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■5972 / 親記事)  愛琳の家
  
□投稿者/ 葉 軍団(144回)-(2009/06/10(Wed) 21:48:01)
    2009/06/13(Sat) 22:53:55 編集(投稿者)

    『愛琳(アイリン)

    お前の髪は夜の森
    お前の瞳は黒い水晶
    お前の唇は深海の紅珊瑚
    お前の肌は蜜を溶かしたつめたい白磁

    お前の足は、金の蓮…』


    街を離れて更に一時間ほど車を走らせ、いくつかの峠を過ぎた場所、道の行き止まりにその洋館がある。
    季節にもよるだろうが、今訪れれば確実に目を惹くのは、おびただしい薔薇の花。大輪のもの、小粒なもの、艶やかな花弁を重ねたものや可憐な一重咲きのもの……色彩も絵の具箱をひっくり返したように夥しく、梅雨入りしたばかりの細かい雨を浴びて鮮やかに咲き乱れている。

    国道からは既に遠く離れており、近くに民家はない。勤務先から渡された地図を頼りに初めて訪れた時には、いつの間にかタイムスリップでもしてしまったのかと本気で思った―――彫刻を施された背の高いアーチ状の鉄の門といくつかの尖塔を持つ石造りの洋館は、古いゴシック・ホラーを連想させた。ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」、シャーリイ・ジャクスンの「山荘綺談」、リチャード・マシスンの「地獄の家」……その系統を。


    だが、多くの怪奇小説の狂言回しの例に漏れず、私もまた最初からこの屋敷にさしたる恐れも畏怖もなく、ただ自分の役割を果たす事だけを考え、踏み入れた。


    ……いとも無造作に。
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■5973 / ResNo.1)  愛琳の家・2
□投稿者/ 葉 軍団(145回)-(2009/06/10(Wed) 22:35:12)
    2009/06/28(Sun) 15:53:29 編集(投稿者)
    2009/06/13(Sat) 23:05:25 編集(投稿者)

    「ちょっと訳ありのお宅なんだけど……」


    事務所で私を手招きした主任は、他の職員を憚るように声をひそめた。
    「認知症や障害はないの。ただ高齢なだけで―――だから身体介護でなく、生活援助になるんだけどね」
    渡された書類―――サービス計画書に目を落とし、私は呟く。
    「……遠いですね」
    違和感は住所だけでなく、計画策定者の氏名もだ。この訪問介護事業所は、事業所のケアマネージャーが担当する利用者宅への訪問が原則なのに。
    「そこの社協(社会福祉協議会)が入ってたんだけどね」
    主任は首を捻りつつ、困ったような声で続けた。
    「とても気難しい方みたいで、うちに任せたいって言ってきたのよ。あそことは付き合いがあるから、断り切れないし…」
    「往復で三時間、生活援助3なら訪問時間は一時間半…」
    私は書類と主任を見比べた。
    ヘルパー稼業は実働でナンボ。数をこなさねば稼ぎにならない。よそに回る時間が無くなるのは、損でしかない。
    「週一回でいいの。特例だから、割増つけるわ」
    ほっとしたように主任は言った。


    (割増と言ってもなあ…)
    断る権利がないのもまた、この稼業には付き物だ。
    (大正9年撫順生まれ、終戦時は上海在住、亡夫は貿易商。福祉事業や婦人解放運動に参加。子供なし、係累なし…)
    渡された書類には経歴が記されているが、人の人生や人となりなぞ、そう簡単に紙に書き写せるものではない。
    (……一体、どんな人なのやら)
    ひと通り目を通した書類や地図を鞄に詰め込み、私はいつものように覚悟を決めた。
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■5974 / ResNo.2)  愛琳の家・3
□投稿者/ 葉 軍団(146回)-(2009/06/12(Fri) 00:19:22)
    2009/06/13(Sat) 23:08:12 編集(投稿者)

    ……呼び鈴を押し、数刻の後に門に手をかけた。
    閂は下りていなかった。鈍くきしんだ音と共に門が開き、私はあらためて薔薇園の色彩にたじろいだ。
    (かなりのお金持ちみたいだけど……)
    職業柄、既に働き始めた観察眼で辺りを見渡す。
    素人目にも、薔薇園はよく手入れされている。定期的に職人が入っているのは一目瞭然だった。
    (それだけの資産家なら、時間雇いのヘルパーなんて必要ないのに)
    玄関に続く石畳を踏みながら、私はひとりごちる。よほどの人嫌いなんだろうか?……


    一歩ずつ進むにつれて、むせ返るような薔薇の香りとは違う甘い匂いを感じた―――風もなく、しとしとと降る雨の中で空気はあまり動かない。微かだがどこか粘りつくような濃密な香りの源を探して立ち止まる私の前に、不意に白いものが駆け寄った。


