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■6007 / ResNo.30)  愛琳の家・27
  
□投稿者/ 葉 ファミリー(172回)-(2009/06/28(Sun) 17:24:52)
    「満映のスターだった李香蘭も、私も中国名を使って過ごしていたけれど……」
    夫人は再び椅子に座り、テーブルに肘をついて両手を組み合わせた。
    「燕華は逆に、日本名を使ってたわ―――お商売のためとはいえ、当時の中国では勇気のいる事よ。日本人は東洋鬼子(ドンヤングェイズ)と呼ばれ、英国人や仏国人と同様に憎まれていたから」
    「……国民が満州国を認めていなかったのは知っています」
    夫人は笑った。
    「あちらの人は、今でも満州国でなく『偽満州国』と呼ぶわ。夢を見たのは日本だけ―――ああ」
    ふと思い出したように、夫人はぽんと手を叩いた。
    「燕華の店で、一度だけ満州国の立役者を見かけたわ……ご存知? 満映の理事長だった方」
    私にもその程度の知識はあった―――映画『ラストエンペラー』にも出てくる、元憲兵大尉・甘粕正彦。日本で関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者とその内縁の妻、甥の少年を虐殺したと言われる人物だ。


    「ちらりとお見かけしただけだけど、瀟洒で端正な方だったわ―――当時、上海租界では日本の軍人はマナーが悪くて、英仏人からはとても評判が悪かったの。燕華の店でもそうだったけど、稀にあの方みたいな空気を持つ日本人がいた……軍人でなく商人とか、ちょっと素性の掴めない人達ね」
    廃帝だった宣統帝を擁して満州国を打ち立てた日本人や、数々の租界地で権力を振るった西洋人。当時の上海租界は魑魅魍魎の渦巻く別天地だったと聞く……そんな魔都で、夫人は何をしていたのだろうと私は訝しむ。



    (携帯)
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■6010 / ResNo.31)  愛琳の家・28
□投稿者/ 葉 ファミリー(173回)-(2009/06/28(Sun) 18:24:26)
    「社会勉強よ」
    明快に、夫人は言った。
    「北京の寄宿学校を出て、親戚のつてを辿って上海に出たの。家族は反対したけれど」
    抗日運動の激化に伴い、夫人の家族は住み慣れた撫順を離れ、北京の知人宅の離れを借りていた。
    「一人でも少ない方が借家暮らしは楽だろうし、私が働けば仕送りもできるから―――と言うのは建て前で」
    自由が欲しかった、と夫人は笑った。
    「規則でがんじがらめの学校を出たばかりで、自由に飢えてたの。日系の小さな貿易会社で、事務員の職を見つけたわ」
    そこに勤めるうちに先輩に誘われ、貧民街での慈善活動や困窮している女性の支援活動を知ったと夫人は語った。


    「そういう活動は軍部からも奨励されたわ。今にして思えば宣撫の一環でしょうけど」
    言葉尻に、夫人は皮肉を滲ませた。
    「退廃した中国人に救済の手を差し伸べる大和撫子と新聞に載った事もあるらしいけど、上海の日本人社会では冷淡な扱いだったわ―――お定まりの炊き出しや慰問、路傍に倒れてる阿片中毒者の世話をしてもキリがないって……確かに、当時の上海を形成してたのは弱肉強食の論理だった」
    今の日本でも似たようなものだと私は思った―――日本の福祉制度はちぐはぐで、歴史も浅い。そもそもが共同体から弱者を遠ざける措置制度から発し、そこから脱しきれていない。また、関係機関にコネがあれば良質なサービスを受けやすいという現実も純然と存在する。美辞麗句を連ねた建て前との落差は深いままだ……


    「"―――どのような世界が作られようと、この世は屠殺場と厨房と食卓の混沌"」
    淡々とした口調で夫人は言った。
    「劉燕華の言葉よ。彼女は慈善活動や婦人運動の出資者の一人だったけど、そういった活動の本質を見抜いていた。あくまでも事業の一環で、聞こえのよい投資先に出資していただけだった」


