■BLUE AGE  
□秋 (2004/07/26(Mon) 16:29:12) 

 日々は刻々と過ぎていき。 
垂れ流したままの時間の流れの中に身を置いてはいても、毎日は違う色ばかりだ。 
カレンダーの日付は、綴られる思い出たちは、過去の産物となりゆくのか。 

―想いはそこにある。 

幼くとも、拙くとも。 
大人が見たら不器用だと笑うかもしれない。 
もっと楽に生きろと呆れるかもしれないけれど。 
子供と呼ぶには世間知らずでもなく、大人になりきれる程狡くもなれない。 
本気で笑って、本気で泣いて。 
そんな時代。高校時代。 

さぁ、 
日常の欠片を拾い集めて、その一コマを蘇らせてみようか。



■─はなびら、ふわり □秋 (2004/07/26(Mon) 16:32:51) 私はうんざりしていた。 入学したばかりのこの高校で、早くも私はうんざりしていた。 「高校生になったんだし、早く彼氏欲しいよね〜」 級友達の話題の中心はほとんどそれで占めている。 それはいい。 それはいいんだよ、ほんとに。 私だって女の子。 中学生の時は好きな男の子くらいいた。 友達と一緒に憧れの先輩の話で盛り上がったり。 高校に入学したら彼氏が欲しいなぁ、なんて普通の女子高生ライフを描いていたわけ。 でも…でもさ? 何の手違いか、私が入学したのは右も左も女の子ばっかりの女子高だった。 おまけにここは寮を備え付けてあって、私はまだ家が近かったから寮入りは免れたものの、 そんな所に入ったら出逢いなんてまるでないじゃん!と。 声を大にして叫びたい。 しかも周囲の子達は思いの外この異様な環境にすんなり順応していて。 隣のクラスの何とかさんが美人だとか、あの部活の何とかって先輩がかっこよくて憧れるだとか? 皆、目を覚まして! いくらかっこよくても、いくら綺麗でも、女なんだよ? 恐るべし、女子高マジック。 私はここで、何とか感化されないようにと、必死に日々を過ごしていた。 「生徒会長まじ綺麗〜」 「ねー」 「笹木先輩も美人じゃない?先輩、寮長やってるんだって」 「へぇ、そうなんだ〜」 今日も女の子達が顔を突き合わせて憧れの先輩談議に花を咲かせている。 私はそれを呆れ顔で眺めていた。 「ふみってさぁ、ほんと話に乗ってこないよねぇ」 ふと白けた顔した私に気付き、一人が声を掛けた。 それに呼応して、皆も口々に言い出す。 「そういや、そうだね」 「うんうん、ふみの口からあんまり聞いた事ない」 「何でー?」 「興味ない?」 私は閉口しつつもはぁっと溜め息を吐くと、 「興味ないってゆーか…だって女じゃん」 面倒臭そうに答えた。 その発言にしん、と静まる。 やがてわぁっと巻き起こる非難の嵐。 「あんたにはときめきがないのかぁ!」 「女だってかっこいいもんはかっこいいんだから、それでいいじゃん!」 うるさいなぁとぼやきつつ、私はやれやれと頭を掻いた。 「きゃーきゃー騒いだ所で何にも報われないでしょ」 突き放すように返す私に、 「あたしらはドキドキしたいの。でも廻りに男子が居ないじゃん?だから校内でかっこいい人見られれば嬉しいわけ」 嬉々としてそう言ったので、再び私は呆れてしまった。 結局は擬似的なものに縋っているだけじゃないか。 うんざりしながら軽く息を吐き出す私に、彼女達の中でも幾分冷静な一人が、 「でもそれだけじゃなくてね?同性だって単純に素敵だなって思う所はあるでしょう?憧れには男女関係ないと思うの」 諭すように言った。 それでも。 不毛だとは思わないのか。 それはただの勘違いにも似たような想いであって、 やっぱり擬似的なものなのではないかと、 どうしても思わずにいられない。 「そーだそーだ」 と声を上げる彼女達に、あっそ、それだけ言うと彼女達は不満げに私を見た。 「何でそう淡泊かなぁ」 また溜め息をつく。 「B組の結城さんとか、綺麗じゃない?そう思わない?」 投げ掛けられた問いに、 「美人だとは思うけど、それ以上のものはないよ」 そう応えて、私は教室から出て行った。 校舎の裏はちょっとした穴場だ。 人気は少なく、けれど数本立ち並んだ桜が安息を誘う。 私はその内の一本にそっと寄り添った。 幹はひんやりと、けれど何故か体温を感じる。 四月も半ばを過ぎて、校庭の桜並木は殆ど散り散りになってしまったけれど、 日蔭にあるせいかここの桜はいくらか花びらを舞わせていた。 彼女達が本気で騒いでいるのではない事も、本当は彼氏を求めているという事も、 凛とした同性にその持て余した想いを重ねることでここでの生活を楽しもうとしている事も、全部全部わかっていた。 だけど私はそこまで柔軟になれない。 出来れば今すぐ飛び出して、共学の高校にでも転校してやりたいくらいだ。 大体、想いの吐け口にされる彼女達だっていい迷惑だろうし。 「本気で恋なんかするのかなぁ」 誰にともなく放たれた呟きは、桜の花びらのようにふわっと地面に落ちて砕けていった。 彼氏を欲しいと思った事もあった。 友達と、恋がしたいね、なんて話した事も。 恋、ねぇ…。 なんだかなぁ。 今はそんな気になれない。 そもそも出逢いがない女子高なんかに通っているのも問題だけど、 例え周囲に異性が居たとしても誰かを好きになるつもりはなかった。 特別理由があるわけじゃない。 高校生になる前は期待に胸を膨らませたりもしたけれど、 女子高という特異な環境の中でその気持ちも萎えたというか。 ただ、なんとなく。 恋をするのが億劫(おっくう)だった。 チャイムが鳴る。 終業のチャイムが。 「あーぁ、またサボっちゃった…」 高校に入学してから二週間余り。 私は既にサボり常習者になっていた。 「生徒会長の幼馴染み、この学校に居るらしいよ」 「えー?そうなの?」 「それも一年」 「まじ?じゃあ、あたしらとタメじゃん。何組の子?」 …あーあー、そんな事どうでもいいじゃん。関係ないじゃん。 くだらないくだらない、心の中でずっと連呼する。 昼休みの雑談は決まってこうだ。 皆で楽しくランチタイム。 和気あいあいとした雰囲気の中、こんな話へと移行すると私は決まって不機嫌になった。 「…ふみ、顔恐いよ」 彼女達の傍らでその会話を聞いていた私の顔は相当強張っていたようで。 その一言で私を振り返った友人達は皆一様にして眉をひそめた。 「普段はそうでもないのに、何であんたってこーゆー話題の時はそうかなぁ」 そう言って眉間のしわを人指し指でつんと突く。 私はその手を払いながら立ち上がった。 「だからさ、興味ないって前にも言ったじゃん。大体皆しておかしいよ。  女子高だからってそんな同性相手に。廻りに異性が居ないから見立ててるみたいで、何だか見てられない」 やばい、とかそんな事も頭を過ぎったけれど。 私は言葉を止められず、それでも口を突いたものは全て本音だった。 座ったまま私を見上げる友人達。 立ち尽くしそれを見下ろす私。 気まずい空気が流れながらもそれを打ち破る手立てはなく、皆ぐっと押し黙っていた。 何やら考え込む仕草をしていた一人が、口を開く。 私を真っ直ぐ見て。 「ねぇ、ふみちゃん。真剣に憧れてたり、その…好意を持ってる子だって居ると思う。だから…そんな言い方は良くないよ」 その言葉に。 頭にかっと血が昇った。 しばらくじっと彼女を見ていた私は、けれど顔には出さず。 「あっそ」 くるりと彼女達に背を向ける。 「あ…どこ行くの?そろそろ昼休み終わっちゃうよ」 「別に」 そう吐き捨てて、私は教室を後にした。 校舎裏の桜は今日も穏やかにその身を散らしていた。 いつものように座り込むと木の幹を背に息をつく。 『真剣に憧れてたり、その…好意を持ってる子だって居ると思う。だから…そんな言い方は良くないよ』 …あぁそう。あぁそうかい。 あんたらはそれが純粋な想いだって言うんだ? 同性同士なのに? 吐け口と勘違いしてんじゃないの? 何だって言うんだ、全く。 理解できない。 理解、したくもない。 午後のまばゆい陽射しを一身に浴びても、私の胸の内は収まらなかった。 「あー、くそっ!」 叫んで、背にした木に頭だけを前後に振って後頭部を打ちつけた。 当然の事ながら鈍い痛みが脳内を刺激する。 「────……っ」 言葉にならないまま両手で頭の後ろを押さえて顔を伏せ、「何やってんだろ、私…」一人ごちた。 地面に目を落とし、じんじんと響く後頭部を摩る。 また苛立ちのままに「あー、もう!」と叫ぶと、突然、木漏れ日が陰った。 何かと思い、ふと顔を上げる。 枝々の隙間から漏れていた光が遮られ、黒い影が広がっていた。 黒い影が、広がる。 ……は?影? 気付いた時には手遅れだった。 「あーっ!そこの人危ないぃーっ!!」 それは躊躇う事なく一直線に私の頭上から降って来た。 下敷きにされる私。 いたた、と顔を上げると、はらはらと花びらが舞い乱れ、視界がぼんやりと桜色に染まる。 そこには「影」、否、紛れもなく「人」が、私と同じくブレザーに身を包む女生徒が、申し訳なさそうに私を見ていた。 無数の桜の花びらを纏いながら。 「あ…ごめん、ね?」 私は事の次第がわからず、ただ目をぱちくりさせているだけ。 「大丈夫?頭打った?あー、ほんとごめんねぇ。あなたの上に落ちちゃったもんね……やっぱり、痛い?」 腰を少し打っただけで彼女との接触に思った程体を痛めてはいなかったようで。 首を横に数回振る。 すると彼女は、心底ほっとしたように大きく息を吐いた。 「良かったぁ…受け止めてもらっといて、その人に怪我させたら謝りきれないよ」 そして、ははっと笑う。 呆気に取られて言葉を失っている私の視線に気付いたのか、 彼女は私と目が合うと先程とはまた違う、照れたような笑みを浮かべた。 「あー…そりゃ目の前で人が落ちてきたら驚くよね。  うーん…わたしね、ここ好きなの。静かで、昼寝するにも気持ち良くて。  それにそろそろ桜も散りそうでしょ?最近は木に登って花びらに囲まれて昼寝ー、ってゆーのがお気に入りでね」 そこまで言うと一端言葉を切って、ちらりと私を見ると申し訳なさそうにへへっと笑った。 「今日は選んだ場所が悪かったみたいでね?枝がちょっと…うん、耐えられなかったみたいで。ばきっと、折れたのね?」 眉尻を下げて、情けない顔。 「落ちちゃった」 ごめんね、もう一度言うと私の背中についた砂やら花びらやらを払う。 自分の制服についている花びらには気を留める事なく。 「でもね、下にあなたがいてくれて良かった。クッション代わりになったあなたには悪いけど。  本当に助かった。そうじゃなかったら地面に叩きつけられてたから」 にこっと笑って、 「ありがとう」 そう言った彼女は、明日は丈夫な枝で寝るから大丈夫だよとVサインをした。 「あなたもここが好きみたいだから、また会うかもしれないね」 私にただの一言も喋らせず颯爽と去っていく彼女の通った道には、 制服に帯びたままの桜の花びらがふわりふわりと漂い、歩みと共に舞っていた。 その背中に声を掛ける事も出来ず、追い掛ける事もせず、ただじっと見つめながら、 そーゆー問題じゃなくてそもそももう木に登らない方がいいんじゃ…そんな馬鹿みたいな事をぼんやり考えていた。 落ちたのは彼女ばかりではなく。 落ちました。 恋に。 あーぁ…大きな大誤算。
■─正しい心の繋ぎ方。 □秋 (2004/07/26(Mon) 16:33:55) 睨む彼女。 怯む私。 ―対峙するふたり。 私は非常に困惑していた。 …目の前の彼女に迫られて。 事の起こりは三十分前。 単なるいつもの昼休みだった。 私は朝の会議でやり残した仕事があった為、生徒会室に向かっているところだったのだけど。 その途中の廊下で詩絵とばったり遭遇し、何だかわからぬ内に廊下に面した手近な化学室へと引きづり込まれたのだ。 「…詩絵。あのさ、何か…怒ってる?」 状況の飲み込めない私はおずおずと彼女に尋ねてみた。 それもそのはず、彼女ときたらこの教室に入ってからというもの、 小柄な体ながらも威圧感を漂わせ、ぎろっと私を睨むように見上げているのだから。 すると詩絵は更にその眼光を鋭いものとした。 「怒ってるか…ですって?」 わなわなと震える詩絵。 更にキッと、私を睨む。 「そう見えるんならそうなのよ。確かに機嫌は良くないわ」 「……どうしたの、一体」 私はすっと手を伸ばして彼女の髪をさらさらと撫でた。 けれど、その手は払い除けられる。 うーん、と私は首を捻り、それでも彼女を不機嫌にさせる理由がわからなかったのでただ曖昧に笑ってみせた。 「…やっぱり唯ちゃんにはわからないんだ」 「詩絵?」 ぐっと言葉に詰まったように詩絵は下を向いた。 背の低い彼女に合わせて屈み込む。 そして下から彼女の顔を覗き込むと目尻にうっすらと涙を浮かばせていた。 「……せっかく」 ぽつりと漏らした声を聞き逃し、私は、え?と聞き返す。 「せっかく一緒の高校に入学したのに。やっと同じ学校に来れたのに…  唯ちゃんは校内で会ってくれないし、登下校もばらばらじゃない…!」 はっとして、私はうつむいてしまった。 上から、詩絵の言葉が更に降ってくる。 「唯ちゃんはもう三年生だし、同じ場所に居られるのも一年しかないんだよ?  私がやっと追いついて高校生になったっていっても、たった一年しかないんだよ?」 じっと、タイル張りの冷たい床を見ながら詩絵の言葉を聞いていた。 「学校くらい一緒に行こうよ。何で一緒に帰ってくれないの?」 責める事を必死に堪えているような彼女の声に、重い口をようやく開く。 「…それは。前にも言ったでしょう?今は忙しい時期だから。  生徒会の仕事が多いし、朝から会議があるの。  帰りも…やらなきゃならない事は沢山あるから」 嘘ではなかった。 けれどそれを口実にしているという事もまた…嘘ではなかった。 詩絵は震える声を私に落とす。 「じゃあせめて校内で話をしてよっ!」 「私達は三年と一年だから…二つも学年が違うのに、お互いの教室を行き来してたらおかしいじゃない?」 そう答えると、詩絵はばっとしゃがみ込んで下を向く私の顔を両手で包み、無理矢理自身の方を向かせた。 同じ目線の高さに詩絵の顔がある。 「私達、幼馴染みよね?」 「そうだけど…」 「だったら親しそうにしてても何の不思議もないんじゃない?」 真っ直ぐな彼女の言葉が突き刺さる。 真っ直ぐな彼女の瞳を逸らす事も適わず。 私はただ困ったように彼女を見ていた。 詩絵はふぅっと息を吐く。 強い意志が込められた瞳に悲しみの色が浮かんで。 彼女の手の平が私の頬からするりと落ちた。 「私達、ただの幼馴染みじゃないよね?」 「……え?」 「私達、付き合ってるんだよね…?」 「…うん、まぁ……」 私は曖昧にしか応える事が出来なかった。 詩絵はますます悲しみを募らせる。 「まぁ、って…まぁって何?」 怒りも色濃く。 「それとも私の勘違いなの?私が唯ちゃんを好きなだけ?  唯ちゃんは人が良いからそれに付き合ってくれてるってわけ?」 「違っ…!」 「違くないじゃない!」 詩絵は私を睨みつけた。 悔しそうに奥歯をぎりっと噛み締めながら。 やがてふっと力が抜けたように呟いた。 「違くないじゃない…」 「詩絵…」 「廊下で会っても知らん顔。教室には来るなって言うし。それなら私は何を信じればいいのよ…」 「詩絵…」 今度は私が彼女の頬に触れた。 彼女は甘えるようにその手に顔を預けてくる。 そして、先程の言葉をもう一度口にした。 「……私と唯ちゃんは、付き合ってるんだよね?」 「…うん」 私はそのまま彼女を引き寄せた。 胸元で優しく抱き留めて。 「不安なの。唯ちゃんが中学校を卒業した時もそうだった。  私はまだ中学生。唯ちゃんは高校生で。  やっと同じ学校に来たら唯ちゃんは生徒会長になってるし。  どんどん置いてかれそうな気がして。離れてると…不安なの」 詩絵も私の背に手を回して華奢なその腕に力を込める。 彼女をこんなにも不安にさせていたなんて。 「ごめん」 自然と口からこぼれた言葉は、どんどん想いを溢れさせた。 「ごめんね、詩絵」 ぎゅっと抱き締める。強く、強く。 「確かに…詩絵を避けてた。ばれるのが恐くて…  そんな簡単に私達が付き合ってるって結び付ける事はないだろうけど、それでもどこかで恐れてた」 「私とこういう関係になった事、後悔してる…?」 「──そうじゃない!…そうじゃないの、ほんとに。ただ…」 「ただ?」 どんな些細な事から私達の関係が知られるとも限らない。 ましてや同性同士。 どれ程好奇な目で晒される事になろうか。 私だけならいい。 むしろこの愛しい恋人の名をどれだけ大声で叫びたかった事か。 けれど。 詩絵を傷つけたくはない。 それだけは決してしたくはなくて。 私との関係が露見する事で詩絵が受ける周囲の心無い声、無遠慮な視線。 考える程に恐くなり、また、私はそれらから守る自信もなかった。 「詩絵が、好きだから…詩絵を傷つけたくなくて…」 それだけをやっと搾り出すと、 「…ばかね」 腕の中で小さく笑った。 さすがは幼馴染み。 うまく言葉にする事の出来ない私の思いも、たったあれだけで理解をしてくれるなんて。 長年近くで歩んできただけの事はある。 少しだけ腕を緩めて互いの顔を見つめ合う。 「たまには教室に行ってもいいでしょ?幼馴染みなんだし」 詩絵が言った。 「うーん…まぁたまになら不自然じゃないかな」 「だから唯ちゃんも廊下で会っても無視しないでね?」 「……はい」 鼻先に人指し指を突き付けられて、私はははっと苦く笑う。 「私もそれ以外はちゃんと我慢するから」 突き付けた手を降ろしながら、詩絵も照れたように笑った。 「生徒会長だもんね。仕事が忙しいのはしょうがないもの。  朝も帰りもばらばらでも文句言わない。  その分家で会うから…我慢する」 私はそんな詩絵を見てつい微笑んでしまった。 くすくす笑う私に少しばかり詩絵はむっとして、ぷいっとそっぽを向く。 その様子に、堪えきれず目尻は下がってゆくばかり。 照れ隠しからか素っ気なく詩絵は言った。 「…そう言えば、いいの?  私が連れて来ちゃったんだけど、生徒会室行く途中じゃなかったの?」 時計を見て、あっと思った。 けれど。 「もういいや」 「いいの?」 「うん、いい」 そう、と小さく息を吐く詩絵の頭を軽く撫でて、すっと立ち上がった。 彼女にも手を差し伸べながら。 「昼休み終わりそうだし、教室戻ろうか?」 私の手を掴んで詩絵が立ち上がるのを待ってから、くるりと出口の扉の方に向き直る。 歩き出そうとした私の背中に、 「唯ちゃん」 声を掛けられたから、私はまたそちらを振り返った。 「唯ちゃん、私達付き合ってるのよね」 本日何度目かの詩絵の言葉。 確認するかのような詩絵の言葉。 私も彼女をはっきりと見つめながら、返す。 「そうだよ」 「唯ちゃんは私の恋人だよね」 「うん」 「唯ちゃんは私の事好きだよね」 「好きだよ」 「キスして」 「……………え?」 間抜けに発せられた自身の声。 きっと表情の方も、負けず劣らず間抜けな事になっているに違いない。 ぽかんと口を開けている私に、 「キスして」 詩絵は寸分の狂いもなく先程と全く変わらぬ言葉を口にしたから、どうやら聞き間違いではなさそうだった。 「えーと…」 あやふやに笑ってみせる。 困惑の色を隠せない私は、視線があちこちに泳いでいた。 詩絵は私のすぐ目の前まで来て、立ち止まった。 私は彼女と目を合わす事が出来ずに、ただ戸惑ったように笑んで見せるだけ。 「嫌?」 「そうじゃないけど…」 口ごもりながら下を向く。 すると詩絵の腕が動き。 私のブレザーの裾を、ぎゅっと握った。 彼女の手がわずかに震えている事に…私はようやく気が付いた。 「やっぱりね、不安は残るの。  いくら家が隣同士でも学年が違うとすれ違いも多くなるから。  それでなくても唯ちゃんは生徒会長で人気もあるし…」 きゅっと唇を噛み締める詩絵。 口にするのは相当勇気がいったはずだ。 戸惑っているのは何も私だけじゃない。 「唯ちゃんの事は信じてる。だけど…証が欲しいの。ちゃんと唯ちゃんも私を想ってるって」 正直どうしていいかわからなかった。 詩絵に触れたい気持ちは、勿論ある。 けれどそこから一歩を踏み出す勇気がまだ私にはなくて、越えてはならない壁があるんじゃないかって…躊躇いがあった。 多分、詩絵も同じだったと思う。 だけどこのままの二人から前進したい、不安を取り除くにはそれが一番のような気がした。 何より。 彼女にここまで言わせて、それでも言い訳がましく逃げるなんて。 「…目、瞑って」 私はそっと詩絵の髪に手を掛けると彼女の瞳を覗き込みながら穏やかに微笑んだ。 「唯ちゃん…」 それだけ言うと詩絵はゆっくりと瞼を閉じた。 髪を二・三度撫でて、その手を頬へと滑らせる。 一瞬詩絵の体に力が入ったような気もしたけれど、もう片方の手を肩へと置いて優しく摩ったら少しづつ力が抜けた。 ―トクン 詩絵に聞こえるんじゃないかってくらい私の鼓動は大きく跳ねて。 ―トクン 少しづつ少しづつ、詩絵の顔が近付いてくる。 ―トクン 互いの息遣いさえもはっきりと感じる取れる程の距離で。 ―トクン 詩絵の形の良い唇が間近に迫った。 あぁ、やっぱり私は詩絵の事が好きなんだ…改めてそんな事を考えて。 ―トクン 自身の唇を彼女の唇へと、 ―トクン 重ねようとした寸前で。 私はひとつ息をついて、そのまま彼女のおでこにキスをした。 詩絵は目を開けるときょとんとしたように私を見て。 私はほぅっと息を漏らしながら下を向いた。 詩絵もそれに倣って下を向くとはぁっと息を吐き出して、 「いくじなし…」 そう呟いた。 …そう、その通り。 その通りだけれど。 でもね? まだまだ幼い私達だから。 まだまだ拙い私達だから。 ゆっくり、ゆっくり、進んでいこうよ。 ふたりの速度で、歩いていこうよ。 のんびり、さ。 ねぇ?詩絵。 私は彼女の小さな手を取って優しく、けれど力強く握った。 未だ下を向いている彼女に柔らかく声を落とす。 「今日一緒に帰ろうか」 途端に詩絵は顔をぱっと上げて、 「いいの?」 驚いたように私を見たから、私はにっこりと笑い掛けた。 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。 私達は互いに顔を見合わせると、行こうか?と目で合図をして、化学室を後にした。 互いの手をしっかり握りしめたまま。
■─not saying friendship《understand》 □秋 (2004/07/26(Mon) 16:39:04) 引き出しの整理をしていたら奥の方からアルバムを見つけたので、ついぱらりとめくってみた。 それは昨年の、まだ制服が馴染まずに初々しさを感じさせる頃の写真。 あどけなくて幼くて何だか微笑ましい。 どの写真を見てもつまらなそうな顔をして写ってる一年前のあの子に、今は楽しい?なんて、無性に聞いてみたくなった。 「あれ、川瀬じゃん?」 教室棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下を歩いている途中で、中庭の方を指差しながら茜が声を上げた。 私もそちらに目をやる。 そこに居たのは紛れもなく私のルームメイトである川瀬早希。 「一緒に居る子さ、一年っぽくない?」 茜は楽しそうに川瀬と、その傍らの少女に見入っていた。 「告られてんのかなー」 「もう…茜行こう」 呆れたように言うと、茜は「えー」と不満げな声を上げ、 ちらちらと彼女達を気にしながらも私に急かされて廊下を歩き出した。 私も茜の後に続く。 ちらりと川瀬の方を見ると、 すらりとした長身で少年のような彼女と側に立つ華奢な少女があまりにも嵌まり過ぎていて、 何だか男女の秘め事のようだった。 「また後輩泣かせて」 学校が終わり寮に帰ってくると、既に同室の川瀬は帰宅していた。 ブレザーを脱ぎながら、床に突っ伏し雑誌をめくっている彼女に声を掛ける。 「何が」 顔を上げようともせず、つまらなそうに川瀬。 「告白されてたでしょ、今日」 用事が済んで、茜と再びあの渡り廊下を通った時には中庭にもう川瀬の姿はなく、 あの一年生と思われる少女がひとり、片隅ですすり泣いていた。 「見てたの?」 目だけをこちらにやる川瀬に、 「見えたの」 部屋着に着替えながら答える。 「どうせぶすーっとした顔でもしてたんでしょ。だから無愛想なんて言われるんだよ?断るにしても言い方が──」 「笹木」 その声に彼女の方を振り向くと、川瀬はしっかりと私を見ていた。 「笹木には関係ない」 二の句が継げないでいる私に、 「お節介」 それだけ言うとまた雑誌に目を戻す。 「あ…ごめん」 黙々と雑誌を読む彼女にもう掛ける言葉は見つからなくて。 そのまま夕食の時間まで沈黙が支配していた。 「私、点呼取りに行ってくるね」 夜の見廻りの時間になった頃、ベッドでごろごろしている川瀬に声を掛けた。 川瀬は顔を上げる仕草すら見せず、「ん」と軽く返事をしただけ。 そんな彼女の背中をちらっと見てから部屋を出る。 この時間になると、点呼が始まると予期しているのか、寮生達は各自部屋へと戻り出し廊下は静けさに包まれる。 歩き慣れた宿舎の中でも夜という雰囲気はどことなく不安に駆られ。 それでも部屋の中から漏れてくる明るい声は穏やかな気持ちにさせてくれた。 一部屋一部屋廻って、外出届けや外泊届けを事前に提出している寮生以外はきちんと部屋に居るかどうかの確認をする。 それが私に与えられた仕事。 ノックを数回。 「笹木だけど入っていい?」 「どうぞー」 内側からの声を聞いてからドアノブを回す。 「ええと…ここは三人部屋よね」 「三人いまーす」 「うん、確認」 「笹木先輩、お疲れ様〜。寮長大変そうですよね」 よかったらどうぞと、一人が夜の談笑で摘んでいたのだろうクッキーを差し出してくれた。 それを笑顔で受け取る。 「ありがと。じゃあ、おやすみ」 「おやすみなさ〜い!」 彼女達の声に後押しされて廊下を歩く。 二年に進級したばかりの頃、受験生となる為に雑務をしていられない三年生から寮長を引き継いで一ヵ月。 この仕事にも慣れ始めたけれど。 正直、私が寮長でいいのかと思う事はある。 他にも適任だろう人材は居たように感じるし。 最近はそればかりを考える。 点呼を終えても部屋に戻る気にはなれず、私は談話室へと足を向けた。 誰も居ないひっそりとした空間。 電気を点けて大きめのソファに体を預けた。 ふぅと息を吐く。 真面目な私。 優等生の私。 それだけを演じて、与えられた仕事をこなすだけで。 ────…っ。 不意に涙が出そうになった。 けれど堪える。 こんな顔で部屋に帰りたくないな、そう考えていた所に、 「千草ちゃん?」 声がした。 入口に目をやる。 「何してるの?」 私に寮長という肩書きを押し付けた前任のこの人は、情けない顔をした私を見てぷっと吹き出した。 「先輩ー…」 先輩はくすくすと笑いながら近付いてくる。 ごしごしと目元を拭って、表情を引き締める。 「先輩、どうしてここに?」 「喉が渇いたからね。自販機に行こうと思ったらここの明かりが漏れてたから」 答えながら、私の隣へと腰掛けた。 「それで?寮長がこんな所で何してるのかな」 今度は先輩が私に尋ねた。 「あ、ええと…」 口ごもる。 「何か行き詰まってる?」 微笑んだまま、先輩は鋭く言った。 「……お見通しみたいですね」 力無く笑う私に、先輩も「まあね」と、にっこり笑った。 「最近思うんです。私が寮長でいいのかなって」 「何で?」 「誰の役にも立ってる気がしないから」 私はまた、ははっと笑う。 「どうしてそう思うの?」 先輩はやけに神妙な顔付きで言った。 「どうして、って…」 「まぁ本人だから気付いてないって部分は多いけどね」 やれやれといった感じで溜め息をつく。 「千草ちゃんは真面目に考え過ぎるからなー」 また大袈裟に息を吐く。 私はただわからないという顔をして先輩を見ていた。 「千草ちゃんさ、人の世話を焼くのは好き?」 「え?…はい。でもお節介って言われます」 はははっと声を上げながら先輩。 「それぐらいがいいの。世話焼きなあなたくらいが丁度いい」 「…そうでしょうか」 「何でそんなに自信がないの?」 「私は寮生だけじゃなくて、川瀬すら救えてないと思うから」 今度は先輩がわからないという顔をした。 「去年の…入寮前に一年の部屋割りを決めたでしょう?  一人部屋に移れるのは三年生で、一年は基本的に二人以上の相部屋が原則で二年間過ごすっていうのに、  川瀬は一人部屋がいいってごねて」 「あの時は揉めたねぇ。あの子大人びてるから、この間まで中学生だった子と同室なんて考えられなかったんだろうね」 協調性もないし?そう言って笑う先輩に、私も少しだけ微笑んで返した。 「だから私と同じ部屋になろうって、共同生活も楽しいよって、強引に同室になったけど…  川瀬にとってはやっぱりそれってお節介だったと思うんです」 先輩はふっと笑みを漏らすと私の頭をぽんぽんと撫でた。 「川瀬は、本当に嫌なら一年も一緒に居ないと思うよ?」 「でも」 「無口だからわかりづらいけどね。千草ちゃんは本気で川瀬が無愛想だと思う?」 「表情は乏しいけど、あの子反応が鈍いだけなんですよね。だから顔に出るのが遅くて無愛想に見えちゃう」 「ほら、ちゃんと理解してあげてるじゃない。それだけでも充分だと思うけど」 先輩を見るとにこっと応えてくれた。 「まだ人見知りの所があるけど一年前に比べて随分人と接するようになったと思わない?  それって誰かの影響力で変わってきたのが大きいように見えるよ」 言いながら立ち上がる。談話室のドアの前でくるりと私を振り返ると、 「自分の基準なんて曖昧だからね。どこで人に感謝されてるか人の役に立ってるか、本人にはわからないものだよ」 そう言って、部屋から出て行った。
■─not saying friendship《Thanks,friend》 □秋 (2004/07/26(Mon) 16:42:19) 先輩の背中は薄暗い廊下へと消えていって。 残された私はソファにどさっと体を埋めて、天井を見上げた。 先輩の言葉を繰り返しながらぼうっと宙を眺め。 うつらうつらし始めたときに、 「笹木?」 突然、目の前に見慣れた顔が現れた。 「川瀬!」 慌てて飛び起きる。 「憧れの寮長がこんな所で居眠りなんて、寮生が見たらどう思うだろね」 淡々と言う川瀬に、 「どうしたの?」 ソファに座り直しながら尋ねると、彼女もその横に座った。 「こっちの台詞。なかなか戻って来ないから」 「探しに来てくれたの?」 ついそんな事を訊くと、川瀬はそっぽを向いて押し黙った。 むっとしたような彼女の様子が可愛らしくて。自然と笑ってしまった。 川瀬は照れ隠しからか、わざと私を睨んでみせ。 「…さっきの、気にしてんのかなって思ったから」 素っ気なく言い捨てる。 「心配して損した」 憮然として、ふん、と鼻を鳴らす。 「お節介なんてしょっちゅう言ってくるじゃない」 「どこで傷つくかなんてわかんないだろ」 ソファの上であぐらを掻きながら川瀬は言う。 そんな彼女をきょとんと見ていたら、「何?」と、怪訝な顔をした。 「気にしてくれてたんだな、って。でもあれは私も悪いし」 「単に照れ臭かっただけだから」 え?と首を傾げる私に、川瀬はいつもの顔で答えた。 「同性に告白されんの見られて恥ずかしかっただけ。八つ当たりに近かった」 ごめん、なんて決して口にはしないけれど。それだけでも十分伝わる。 私は川瀬に笑顔を向けた。 川瀬は居心地が悪そうにむっとした。 「私の心配はしてくれるのに、好意を持ってくれてる子には冷たいの?」 明らかに嫌そうな顔を見せた彼女は、やっぱり嫌そうに口を開く。 「…別にあいつらはあたしじゃなくてもいいんだし」 「どういう事?」 「女子高だからさ。あたしが他より背高くて髪短いから男の代わりにしてるだけって事」 それでもあたしは女なのに、と怒ったように言う。 そんな川瀬にくすっと笑みをこぼしてから、 「そうだね。川瀬だってちゃんと女の子なのにね。どんなにがさつで大雑把で口が悪くても」 「笹木!そりゃどーゆー意味──」「こんなに綺麗な顔立ちしてるのに」 川瀬が言い終わる前に、彼女の顔を覗き込んで言った。 そしてにっこり笑顔を見せる。 川瀬は言葉が出ずにぱくぱくと口を動かし、耳まで紅く染まっている。 誰からも無愛想だと思われる川瀬、けれど本当はこんなにもわかりやすい。 私はもう一度微笑んだ。 彼女はむっとして、顔を背ける。 そんな様子に笑みが込み上げ、そっと彼女の髪に触れた。意外にも川瀬は、その手を振り払ったりはしなかった。 少しだけ穏やかな気分になれた私はずっと恐くて聞けなかった言葉を口にする。 「結局一年経っちゃったけど、無理矢理同室に決めちゃって…本当は嫌じゃなかった?」 川瀬は黙ったまま、私に頭を触らせていた。 「私のお節介で、本当は放っといて欲しかったんじゃ…」 「笹木のお節介は嫌いじゃない」 掠れる声の私を遮って、川瀬はこちらを振り向きながらそう言った。 「笹木以外と同室って考えらんないし、笹木のお陰でちょっとは集団行動出来るようになれたと思う」 面倒臭そうに頭を掻きながら川瀬は続ける。 「やっぱ対人関係が嫌な時もあるけど。クラスにも馴染めたし、友達だって…少しだけど作れた」 だから変な事で悩んでんじゃねーよと、川瀬は私の髪をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。 「点呼後に寮長がずっとこんな所いちゃ駄目だろ」 そう言って、すっと立ち上がった川瀬はやっぱりすらりと手足が長くて。 談話室の入口まで歩くと、 「部屋戻ろ」 少年の顔をして私を振り向いた。 早く立てよ、と私を急かす川瀬はわずかに口角を上げる。 そんな彼女がやけに可愛らしくて。普段からこんな風に笑えばいいのに、なんて思った。 「川瀬」 無意識に口から漏れる。 「ん?」 「今、楽しい?」 言った後にはっとして。川瀬を見たら訝しげに私を見ていた。 訂正しようと慌てて言葉を投げる。 「今のなし──」「楽しいよ」それに被せて川瀬が言った。 きょとんとする私に、 「楽しいよ。笹木が楽しくさせてくれた」 低いけれど穏やかな声で微笑む。 ぼやっとそれを眺めている私の視線に照れ臭くなったのか、「帰るぞ」背を向けて歩き出した。 何だか嬉しくなって。 部屋に戻ったらあの写真を一緒に見よう。 そして、このつまんなそうな顔をした子があなたですなんて、からかってやろうっと。 そんな事を思いながら彼女の後を追う私に、 「友達だから」 ぼそりと呟いた。 「さっきの答え。笹木の心配はするの、友達だから」 言い終わらない内にすたすた部屋ヘと戻ってしまった。 ……川瀬は狡い。 私をこんな気持ちにさせときながら放ったらかしだなんて。 前を歩く川瀬の背中が、今夜はやけに近かった。
