい先日鞄から出てきたのと同じ、淡い紅色の布の切れ端が落ちていた。私は屈み込んでそれを手に取り、小さく息を吸い込んだ。


    『救命阿』(たすけて)


    たどたどしい、鉛筆の走り書きが目に焼き付いた。



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▲[ 6012 ] / 返信無し
■6014 / 16階層)  愛琳の家・31
□投稿者/ 葉 ファミリー(176回)-(2009/06/29(Mon) 01:09:13)
    アパートに戻った私は鞄を投げ出してベッドに倒れ込み、そのまま泥のように眠りに落ちた。


    ―――頭の隅で、これは普通ではないと分かっていた。たとえ雨でも髪や体に染み付いた花の香りをを飛ばすために車の窓を開けて帰るのに、まとわりつく甘い香りは全く薄れない。
    しかも、それならば頭痛に悩まされるはずなのに、私を捉えているのは脱力感だった……けだるく、熱に浮かされたようで、ふわふわする。体質に合わない鎮痛剤に酔っているみたいだ。
    閉じたまぶたの裏には様々な色彩がちらつき、時間が経つにつれて薄くぼやけ、闇に溶けた。


    ……哄笑が聞こえる。
    女の声。ひどく楽しそうな、残酷な響きの笑い声だ。
    (お気に召して? 貴女を侮辱した軍人さんをお招きしたのよ)
    (やめて―――)
    二人の女の会話が聞こえる。片方は明らかに狼狽し、取り乱している。
    (酷すぎるわ。私がいつ、こんな事をお願いしたの?……早く止めさせて、あの子にあんな事をさせないで)
    あの子?―――私は耳だけを働かせる世界に意識を集中させる。二人の女だけでなく、まだ誰かがそこにいるのか。


    (心配してるのはあの子の事?……ならば尚更、お気になさらず。これはね、あの子がいつもやってる仕事だもの)
    (そんな………)
    取り乱す女の声から力が抜け、もう一人の声はさらに艶やかに、凄みを帯びた。
    (面白いでしょう? 三級国民、蛮族と見下す民族の房事に我を忘れてのめり込む帝国軍人の図―――今は阿片で理性が効かないだけだけど、素に戻ったらどうするかしらね?)
    (そんなの―――生きていられないわ)
    (これ位で生きてられないなら、生きてなくてもいいんじゃない?)
    再び哄笑―――芯から楽しそうな声だった。
    (逝くのなら、今そこでお逝きなさいな、兵隊さん―――無理に戦場で逝かなくたって、極上の足淫の最中に逝く方が幸福というものよ)
    (やめさせて! 口から泡が―――ああ……)


    声が途切れた。
    視界というものがない闇の中を私は漂い、やがて、一言だけ聞き取った。


    (ご褒美をあげましょうね、愛琳)



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▲[ 5972 ] / ▼[ 6015 ]
■6013 / 1階層)  NO TITLE
□投稿者/ ゆうあ 一般人(1回)-(2009/06/29(Mon) 00:23:18)
    いつも読ませてもらってます
    文章が綺麗で引き込まれます
    これからも読ませてもらいます^^

    (携帯)
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▲[ 6013 ] / ▼[ 6017 ]
■6015 / 2階層)  NO TITLE
□投稿者/ 葉 ファミリー(177回)-(2009/06/29(Mon) 09:29:42)
    ありがとうございます。
    なかなか上手く書けませんが、読んで頂けるだけでも嬉しいですm(u_u)m

    (携帯)
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▲[ 6015 ] / ▼[ 6018 ]
■6017 / 3階層)  愛琳の家・32
□投稿者/ 葉 ファミリー(178回)-(2009/06/30(Tue) 01:54:03)
    2009/06/30(Tue) 01:59:00 編集(投稿者)

    眠りは深かったが、どこかで醒めていた。
    全身の力が抜けて意識だけが働く中で、私はそれまでに集めた知識をたぐり寄せる……夫人が生まれたのは1920年。満州国建国より11年早く、その滅亡―――日本の敗戦時には25歳……


    (日本人・満州族・漢族・蒙古族・朝鮮族―――五族協和の王道楽土、民族自決の理念から成る我らの理想郷……)
    瀟洒で端正な紳士が腕を広げて優雅に一礼し、芝居の口上のように滔々と述べる姿が見える気がした。
    (此処は壮麗な砂上の楼閣。古くから住まう者を追い払い、やれお国の策だと新天地だと麗句を連ね、居場所を求める者を根こそぎ植えた、欺瞞と言う名の桃源郷を御覧あれ)


