| 「満映のスターだった李香蘭も、私も中国名を使って過ごしていたけれど……」 夫人は再び椅子に座り、テーブルに肘をついて両手を組み合わせた。 「燕華は逆に、日本名を使ってたわ―――お商売のためとはいえ、当時の中国では勇気のいる事よ。日本人は東洋鬼子(ドンヤングェイズ)と呼ばれ、英国人や仏国人と同様に憎まれていたから」 「……国民が満州国を認めていなかったのは知っています」 夫人は笑った。 「あちらの人は、今でも満州国でなく『偽満州国』と呼ぶわ。夢を見たのは日本だけ―――ああ」 ふと思い出したように、夫人はぽんと手を叩いた。 「燕華の店で、一度だけ満州国の立役者を見かけたわ……ご存知? 満映の理事長だった方」 私にもその程度の知識はあった―――映画『ラストエンペラー』にも出てくる、元憲兵大尉・甘粕正彦。日本で関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者とその内縁の妻、甥の少年を虐殺したと言われる人物だ。
「ちらりとお見かけしただけだけど、瀟洒で端正な方だったわ―――当時、上海租界では日本の軍人はマナーが悪くて、英仏人からはとても評判が悪かったの。燕華の店でもそうだったけど、稀にあの方みたいな空気を持つ日本人がいた……軍人でなく商人とか、ちょっと素性の掴めない人達ね」 廃帝だった宣統帝を擁して満州国を打ち立てた日本人や、数々の租界地で権力を振るった西洋人。当時の上海租界は魑魅魍魎の渦巻く別天地だったと聞く……そんな魔都で、夫人は何をしていたのだろうと私は訝しむ。
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