■─五月の花嫁 □秋 (2004/07/26(Mon) 16:44:29) 『まーちゃん、結婚するんだって』 老化の一途を辿る教師陣の中で唯一若さを誇る彼の人の噂は、五月の快晴と共に瞬く間に広まった。 元々友達感覚で付き合いやすいと生徒の間で人気のあった女教師・早川真知。 まーちゃん、なんて愛称付けられちゃってたりするのがその証拠。 そんな彼女だからこそ、こんな話題で賑わうのは当然と言えば当然だった。 「ねぇ、早川先生結婚するってほんと?」 教室へと足を踏み入れたあたしに、真っ先に寄って来た友人は朝の挨拶もそっちのけで開口一番こう言った。 「あー…皆して朝からその話ばっか」 あたしは半ば投げ槍にそう言い捨て、すたすたと自分の席に向かう。 そのままあたしの後について来た彼女は更に言葉を投げ掛け。 「皐月、質問に答えてないってば」 そちらを見ずに鞄の中をまさぐりながら、 「するんじゃん?」 素っ気なく応えると、不満げな声を漏らした。 「…言い方が適当」 「そう?」 「そう!」 「じゃ、そうなんじゃないの」 「皐月ぃ…」 もう何なの。何なのよ、あんたは。あたしに何を言わせたいんだ。 じとっとした視線を受ける事に憤りを感じて、思わずむっとしてしまう。大袈裟に溜め息をつきつつ。 「…弥生さー、さっきから何?」 「何って…だから、先生が結婚しちゃうって話を…」 「だからぁ!それが何だっつーの!結婚?するから何?何なわけ?そりゃ結婚くらいするでしょ。  普通でしょ。二十四歳だし、適齢なんじゃん?教師の結婚程度でいちいち騒ぐなんてばかばかしいよ」 一気にまくし立て肩で息をするあたしに、弥生はぽかんとしていたけれど、やがておずおずと口を開いた。 「だって…」 「だって、何」 軽く睨み付けると、たじろいだように弥生はぐっと言葉に詰まる。 「……もしかして、知らなかった…とか?」 「……」 「そうなの…?だって、皐月と先生は──」 先程よりも強く意志を込めた瞳で弥生をぎろっと睨み、彼女の言葉を遮った。弥生はごくりと言葉を飲み込む。 「…何、いらいらしてんのよ」 「別に…」 もうその話はいいとばかりに席に腰を降ろして登校途中に買ってきた雑誌をぱらぱらめくり始めたあたしを見て、 弥生は寂しげに息を吐くと自分の席へと戻っていった。 結婚?結婚だって? あたしが気にしてどうする。 あたしが気にしてどうなる。 独身で、まぁまぁ美人で、少しばかりとぼけた所があるけれど。 今まで浮いた話がなかったのが不思議なくらい。 するってば、結婚くらいさぁ。 それなのに皆して騒ぎ立てて。 気にするなよ。 気にするなっつーの。 気にし過ぎなんだ、まったく。 あんたもあんたで、たかがそんな事で振り回されて。 あたしにどうしろって? …弥生の言葉通り、確かにあたしはいらついていた。 「ねー、まーちゃん。結婚式どこでやんのー?」 「教会?ウェディングドレス似合いそー」 「うん、絶対似合うって!まーちゃんのドレス姿、見たいなぁ」 まーちゃんこと早川先生の授業が終わった後、授業の質問なんかそこそこに、 年頃の女生徒達の興味は目下の所その一点だった。 彼女は若いパワーに囲まれて困ったように笑っている。 弥生もその輪に加わらないまでも、あたしと彼女を交互に見やり、気にしている事は明白だった。 やがてそそくさと教室を出て行くまーちゃん。 級友達も不満こそあるものの追い掛けるまではしなかった。 それを確認すると、あたしは立ち上がって廊下へ飛び出す。 弥生の視線を感じたけれど、今は構っちゃいられない。 廊下の突き当たり、下り階段の踊り場で彼女の姿を捉える事が出来た。幸い、人気はない。 「真知」 更に階段を降りようとする彼女の頭上からあたしは声を落とした。 ゆっくりと振り返る見慣れた顔は、あたしを確認すると柔らかく微笑んだ。 そしてすぐさまその笑顔が曇る。 「皐月ちゃん…」 あたしは階段を一段一段丁寧に降り、真知のすぐ目の前へと立った。 伏し目がちな彼女を真っ直ぐ見据えて。 「結婚するんだって?」 「……」 真知は何も答えない。否定の言葉さえも。 「…ほんとなんだ?」 彼女の口がぎゅっと結ばれるのがわかった。抑揚のない声であたしは続ける。 「まさか他人から聞かされるとは思わなかった」 その瞬間、はっとしたように真知は顔を上げた。 「誤解しないで?ちゃんと言うつもりだったのよ?  こんな形であなたに伝わる事になったのは残念だけど、皐月ちゃんにはきちんと話すつもりで―─」 「言い訳はいいってば!結婚決まったならさっさと話してくれればいい事じゃん!  よりによって何で他の子から聞かされんの?あたしが一番情報遅いってどーゆー事?」 怒りとも悲しみとも言える感情と共に言葉が溢れ出る。 真知は戸惑うようにあたしを見ながら、いつものおっとりとした口調で言った。 「皐月ちゃん…。そうね…確かにあなたの言う通りだわ。だけど……そこまで怒る事じゃないでしょう?」 この言葉に。 あたしはかっとなった。 「…真知はひどい」 ぼそりと呟く。 え?と、困惑の表情を浮かべる彼女に、 「普段にこにこしてるくせに、知らない所でそうやって人を傷つけるんだ!」 吐き捨てるとその場から立ち去った。 後ろから真知の声がした気がしたけれど、あたしはそれを振り払ってとにかく走った。 「やっぱりここに居た…」 屋上の鉄扉を開けるとすぐ、フェンスに寄り掛かる友人が目に入ったから。あたしは呆れたような声を出した。 「皐月…」 弥生はあたしを見るとひどく情けない顔をした。 構わずあたしは彼女の側まで歩み寄って、足元に座り込む。 「教室戻ったらいないんだもん。授業始まっても帰ってこないしさー。結局昼休みになっちゃったし」 弥生は無言のまま、あたしに倣ってアスファルトにぺたりと座った。 お互いに何も言わず、ただ空を見上げたまま。 大きく息を吸い込んで、あたしは沈黙を打ち破った。 「ごめんね」 「………え?」 驚いたようにあたしを見る弥生。ちょっとだけ困ったように眉尻を寄せて、あたしも彼女を見つめ返した。 「ほんとは朝いらついてたんだ。だから、ごめん」 「あぁ…そんな事…」 「……それからっ!それから…真知の結婚知らなかった事。ごめん」 はっと弥生はあたしを見る。 「あたし、身内なのに何も知らなかった。聞かされてなかった。もっと早く知ってれば弥生に教えてあげられたのに。ごめん」 何も言う事が出来ないという顔であたしを見つめている弥生。 やがて、ぼそぼそと呟くような声であたしに言った。 「…知って、たの?」 「ん…何となく、ね」 本当に本当に。それを知ってしまったのは偶然で。 けれど弥生の気持ちを知って知ってはいても、真知に彼氏が居る事も知っていて。 報われない想いだという事もまた、あたしは知っていた。 不毛だよ。不毛過ぎる。 弥生を見ていて何度も掠めるその言葉。 だから、せめて。せめてさ。 真知の結婚。 あたしが早い内にその話を聞いていて、だからと言ってそれを阻止する事なんてとてもじゃないけど出来ないけれど、 だからせめて、だったらせめて、噂として広がる前にあたしの口から伝えられれば、 その他大勢なんかじゃなくて他でもなくあたしの口から伝えられれば、 事前に知る事でショックだって和らぐんじゃないかって、急に突きつけられるよりは気持ちの整理もつきやすいんじゃないかって。 そう思ってさ。 そう思ったんだよ。 まったくもって不甲斐ない親友で申し訳ない。 「そっかぁ…気付いてたのかぁ…」 あたしから視線を外し、ぼんやりと遠くを眺めながら誰にともなく呟いた弥生の横顔をちらっと見て。ほっぺたをぎゅっとつまむ。 「痛っ…!何すんのよ!」 むっとしてあたしを睨む弥生に、 「大体さー、あんなのが良いって言う事自体が見る目ないんだよねー」 言い捨てる。 「それにさ、真知に彼氏居る事は知ってたでしょ?仮にもあの人はあたしの血縁者なんだから、結婚だって秒読みだっつーの」 ぺらぺらと、弥生に口を挟む隙を与えないように話す。 「弥生もさぁ、朝なんておろおろしちゃって。気にし過ぎ。  いずれこうなるって想像はしてたでしょ?わかってた事じゃん。  だから今回はそーゆー相手を選んだあんたに落ち度がある」 ぽかんと口を開けてあたしを眺めていた弥生は、半ば呆れたように、けれど堪えられないとばかりに笑いを噛み殺した。 「…なんて慰め方」 口を尖らせて言う彼女の目尻には涙が浮かび始めた。 きっと笑ったからだろう。そうでしょ、弥生? 本当の理由には気付かないでいてあげる。 鳴咽を漏らす弥生の頭を優しく触れる程度にぽんぽんと叩いて、 「あたしが居るじゃん」 にかっと笑って見せた。 「……さっきの慰めよりは合格点」 うつむき加減に鼻をずずっと啜った弥生はちらりとあたしを見て。 その視線に気付いたからあたしもそちらを横目で見やる。 そして、お互いに顔を見合わせるとふふっと笑った。 そんな中で二人同時にお腹の音がぐぅぅと鳴ったものだから、 「そういえば…お昼まだ食べてなかったね…」 「…うん」 お腹も減るはずだぁ、なんてぷっと吹き出して大笑いしてしまった。 五月の陽射しを目一杯浴びて、あぁ五月晴れってこういうのを言うんだろう、そんな事を思いながら。 あたしの大事な大事な親友を泣かせるなんて。 あたしにそれを慰める損な役回りをさせるなんて。 恨むよ? お姉ちゃん。
■─秘密の呪文 □秋 (2004/07/26(Mon) 16:45:41) 今日は日が悪い。 朝から寝呆けて足の小指をタンスの角にぶつけるし、 洗顔クリームの代わりに歯磨き粉で顔を洗うは、 トーストに海苔を塗るはの大失態。 しかもタッチの差で電車にまで乗り遅れて学校に遅刻。 ついてない。 本当についてない。 極めつけは、 「ひっく。ひっ…く」 …起きた途端からずっと止まらぬこのしゃっくり。 情けない事この上ない。何と言う今日は散々な日。 心身共に疲れきった私は疲労困憊の顔でようやく学校に到着した。 「おはよ、郁。珍しいね、遅刻なんて」 「陽子、おはっ…よ。ひっく」 「どうしたの?しゃっくり?」 「うん、朝からっ…ひっく!止まんなくっ…てさ」 「へー。そんな時って驚かすといいんだよね」 と言うといきなり私の背中をはたく陽子。パーン!と、小気味良い音が教室中に響き渡った。 「どう?」 「…どうって?」 「びっくりした?」 「痛い…っく、だけだっつーの!」 「だめかぁ」 残念そうな声を出しつつも口角が微妙に上がっている。こいつ、絶対面白がってる…。 「次は…そうだなぁ」 「いい。もういい。ひっ…っく。結構、ひっく、です」 「えー?せっかく協力してあげてんのに」 陽子は膨れてみせたが、私は冷たくあしらった。 冗談じゃない。陽子のやつにこのまま頼ったら、おもちゃにされかねない。何とか自力で止めてやる! 「郁ちゃん、顔恐いよ…」しゃっくり相手に悪戦苦闘している私に声を掛けてきたのは陽子ではなく比奈だった。 どうやら息を止めてしゃっくりを押し殺そうとしていた為、顔が強張っていたらしい。 比奈が近付いてきた事にも気付かなかった。 「郁は今しゃっくりと戦ってるの」 私の代わりに陽子が答える。 てゆーか…まだいたのか、陽子。 「そうなの?しゃっくりは驚かして治すってよく言うよね」 「だめだめ。それはさっき私がやった。効果なーし」 大袈裟に肩をすくめて打つ手なしといった風な陽子。 おい、陽子。お前がやったのは力一杯叩いただけだ。 けれどしゃっくりを飲み込む事に必死な私はあえて口を挟まなかった。 「あとは…水をたくさん飲むとか、息を止めるとか?」 「朝から試して、ひ…っく、みたけど止まんなかった。ひっく」 「あー!郁!あんた、私の話は無視したくせに!比奈なら話すわけ?」 「陽子は、ひっく、楽しんでるだけ…っく、じゃん!」 「ひどーい!何よ、その言い草」 「ひどくない。全然ひどくない」 私と陽子が言い合ってる中、比奈は真剣な顔付きで何やら考え込んでいた。 陽子との決着が着かぬまま授業の開始を告げるチャイムが鳴ってタイムアップ。 「ごめんね、郁ちゃん。考えたんだけど何も思いつかなかった」 そう申し訳なさそうに微笑んで、比奈は自分の席へと戻って行った。 …そうか。さっきの神妙な表情。私のこのくだらない悩みをちゃんと考えていてくれたんだ。 ありがとう、比奈。 それに比べて陽子…。しゃっくりしながら喋る辛さ、あんたは全然わかってない! 陽子との怒鳴り合いでかなり体力を消耗した私は、午前中の授業全てに精魂尽き果てていた事は言うまでもない。 しゃっくりは何回もし続けると死ぬって、どこかで聞いた事がある。確か横隔膜がどうのって。 そんな事をぼうっとしながら思い浮かべる私はいよいよやばいのかもしれない。 授業毎の担当教師に何度しゃっくりがうるさいと言われた事か。 その度にクラス中から注目の的。 こっちだって好きでしてんじゃねーよ! 疲労とイライラでつい口まで悪くなる。 そう。午前の授業が終わり昼休みに入ってもなお、私のこのしゃっくりは止まってくれはしなかった。 もういい。疲れた…。今日は日が悪いのだ。帰って寝よう。 おもむろに鞄の中にノートをしまい始める。 「まだ止まらない?」 虚ろな目で声の主を見上げると、目の前には比奈が立っていた。 「あれ…?郁ちゃん、帰るの?」 「うん。疲れ…っく、たから早退、ひっく、する」 たたがしゃっくり。 されどしゃっくり。 これがなかなかしんどいのだ。 比奈と会話している余裕もない私はごそごそと荷物をまとめ上げる。 「ひっ…く、じゃあ帰る」 彼女をちらりとだけ見て教室から出て行こうとすると、「ちょっと待って」と声がしたから、私はその足を止めた。 「帰る前に少しだけ…いいかな?」 比奈はたたっと私の側まで寄るとそんな事を耳打ちしたから、早く帰りたいなと思いつつも、 「…うん」 と答えていた。 廊下を抜けて、屋上へと出る階段の踊り場までやって来た。 「ひっく」 相変わらず私のしゃっくりは治まる事を知らない。 うんざりしながら壁にもたれかかる。 「やっぱりまだ止まらないんだね…」 本当に本当に、心の底から心配してくれている比奈の声。 それに比べて陽子と来たらどうだ。 さっきも帰り支度をし始める私相手に、ずるいだの帰るなだの。おまけにまた人の背中を蹴るは叩くは。 やる気満々なのが見え見えの驚かしは驚かしではなくて、それはもう単なる暴力にしかなり得ない事をやつは知らない。 あー…違うな。陽子の事だから確信犯だな…。 ぼんやり考えつつ、 「……ひっく」 しゃっくりも止まっちゃくれない。 「あ、郁ちゃん。あのね?」 イライラと疲労で何だか比奈の声まで遠く聞こえる。 「あのね…えーと、聞いてね?」 あぁ…ごめんね、比奈。 私の心配をしてくれてる事はよぉーくわかる。その気持ちはすごく嬉しい。 でもあんたの言葉を聞いてる余裕は既に私にはないみたい。 帰りたい帰りたい帰りたい。 胸の中の呟きに、しゃっくりが合わさって出てくるものだから尚更欝陶しい。 しゃっくりの回数に比例して、私の苛立ちはピークに達した。 「比奈、ひっ…く、悪い、んだけどさ。私、ひっく、帰…──」 「郁ちゃんが好きなの」 「る……?」 へ? と思って。 言葉ごと、しゃっくりごと、ごくりと全て飲み込んで。 すっかりうつむいていた顔をがばっと上げる。 じっと比奈を凝視して。 目をぱちくり。 彼女は私としばらく見つめ合った後、ふにゃっと笑った。 「どう?驚いた?」 「……へ?」 また、目をぱちくり。 比奈は相変わらずのふわふわした笑顔を浮かべて。 「しゃっくり、止まった?」 「…え?あ…」 呆気に取られていた私は、彼女に言われて、問題のそれに集中してみる。 「止まった…」 喉に溜まる違和感はすっかり取り除かれていて、私ははぁぁと大きく安堵の息を吐いた。 「そう、良かった」 比奈もほっと胸を撫で降ろし、嬉しそうに微笑む。 「ありがと、比奈」 ようやく私にも笑顔が戻った。 「どういたしまして」 「やっと解放されたーって感じ」 両手を上にぐいっと伸ばしてまた息を吐いた。 「あ、しゃっくりは止まったけどどうするの?」 「んー…何かどっと疲れ出てきたから、とりあえず帰るよ」 そう、と言う比奈の言葉を聞いてから二人並んで歩き出す。 階段を降りて、比奈は教室へ、私は昇降口へ。その分岐路まで来ると足を止めた。 「ほんと助かったよ、ありがと」 「いいよ、そんな事」 にっこり笑う比奈。 「それにしてもびっくりしたなぁ。冗談かぁ」 あははと笑った私に、比奈は何も言わずにふふっと笑った。 「じゃあ、また明日ね?」 手を上げて軽く左右に振る比奈に、 「ん、ばいばい」 私も返す。 比奈は終始笑顔を絶やす事なく。 もう一度私ににこっと微笑み掛けると、私に背を向け教室へと続く廊下を歩いていった。 私は比奈が小さくなるのを見送って、くるりと足を反対方向へと変えると昇降口に向かって駆け出した。 彼女の背中に囁いてから。 今度あんたがしゃっくりで困った時には、私があんたに唱えてあげる。 しゃっくりに効果的なあの呪文を。 秘密の言葉を。 …勿論、冗談なんかじゃなくてね?
■─言わずの I LIKE YOU □秋 (2004/07/26(Mon) 16:47:13) 「笹木先輩!」 放課後。 昇降口から出ようとするあたし達に、正確には笹木に、下級生が数人寄ってきた。 「これ、調理実習で作ったんです!よかったら…」 差し出された包みを、笹木はにっこり笑って受け取った。 「ありがとう」 その言葉に奴らは嬉しそうに顔を輝かせる。 あたしはそのやり取りをうんざりしながら見ていた。 笹木は美人だ。 おっとりした性格の彼女は、色素の薄い緩やかにウェーブする長い髪をなびかせて穏やかに笑う。 寮長だとかクラス委員だとか、そんな面倒事も嫌な顔一つせずに引き受ける。 世話好きでお人好し。 だから憧れるのもわかるって言えばわかんだけどさ。 それにしても、待ち伏せたり手作りの品を渡したりって、憧れの延長ってゆーか、恋愛じみてて。 何だかげんなりしてしまう。 あんたらは笹木とどうなりたいんだ? 告白すんの?したとして、それから? ──…想像してみて、うげぇと思った。 笹木を見ると、やっぱりにこやかな笑みを浮かべてる。 人好きのする顔だ。 そんな笹木の笑顔は嫌いじゃないけど。 何を勘違いしてんだか、その笑顔に照れている下級生達にまた腹が立った。 あー、さっさと帰りてぇなー。そう思っていると、 「じゃ、先輩さようなら」 「受け取ってくれてありがとうございました!」 たたっと奴らは走っていった。 去り際にちらりとあたしを見たのが気になったけど。 ちょっとだけむっとして、 「川瀬、帰ろう?」 その声に、「ん」と軽く返事をして、すぐに忘れた。 目覚ましの音が頭に響く。 この音はあたしじゃない。 んー?と不機嫌な声を出すと、ひょいと笹木があたしの顔を覗き込んだ。 「ごめんね、川瀬。起こした?」 まだ意識がぼんやりしているあたしは目を擦りながら笹木を見る。 「私、今日日直だから先行くね」 そう言って、笹木はさっさと準備を済ますと部屋から出て行った。 遅刻しないようにね?なんて事を、間際に言い残し。 そのお陰か知らないけれど、何とかあたしは自分の目覚ましで起きる事が出来、朝食を食いっぱぐれる事もなかった。 これなら十分間に合うな、時計を確認して部屋を後にする。 寮から出ると門の前に見知らぬ女が立っていた。 同じ制服を着ている所を見るとうちの生徒だろうけど、多分寮生じゃない。 何だこいつと思いながら通り過ぎようとしたら、 「あの…!」 声を掛けられた。 無言で立ち止まり、振り返る。 眼鏡を掛けて黒髪を肩まで伸ばしたそいつにはやっぱり見覚えはなかった。 「何」 せっかく遅刻しない時間に出てこれたのに足止めすんなよ、と不機嫌を隠せない。 「あ…笹木先輩は……?」 んだよ、笹木のファンかよ、とチッと舌打ちをして。 「笹木は日直で先行った。つーか、笹木の迷惑考えて寮まで来るなよ」 じゃあ、立ち去ろうとすると、「待ってください!」また声を掛けてきたから、今度は何だよと半ば投げ槍に足を止めた。 「あの、これ…」 手紙を差し出してくる。 「笹木に?自分で渡せば」 うんざりしながら頭を掻く。 「いえ、川瀬先輩に」 「あたし?」 はい、と、うつむきながら呟く。 「笹木先輩も川瀬先輩も一年生の間で人気あるんですよ。笹木先輩と川瀬先輩、絵になるから…」 はぁ?と顔をしかめている最中に、そいつは走り去っていった。 手の内の紙を捨てようとして、そういう誠意のない行為をしちゃいけないよ、 どこかで世話焼きな誰かの声がしたから、あたしはそれをそのままバッグに突っ込んで学校への道を歩き出した。 授業が始まる。 ホームルーム中も爆睡してたあたしは、そのチャイムでのろのろとバッグからノートやらペンケースやらを取り出す。 まさぐっていると、見慣れない封筒が目に入った。 今朝の事を思い出し、嫌々ながらも封を開けた。 女の子特有の丸っこい文字にうんざりしつつ、それを読み進める。 『笹木先輩と川瀬先輩の事でお話があります』──? そんなのあの場でとっとと用件を言え、そう思って手紙を握り潰そうとする。 が、思い留まって。 ちらりと最後の行に目を落とした。 ──昼休みに屋上、か…。 少しだけ。 少しだけ、気になった。 「で?手短に話して欲しいんだけど」 あたしはのこのことその呼び出しに応じて屋上へと来ていた。 目の前には今朝の眼鏡が立っている。 「あの…えっと…」 さっきからこの調子の眼鏡にイライラしながら。 「何?」 言葉の続きを急かした。 ようやくふんぎりがついたように、眼鏡のその奥をキラリと光らせ、眼鏡はあたしをじっと見た。 「───あの!川瀬先輩と笹木先輩は付き合ってるんですか!?」 「……………はぁ?」 予想もしてないその質問に、あたしは馬鹿みたいな声を上げた。 「一部で噂になってるんですよ?寮でも同室らしいですし、いつも一緒に居るので。  お二人が並んでいるととても絵になるので、付き合っていても有りだと思います!  素敵な関係だなぁって、皆憧れてるんですよ!」 絶句しているあたしに構わず、べらべらとまくし立てる眼鏡。 あたしはうんざりしながら、 「あのなぁ──…!」 怒鳴ろうとした瞬間、 「川瀬ー?」 屋上の扉が開き、ひょいと笹木が顔を覗かせた。 「笹木先輩…」 眼鏡はそう呟いて、あたふたと屋上から飛び出して行った。 それを見送りながら、代わりに笹木がこちらにやって来る。 「笹木…何で」 「だって川瀬、すごい勢いで教室出て行くんだもの。何かと思うじゃない」 穏やかに微笑む。 「今の子、知り合い?」 「違う」 ふうん、なんて言いながら、笹木はフェンスにもたれかかった。 私もフェンスに背を預ける。 屋上に吹く風はむっとする程湿っていて、六月の何とも生暖かい空気があたしの苛立ちを更に増幅させた。 ちらっと笹木に目をやって。 様子を窺うように声を掛ける。 「…聞いてた?」 「私と川瀬が付き合ってるって?」 あーぁ、とあたしは溜め息をついた。 何だか脱力してしまって、そのままずるずると座り込む。 「あの眼鏡ー…」 またむしゃくしゃしてきて、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。 「なあにー?そんなに苛立って」 おかしそうな笹木の声が頭上から降ってくる。 「根も葉もないただの噂じゃない」 笹木の声は日溜まりみたいだ、なんて事を考えながら、それでも苛立ちは収まらず。 「噂だろうが、そんな目であたしらを見てると思うとぞっとする」 笹木を見上げて吐き捨てるように言うと、 「嫌悪感丸出しだね」 笹木はおっとりした口調であははとあたしに微笑み掛けた。 それに毒気を抜かれながらも。 「…怒んないの?笹木は嫌じゃない?こんな噂立てられて。女同士じゃん。気持ち悪くない?」 そう言うと、フェンスに寄りかかっている笹木はゆっくりと空を見上げた。 少し考える仕草をしながら。 「んー…どこからこんな発想するんだろうって思った」 のんびりと言った。 その答えに、「あっそ…」どこまでもマイペースな奴だと閉口する。 すると、笹木はあたしの目の前にすっと立つと、そのまましゃがみ込んだ。 「女同士でこんな事言われるのにはやっぱりちょっと抵抗あるけど、相手が川瀬だから良いかなー」 顔を覗き込みながらにっこり笑った。 あたしは呆気に取られ。 「あれ?川瀬、顔赤いよ?もしかして照れてるー?」 「照れてねーよ!」 ばっと立ち上がると、乱暴に屋上の扉を開けて階段を降りる。 「川瀬、待ってよ」 その後を追いながらくすくす笑う笹木の声が背中越しにくすぐったい。 何だか、笹木にもあの眼鏡にも、全てを見透かされてる感じがして癪だった。 去年は短かった笹木の髪は、この一年で随分伸びて。 六月の湿気を帯びた嫌な風にもさらさらとそよぐ程になっていた。 あの時、あたしの前にしゃがみ込んだあの瞬間に、柔かなくせっ毛が鼻先を掠めたから。 この髪があとどれだけ伸びるまでその近くに居られるだろうか、 何故だかそう思ってしまったなんて死んでも教えてやるもんか。
■─星を見たかい《星詠み》 □秋 (2004/07/26(Mon) 16:48:11) 「さぁさのはぁ〜さぁらさらぁ〜」 先程から一人フンフンと鼻唄を奏でる彼女の手元を私は手伝う気配の一つも見せずに傍観していた。 チョキチョキ、チョキチョキ。ハサミを器用に動かす手がリズミカルに動く。 「もう…さっきから人の事じろじろ見てぇ。暇ならアズも手伝ってよぉ」 その手を止めてくるりと私を振り返ったサチに「えー?」と明らかに不満げな顔をしてみせたら、呆れたように溜め息をついた。 「星祭りもうすぐなのに…」 ぶつぶつ言いながら作業に戻る。 「生憎、イベントごとには興味なくてねー」 はいはいそうですか、と呆れた声を出しながら、それでも彼女は楽しそうに七夕飾り作りに精を出していた。 「あのさー、最近寮生何やってんの?」 授業の合間の小休止。 手持ち無沙汰から次の授業の教科書をぱらぱらとめくっていた私の元にふみがやって来た。 せっせと手先を動かす数名を指差しながら、主人不在の前の席へと腰掛ける。 「あー…うちの寮、毎年七夕の日に星祭りってのやるらしくてさ。  寮の裏手にでっかい庭があるんだけど、そこに笹飾って皆で短冊付けて夜にバーベキューやるんだって」 「へぇ。楽しそうじゃん」 面倒なだけだよ、と私は溜め息をついた。 「一年が飾り付け担当、二年が笹を調達、三年は受験生だから準備が整った当日にお呼ばれ、だってさ」 寮生は基本的に強制参加だし、と机に片肘をついてもう一度息を吐く。 「で?梓は作んないの?あれ」 ふみは目だけをそちらにやって、私同様肘をつくとその上に顎を乗せた。 「パス。私はこーゆーイベント好きじゃない」 誰かにも言ったような台詞を繰り返すと、ふみはからかうようににやにや笑った。 「一年は飾り作らなきゃいけないんでしょ?生意気にも放棄?」 意地悪く言う。 「…いいの、私は」 彼女が面白がっている様子が何となく気に食わなくて、私は素っ気なく返した。 「私の分まで同室の子が頑張ってくれてるからね」 「あぁ、サチ?」 ちらりと彼女を見やると、やはり教室内の寮生と同じくして、机に向かって懸命に何やら作っていた。 「サチはあんたと違って行事とか好きそうだもんね」 ふみはまたにやにや笑うと時計を見て、少しはサチを手伝ってやんなよ?、そう言って席を立った。 「私も参加したいなー」 なんて事を言いながら。 「寮生以外でも短冊飾っていいらしいよ。バーベキューも参加費出せば来てもいいって」 サチから叩き込まれた基本情報を告げると、 「あ、じゃあ行こうかな」 本気で考えるような仕草をしたので、 「ふみ、変わったね」 思った事をぽつりと漏らすと、 「そう?」 よくわかんないや、呟きながら自分の席へと戻っていった。 そうだよ、入学したばかりの頃はあんなにつまらなそうにしていたじゃない。 何があったか知らないけれど、ふみは日々を楽しむようになっていた。 私はまだ、燻っているのに。 休み時間が終了しても未だ手を止める様子のないサチを見ながら、そんな事を思った。 星祭りまであと三日。 寮の裏庭には二年生が運び込んだ巨大な笹がでーんとその存在感をアピールし、 飾りを作り終えた一年生達は次々と装飾をし始めていた。 この頃になると願い事が書かれた短冊もちらほらと見られるようになってくる。 サチの手伝いに借り出された私は、 梯子を使って高い位置にある笹の葉に折り紙で作られた輪っかを括りつけながら、それらを眺めていた。 『成績を上げたいです』 『今年中に彼氏が欲しい!』 『一度でいいから会長と話をさせてください』 『あの人と結ばれますように』 …あほらし。 無意識に胸中で毒づく。 揃いも揃って。何だ、これは。 こんなものを願うな! 引きちぎってやりたい衝動を何とか堪えて、黙々とサチが作った飾りを笹につけていく。 自分の努力次第でどうとでもなるものを願うなんて。馬鹿馬鹿しい、そこまで他力本願か? ち、と思わず舌打ちしてしまったら下で梯子を支えているサチに怪訝な顔をされた。 黙ったまま梯子を降りる。 「お疲れ様」 するとサチは私に缶ジュースを差し出してくれたから、ありがと、とそれを受け取ってごくごくと飲み干した。 「当日晴れるといいねぇ」 「…別に」 缶に口を付けたまま言う。 「参加するでしょ?」 「どうだろ」 つまんなそうに吐き捨てると、サチはぶうっと頬を膨らませた。 「アズの悪い癖だよ。それ」 「だって興味ないんだもん」 「そうじゃなくて単に関わらないだけじゃない」 私はむっとして、缶から口を離した。 「…どういう意味?」 「最初っから踏み込もうとしないんだもの。それじゃ興味があるかどうかだって判断出来ないよ。  もしかしたら好きなものかもしれないのに、初めから嫌いだって決めつけるのは…もったいないよ」 何となく心に引っ掛かったものの釈然としなくて。 「楽しもうと思って参加すればきっと楽しいから」 イライラし出した私はつっかかるようにサチに言った。 「楽しめ?楽しみでもないのに?」 「だからそれはアズがそうしようとしないだけで──」 「私は自分で動こうとせずにただ願うだけで何とかしようとしてる人達が嫌いなんだよ。  七夕なんてそーゆー日じゃん。それを敬遠するのは悪いの?」 ぐっと黙って傷ついたようにサチは目を伏せる。しかし、すぐに顔を上げるとキッと睨むように私を見た。 「それがおかしい?アズにはその人達の願いは大した事じゃないんだ?」 私も負けじと彼女の目を見る。強く強く、睨み付けながら。 「短冊に書いたって単なる気休めだよ」 それでもサチは怯む事なく、更に鋭い言葉で私を刺した。 「そうだね。確かにそうだよ。  でも…こうなれたら、っていう願いだったり、こうしたい、って決意だったり、  紙に書く事で意志をはっきりさせてそれが背中を押してくれるのかもしれないでしょう?  他人にしてみれば馬鹿馬鹿しい事でも、その人にとっては本気なんだよ。真剣なんだよ。それをアズが馬鹿に出来るの?」 体の奥がかっと熱くなった。 憎悪とはまた別の…そう恥ずかしさ。 図星だった。 私は真剣に願える程の何かを持ち合わせていなかったから。 自身のコンプレックスを棚に上げて、それを指摘されて、惨めな私はどんな顔をしていただろう。 唯一答えをくれるはずのサチは普段の彼女らしくない怒りを秘めた瞳でしばらく私を見ていた後、 何も言えずにいる私の元から立ち去った。 自分から楽しむ、か…。 サチの言った事はどれも真実だった。