    ……紳士は終戦に臨んで青酸加里を仰いで退場し、それまで権勢を振るった関東軍は、在留邦人を守る義務を放棄した。


    (―――立場が逆になったわね)
    くすくすと言う含み笑い。
    再び、私の耳に声が響いた。
    (お話しした事はなかったけど、私も貴女と同じ撫順生まれよ―――貴女には覚えはないかしら、12歳くらいの中秋節の頃のこと)
    答える声はなかったが、気にする様子もなく声は続いた。
    (日本人が匪賊と呼ぶ集団が、撫順の採炭所に一斉に火をつけ日本人職員を惨殺し―――それに激怒した関東軍が早くも翌朝に、近くの集落の中国人住民を虐殺した……)
    (―――知らないわ)
    細く弱々しい、ほとんど聞き取れない声が抗弁する。
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▲[ 6017 ] / ▼[ 6025 ]
■6018 / 4階層)  愛琳の家・33
□投稿者/ 葉 ファミリー(179回)-(2009/06/30(Tue) 03:02:57)
    (本当に知らない―――当時、あちこちでいざこざがあったのは覚えているわ。でも、父や母からは何も聞いていなかった)
    (他人から聞かされなければ分からないというのは幸福ね)
    忍び笑いを含んだ声が言う。
    (私は悲鳴や呻き声、断末魔でそれを知ったわ。とっさに押し込まれたかまどの中で……両親は家から狩り出され、集落の住民ともども機関銃の掃射を浴びて、焼かれた上にダイナマイトで崩した土砂に埋められた)


    長い沈黙。
    やがて、弱々しい声が呟く。
    (―――私を、憎んでいるのね)
    (私が? どうして?)
    にわかに、不機嫌そうな声があがった。
    (貴女を憎む理由がないわ。関東軍の兵士でも将校でも、貴女の国の皇帝でも同じことよ……私は貴女が好きよ。そうでなければ、こんな話はしやしないわ)
    (……なぜ?)
    問いかける声に、怒りがこもった。
    (ご両親を関東軍……日本人に殺されて、なぜそんな事が言えるの。貴女は)


    (この世は屠殺場と厨房と、食卓との混沌―――)
    歌うような声が響く。
    (あの虐殺の前には、私の同胞の抗日ゲリラが貴女の同胞を襲ったわ―――それからは私達が屠られ解体される役回りだったけど、今は逆だわ。そういう事よ)
    (燕華―――)
    苦しげに声を絞り出す女を遮って、朗らかな声が畳みかけた。
    (だから黙って私の言う通りにしなさい―――もうすぐ、上海にも日本人の居場所はなくなるわ。その気がなくても何でもいいから、あの人の妻として出国するのよ)
    (燕華………)
    (使えるツテは使いなさい。何を運ばされるかも忘れなさい―――あの人は純粋に信じているわ、託されたのはお国を救う文書だと)


    閉じているはずの瞼を静かに閉ざし、私は集中していた意識の手綱を離す。
    聞くに耐えない……だが妙に納得のいく言葉だと思い、そう思う自分を疲れていると感じていた。



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▲[ 6018 ] / ▼[ 6026 ]
■6025 / 5階層)  愛琳の家・34
□投稿者/ 葉 ファミリー(180回)-(2009/06/30(Tue) 22:29:57)
    翌朝目覚めると、私の手には紅色の布が握られていた。


    それを異常だとは思わなくなっていた。
    私は重い身体を引きずりシャワーを浴びて服を着替え、それまで一度も、急に休んだ事のない職場に電話をかけた。
    仕事には関係のない鞄に免許証や財布を詰め替えて身なりを整え、少し考えてからあの布に再び手を伸ばした。


    鼻先に押し当てると化粧粉の香りと微かな悪臭、そして花に似ているが花ではない、こちら側の世界では嗅ぐはずのない芳香が鼻腔を伝わり、脳を満たした。


    悪酔いする程ではなかったが、運転には細心の注意を払った―――もちろん事故も怖かったが、誰かに停められるわけにはいかない道程だ。


    市街地を抜け、山々の稜線が近づく頃に雨は止んだ。私は車の窓を開け、水気を含んだ風を受けてようやく寛いだ……夫人の屋敷に続く峠は螺旋を描く緑陰のトンネルだ。ひとつ、またひとつとカーブを曲がり、上へ上へと行くにつれ、俗世はどんどん遠ざかる……