    「そういう事は……」
    私は口を開きかけ、夫人の目を見て言葉を飲み込んだ。
    言う必要もない事だ。
    そういう事は、今でもある。


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■6011 / ResNo.32)  愛琳の家・29
□投稿者/ 葉 ファミリー(174回)-(2009/06/28(Sun) 21:47:38)
    帰り際、いつもは玄関まで見送る夫人が珍しく居間で別れを告げた。
    「話し疲れたみたいだわ―――申し訳ないけど、少し横になるわね」
    見れば確かに少しばかり、目の下の影が濃い。
    「すみませんでした……ゆっくりお休みください」
    つい忘れがちだが、もう90歳近いお年寄りなのだ。私は少し恐縮して身じまいを整え、居間を出ようとした。


    「結子さん」
    背中に声がかかった。
    「もうお聞きかもしれないけど……私が死んだら、この家に住んで下さらない?」
    私は振り返った。
    夫人はテーブルから離れてソファに身を沈め、静かに天井を仰いでいた。
    「……いずれ家庭を持って家に納まる。あなたは、そういう事は考えていないでしょう?」
    私は、返す言葉を持たなかった。
    「私もそうだったから分かるのよ」
    夫人は淡々と呟いた。
    「私は結婚はしたけれど、妻になり家庭を持ったという実感はなかったわ―――夫は良い人だったけど、それだけの事だった」
    こんな声は初めて聞く。暗く、鬱々とした、深い穴の底から響いてくるような声だった。


    「何をして欲しいとも言わないわ」
    夫人は私を見ていなかった。それでも、声には私を逃すまいとする意志が籠もっていた。
    「家も、何もかも、処分してくれて構わないわ。ただ私が死んだ後、むなしく廃墟になるのが忍びないだけ……おかしな話かしら?」
    私はしばらく立ちすくんだ。
    もし切り出されても断るつもりでいたし、今この時もそうするつもりだった。
    だが、何故だか即答する気になれなかった。理性に靄がかかったような、どこか他人事のような感覚が私を包んでいた。


    「急ぎはしないわ、考えておいてね」
    そんな私の様子をよく理解していると言いたげに、夫人は口調を和らげた。
    「……失礼します」
    私は一礼し、居間を出た。

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■6012 / ResNo.33)  愛琳の家・30
□投稿者/ 葉 ファミリー(175回)-(2009/06/28(Sun) 22:19:29)
    玄関を出て、私はぼんやりと辺りを見回した。
    季節柄、薔薇の花は半減したが、それまで目立たなかった生け垣の白い花―――クチナシの花が徐々に増えてきた。一輪でも香気の強いクチナシの花群にめまいを覚え、私は足元がふらついた。


    (……まだ、烏がいる)
    耳触りな鳴き声、羽ばたく音のする方向に目を向ける。薔薇園の片隅、剪定した枝や刈り取った雑草を集めた場所に、数羽の烏が集まっている。
    (モグラかイタチ……小動物でも死んでいるのかしら)
    何となくそちらに歩み寄ろうとした時、私の足元に何かが降った。


    反射的に、私は振り返って上を見上げた。
    二階に続く階段の踊り場に嵌め込まれた窓に、二つの小さな手の平がはっきり見えた。
    「え…………?」
    ぼんやりと濁っていた思考力が停止した。私はその場に凍りつき、強く首を振って目を凝らした。


    手の平は、もう見えなかった。
    私はしばらく呆然と窓を見上げ、それからゆっくりと足元を見下ろした。
    (……まただわ)
    つい先日鞄から出てきたのと同じ、淡い紅色の布の切れ端が落ちていた。私は屈み込んでそれを手に取り、小さく息を吸い込んだ。


    『救命阿』(たすけて)


    たどたどしい、鉛筆の走り書きが目に焼き付いた。



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■6013 / ResNo.34)  NO TITLE
□投稿者/ ゆうあ 一般人(1回)-(2009/06/29(Mon) 00:23:18)
    いつも読ませてもらってます
    文章が綺麗で引き込まれます
    これからも読ませてもらいます^^