■─星を見たかい《星に哭く》 □秋 (2004/07/26(Mon) 16:49:37) 七月七日。星祭り当日。 授業を終えて寮へ帰って来た寮生達は、皆一様にして裏庭へと集まっていた。 バーベキューの用意やら笹の残りの飾り付けやら、ここ最近の準備期間以上に活気を見せる。 私が帰りがけに覗いた時にも、寮生以外の生徒がちらほらと集まりを見せていたから、 確かにこれは学校の行事とはまた別の、生徒だけの一大イベントらしかった。 そんな彼女達を遠目に見やってから部屋に戻ったものの、私はそこから出る気にはなれなかった。 サチの鞄が床に置かれている所を見ると、彼女は私よりも一早く帰宅して既に準備へと向かったのだろう。 誰よりも楽しみにしていた彼女だから。 あれからサチとは口を聞いていない。いや、サチが頑なに口を閉ざしていた。 『その人達の想いを馬鹿に出来るの?』 考える。 多分…私が悪い。 好きじゃないと言ってるものを無理に押し付けようとするサチに腹を立てながらも、それでも彼女の言葉は正論だと思った。 最初から食わず嫌いのように決めつけてかかる私を、中に踏み込んでから好き嫌いを区別しても遅くないと、 彼女なりに思ってくれているのがわからない程私は愚かではなく。 恐らく、私がそれに気付いていない昔から、サチは私を気遣っていてくれたのだろう。 私が馬鹿にしているもの達は、案外私を容易く受け止めてくれるのかもしれない。 窓の外はすっかり陽が沈んでいて、大勢の喧騒が闇に響く。 ―こうしたい、という決意だったり。 ―意志をはっきりさせる願いだったり。 ―背中を押してもらう為だったり。ね。 深呼吸をひとつして。 机の引き出しを勢いよく開けると、以前サチが私に押し付けたまましまわれっぱなしになっていた何も書かれていない短冊が目に入って。 それを慌てて取り出して急いでペンを掴むと、そこに乱暴に文字を落とす。 それを握り締めながら私は部屋を飛び出した。 生憎、空は曇っていて天の川は見えないけれど。 私の願いは織姫と彦星に叶えてもらうんじゃない。 私は自身で叶える為に願うんだ。 後押ししてもらう為の…短冊だ。 庭は沢山の生徒達で溢れていた。 笹に短冊を吊したり、側で談笑していたり、肉の焼ける匂いも漂っていて。 電飾だけを頼りに星も出ていない暗がりの中、サチを探す。 息が切れ始めた頃、前方に見慣れた顔が浮かんだ。 「ふみ!」 その人物に声を掛ける。 知り合いだろうか、彼女は上級生らしき可愛らしい感じの人と何やら話をしているけれど。それに構わずふみに近付く。 「サチ見なかった?」 「…梓。どうしたの、あんた」 息も絶え絶えの私に一瞬顔をしかめ、しかし教室での私達の様子から状況を察したのだろう、 「あっちで見掛けた」そう簡潔に言っただけで後は何も聞かなかった。 「早く行きなー」 ふみの声を背中に受け、飲み込みの早い友人に感謝しながら、私は彼女が指差した方へと走り出す。 その先には。 「……サチ」 梯子に登って笹の高い位置に短冊を吊すサチの姿があった。 私の声に振り向くも、すぐに笹に顔を戻す。吊し終えると、サチは無表情に降りてきた。 「……これ」 彼女を前にして、何も言葉が出ない私は、握り締めたままの短冊を差し出した。 「…短冊くらい、人にやらせないで自分で吊して」 短冊に目をやろうともせず、言い放つサチ。 「勝手に笹に飾ればいいでしょ」 普段の彼女からは考えられないその声の冷たさに、私はひやりとしたものを覚えて。けれど食い下がる気はなかった。 「……これは、笹じゃ叶わないから」 「え?」 思わずという感じで、サチは私を見た。 「サチじゃないと意味がないから」 口元がわずかに、アズ、と動いた気がしたけれどそれは言葉にはならず。 サチは黙って突き出したままになっている私の手から短冊を受け取った。 『サチと仲直り出来ますように 梓』 それを見て。 目を丸くさせたかと思うと、くすくすと笑い出した。 「アズの願い事ってこれ?」 「…悪い?」 何となく照れ臭くなってぷいっとそっぽを向く。 「他人にとっては馬鹿らしくても本人には切実かもしれないでしょ」 そう言い捨てると、そうだね、とサチは微笑みながら応えてくれた。 にこにこと笑うサチを前にして、自分の短冊だけばらしてしまった私は何とも気恥ずかしい気持ちを隠せない。 ポーカーフェイスを崩さないように素っ気なく訊いた。 「…サチは?何をお願いしたの?」 「んー…秘密」 へへっと笑う。 「ずるいよ、私だけ」 「アズが勝手に見せたんじゃなーい」 言いながら、ぶすっとする私の頬をつつく。ふん、と鼻を鳴らして、 「どうせ彼氏が欲しいとか、好きな人と結ばれたいとか、恋愛関係?まぁそんなとこでしょ」 悔し紛れにそう言うと、サチは「惜しい、かな」と、いつもとは違う悲しげな笑顔を浮かべた。 それが何だか幼い顔立ちの彼女を大人びて見せて、なんて表情をするんだろうとドキリとしてしまったから、 少しだけ、本当に少しだけだけれど綺麗だなんて思ってしまったから、何となく悔しい思いがした。 苦しい恋でもしているのかな…ほんのちょっと、そんな事も考えながら。 バーベキューの輪に加わって心行くまで食べた後、しばらく七夕飾りを二人ぼんやりと眺めていたら、 「誰かー!手伝ってー!」 聞き慣れた声が響き渡った。 「人手欲しいのー!」 そちらを見ると寮の先輩達が数人、笹の廻りに集まっていた。 「あ、もうやるんだぁ」 サチはいつもの顔に戻っていて。私もさっきのサチの表情を頭から引き剥がす。 彼女に気付かれないよう息を吐いてから、尋ねた。 「何を?」 「ほんとに何も知らないんだから…」 溜め息をつきながらサチ。 「星祭りの締め括りはキャンプファイヤー!あっちに木材が組んであるでしょ?  今から笹運ぶんだね。それで火に笹を短冊ごと焼べて、願いが空まで届くようにするんだって」 「それはまたロマンティックな…」 やれやれと溜め息をつきながら、ふと思う。 「私、行ってくる」 たった一言だけサチに投げると、私は笹の廻りに集まる彼女達の元に合流しようと一歩踏み出した。 そんな私に、え?、とサチは疑問の声を上げる。 「行くって?」 「笹運ぶんでしょ?手伝ってくる」 「だって……アズが?」 「…他に誰がいんの」 私はうんざりしたように彼女を見た。 「自分から踏み出さなきゃ何も変わらないんでしょ?」 そう言ってにやりと笑うと、サチは一瞬ぽかんと私を見て、すぐに心から嬉しそうに笑った。 今、目の前で勢いよく炎が焚かれている。 空を見上げても、暗雲に覆われていて、月ばかりか星屑のひとつさえも見えない。 暗闇に赤い火柱がよく映えて、それが闇夜を煌々と照らし出していた。 笹運びは思いの外重労働で。十数人がかりでやっと組み木に焼べたわけだけど。 先輩からの感謝の言葉、火の上がるキャンプファイヤー、それらから湧き起こる歓喜の声。 運んだだけ、ただそれだけの事なのに。意外な事に私は何となく嬉しかった。 燃え盛る炎が無数の願い達を飲み込んでいって、それらの灰が空へ空へと舞い上がり星のように瞬いていた。 きっと…近い場所まで行くのだろう。 私はもう一度空を見上げた。 私の隣でキャンプファイヤーに見入るサチヘと声を掛ける。 「天気、残念だったね」 ちらりと私を見ると、私の視線の先へと彼女もまた目をやった。 炎に照らされてもなお、黒いままの空を見て。 「……でも、私の願い事は叶いそうになかったから…ちょっと安心した」 ぼそりと呟く。 「……?そうなの?」 「そうなのっ」 私は視線をサチヘと移した。わからないという顔をしている私に、サチも空から視線を落として。 「…下手に晴れちゃって叶えられたら困るよ」 「それじゃ願い事じゃないじゃん。大体晴れない方がいいなんて、織姫と彦星が可哀想じゃない」 そう言うと、「アズらしくない言葉だ」私を見て吹き出した。 むっとして、サチから視線を外そうとしたら、彼女はぽつりと漏らした。 「これは私の心の問題だから」 独り言のように。 「叶うも叶わないも私次第だったの」 だから晴れてても多分無理だったよ、彼女はそう言って笑った。 私はただ、「ふぅん」とだけ応えて。 短冊は、轟々と哭く炎の中でその身を星に変え、空へと還っていった。 …本当は。 笹を運ぶ時に見てしまったんだ。彼女の短冊を、彼女の願いを。 かく言う私も、この日を心待ちにしていたであろう織姫と彦星には悪いけれど、天の川が隠れてしまった事にほっとしていた。 …あんな願い、叶えられては困るんだ。……私が。 名前が書かれていないそれは、他人が見たらわからないかもしれないだろうその文字は、確かに見慣れた彼女のものであり。 同室である私が気付かないはずがなかった。 ―アズをこれ以上好きになり過ぎませんように。 私を「アズ」なんて呼ぶのも、実のところ彼女ぐらいしかいないのだし……ね。
■─突然Feeling □秋 (2004/07/26(Mon) 16:50:47) 家庭の事情というやつで、あたしは高校一年の一学期を終えると、そんな中途半端な時期に転校する羽目になった。 転校先の女子高には寮があって、特に強制ではなかったけれど、これまた家庭の事情というやつであたしはここに入る事になった。 本来ならば二学期から通うはずのこの学校。 少しでも早く慣れた方がいいだろうという有難迷惑な心遣いのお陰で、あたしは夏休みに入ったらすぐに寮入りするよう宣告された。 この寮は、何でも三年以外は相部屋が原則らしくて。 人数の関係でたまたま二人部屋を一人で使用していた同学年の結城さんという人があたしの同居人として紹介された。 顔だけはやたら整ったこの結城さん。 彼女は何とも無気力で、新入りの面倒を見るばかりか放任主義もいいとこだ。 「食堂の利用時間って何時から何時まで?」 と尋ねれば、 「寮長に訊けば教えてくれるよー」 と答えるし、 「お風呂場ってどこにあるの?」 また尋ねると、 「廊下出ればわかるんじゃない?」 と、こんな調子。 あたしもね?ちょっとは寮生活に夢とか希望とか憧れがあったわけ。 一人部屋がいいなぁとか、相部屋はやだなぁとか、 共同生活なんて柄じゃないよとか思っていても、同室の子はどんな子だろうとか、さ。 やっぱり少しそんな生活にわくわくしていた。 だけどねぇ…。 何せルームメイトは超マイペース。 お互いに干渉しないというか、むしろ無関心? 完全に我関せずのスタイルを地で行って、多分あたしの存在なんて気に留めていない。 きっと彼女は誰かの気配がするだけで、未だに一人部屋と同じ感覚でいるんだろう。 よほどの事がない限りこの部屋割りで三年生まで過ごすらしいから、あたしだって歩み寄ろうとはしたんだよ? 「結城さーん、ご飯食べに行こ」 「まだいいや。パス」 「ねぇ、結城さん。そろそろお風呂入りに行かない?」 「行けば?」 ……ね? 入寮したてのあたしに全く構う素振りを見せない事といい、マイペースもいいとこでしょう? あたしはこれからここで生活していけるのかと、一抹の不安を覚えざるを得なかった。 「おはよー、佐伯さん」 「あ、おはよ」 「今日はパン食だって」 「そうなの?良かったぁ…こんな暑いと朝からご飯なんて食べられないもん」 「言えてるー」 それでも一週間を過ぎた頃にはこうして普通に話し掛けてくれる友人は出来た。 既に夏休みに入っていたから、寮生とはすんなり顔合わせを済ませられたし。 寮長はとても親切にここでの決まりを教えてくれて、元々人見知りをする方じゃないあたしはすんなりと順応。 何となく勝手はわかった。 「それにしても、ほとんどの人は同室の子とご飯食べに来るのに佐伯さんは違うね」 トレーに朝食を乗せ、席につくとさっちゃんが口を開いた。 「さっちゃんこそ」 あたしはトーストにバターを塗りながら答える。 「朝だけよ。私の同室の子、朝弱くて起きないの」 思い出したようにくすりと笑うさっちゃん。 「佐伯さんの同室の子も朝が駄目とか?でも夕飯も一緒じゃないよね」 「あー…」 どう言っていいものかと、あたしはあははと曖昧に笑ってみせた。 「誰と同室だっけ?」 「ゆーきさん」 トーストを一口サイズにちぎって、含む。 あたしの言葉にさっちゃんは、成程、と言う顔であたしを見た。 「結城さんかぁ。それなら納得」 ふふっと笑う。 「苦労するでしょ」 「やっぱりそう思う?」 「うん、あの人やる気ないでしょー。一緒に寮生活して三ヵ月経つけど、いまいち掴み所がないんだよねぇ」 クラスが違うから学校ではどうか知らないけど、とサラダのプチトマトをフォークで刺して目の前でくるくる回すさっちゃん。 それをぱくりと口に放った。 「何か相部屋なのに一人の気分」 「うーん…マイペースな人だからね。何考えてるのかわからないし」 顔だけは綺麗なのにね、そう言ってさっちゃんはまたあははと笑った。 「寮の事で困った事があったら私に言って?一年だけど少しは教えられると思うし」 ね?と、人懐っこい笑顔を向けるさっちゃんと、今も部屋でぐうたらしてるんだろう結城さんが重なって、 今からでも部屋を換えられないかなぁなんて思いが本気で頭を掠めた。 それにしても結城さん。 本当に彼女がわからない。 未だにあたしは、この不可解な同居人とまともに言葉を交わした事がなかった。 入寮してしばらく経つ。 寮生活にも少しだけど慣れてきた。 けれど結城さんには全然慣れない。 コミュニケーションを取ろうって気が、あの人には根本的に見られないから。 半ば諦めつつも日々を過ごすあたし。 でも…何だかおかしいんだよ。 部屋でぼーっと雑誌を眺めてるとふと感じる視線。そちらを見やると視線の主は結城さん。 特に何か言うわけでもなくただあたしをじっと見ているだけだから、あたしの頭は疑問符だらけ。 またある時も、机に向かって一生懸命夏休みの課題に取り掛かっていると背中に感じる誰かの視線。 振り返るとやっぱりそれも結城さん。 食堂でも談話室でも寮の裏庭でだって、大抵視線を感じるとそれは結城さんのものだった。 なんなんだろう? 最近よくあたしの事を見ているけれど。 自惚れじゃない程にそれは頻繁なものだから。 確信している。 結城さんはあたしを見ている、と。 けれど、わからない。 その理由が。 ……本当に彼女の事がわからない。 『いまいち掴み所がないんだよねぇ』 ちょっと前にそう言ったさっちゃんの言葉にうんうんと頷く。 考えてる事わかんないもんねぇ。 だったら考えるだけ無駄なのかなぁ…? やはり今日も入浴はばらばらで。共同浴場から戻ってきたあたしは、 ベッドに仰向けになって読書に没頭している結城さんをちらっと見ながらそんな事を考えた。 あたしが部屋に帰って来ても「おかえり」の一言も掛けやしない。 まったくの知らん顔。 そんな彼女の態度に慣れたとは言え、ちょっとだけむっとして。 肩に掛けたままのタオルでわしゃわしゃと髪を拭く。 そして彼女に背を向ける形でどかっと床に座ると、あたしは雑誌を見開きその上で爪を切り出した。 ぱちん、ぱちん、と。 沈黙の空間にあたしの爪が切り出される音だけが広がる。 何にも気にしない結城さん。 何にもお構いなしの結城さん。 何故だか今日はひどく苛立つ。 ぱちん、ぱちん。 大体ねぇ、普段は無関心で素っ気ないくせに、いらない時ばっか人の事見て─────…? はっとする。 え?と思った。 もしかして?と思った。 その、少しばかり恐い可能性に気付いてしまったあたしは無意識に言葉にしていた。 彼女に背を向けたまま。 ぱちり、と、足の指の爪を切りながら。 「ゆーきさん」 「んー?」 「あのさ」 「うん」 「時々さ」 「うん」 「あたしを見てるよね」 「うん」 「もしかしてさ」 「うん」 「あたしの事好きなの?」 「うん」 「それってさ」 「うん」 「友達として?」 「ううん」 「それじゃ違う意味で?」 「うん」 「へぇー……」 ぱちり。 そっか、そっか、好きなのか。 ……………………………………………………………………って、違ーう! 確かに好きだと聞きましたが?確かにうんって答えましたが? でも違うでしょ!? 淡々としすぎでしょ!? あたしの問いに動揺も驚きも何にも感じさせない声色で。 しれっと答えた。 背中越しに感じる気配はぱらりと紙がめくられるあの音だけで。 きっと結城さんはあたしの言葉に驚いてがばっと跳ね起きるどころか、 微動だにせず、読んでいる本のページをぱらぱらとめくる片手間で、あたしに答えていたんだろう。 生返事?生返事ですか? かーっと頭に血が上ったあたしは爪を切る手を止めて立ち上がると、ずんずんと結城さんが横たわるベッドの脇まで進んでいった。 それでも彼女は何の反応も示さないから、勢いに任せて結城さんの本を取り上げる。すると、ようやく目だけをあたしに向けた。 「好き、って言った?」 「うん」 だからそれが軽いんだ! どこまでも。どこまでもゆるゆるな結城さん。 あたしは彼女の胸倉を掴むと、ぐいっと自分の方に引っ張って強引に起き上がらせた。 「どういう意味で?」 顔を覗き込んで、言う。 結城さんはその端正な顔立ちをやる気なく歪めて、あからさまに、めんどくせーなー、って顔をしていた。 「耳をほじるなー!」 小指を耳の穴に突っ込んで掻くような仕草をする結城さんからは本当にやる気の欠片も見られない。 「ど・う・い・う・意・味・の・好・き・か・っ・て・聞・い・て・ん・のっ!」 胸倉を掴んだまま、言葉に合わせてがくがくと力任せに結城さんを揺さ振る。 彼女はそれに逆らわずやはり流れに任せてがくがく揺れていたけれど、やがて面倒臭そうに頭を掻いた。 「え?」と思った時にはもう遅くて。 片手だけをあたしの頭に添えたかと思うと、そのままぐいっと引き寄せられた。 わっ、と声を上げるとすぐ目の前には結城さんの綺麗な綺麗な顔が接近していて、 それに見惚れている暇もなく、何か柔かな感触があたしの唇を覆った。 それは一瞬の出来事で。 結城さんはすっとあたしの唇から自身のそれを離すと、 「こーゆー好き」やっぱりしれっと言って、あたしが奪った本に手を伸ばすとまた何事もなかったかのように読み始めた。 あたしは呆然と立ち尽くす。 何だか色んな事がいっぺんに押し寄せてきたみたいで。 何がなんだかわからない。 やっぱり彼女がわからない。 …てゆーかね? むしろわかりづら過ぎですよ、あなた。 あたしはぽかんと開いた口から、ようやく一言だけを搾り出した。 「どうして…あたしを?」 「さあ」 本から視線を外さずに結城さんは返事をする。 「あたしは、男の子が好きだよ?」 「ふうん」 「だから結城さんの気持ちには応えられないっていうか」 「別にいいよ。私が好きなだけだから」 ドキリとして。 抑揚のない、いつもの結城さんの声だったけれど。 そこには確かに気持ちがある気がしたから。 ドキリとして。 「だって…報われないじゃない……」 やっとの思いでそう言葉を吐き出したら、 「それは佐伯さん次第だけどね」 彼女は顔に被せた本をちょっとだけ横にずらすと、あたしを見て不敵に笑った。 初めて見る笑顔の結城さん。 それはとてもじゃないけど悪どい笑みで。にやり、なんて効果音が聞こえてきそう。 それでも、あたしの心臓をトクンとひとつ跳ねさせるには十分過ぎて。 悔し紛れに 「あたしは結城さんなんか好きにならない!」 そう叫んだら、既に彼女は本に目を戻してあたしの言葉など聞いちゃいなかった。 こんなにも胸が大きく高鳴るのも。顔がやけに熱いのも。夏の暑さのせいばかりじゃないだろうし。 時間の問題かなぁ…なんて、無意識に考えちゃってる辺り、 どうやらあたしは結城さんの罠にまんまとはまってしまったみたい。 これからのここでの生活、違う意味でやっていけるか不安を覚えるあたしです。
■─それは闇を彩る花に似て。《私と彼女と蝉の声》 □秋 (2004/07/26(Mon) 16:59:23) 彼女は両親が居なかった。 私は両親が海外赴任をしていた。 だから二人は。 必然的に寮に入り、偶然的にも同室だった。 蝉時雨。 陽が傾き始めた午後でさえ、未だ鳴り止まぬ声達に私はひどく苛立っていた。 暑い。暑すぎる。 ぐったりと床に寝そべる私を「あ、ごめん」エーコは無遠慮に踏み付ける。 ぐぇっ、とひき蛙のような間抜けな声を上げて、私はじろりと彼女を見上げた。 「…わざとでしょ」 「そんなとこに寝てんのが悪いんでしょ」 否定の気配は微塵もなく、私の言葉を肯定するかの如く、さらりと言ってのける。 「踏まれても起きようとしないリンもリンだ」 そう言ってからから笑う。 もっともだなぁと納得してしまう私。この暑さで脳味噌なんてほぼ溶けかけてんだよ、きっと。 考えるのはめんどくさい。何もかも。 再び、ひんやりとした床の感触を楽しみながら夕方のまどろみへと突入した私の脇腹に、 「あ、ごめん」 跨ごうとしたエーコの足がクリーンヒット。 「おいー……」 言葉にならない声で呻く。 ようやく痛みが引いてきたところで、 「わざとだろっ!」 立ち上がり、怒鳴りつけてやったら、 「だって暇なんだもん」 素知らぬ顔でこんな事を言われました。 ……はい?はいぃ? あんたは暇だと他人を痛めつけるのか?! 文句の一つでも言ってやろうとして、けれど余計に体感温度が上がってしまいそうだったので、やめた。 そのまま、また床へと座りこむ。 「珍しいね。つっかかって来ないんだ?」 意外そうに私を見るエーコに、 「その手には乗りませんー」 つーんとそっぽを向いてやったら、つまんなそうに溜め息をついた。 「だってリン、さっきから寝てばっかなんだもん。暇ぁ!暇、暇!」 「うるさいなぁ…更に暑くなるからやめてよ…」 うんざりしながら私は言う。エーコは少しむっとしたような顔をして。 「若いのに何言ってんのよ。年寄り臭いなぁ、もう。暑さがなんだー!」 …あぁ熱い。 いつにもまして、無駄に熱い。 何でこれ程までにエーコは元気なんだ…。 「せっかくの夏休みなんだしさ、もっと弾けていこうってば」 「そんなの他の人としてよ…私は暑い」 「だからさぁ…もう寮生はほとんど帰省しちゃってんだって。あたしらしか残ってないよ?」 あ、と思った。 そうだった。うん。そりゃあ皆、実家に帰るよね。帰る家があるんだもんね。 この時期に未だ帰らずに寮に残っているなんてのは、 それはつまり、えーと、帰る家がない人間ってわけでして、私と…エーコぐらいだ。 普段はやかましい程賑やかなこの寮も閑散としていて、部屋から一歩廊下へ出るともはや人の気配は感じられない。 黄昏時の静かな光が窓から差し込み、それがいっそう物悲しさを増していた。 やっぱりエーコでも…その、寂しかったりするのかな。なんて。 そんな事を考えてしまって。 いつもは周りに人が溢れてるもんね。皆が家族みたいなものだから寂しさなんて忘れてしまって。 だから、構ってほしかったのかな。 目頭が熱くなりほろりときかけていたら、 「リンぐらいしか居なくても贅沢言ってらんないし。  まぁしょうがないか、皆一斉に帰っちゃうんだもん。じゃなきゃ誰がリンなんか」 「私の涙を返せー!」 失礼極まりない暴言をよりによって本人の目の前で口にするこいつは、はぁ?、訳がわからないという顔をしていた。 「あんたに同情した私が優し過ぎた」 ふん、と立ち上がり机に向かう。エーコなんて構ってられるか。 ちょうど頭も冴えてきた。宿題でも終わらせちゃおうか。 そう思ってテキストを開くと、 「リーンー」 私の背後からにゅっと腕が伸びてきて、そのまま首に絡み付く。 「暑い!離れろ!」 もがく私。 「暇なんだよー。構ってよー」 じゃれるエーコ。 はぁっと大袈裟に溜め息をついて彼女を振り返ったら、とてつもなく人懐っこい笑顔を向けられて、何だか拍子抜けしてしまった。 また、溜め息をひとつ。 ぐったりとしている私に、 「お祭り行こっか」 邪気無く笑った。
■─それは闇を彩る花に似て。《ひとり》 □秋 (2004/07/26(Mon) 17:01:48) 神社に近付くにつれ祭囃しの音も大きくなってゆく。 祭りの雰囲気にはいくつになってもわくわくせずにはいられない。 「祭り、今日だったんだー。すっかり忘れてた」 屋台をきょろきょろ目移りして落ち着かないエーコに声を掛けた。 「あるならあるって早く言ってくれればいいのに」 するとエーコはどこからか綿飴を手にして来て、 「だって誰かさんはぐうたら寝てるし」 しらっと答える。 「…祭りに誘われれば行くってば」 気恥ずかしくなって膨れてみせる私に、エーコは片手のそれを、はい、と差し出した。 「ありがと…」 「いいえー」 満足げに微笑むエーコ。 何だか今日は私の方が子供みたいだ。妙に照れ臭くて、だけど温かい。 たまにはこんなのもいいかな、ふわふわの白い綿菓子を口にすると予想通り砂糖の甘みが広がって少しばかり笑みが漏れた。 随分屋台を見て廻ったと思う。人波に揉まれて疲れきってしまった私達は、神社の境内の裏手に腰を降ろした。 背中越しに聴こえる祭りの熱気は冷め止まない。 しばらくその喧騒に聞き入っていた。 生暖かい風が私たちの前を通り過ぎてゆく。 ふぅ、と息を吐く。 「あたしさー、お祭りって好きなんだ」 先に沈黙を破ったのはエーコだった。 私は何も言わず、ただちらりとそちらに目をやった。 「唯一の記憶ってやつ?母さんと父さんと、三人で来た気がする」 どこか遠くに想いを馳せて、エーコは言う。 「うん、確かに来た。親子揃ってお祭りに行ったんだ。手なんか繋いじゃってさ。だから…お祭りに来ると思い出す」 私は一言だけ、ふぅん、と応えた。 彼女の事情は詳しく知らない。幼い頃に両親を亡くして、親戚も居なくて、 引き取り手が居ないから施設だか何だかで育ち、高校入学を機に寮に入るのを決めたとか何とか。 彼女はあまり話さないし、私も多くを訊かなかった。 だから。それしか知らない。 けれど、感傷に浸るなんて普段の彼女からは考えられないような、そんな横顔を見せられては。 幼い頃の曖昧な記憶であっても、それはとても大切な思い出なわけで。 やっぱり恋しかったりするのかな…。 そう思ってしまったから、「ふぅん」そんな事しか呟けなかった。 「あ、花火始まってる」 すっかりうつむいてしまった私は、エーコの声で顔を上げた。 ふと空を見上げると、黒を華々しい光が染めていて。 「あっちの方さ結構人集まってるけど、ここでも十分見れるじゃんね?」 私を見て、嬉しそうににかっと笑う。 「そうだよねー。あんなに人だかりがあっちゃ見えねぇっつうの」 ここって穴場じゃん、私も笑ってエーコに相槌を打った。 そしてまた、黙ったまま上空を見つめる。 祭りの喧騒。 お囃し。 蝉の声。 すべてが。そのすべてが。花火の轟音に飲み込まれていった。 「切ない」 「え?」 不意にエーコがぼそりと呟いたので、私はつい彼女を振り向いた。 エーコは顔を上げたまま、こちらを見ない。 「花火は切ないよ。すごくすごく綺麗に咲くのに、見る人を惹きつけてやまないのに、あっけなく一瞬で散っちゃう。 その想いはそれっきりだって気がして、切ない」 正直エーコがそんな事を考えるなんて思ってもみなかった。 実際それは普段の彼女らしくない言葉だったし、それでも真剣なエーコの横顔を見ていたら妙に納得できてしまって。 「そっか」 私はそう、小さく漏らしただけ。 こちらをちらりとも見ずに、多分エーコは私の存在など頭の片隅にしか置かず花火に没頭していたのだろうけど、独り言のようにまた呟く。 「でも…」 「…でも?」 「その一瞬を残そうとして、だから鮮烈に刻まれるのかもしれないね」 「そう…だね」 そっと、手が触れ合った。 どんな言葉も、花火に飲み込まれてしまうのだろうか、と。 決して繋がる事はなかったけれど、互いの手の甲越しに体温が伝わって、花火以上に切なかった。 咲いて散りゆくのは、何も花火だけではなく。 夏休みも残り少なくなった頃、エーコはお世話になっていた施設に話があると呼ばれ出掛けて行った。 詳しい事はわからないけれど、どうやら彼女の血縁者を名乗る人が現れたらしい。 帰って来た彼女は何とも複雑な表情をしていた。 「母さんの弟なんだって。ずっと昔に勘当されてたから、母さんが死んだ事も子供が居た事も知らなかったみたい」 ぽつりぽつりと話すエーコは私ではなくどこか違う所に目を向けていた。 「父さんも母さんも一人っ子って聞いてたし、お爺ちゃんもお婆ちゃんも死んでるし。  もう血の繋がってる人なんて居ないと思ってた。僕は君の叔父です、なんてさ。そんな事いきなり言われてもねぇ」 抑揚の無い声で淡々と話すエーコ。 「結婚してるらしいんだけどさ、子供居ないんだって。私の事、引き取りたいんだって」 彼女のその、無表情な顔が意味するものがわからない。 「そんな事いきなり言われてもねぇ」 また繰り返す。さっきからこの調子。ずっとぶつぶつと呟いている。 「でも、嬉しいんでしょ?」 私はぼんやりと宙を見ているエーコに声を投げた。 え?、ときょとんとした顔で私を見るエーコ。 「だから、嬉しいんでしょ?」 もう一度言う。 するとエーコは、ずっと抑えていたものの栓が抜けたようにぽろぽろと泣き始めた。 「──うん…嬉しい」 ぐっと堪えるように下を向く。 「すごく嬉しいんだ、ほんとは。ずっと一人だと思ってたから…」 溢れ出した涙の止め方は知らない。 私は身近にあったティッシュケースから乱暴に何枚か引き抜くと、それでエーコの顔をぐしぐしと拭った。 「寮、出てくの?」 ずずっと鼻を啜りながらエーコは答える。 「……ん。転校する事になる、かな。叔父さんの家があるのはこっちじゃないから」 「そっか」 ティッシュケースごと渡すとエーコはびーっと音を立てて鼻をかんだ。 そして、にやにやと口元を歪めて私を見る。 「寂しい?」 「別にぃ」 私は素っ気なく言い捨てた。 「相変わらずリンは可愛くないなー」 ぶぅっと膨れるエーコに笑い掛けて、茶化したように言う。 「早く行っちゃえよ」 エーコはむっとした顔をして、 「言われなくても行くっつーの!」 私にイーっと舌を出すと、ぷいっと背中を向けた。 その後ろ姿に、 「……嘘だよ」 小さく小さく囁きかけたら、わずかに「うん…」と返ってきた。 またひとつ、季節が過ぎ去っていく。 夏休みは早々と終わりを告げ、新学期が始まると帰省から戻った寮生達でまた寮は活気づいた。 ただ変わりがあるとすれば、それはエーコが唯一の血縁者に養子として引き取られていったというだけの事。 彼女は家族が欲しかった。ずっとずっと。 血の繋がりのある、本当の家族が。 それをどうして止められようか。 ──所詮、寮の皆は擬似家族、ってね…。 それでも。 去り際のエーコは寮生達が呆気に取られる程の大泣きをしてみせたから、 彼女にとっての第二の家というのも、それはあながち嘘じゃないと思う。 エーコの出て行った二人部屋は、私一人だけではあまりにも広すぎて。 私は柄にもなく、彼女が寝ていたはずのベッドに乱暴に横たわって、そのまま眠りに就いたりもした。 床に寝そべってみたところで、蹴飛ばす人はもう居ない。 凄まじい程の蝉の鳴き声も一日、また一日とその数を減らしていって。 仲間を探すように、悼むように、相手を見つけられない蝉がただ独り泣くのを、瞼を閉じて聴いていた。 ──すべては、あの夏の花火だと。
■─晴れた日の匂いのように □秋 (2004/08/02(Mon) 11:28:59) 「あんた達ねぇ…」 目の前の光景を見て、私は重々しく溜め息をついた。 「あー…笹木?ごめんね?」 顔をしかめる私の元へそそくさと近付いてきた茜は、顔を覗き込みながら甘えるような声を出した。 「私がごみ捨てに行ってる間、何してたの?」 「あー…」 視線を泳がす茜。 皐月と陽子の方をキッと睨むと、彼女達はさっと視線を逸らした。 「せっかく掃除終わらせたのにまた仕事を増やしてどうするの」 頭を抱え、もう一度溜め息。 乱雑に並んだ机。 散らばる雑巾。 散乱の跡を残した教室。 私がここを出る少し前までは綺麗に整頓されていたはずなのに。 頭が痛くなってきた。 「ちょっと野球を…」 ぼそぼそと茜が呟く。 私は眉尻を寄せて。 「野球ぅ?」 「そう。ほら、ほうきをバットにして」 「雑巾をボール代わりに打って?」 「さっすが笹木!察しがいいね〜」 笑う茜を睨みつける。 すると茜は、はは…と、その笑顔を引きつらせた。 「まぁまぁ。笹木、もうそのくらいにして。茜も十分反省してるし」 「そうそう、反省してる…って、陽子!あんたが言い出しっぺじゃん!」 「陽子も茜も反省してるからさ、ここはあたしに免じて許してよ」 「皐月ぃ…一人だけ逃げんな!」 ぎゃーぎゃー言い合う似た者三人組。 私はその光景を半ば呆れながら眺めていた。 「弥生と郁が居ないと本当に収拾がつかないのね…」 溜め息まじりにぽつりと漏らす。 「弥生達が何の関係があるのー?」 じゃれ合う手を止めて皐月が振り返った。 「ねぇ?」 陽子も頭を掻く。 「関係大有りよ。弥生と郁があなた達の手綱を握ってるじゃない」 何それー、と不満げな声を漏らす皐月と陽子に、 「言えてる!」 ぎゃははと茜は大笑いした。 「今の状態はボケに対してツッコミがいないって感じ?」 「茜に言われると何か腹立つ…」 また三人でぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー。 話がちっとも先へと進まない。 私は。 この状況の収拾と教室の有様に、再び大きな溜め息をついた。 すると、それに気付いた茜が陽子の相手もそこそこに私の方へと寄ってきた。 「笹木、ほんとごめん。先帰っていいよ。あとは私達がやっとくから」 頭を掻いて申し訳なさそうに言う。 皐月と陽子の二人もバツが悪そうに。 「笹木。その…ごめん。元はと言えばあたし達が汚したんだから、後片付けはちゃんとやるよ」 「笹木まで残らせるのは悪いからさ。帰って?」 その言葉に。 私はふっと微笑んだ。 茜もにかっと笑う。 任せろ!とでも言うように。 お調子者で楽天家。 暇さえあれば皐月と陽子とふざけてばかりいる。 それが彼女の周囲の評価。 「あ。笹木、笹木!」 帰ろうとする私の背中に声を掛け、振り向く私に持ち前の笑顔を向ける茜。 「今日の夜はお茶会するから、夕飯食べたら私の部屋来て!」 けれど決して憎めない。 彼女―氷野茜はそんな人だった。 「川瀬。お茶しに行くけど、来る?」 茜の誘いを思い出し彼女の部屋へと向かおうとした時、ふと気付いたので同室の川瀬に声を掛けた。 「いい」と、彼女は予想通りの返答をしたので。 「じゃあ行ってくるね」 私は再びドアに向き直ると自室を後にした。 真っ直ぐ伸びた寮の廊下。 彼女の部屋はこの先だ。 部屋の前でノックを数回。 「入っていいよー」 返事を受けてから、 「お邪魔しまーす」 ドアを開ける。 「あ、笹木先輩!」 「こんばんわー」 「寮長もお呼ばれ?」 決して広くない二人部屋に数人の一、二年生が集っていた。 「一応川瀬にも声掛けたんだけど来ないって」 「いいっていいって。川瀬だし」 はははと笑う茜。 「茜先ぱーい、この紅茶煎れていいですか?」 「茜ぇ、クッキー持ってきたから皆に回してー」 彼女の元には学年に関係なく人が集まる。 よく茜はお茶会だなんて言って部屋に人を呼んではお菓子を摘みながらお喋りするけれど。 それは強制でも何でもなく、この集いを楽しみにしている子は多い。 会話の中心にはいつも茜が居て。 その輪の中で一際輝いている。 きっと引き寄せる何かを持っているんだ。 後輩の煎れてくれた紅茶のカップを手にして、茜の話に耳を傾ける。 あぁ、やっぱり茜は脳天気ね。なんて思いながら。 何だか頭がぼんやりしてきた。 うとうとと眠気が誘う。 そう言えば、新学期に入ってからは文化祭の準備や連日の委員会でここの所忙しかった。 寮に帰ってからも睡眠もそこそこに何かしら作業をしていたから、疲れが溜まっていたのかもしれない。 ぼうっとした頭で時計をちらりと見る。 あ、こんな時間。 「そろそろ点呼の時間だから部屋戻るね。皆ももうしばらくしたら帰るのよ?」 「はーい」 「お疲れ、笹木」 「寮長は忙しいねぇ」 それらに笑って応えて、茜の部屋を後にする。 自室に戻ると川瀬はベッドの上で突っ伏して本を読んでいた。 「ただいま」声を掛ける。 「ん」と、軽く川瀬。 机の棚から点呼用の名簿を抜き出す。 くらり、と来た。 何だか頭が重いな…。 そう思いながら再び部屋から出ようとドアに向き直ると。 バンッとドアが開けられて、その向こうから茜が飛び込んで来た。 怒ったような顔をした茜はずんずんと大股で部屋に入ってくる。 私のすぐ目の前までやって来ると、自身の手の平を私の額に重ねて。 「…やっぱり」 呆れたように呟く茜。 「笹木、熱あるじゃん!さっき様子が変だと思ったんだ」 熱…? じゃあこの頭痛も…。 ぼんやりした頭で考えていると、 「それ、点呼のチェック表?今から行く気?」 そう言って、私の手にしている名簿をばっと奪った。 「ばか!こんな時にまでやろうとしなくていいんだよ!」 私を怒鳴り付けながら、それをそのままベッドの川瀬へと投げつける。 「こんなの、川瀬にやらせとけばいいの!」 背中にばしっと当たった名簿を無表情に手に取って、川瀬はちらっと私を見る。 そしてゆっくりベッドから降りると、何も言わずに名簿を手にして部屋から出て行った。 ほらね?、そんな顔で茜は笑う。 「ほらほら、そんなとこにつっ立ってないで。笹木は寝る寝る」 促されるまま私はベッドに横になった。 その様子に笑みを浮かべていた茜は、 「笹木はさ、こんなになってもちゃんと仕事しようとしてすごいと思うよ」 言いながらベッドの横に屈んだ。 「でもさ、すごいのと偉いのは違うからね」 少しばかり怒ったような口調で言う。 「笹木は何でもかんでも一人でやろうとし過ぎる。責任感が強いのは良い事だけど、周りが心配してるって事にもちょっとは気付いてよ」 「茜…」 「もう少し皆に頼ってよ。一人で背負い込まないでよ。誰かの力を借りるのは全然いけない事じゃないんだから」 茜の言葉に、私は泣きそうになっていた。 茜は少し苦笑して、それからにかっと笑った。 「だから何か手伝いが必要な時はさ、同室の川瀬に押し付ければいいじゃん!ばんばん使いなよ」 私は一瞬呆気に取られ。 「自分が手伝う」とは言わない所が茜らしいと、ぷっと吹き出してしまった。 茜はそれに気付いたのか、照れたように頬を掻くと、 「その…あたしも出来る事はするしさ?」 付け加えた。 私はますます笑ってしまう。 茜はふてくされたように口を尖らせていたけれど。 くすくすと、こんな穏やかに笑えるのは何て嬉しい事なのだろうと、熱も加わって私は楽しい気分になっていた。 そんな私の様子に軽く息を吐いて、 「だから、もう少し肩の力を抜いていいんだよ?」 茜はふっと微笑んだ。 お調子者で楽天家。 暇さえあれば皐月と陽子とふざけてばかりいる。 そんな風に言われている彼女だけれど。 真剣な顔さえすれば、こんなにも頼りになるんです。