    「あんた―――」
    車を降りて、隣にもう一台の車があるのを眺める私に声がかかった。
    無感動な目を、私は向けた。門の内側、昨日、烏が集まっていた薔薇園の一角に、見覚えのある男が膝をついていた。



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▲[ 6025 ] / ▼[ 6028 ]
■6026 / 6階層)  愛琳の家・35
□投稿者/ 葉 ファミリー(181回)-(2009/06/30(Tue) 22:56:00)
    「何だ、これは……あんたは知ってたのか? こんな所に……」
    事業所の窓口で粘っていた男は身体をずらし、黒い土を掻き分けた地面を指差した。
    「……蠅と、烏がたかってたんだ。もしやと思って来てみたら、指先が―――」
    私は近付きもせずに上を見上げた。追い払われてなお、数羽の烏が未練ありげに空を舞っていた。


    ……臭いだけで分かる。泥まみれの青白く膨れた手指も見えているが、この腐臭には何の感慨もない。よく知っている臭いというだけだ。
    「おい、何とか言え」
    だが、激上した男が土中から掴みあげた物には少し驚いた―――男はそれを私に投げつけた。完全に原型を留めた頭蓋骨は鈍い音をたて、石畳に転がった。
    「まだあるぞ―――ひとつやふたつじゃない。女房だけでなく、一体何人埋まってるんだ?」
    男はヒステリックに怒鳴り散らした。


    私はぼんやりと頭を巡らし、立ちすくむ両脇を駆け抜ける白いものを見送った。
    悲鳴と怒号、獣の唸り。それらはしばらく続いて、そして止んだ。
    束の間の野性から従順なボルゾイに戻った瑞雪と雪亮が鼻先から胸まで赤く染めたまま、私に寄り添い尻尾を振った。



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▲[ 6026 ] / ▼[ 6030 ]
■6028 / 7階層)  愛琳の家・36
□投稿者/ 葉 ファミリー(182回)-(2009/07/01(Wed) 00:03:48)
    「―――お客様、ようこそ」


    すらりとした妖艶なドレスをまとった麗人が、扉を開けた私の腕を取る。
    「愛琳」
    甲高い、無機質な声が飛ぶ。人ではない、止まり木に細い鎖に繋がれた鸚鵡の声だ。
    「愛琳。お前の髪は夜の森、お前の瞳は黒い水晶。お前の唇は―――」
    私は部屋の奥に目を凝らした。
    幾重もの薄絹の帳を巻き上げた古風な寝台に、裸の女と着衣の少女が見える。
    裸の女はまだ若い。私と同じくらい……二十代半ばほどの清楚な女性で、剥き出しの乳房も下肢も隠さず、ぐったりと仰向けになっている。


    「あの淑女は今、桃源郷に遊んでいらっしゃいますわ」
    私の耳元に息がかかる。
    「……何も心配ありません。中毒になるほどの阿片も必要ない―――純粋な快楽の提供に、外国人に国を傾けられた阿片を使うなど、私どもには恥の一文字……ここではそんなものより雅で深い、宮中でしか許されなかった歓びを堪能して頂けますわ」


    古風で豪奢な衣をまとった少女は横たわる女の腰に跨り裳裾をつまみ、そこから覗かせた足を裸の身体に滑らせる―――頬から首筋、首筋から唇、唇からまた首筋……
    寝台の隅に小さな紅い靴、解かれた長い布が置かれている。少女は素足なのだ。


    「………ああ」
    鼻先に足を近付けられた女が呻く。
    恍惚とした、溜め息混じりの声だった。
    「―――纏足は、殿方だけのものではありませんわ」
    私の両肩に手を載せて、背後から頬を寄せながら麗人が囁いた。
    「野蛮で残酷……ならば何故、その妙味を試した方々が虜になるとお思い? そこに魅力があるからよ」
    しなやかな指が頬を撫で、襟元から滑り込む。
    「金蓮の足裏は柔らかく滑らかで、その花弁を合わせれば、殿方をとろかす秘部に変わるわ。女はそこに差し込む剣を持たないけれど、肌に這う感触は絹か天鵞絨……不義を働くわけではないから、貞淑な奥様方にも受けが良いのよ」