    (携帯)
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■6014 / ResNo.35)  愛琳の家・31
□投稿者/ 葉 ファミリー(176回)-(2009/06/29(Mon) 01:09:13)
    アパートに戻った私は鞄を投げ出してベッドに倒れ込み、そのまま泥のように眠りに落ちた。


    ―――頭の隅で、これは普通ではないと分かっていた。たとえ雨でも髪や体に染み付いた花の香りをを飛ばすために車の窓を開けて帰るのに、まとわりつく甘い香りは全く薄れない。
    しかも、それならば頭痛に悩まされるはずなのに、私を捉えているのは脱力感だった……けだるく、熱に浮かされたようで、ふわふわする。体質に合わない鎮痛剤に酔っているみたいだ。
    閉じたまぶたの裏には様々な色彩がちらつき、時間が経つにつれて薄くぼやけ、闇に溶けた。


    ……哄笑が聞こえる。
    女の声。ひどく楽しそうな、残酷な響きの笑い声だ。
    (お気に召して? 貴女を侮辱した軍人さんをお招きしたのよ)
    (やめて―――)
    二人の女の会話が聞こえる。片方は明らかに狼狽し、取り乱している。
    (酷すぎるわ。私がいつ、こんな事をお願いしたの?……早く止めさせて、あの子にあんな事をさせないで)
    あの子?―――私は耳だけを働かせる世界に意識を集中させる。二人の女だけでなく、まだ誰かがそこにいるのか。


    (心配してるのはあの子の事?……ならば尚更、お気になさらず。これはね、あの子がいつもやってる仕事だもの)
    (そんな………)
    取り乱す女の声から力が抜け、もう一人の声はさらに艶やかに、凄みを帯びた。
    (面白いでしょう? 三級国民、蛮族と見下す民族の房事に我を忘れてのめり込む帝国軍人の図―――今は阿片で理性が効かないだけだけど、素に戻ったらどうするかしらね?)
    (そんなの―――生きていられないわ)
    (これ位で生きてられないなら、生きてなくてもいいんじゃない?)
    再び哄笑―――芯から楽しそうな声だった。
    (逝くのなら、今そこでお逝きなさいな、兵隊さん―――無理に戦場で逝かなくたって、極上の足淫の最中に逝く方が幸福というものよ)
    (やめさせて! 口から泡が―――ああ……)


    声が途切れた。
    視界というものがない闇の中を私は漂い、やがて、一言だけ聞き取った。


    (ご褒美をあげましょうね、愛琳)



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■6015 / ResNo.36)  NO TITLE
□投稿者/ 葉 ファミリー(177回)-(2009/06/29(Mon) 09:29:42)
    ありがとうございます。
    なかなか上手く書けませんが、読んで頂けるだけでも嬉しいですm(u_u)m

    (携帯)
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■6017 / ResNo.37)  愛琳の家・32
□投稿者/ 葉 ファミリー(178回)-(2009/06/30(Tue) 01:54:03)
    2009/06/30(Tue) 01:59:00 編集(投稿者)

    眠りは深かったが、どこかで醒めていた。
    全身の力が抜けて意識だけが働く中で、私はそれまでに集めた知識をたぐり寄せる……夫人が生まれたのは1920年。満州国建国より11年早く、その滅亡―――日本の敗戦時には25歳……


    (日本人・満州族・漢族・蒙古族・朝鮮族―――五族協和の王道楽土、民族自決の理念から成る我らの理想郷……)
    瀟洒で端正な紳士が腕を広げて優雅に一礼し、芝居の口上のように滔々と述べる姿が見える気がした。
    (此処は壮麗な砂上の楼閣。古くから住まう者を追い払い、やれお国の策だと新天地だと麗句を連ね、居場所を求める者を根こそぎ植えた、欺瞞と言う名の桃源郷を御覧あれ)


