| 疲れた。 もう疲れた。 疲れたよ…
「―――あかん」 いつものように画室から出て、縁側から庭を見やったあのひとが息を飲む。 「先生、奥様が」 室内に短く切迫した声を投げ、あのひとは小走りに足袋のままで庭に飛び出す。 父が私達には一顧もくれずに後に続く。 私と環は縁側で、そう言えば随分前から罵り合う声や気配が止んでいたとようやく思いあたって顔を見合わせ、慌てて庭に飛び降りる。 庭の池のすぐ横で、私の母が呆けて座り込んでいた。そして環の母が地面に仰向けに横たわり、頭の下と近くの庭石に、赤い顔料のようなものが飛び散っていた。
父は母の肩を揺すり、あのひとは動かない環の母に覆い被さり、せわしく声をかけていた。 地面に一枚の絵があった。そこにも僅かに赤い飛沫が染みていた。 青を基調にした、丈なす黒髪の王朝美女の立ち姿をぼんやり認めた次の瞬間、父が獣めいた呻きと共に土を蹴り、母屋に駆け出した。 「……見たらあかん」 あのひとが立ち上がり、呆然と立ちすくむ私と環を懐に抱え込む。 「目ェ閉じて、一緒にお家に入りましょう。すぐにお医者さんが来てくれはるから……」
救急車が来て庭が騒然となった時、あの絵は地面から消えていた。 寄越された弟子に連れられて環も帰り、父は後からやって来た別の救急車に母を乗せ、一緒に乗って行ってしまった。庭には私と、あのひとだけが残された。
地面には、点々と飛び散った血だけが残っていた。 「見たらあかん」 あのひとはまた同じ言葉を繰り返し、私を胸に抱き寄せた。
(携帯)
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