    寝台の上の女は小さな足先に乳首を撫でられ、喘いでいる。
    恥じらいからか、見知った相手から受ける快楽を良しとしない為か、両手は少女を押しのけようと虚しく宙を掻いている。しかし跨る少女の衣の下から伸びる両脚は高く掲げられ、少女の腰に絡みつく……


    (携帯)
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■6030 / 8階層)  愛琳の家・37
□投稿者/ 葉 ファミリー(183回)-(2009/07/01(Wed) 22:11:12)
    「あなたは……」
    その声は私の声であり、同時に寝台の上で喘ぐ女の声だった。


    「あなたは、自分の娘にあんな真似を……?」
    「娘なら、たくさん居りますわ」
    朗らかな声がそれに答える。
    「山東生まれ、福建生まれ、甘粛、四川、河南、雲南―――お好みならば新彊や蒙古の混血種でも」
    「あの子は……清朝の末裔だと」
    私は―――寝台の女性は、声を尖らせる。
    綺羅錦繍の衣に珊瑚や翡翠の房を垂らし、少女は無心に足先で奉仕を続けている。
    その顔には表情がない。柔らかい微笑みを浮かべているが、それは衣装や装身具と変わりない、仮面のようなものだった。


    背後から、私の首にしなやかな腕が巻きついた。
    「貴種の姫君も、娘の数だけ居りますわ」
    悪びれない口調で洋装の麗人は言い、私の頬に頬を寄せた。
    「―――蒼天、既に死す」
    舶来の甘い香りのする口紅が、頬になすりつけられる。
    「これは漢王朝の終焉を意味する言葉だけれど、私達の清王朝もとうの昔に滅んでしまった―――満州国の建国より、ずっと前にね。
    私達にはもう皇帝なぞいなかった。天意により即位し、自らの意志で蕩尽し、殺戮の果てに自滅するような君主はもはや」


    ならば、自ら貴種を生むしかないではないかと言って彼女は笑った。


    (携帯)
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■6031 / 9階層)  愛琳の家・38
□投稿者/ 葉 ファミリー(184回)-(2009/07/01(Wed) 23:05:46)
    「ああ――――」
    ひときわ高い、切なげな声が上がる。
    寝台の上の女性は自ら脚を大きく開き、もはや場末の娼婦と変わらない媚態を滲ませ腰を浮かせる。
    その腰から滑り降りた少女は優雅な物腰を崩さず脚の間に居場所を定め、親指以外を折り畳まれた小さな足を差し伸べた。


    「………ちがう」
    身体は悦楽の予感にのたうちながら、必死に正気を絞り出した声があがった。
    「これは間違った事―――大陸の人間である貴女が、何故こんな使い方をするの。纏足は、決してこんな……」
    「まだ、そんな事を言うの?」
    洋装の女性の声が、鞭のような響きを帯びた。
    だが、それはすぐに消えた。
    「本当に、貴女は素直で純粋ね―――恩義を感じるのもいいけれど、貴女に願掛け靴を贈った人が、芯から貴女を可愛がったと言えるのかしら? 同じ年頃の娘を亡くし、貴女が健やかに生きているのに? 自分達より収入や待遇が遥かに良い日本人の―――東洋鬼子の子供なのに?」
    反発の声はなく、静かなすすり泣きが部屋に流れた。


    「……受け入れなさい」
    洋装の女性は部屋の隅のテーブルに歩み寄り、そこに並べられていた細々とした品物から、まずは玉でできた小壺の蓋を開けた。
    「素直で純粋なだけでは生きてゆかれない―――快楽と権力を貪る特権は、貴女にもある。それを自覚しなさい」
    小壺にはとろりとした琥珀色の液体が入っている。女性は次に取り上げた長い針をそこに浸し、傍らの、火の灯ったランプにかざす。
    「口で言っても、貴女は理解しないでしょう?」
    温められた液体は針の先で固まり、再び小壺に浸され、温められる。何度か繰り返すうちに、針の先に琥珀色の玉ができる―――煙泡(イェンパオ)と呼ばれる、吸煙用の阿片の火種だ。
    「身体で知る事より確実なものはないわ……百の文言でなく、一時の快楽で理解しなさい。現実を」
    女性は煙泡を小皿に転がし火を点けると、煙の立ち始めたそれを長いキセル―――煙槍(イェンチァン)に移し、私を振り返った。