    ……紳士は終戦に臨んで青酸加里を仰いで退場し、それまで権勢を振るった関東軍は、在留邦人を守る義務を放棄した。


    (―――立場が逆になったわね)
    くすくすと言う含み笑い。
    再び、私の耳に声が響いた。
    (お話しした事はなかったけど、私も貴女と同じ撫順生まれよ―――貴女には覚えはないかしら、12歳くらいの中秋節の頃のこと)
    答える声はなかったが、気にする様子もなく声は続いた。
    (日本人が匪賊と呼ぶ集団が、撫順の採炭所に一斉に火をつけ日本人職員を惨殺し―――それに激怒した関東軍が早くも翌朝に、近くの集落の中国人住民を虐殺した……)
    (―――知らないわ)
    細く弱々しい、ほとんど聞き取れない声が抗弁する。
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■6018 / ResNo.38)  愛琳の家・33
□投稿者/ 葉 ファミリー(179回)-(2009/06/30(Tue) 03:02:57)
    (本当に知らない―――当時、あちこちでいざこざがあったのは覚えているわ。でも、父や母からは何も聞いていなかった)
    (他人から聞かされなければ分からないというのは幸福ね)
    忍び笑いを含んだ声が言う。
    (私は悲鳴や呻き声、断末魔でそれを知ったわ。とっさに押し込まれたかまどの中で……両親は家から狩り出され、集落の住民ともども機関銃の掃射を浴びて、焼かれた上にダイナマイトで崩した土砂に埋められた)


    長い沈黙。
    やがて、弱々しい声が呟く。
    (―――私を、憎んでいるのね)
    (私が? どうして?)
    にわかに、不機嫌そうな声があがった。
    (貴女を憎む理由がないわ。関東軍の兵士でも将校でも、貴女の国の皇帝でも同じことよ……私は貴女が好きよ。そうでなければ、こんな話はしやしないわ)
    (……なぜ?)
    問いかける声に、怒りがこもった。
    (ご両親を関東軍……日本人に殺されて、なぜそんな事が言えるの。貴女は)


    (この世は屠殺場と厨房と、食卓との混沌―――)
    歌うような声が響く。
    (あの虐殺の前には、私の同胞の抗日ゲリラが貴女の同胞を襲ったわ―――それからは私達が屠られ解体される役回りだったけど、今は逆だわ。そういう事よ)
    (燕華―――)
    苦しげに声を絞り出す女を遮って、朗らかな声が畳みかけた。
    (だから黙って私の言う通りにしなさい―――もうすぐ、上海にも日本人の居場所はなくなるわ。その気がなくても何でもいいから、あの人の妻として出国するのよ)
    (燕華………)
    (使えるツテは使いなさい。何を運ばされるかも忘れなさい―――あの人は純粋に信じているわ、託されたのはお国を救う文書だと)


    閉じているはずの瞼を静かに閉ざし、私は集中していた意識の手綱を離す。
    聞くに耐えない……だが妙に納得のいく言葉だと思い、そう思う自分を疲れていると感じていた。



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■6025 / ResNo.39)  愛琳の家・34
□投稿者/ 葉 ファミリー(180回)-(2009/06/30(Tue) 22:29:57)
    翌朝目覚めると、私の手には紅色の布が握られていた。


    それを異常だとは思わなくなっていた。
    私は重い身体を引きずりシャワーを浴びて服を着替え、それまで一度も、急に休んだ事のない職場に電話をかけた。
    仕事には関係のない鞄に免許証や財布を詰め替えて身なりを整え、少し考えてからあの布に再び手を伸ばした。


    鼻先に押し当てると化粧粉の香りと微かな悪臭、そして花に似ているが花ではない、こちら側の世界では嗅ぐはずのない芳香が鼻腔を伝わり、脳を満たした。


    悪酔いする程ではなかったが、運転には細心の注意を払った―――もちろん事故も怖かったが、誰かに停められるわけにはいかない道程だ。


    市街地を抜け、山々の稜線が近づく頃に雨は止んだ。私は車の窓を開け、水気を含んだ風を受けてようやく寛いだ……夫人の屋敷に続く峠は螺旋を描く緑陰のトンネルだ。ひとつ、またひとつとカーブを曲がり、上へ上へと行くにつれ、俗世はどんどん遠ざかる……


    「あんた―――」
    車を降りて、隣にもう一台の車があるのを眺める私に声がかかった。
    無感動な目を、私は向けた。門の内側、昨日、烏が集まっていた薔薇園の一角に、見覚えのある男が膝をついていた。



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