■─Simple《キライ。》 □秋 (2004/08/02(Mon) 11:31:03) 購買で紙パックのレモンティーを買って、ぺたりぺたりと上履きの音を打ち鳴らしながら教室へ向かう廊下を歩いていた。 九月も半ばだというのに未だ残暑の影が消えないので、行儀が悪いのを承知で手にしたパックにストローを挿す。 歩きながらそれに口を付けようとする。と、わずか前方に無愛想なクラスメートを発見した。 教室前の廊下で数人の下級生に囲まれているのは不機嫌が制服を着ているような川瀬早希。 可愛くラッピングされた小さな包みを面白くなさそうに受け取って、それでもそれを差し出した彼女達は嬉しそうに去って行く。 教室に入ろうとすると入口に立つ川瀬と目が合った。 ストローから甘酸っぱい液をずずっと啜って。 「こんな冷血人間のどこがいいんだか」 ふん、と鼻を鳴らし、下世話にも似た笑顔を皮肉と共に浮かべてみせた。 川瀬は包みからクッキーを一つつまみ上げると、 「やらないぞ」 ひょいと口に放る。 「いらねーよ!」 食ってかかりそうになるのを堪えつつ、食い物に釣られて意地汚いやつ、そうぶつぶつ漏らしながら教室へと入った。 席に戻ると、そのやり取りを見ていたのか、私の帰りを待たずに既に弁当を広げている皐月が、 「ほんとに茜は川瀬と仲が悪いなー」 面白そうにはははと笑った。 「どうしてそう目の敵にするの」 まるで犬猿の仲ね、私が席に座るのを確認してからおにぎりのフィルムを剥がす笹木は呆れたように言う。 「別に目の敵にしてるわけじゃ。ただ単純に合わないだけ」 既に半分程しか残っていないパックの中身をまたずっと吸い込み、私はそれに憮然と答えた。 多分、向こうだってそうだろうし。 好きだとか嫌いだとか。そんなものじゃなくて。 ただ──合わないだけ。 そう、理屈じゃないんだ。 「川瀬に面と向かって喧嘩吹っかけるの、茜ぐらいだよー」 また、可笑しそうに皐月。 「二人とも、他の人に対してはそうじゃないのに」 呆れ気味に笹木。 けれど、私は知っている。 笹木も皐月も。いくら私を窘めたって、決して自分の価値観は押し付けない。 呆れるようにぼやく笹木も、面白半分に傍観している皐月にしたって。 余計な口は挟まない。 自分達の友達だから好意を持てだの仲良くしろだの、そんな事は一度だって口にした事はなかったし、 私が川瀬と合わないからといってそれに倣って川瀬を嫌うという事もなかった。 あくまでも仲が悪いのは私と川瀬であって。 あくまでもそれは私と川瀬、二人の問題であって。 私達がお互いを拒んでいても、きっと笹木や皐月にとっては私も川瀬も等しく友達なのだ。 だから私も。 「駄目なものは駄目なの!」 こんな風に言いたい事が言えていた。 すると私の頭上から、 「奇遇だな。あたしもだ」 聞き慣れた低い言葉が降って来た。 見上げると、私の後ろに川瀬の姿。 うげぇ…と、あからさまに嫌な顔をしてやると、川瀬もまた眉をひそめて大袈裟に溜め息をついた。 二人同時に、それはもう絵に描いたように、ふんっと顔を逸らす。 「そんな子供みたいな真似しないのー」 まったく二人して…と、笹木はぼやいた。 「普段からは想像もつかないくらい子供っぽくなるんだから」 今日一番の呆れ顔。 皐月はというと。やはりげらげら笑っていた。 夕暮れは好きだ。 未だに暑さが続くといっても、夏の延長のように思えても、その陽の落ちる早さから季節は確実に移り変わっていた。 放課後にそよぐ風も涼しさを帯び始めていたから、あぁやはりもう秋なのだ、 夕焼けを眺めながらグラウンドを走る傍らでそんな事が頭に浮かんだ。 「今日はここまでー!」 部長の声が校庭に響く。 私はすぐ部室に行く事はせず、体育館脇にある水飲み場へと足を向けた。 水道の蛇口から勢いよく水を流し出すと、口に含むより何より、それを両手ですくってばしゃばしゃと顔を洗った。 ふぅ、と顔を上げる。 「部活お疲れ様。陸上部だっけ?頑張ってるね」 目の前には何故か笹木が立っていた。 「うん、今終わったとこ。笹木は?何やってるの?」 「私は委員会。もうすぐ文化祭の準備期間に入るでしょ?忙しくなる前にあちこちの備品をチェックしとかないと、ね」 体育館の用具室を見て来たところなの、笹木はにっこり笑った。 あぁ、そう言えば。 笹木は文化祭実行委員だったっけ。 その上寮長で、更にはクラス委員で。 「すごいなー…」 思った事をつい口にしていた。 笹木は首を傾げる。 「色んな仕事引き受けてるじゃん。私にはとうてい真似できない」 肩をすくめてみせると、 「茜にこそ向いてると思うけど?」 屈託なく笑うものだから、 「よしてよ。人をまとめるなんて…柄じゃない」 思わずぷいっと顔を背けてぼそぼそと言った。 そーお?なんて。笹木はくすくす笑っていた。 「私は裏方で十分なの!」 ちょっとだけ語気を強めてそう言うと、 「じゃあ、準備の時は思う存分働いてもらおうかな」 笑顔を崩す事なく私に応えたので、「任せろ!」と、私もいつものように笑って返した。 その時は案外早くやって来た。 ある日の放課後。 私のクラスは文化祭の話し合いで居残りしていた。 と言っても、出し物などの大まかな事は一学期に既に決まっていたから、 今日の話は当日の係決めとそれまでの準備について、それから簡単な連絡事項程度だった。 早く帰りたい者、部活に行きたい者、そわそわしている態度のクラスメートは何人か居たけれど、 てきぱきと要領よく話を進める笹木の手腕もあって、 はたまた笹木の手伝いになればと積極的に意見を述べる私や皐月達が功を為したのか、それ程の時間を要さなかった。 …時折、意見を出す傍らで私達が話の腰を折った事も否めず、実のところ役に立てていたのかは別として。 それでも、手際の良い笹木のお陰で話し合いはスムーズだった。 「今から私は委員会の方に顔を出さなければいけないので今日はここまでにします。皆、お疲れ様」 教壇の前に立って取り仕切っていた笹木は、にっこりと皆に笑いかけると前のドアから急ぐように教室を出て行った。 やっと終わったー、帰りどうする?、そんな声がちらほら聞こえ始める。 それらに耳を傾け。 私達はここで終わりだけど、あとどれだけ笹木は仕事をこなすのだろう、机に頬杖をついてぼんやり考えていた。 慕われる笹木。 敬われる笹木。 やっぱすごいや、笹木は。 感嘆の息が漏れる。 私も部活行こうかな、と机の中から教科書を漁って鞄に放り込んでいる所に、 「…笹木さんてさー優等生ぶってて、なんか…ねぇ?」 「わかる〜。わたしは頭良いんです、ってゆースタイル?」 声がした。 そちらを見れば、普段からつるんでいるのをよく見掛ける三人組。 …居るんだよねぇ、本人の前では直接なんて絶対言わないやつ。 笹木さーん、なんて媚びててさ。 それで本人が居なくなったのをいい事に、その途端に好き勝手言い出すんだ。 誰にでも好かれる人間は居ないけれど。 大抵の人間からは好意を寄せられる笹木。 この場合は疎まれているというより妬まれているという方が近い。 笹木の容姿や能力、人望に嫉妬しているんだ。 ─スタイル、なんかじゃなくて。実際頭が良いんだよ。 ばーか、と胸中で毒づく。 先程とは違う息を吐き。 あほらし、半ば呆れながら、それでも相手にするのも煩わしいので私は帰り支度の手を止めなかった。 「大体さぁ、何個も委員会受け持ってるのも教師受け狙ってない?」 「言えてるー」 本人が居ない事に気が大きくなっているのか、明らかに調子に乗り始める。 「寮長らしいし?」 「そんな目立ちたいかっていうかさ」 ……何だと? 元々笹木は表立つタイプではない。 むしろ自分の手柄でさえも人に譲ってしまうお人好しだ。 委員会も何もかも、頼まれれば嫌とは言えない、それ故にじゃないか。 私の斜め前に座る皐月も何とか堪えるようにぎりぎりと唇を噛み締め、やつらを睨み付けていた。 「笑顔が鼻に付くってゆーかぁ?」 「うわー、あんた毒舌!」 きゃははと笑うその声に。 プツリ、と。 何かが切れる音がした。 勢いよく椅子から立ち上がり、 「いい加減に──」 やつらに向かって怒鳴り付けようとした瞬間、 「毒舌と陰口は別物だろ」 ガタン、という。 椅子が倒れる音と共に立ち上がった川瀬の放った言葉に、私の声は遮られた。 「混同するな」 ぎろりと川瀬は一睨みする。 完全に怯んだ彼女達を一瞥すると、不機嫌さを露わにしたそのままに教室から出て行った。 しん、と教室中が静まり返る。 やがて、また少しづつがやがやと声が戻り始めた。 川瀬の言葉にすっきりしたという風な顔をするクラスメートの視線に耐えかねたのか、 三人組はバツが悪そうにそそくさと教室を後にする。 言葉を盗られて立ち尽くしたままの私に、隣の席の陽子が制服の裾をつんつんと引っ張り、 「やるじゃん、川瀬」 見直したね、そう耳打ちしたので、私は信じられない程素直に、 「……うん」 と、応えていた。
■─Simple《それは、とても》 □秋 (2004/08/02(Mon) 11:33:04) だからと言って。 今まで培われてきた意識や関係というものがそんなにすんなりと変わるはずもなく。 相変わらず私と川瀬は、寮の廊下でばったりと出くわせば嫌な視線を互いに送り合ったりもしたし、 教室で顔を突き合わせれば皮肉の一つも言ってみた。 変わらない。 変わるわけもない。 あぁ、なんて穏やかな放課後。 ふんふんとつい鼻唄なんて口ずさむ私。 というのも、午後から何故か川瀬の姿が教室に見られなかったから。 今日は部活も休みだし、さっさと寮に帰って夕飯までのんびりしようか。 顔のほころびにも気を留めず、ごちゃごちゃと鞄の中に荷物を突っ込んでいる私の元へ、 「茜、もう帰る?」 笹木がやって来た。 満面の笑顔で私は頷く。 「うん、今日の部活は休みなんだー」 にこにこしている私に、どこかほっとしたような顔を向ける笹木。 「ちょうどよかった…」 意味がわからず、私はきょとんと笹木を見る。 「あのね?川瀬、朝から具合悪そうだったんだけど、昼頃から本格的に体調崩しちゃったみたいで早退したの」 あぁ、それでか。 私は午後の平和さを思い出し、一人うんうんと納得した。 「熱もあったし、風邪だと思うんだけど…」 どうせならずっと風邪で寝込んでいればいい、そんな事をにやけた笑顔の裏で考えている私に笹木は続ける。 「それでね?私、今日は実行委員があって遅くまで残りそうなのよ」 「あぁ、文化祭の」 「そう。茜、部活ないんでしょう?寮に帰ったら食堂のおばさんに言って、川瀬にお粥作ってくれるように頼んでくれないかな」 「………はぁぁ?」 「出来れば、それを川瀬に持って行ってあげてほしいんだけど」 「何で私が…」 がっくりとうなだれる。 笹木は、お願い、と懇願する瞳で私を見ていた。 「やだ!」 声を張る私。 「やだやだやだ!」 端から見れば駄々っ子のようだったかもしれない。 「茜ぇ…」 そんな私に笹木は困ったような声を出す。 「川瀬だって子供じゃないんだし、放っといたって平気だよ!そんな何から何まで面倒見る必要ない!」 「あの子、自分に無頓着でしょう?体がだるいからって、面倒臭がってきっと何も食べないわ」 「そしたらそのまま餓死すりゃいいんだ!」 「茜…」 笹木は寂しげに呟く。 う…、と言葉に詰まった私は大きな溜め息を吐いてゆっくりと肩を落とした。 「大体何で私なの…後輩にでも頼めば喜んで川瀬の世話ぐらいするでしょ」 「下の子達は川瀬に萎縮しちゃうでしょう?  普段川瀬が交流持たないせいで同級生でも怖がってる所があるし。  川瀬と対等に話せるのは茜ぐらいだもの」 「それなら皐月だっていいじゃん。陽子とか。何も私じゃなくても…」 「皐月も陽子も寮生じゃないでしょう?寮と駅の方向も逆だし、寄ってもらったら悪いじゃない」 私は恨めしげに笹木を見た。 それはもう、これ以上ないってくらい、あからさまに嫌な顔をして。 「ね?お願い、茜」 それを跳ねのけ、笹木はにっこりと私に微笑み掛ける。 「茜しかいないのよ」 一切の断りを拒絶するかのような笑顔の笹木に、 「…笹木は過保護だよ」 口を尖らせて言う。 「ありがと」 やっぱり茜に頼んで良かったわ、にっこり笑んで笹木は私の頭を撫でた。 笹木は川瀬に甘過ぎる。 けれど私も。 負けず劣らず笹木に甘い。 委員会に行かなきゃと、慌てて教室から出ていく笹木の背中を見送って、 今更ながらに割の悪い仕事を引き受けたものだと、もう一度肩を落とした。 寮に戻って部屋に荷物を置くと早速食堂に向かった。 寮生達の夕食の支度をしているおばさんの一人に声を掛け手短にわけを話したら、快く引き受けてくれた。 お粥ならすぐに出来るから、と何かを炒める傍らで一杯分のご飯を鍋で煮始める。 私はその手際の良さをぼんやり眺めて待っていた。 小さな土鍋と受け皿、レンゲが乗せられたお盆を私に差し出す気の良いおばさんに感謝の言葉を述べてそれを受け取る。 同時に、何で私があいつの為にここまで…と、心中で舌打ちした。 顔をしかめながらも笹木の部屋、もとい川瀬の部屋へと向かう。 ドアの前で一度立ち止まり、ノック。 返事はない。 再び、ノック。 寝てるのかな?そう思って、静かにノブを回して中に入る。 「川瀬?寝てんの?」 小さく呼びかけると、ベッドの上の丸まっている布団の塊がもぞもぞと動いた。 「……笹木?」 のろのろとした動作で顔を出す川瀬。 「今日遅くなるんじゃ…」 言って。 私を見た瞬間、心底嫌そうな顔と共にそのまま布団に潜り込んだ。 「……何しに来た?」 くぐもった声が布団の中から聞こえる。 嫌なのはこっちだって同じだと溜め息をつきつつ、 「風邪だって?どうせあんた、放っといたらご飯食べないだろうからね。お粥作ってもらって来た」 「笹木にでも言われた?」 黙る私。 それを肯定と受け取ったのか、大きく息を吐く声が聞こえて、 「…お節介」 川瀬は独り言のようにポツリと漏らした。 少しむっとする。 本当にこいつは笹木の好意を踏みにじるやつだ。 笹木には悪いけれどこのお粥、私が食ってやろうか。 そんな思いも頭を過ぎりながら。 「笹木はいいやつだよ?」 口を尖らせ言ってやったら、やや間があって、 「知ってる」 布団の中からではあったけれど、はっきりした声が私に届いた。 ふぅん…、なんて。鼻を鳴らしてみたり。 やっぱり川瀬は愚かじゃない。馬鹿ではあるかもしれないけれど、わからない程愚かじゃない。 ちゃんとわかっている。 ちゃんと受け止めている。 私は、川瀬の寝ているベッドの脇にお粥の乗ったお盆を置いた。 きっと川瀬は私の前で、体調を崩した情けない姿を晒したくないだろうから。 だけど私が立ち去れば、いくら嫌いな私が持って来たものであっても、 口を付けないで放置するなんて事はしないだろう。 その好意を無駄にするはずがないと、私は確信していた。 だからせめてもの情けと思って、すぐにでも食べられるように手の届きやすいベッド脇にお盆を置いて、 意志表示をするかのようにわかりやすくドアの音を立てて部屋を出たのだった。 翌日。 笹木からうんざりするくらいの感謝の言葉を浴びせられた。 川瀬の体調は少し回復が見られたものの、大事を取って今日も休むらしい。 このままずっと休みならいくらか平和なのに、そんな事を言ったら、やはり笹木に睨まれた。 「お腹空いたー」 午前の授業も終わり、先程からきゅるきゅると情けない音を立てる腹部を軽く押さえる。 「ご飯だ、ご飯だ」 言いながら、既に皐月と陽子は臨食体制。 そんな二人を見て笹木はくすくす笑っている。 私も早く食べようと鞄からコンビニ袋を取り出した。 ガラッ、とドアが開かれる音。 無意識的にそちらを振り向く。 「あ、川瀬だー」 「今日休みじゃなかったっけ」 陽子は、おはよー、と川瀬にひらひら手を振る。 それに応えず、それでも川瀬はこちらにやって来た。 私は特に意識もせず、パンに噛りつく。 「川瀬、具合は?大丈夫なの?」 笹木が心配そうに尋ねている。 「ん、平気そうだから午後は出る」 皐月と陽子もわいわいと何やら騒いでいたけれど、私はそちらを気にせずに黙々と食を進める。 と、 「氷野」 川瀬の声。 一瞬わからず。 ヒノ…?あぁ、氷野…。私か。 「氷野」 もう一度川瀬が呼ぶ。 滅多な事では互いに声を掛ける事がない私達。 だから川瀬が私に向かって呼びかけた事に、怪訝な顔をして顔を上げた。 私から少し離れた場所に立つ川瀬は、 「ほら」 と、何かを投げた。 反射的にそれを受け取る。 川瀬はすぐに視線の先を私から笹木に切り替えて、 「笹木、あたし保健室行くから」 それだけ言うと、くるりと背を向けて教室から出て行ってしまった。 半ば唖然としてその後ろ姿を見送る。 「何しに来たんだろうね、川瀬」 皐月が呟く。 「それよりさぁ、茜に何でそれを渡したのかなぁ?」 疑問顔の陽子。 「敵に塩を送る?」 皐月が言うと、「それだ!」と、二人して笑い合っていた。 そんな皐月と陽子を横目で見ながら、 「ありがとう、って事よ。きっと」 わかりにくいけれど、と笹木が笑いながら私に耳打ちした。 …私も。 投げ渡された瞬間にそれとなく気付いていたんだ。 手に残るひんやりと冷たいそれは、紙パックのレモンティーだった。 やっぱり、好きになるのは無理そうだけど。 同じように嫌いでも、少なくとも川瀬は、陰口を叩くようなつまらないやつとは違うから。 こんな関係でも、実はそれ程居心地は悪くない。 この先距離が縮まる事はないだろう。 けれど離れる事もない。 いがみ合うのも、ぶつかり合うのも、結局は互いを強く意識しているからだ。 嫌いだけど、認めてる。 認めているからこそ、好き勝手に主張できる。 きっと。 結構そんな単純な事なのかもしれない。
■─友情考 □秋 (2004/08/02(Mon) 11:34:08) あの人の結婚が決まってから四ヵ月程経とうとしていた。 あの日から、私は用もないのにふらりと屋上に足が向く。 何故好きになったのか。 何故彼女だったのか。 目を閉じて想いを馳せても、何も応えてくれやしない。 瞼を軽く開いた先に広がるのは、青い青い空だけだ。 時折目を細め、けれどじっと見つめる。 私はまだ、動けずにいる。 「弥生!」 不意に背中から掛けられた声に、私は驚いて咄嗟に振り向いた。 「やっぱりここに居た」 声の主はにかっと笑うと、そのまま私に近付いてくる。 私は再び視線をフェンス側へと戻して、空を仰いだ。 ガシャンとフェンスにもたれた彼女に、 「…よくわかったね」 呟くように言った。 「そりゃわかるよ」 ははは、と彼女は可笑しそうに言う。 あの人が結婚すると知ったあの日。 屋上でぼんやりと時間を費やしていた私を見つけてくれたのは彼女だった。 そして、今も。 視線を落として、私も隣の彼女に倣ってフェンスにもたれた。 しばらく互いに何も発せず、宙を眺める。 「あのさ」 彼女の声に、私はそちらに目をやった。 「真知、昨日正式に入籍した」 あくまでも淡々と、けれどはっきりと口にしたので、 「…そう」 私は意外な程あっさりと、息をするように言葉を吐き出した。 じいっと私を見つめる彼女。 「何?」と、私は訝しげに首を傾げた。 すると、彼女はにかっと笑って。 「弥生にはさ、あたしが居るじゃん」 あの時と同じ言葉をあの時と同じ顔で口にした。 私はつい苦笑してしまって。 目元の涙を拭いながら、 「何で皐月は言って欲しい時に言って欲しい事を言ってくれるのかなぁ?何で皐月にはわかっちゃうのかなぁ?」 そう言うと、 「どれだけ付き合ってきてると思ってんの」 にかっと笑う。 「居て欲しいと思う時に何でいつも居てくれるの?どこに居ても見つけてくれるの?何で必ず駆け付けてくれるの?」 皐月は。 穏やかな目をして私を見ると、私の髪をくしゃっと掻き上げた。 「友達だからさー」 冗談めかして言って。 けれど。 ふっと、優しく微笑み掛けた。 頬の涙も風に晒されて心地良く冷えてゆく。 きっと皐月はこの先も、何も言わずに私を探してくれるんだ。 ふらりふらりと不安定な私を、皐月ならどこに居たって見つけてくれる。 人知れず涙するのではなく、それを見届けてもらえる心強さを知っているから。 大丈夫。私は大丈夫だ。 ぐしぐしと目元を拭う私を見て、ハンカチを探しながら「やっぱりないや」と肩をすくめて見せる皐月に、少しだけ笑ってしまった。 見上げた空はあの日と同じように憎たらしい程澄み渡っていて。 けれど、あの時と同じように隣に居てくれる人も居る。 秋空切々。 嗚呼、 本日は失恋日和なり。
■─それでも。 □秋 (2004/08/02(Mon) 11:35:07) ひとり、廊下を歩いていた。 放課後の、それもこんな時間に校舎に残っている生徒はやはり居ない。 だから目的の教室に入ろうとした時に人の影を見つけたら、 誰も居ないと思い込んでいるだけに、少しばかり驚くのは私だけではないはずだ。 だけどそれがどうしたって話なので、足を止めずにそのまま教室に入る。 「笹木。何やってんの?」 電気も点けずに窓際の席に座ってぼんやりしていた笹木は、掛けられた声でようやく私に気付いたという風に顔を上げた。 「…茜」 「電気点いてないしさー。暗くない?」 「……茜こそ、どうしたの?」 「ん?私?今まで部活だったんだけどさ、帰ろうと思ったら忘れ物に気付いて。  宿題出てたじゃん?ノートなきゃ出来ないよね、あれ。めんどうだなーって思ったんだけどね、一応取りに来た」 べらべらと喋って、最後に「まぁやるかわかんないけど」そう付け加えたら、 「もう…」と、呆れたように笹木は笑った。 「帰らないの?」 当然の疑問をぶつける。 机の上に何も広げられていないところを見ると委員の仕事や勉強をしていたのではないだろうし。 もっともそれは、電気の点いていない薄暗い教室から容易に想像が出来るけれど。 「んー…ちょっとねぇ…」あやふやな言い方をして、困ったように笑う笹木。 「部屋に帰りづらいってゆーか…」 それを聞いて私は軽く息を吐く。 「川瀬?」 単語だけをポンッと差し出してやった。 笹木はまた曖昧に笑う。 「喧嘩でもした?」 今度は私が呆れたような声を出して。 「……喧嘩は、してない」 「じゃあ何」 「…お節介って言われた」 言って、笹木はうつむいた。 「また余計な世話焼いちゃったの。川瀬を、怒らせた…」 それで帰れないって?帰りづらいって? まったく二人揃って世話が焼ける…。 私は大袈裟に溜め息をついてみせた。 そして。 「相変わらず生真面目なんだから」 再度呆れ気味に言う。 笹木は「え…」と、私を見た。 「川瀬のそれはその場限りじゃん。言った本人だって、もう既に忘れてるよ」 部屋に戻ったらケロリとしておかえりーなんて言うんだよ、きっと。やれやれとオーバーに肩をすくめながら言う。 「だからやつの事は気にするだけ無駄。考えるだけ無駄。全てにおいて無駄」 妙に力説してみたら、 「それは茜の主観が入ってない?」 笹木は呆れて笑った。 はいはいそうですねー、と軽く返事をして。 「川瀬だってわかってるよ」 穏やかに言ってみせる。 「だけど照れ臭いからお節介だの世話焼きだの、つい言っちゃうんだよ」 あいつ性格悪いからさー、はははと笑うと、「もー」と笹木はふざけて睨みつける振りをした。 呼吸をひとつ置いてから。 「ちゃんとわかってるよ、川瀬は」 わからない程馬鹿でもないから。 もう一度言う。 「うん…」 笹木は短く応えた。 窓の外には茜色の空が広がっていて。 差し込む夕日の赤い光が、暗がりの教室をぼんやりと包み込んでいた。 そっと、笹木に手を伸ばす。 笹木はきょとんとした顔で私を見て。 私はその指先を、彼女の頬に触れる手前で止め、笹木のふわふわの巻き毛を指でつまみ上げた。 「何?」と、首を傾げる笹木に、 「糸屑ついてた」 ひょいとつまんだそれを見せる。 「ありがとう」 そう言った笹木は、いつものようにおっとりと微笑んだ。 「もう暗いし、帰りなよ」 窓に目を向けて言う。 「うん、そうする。でも茜は?帰らないの?」 「んー、まだ。ノート探さなきゃ。ほら、私のロッカーって汚いし」 はははと照れ笑いすると、普段から整理しとかないから…と、やっぱり笹木は呆れていた。 見つかるまで待ってるよ?そんな事も言ったけれど。 私は「お構いなく」と、その申し出を断った。 「じゃあまた寮でね」 立ち上がってドアの方に向かう笹木は途中で私を振り返ると、片手を振った。 私もそれに応えて軽く片手を上げる。 笹木はにっこり笑って。 夕日は相変わらず窓から差し込んでいて。 その光が笹木の色素の薄い髪と穏やかな横顔を照らしていた。 くるりとドアの方に向き直ると、緩やかな髪を揺らせながら笹木は教室を後にした。 私は、まだ上がったままになっている掌をゆっくりと閉じ。その拳になったものをそのまま下ろした。 ふぅ、と。意志とは関わりなく大きな溜め息が漏れる。 先程の拳を解いて、ついさっきまでそこに居た笹木の机にすっと指先を滑らせた時、 「片思いの吐息、ってところかな」 背後から声がした。 ゆっくりと振り向く。 「──知らなかった、皐月の特技が気配を消す事だったなんて」 それとも覗き見が趣味とか?口角を少し上げて、声の主に皮肉めいた言葉を投げた。 「失礼な。入るタイミングを逃しただけでしょ」 皐月は悪びれる様子もなく私の方へと近付いてきて。 「そんな恐い顔するなってー」 へらっと笑う。 それでも私の顔を強張ったままだった。 そんな私をじっと見て。 ふっと息を吐くと、眉をひそめて苦く笑いながら、 「指先の行方は、本当はどこだったの?」 穏やかに言った。 私はぴくりと反応して、けれど平静を崩さず。 「……さっきの言葉もだけど、どーゆー意味?」 「さっきの言葉と合わせて、そのまんまの意味」 しばらくお互い視線を絡ませ、沈黙が続く。 軽く息を吐いて、皐月。 「あたしさ、前から思ってたんだけど。いい?」 「……何」 「茜が川瀬を目の敵にするのって、ただ合わないだけ?」 「何が言いたいの?」 「それもあるんだろうけどさ。他にも理由があるんじゃないかなー、って」 私は皐月を睨みつけた。 彼女は全く動じる様子もなく。 「例えば……」 確かめるように一言。 「───笹木、とか」 私はぎりっと奥歯を噛んだ。 やっぱりか、皐月は呟き、呆れたように頭を掻く。 「不毛だよ」 また溜め息。 「そーゆーのって不毛だ」 哀れむような声。 「不毛過ぎる」 最後のひとつは一番意志が篭り、それでいて冷たかった。 私はもう一度奥歯を噛んで。 「……皐月がそれを言う?」 皮肉たっぷりに言い放った。 「…どーゆー意味よ」 皐月は、わかりやすい程明快に、その顔付きを不快に歪め。 むっとしたような視線を私に向ける。 私はそんな彼女を冷ややかに見ながら。 「弥生」 一言だけ言い捨てた。 皐月の表情が固まり。 瞬間、皐月はすぐに激しい感情を秘めた瞳で私を睨んだ。 一歩タイミングを違えば掴みかかるかもしれない、そんな緊張感が漂う。 沈黙のまま視線を逸らす事も出来ずに、長い時間、私達は互いをただただ睨みつけていた。 膠着状態が続く中、 「───…やめよ」 先に皐月が緊張を緩め、息を吐いた。 「あたしらがこんな事言い合ってたって、それこそ不毛だ」 こんな探り合いに意味はない、そう呟くように言ってもう一度溜め息をつくと、やれやれと頭を掻く。 私も緊張を解きながら、 「先につっかかってきたのは皐月じゃない」 少しだけ口を尖らせて言う。 「だーかーらー!やめようって言ってんじゃん」 「はいはい」 オーバーリアクション気味に肩をすくめて見せ、大袈裟に溜め息。 二人、顔を見合わせると、さっきの殺伐とした雰囲気とは打って変わって何だか笑い合ってしまった。 薄暗い教室に笑い声が響く。 それは徐々に掠れて、渇いて、寂しげなものへと。 「あたしもあんたも、知らなくていいやつに気付かれて馬鹿みたいだよねぇ」 ふっと、笑みと共に皐月が漏らす。 「本当にわかってほしい人は知らないっていうのにさ」 ははは、と笑む皐月。 それは自嘲にも似た響きを持って。 私は何も言わず、ただ視線を落として応えただけだった。 皐月は自分の姿に私を重ねていて。 私もまた、彼女に。 同じ想いを抱いているから互いに気付いてしまったんだ。 「不毛だよ」 皐月が言う。 自分を見ているようで、さぞかし私に苛立っただろう。 「でも、どうしようもないんだよね」 私は答えた。 自分を見ているようで、私も皐月がもどかしかった。 「…うん、そうだ」 皐月は顔を伏せ、床に向かって呟いた。 手を伸ばせば指先程度は触れ合う距離に私達は居るのに。 決して何かを求める真似はしなかった。 傷口を舐め合うよりも、いっそえぐり取ってしまった方がいいと、そんな不器用な術しか持ち合わせていないから。 想いの共有なんてまっぴらだった。 けれど。 それでも今は、ただ近くに同じ理由で涙を流す相手が居る事に救われる。 「そろそろ帰んない?」 下を向いたままで私は言った。 皐月は鼻をずっと啜って、「ん…」とだけ言った。 バッグを手にしてすたすたとドアの方へ歩く。 振り向かなくても、皐月は後ろからついて来ている事は十分わかった。 「お腹空いたな…」 何の考えもなしにぽつりと漏らしたのと同時に、タイミング良く背後からぐぅぅと腹の音が鳴る。 私は一瞬ぴたりと動きを止め。 ゆっくり後ろを振り返る。 はにかむ皐月と目が合うと二人して大笑いしてしまった。 ひーひーと腹筋が疲れる程大袈裟に笑った後また顔を合わせると、互いの頬を伝う涙の跡に気付いて、困ったように笑ってみた。 「不毛な事は散々わかっているのにね…」 皐月の言葉をそのまま借りてぼそりと口にしてみると、何だか妙に馴染んでしまって。 苦く苦く笑んだ口の中は、わずかに塩の味がした。 私達はそれぞれに、何かを抱えていて。 隠し通さなければと思う半面、 どうか見つけてほしいという願望も確かにあって、 行き場のない感情を持て余しながらも、 危ういバランスの中で何とか自分を繋ぎ止めている。 痛い思いは、出来ればせずに済ましたいけれど。 捨て切る事も出来ずにいるから、ただ笑うしかない。こんな形でしか示せない恋もあるのだと。