    「……お近づきのしるしに、一服いかが?」
    凄艶な微笑だった。
    私はたじろぎ、別の方向から響く嬌声にびくりと身体を震わせた。


    纏足を秘部深くに飲み込んで、若い槙原夫人が我を忘れて叫んでいた。



    (携帯)
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■6032 / 10階層)  愛琳の家・39
□投稿者/ 葉 ファミリー(185回)-(2009/07/02(Thu) 00:36:49)
    2009/07/02(Thu) 20:54:58 編集(投稿者)

    極彩色の翼をはためかせ、鸚鵡が歌う。


    「愛琳。お前の髪は夜の森、お前の瞳は黒い水晶。お前の唇は深海の紅珊瑚、お前の肌は蜜を溶かしたつめたい白磁―――お前の足は金の蓮、一足ごとに蓮華が開く………」


    ここまでだ、と私は思った。
    扉を開ける前に握り込んでいた千枚通しを、私は一息に自分の大腿に突き刺した。
    鋭い痛みが走ると同時に、豪奢な遊郭の客間がかき消えた。
    目の前にあるのは見慣れた居間と、ソファに端座する夫人の姿だけだった。


    「―――道具立ては要りません」
    僅かな狼狽の表情を見せる夫人に、私はゆっくりと呼びかけた。
    「薬物は嫌いです……お話ならば、言葉で伺います」
    「気付いてたのね」
    夫人は小さく息を吐き、静かに呟いた。
    「効くのが遅いとは思っていたわ……前の人には一度で昏睡するくらいに焚いたから、年のせいで適量が分からなくなったかと思ってた」
    私は力なく首を振った。
    「……気付いたのは、昨夜です」
    もっと早くから疑うべきだった。
    ここに来る度に頭痛がしていたのに、それが消えたのは香りの成分が麻酔のものに変わったからだ。そして全身のけだるさ、幻覚じみた夢……


    「前の人と言うのは、庭にいた女性ですか」
    "埋められていた"とは、あえて言わなかった。
    事もなげに夫人は頷き、ソファに深く座り直した。
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■6033 / 11階層)  愛琳の家・40
□投稿者/ 葉 ファミリー(186回)-(2009/07/02(Thu) 01:22:20)
    2009/07/02(Thu) 21:31:20 編集(投稿者)

    「………なぜ?」
    暗く沈んだ声で、私は尋ねた。


    「あの人は、私の前に来ていたヘルパーですね?―――あの人を入れて三人いたと聞いていますが」
    「あとの二人は、お金で」
    小娘のような仕草で首を傾げ、夫人はあっさりと呟いた。
    「あなたも会っていたのよね?……三人目はしたたかで、まだ絞れると踏んだのよ。あとの二人は清々しく、低賃金と重労働の世界からおさらばしたようだけど」
    語尾に棘があった。
    私は思わず目を背けた。


    「何故なんです」
    私は同じ質問を繰り返した。
    「何故、あの人を……あの人だけじゃない。私もいずれ、同じ所に埋められたんですか?」
    夫人は大仰に目を見張る。
    「まさか」
    心外そうな口調だった。
    「あなたに阿片を焚いたのは、あなたがお金に目の色を変える人ではないからよ……今まで、そんな人はいなかった。私の後を託せる人は」


    私は再び、目を背けた。
    「―――私は、それをお断りするためにここに来ました」
    一言一言を噛み締めながら私は言った。
    「先程仰られたように、私がいるのは低賃金と重労働の世界です。お金に魅力がない訳がない―――けれども前にも申しましたが、私には頂く理由がありません」
    「私にはあるわ」
    夫人は即座に言い返した。
    「あなたには無くても私にはある……それを分かって頂くために阿片の夢を見せたけど、あなたがお望みなのは言葉なのね」


    私は答えず、室内に視線をさまよわせた。
    紫檀の箪笥に掲げられ、芳香を放つクチナシを捧げられた写真の少女がこちらを見ていた。
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■6034 / 12階層)  愛琳の家・41
□投稿者/ 葉 ファミリー(187回)-(2009/07/02(Thu) 01:45:53)
    2009/07/02(Thu) 22:15:48 編集(投稿者)