    「……瑞雪、雪亮、臥! 臥!」
    白いもの―――二頭のボルゾイ犬は、おののく私の前に頭を垂れ、従順に身を伏せた。
    とっさに向けた視線の先に、開け放たれた扉とそこに立つ人影が見えた。
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■5975 / ResNo.3)  感想
□投稿者/ 真理 一般人(8回)-(2009/06/12(Fri) 02:24:57)
    今回もおもしろそう^^
    とても楽しみにしています♪
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■5976 / ResNo.4)  NO TITLE
□投稿者/ 葉 軍団(147回)-(2009/06/13(Sat) 00:50:46)
    面白くなればいいのですが……

    また、気長にお付き合い下さい(*u_u)

    (携帯)
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■5977 / ResNo.5)  愛琳の家・4
□投稿者/ 葉 軍団(148回)-(2009/06/13(Sat) 01:30:20)
    2009/06/28(Sun) 15:58:26 編集(投稿者)
    2009/06/13(Sat) 23:38:50 編集(投稿者)

    「……瑞雪(ルイシュエ)に雪亮(シュェリァン)、雪のように明るいという意味よ」


    紅茶を勧めながら、槙原夫人は唄うように呟いた。
    「昔、大陸にいた時にも飼っていたの―――年を取ると、何だか無性に恋しくなってね」
    二頭の純白のボルゾイは、毛足の長い絨毯の上で身体を伸ばして寛いでいる。四肢と鼻面の長い、とても優美な犬だった。
    「犬嫌いの方でなくて良かったわ。この子たちを怖がる人も結構いるのよ」
    「犬は好きです」
    繊細な拵えのティーカップをおずおずと両手で包みながら、私も呟く。
    外観も瀟洒だが、通された居間はヘルパーの制服が恥ずかしくなるような部屋だった。
    精緻な彫刻の入った紫檀の箪笥、テーブルセット、青貝を嵌め込んだ衝立……しつらえは洋間だが、家具調度にはアジアの空気が漂っている。
    未だに狐につままれたような心地がする―――それはこの洋館だけでなく、その主に対してもだ。


    (大正9年生まれなら、もう90近い筈だけど―――)
    それなのに夫人は肌も滑らかで皺も目立たず、背筋もすんなり伸びていた。
    髪こそ白銀に近いグレーだが、品よくまとめて淡い色のスカーフで包んでいる。顔立ちは端正に整っており、輪郭がやわらかい。たとえ60代と言われても違和感のない外見と物腰だった。
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■5978 / ResNo.6)  愛琳の家・5
□投稿者/ 葉 軍団(149回)-(2009/06/13(Sat) 02:02:38)
    2009/06/14(Sun) 00:15:37 編集(投稿者)

    私は当惑した。
    (よその事業所が匙を投げるくらいなら、よほど癖のある人だと思ってたけど…)
    夫人の立ち居振る舞いや物言いからは、私が知る限りの『訳ありの利用者』は感じられない。
    勿論、人には裏もある。一見にこやかで腰の低い人が、名のうてのクレーマーという事もある。ただ大抵は、どこかにその棘が現れるものだが…


    「そんなに緊張なさらないで」
    夫人がやわらかい笑みを向ける。
    「事情は何となく分かるけど、お若い方を困らせて喜ぶような年寄りじゃありませんよ。心配しないで」
    「……いえ、そんな」
    私は恐縮して肩をすぼめる。
    「お買い物やお掃除など、家事援助をご希望だと伺ってきましたが……」
    ホームヘルプサービスは時間と領域が厳密に定められ、それを逸脱する事はできない。とりあえず確認しておかなければと私は焦った。
    だが、夫人は鷹揚に手を振った。
    「援助だなんて、こんな独り住まいだし、お願いする事もあまりないの―――こうして訪ねてきて頂いて、話相手になって頂くだけでも有り難いわ」
    使っている部屋もごく一部だし、と夫人はつけ加えた。


    私は更に困惑したが、契約書だけは事業所に持ち帰らねばならないからとサービス内容を確認し、何とか契約の成立と確認までをやり終えた。
    まずは初回訪問の目的を果たして辞去する間際、私は甘い匂いを嗅いだ。
    ……屋敷に入る前に、薔薇園の中でも嗅いだ匂いだった。私は頭を巡らせ、今まで背中を向けていた紫檀の箪笥を振り返った。


    (クチナシ……)
    箪笥の上に、瑞々しい濃緑の葉との対比も鮮やかな、八重咲きの白い花が活けられていた。
    (―――献花?……)
    私は目を凝らした。活けられた花の後ろには、写真を納めた額が立てかけられている。その写真に視線を移し、私はひそかに息を飲んだ。
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■5979 / ResNo.7)  愛琳の家・6
□投稿者/ 葉 ファミリー(150回)-(2009/06/14(Sun) 23:56:40)
    ……白黒の、とても古い写真のようだった。
    まだ年端もいかぬ少女の胸から上のアップだが、明らかに日本人ではない……京劇俳優のような豪奢な刺繍入りの民族衣装、独特の形に結い上げられた髪に大輪の牡丹の花を挿した、人形のような美少女だ。
    気付かなければ見過ごしかねない儚さだが、一度見れば引き込まれそうな表情だった―――目尻に紅を掃いた瞳は大きく見開かれ、形のよい唇は僅かに開いている。おそらくスナップ写真を引き伸ばしたものだろうが、少女はこちらを見て怯えたように目を見張り、微笑む寸前にも、恐怖に叫びをあげる寸前にも見える。そして、そのどちらとも取れる表情が、少女の繊細で儚げな美貌を引き立てていた。