■2287 / inTopicNo.29)  ─near by but far away《twins》 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(83回)-(2004/08/11(Wed) 15:34:49) ─あなたはちっとも気付いてくれない。 「はーやっ」 談話室の大きなソファにぐでーっと体を預けて夕食を終えた寮生達とくだらないお喋りをしていると、あたしが占拠するソファの余ったスペースに誰かがどさっと座った。 呼ばれた先をちらりと見る。 「あ、沙矢」 そこに居たのはあたしと同じ顔をした似たような名を持つ姉だった。 にこにこした笑顔をあたしに向けていた沙矢は、 「…早矢?どうしたの」 あたしの顔を覗き込むなり眉をひそめた。 「何が?」 何を言われているのかわからなかったのであたしも訝しげに訊ねる。 「何かあったでしょ」 真っ直ぐにあたしを見て、きっぱりと言い切る沙矢。 きょとんとしてみると、沙矢は自身の眉間を人指し指で示してみせて、 「微かにしわ寄ってるよ。早矢、何か怒ってる」 大袈裟に眉を寄せた。 一瞬だけ呆気に取られ。 参りましたと、あたしは観念したようにわずかに溜め息を吐いた。 「ちょっと部活で嫌な事あったから。それで少し不機嫌…」 ずばり言い当てられた事に何だかバツが悪くて、照れ隠しからぽりぽりと鼻の頭を掻く。 「……よくわかったね?」 沙矢は当たり前だと言うように得意げに笑ってみせた。 さっきまであたしと取り留めのない話をしていたサチと梓はそのやり取りをぽかんと見ていて、 「早矢が怒ってるなんて、喋ってて全然気付かなかったー」 「沙矢、すごい!ほんとによくわかるね!」 「早矢って態度に出ないからわかりづらいんだよなぁ」 口を開くなり騒ぎ立てた。 そう、沙矢はいつも気付いてしまう。 あたしの機微に。 熱がある時だって、捻挫をして平静を装っている時だって、落ち込んでいるけれどそれを見せないように明るく振る舞っている時だって。 誰も気付きやしないのに、何故だか沙矢だけは見抜いてしまう。 どんな隠し事だって沙矢には通用しないんだ。 「それだけわかるのってやっぱり姉妹だから?」 サチが興味津々というように目を輝かせる。 「でもさー…私、お姉ちゃん居るんだけど、はっきり言って仲悪いよ?あいつの考えてる事理解できないし、したくもないもん」 その隣で梓が冷静に言い放つ。 「…じゃあ双子だからとか」 サチは少しばかり自信なさ気におずおずとそう口にすると、「きっとそうだよ!」また顔を輝かせた。 「普通の兄弟とか姉妹より、双子の方が絆強そうだもん!」 妙に力説するサチ。 それを横目で見ながら、梓は小さく息を吐き、 「中学の時のクラスメイトに双子が居たけど、やつらの仲の悪さときたらもう…」 こんな事を言い出したので、すっかり自信を無くしたサチはしょげてしまった。 それをネタに、更に梓がサチをつつく。 そんな彼女達の様子を眺めながら、あたしと沙矢はお互いを見やってくすりと笑みを漏らした。 姉妹だから、とか。 双子だから、とか。 実際のところ、どうなのかはわからない。 ただ、あたしに関する事ならば沙矢は一番の理解者だという事が事実として残るだけだ。 けれど他の誰でもなく、あたしの変化に一早く気付くのが沙矢だというのが、何となく嬉しく思う。 談話室でサチ達と別れ、部屋へと戻る途中、あたしは沙矢に疑問をぶつけてみた。 「サチも言ってたけど、沙矢は何でも気付いちゃうよね。誰も気付かないのに。どうしてわかるの?」 沙矢はキョトンと首を傾げて、考えるような仕草。 少ししてから口を開いた。 「…そう言えば何でだろ?何となくわかっちゃうんだよねぇ」 これという決定打が見つからず、沙矢はうーんと頭を捻る。 しかし、ぱっと顔を上げるとあたしを見てにっこり笑った。 「でもね。早矢がどんなに誤魔化したって、いつもと少しでも様子が違えばわたしには絶対にわかるよ」 これだけは確実だ、無邪気に言う。 ごくりと唾を飲み込んだあたしは、 「そーゆー事を真顔で言うの恥ずかしいよ」 紅潮する顔を背けてぼそぼそと悪態をつくしかなかったのだった。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■2288 / inTopicNo.30)  ─near by but far away《with a sense of pathos》 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(84回)-(2004/08/11(Wed) 15:36:30) いつものように部活を終えて寮に帰ったら、いつもよりも帰宅が遅かったらしくて。 部屋に居た沙矢は既に夕食を済ませた後だった。 仕方なく一人で食堂へ向かうと、同じように部活で遅くなったという茜先輩と一緒になったので共に夕飯を食べる事になった。 食後もすぐに席を立つ気が起きず、だらだらと話を続ける。 茜先輩はくるくるとその表情を変えて何でもないような話に色をつけていく。 先輩は底抜けに明るい。常々思う。 誰に対しても屈託なく笑うし、何より面倒見が良い。 寮の一年生は先輩を慕っている。 他の二年生や三年生より、茜先輩はずっと身近で親しみやすいからだ。 家族と離れて暮らしている中で、こうした先輩の雰囲気は姉のように感じられるのかもしれない。 あたしだって時々、先輩がお姉ちゃんだったらと考える時がある。 実の姉が同じく寮に入っていて、その上同室であるというのに、そんな事を思うものではないなと。 それに気付いて少し笑った。 「早矢ー?」 食堂の入口からあたしの名を呼ぶ声がした。 視線を先輩からそちらへと向ける。 「あ、茜先輩。こんばんわ〜」 声の主はあたし達の方に歩み寄って来ると、向かい側に座る茜先輩へも声を掛けた。 「沙矢はもうご飯食べたの?」 茜先輩も屈託なく笑う。 「はい、わたしは帰りが早かったから」 にこっと沙矢は答える。 そしてあたしに向き直ると、目の前のテーブルに置かれている空の食器とあたしの顔とを交互に見比べて不機嫌そうに顔をしかめた。 「沙矢?どうしたの?」 不思議に思い、訊ねてみる。 「…早矢」 沙矢はわざとらしく声を落とし、仰々しく眉根を寄せた。 「トマト食べなかったでしょう?」 ぎくりとして。 「え、何で?」 上擦る声を押さえながら弁解してみる。 「お皿見てよ。残さず綺麗に食べてるじゃん」 「大方、茜先輩に食べてもらったんでしょ」 そうですよね?と詰め寄るようにして茜先輩を見る沙矢に、先輩は苦笑した。 「あんまり早矢を甘やかさないでくださいよー」 唇を尖らせる沙矢。 「どうしても食べられないって言うからさ」 茜先輩は困ったように笑って沙矢をなだめる。 確かに、サラダに添えられていたトマトをあたしは食べなかった。先輩に食べてもらったのも事実であり。 あたしはバツが悪くて前髪をいじった。 「何でわかったの?私が早矢のトマト食べたって」 当然とも言える疑問を先輩は口にして、当然だと言うように沙矢は答える。 「だって早矢がトマト食べた後に平気な顔してるわけないですから。それに食べる以前にお皿の端っこに追いやって残すだろうし。わたしが好き嫌いしないで食べなさいって何度も言ってからやっと嫌々食べるんですよ?自主的に食べるなんてまず有り得ないし、食べたら食べたでしばらくぶすっとしてるもの。早矢、人に押し付けといて食べた振りするのはよくないよ」 最後にあたしを見て溜め息混じりにそう言う沙矢の言葉を聞いて、茜先輩は吹き出した。 「沙矢凄い!凄すぎる!」 お見通しじゃん!と、お腹を抱えて笑う先輩を横目で見やり、お手上げだとばかりに軽く両手を上げてみせた。 笑いすぎでは?とこちらが心配する程ひとしきり笑った茜先輩は、目尻に涙を溜めたまま思い出したように言った。 「そういえばさ、何か用があって来たんじゃないの?沙矢は」 あ、と短く声を上げて沙矢は照れ笑いを浮かべた。 「そうだった。そろそろお風呂入ろうと思ったから、早矢がご飯食べ終わってたら一緒に行かないかなって」 「わざわざ呼びに来てくれたんだ」 目だけで沙矢の方を向いたらにっこり笑った。 「行く行く。じゃあ部屋に戻んなきゃ。洗面用具取りにさ」 あたし達の会話を傍らで聞いていた茜先輩は「私はこのまま談話室行くから」と、皿の乗ったトレーを持って立ち上がった。 先輩はもう一度沙矢の顔を見ると吹き出すのを堪えるように口元を緩める。と、それを察した沙矢が「もう…」と軽く先輩を睨みつけると今度は声を上げて笑った。 「早矢、何やっても沙矢にばれちゃうんだから悪い事出来ないね?」 あたしにそっと耳打ちすると、「双子って面白いなー」そんな事を呟きながら食器を片付け、先輩は食堂を出て行った。 その背中を見送りつつ、もっともだなぁ、ぼんやり考えて。 あたしの脇腹を沙矢が肘でつつく。 行こう?と促すような視線を受けてあたし達もその場を後にした。 部屋へ向かう廊下を歩いている途中、反対側から寮長である笹木先輩の姿が見えた。 「ねぇ、前から来るの笹木先輩じゃない?」 沙矢が言うので、やっぱりそうかと思いながらあたしは頷いた。 「笹木先輩っ!」 無邪気に笑って手を振る沙矢に、笹木先輩も微笑みを返した。 「今からお風呂ですか?」 距離が縮まったところで笹木先輩の手にした洗面用具を目敏く見つけて沙矢は言う。 ええ、と笹木先輩はふわふわとした声で穏やかに笑った。 「川瀬も一緒よ」 後ろを指差す。 反射的にその指差された先を見ると、笹木先輩の後方、少し離れた所から面倒臭そうにこちらへ歩いてくる川瀬先輩が目に入る。 隣に立つ沙矢がわずかに息を飲んだ気がした。 「川瀬、早くー」 のんびりした口調で急かす笹木先輩。 追い付いた川瀬先輩はやはり面倒臭そうに笹木先輩の脇で立ち止まった。 ちらりと、あたし達二人を高い目線から一瞬だけ見て。すぐにその鋭い目はすっと逸らされた。 肩越しに沙矢の緊張の高まりが伝わる。 それに気付かない振りをして、 「こんばんわ、川瀬先輩」 声を掛けると、つまらなそうに「ん」とだけ応えた。 横目で沙矢を見る。 先程茜先輩や笹木先輩とはきはき話していた時、また、普段の堂々とした態度とは違い、随分大人しい。 借りてきた猫みたいだ。 目を伏せて、やっとの事で「こんばんわ…」消え入りそうな声でぼそぼそと呟いた。 川瀬先輩はそれにも「うん」と頷いただけで、「笹木、行こう」笹木先輩に声を掛けるとあたしと沙矢の横を通り過ぎてすたすたと行ってしまった。 「もう川瀬ったら…」 呆れたように呟いて、 「無愛想でごめんね」 悪い子じゃないんだけど、と笹木先輩は苦笑しながら川瀬先輩の後を追って行った。 二人の姿が見えなくなると、固く強張った沙矢の体からくたっと力が抜けた。 はぁぁ、と。 大きく沙矢が息を吐く。 「どうしよう…ちゃんと顔見なかった。挨拶もしっかり出来なかったし…失礼だったよね?川瀬先輩、呆れなかったかな?ねぇ早矢」 紅潮した頬に両手を添えて、今にも泣き出しそうな顔をしている。 「あー…最悪ぅ……しかもこんな気の抜けた格好だし…もう少しましな服着てれば良かったぁ」 うなだれて、その場にしゃがみ込んでしまった。 頭を抱えて呻いている。 あたしも沙矢の脇に屈んだ。 「川瀬先輩だって普通の部屋着だったじゃん」 軽く声を掛けると、 「先輩はそれでもかっこいいからいいの!」 がばっと伏せた顔を上げる。 けれどすぐに情けなく眉尻を下げ。 「…顔だって、すぐお風呂に入るからいいやって思ってぼろぼろだし。今日体育あったから汗臭いし。もう…ほんと最悪ー……」 沙矢は大きく息を吐いた。 あたしはぼりぼりと頭を掻きながら。 「何でそんなに気にすんの?」 「だって…どうせなら一番良いわたしを見てもらいたいもん。先輩はわたしの事なんてちっとも気にしてないってわかってるけど、それでもせめて目の前に立つ時は綺麗な姿でいたいじゃない」 あたしの目を真っ直ぐ見てそう言った後、照れ臭くなったのか、沙矢はへへっと笑った。 あたしは沙矢の髪をさらりと一掬い摘み上げると軽くすくように弄ぶ。 そして一言、「見栄っ張り」と言ってやった。 沙矢はふてくされたように唇を尖らせて、 「何よー。憧れるのも大変なんだからね」 頬を膨らませた。 やがて沙矢は何かを思いついたという風な顔をすると、 「早矢は?いないの?そういう人」 上目遣いであたしの顔を覗き込む。 「いないよぉ」 あたしはおどけたように答えると、 「やっぱりね」 予想通りだとふっと力を抜いた。 「それじゃあわかんないか」 そう言って、溜め息をつく。 私はまた、同じ顔をした姉の髪をさらさらと撫でて、 「大丈夫、沙矢はいつでも可愛いよ」 にっこり笑って言った。 沙矢は一瞬絶句して。 「早矢に言われてもなぁ…」 呆れたように、けれどどこか可笑しそうに、くすくすと笑った。 どんなに些細な事だって、他人には決してわからない事でさえ、何でも気付いてしまうあなたでも、私のこの想いにだけは気付かない。 そう。 あなたはちっとも気付いてくれない。 多分、この先も。 ずっと、ずっと。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■2289 / inTopicNo.31)  ─1/2 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(85回)-(2004/08/11(Wed) 15:37:30) 唐突に。 川本真琴を聴きたくなった。 だから日曜の昼下がり、昼ご飯を食べ終わってのんびりしているところをがばっと起き上がって、 「どこか行くの?」 と尋ねるルームメイトに、 「ツタヤ」 そう簡単に答えて。 部屋を出て、寮の裏手の駐輪場から自分の愛車を探し出すとふわりとそれに飛び乗った。 全速力で漕ぐ。 風を感じる余裕もない程に。 目的地には案外すんなり到着して、探しものも案外あっさり見つかった。 少し昔のアルバムを一枚手に取り。 それをそのままカウンターへと持って行くと、行きと同様、全速力で帰路を辿った。 駐輪場に自転車を乱暴に置いて、急ぎ足で部屋へと戻る。 あたしの帰宅に、読んでいた雑誌から目を上げた彼女に声も掛けず。 ケースからCDを取り出してデッキにセットすると、ルームメイトにただの一言も許可を得ずに無遠慮に音を打ち鳴らした。 歌詞カードをばっと広げて。 あぁ、この曲。 この言葉。 流れる声に耳を傾ける。 唇と唇。 瞳と瞳と、手と手。 神様は何も禁止なんかしてない。 目を閉じて、じっと聴き入る。 背後から、彼女が立ち上がる音。 ゆっくりこちらに近付いて、あたしの後ろで立ち止まった。 彼女の足に背を預け、顔を上げると瞼を開けた。 あたしを見下ろすルームメイトが一人。 膝を床につく恰好で屈む。 「神様は何も禁止なんかしてない、ね」 ふっと息を吐いて。 「そうかな」 あたしの頬に手を掛けると、優しく唇を塞いだ。 わずかの時間、触れ合うあたし達。 そっと、それを惜しむかのように唇を離す。 「どうせ個と個なら。その半分この欠片を二つ重ねて、離れずに済むように繋ぎ合わせてしまいたいよね」 笑って。 もう一度、甘い、甘い、キスを落とした。 あたしは。 どうせならこのまま溶け合って一緒になってしまいたいと。 そう思った。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■2290 / inTopicNo.32)  ─朧月夜 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(86回)-(2004/08/11(Wed) 15:38:26) 十五夜はとうに過ぎたというのに、今夜はとても月が綺麗だからと、不意にお月見をしようと思った。 突然の事だからお団子も何もなく。 だったらせめてススキでもと思って。 夕飯を食べ終えてごろごろしているルームメイトを揺り起こす。 彼女は快く頷いてくれたから、夜の散歩にレッツゴー。 寮の玄関まで行く途中に寮長さんと会ったけれど、点呼時間までには帰ってきてね?、そう言っただけで面倒な外出申請の措置を見逃してくれた。 外に出る。 丸い丸いお月さま。 月明かりの下で、私と彼女、ふたつの影が道路に伸びる。 住宅街を通って路地裏を抜ければ、そこには広々とした空き地が広がりを見せ。 背の高いススキがそこをぐるっと囲むように群生していた。 しばらくぼんやりと空を眺める。 「月とススキ、か」 彼女が呟き、 「団子があれば、もっとお月見らしかったのにね?」 楽しそうにあたしに微笑み掛けた。 そっと、彼女に手を伸ばして。 指を絡める。 それに気付き、彼女はまた楽しそうに笑う。 「手、繋いだまま帰ろうか」 「いいの?」 思わずじっと凝視してしまったあたしに、うん、と頷いて。 「人通り少ないし、月の光もぼんやりしているから。誰にもわからないよ」 目を細めた。 光が朧ろげで輪郭がぼんやり映るこんな夜って朧月夜って言うんだっけ?、あぁ違う、朧ろ夜は春の夜だ、隣でぶつぶつ呟いている彼女の肩に頭をもたれる。 視線の先はお月さま。 くすりと彼女が笑った気がして。 「私はあんたを照らす月になりたい」 こんな事を言った。 「ここに居るよ、って居場所を示す月になりたい」 そうあなたが言うのなら。 だったらあたしは。 あなたを見上げて想いを馳せる、そんなススキなのでしょう。 まだぼんやりと上を見上げる彼女の手を、あたしは頑なに握りしめた。 指先からでも徐々に浸透して、繋がるのではなくひとつになれたらいいのに。 上空にはふらふらと、青白い光を放つ心許ないお月さまが一人。 物悲しいのも満たされないのも、全てを月のせいにして。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■2291 / inTopicNo.33)  ─tears ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(87回)-(2004/08/11(Wed) 15:39:24) 彼女は時々言葉が足りない。 だからあたしは無性に寂しい時がある。 寮は意地悪だ。 こんな時に一人泣く事も出来ないなんて。 布団を頭から被って、声を押し殺して、それでも溢れ出す何かを堪えて。 あたしはどれだけの夜をそうやって乗り越えるのだろう。 今日も同室の彼女は、床に座ってベッドの縁を背もたれに、黙々と雑誌を読んでいる。 ページをめくる細く長い指を、あたしは勉強机の椅子に馬乗りになってぼんやりと眺めていた。 ゆっくりと立ち上がる。 彼女の隣にちょこんと座り。 その横顔をじっと見つめる。 視線に気付いたルームメイトはあたしの方に向き直り、何?と穏やかに笑んだ。 それだけで。 あたしは堪らなく切なくなると言うのに。 察してよ。気付いてよ。お願いだから。 覗き込んだ彼女の瞳に映るのは、今にも泣き出しそうな子供の顔した女の子が一人。 あたしは求めるように彼女の首に腕を伸ばし、そのままぎゅっと巻きつけた。 彼の人は、躊躇う事なくあたしの背中に優しく腕を回す。 彼女の体温が伝わり、彼女の鼓動が聴こえる。 包まれた腕は揺るぐ事なく、解かれる事なく。 それをあたしは知っていた。 あたしの首筋に彼女が口づけると、そこから広がる熱に、あたしはようやく安堵の息を漏らした。 想うよりも言葉に代えて。 言葉よりももっとずっと簡単に。 そう、抱き締めて。 それだけでわかるから。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■2292 / inTopicNo.34)  ─ひとつだけ。 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(88回)-(2004/08/11(Wed) 15:40:53) 「欲しい物をあげる」 あたしの誕生日が近付いてきたある日。 同室の彼女がこんな事を言いました。 「当日までプレゼントが何か秘密にして驚かすのもいいけど、本当に欲しい物をあげて喜ぶ顔が見たい」 目を細めて楽しげに笑うこのルームメイトは、子供のように邪気がない。 あたしは彼女の胸を背もたれに、ぽすっと体を預けた。 やっぱり彼女は楽しそう。 くすくすと笑う度に漏れる吐息があたしの首を撫でてくすぐったい。 あたしはますます後ろに体重を掛けて彼女にもたれかかる。 「何でもいいの?」 「何でもいいよ」 「どんなものでも?」 「望むものを」 背中越しにでもくすりと笑ったのが伝わる。 「あんたは何を望む?」 くるりとあたしは向きを変えて、背中の彼女と向き合う格好になった。 そのまま胸元に顔を埋めて、両脇から腕を差し入れ力を込める。 「本当に何でもいいの?」 彼女はあたしの背中に手を回して優しく抱き留めた。 「何でも。私が出来る事なら叶えてあげる」 何がいい?と、楽しそうな声を落とす。 「まだわからない…」 「そう?考えたら教えてね」 あたしは応える代わりに顔をゆっくりと上げて、背伸びをしながら彼女の唇に口づけた。 望む事? …あるとすれば、ひとつだけ。 あなたと一緒になってしまいたい。 心も身体も、全部、全部。 孤独を感じる隙間もない程。 それ以外、あたしは望みはしないのに。 多くを望みはしないのに。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■2293 / inTopicNo.35)  ─agonizing wish ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(89回)-(2004/08/11(Wed) 15:42:18) 夢を見た。 幸せで、満ち足りて、とても寂しい夢。 内容は覚えていない。 ただ。 目を醒ましたら知らない内に泣いていた。 寂しくて寂しくて仕方がなかった。 急いで布団から飛び出して、ルームメイトのベッドを覗き込む。 同室の彼女は穏やかな寝息を立てていた。 ほっと、息をつく。 早い時間に起き出してしまったあたしに眠気が再度襲ってきて。 そのまま彼女の布団の中へ潜り込む。 「…どうしたぁ?」 寝呆け眼の彼女はまどろみながらあたしを迎え入れる。 「こっちおいで」 導かれるまま彼女の腕の中にすっぽりあたしは収まった。 彼女は満足そうに微笑むとまた寝息を立て始める。 包まれた腕の心地良さの中で、あたしは夢の続きを思い出していた。 あたしという個と。 彼女という個と。 ふたつの別々の個体が溶け合って、ひとつの同じ個体に生まれ変わる。 それは、とてもとても幸福で。 それは、とてもとても穏やかで。 一緒になれた事が嬉しくて堪らない。 いつも共に居られるから淋しさなんて感じ得ない、そんな事は有りはしないと。 けれども。 一つになりたいと、ずっと切望していたのに。 それだけを願い続けていたのに。 あたしと彼女が同じ個体なら。 抱き合えない。 この身を抱いてもらえない。 お互いの鼓動を確かめ合う事も、お互いの温もりを伝え合う事も。 髪の毛の一本さえも掴めずに。 それすら叶わない。 孤独からは解放されても、寂しさからは逃れられないのだと。 切ない。 切ない…。 手を伸ばせばすぐに指先が触れ合う距離に。 名前を呼べばすぐにその声が届く範囲に。 そう、そこに居て。 そしたらあたしは寂しくないから。 あたしを包み込むように眠る彼女の心音を聴きながら、あたしも再び眠りに落ちた。 次に目覚めた時は、きっとあたしは恐くない。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 (携帯)
■─目を閉じて、君は何を想う。 □秋 (2004/09/01(Wed) 14:06:59) 玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると弥生が立っていた。 「あら、弥生ちゃん。いらっしゃい」 居間から顔を覗かせた真知が声を掛ける。 「こんにちは、早川先生」 にっこり笑って弥生。 「先生なんて、家ではよしてよー」 真知もわずかに照れながら微笑みを返す。 弥生との付き合いは長い。 昔はこの家にも頻繁に遊びに来ていた。 だから当然、真知とも彼女が教師になる前から馴染みがあるわけで。 学校から出たら、真知は教師からただのあたしの姉に変わり、弥生に対しても教師の顔を見せない。 もっとも、やはり校内ではいくら身内とは言え公私混同はしないけれど。 「うちに来るの久しぶりじゃない?」 あんまり遊びに来なくなったわよね、と真知は微笑みながら弥生を招き入れる。 弥生も、そうですねー、なんて相槌を打って家の中へと入ってきた。 弥生を居間に迎え入れ、テーブルを挟んで真知の向かい側へ適当に座らせる。 その様子を見てからお茶を入れてこようと廊下に出たら、背中から弥生と真知の優しい笑い声が聞こえてきた。 その声であたしはしばらくそこから動けずに、胸を押さえて二人の声に耳を傾けていた。 どうか──…と。 祈るような想いで。 「ねぇ皐月。まーちゃん、もう家出て相手の人と暮らしてるよね?たまに実家に帰って来たりとかは…しない?」 ある日の休み時間。 あたしの席へとやって来た弥生は唐突にこんな事を言った。 あたしは今まさに早弁しようとメロンパンを手に、大口を開きかけたところで。 ふぇ?と、間抜けな声を上げて傍らに立つ弥生を見上げた。 じっと見つめるあたしの瞳に、躊躇いがちな弥生の表情。 しかし、意を決したように真っ直ぐあたしを見つめ返して来た。 あたしの手を取ると、ずんずんと歩き出す。 あたしはわけがわからずに、メロンパンをくわえながらただ弥生に引っ張られていくだけ。 屋上へと続く踊り場まで来ると、弥生はようやくその手を離した。 口をもぐもぐと動かしているあたしに構わず、真剣な顔付きであたしに向き直る。 大きく深呼吸をひとつして。 「覚悟を決めたの」 そう言った。 ごくり、と。あたしは唾と共にメロンパンを飲み込んだ。 「潔く失恋してくる」 弥生が何を言っているのか、簡単に理解出来た。 真知に想いを告げる、そういう事だ。 「だからまーちゃんとしっかり話をしなくちゃならない。  学校だとそうはいかないから、まーちゃんがもし家に戻る時があればと思って」 弥生の真剣な眼差しを逸らす事も適わず、あたしはやっとの事でぼそぼそと口を動かした。 「真知、さ。結婚しちゃって、それだけでも失恋決定なのに…それでも弥生は告白するの?」 その言葉に弥生は一瞬だけキョトンとしてみせ、すぐにくすくすと笑った。 そんな弥生にあたしは少しむっとして。 「わざわざ言う事ないんじゃないの?」 ぶっきらぼうにそう言っても、やっぱり弥生の顔は穏やかだった。 「確かにそうかもしれないけど。私はこの気持ちを消化させてあげたいの。  燻ったままじゃ前に進めない。その為の、けじめみたいなものかな」 その穏やかな顔のまま弥生は言う。 あたしはふぅーと長い息を吐き、ばかみたいに真っ直ぐな親友の顔を改めて眺めた。 「今週の日曜日。部屋の整理しに帰ってくるよ、真知」 素っ気なくそう呟く。 「ありがとう」 弥生は短く答えた。 あたしはそれが聞こえなかった振りをして続ける。 「その日さ、親は夜まで居ないんだ。真知は部屋の片付け終わっても親帰ってくるまで居るって言うから昼頃おいでよ。  弥生が来たら、あたしは適当にどっか行くから。あとは真知と二人だよ。弥生の好きなようにすればいい」 髪を掻き上げながら淡々と告げると、弥生は嬉しそうに微笑んでいた。 もう何も言う事がないあたしの両手を取って、ぎゅっと握る。 じっとあたしを見て。 「ううん、居て。皐月もそこに居て」 ゆっくりと言った。 相変わらずあたしは何も発する言葉が見つからない。 あたしが黙っているのを確認して、弥生は続ける。 「逃げ出してしまいそうになるから。それに…」 一旦言葉を切り、大きく息を吸った。 そして。 「私の気持ちに気付いてくれた皐月だから、その想いを最後まで見ていてほしいの」 きゅっと、心臓が締め付けられる思いだった。 これ以上弥生に何かしてあげられる事はないと悟ったあたしは、ただ「…うん」と、そう小さく頷くしかなかった。 どうか…もうこれ以上傷つかないで。 それで楽になれるのなら、早く終わらせてしまえばいい。 そんな風に祈りながら。 ごくりと飲み込んだ唾は、もうメロンパンの味はしなかった。 ティーポットと人数分のカップをお盆に乗せて居間に戻ると、弥生と真知は他愛のない話で盛り上がっていた。 弥生の隣に腰を下ろす。 相変わらず二人ともにこにこと笑っている。 あたしはカップに紅茶を注ぐと二人の手元に置いた。 そのまま自分の分に口を付け、ちらりと横目で弥生を見る。 弥生は平然とした顔で真知との会話を続けていて、その表情からは何を思っているのかなんて窺い知れない。 あたしの方が緊張しているくらいだ。 口の渇きが治まらず、あたしはカップの中身をずずっと飲み干した。 「私が居たらお邪魔だろうからそろそろ自分の部屋に戻ろうかな」 会話が一段落し、紅茶も飲み終えた頃、そう言って真知は立ち上がろうとした。 真知はあたし達の目的を知らない。 弥生はあたしに用があって遊びに来たと思っているだろうから、妹とその友達が居る場にそう長居をしまいと思うのは自然だった。 「…真知!」 ここで行かれては困る。 引き止めようと咄嗟に言葉が口を突いて出た。 何?と言うように、真知は中腰のまま静止してあたしを見ている。 「あ……えーと…」 呼び止めたものの後に続く言葉が見つからず、あたしは言葉を濁しながらへらへらと笑ってみせた。 「皐月ちゃん?どうしたの?」 言葉を探している間にも真知は次第に怪訝な表情になっていく。 うー…と、頭を抱えそうになった時、 「私ね、今日はまーちゃんに用があって来たの」 弥生が口を開いた。 そうなの?と真知があたしを見る。 あたしが無言でこくりと頷くと、中腰の姿勢を保っていた真知は再びその場に腰を下ろした。 そして真知がゆっくりと弥生の方に向き直ると、空気が震えるような錯覚を覚えた。 弥生の緊張があたしにも伝わってきているのか。 …いや、緊張しているのはあたしだけなのかもしれない。 弥生はとても穏やかな顔をしていたから。 大きく息を吸う弥生。 穏やかな表情を更にふっと緩ませて。 「まーちゃん。今、幸せ?」 優しく問い掛けるように言った。 真知は少しばかり驚いて、「うん…」と小さく答えただけで、照れたように顔を紅く染めてうつむく。 「ずっと好きだった人と結ばれたから。恐いくらい幸せ」 はにかみながら本当に嬉しそうに口にする。 弥生の微笑みは消えない。 真知を見る目を細めて。 「私ね」 柔らかい口調のままに。 「まーちゃんが好き」 はっきりとそう言った。 真知はがばっと顔を上げて弥生を見た。 驚いているのだろう、目をぱちくりさせながら。 弥生は構わず続ける。 「ずっと好きだったよ。まーちゃんが先生になる前から、ずっと」 そして、にこりと笑い掛ける。 真知は困ったような顔をしていたけれど、相変わらず弥生は穏やかだった。 「安心して。私はそんな顔をさせたくてこんな事言ったわけじゃないから」 その言葉に、真知はキョトンとした表情を弥生に向ける。 その顔を見て、弥生はぷっと吹き出した。 「やだー。もしかして変な意味に取った?そんなんじゃないってー」 「……え?」 「まーちゃんが好き。でも皐月の事も好き。勿論、家族も。そーゆー好きなの」 勘違いしないでよー、と弥生はますます可笑しそうに笑う。 「そう…そうよね」 真知は肩の力が抜けたと同時に、微笑んだ。 それを見て、満足そうに弥生も頷く。 「だからね…」 一呼吸置いて。 「まーちゃんの事、好きだから幸せになってほしい。  泣いてるところなんて見たくないの。  他の誰よりもまーちゃんの幸せを願ってる」 あたしには胸に詰まされる言葉だった。 弥生の次に、あたしは弥生の想いをよく知ってしまっているから。 これは弥生の本心から出たものだろうけれど、あたしには到底言えやしない。 「まーちゃんを泣かせたら旦那さん殴っちゃうから」 冗談めかして笑う弥生に、真知は「弥生ちゃんたら…」と、苦笑を浮かべる。 この場で笑っていないのはあたしだけだった。 そして。 「弥生ちゃん、ありがとう」 何にも知らない真知は、心から嬉しそうに応えた。 「結婚おめでとう、まーちゃん」 弥生もまた。 彼女の強さに、切ない想いに、代わりにあたしが泣ければいいのに。 二人のやり取りをあたしは黙って見ていた。 「私の用事はこれでおしまい。じゃあ帰るね!」 そう言うと、すっと弥生は立ち上がった。 もう少しゆっくりしていけば?と声を掛ける真知に笑って手を振って居間を出ていく。 あたしも弥生の後を追い掛けて、一緒に玄関の外へと出た。 くるりと弥生があたしを振り向く。 その顔は、今にも泣き出しそうだった。 「私…うまく笑えてた?」 先程とは打って変わって情けなく呻く。 「おめでとうって、ちゃんと言えてたかなぁ?」 母親とはぐれた迷子のように不安げにあたしのシャツの裾をそっとつまんで。 「ねぇ、皐月ぃ…ちゃんと最後まで見てくれてた?私はちゃんと伝えられてた?」 あたしは裾を掴んで離さない弥生の手に右手を軽く添えて、余った左手で弥生の頭をぽんぽんと撫でた。 そのまま優しく手を頭に乗せる。 「うん、見てた。全部見てたよ」 もう我慢しなくていい、頭に乗せた左手に少しだけ力を込めて自身の胸に引き寄せる。 二、三度頭を撫でてやると、弥生は緊張が解けたのか、堰を切ったように泣き出した。 必死で堪えていた何かを全て吐き出すかのように。 お気に入りのシャツだけど、この際涙と鼻水にまみれても目を瞑ろう。 泣きじゃくる弥生にそっと声を落とす。 「弥生はすごいよ。よく頑張ったよ。あたしは弥生の気持ち、ちゃんとわかってるから」 一度だけ両腕を弥生の背中に回して、鳴咽が漏れる隙間もない程ぎゅうっと抱き締める。 すぐさまぱっと離れて、 「お疲れ!」 にかっと笑顔を向けたら、やっと弥生は微笑んだ。 「ありがと、皐月」 ずずっと鼻を啜って。 「すっきりした!」 本当に晴々した顔をあたしに向けた。 「宙ぶらりんなままより、言っちゃった方が完全燃焼できるものだねー」 あははと笑った弥生は、 「…でも、もう少しだけこうして居させて」 そしたらすぐに立ち直るからと、あたしの胸にこつんと頭をもたれた。 「しょうがないなー」 あたしはわざとらしく大袈裟な溜め息をついて、それでも胸は苦しくて仕方がない。 あとどれだけの時を、あたしはこんな想いを抱えたまま過ごすのだろう。 『あたしはあんたの幸せを願っているよ』 弥生には見えないからいいか、と。 空を仰いで、一雫だけ涙を落とした。 心の中で呟いた声はきっと弥生に聴こえない。 目を閉じて、君は何を思う。 あたしは何を想う。