    自傷したために五感の働きは殆どまともになっていたが、それでも頭の芯には妖美な幻覚の余韻がこびりついていた。


    「中毒になるほどの量ではないわ」
    安心させようと思ってか、夫人が穏やかに呼びかけた。
    「燕華が経営していた遊郭でのもてなし方よ―――そうとは悟らせずに阿片を焚いて、並では味わえない快楽に酔わせるの。夢見心地の最中に要人から機密を聞き出したり、暗示を与える事もあったわ」
    私は反射的に眉をひそめた。
    他人から見れば些細なものでも、勝手に覗かれたくないものならば私にもある。
    それを敏感に察し、夫人は尋問めいた事はしていないと言い添えた。
    「……私も燕華に同じ思いで喰ってかかった。因果な話ね」
    ―――あの遊郭の一室の、若い頃の全裸の夫人が脳裏に蘇る。私はいたたまれずに目を伏せた。


    「……初めの質問に戻らせて下さい」
    気を取り直し、口を開いた。
    「どうしてヘルパーにお金を渡したり、庭に埋めたりしたんですか……?」
    夫人は僅かに微笑んだ。
    「あなたも、不審に思い始めていたでしょう?」
    苦笑いに近い笑顔。
    「あの子は悪戯っ気が強くて、大人しくしててくれないの……昔から、お手伝いさんが居着かなくて困ったわ。幽霊屋敷と思われるのは構わないけれど……」
    私は一瞬、聞き違えたかと思った。
    『幽霊屋敷』では―――ない?


    「あら、まあ」
    夫人も一瞬ぽかんと私の顔を見つめ、それから小さく吹き出した。

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▲[ 6034 ] / ▼[ 6036 ]
■6035 / 13階層)  愛琳の家・42
□投稿者/ 葉 ファミリー(188回)-(2009/07/02(Thu) 02:22:40)
    2009/07/02(Thu) 23:02:56 編集(投稿者)

    「鋭い人だと思ったけれど、純な所もおありなのね―――私は阿片の夢を見せたけど、雪亮に品物を持たせたりはしてないわ」
    私は背後を振り返る……瑞雪と雪亮は生乾きの血がこびりついた前肢や胸を舐めながら、のどかに絨毯に寝転がっていた。
    (あれは………)
    窓辺に翻る人影、押し当てられた小さな手の平。あれは幻覚ではなかったのか。


    「愛琳は、この家にいるわ」
    穏やかな微笑みを浮かべて夫人が言った。
    「敗戦時、燕華に連れて行けと言われたの……燕華の妓楼にはたくさんの娘がいたけれど、私が愛琳に惹かれてるのを知っていたから。
    幼い頃に燕華に買われ、纏足させられ、既に阿片にも冒された、ただ血が通っているだけのお人形……でもとても美しく、どこか胡蝶に似ていたわ」
    夫人の少女期に、纏足の施術に失敗して阿片中毒になって死んだ幼馴染み―――妓楼の娼妓と、何が重なったと言うのだろうか。


    「上海を離れる時、私は匿名で当局に密告したの。燕華は中国人でありながら、日本に軍事機密を流していたって」
    私は顔を上げ、夫人を見つめた。
    阿片の夢の中で聞いたやりとり、夫人が受けた仕打ち―――
    それは屈辱だったのか、悦楽だったのか……
    「日本の敗戦後、中国では売国奴狩りが始まったの。李香蘭は戸籍で日本人だと証明されて助かったけど、日本人の養女になった筈の川島芳子は、養家に入籍されていなかったために銃殺刑に処せられた……一度敵と見なしたら、大陸の人達は愛新覚羅の姫君でさえ容赦はしない。
    燕華が捕縛され有罪になったのは、帰国してずいぶん経ってから……彼女がそれから、どうなったのかは分からないわ」


    (―――貴種が死に絶えてしまったら、自分で生むしかないでしょう?)
    凄艶な、傾国の麗人と呼ぶにふさわしい美貌が脳裏に浮かぶ。

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▲[ 6035 ] / ▼[ 6041 ]
■6036 / 14階層)  愛琳の家・43
□投稿者/ 葉 ファミリー(189回)-(2009/07/02(Thu) 09:54:36)
    2009/07/02(Thu) 23:42:32 編集(投稿者)