    「……ああ、その娘」
    私は夫人の声に振り返る。
    「上海にいた時に、お世話になった方の娘さんよ。綺麗でしょう?」
    私は頷いた。
    「愛琳と言うの。清朝の血を引くお姫様だったけど、長生きしなかったわ」
    反射的に思い出したのは、天城山で日本人学生と心中した愛親覚羅慧生(ラストエンペラー・宣統帝の姪)の清楚な面差しだった。
    「……高貴な者は長生きしないわ。特にあの国では」
    夫人が独り言のように呟いた。
    私には、理解する術もない独白だった。

    (携帯)
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■5980 / ResNo.8)  愛琳の家・7
□投稿者/ 葉 ファミリー(151回)-(2009/06/15(Mon) 00:33:56)
    煙るような霧雨の中、私は帰途についた。
    「お仕事と思わず、普段着で気楽にいらっしゃいね」
    二頭のボルゾイと共に見送りに出た夫人の笑顔を思い出す……前任者の何が気に触ったのか、今日のやりとりからは察する事ができなかった。それは確認しておくべきだと強く感じた。
    (……あとの問題は、これくらいよね)
    頭の芯に、針で刺すような痛みがあった。
    私は芳香剤や香水の匂いに弱い。強い香りを嗅ぎ続けると、決まって頭が痛くなる。介護につきものの排泄物や嘔吐物の臭いは平気だけれど、そんなものとは無縁なあの家では、しばらく頭痛に悩まされそうだ。
    (あと………)
    帰り際にもうひとつ、漠然とした疑問が残った。
    門を出て車に乗り、玄関に立つ夫人に最後の会釈をするために振り返った時、何か動くものが視界に入った。
    それは玄関のさらに上、尖塔に取りつけられた小窓だった……ほんの一瞬、小窓の向こうに人影がよぎったように見えた。
    はっとして目を凝らすと、そこには何も映さない窓があるだけだった。


    (独り住まいだと言ってたし……)
    目の錯覚だったかもしれない。私はそう思い直し、緩やかな螺旋を描く峠道を下り続けた。

    (携帯)
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■5981 / ResNo.9)  愛琳の家・8
□投稿者/ 葉 ファミリー(152回)-(2009/06/16(Tue) 01:29:45)
    奇妙な日々が始まった。


    週に一度、私は半日近くを槙原夫人の屋敷で過ごした。
    福祉法人や団体への寄付、有力者との親交がある夫人はごく自然に既存の介護サービスの枠を越え、私の長時間逗留を認めさせた。
    私にとって、それは仕事とは呼べない時間だった……簡単な買い物の品を携えて屋敷を訪れ、夫人と共に料理をしたり、庭の手入れをしたり、ほんの限られた部屋の片付けをする程度。あとは居間でお茶を飲みながら、とりとめない世間話をするだけだ。
    最初のうちは緊張し、戸惑った。こうして試されているのではないかという不安もあった。だが、そんな日々を繰り返すうちに私は慣れた―――芳香に満ちた屋敷にも、槙原夫人にも。


    「結子さん、お茶にしましょう」
    瑞雪と雪亮に戯れかかられながら芝生を刈っていた背中に声がかかる。『お茶にしましょう』は、今日の仕事はもう終わりという合図だった。
    身なりを整えて居間に入ると、紅茶と蒸したての花巻が待っていた。
    夫人はお菓子を作るのが上手く、洋菓子だけでなく蜂蜜をまぶした揚げパンや小粒な饅頭(マントウ)など、中華街で見られるようなものをよく作る。
    「子供の頃は、餡も何もない、ただ小麦粉を練って揚げただけのものを食べたものよ」
    温かい花巻に鼻を寄せる瑞雪と雪亮に冷ました小片を与えながら、夫人が呟く。
    「満州国の建国式典は、それは華々しいものだったそうだけど、住んでいた日本人は豊かな人ばかりじゃなかったわ―――私の家もね」
    「満州鉄道の技術者だったんですよね、お父さまが……」
    紅茶をひと口飲んで、私も呟く。夫人は小さく頷いた。
    「専門馬鹿と言うのか遊びも知らず、黙々と働く人だったわ。そこが向こうの人に好かれる理由だったんでしょうけど」
    父親が現地の中国人技術者と親交が厚かったのが自分の行く末に幸いした、と夫人は語った。


    私はテーブルの隅に押しやられた、つい先刻まで夫人が針を運んでいた布に視線を向けた。

    (携帯)
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