■─hurts □秋 (2004/09/01(Wed) 14:07:59) 四時間目の体育の授業で職員室の窓ガラスを豪快に突き刺す程の見事なホームランを決めて、 授業の終わりと共にやって来た昼休みにお小言を散々聞かされていた私はようやくそこから解放された。 皐月と陽子がバカな事を言って盛り上げ、弥生と郁がそれにツッコむ。 その様子を笹木と比奈が笑って見ている傍ら、相変わらず川瀬はむすっと黙っているんだろう。 そんないつものランチタイムの光景がありありと浮かんで、 私も早くそこに合流しなければと早足で廊下を進む。 しかし教室のドアを開いた瞬間、私は面食らった。 昼食を取るメンバーは笹木と皐月の二人だけ。 川瀬が居ないのは清々するというのが本音だけど、 席を囲む面々に陽子や郁達が居ないのは何故だか心許ない。 決してしんみりしているわけではないけれど少しばかりお喋りのトーンを落としながらお弁当を頬張る皐月の隣の席へと座った。 「あ。おかえり、茜」 「うん、ねぇ他の皆は?」 「郁は部活の昼練、弥生と比奈は委員会の集まりだって。  陽子に至ってはさっきまで居たけど職員室に呼び出された。帰ってくる時に会わなかった?」 あいつはまた何やらかしたんだか、もぐもぐと口を動かしながら皐月は言った。 「ふうん。…川瀬は?」 別にあんな奴がこのランチの場に居なくてもどうって事はないし、むしろ居ない方が私の食は進むのだけど、 居るはずの人物が訳もなく居ないというのも何となくむずむずした気分になるので、 仕方なしといった感じで私は忌まわしいその名を口にした。 瞬間、空気がピリッと痺れた気がした。 見れば、先程から何も言葉を発していなかった笹木が顔をしかめている。 ご丁寧に眉間にシワまで作って、珍しく不機嫌を露わにして。 皐月を見ると、あーぁといった風に溜め息をついた。 私の耳元に顔を寄せ、皐月は耳打ちした。 「茜、地雷踏んだよ」 「はぁ?」 笹木じゃないが、わけがわからなくて私まで顔をしかめる。 「今、その名前は笹木にはタブー」 皐月は肩をすくめてみせた。 「何が原因かわかんないけど。喧嘩してるんだってさ、川瀬と」 「笹木が?」 隠さず素直に驚きを表していると、 「全部聞こえてるんだけど…」 向かいに座る笹木が私達二人を見て呆れていた。 …そりゃそうだ。 最初こそは小声のものの、私達のそれはこそこそ話に適した音量ではない。 聞かれていたのなら遠慮はいらないか、と勝手に解釈して私は笹木に向き直った。 「珍しいね、喧嘩なんてさ」 皐月も、うんうんと頷いた。 笹木と川瀬は頻繁にその仲をこじらせてはいるものの、それは川瀬が単に機嫌が悪いだけだったり、 川瀬を怒らせたと笹木が勝手に勘違いしたり、つまりはまぁそんなもの。 何のやり取りもなくてもこの二人の関係は自然と修復されていた。 そこには、笹木と川瀬、両者の性格によるところが大きいだろうけれど。 笹木がすんなり折れたりだとか、川瀬がその出来事自体を忘れていたりだとか、ね。 どれも喧嘩と呼べる代物ではなかった。 だからこんな風に笹木が不機嫌さをあからさまに表したり、「喧嘩をしている」という言葉が珍しい。 もしそうだとしてもこの二人の怒りは持続しないし、そもそもいつもなら笹木の方から謝ってしまうだろう。 それで終わるはずだ。 なのに。 「ほんと。笹木が怒ってるって珍しい」 何の気無しに皐月が漏らす。 「怒ってるってわけじゃ…ただ、ちょっと…」 どう言えばいいのか、といった感じで笹木は唇を尖らせた。 「なら、笹木から話し掛ければ済んじゃう事じゃないの?」 弁当の残りをかき込みながらそう言う皐月に、「何で私が」というように笹木は少しむっとした。 成程、やはりこれは「喧嘩」なのだ。 引かない笹木を見て改めて実感する。 そう言えば、今朝は一緒に登校していなかった。 夕べの点呼で部屋に廻って来た笹木の表情も、どこか暗いものだったっけ。 という事は、この喧嘩は昨日から。 それも夕飯を過ぎてから、かな。 どうせ川瀬がいつものように笹木の親切心を踏みにじったんだろう。 それに対して、笹木が珍しく反発した。 ま、そんなとこでしょ。 やれやれと心の中で呟いて、私は職員室からの帰りに購買で買ってきたレモンティーにストローを挿し込んだ。 たまには川瀬から折れればいい。 笹木が長時間自分に構わなければ、きっと向こうから音を上げる。 いつだって笹木の方から行動を起こしてくれるなんて思うなよ。 これは奴が笹木の有り難みを再認識する良い機会だ。 大体、笹木は川瀬に甘過ぎる。 これを機会に笹木も川瀬を放っとく事を覚えればいい。 ずずずとレモンティーを啜って今回ばかりは我関せずを貫こうとした矢先、 やめとけばいいのに、ちらりと笹木を見てしまった。 ず…と、もう一口啜る。 あーぁ、本当に察しの良い自分が恨めしい。 笹木と川瀬の事は放っとこう。放っとこうと思った矢先にこれだ。 手持ち無沙汰に自身の緩やかな髪の毛先を眉根を寄せながらいじっていた笹木の顔が、 目を伏せた一瞬だけふっと寂しげなものとなったから。 素直に相手と接する事が出来なくて辛いのは何も川瀬ばかりじゃないという事か。 この喧嘩の終結を誰よりも切望しているは、他でもなく笹木だ。 わかってたけどさ。 わかってたけどね。 笹木が一人の相手とずっと口を聞かずに通すなんて無理な話なんだ。 今にも駆け寄りたくて、話し掛けたくて、むずむずしているはず。 笹木も変なところで頑固だから、引かないと決めた手前、折れ際を測り兼ねているのだろう。 私もとことんお人好しだ。本当に損な性分を請け負っていると思う。 じゅるじゅると残りのレモンティーを吸い取って、紙パックをぐしゃりと潰した。 人知れず、軽く息を吐いてから。 「あほらし」 私の声に髪をいじる笹木の指先が止まった。 「何でこじれてんのか知らないけどさ。どうせ続かない喧嘩なんだし、さっさと仲直りしちゃいなって。  大体さ、同室なんだから寮に帰れば嫌でも顔合わすんだよ?ずっとこうだと気まずいじゃん」 伏せていた顔をゆっくりと上げた笹木はなかなか情けない顔だった。 もう一声、もう一押し、というところか。 決め手となる最後の一手が欲しいらしい。 これはまだ迷っている顔。 「笹木に謝れって言ってるわけじゃないよ。たださー、あいつにも謝るチャンスをあげれば?って事。  川瀬ひねくれてるから、せめて機会くらいは与えてやんないと」 笹木は口をきゅっと結んだ。 「笹木からそのきっかけを作ってあげるくらいはいいんじゃないかなー、ってね」 あくまでも淡々と私は言った。 無論、これは川瀬の為なんかではなく。 さぁ、もう一言だ。 「川瀬、中庭に居たよ」 笹木は驚いたように目を見開いて私を見る。 「職員室から戻ってくる途中で見た。渡り廊下通って来たから」 あんなの見ちゃって気分害したー、冗談めかしてそう言うと、笹木は勢いよく席を立った。 そのまま一直線にドアへと向かう。 教室から出ていく直前、くるりと私に向き直って「ありがと!」一言そう叫んだ。 ほうらね? 背中さえ押されれば、笹木はすぐにでも川瀬の元へ駆けてゆく。 笹木が見せた顔は吹っ切れたように笑っていた。 あれならもう大丈夫だろう。 廊下を走る笹木の足音が聞こえなくなるのを確認して視線を戻すと、呆れ顔で私を見ている皐月の姿が目に入った。 ばーか、と声には出さずに口だけを動かして言う。 余計なお世話だ、私はイーッと舌を出した。 はぁっと吐き出した息に皐月の溜め息が重なって、二人同時に互いの顔を見た。 普段なら爆笑してしまうようなこんな場面も、何故だか今は力無く笑っただけ。 「損な役回りだねぇ…」 私にだけ聞こえるような声で皐月が言った。 「…まぁあたしもなんだけどさ」 はははと困ったように頬を掻く。 「………皐月さー」 そんな皐月から私は顔を背け、やはり皐月にしか聞こえないくらいの小声で話す。 「やっぱりまだ、好きなんだ?」 弥生、と続けなかったのはただ単純に続けられなかったから。 「……うん」 息をするように皐月は答えた。 「そっか…」 私は意味もなく椅子の上で体育座りをしてみる。 それを見た皐月は「何だよ、それ」と、少し笑った。 「片思い同士ですねー」 「ですねー」 「良いお友達ってか」 「うん、それだ」 「陰ながら支える、みたいな」 「ははは!」 「つーか、報われないコンビ?」 「…やだなぁ、それ」 へへへと皐月が笑って。 ふぅ、と長く息を吐く。 くるりと首を動かして私に顔を向けると。 「いっその事付き合っちゃう?」 「……冗談でしょ?」 「冗談だよ」 あっけらかんと皐月は言ってのけた。 そう簡単にいったらどんなに楽か、そんな言葉を落として皐月はうーんと伸びをする。 そりゃそうだ、と私も少し顔を上げた。 ちらりと横に視線をずらすと、窓から覗く爽やかな秋晴れに今気が付いた。 その眩しさに、すっと目を閉じる。 自分の位置はわかっているつもり。 あの人に掛ける言葉も。 振る舞う態度も。 彼女に対する私を見て、皐月が何を言いたいのかなんて、それだってやっぱり私はわかっている。 無理は少ししかしない。 誤魔化しこそしても、嘘だってつかないつもりだ。 だから。 「ばかだけど、見逃してよ」 目を閉じたまま皐月に向かって声を掛けたら、何も言わずに髪だけ撫でた。 何でもない振りや何でもない言葉を、いつまで掛け続ければいいんだろうね、私達は。 あぁ。 胸の奥がしくしくと傷む。 この痛みは、もうしばらく消えてくれやしないのだろう。 顔を上げるのが苦しくなる程の暖かな陽射しが、何だか笹木を思わせた。
■─風運び □秋 (2004/09/01(Wed) 14:08:53) そよそよと秋の風に誘われて、わたしは中庭のベンチに腰掛けた。 うーん、と大きく伸びをする。 今日はとても穏やかな風がそよぐ日で、木陰の下のベンチには日溜まりが出来ていた。 柔らかな初秋の陽射しを目一杯浴びて、 午後の授業なんか放ってここで昼寝としゃれこもうか、なんて思いも頭を過ぎりながら。 あくびを一つ噛み殺したところで少し離れた木の影に人の気配を感じた。 目だけをそちらに向けると、名前を何と言ったっけ、 けれど何度も見掛けた事のある上級生の姿が目に映った。 すらりと背の高い少年のような出で立ちで、成程、クラスメートが騒ぐのも無理はない。 名前こそ思い出せないものの、 廊下ですれ違う度に友人達が黄色い声を上げていたからよく覚えている、 その人は確かに見知った人物だった。 その姿を初めて見た頃よりも少しばかり髪が伸びたように感じるけれど、 それでも中性的なその風貌に変わりはない。 では今わたしが抱いている違和感はなんだろう。 暖かなまどろみの中で、わたしは彼の人をのんびりと眺めながらもう一度あくびをした。 彼女はベンチに座るわたしの存在に気付く事なく、 ここから少しだけ距離を取った木陰に佇んでいた。 足元に子猫が近付く。 この中庭でよく見掛ける茶色と黒の縞模様の野良猫だ。 足元に擦り寄る子猫に視線を落として、彼女はそのまま屈み込んだ。 子猫を抱き上げ、膝の上に乗せる彼女。 指先で子猫の喉元をくすぐるようにしてあやす姿が微笑ましく、 同時に子猫に向ける柔らかな笑顔に驚いた。 この人はこんな顔をするのか、と。 廊下で目にする度に思っていた。 無表情で淡々としている。 きっと周囲に興味がないんだろうな。 整った顔をしているのは認めるけれど、それ程皆が騒ぐような人物だろうか。 何を映しているのかわからない瞳からは冷たさしか感じた事はなかった。 けれど。 今、わたしの目の前に居るこの人は、穏やかな表情で子猫と戯れている。 少し伸びた前髪から優しい眼差しを覗かせて。 その雰囲気が、笑い方が、これまたわたしが見掛けた事のある上級生の仕草によく似ていた。 しばらく子猫の相手をしていた彼女は、ふとその手を止めた。 「………ん…」 どこか寂しげに、ポツリと漏らした呟きは、わたしには届かなかった。 「ご…め………」 苦しそうに、何度も同じ言葉を繰り返し口にしているように見える。 「………ん…っ」 最後の呟きは、囁きとなって風の中へ消えていった。 子猫もまた、その腕からするりと抜けてゆく。 わたしの前を通り過ぎると、にゃーお、と甘えた声を出して、すぐ近くで立ち止まった。 ふわふわの巻き毛を緩やかになびかせた上級生。 面倒見が良いだとか、優しい上に美人だとか、 クラスメートの話の種にされているので耳にした事もしばしばあったこの人がすぐそこに立っていた。 足元で自身の体を擦り寄せて甘えた声を出す子猫を優しく抱き上げ、目を細めて笑う。 彼女もまた、指先で子猫の喉元を優しく撫でた。 ごろごろと、子猫は気持ちよさそうな声を出す。 「あなたは素直だね…」 ふふふと微笑んで呟いた。 それはどこか寂しそうで。 またぽつり、誰にともなく呟きを落とす。 「人間は面倒臭いから」 やっぱり子猫はごろごろと喉を鳴らしていて。 「素直なのが一番だよね?私も…あいつも」 もう一度漏らしたその時、風に消えた囁きがどこからともなく届けられた。 その囁きは風に乗り、空気を淡く染めてゆく。 ─ごめん。 風はわたしの横を通り抜け、彼女の長いウェーブの髪を撫でていった。 「……ばかだなぁ。素直じゃないんだから…」 どこか可笑しそうに呟くその声には日溜まりのような暖かさが含まれていた。 「でも、あいつらしいよね?」 足元に優しく子猫を下ろすと、柔らかな微笑みを子猫に向けた。 あぁ、さっきのあの人の仕草はこの人によく似ているんだ、今更ながらにそう気付く。 穏やかな瞳も。 柔らかな笑顔も。 雰囲気が変わったと思わせたあの違和感は、あながち気のせいなんかじゃないのだろう。 彼女はもう一度子猫の頭を撫でると、わたしの前を歩いていった。 「かーわせっ、昼休み終わっちゃうよ?」 温かなトーンで木の下に座り込んだ彼の人に声を掛ける。 名前を呼ばれた本人はバツが悪そうに顔を上げた。 二、三、言葉を交わして、緩やかな髪の彼女は終始ふわふわと微笑んでいる。 むすっとしていた彼の人も、つられるようにふっと笑みを浮かべた。 半年間でこうも印象が変わるものかなぁ、と何度目かのあくびを噛み殺していると、 二人連れ立って中庭を後にした。 もうそろそろチャイムの音が鳴り響く事だろう。 甘える相手がわたしだけとなり、 ようやく構ってもらいにやって来た子猫の頭を一度だけ撫でて、わたしはベンチから立ち上がった。 その場で大きく背伸びをして。 目を閉じて、風を感じる。 目付きが悪いとしか思っていなかったその瞳は、けれど、とてもとても綺麗だった。 たまにはこんな日もいい。 こんな日があってもいい。
■2837 / inTopicNo.45)  ─てがみ □秋 ちょと常連(96回)-(2004/09/22(Wed) 12:55:25) ─拝啓 リン様 もうすっかり夏も過ぎて涼しくなってきましたがお変わりないでしょうか?寮の皆は元気ですか? ……なんていうか、手紙って緊張するね。 普段と口調まで変わっちゃう。いつも通りの言葉がなかなか出てこないよ。 おかしいな…。こんなことを書くと、きっとリンは馬鹿みたいな顔してげらげら笑うんだろうけど。 一度リンも書いてみたらわかるよ。 うん、やっといつもの調子が出てきた。 改めまして。あたしは叔父さんの元で元気にやっています。 叔父さんも叔母さんも、すっごく良くしてくれる。 まだ「お父さん」なんて呼ぶのは恥ずかしいけど、少しづつそう思えるようになってきてるんだ。 リンはどう?って言っても、元気だろうなーってことぐらい、聞かなくても想像できる。 なんたってリンの頭は単純思考だからね。でもさ、まだ夏だと思ってお腹出して寝てたら風邪引くよ? あたしみたいな忠告してくれる親切なルームメイトが身近からいなくなったんだからさ。 自分の体は自分で心配しましょう。 いくらリンでも、こう涼しいと床で寝るのは体調崩すんじゃないの? それとも風邪菌の方がリンの体に寄り付かないかな? ……違う。そうじゃない。言いたいことはこんなことじゃなくて。 もどかしいなぁ。うまく言葉が出てこないよ。なんて書いたらいいんだろうね?ごめん、わかんないや。 本当はそれを伝えたくて手紙を書いてるはずなのに。あー…どうしよう。 …そうだ。 ねぇ、リン。お祭りの日を憶えてる?神社の境内で見たあの花火を。 あたしはあの時、「切ない」って言った。花火に向けてね。 もちろんそれは嘘じゃない。 でももしかしたら、本当にもしかしたらなんだけど、あたしの思い出に向けて、だったのかもしれない。 お祭り。花火。それはあたしにとって両親との思い出が一番蘇るもの。 花火を見るとね、父さんと母さんのこと、鮮明に思い出してさ。嬉しいの。嬉しいのに。 あっけなく一瞬で消えるでしょ?そうすると記憶も一緒に散っちゃう気がするの。 だから見終わるとすごくすごく寂しくなったんだ、今までは。 でもね。あの日の花火だけは、リンと見上げたあの花火だけは、違うんだよ。 うまく言えないけど、少なくとも切ないだけじゃなかった。 隣にリンがいた。 一緒に見ていた。 一緒に感じてた。 同じものを。 それだけのことなんだけど。あたしは救われてた。 だからこれからは、あたしは平気なんだ。もう平気なんだよ。花火を見ても寂しくならない。 父さんと母さんのことを忘れられるわけはないけど、きっとあたしはリンを思い出すから。 花火を見たら、リンのことを。 強く、強く。 ありがとう、リン。 最後に一言。 たった半年のルームメイトだったけど、あたしにとってリンはかけがえのない家族だよ。 もちろん寮の皆も。 だけど、やっぱりリンは特別かな。 ……なーんてね。今ドキッとしたでしょ? それとも泣いちゃったかな? このあたしがリン相手にそんなもったいないことを言うわけないでしょー。 騙されたって? 悔しそうなリンの顔が簡単に想像できます。まだまだ甘いね。 さて、書くのもそろそろ疲れてきたのでこの辺で終わりにしたいと思います。 あたしがいないからって淋しがるんじゃないぞ! リンのことだからあたしが恋しくて毎晩泣いてるんじゃないの? …なんて、淋しいのはあたしの方かもしれない。 会いたいよ、リンに。 これだけ手紙にしても、話したいことが次から次へと出てくる。 いっぱいいっぱい伝えたいことがあるよ。 リンの顔を見て、リンの声を聞いて、ちゃんとしたあたしの言葉で話をしたい。 決めた! 会いに行く。 思い立ったらすぐ実行するのがあたしだからね。 リンも、そんなあたしの性格を知ってるでしょ? 呆れてる?ううん、嬉しくてしょうがないはず。 リンもあたしに会いたいに決まってるから。 今すぐリンに会いに行きます。 この手紙が届く頃には────… 夏休みの終わりと共にこの部屋を去ったルームメイトからの手紙を読んでいる途中で、 ─バタン! 乱暴に部屋のドアが開かれた。 こちらに一歩、踏み込む足音。 その傍若無人な気配の主を、私は誰かと気付いていた。 読んでいた手紙を静かに折り畳み、封筒に丁寧に戻し入れ。 ゆっくりとした動作で後ろを振り返る。 視線の先には予想通りの人物。 私を見ると邪気なく笑う。 その笑顔を、私はよく知っていた。 彼女に掛ける第一声。 何を言えば良いのか、考えずとも私にはわかっていたから。 ごく自然に、するりと言葉が口からこぼれた。 そう、満面の笑顔を添えて。 ただいまを言う君より早く。 「おかえり、エーコ」
■─closer and closer □秋 (2004/09/22(Wed) 12:56:30) あの頃は下ばかり向いていた気がする。 教室で、廊下で、寮の中でさえも、誰とも視線を合わせたくはなかった。 見上げたとしても睨み付けるように相手を見ていた。 時折、窓の外の雲を眺めた。 季節の移り変わる度にその葉の色を染めてゆく木々も。 人の顔は…別に見たくなかった。 だから、下を向いていた。 何となく身を置いてしまっているこの空間はとてもとても甘ったるく、 自分が異質な存在である事くらい容易に気が付いてしまった。 頑なに他者を拒む。 頑なに孤独を選ぶ。 いつでもこの場から抜け出せるようにと。 そんな風に身軽で居たい。 なのにあいつはこう言った。 『川瀬さん、私と同室にならない?』 何言ってんだこいつ、と思った。 『一人の時間も大切だけど、皆でわいわいやるのもきっと楽しいよ』 馬鹿じゃねーのこいつ、と思った。 けれどそいつの優しさに、あたしは随分生きやすくなった。 心が、解けてゆく。 身が、溶けてゆく。 そんなまどろみの中で頑なだったあたしは少しづつ少しづつ埋もれていったんだよ。 あんたの……笹木の、お陰で。 ぱたん、と。 分厚い本が閉じられる音がした。 あたしはうっすらと目を開ける。 どうやらうとうとしていたようだ。 懐かしい夢を見た。 内容は…覚えていない。 ふぁぁ〜と間抜けなあくびをすると、机に向かっている笹木が首だけでこちらを見た。 「…起こしちゃった?」 申し訳なさそうに眉尻を下げる笹木。 あたしは無言で首を横に振る。 笹木はほっとしたような微笑みを浮かべ、すぐに怪訝そうに眉をひそめてあたしを見た。 「……川瀬?」 「ん?」 「何で凝視してるの?」 無意識に、あたしは笹木の顔をまじまじと見つめていた。 何だか照れ臭くなって、「別に」そう小さく言い捨てると、ぷいっと顔を背ける。 そこで先程の夢が引っ掛かった。 このお節介のルームメイト。こいつの顔がぼんやりと浮かんで、少しだけ夢に出てきた人物と重なった気がした。 また笹木を見る。 さっき閉じられた分厚い本の正体は辞書だったらしい、 きっとご丁寧に明日の授業の予習、あるいは今日進んだ所の復習でもしてんだろう、笹木は机に向かって奮闘中だった。 ぼんやりと、何も考えずただぼんやりと笹木を眺める。 よくよく考えると、このあたしが一年以上も赤の他人と共同生活なんか続けられているのが不思議で堪らない。 人嫌いのあたしがよくもまあ寮なんて狭い空間で集団行動できるものだと、考えれば考える程に可笑しな話だ。 なぁ。 あんたはわかってんの? その要因、この場合は原因か? どっちだっていい。 あたしにとってあんたの存在が大きいんだろう。 自分で思う以上に。 あんたが思う以上に。 枷。 ──…いや、違う。 だけどそんなようなもんだろう。 笹木はあたしの枷なんだ。 身動きが取れなくなるわけじゃない。 足止めなんてものじゃない。 お前の居場所はここなのだと、不安定なあたしに根を与えてくれるような。 そんな、優しい枷。 そんな事を思っているとくつくつと笑みが込み上げてきて、 自然と微笑むようになっている自分に少しの違和感を覚え眉をしかめた。 あんたの影響力は大したものだよ、と。 口角をちょっとだけ上げてみたら。 「……川瀬、変」 見慣れた顔があたしの事を覗き込んでいた。 驚きの余り声が出せず口だけをぱくぱく動かすあたしを尻目に、笹木は不審そうにあたしを見やる。 「さっきからニヤニヤしたりしかめっ面したり、普段はすごく無愛想なくせにどうしたの?」 笹木が机を離れてあたしの目の前に来ていた事すら気付かずに、あたしは思索に嵌まっていたらしい。 何とも恥ずかしい所を見られたものだ。 けれどそんな気恥ずかしささえ、昔ほど不快には感じなくなった。 あたしは。 あたしはここに居続けていいのか。 この変化はあたしに何をもたらす? 確かに、消えてしまいたいと強く切望したり、抜け出そうと画策したり。そう思う事は今では随分少なくなった。 けれど。 馴染んだとはいえ完全には溶け込む事の出来ずにいるあたしがいる。 時々ふと過去のあたしのように自分を異質だと感じる事はある。 だから戸惑いが隠せない。 変わりゆくあたしに。 こんな事を考えているとまたおかしな表情をしてしまうだろう、笹木が余計に不審がるなと、そう思って顔を上げようとした時。 突然、あたしのシャツの裾がぎゅっと掴まれた。 見れば笹木が右手でそこを握って、やはり顔はあたしを見ていた。 眉をひそめて「なに?」と首を傾げてみせる。 笹木はさっと目を背けると、視線を下へと落としてしまった。 「………だから」 囁きのようなその声を聞き取る事は出来ず、あたしは更に眉根を寄せた。 見上げるようにして顔を上げた笹木の瞳はいつになく真剣で、 こちらが吸い込まれるんじゃないかっていうぐらいの気迫であたしの目を覗き込んだ。 「いるんだから」 吐き出された一言に、意味がわからずキョトンとするあたし。 笹木は大きく息を吸い込むと、あたしのシャツを掴む手に少しだけ力を込めた。 「川瀬はいるんだからね!」 またあたしはキョトンとして。 力説している事に気恥ずかしくなったのか、はたまた一人で暴走している事に気付いたのか、 笹木はぱっとあたしの裾を離し、決まり悪そうに目を逸らした。 「その…川瀬がどこか行っちゃう気がして」 はぁ?と、あたしは間抜けな声を上げる。 「何だか川瀬はふらふらしてて、目を離すとすぐにどこかに行っちゃいそう」 あたしは黙って聞いていた。 「今だって。よくわからないけど…ふらっと出てっちゃってそのまま帰ってこないんじゃないかって思った」 「……いつもそんな事思ってんの?」 「いつもじゃないけど…時々、すごく」 あたしは面倒臭そうに息を吐いた。 がしがしと頭を掻く。 心配症のルームメイトの柔らかな髪を一房だけ摘み上げて。 視線をそこに落とす。 「行かないよ」 「…え?」 「どこにも行かない」 指先で弄ぶ髪から視線は外さずに、素っ気なく言い捨てる。 「あたしは黙って消えたりしない」 髪の毛先を摘み上げたあたしの手に、すっと温かな手の平が添えられた。 ふと、笹木を見る。 すぐ近くにその見慣れた顔はあって、いつも以上に優しい表情をした笹木がそこに居た。 その距離に何だか照れ臭くなって、けれど顔を逸らす暇を与えない内に、ゆっくりと笹木は口を開く。 「川瀬はいるんだよ、ここに」 さっきの言葉をもう一度、確かめるように紡いだ。 説明されるまでもなく、あたしはその言葉の意味がわかっていたから。 「……うん」 案外素直に返事をして、やっぱり恥ずかしさから顔を背けた。 わかってる。 ちゃんとわかってる。 心の中で呟き、逸らした顔を元に戻して笹木に声を掛けようとしたら、先に笹木が口を開いた。 「茜がね、今日お茶会やるからって。川瀬も…行こう?」 茜、という名前にわずかながら顔をしかめ。 はぁぁと長く息を吐いた後、「…ん」と答えた。 笹木は驚いたように目を見開いたけれど特に何も言わず、すぐにいつも通り柔らかく微笑んだ。 「じゃあ行こう!」 素早く立ち上がってあたしの前に笹木は手を差し延ばす。 あの時と変わらずに差し出されたその手を、あたしは拒む事なく受け取った。 ゆっくりと立ち上がり、掴んだ手をそのままにして。 あたしと笹木は二人並んで部屋を出た。 数分後には宴会さながらのドンチャン騒ぎの氷野の部屋。 いつものように氷野はあたしにつっかかってきては笹木が呆れ顔でそれを眺める。 寮生達はその光景を見世物よろしく笑って見てて。 うんざりだ。 煩わしい。 …だけど。 嫌じゃない。 嫌じゃないから。 あたしはきっと溜め息交じりに苦い苦い笑みを浮かべているのだろう。 それでも笑顔に変わりない。 ここはとてもぬるくて、時に熱くて、あたしは火傷してしまいそうになる。 けれどもそんな痛みさえ心地良い。 困った事に。 何となく居着いてしまったこの場所は、もはや愛おしくて仕方ないのだ。 居るということ。 要るということ。 わかってる。 ちゃんとわかってる。
■─わがままジュリエット □秋 (2004/10/20(Wed) 10:08:20) 夏休みが終わって。 二学期も一月以上経過中。 今まさに。 学校内は二学期最大のイベントである文化祭が目前に迫り。 そのお祭りムードが高まりを見せる中で。 私は一人、不機嫌だった。 「詩絵?」 先程から机に向かって何やら作業していた唯ちゃんは、その手を止めてこちらを振り返った。 「なんて顔してんの…」 ぶすっとしている私を見て困った顔をする。 「何でそんなに機嫌が悪いの?」 困り顔で溜め息をつく唯ちゃん。 機嫌が悪い事はわかるくせに、その理由にまでは至らないなんて。 本当に。この人は頭が良いのに抜けている。 「だって…唯ちゃんてば、夏休み中は夏期講習だの生徒会だのしょっ中学校に行ってたから、全然構ってくれなかったでしょう?」 だけどね?それはいいのよ。 唯ちゃんは受験生。 私は二の次で勉強が優先されるのも、我慢しなきゃならない事だって私にも理解できる。 しかも生徒会長なんて肩書きも持ってるし? 生徒会の仕事があるなんて言われたら、そりゃあ会長なしで話が進むわけないもの、黙って送り出すしかないじゃない。 そんなこんなで夏休みは終わって。 日曜日。 家に居るというから久しぶりに唯ちゃんの部屋へ訪れたら、さっきから私に背を向けひたすら作業。 ベッドに座ってクッションを抱きしめていた私はただ黙ってその後ろ姿を睨み付けていた。 視線が痛かったのだろうか。 鈍感な唯ちゃんもようやくそれに気付いて。 「詩絵?」 やっと私を振り返ったというわけだ。 私は口を尖らせながら。 「…さっきから何してるの?」 声を低くして問う。 「あぁ、これ?文化祭の台本」 はにかみながら手の物を私に見せた。 「最近ばたばたしてるからね。読める時に読んどかないと」 練習も佳境に入ってるし、そう言って再び厚めの冊子に視線を落とす。 そう。 唯ちゃん率いる生徒会は、今年舞台劇をやると言う。 文化祭の運営でそんな暇なんてないんじゃないの? そんな事を聞いたら、実質取り仕切るのは文化祭実行委員会なるものらしい。 生徒会はあくまで裏方であり、サポート役。 例年ならば生徒会役員は各々実行委員を手伝いながらクラスの方に参加するのだそうだけれど、 今年は生徒会として出し物をする事になったと聞かされた。 唯ちゃんはとても乗り気で、やけに力を入れている。 私をほったらかしにするくらいに。 でもね? それもまだいいの。 だって、唯ちゃんにとって高校生活最後の文化祭だから。 それも今まで頑張ってきたメンバーと参加できるのなら唯ちゃんじゃなくても張り切るでしょう? 問題は。 「……詩絵。だからさっきからどうしたの?怖いってば…」 呆れたように私を見る唯ちゃんに気付かない振りをして、私は唯ちゃんの手から台本を取り上げた。 その表紙に目を向ける。 『ロミオとジュリエット』 ページをめくるとキャスト名がつらつらと並んでいる。 そうなんだ。 よりによって。 よりによって! ……唯ちゃんは、ロミオなのです。 役名を唯ちゃんから聞いた時はあからさまに嫌な顔をした。 主役を生徒会長にやらせるという安易さに。 それ以上に、ますます唯ちゃんが注目されて遠くに行っちゃうような心細さから。 それでも、嬉しそうに稽古に励む唯ちゃんにそんな事を言えるわけがないじゃない。 言えないからこそ態度で示してみたところで、鈍感なこの恋人は気付かない。 「詩絵ぇ、台本返してほしいんだけどなぁ」 困ったように目尻を下げて笑う唯ちゃんを無視して、私は台本に目を通した。 「卑しいこの手が貴方を汚しているのなら、今こそ私の唇という名の巡礼を以てぇ?キザー…」 うえー、と舌を出して顔をしかめる。 唯ちゃんもただ苦笑していた。 こんな恥ずかしい台詞をよくもまあペラペラと言えるものね、と。呆れたように台本の文字を眺める。 だけどこんな言葉も唯ちゃんが言えば嫌味なく、憎たらしい程にはまるんだろうなぁ…。 ぼんやり考え。 あ。 はっとする。 「───ってゆーか…」 「詩絵?どうしたの?」 唯ちゃんはロミオだ。 という事はつまりそういう事だ。 「これ!この説明書きのとこ!ロミオはジュリエットの手の甲、手首、腕と、順に唇を落としていく、って…唯ちゃん、やるの!?」 「えーと…振り、だけよ?」 「振りって言ったって至近距離まで口を近付けるんでしょ?相手がちょっと動けば触れるじゃない!」 ははは…、困ったように笑うだけの唯ちゃん。 そんな彼女を尻目に、 「他にもそういうシーンあるんじゃないでしょうね?!キスシーンの一つや二つ、あるに決まってる!」 そうまくしたて、私は台本をがーっとめくった。 ぱらぱらぱらぱら読み進めていき。 ふと、あるページで目が止まった。 じっとその文字に目を落とす。 ─あぁロミオ。貴方は何故ロミオなの? 有名な一節。 この話の全貌を知らなくても一度は耳にする言葉。 ─私はただのロミオです。 貴方が望むというならば、家の名など捨てましょう。 …ジュリエットが羨ましかった。 身分も、名前でさえ、全てを捨てて愛されるなんて。 例え結末が悲劇だとしても、やっぱりどうせならここまで愛されたいと思う。 ずっと押し黙って同じ一点を見つめている私を不審に思ったのか、 唯ちゃんはベッドに腰掛ける私の隣に座って「詩絵?」と、顔を覗き込んだ。 「何で泣いてるの…」 彼女に言われてようやく気付く。 頬を濡らす熱さに。 唯ちゃんは私の目元を優しく拭った。 そしてゆっくりと私の手から台本を抜き取る。 ぱらりと紙のめくられる音がしたかと思ったら、すっと、私の隣から唯ちゃんが立ち上がる気配を感じた。 私はそれが心許なくて、例えベッドから勉強机に移動するだけだとしても心許なくて、 縋るように見つめたけれど声はどうしても出てくれはしなかった。 だけど。 唯ちゃんはは立ち上がっただけで立ち去りはせずに。 離れる事もなくて。 くるりと私の正面に向き直ると、片膝をついて、恭しく私を見上げた。 涙でぐしゃぐしゃな私の顔を穏やかに見つめながら、唇を軽く開く。 「もしも貴方が望むなら、私が纏う一切の肩書きなど、惜し気もなく捨てましょう」 そして、私の手を取って甲に口づけ、にっこりと微笑んだ。 生徒会長という地位も。 憧れの先輩なんて名誉も。 私の為に捨ててしまって、ただのロミオになると言う。 ちょっとの間、呼吸が止まって。 すぐに、そんなものはいらないと、少し怒ったように言ったら、 案の定唯ちゃんは困ったように微笑んだから、 膝まずく唯ちゃんのおでこに口づけをひとつ落として耳元で囁いた。 一瞬キョトンとした唯ちゃんは。 「そうだね、それがいい」 すぐに瞳を目一杯細めて、可笑しそうにくつくつと笑った。 生徒会長という地位も。 憧れの先輩なんて名誉も。 私の為に捨ててしまって。 そう、詩絵のロミオになればいい。