    「燕華という人は、あなたを……?」
    それはそのまま、夫人は燕華を愛していたのかという問いだった。


    「分からない」
    夫人は少し疲れた表情で首を振った。
    「今でも分からない。憎まれていたのか、好かれていたのか―――私はね、密告風情で意趣返しができるとは思っていなかった。燕華はとても用心深かったし、役人も賄賂や妓楼で買収していたのを知っていたから……だから、密告しても捕縛などされないと思っていたのよ」
    「それでも、逃げずに捕縛されたのは……」
    私の言葉に、夫人は再び首を振った。
    「私はある時点から、物事に自分に都合の良い解釈はしないと決めているの……燕華には燕華の美学があるわ。そして私の後半生には、過去に酔うゆとりなど無いの」


    (貴種が死に絶えたなら、自分で生むしか………)
    慄然として、私は現実に引き戻された。
    「―――どうして私がお金に困らないのか、不思議に思った事はない?」
    畳みかけるように、夫人は言った。
    「燕華のパトロンだった人がね、自分の死後も、私が暮らし向きに困らないようにしてくれてるの―――その人はA級戦犯として裁かれたけど、死刑判決を受けるべき証拠がなくて服役だけで済んだ……敗戦直後、その証拠を持って帰国したのが私なのよ。正確にはそれを持ち帰る人と結婚するように、燕華が取り計らってくれたんだけど」


    夫人の顔が微かに歪んだ。

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▲[ 6036 ] / ▼[ 6042 ]
■6041 / 15階層)  愛琳の家・44
□投稿者/ 葉 ファミリー(190回)-(2009/07/03(Fri) 00:45:40)
    「私は、自分だけ逃げた」
    抑揚のない声で夫人は言った。
    「両親さえどうなったか分からない……それだけ慌ただしい出発だった。友達や同僚、お世話になった人、後に消息が分かった人など皆無に近いわ。大陸で多くの日本人が逃げ惑う中、私は軍艦に護衛された客船に乗っていたのよ」



    ―――日本鬼子輸了
    ―――満州也完蚤了
    (日本軍はもう敗けた。満州国もなくなった)

    在留邦人、特に満州に入植していた日本人は敗戦後、言語を絶する苦難を強いられた。
    駐留していた関東軍は民間人を残して四散し、突然のソ連軍侵攻や日本人に恨みを持つ暴徒の襲撃、強制収容所への連行を防ぐものもなく、その混乱は数多の虐殺や暴行の犠牲者や自決を選ぶ者、残留孤児を生み出した……


    「大陸での同胞の悲劇を知るたびに、愛されていたのかもと思うのよ」
    とても罪深い事だけれど、と夫人は言った。
    「燕華は決して私とは寝なかった。情人は男女問わない人だったけど―――それを思うと、やはり憎まれていたようにも感じるの。愛琳を託した事だって―――」
    そこまで言って、夫人はソファに身体を投げ出した。


    「……いて下さるわね、ここに」
    覆い被さるような口調で、夫人は言った。
    「お分かりでしょうけど、私にはもうあまり先がないの。私がいなくなってから、あの子と暮らしてくれる人が必要なのよ」
    私はその場に立ちつくした。
    熱に浮かされたような声、隠しようのない落ち窪んだ眼、青白い顔―――夫人はほぼ間違いなく薬物に冒されている。凛然とした姿を保てたのは、私が訪れる限られた時間だけだったのかもしれない……


    「あの子も、それを望んでいるわ」
    私はぴくりと身体を震わせ、反射的に箪笥の上の写真を振り返った。
    (ちがう………)
    大きな瞳を見開いて、今にも叫び出しそうな表情でこちらを見つめる、小動物めいた非力な少女。
    夫人と一緒に日本に来たのなら、既に少女である筈がない。
    いや、そればかりか―――



    (携帯)
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▲[ 6041 ] / ▼[ 6043 ]
■6042 / 16階層)  愛琳の家・45
□投稿者/ 葉 ファミリー(191回)-(2009/07/03(Fri) 01:14:57)
    2009/07/03(Fri) 01:18:03 編集(投稿者)

    私より早く、絨毯に寝そべっていた瑞雪と雪亮が気配を察した。
    居間の扉に二頭が飛びつき、嬉しそうに尻尾を振る……音もなく扉が開き、私は息を飲み込んだ。


    「待ちきれなかったのね、愛琳」
    ソファに身を沈めた夫人が呟いた。
    「少しだけ待ってちょうだい―――今、支度するから……」
    夫人がもの憂げに身を起こし、のろのろとソファから起き上がるのを私は見てはいなかった。
    愛琳―――小柄な身体に豪奢で重たげな衣をまとい、歩き始めたばかりの幼児のようなぎごちない足取りでこちらに近付いて来る少女を、私は見つめた。


    「そんな――――」
    口の中で舌が凍りつく。血染めの瑞雪と雪亮を従えた少女は、私にちらりと目を向けて微笑んだ。
    私はぞっとした……その笑顔はとろけそうに美しかったが、古風な濃い化粧でも隠しきれないほどの高慢さに満ちていた。


    「……日本に来てから、この子は泣いてばかりだったの」
    居間の片隅で背中を丸め、煙膏や煙槍を盆に整えながら夫人が言った。
    「あまりにも従順に、妓楼の生活に慣れさせられたのね。この子は燕華の命令しか聞かず……それなしには生きていけない子だったの」
    夫人は急に貧相に、十や二十も老け込んだように見えた。
    「……二年目に、この子は一度死んだのよ。どんなに手を尽くしても食べなくて、みるみるうちに衰弱して……止めさせていた阿片を与えるしかなくなって」


    誰に聞かせるためなのか、夫人は早口に喋り続けた。

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▲[ 6042 ] / ▼[ 6063 ]
■6043 / 17階層)  愛琳の家・46
□投稿者/ 葉 ファミリー(192回)-(2009/07/03(Fri) 01:50:38)
    「―――この子が死ぬ度にね」
    震える指先で掴んだ物を何度も取り落としながら、夫人は続けた。
    「先刻話したでしょう、この家と生活費をお世話してくれた方のお身内にお願いすると、元気なこの子を連れて来てくれるの―――まだ幼い、纏足も始めていない、汚れなく健やかな愛琳を」
    ―――私は無意識に後ずさり、みすぼらしい風情で作業に手間取る夫人とそれを眺める少女を見比べた。
    夫人は完全に、びくびくと少女の顔色を窺う下僕になり果てていた。


    不意に、少女が動いた。
    見覚えのある髪飾りが私の目の下を通り過ぎた―――小さな珊瑚玉がしゃらしゃらと音をたて、宙を泳ぐ。
    思いもかけぬ素早さだった。少女は夫人に歩み寄り、小さな足を振り上げると、吸煙道具の支度にまごつく夫人の腰を蹴り上げた。玉や青銅、精緻な造りの吸煙道具が音をたてて辺りに散らばった。


    夫人は絨毯の上に倒れ込み、私はようやく悲鳴をあげる。
    「やめて――――」
    声こそ出たが、身体が動かない……少女は倒れた夫人の腰に纏足靴の先を食い込ませ、私を振り返って微笑んだ。
    (この婆さん、いつもこうなのよ)
    そう言いたげに少女は笑顔で首を振り、足先で靴を脱ぎ捨てた―――少女は、足布を巻いていなかった。
    「ああ……愛琳」
    剥き出しの足先を突きつけられて夫人は呻き、震える両手で包み込む。


    開ききり、枯れ始めたクチナシの香りがにわかに強くなる。
    甘く濃密な、生きながら腐敗するものの香りだった。


    (携帯)
完結!
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▲[ 6043 ] / ▼[ 6064 ]
■6063 / 18階層)  NO TITLE
□投稿者/ パト 一般人(1回)-(2009/07/13(Mon) 16:40:41)
    一気に読んでしまいました。

    ここで完結なのですか?最後が残念な感じです。
    すごい引き付けられたので余計。

    その後はないのかなぁと

    (携帯)
[ 親 5972 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 6063 ] / 返信無し
■6064 / 19階層)  NO TITLE
□投稿者/ 葉 ファミリー(196回)-(2009/07/14(Tue) 02:47:24)
    読んで下さってありがとうございます。
    ここまでしか考えていませんでした。

    大抵、最後の場面を先に決めて、そこに行きつくように書きます。

    最近はそれがちょっと長くなりすぎるので、いかんなあと思っています。

    エロくないのも。


    (携帯)
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