■─散歩道 □秋 (2004/11/10(Wed) 10:20:27) 秋も終わりに近付き。 冷気を帯び始めた空気は、けれどもとても澄んでいて心地が良い。 肌を刺激する、このぴりぴりとした感触が、私は好きだった。 「すっかり暗くなっちゃったね」 前を歩く笹木が振り返りながら言う。 「だから寮の近くのコンビニにしようって言ったんじゃん。わざわざ離れたとこ行かなくてもさー。陽沈んじゃって寒いし」 私はわざと素っ気なく、あー寒い寒いと身を縮こまらせて軽く笹木を睨んだ。 笹木はちょっと困ったように笑ったから、すぐさま私は「冗談だよ!」おどけて笑った。 じゃんけんに負けて買い出し係に任命された私と笹木。 夕食後の寮生達のおやつの調達だ。 ちょっと先のスーパーでプリンだのヨーグルトだの、頼まれたものを買い込んだ後にはすでに陽はとっぷりと暮れていた。 街灯の明かりに晒されて、笹木とふたり、夜道を歩く。 七時を少し回った頃だというのにこうも真っ暗になってしまうとは、と。 空を見上げて改めて思いを巡らせた。 「茜」 掛けられた声に、ふと立ち止まる。 見れば、数歩後ろに笹木の姿。 ぼんやり歩いていた私は、いつのまにか前を行く笹木を追い越していたらしかった。 「なにー?」 そこに立ったまま声を投げる。 笹木はゆっくりとした足取りで私の方へと近付いてくると、目の前で歩みを止めて悪戯っぽく微笑んでみせた。 「こんなにいい夜だもの。遠回りして帰らない?」 いつものようにふわふわと笑いながら、そう笹木が言うから。 へらっと笑って「そだね」と返した。 私と笹木。 ふたりの影が街灯の下で伸びる。 行きとは違う道を辿りながら、真っ直ぐに伸びる。 素敵な素敵な夜だから。 回り道をしようじゃないか。 せめて今宵限りでも。 「ねぇ」 声を掛けた私に、「なあに?」ゆっくり笹木は振り向く。 「手、繋ごっか」 一瞬間の後。 ふふっと笑う笹木。 柔らかな声。 「それは楽しそうね」 すっと、私の手が取られ、笹木は歩き出した。 つられて私も歩き出す。 ふたつの影が並ぶ。 ふたりの肩が触れる。 わざとらしくぶんぶんと繋いだ手を振ってみたりして。 それもちょっとばかり鼻歌交じりで。 「楽しいね」 「うん、楽しいね」 笹木も笑う。 冷たい空気に目を細める笹木をちらりちらりと時折横目で覗き見て。 堪らない想いを吐き出す代わりに白い息を吐いてみた。 「もう息が白いね」 笹木も私に倣って吐息をひとつ。 「秋なんてあっと言う間に終わっちゃう」 大袈裟に溜め息をついてみたらやはりそれも白くて。 「川瀬には辛い季節だわ」 相変わらずのゆっくりとした口調で笹木は言った。 その白を、一瞬私が飲み込んだ事に、きっと笹木は気付いていない。 「寒いの嫌いだから。朝、布団からなかなか出てこなくなるわ」 それでなくても朝は苦手なのに、と。くすくす笑う。 私は。 私は…。 「放っときゃいいんだよ。遅刻したって自業自得」 いつものように鼻息を荒げて悪態をついた。「もう…茜ってば」 ほうら、ね。 やっぱり笹木は困り顔。 いつものように。 そう、いつものように。 堪らない。 切なくて切なくて堪らない。 「川瀬の話なんてやめやめ。いい加減寒くなってきたし、そろそろ寮帰ろ?」 へらっと笑えば、 「そうね」 今までのやり取りを忘れたようにふわりと笑みが返ってくるのだ。 寮への道に足を向け、ふたつの影は進み出す。 前を見ている笹木の視線を確認して、私は小さく息を吐いた。 溜め息と言うには弱々しく、吐息と言うほど切なくはないけれど。 気付かれないように小さく小さく息を吐いた。 こんな気持ちで吐く息も、やはり変わらず白かった。 肌を刺すひんやりとした空気と、温かな笹木の手。 今だけは、さ。 そう、今だけは。 笹木の隣に居るのは私だから。 もう少し。 もう少しだけ遠回り。 冷たくなった指先に少しだけ力を込めたら、笹木はふふっと微笑んでその手を握り返してくれた。 絡めた指も、笹木の笑顔も、全部全部今だけは。 頬を撫でる風は、やはりぴりぴりと肌を刺激した。 やるせない想いも。 切なさも。 寂しさも。 吐く息の白さと一緒だ。 きっと、一緒だ。 寒さがみんなそうさせる。 冬はもう、そこまで来ている。
■─祭りの後 □秋 (2004/12/03(Fri) 08:45:41) これは一月ほど遡った話になるのだけれど。 文化祭が盛況の内に幕を下ろし、興奮も少しずつ落ち着いてきた10月も半ば。 私の出番だとばかりに「その日」はやってきた。 そう、足に自信のある私が唯一存在を示せる場。 「千津っ!とうとう次だね!リレー!」 入場門で出番を待つ私の元に美咲が小走りで駆け寄ってきた。 体育祭は順調にプログラムを消化してゆき、残るはトリを飾る組別対抗リレーのみ。 私はちらりと彼女を一瞥し、また視線を足下へと戻した。 大きく息を吸って、肺に溜まったそれを、また少しずつ吐き出して。 「ちょっと…緊張してるかもしれない…」 ぼそっと呟くようにして漏らした。 目の前にはリレーの為に召集された選手達が出番が来るのを待っている。 各学年、各クラスから選び抜かれた精鋭揃い。 運動部のスター達だ。 ある一人の姿を目の端に捕らえると、私はまた息を吐き出した。 「…茜ちゃんもアンカーだっけ」 私の視線の先を同じように見つめて、美咲も呟く。 私は彼の人から視線を外し、俯き加減に頭を掻いた。 「怖い?」 と。 唐突に美咲がそんな事を問うから。 はっとして顔を上げると。 「怖い?茜ちゃんと走るの」 美咲は、今度は私の目をしっかりと見て言った。 しばらく視線を宙に彷徨わせていた私は、ゆっくりと瞼を閉じて。 「………うん」 言葉を落とした。 足には自信がある方だ。 むしろ武器と言ってもいい。 中学の頃は陸上部のエースだった。 地区でもなかなか名の知れた選手だったし。 私の足は無敵だった。 けれど。 此処には。 この高校には茜がいた。 氷野茜が。 私は自分の前を走る背中を見た事がない。 見た事がなかった。 彼女を知るまでは。 「陸上部に入ってから二年間、茜に勝てた事ない…一度も抜かせた事ないんだよ…」 目を閉じたまま、息と共に吐き出す。 「私はずっと二番だ…それでも最近はタイムが伸びてきたし、調子もいい。  だけどさ、やっぱり本人を目の前にすると足が竦む───っ?!」 言い終わらない内に、私の両頬にバシッという小気味良い音と共に痛みが走った。 何事かと慌てて目を開けると、美咲が両手で私の顔を挟んでいる。 痛いだろ!何するんだっ!そう文句を言ってやろうとしたら、美咲はにっこり笑って。 「目、醒めた?」 あ。 あぁ…。 「千津はうちのクラスのアンカーなんだからねっ!なーに弱気な事言ってんの!」 そうだね。 そうだった。 「それにさ、これはいつもの短距離走じゃないんだよ?  前の人が遅ければいくら茜ちゃんでも千津に追いつけないかもしれない」 私はふっと笑みを漏らして。 「その言い方だと最初から私が茜に勝てないみたいだ」 言うと、美咲は「あ」と声を上げて照れたように笑った。 「勝つよ。今日は勝つ」 私の頬を包む美咲の手に自身の手の平を添えて、確かめるようにして言う。 嬉しそうに美咲はへらっと笑って。 「私、体育祭の実行委員でしょ?実はリレーのゴールテープ係なんだよねー」 手に力を込めて、さらに強く私の頬を挟んだ。 瞳を覗き込むようにしながら。 「だから、ね。一番に来て。待ってるから」 すっと手を頬から離すと、「そろそろ始まるね」言いながら距離を取る。 「テープ、切ってね」 答える代わりにVサインをしてみせると、美咲はにかっと笑って係りの方へと走っていった。 これが、そう。忘れもしない一月前。 体育祭の日の事だった。 「あーぁ…」 私は中庭のベンチで力無くうなだれていた。 あの日からずっとこんな感じ。 気付けば溜め息ばかりが先に出る。 「まーたこんなとこでだらだらしてるし」 頭に降ってきた呆れた声に顔を上げると、美咲がやはり呆れた顔をして立っていた。 そのまま私の隣に腰掛ける。 「まだ気にしてるの?」 私はそっぽを向いた。 構わず美咲は更に追い打ちをかける。 「まぁ気持ちはわからなくはないけどね。ゴール手前で派手にすっ転んじゃ立場ないし?」 …そう。そうなのだ。 各組共、抜きつ抜かれつの均衡した勝負。 その中でも私の組と茜の組が激しくトップを争っていて。 アンカーの手前の時にとうとう私の組がトップへと躍り出た。 バトンを受け取った時点での茜との差は僅かだったけれど、その僅かな距離が大きい事も、それが意味するものも、私も茜も知っていた。 いける! そう確信していた私の足はいつも以上に軽やかで。 力強く地面を蹴る。 ゴールは間近。 テープが見える。 美咲が見える。 後ろに迫った茜の気配ももはや気にならない。 この差は埋まらない。 この距離では抜かせない。 いける! 息を弾ませ、もう一度そう強く思った時。 「あ?」 随分間抜けに発せられた自身の声と共に世界が反転した。 そしてすぐに歓声が上がる。 きっと茜がゴールしたのだ、と。 自分の状況を飲み込めないまま、急速に頭の中は冷えてゆく。 早い話が。 足がもつれて転んだようです。 「もうすぐゴールって時にあれはないよねー」 私の髪をぐしゃぐしゃと掻き上げながら、美咲はにやにやと意地悪く笑う。 反論する気も起きず、私は無言でその手を払いのけた。 「ちょっとー。本気で落ち込んでんの?」 「…………」 「そりゃあさ?初めて茜ちゃんに勝てたかもしれないわけだから残念に思うのはわかるけど…もう一ヶ月前の事だよ?」 私は身動きすらせず、無言を貫いていた。 そんな様子にさすがに苛立ったのか、美咲はあの日のように私の顔を両手で挟んで無理矢理自身の方を向かせた。 「何そんなに落ち込んでんのっ?たかが体育祭じゃない!  会とか記録会とかで負けたってそんなにへこまないじゃん、普段は。  この先だって勝つチャンスはあるじゃん!それなのにうじうじしちゃってイライラするなぁ、もうっ!」 あ。と、思った。 不思議そうに彼女をしげしげと眺める。 そんな私を不審に思ったのか、「何よ?」訝しげに美咲は言った。 「もう一回言って」 「え?」 「さっき言ってたの。もう一回」 「うじうじしてるのがイライラするってやつ?」 「違う、その前」 「たかが体育祭じゃない…?」 そうだよ。 たかが体育祭だ。 そりゃ負けたのは悔しいし、やっぱり勝ちたかったけれど。 大会や記録会でさえも普段ならここまで固執しない。 じゃあ……何で? 首を捻っている私を見て、わけがわからないというような顔を向ける美咲。 やがてぱっと私の顔から手を離すと、前に向き直って軽く息を吐いた。 「私もさ…千津に一番にテープ切ってほしかったけど」 その瞬間、勢いよく美咲を見る。 何?と、美咲は怪訝そうに眉をひそめた。 そっか。 そっか、そっか。 茜に勝てなかった事が悔しかったんじゃない。 最後の最後で転んだ事に落ち込んでいたんじゃない。 私は。 私が一番に美咲の待つゴールに飛び込みたかったんだ。 なーんだ。 そーゆー事。 そーゆー事か。 「にやにやして変…」 目の前の美咲は明らかに気味悪がっている。 でもいいんだ。 このもやもやの理由がわかったから。 …理由が、わかったから? 一位じゃないのが悔しいんじゃなくて、「美咲の元に」一番に行けなかったのが悔しい? 美咲が一番で来てねって言ったから。 美咲が待ってるって言ったから。 だから。 だから私は。 それって。 それって…。 あぁ、もう。 「ねぇ…千津?今日ほんとにおかしいよ?」 心配そうに尋ねる美咲に、 「ゴールは遠そうだよ…」 私は半ば投げ遣りに、そう呟くしかなかった。 気付いてしまったからには。 もう… 後の祭りだ。
■─たいおん □秋 (2005/05/31(Tue) 10:27:07) 日曜日はご飯が出ない。 そんな事は寮に住む者として当然の事なので、 今日もいつものように寮生達と日曜の正午に昼ご飯を食べに外へ出て、誰もいないはずの部屋へと戻りドアを開けたら。 彼氏とデートと言って朝から出掛けていた同室の彼女が入り口に背を向ける格好で体育座りをしながらそこに居た。 背中を丸めた彼女を見て、あぁまたか、口には出さずに内心呟く。 こんな時、同室というのは何とも忌々しいものだと思う。 知らなくてもいい事や知りたくもなかった事を、こちらの都合もお構いなしに伝えてしまうから。 そしてそれは私にはどうする事も出来ないのだと、改めて気付かされてしまうから。 今度は何? 喧嘩? 別離? どっちだっていい。 私は無言で彼女の後ろまで歩み寄ると、くるりとその場に背を向けて座り込んだ。 背中越しにぴくりと動く気配を感じて。 「そんなとこに座り込まれちゃ邪魔なんですけどー」 声を掛けた私に、 「……うっさい」 掠れ声で返しながら、彼女は私の背に自身の背を預けた。 背中合わせの二人の間にわずかな熱が宿る。 しばらくの無言の後。 「……浮気」 ぽつりと呟く彼女。 「…浮気してた。向こうが」 私は黙ってその震える声を聞く。 「でもわたしにも悪いとこはあったのかなぁって」 へへへと、弱々しい笑い声を上げる彼女に、はぁぁぁぁと大袈裟に溜め息をついてみせた。 「ちょっとぉ。人が真剣に話してるのにっ──」 「だって」 そんなの。 そんなのさ。 言われなくてもわかってるから。 「あんたが浮気するわけない」 言うと、「へ?」彼女は間抜けな声を上げた。 構わず私は続ける。 「喧嘩も別れも、いつだってあんたに非はないじゃんって言ってんの。それでいちいち落ち込んでさ」 何だか今日は饒舌だ。 顔を合わせていない分、余計にかもしれない。 蓄積された日頃の言葉が口から飛び出て止まらない。 「どうせこっちも悪かった、なんて笑って許したんでしょ。  手の男もバカだから、あんたが大して怒ってないって安心して?結局また同じ事繰り返すんだ」 そう同じ事の繰り返し。 あんたは涙すら見せず。 相手は痛くも痒くもない。 「それで部屋で泣いてちゃ世話ないよ」 私は憤慨して言った。 「寛容なのはあんたの美徳だけどね、あんたの悪いとこは男を見る目が皆無だって事だ」 ふんと、鼻を鳴らす。 「何でそんなに怒ってんのよ…」 呆れ声で問われたから、 「室内でいじけられたらこっちまで湿っぽくなるっての。てゆーか、あんたがそんなんだから私が苛つくのっ」 傷つくのはいつでも、あんただから。 私の言葉が言い終わっても。 彼女は何も言わない。 ちょっと言い過ぎたかな、と。 口を噤んで彼女の出方を待っていると。 「ありがと」 すんと鼻を鳴らしながら彼女は漏らした。 その言葉に、眼の奥がジクリと痛む。 けれど。 負けず嫌いの私の頬をその熱さが濡らす事もなく。 「ばーか」 いちいち男の事くらいでへこまないでよね、そんな軽口を叩いてみるだけ。 「ひどーいっ」 彼女は憤慨したような声を上げたが、けれど背中は楽しそうに揺れていた。 相変わらず立ち直りの早い奴…と、ぽつりと呟いてみると、それが聞こえたのかそうでないのか、 「もうちょっとだけこうしてていい?」 そう言って彼女は、預けた背に少しだけ体重を加えて私に寄りかかった。 あったかいねと、彼女の安堵の息が聞こえ。 私は彼女に聞こえないようにこっそりと息を吐いた。 抱き締める事も、手を握る事さえしない。 これが今の、一番近い二人の距離。 背中越しに彼女の体温を感じながら、そう思った。
■─恋だとか、愛だとか、 □秋 (2005/05/31(Tue) 10:28:21) 今日は部活が休みだった。 だから帰りのホームルームが終わると、あたしはゆっくり教室から出てたらたらと廊下を歩いていた。 靴を履き替えたあたしはのろのろとした足取りで校門をくぐる。 久しぶりの休みだ、夕飯の時間まで部屋で寝てよう、 そんな事を考えつつ寮までの道を辿っていたら少し先に見慣れた背中が見えた。 その同室の相棒に声を掛けようとして、すぐにそれをやめる。 彼女の側には見知らぬ男が立っていた。 何やら話をしているらしくて、あたしが近くまで来ている事にどうやら気付いていないらしい。 そのまま通り過ぎてやろうとして。 しょうがないよね、こんな往来で話なんかしてんだから。嫌でも耳に入っちゃうってば。 「いつもこの道で見掛けてて気になってた。……好きです」 搾り出された声が意識せずとも耳に届いて。 歩みを止めた。 そのままゆっくり彼女とその向かいに立つ彼を見る。 「ごめんね、私あなたの事知らないから」 にっこり笑って一刀両断。 こいつは可愛い顔していつもこうだ。 彼の方はというと、がっくりうなだれておぼつかない足取りでよたよたとその場を去って行った。 足止めを食ったなぁ、と小さく呟いて歩き出そうとする彼女に、 「相原」 あたしは声を掛けた。 すぐ側にいた事に驚いたのか少しばかり目を丸め、すぐに「夏目だー」あたしへと笑顔を向けた。 「また告られてたの?」 二人並んで歩きながら先程の出来事を聞いてみる。 「んー…そうみたいー」 相原は独特の間延びした声で笑いながら答えた。 「そうみたい、って。あんたねぇ」 呆れるあたしに、「んー?」笑いながら首を傾げる。 こーゆー仕草に男は弱いんだろうな、と。 男じゃないあたしも毒気を抜かれた。 「大体さー、よく知りもしないのに告白されても、ねぇ?」 胸元で揺れるふんわりとした巻き毛を指先に絡めながら、隣を歩く相原は言った。 「知ってりゃいいの?」 何の気なしにあたしは返す。 「そーゆーわけでもないけどぉ…」 ぷうっと頬を膨らませる相原を横目で見ながらあたしは言葉を続けた。 「それ以前に告白の台詞が問題だよ。好きだの何だの、ありきたりな言葉使ってさ。個性がない」 そんなあたしに相原は悪戯っぽく微笑んだ。 「ふーん…随分辛口だねぇ。じゃあ夏目だったらどう言うの?」 「あたし?」 あたしだったら……。 ふと、一考して。 おもむろに目の前の相原の手を取る。 彼女は「何?」とあたしの顔をしげしげと見つめ、あたしはその瞳の奥をじっと覗き込んだ。 そして。 「あなたしか見えない」 「………」 「………」 「………」 「………」 道端で無言のまま見つめ合う奇妙な女子高生が二人。 沈黙が続く中、 「………ぶっ」 相原が吹き出した。 そのままけたけたと笑いながら、 「いい!それいいっ!採用!その使い古された感漂う手法がむしろ新鮮ってゆーか。斬新過ぎるぅっ!」 腹を抱えて笑う相原を横目で見やりながら、「…そりゃどうも」言うと共に軽く息を吐いた。 その笑いは収まる事を知らないのか、隣で相原は未だにひーひー言っている。 目に涙まで浮かべて。 「そんなに面白かった?」 呆れ気味に訊ねると、 「うんっ」 満面の笑顔。 まぁ、いっか。 あたしも少しだけ頬を緩ませる。 そしていつまでも笑い転げている彼女の腕を取って、「さっ、帰るよ」帰路を辿ったのだった。 「そう言えばさー、あの時妙に感情こもってったよね。この芝居上手ぅ!」 不覚にもドキッとしたよー、ぐっときたね、そんな事を相原が思い出したように言って。 「だって演技じゃないし」 それにあたしがさらっと返して。 「………え?」 絶句する彼女を尻目に、 「あたしはいつでも本気だよ」 にっこり笑ってそう付け加えてやったら、普段人を食ったような彼女が珍しく顔を赤らめて口を噤んでしまったというのはもう少し先の話。
■─Cl □秋 (2005/05/31(Tue) 10:29:14) つん、と。 鼻先を掠めた消毒液の香りに。 私はうっすらと目を開けた。 無機質な白い天井が見える。 ごろんと寝返りを打ち、そのままベッドから降りて踵の履き潰れた上履きをつっかけた。 どうやら保健医は外出中らしい。 授業に戻ります、そんなメモ書きを机の上に残して、私は保健室を後にした。 「八重ぇー」 教室に戻った私の姿に一早く気付いた椎名は、のそのそとした足取りでこちらへと近付いてきた。 「だいじょぶ?」 言いながら、長い指先で自身の頭をとんとんと叩く。 「いつもの事だから」 髪の乱れを直しながら私は笑った。 「偏頭痛持ちってのも大変だねぇ」 言葉とは裏腹に、椎名はふぁぁと大きな欠伸噛み殺し、 「あたしも保健室行って来よっかな〜」 なんて、目尻に涙を溜めて二回目の欠伸。 「悪かったね、保健室の常連で。でも私の偏頭痛は時々ひどくなるくらい。椎名の眠気はいつもの事でしょ」 悪態を吐きながら自分の席へと戻る私の背中に、そうだねぇ、と間延びした笑い声が聞こえた。 今日は少し体調が悪いみたい。 いつもだったら一時間程授業を抜けて保健室で休めば何とか一日持つはずなのに。 帰り間際に偏頭痛に襲われて、放課後にまで保健室にいる私。 まぁ常連って言えるくらい通っているから落ち着く場所ではあるんだけどね。 だからと言って、いつまでも寝てるわけにはいきません。 もう平気なの?と言う保健医に会釈して、保健室を出た私は昇降口を目指す。 体育館脇を通った時に、聞こえる水音。 ふと、足を止める。 体育館の隣は室内プール。 さすが私立。 実際に水泳部がなかなかの実績があったからっていうのも建てられた理由。 そんなわけで水泳の授業も一年中あるし、水泳部も一年中部活をしている。例えこんな真冬だろうとお構いなしだ。 まだ練習してるかなー、なんて。何となく覗いてみると。 跳ねる水飛沫。 見知った顔。 いつもはへらへらとした締まりのない顔なのにあんな表情出来るんじゃない、 息継ぎの瞬間に見えた真剣な顔付きの椎名を見てそう思った。 椎名がいつも眠そうなのは、朝早くからプールに来て、放課後も夜まで、びっちり泳いでいるからだ。 椎名が水泳部なのは知っていた。 けれど、泳ぎを見るのは初めてで。 フォームの事はよくわからないけれど、ただ単純に、綺麗だなと思った。 あの日をきっかけに放課後はプールに通う。 魚みたいに泳ぐ椎名は、水から上がった途端に頭を振って髪の毛の水を払う。その仕草が犬のようだった。 そんな様子を、私は壁に寄りかかって見ている。 室内プールというこの空間は私にとって居心地が良い。 塩素の匂い。 水音。 真剣な椎名の表情。 私の五感はここに溶け込む。 いつの間にかまどろんでいた私は、ばしゃっと水が大きく跳ねた音で我に返った。 目をうっすら開ける。 と。 プールから上がった椎名が、相変わらず気だるそうにぺったんぺったんと足音を立てながらこちらへやって来るのがぼんやりと見えた。 その場にいるのは私と椎名の二人だけ。 どうやら私がぼうっとしていた間に練習は終わったらしい。 部活終了後もいつも一人、練習に励む椎名。 椎名ももう帰るのかな、そう思って体重を預けていた壁から背を離そうとした時。 目の前には既に椎名が立っていた。 「お疲れ」 声を掛ける。 それに応えて、いつもの顔でへらっと笑う椎名。 綻んだ瞳は優しく垂れる。 椎名は私に片手を伸ばし、長い指で頬へと触れた。 距離が近いからか、いつも以上に強く感じるプールの匂い。 椎名の顔が私の目の前まで寄せられ。 茶色がかった瞳の色と色素の抜けた赤い髪。 長い睫を眺めていると、彼女は私に口付けた。 髪の毛先から滴った水の一雫が私の頬を掠め。 唇が離れる瞬間に鼻孔をくすぐるのは真冬の塩素の匂い。 この香りは、保健室に漂う独特の空気。消毒液のあの匂いとよく似ていて。 私は目の前の椎名の顔をまじまじと覗き込んだ。 「ねぇ。前にも一度こんな事あったね?」 「うん?」 「保健室で。寝てる私にキスしたでしょ」 彼女は。 答える代わりにもう一度キスをした。 唇が寄せられ、やはりまた、彼女から漂う消毒液の香りがふわりと私を包むのだった。
■─マグネーム □秋 (2005/05/31(Tue) 10:30:08) 早いもので、もう十二月。 寒い季節になりました。 だからというわけじゃないけれど、休日の午後に何もせず、部屋の中で向かい合いながらただコーヒーを啜る私達。 ルームメイトに目をやると、窓の外をぼんやり眺めて、時折吹く木枯らしに眉をひそめている。 寒いのが苦手な彼女らしい。 冬の間中、こんな風にずっと閉じこもっているつもりだろうか。 無遠慮な視線に気付いたのか、ローテーブルの上のマグカップを手に取って一啜りした後、 「何?」と相変わらず不機嫌そうな視線を私に向けた。 「んー?」 本当の事を言ったらきっと、余計なお世話だと一蹴されるに違いないから。 一考して。 「川瀬のそのマグカップもなかなか年季入ってるよね、って思って」 そろそろ一年半くらい経つんじゃない?と、彼女の手にしたカップを指差す。 川瀬は自分の手元を一瞬だけ見ると、すぐに視線をどこかへ投げた。 「一緒に買ったのに一週間もしない内に割る方がおかしい」 笹木は意外と物の扱いが雑なんだ、言いながら鼻を鳴らした。 "K"というイニシャル入りの、少し大きめなマグカップ。 物に頓着しない川瀬は入寮したての頃食堂の共有コップを使っていたから、 下校途中の雑貨屋の店先でこのマグカップを見つけた時、 これくらいシンプルなデザインなら彼女も嫌がらないだろうと、自分用のコップを持つ事を勧めた。 ちょうど私も新しいコップが欲しかったから、"S"の文字の入ったそれを手に取って。 正直お揃いなんて嫌がるだろうななんて、そうも思ったけれど。 そんな事にも無頓着なのか、意外にも川瀬は文句も言わずにそれを買った。 入学して間もなく同室になった私達が、形だけでもルームメイトになれたみたいで、 ルームメイトだと川瀬が認めてくれたようで、密かに私は嬉しかった。 ……その数日後、私の"S"字のマグカップは皿洗い中に儚くも割れてしまったけれど。 「悔しかったなぁ、あれは。すぐに同じの買いに行ったけど、もう"S"の字ないんだもん」 あーぁと軽く息を吐く私に。 「"C"ならあったじゃん」 欠伸をしながら川瀬。 "C"。 笹木"千草"の"C"? でも。 「…だって川瀬、"そう"呼ばないじゃない」 そんな風にぽつりと呟いてみたら川瀬はキョトンとした顔をして。 何だか照れ臭くなってしまった私はカップの中のコーヒーを一気に飲み干した。 ちらりと川瀬を見やると、少し考えるような顔をしていて、そうかと思うと不意に私の顔を覗き込んだ。 珍しく、穏やかに笑みながら。 「今から買いに行こうか。"C"の字のやつをさ」
■─その後のお話。 □秋 (2005/05/31(Tue) 10:31:14) 「結局言うだけで買いに行かないんだもん」 「だってあの日寒かったじゃん」 「じゃああんな事言わないでよ」 「だから今日買いに来てんじゃん」 「あれから三日も経ってる」 「今日はやけに突っかかってくんなぁ」 「だって…」 「買うの?買わないの?」 「……買う」 「よし。じゃあ探すか」 そう言って川瀬は、すたすたと店内へ入って行ってしまった。 『今から買いに行こうか。"C"の字のやつをさ』 確かに川瀬はそう言った…よね? 『だって川瀬、"そう"呼ばないじゃない』 確か私もそう言った…はず。 "C"の字のコップを手にした時、一体川瀬はどうするんだろう。 "そう"呼ぶのだろうか。 私の事を。 何だか妙に照れ臭い気持ちになって、私は川瀬の後を追って店内に入った。 入り口から少し奥。 川瀬は私の姿を見つけると、「笹木」と口だけ動かして手招きをした。 私もそちらに歩み寄る。 ねぇ、川瀬。 あなたは"C"を、私の名前を、呼ぶのかな? 「あったよ、ほら」 戸惑い気味の私に、川瀬はぽんとマグカップを手渡した。 「これだろ?買ったの一年以上前だからもうないかと思ったけど」 なかなかの人気商品らしいそのマグカップのシリーズは、デザインもそのままに去年と同じようにコップの棚へと陳列されていた。 私は手の内のマグカップをドキドキしながら確認する。 と。 「……"S"?」 カップにプリントされているイニシャルはどこをどう見ても。 「笹木の"S"だろ」 合ってるよな?と、川瀬は首を傾げる。 「笹木が割った時に無かったのは丁度在庫切れだったんじゃないの。良かったな、今度はあって」 その言葉を聞きながら何となく私は脱力してしまった。 新たなマグカップが入った袋をぶら下げて帰路を辿る。 「どうしたわけ、さっきから。買えたのに嬉しくないのか?」 隣を歩く川瀬は訝しげに尋ねてきた。 「…ううん、嬉しい。"S"はもうないと思ってたし。でも、ねぇ…」 はぁと溜め息。 嬉しいのは本当。 だけど"C"の字も残念だなぁ、なんて。 少しがっかりしているのも本当。 …でも、いいかな。 どうせ川瀬にとっては何かを考えた上での言葉ではなかっただろうし、忘れてさえいるかもしれない。 深い意味なんてないよね、きっと。 そう考えたら途端に気が抜けてしまった。 私があれこれ思案している間にとっくに寮の前まで来ているし。 相変わらずマイペースな川瀬は一人で前を歩いているし。 「待ってよ、川瀬」 足の長さが違うのだから、少しは合わせてくれたらいいのに。 ぶつぶつ言いながら川瀬の背中を追う。 あと少しといったところで、 「大体笹木だってあたしの事名字で呼ぶじゃん」 あたしだけがそう呼べるか、と。 終始無言だった川瀬は背中越しにそんな呟きと私を残して、歩幅を緩める事なく寮の中へと入ってしまった。 一人佇む私。 先程の川瀬の言葉を反芻して。 寮の入り口でぼんやりと立ったままでいる私に、部活から帰って来たのだろう、ジャージ姿の茜が、 「笹木、風邪?顔赤いよ」 なんて言う声が、どこか遠くで響いていた。 お互いに、気恥ずかしいのは一緒のようです。
■─こころジャック □秋 (2005/06/02(Thu) 10:28:22) 思春期の女の子達の大好きなもの。 それは甘い甘い恋の話。 実際に、 「今日さぁ〜、彼氏と会うんだ〜。三日振りだよ、三日振り!気合い入れて髪巻いちゃった〜」 クラスメイトの千佳は、冬真っ只中にも関わらず今日も頭は春のご様子。 あたしに言わせりゃ「三日前に会ってんじゃん」。 これを言うと 「二日間も会ってないんだよっ?!  恋する乙女の気持ちがわかんないかな〜。  毎日会っても足りないくらいなのにっ」 ってさ、どうせいつものように長ーいお説教を食らうから言わないけどね。 かく言うあたしは、 「和実は彼氏作んないの〜?」 まだいないんですよね、彼氏。 それ以前に、 「ってか、好きな人いないし」 溜め息をつきながらそう答えると、ええ〜?という、それを嘆くかのような千佳の声。 ずいっと身を乗り出した千佳はあたしに顔を突きつける。 「恋したいぃ!って思わない?」 「んー…今は別に」 千佳は「つまんないぃっ」と叫びながら、またせっせとくるくるに巻かれた髪をいじり始めた。 人を好きになる事が出来ない、なんて。そんな事を思ってしまうような暗い過去を背負っているわけじゃないし。 ましてや、恋なんてばかばかしい、なんて。投げ遣りになっているわけでもない。 あたしだって女子高生。 そりゃあ出来れば彼氏は欲しい。 いやいや、その前に好きな人がいなければ。 でもさー…その"好き"っていうのが最大の難関。 あたしはまだ恋を知らない。 だから"好き"も知らない。 恋には憧れても、その想いがわからない。 だから千佳に恋しなよなんて言われてもさ、どうしようもないんだよね。 今度は爪にマニキュアを塗り始めた恋する乙女の友人に、おいおい校則違反だからそれ、 なんてツッコミを心の隅で入れながら、そんな事をぼんやりと考えた。 天気予報は確か晴れ。絶対にそう言っていた…はず。 だけど何だ?この土砂降りは?! はぁ、参った。 当然のように傘はない。 頼みの千佳は「今日デートなの〜。早く行かなきゃっ」だそうで。 昇降口で立ち尽くす。 通り雨かなー…ぼんやり考えながら、帰るタイミングを窺っていた。 周りは下校しようと外へ出て行く生徒達で溢れている。 思わず、何で皆傘持ってきてんだよっ!とツッコんでしまう。 一人、二人と、その数を減らし始め、帰宅ラッシュが過ぎたのか、 大勢いたはずの生徒の姿はもうちらほらとも見られない。 それでも雨は小降りにすらなってくれないから。 はぁ…。 大きく息を吐いた。 どうしよ…。 完全に帰るタイミング逃したなぁ。 このまま待ってても止むかどうか怪しいし。 どんどん暗くなってるし。 ぽつんと佇むあたしが一人。 十二月の冷たい雨は、心をも凍えさせる。 ええいっ!濡れるの覚悟で突っ走ってやるっ! 意気込みを固め、鞄を頭上で掲げて、外へと飛び出そうとした瞬間── 「あの…傘ないんでしたら、良ければこれ使いませんか?」 柔らかな声と共に差し出された淡いピンク色の折りたたみ傘。 それをまじまじと見つめた後、視線をずらして傘の持ち主を見る。 「え?でも…それ借りたら…まだ雨、あなたが」 しどろもどろなあたしに、あぁと小さく呟いて、 「置き傘があるんです。だからこっち、使ってください」 どうぞ、と。 淡いピンクの傘の持ち主は、あたしの手に折りたたみ傘を持たせると、 ほんのり桃色に色付いたほっぺにえくぼを作って、にっこり笑った。 ──待て待て待て。 んなアホな。 こんな漫画みたいな展開が、実際あってたまるものか。 でも。 事実、こうなっているわけで。 あー。やばいって。 だめだって。 警報作動中。 占拠された模様です。 でも……。 まぁいっか。 あたしのこころは、 ジャックされた。
■─Cold And Warm □秋 (2005/06/07(Tue) 10:15:04) 二学期もそろそろ終業式が迫った、十二月の半ば。 他学年より一足早く期末試験を終わらせて、やって来ました修学旅行。 これぞ二年生の、いや高校生活最大のイベントっ! 例え行き先が定番中の定番・京都と言えど、気心の知れた友人達との旅行は楽しみなわけで。 しかも、元来のイベント好きな私の性格。 こりゃあもうはしゃぐしかないってゆーか、必然的にそうなるってゆーか、テンションは鰻登りってものだ。 先週まで必死になってテスト勉強をしていたけれど、今となっては遠い過去。 思いっ切り楽しもう! ……と、思っていました。今朝までは。 「うー…だるいぃ…」 旅行二日目の今日。 班別の自由行動日である今日。 市内観光である今日に。 私は宿にてお留守番。ひとり、布団を引っ被ってがらんとした部屋でふて寝している。 イベント好きという子供のような私の性格が、見事に裏目に出たらしい。 出発日の前日は興奮して眠れなかった。 当日になって睡眠不足による体調不良、現地に到着してからの気温の変化で完璧にノックアウト。 昨晩から寝込んでいるというわけ。 普段は自他共に認める程の健康体なのに、悪い事は重なるものだ。 「ちくしょーっ私が何をしたぁ!」 叫んだ傍からごほごほと咳き込む。 こんな情けない姿は少なくとも川瀬には見せられない。 あーぁと一つ大きく息を吐いた時、枕元の携帯がメールの着信を告げた。 ─ちゃんと寝てる〜? 見ると、差出人は皐月から。 嫌味か、このやろ。 思いながら、返信せずに携帯を放り投げる。 予定だと今頃皆、金閣寺辺りかなぁ。 木造の天井板の節目ををぼうっと眺めながら、中学の頃に見た金ピカな寺を思い浮かべて。 私、どちらかと言えば銀閣寺みたいな質素な雰囲気の方が好きなんだよね。なんて。 独りごちていると。 静かに静かに襖が開いた。 「あ…起こしちゃった?」 物音を立てないようにそっと部屋へと入って来た人物は、事態が飲み込めずにいる私に申し訳なさそうな声を掛ける。 「笹木〜。茜の様子どう?」 少しの心配りも感じられず、ずかずかと入って来たのは勿論皐月。 「皐月。茜は具合悪いんだから少し静かに、ね?」 「だいじょーぶ、だいじょーぶ、茜だもん」 何を根拠にそう言っているのか、笹木の後ろからひょっこり顔を出した陽子の、静かにする気が微塵もない無遠慮さに呆れる私は閉口して。 ぞろぞろと、次から次へと顔を覗かせるのは現在市内観光中であるはずの我が班員達。 「茜ぇ、大丈夫ー?」 「茜ちゃん、具合は良くなった?」 「そろそろ平気そう?」 郁に比奈、弥生、そして…川瀬。 どうして。 「ほら、抹茶プリン。これなら具合悪くても食べられるんじゃないかなーって」 皐月はそう言うと、持っていた袋から箱を取り出し、その中から一つを差し出した。 「八橋も買って来たけど、消化に悪いかな」 どうだろ?と、陽子が笹木に尋ねている。 無言で川瀬が差し出したレモンティーのパックを、私はごく自然に、あまりにも素直に受け取った。 目の前でお土産を広げ始める友人達を見つめ、 「皆…観光は?」 訝しげに訊ねる私に、 「あー、その事ね。私らさ、中学の時にも修学旅行で京都行ってんの」 八橋を摘みながら陽子はあっさり言った。 それに笹木が頷く。 「皆で話して全員一致で決まったの。一度行った事があるなら行かなくてもいいよね、って。  自由時間は好きな場所に行っていいでしょう?だからね──」 「ここってわけ!」 笹木が言い終える前に床を指差しながら皐月が声を上げた。 「だけど、行った事なかったとしても戻って来たよ」 と、郁が言う。 うんうんと大袈裟に首を縦に振る陽子を見ながら、疑問符を浮かべている私に、 「やっぱり茜がいなきゃだめでしょ、あたしら皆揃ってこその班なんだから」 一人でも欠けてちゃ意味ないよ、と。 皐月はにかっと笑った。 だよねー、そう頷き合う友人六人に悪友一人。 …ちくしょう。こいつら。 こみ上げてくる何かが何だか無性に悔しくて、私はがばっと布団に潜った。 「あれー?どうしたの、茜」 「私達、うるさかった?具合、悪化しちゃった?」 「調子に乗って騒ぎ過ぎたかな…」 口々に囁き合う優しい声の数々が、分厚い布団を通してくすぐったく響く。 すると陽子は、 「あぁ、違う違う」 けらけらと笑って。 「感動して泣いてんだよ、きっと」 茶化すように言った。 ぽんぽんと叩かれるのを布団越しに感じながら、 「うるさぁ〜いっ」 私は陽子のその手を内側から蹴っ飛ばし、低く唸った。 …勿論、それは鼻声で。 -Thanks to friend's warm hearts, bring tears to my eyes.-
■─Turn the light out! □秋 (2005/06/07(Tue) 10:16:28) 団体行動が苦手なあたしには、やはり行事というものは苦痛でしかない。 それは修学旅行も例外ではなく。 最終日となった今日。 残すところは今夜だけで、明日になれば家へ帰れると思うと、あたしは大いに安堵していた。 …しかし、それも間違い。 最終日だからこそ、その夜は盛り上がるというものらしい。 三泊四日の疲れは出ないのだろうか、今宵の宿の一室はいつも以上に騒がしかった。 しかも、だ。 旅行初日から寝込んでいた氷野が回復してしまったから、余計手に負えない事態となっている。 大人しくしていた分の憂さを吐き出すかのように、このはしゃぎ具合は始末が悪い。 ずっと倒れてりゃ良かったのに、胸中で毒づいていると、目の前に座っていた笹木と目が合った。 にっこりと笑って、敷かれた布団に寝転がっているあたしの横へと移動する。 「ね、川瀬。こんな時くらい楽しもう?」 そしてまたふわりと笑う。 こいつには、敵わない。 あたしの考えてる事なんてお見通しなんだ。 はぁ、と。 溜め息をつく。 「じゃあ次は王様ゲーム〜!」 その声を聞いて。 はぁ?と。 悪態をつく。 「定番だよねー」 言いながら、既にゲームの為のくじを作り始めている皐月。 「あ、当然全員参加。拒否権無効。川瀬もだからねっ」 にんまりと笑う陽子。 あたしはげんなりしながら、 「くだらない。やるか、そんなの」 立ち上がり、部屋を出て行こうとした。 それは、あたしのTシャツの裾を掴んだ誰かの手によって阻まれたけれど。 「たまには、ね。いいじゃない」 笹木は笑った。 やろうよ川瀬、と。 こんな事でごねるのも何だかとても子供じみているように思えたので、 あたしは何も言わずにそのままそこに腰を下ろした。 けれど、すぐにあたしは後悔した。 その場に留まった事を。 元々テンションが半端じゃないこの連中。 連日の疲労と夜の興奮からか、いつにも増して異常な弾けっぷり。 幸い大した被害は被ってはいないものの、この馬鹿げた雰囲気にはついていけない。 布団の上でごろりと寝返りを打った時。 「次はぁ……2番が5番にちゅー!」 今一番ノリに乗ってる大馬鹿野郎、もとい陽子が叫ぶ。 アルコールは入っているはずがないのに、何々だこの酔っぱらいのようなテンションは。 「2番は誰ぇ?」 訊ねる陽子に、 「はーい。私〜」 どこかのほほんとした笹木の声。 「じゃあ5番は?5番はっ?!」 興奮気味な陽子。 嫌な予感がして。 ついさっき引かされたくじに目をやる。 「あ、川瀬じゃん。5番」 寝そべっているあたしの頭上から、あたしの手元を覗き込む皐月の声が降ってきた。 「えっ?まじっ?川瀬っ?!」 陽子が、これは面白い組み合わせだと、笑う。 ……この野郎。 「それじゃあ笹木さんと川瀬さん、お願いしま〜す」 頬でも口でもお好きにどうぞと、陽子はにやにやと下品な笑みを口元に添えてあたしと笹木を交互に見た。 氷野が何だか不機嫌そうな気がするけれど、そんな事はどうでもいい。 「馬鹿馬鹿しい。付き合ってられないね」 あたしは手元のくじを投げ捨てて、「寝る」布団を被った。 「川瀬ぇ、そーゆーのルール違反だよ。盛り下がるなぁ」 ぶーぶーと文句を言う陽子。 そのままあたしがくるまる布団へと飛び乗る。 「キースッ、キースッ」 その鬱陶しさに声を荒げて。 「するかっ」 がばっと身を起こし、馬乗りになる陽子を払った。 「おかしいだろ、女同士でそんなの」 どうかしてる、と陽子を睨みつけてやったけれど、やはりこいつもなかなか引かない。 「たかがゲームじゃん〜」 あっけらかんと笑う。 …何を言っても無駄なのか? 目眩すらしそうになってきたあたしは、 「笹木。ほら、あんたからも何か言えって」 すぐ側にいた、同じく被害者である笹木に助けを求めた。 求めた…ものの。 にっこりと、柔らかないつもの笑顔を見せるだけなので。 だから何でそう楽しそうなんだ…脱力して、思わず問おうとすると、 「川瀬はそんなに私とキスするのが嫌?」 ───…は? はぁぁぁぁ?! おいおい、まさか連中の空気に中てられでもしたのか? 今日はあんたも何かおかしい。 何も言う事が出来ずにいるあたし。 笹木は少しずつ少しずつ、近付いてくる。 距離が、ゆっくりと縮まる。 「嫌?」 笑みはそのまま。 「嫌とか、そうじゃなくて……」 笹木があたしの頬に手を添える。 もう陽子の野次は聞こえない。 真っ直ぐにあたしの目を覗き込む笹木の瞳から顔を逸らす事も出来ず。 顔が近い。 息遣いまでも生々しい程に感じ取れる。 笹木が瞼を閉じて── 「ちょっ、待っ…」 最後の抵抗を試みて、けれど多分あたしは完全に拒み切れないだろう、そう思った瞬間。 「消灯の見回り来たよ!」 皐月が叫んだ。 「え?!やばい!」 陽子達はばたばたとトランプやらくじやらお菓子やらを片付け始め、 「そんなの後でもいいじゃんっ。どこでもいいから適当に布団潜って!電気消すよっ!」 そう氷野が叫んだと同時に─パチリ、と。 スイッチが落とされた。 部屋の外で見回りの担当だろう教師の足音がする。 ガチャリとドアが開かれ、全員が床に就いているのを確認すると、再びドアは閉じられた。 遠ざかる足音に、潜めていた息を解放して。 ふぅと大きく息を吐いたら、すぐ目の前には普段から見慣れているルームメイトの笹木の顔。 いくら適当にって言ったって人がいるとこに潜り込んでくるなよっ、そう言ってやろうとしたら。 笹木の唇があたしの口を塞いだ。 柔らかな感触が優しく伝わり。 余韻を残して離れた瞬間、やっぱり笹木は笑っていた。 「先生もう行ったよね」 氷野のその声と共に再び電気が点けられた。 ごそごそと布団から這い出る音がし始める。 まだ身動きが取れずにいるあたしの布団は、共に潜んでいた笹木によって剥がされた。 「あれ?笹木と川瀬、おんなじとこに潜ってたの?」 「うん、急だったから近い布団に入っちゃった」 「…川瀬?顔赤くない?」 「息苦しかったんじゃない?」 そんな会話をどこか遠くに聞きながら。 もう一度── 電気が消えはしないだろうか。
■─Merry Merry □秋 (2005/06/07(Tue) 10:17:40) さくさく、と。 降り積もった雪を踏みしめながら、歩く。 昨夜から降り始めた雪は一晩で街中を白銀に染めていた。 もう雪を見てはしゃぐような歳でもない。 ただ学校の行き帰りが辛くなるだけだ。 と、今現在、部活からの帰り道真っ只中の私は思うわけなのです。 ざっくざっくと次第に足並みも荒々しくなってゆく。 いつもの道が倍以上に感じられてしまうからこの季節の雪は嫌なのだ。 …ただ、私の場合。 理由はそれだけではないのだけれど。 奇しくも世間は十二月二十五日。 俗に言う、クリスマスである。 ホワイト・クリスマスだなんて、神様も随分粋な真似をしてくれるじゃないか。 皮肉たっぷりに胸中で呟いてみる。 クリスマスムード高まる中、こんな風に雪が降ってみろ。 益々浮かれた人々のお祭り気分はヒートアップするに決まっている。 これだからクリスマスは、もう一度呟いた時。 雪に足下を取られた私はずるりと見事にひっくり返った。 あー…何やってんだろ、私。 起き上がる意欲さえ湧かず、仰向けのまま、すっかり雪が止み晴天を取り戻した青空を眺める。 陽射しで顔は暖かいものの、背中がじんわりと冷えてゆくのがわかる。 冷たい、でも起きるのめんどい、そんな事を考えていると、ふっと頭上が陰った。 「聖奈?何やってんの?」 見れば、怪訝な顔をした久美が私の顔を覗き込んでいた。 ほら、と差し出された彼女の手を借りて起き上がる。 「転んだのはわかったけど、寝っ転がって何してたの?」 風邪引くじゃないのと、再び怪訝な顔で訊ねる久美に、「起きるのめんどくて」短く答えると心底呆れた顔をされた。 そのまま何となく、ふたり並んで帰路を行く。 あ、と思い出したように久美が声を上げたので私は彼女の方を振り向いた。 「そう言えば今日クリスマスだよ、クリスマス!しかもホワイト・クリスマスになったね!」 にこにこと嬉しそうな顔。 私はクリスマスなんてそんなものにはお構いなしに、ころころ表情が変わるなー、久美を見ながらそんな事しか考えてはいなかった。 「聖奈…つまんなそう」 反応が希薄な私が不満だったのだろうか、久美は拗ねたような眼差しを私に向けた。 そんな事を言われても…私も少しばかり困ってしまう。 そして。 「…嫌いなの、クリスマス」 ぼそっと呟いてみる。 すると彼女は不思議そうに首を傾げた。 何で?その目はそう言っていたから、 「今日誕生日なんだ、私」 応えてみせる。 久美はくりくりと目を丸くさせた。 「え?今日?」 「そう、今日。クリスマスムードに皆浮かれてるからさ、毎年私は誕生日だって事忘れられるんだよね」 やれやれと諦めにも似た溜め息を吐く。 だから嫌いなの。わかった? そう言おうとすると突然、 「おめでとうっ!」 満面の笑みで彼女は言った。 「この場合、Happy Merry BirthDay、かな?」 うんうんと首を縦に振って一人納得している彼女。 そしてまた、思い出したように言う。 「プレゼント、何が欲しい?」 予期せぬ問いに、ただただ面食らう私。 「誕生日だって知ってれば何か用意しといたんだけど。ほら、知ったの今じゃない?」 だから、と続けて。 「今すぐには無理だけど用意するね。ちゃんとプレゼントしたいから」 ね?と、彼女は優しく微笑んだ。 「何が欲しい?」 再び問われて。 ─あなたを。 …なんて。 言えるわけないじゃない。 代わりに彼女の片手を両手できゅっと包んで、暖を取る仕草をした。 「寒い」 一言呟くと、一瞬きょとんとし、すぐさま「こんなのでいいの?」と笑った。 「寒がりだもんねー、聖奈」 空いているもう片方の手をふわっと添えて。 「そうだ。じゃあ手袋を買ってあげようっ」 名案だとばかりに瞳を輝かせた。 「だから今日は、これで我慢してね」 そう言って力強く握られた私の手。 ほんのりと暖かい。 私達は互いの手を繋ぎながら帰り道を辿った。 踏みしめられた白に残る足跡を見て、ちょっとだけ、ほんとにちょっとだけだけど、この日が好きだと思えるような気がして。 …メリークリスマス。 小さな囁きに彼女はかすかに笑った。 今はまだ、この温もりだけで。
■10744 / inTopicNo.89)  ─年の瀬に逢瀬を重ね《have a reunion with…》 □秋 (2005/07/07(Thu) 09:57:43) あぁ、もうすぐ今年も終わる。 雪がちらつく中、商店街を抜けるメインストリートを歩いていると、 それぞれの店先はお飾りやら何やらですっかり年の暮れのムードが漂っていた。 あと数日で門松が立ち並び、正月のおめでたい雰囲気で賑わう事は想像に難くない。 つい最近まではクリスマス一色だったろうに、と。 商店街の浮かれた空気に呆れつつ、やはり私もわくわくを隠せない。 寮生である私は、冬休みを利用して実家へと帰省してきた。 「天野さんとこの美和ちゃん?久しぶりだねぇ。いつ帰ってきたんだい?」 「あれ、美和ちゃんかい?お盆以来じゃないか。もっとちょくちょく帰っといでよ」 昔ながらの商店街は、小中学校時代から通い慣れた通学路であり、今も変わらず旧い顔がちらほら見られる。 掛けられた声に笑ってお辞儀し、私は中通りの中心に位置する蕎麦屋の暖簾をくぐった。 「ただいまー」 正面から入ってすぐのカウンターに、ちょうど昼の営業時間が終わった所なのか、エプロンを外した父が座って新聞を広げていた。 顔を上げて私を見据えると、 「おう、帰ったか」 がさがさとした声でぶっきらぼうに答える。 すぐまた新聞に目を落としてしまったけれど、わずかに持ち上がった口の端に、私はしっかり気付いていた。 「あらあら、美和。おかえりなさい。今来たの?」 奥からぱたぱたと母が来る。 腰に巻いたエプロンで手を拭いながら、 「今お茶でも煎れようね」 カウンターの中へと入っていくので、私も父の隣へと腰掛けた。 「そろそろ大晦日でしょう?予約がいっぱいで大忙しよ」 お父さんにはたくさん打ってもらわなきゃと、急須を動かす手は休めずに笑いながら言う。 「私も出前手伝うよ」 冬休み中はこっちいるし、カウンター越しに母が差し出す湯呑みを受け取って言った。 「あら、ほんと?助かるわぁ」 母の目元の笑い皺がますます深まる。 「美和が出前行ってくれるって。良かったわね、お父さん」 渡された湯呑みにずずっと口を付けて、父は「ん」と小さく返した。 帰ってきたなぁと、思うのはこんな時。 何の変哲もない一場面が、帰省の時に一番求めているものだ。 両親のやりとりを横目に、私はお茶を口に含む。 「あ。そう言えばさ、ちいちゃん今年受験生じゃなかった?どこの高校行くの?」 私の言葉に、 「酒屋さんの千佳子ちゃん?あぁ、あの子ももう中学三年生なのねぇ」 母は過去を懐かしむように遠くを見つめた。 「あんた達、小さい頃はいつも一緒だったわねぇ。  千佳子ちゃんはいっつも美和ちゃん美和ちゃんってくっついて歩いて。  この辺じゃ子供も少ないから、あんたも年下の千佳子ちゃんの面倒良く見てたものね」 懐かしいわと、母が目を細めて話すのを私は静かに聞いていた。 「そうそう、その千佳子ちゃん。あの子ね───」 「お邪魔しまーすっ」 何かを言い掛けた母の声は、勢いよく開かれた手動の扉の音によって遮られた。 先程の声の主は黒髪を両脇でちょこんと二つに結わえた少女。 彼女はピシャリと扉を閉め、こちらへ向かってきた。 「お店まだ準備中なのにごめんね、おばさん」 申し訳なさそうに両のの手の平を自身の顔の前で合わせ、 「あのね、ぎりぎりになっちゃったけど大晦日のお蕎麦の予約、六人前頼めるかなぁ?」 ちらりと上目遣いで母を見る。 母は大きく頷いて、 「承りました」 常連さんだものね、と笑った。 母の言葉に少女は顔を緩ませる。 「良かったぁ〜」 綻ばせた口元からは八重歯が覗き、あどけない笑顔は幼さをまだまだ残していた。 子犬みたいでちょっと可愛い。 私より四つ、いや五つは下だろうか。 あれこれ考えていると、 「あんた何ぼーっとしてるの。ほら、挨拶しなさい」 あぁ、さっきの会話だとお得意様らしいしね。 相手が子供とはいえ、確かに黙っているのは失礼だ。 母に促された私は、 「初めまして、娘の美和です。いつもご贔屓にして頂き、ありがとうございます」 立ち上がって恭しく頭を下げた。 どうだ。 商売人の娘としてなかなかの挨拶でしょう? 得意げに母の方を見やると、「何を言ってるのかね、この子は」と苦笑していた。 「美和…ちゃん?」 目線を移した先の少女も何やらぽかんと口を開いている。 「美和ですけど?」 訝しげに首を傾げると、 「あんたほんとに気付いてないのねぇ。ほら、千佳子ちゃん。さっき話してたでしょうに」 横から口を出す母。 今度は私がぽかんと口を開けた。 「ちい、ちゃん──…?」 え? だってさ?ちいちゃんは今年で中学三年生のはず。 この子はどう見たって中一くらい…。 けれど確かに、目の前の顔は私がよく知っている顔だった。 …てゆーかね。 最後に会った時から三年経ってるんだよ? 私の中のちいちゃん像はそれなりに成長していて。 まさかそのままの姿でいるなんて、思うわけがなくて。 むしろわかりづらいわっ! 「あの…美和ちゃん?」 いつの間にか私は彼女をまじまじと見つめていた。 「あ、ごめん」 視線をぱっと逸らすと、ふふふと含んだ笑みが耳に届いた。 「美和ちゃん、大人っぽくなったね〜。気付けなかったよぉ」 綺麗になった、そんな風に八重歯を見せて笑う。 あんたは、変わらな過ぎだ…。 私達のやりとりを、母は微笑ましそうに眺めている。 「あんた達久し振りなんだから美和の部屋で話したら?」 時計をちらりと見て、そろそろ店も開けるしねぇ、そう言うので、 「行く?」 天井を指差して訊ねた。 ちいちゃんがこくりと頷いたのを確認して、私達二人は住居となっている店の二階に続く階段を上った。 「後でお部屋にお蕎麦持ってってあげるからねー」 そんな母の声を背中に受けて。
■─年の瀬に逢瀬を重ね《ナキムシ》 □秋 (2005/07/07(Thu) 09:59:33) 「三年振り、かな?」 離れていた時間を埋めるように、幼馴染み二人は互いの話をし合った。 ふと漏らした彼女の呟きに私はうんと答える。 「まさか美和ちゃんが寮入るなんて思わないもん」 「だってここからは遠過ぎて通えないから」 「そうじゃなくてぇ…そんな遠い高校に行くなんて、って事!ほんと全く会わなくなるんだもんなぁ」 今までも春休みや夏休み、そういった長期休暇中には帰っていた。 けれど毎回、ちいちゃんの部活の合宿と私の帰省とが被ってしまって顔を合わせるに至らなかったのだ。 本当に久し── 「久し振りだね、美和ちゃん」 そちらに顔を向けると、真っ直ぐこちらを見つめる幼い笑顔のちいちゃん。 その瞳に何だか照れてしまって、懐かしさで泣きそうになってしまって、 「そう言えば今年ちいちゃん受験生でしょ?」 私は無理矢理誤魔化した。 ちょっと強引だったかなと思いつつ、私は彼女に笑顔を向ける。 「どこ受けるの?やっぱり地元?」 待ってましたとばかりに彼女は妙に含みのある笑みを浮かべた。 「…何?」 私はわずかに眉をひそめる。 「実は…──美和ちゃんと同じ高校でーっす!」 推薦だから来月なの、と彼女は私の目の前でVサインを作ってみせて。 「それでね?あたしも寮に入るからいっぱい一緒にいられるよ」 言った後にはにかんだ。 小さい頃から一緒の幼馴染みは、私を追い掛けてきたと、なんて可愛い事を言う。 「あ…美和ちゃん?嫌だった、かな…?」 黙っている私に不安を感じたのか、顔色を変えて訊ねるちいちゃん。 私はふっと笑って。 「ううん、嬉しい」 そう言うと、ちいちゃんはぱっと顔を輝かせた。 そして私は声のトーンを落としてもう一言。 「でもね、ちいちゃん…私、今高三なんだけど」 「──へ?」 間の抜けた声を発して凍りつくちいちゃん。 「だからね、ちいちゃんが入学してきた頃には私は卒業していなくなってるの」 人差し指で自分とちいちゃん、交互に指差す。 「……そんなぁ〜」 みるみる内にちいちゃんは目の淵に涙を溜めてゆく。 こればっかりはしょうがないよね、と私はわざとらしく溜め息をついてみせた。 「お蕎麦持ってきたわよぉ。──…千佳子ちゃんどうしたの?」 「おばさぁ〜んっ」 二階へと上がってきた母にちいちゃんは泣きついた。 母は「あらあら」と困ったように笑っている。 私は心の中で密かに舌を出していた。 『付属の大学に進学が決まってるから、校舎は違っても同じ敷地内にいるんだよ』ってね。 母にしがみつきピーピー泣いているちいちゃんを傍観し、変わらないなぁとぼんやり考える。 いつも私に騙されたりからかわれたり。 そして母へと助けを求める。 小さくて泣き虫で甘えん坊なちいちゃん。 一人っ子の私は、そんなちいちゃんが妹のように思えて、それはもう可愛くて可愛くてついつい意地悪してしまうんだ。 姿も幼いままのちいちゃんなので、昔へと引き戻されるような錯覚をしてしまう。 目の前で泣きじゃくる、15歳。 うわぁ子供がいる…呆れた声を上げそうになった時、 「──決めたっ。せっかく久し振りに会えたんだもん。美和ちゃんが帰るまでここに泊まる!」 ちいちゃんは目の端の涙を袖でごしごしと拭き取り、「いいよね?おばさん」と訊ねてから私の方へと顔を向け── 「一緒の時間を過ごしたいじゃない?それが限られてても」 にっこり笑った。 その笑顔に不覚にもドキリとさせられ。 幼い容姿から変わっていないと思ったけれど、やはり彼女の中の時は確実に流れていた。 私にくっついて歩いていた小さいままのちいちゃんではないようだ。 春になって再会したら、私に綺麗と言ったように、今度はあなたがそうなっているかもしれないね? ただ、口から覗く八重歯は変わらずにあって欲しいと願うけれど。 冬休みはまだまだ長い。 離れた時を埋めるように、 年が暮れるまで、 年が明けてからも、 一緒にいようよ。 真実は、いつ話そうか? 気が抜けて再び涙するだろう幼馴染みの姿が目に浮かぶ、年の暮れ。 あぁ。 春の足音が聴こえてきた。 すぐそこまで。
■─新たな年に想いを馳せて □秋 (2005/09/12(Mon) 15:52:15) 「今年こそあいつに勝てますようにっ」 賽銭箱の前でパンパンと柏手を打ち鳴らし、思いっきり両の手の平を合わせる。 周りの人垣なんて気にするものか、神様に聞こえるように大きく声を張り上げた。 拝むこと5分余り。 よしっ、声には出さず気を引き締めて、参拝客の長蛇の列を抜けた。 今年こそは絶対─ 先程の願いを、もう一度胸中で反芻する。 そう、あたしには勝たなきゃならないやつがいる。 …まぁ結局は自分の実力次第なんだけどさ。 けれど毎年の願掛けは身も心も引き締めてくれるから。 一年の初めのこの必勝祈願を、あたしは欠かす事なく続けていた。 用事も済んだし、帰ろうかな。 どうせ昼ご飯も朝と同じでおせちだろうけど。 容易に想像できる食卓の風景に少しだけ苦笑して、あたしは境内を後にした。 社から離れ、鳥居をくぐって石段を下ろうとすると─ 「あ、ニナ」 あたしより一足早く、石段を登って鳥居をくぐり抜けてきたのは。 そう、ヤツ─イチコだった。 「もう初詣終わったの?」 てくてくと近付いてくるイチコにあたしは露骨に嫌な顔。 「初詣なんてちゃらけたもんじゃありません」 つーんと顔を背けて言い放つ。 それを聞いたイチコは、 「あぁ、必勝祈願だっけ」 面白がるように笑った。 「今年は叶うといいねー」 そんな思ってもない事まで付け加えて。 …相変わらず嫌なやつ。 あたしはぽつりと毒づいた。 イチコとは家が近所で、幼稚園も一緒で、だから必然的に小学校も中学校も一緒で。 …選んだ高校までも何故か一緒で。 所謂幼馴染み。というより腐れ縁。 小さい頃から勉強も運動も人並み以上に出来たあたしが、何をやってもこいつにだけは敵わなくて。 いつしかイチコはあたしの最大のライバルになった。 全くもって相手にされていないけれど、それがまたあたしの闘争心に火を着ける。 そんな風にすかしていられるのも今の内だ。 当初の目的とは大きくずれて、イチコの目に映る事に躍起になっているあたし。 それに気付いてしまって、悔しさが込み上げてきたあたしはいつものように減らず口を叩いてみた。 「寮で四六時中あんたの顔見てんのに、実家に帰ってきてまでその顔見なきゃなんないなんてね」 あーぁとわざとらしく溜め息を吐く。 けれどイチコは相変わらず飄々としていて、 「地元同じなんだからしょうがないじゃん」 へらへら笑ってさらりと交わした。 「じゃあ帰ってくんな!寮に籠もってろ!」 更に食ってかかるあたしを、 「だって長期休暇中の寮生は帰省するのが原則でしょー?」 あっさり避ける。 む…。 これではまるっきり三流脇役の突っかかり方だ。 所詮あたしはこいつの引き立て役に過ぎないのか…? 眉根を寄せて自問自答するあたし。 目の前のヤツには、さぞ滑稽に映っている事だろう。 やがてイチコは口を開いた。 「ねー。元旦から怖い顔してないでさ、新年の挨拶がまだなんじゃないの?」 にっこり笑う。 …こっちは正月早々あんたなんかと遭遇したんだ。 そんな晴れやかな心持ちでいられるかっ! そのままくるりと背を向けて、無言でヤツから遠ざかってやろうとして。 それを思いとどまる。 良い事を考えた。 漏れそうになる笑みを必死で堪えながら、イチコの目を見つめる。 いつもの様子と異なるからか、イチコは怪訝そうに首を傾げた。 その一瞬の隙を、あたしは見逃さなかった。 イチコのコートの襟をぐいっと掴み、自身の方へと引っ張る。 体勢を崩したイチコの顔が目前に迫った時。 ほんの一瞬、あたしの唇がヤツの唇を捕らえた。 ゆっくりと顔を離して、 「今年もよろしく」 ニヤリと笑う。 目の前のイチコは、思わぬ奇襲に言葉を失い、頬を軽く赤らめている。 ──はずだった。 なのに。 あたしが言い終わらぬ内に、ヤツによってマフラーが手繰られて。 「へ?」 間抜けな声を発するあたしは、イチコに唇を塞がれた。 ほんの一時の静寂の後、先程よりもゆっくりと顔が離れる。 「──しっ…舌っ!今あんた、舌っ…──」 慌てるあたしに、イチコは余裕の表情で。 「こちらこそよろしく」 不敵に笑った。 一年の計は元旦にあり、と云うけれど。 どうやらあたしは、今年もヤツに勝てそうにありません。 そうでしょ?神様─
■─私達、付き合ってます。 □秋 (2005/09/12(Mon) 15:54:10) 何となく始まったこの関係。 ルームメイトから、それは特別な存在となって。 ただ、この場合"恋人"と呼んでいいのだろうか、とか。 いまいち不透明な、あたし達のこの関係。 それはふたりが、同性だからに他ならない。 相原は。 元々人にくっつくのが好きな性質だけど、この頃特に激しい気がする。 例えばそれは。 下校中の道端だったり、あるいは買い物しに来た街の中、寮のちょうど死角になっている階段脇。 手を繋いだり、腕を組んだり、ふざけが過ぎると頬に軽く口付けたりもする。 あたしは人前での気恥ずかしさからか、あるいは「女同士」であるという後ろめたさか、 その手を払い、腕を振り解き、距離を取る。 そうした後の相原は少しだけ頬を膨らませるけれど、 すぐにいつも通りふわふわと笑うから、あたしも大して気に留めず日々を過ごしていた。 だけど、この日は違った。 冬休みも終わりを告げて数日。 学校がある日常がすっかり戻りつつある寮への帰り道、まだ陽は高く帰宅途中の生徒達の姿もちらほら見られたから。 不意に繋がれそうになった手を、あたしは拒んだ。 そのままペースを落とさず歩いていると、さっきまで隣を歩いていたはずの相原がいない。 あれ、と思って。 振り返ると、あたしの数歩後ろ、相原は俯き加減で立ち止まっていた。 すぐさま彼女に駆け寄る。 「相原?」 反応はない。 「どした?」 言いながら、あたしより少しばかり背の低い相原の顔を覗き込もうとしたら、 「……帰る」 彼女はぼそっと呟いてそのまま足早に行ってしまった。 残されたあたしはただぽかんとしていて。 立ち尽くすあたしを不審そうに見やる人の視線に気付き、慌てて相原の背を追った。 寮に帰って来ても相原の機嫌は直らず、あたしと彼女のこの部屋は何だか重苦しい空気。 ベッドの縁に背をもたれて床に座る相原の、その隣に腰を下ろして。 ちらりちらりと表情を覗き見る。 相原は唇を尖らせて、明らかに拗ねた顔。 何をそんなに怒ってるわけ? あたしはわけがわからない。 と、そこで。 ちょっと芽生えた遊び心。 部屋の中は二人っきりだし。 人目も気にならないし。 いつも相原がしてくる事を、今度はあたしがしてやれっ。 そっぽを向いている彼女の顎に手を当ててあたしの方を向かせると、「何?」あからさまに不機嫌そうな顔をした。 それに構わず、あたしはゆっくり顔を近付ける。 あたしの唇は柔らかな相原の頬を捕らえ───っ?! バシっという小気味の良い音。 どうやら捕らわれたのはあたしの方。 相原の手の平が見事にあたしの頬に炸裂していた。 じんじんと響く頬を手で押さえながら、「いきなり何っ?!」涙目で喚くあたしに。 「それは夏目でしょっ」 立ち上がった相原はあたしを見下ろす格好で声を浴びせた。 むー…と彼女を見上げて、「いつもはそっちからしてくるくせに…」と、恨めしげな目を相原に向ける。 相原は不機嫌そうな顔を更に険しくさせた。 そして一言、ぼそぼそと呟く。 「だって夏目…さっき手、振り払った…」 へ?と、間抜けな声を上げるあたし。 「それは人が見てたし…恥ずかしいじゃん」 それにいつもの事じゃないかと続けようとするあたしの言葉は相原に遮られた。 「そんなに人目が気になるの?夏目は恥ずかしいんだ?」 そりゃあ人前でべたべたするのは。 でもそれはあくまで人の視線が恥ずかしいというわけであって、相原にべたつかれるのはそれ程あたしは嫌じゃない。 むしろ───… 「夏目は私が好きでしょう?」 ぼんやりと考え中の押し黙ったあたしに、苛立った様子で投げ掛けられた相原の言葉。 「うん」 それにあたしは、ひどく間抜けに答えを発する。 「だったら何でっ…」 目の前には今すぐにでも泣きそうな、ルームメイトの相原。 あたしはひどく戸惑ってしまって、気の利いた言葉が思い浮かばない。 じわじわと目の端に涙が溜まって、そろそろ落ちるぞって時。 「そんなに恥ずかしい?女同士って事が」 ──その問いに。 答える暇を与えてはくれず、 「夏目のばぁかっ」 そんな罵声をあたしに浴びせて、ずかずかと部屋を出て行ってしまった。 ──…そんなわけ、ないじゃないか。 その日。 一晩中電気を点けて待っていたけれど、誰かの所に泊まったのだろう、相原は結局部屋へは戻って来なかった。 翌日も、朝から食堂で相原を見掛けたけれどものの見事に無視された。 当然登校は別々に。 クラスが違うあたし達は校内で滅多に顔を合わせる事はないから。 …何々ですか、相原さん。 こんな調子で朝からずっと塞ぎ込んでいるあたし。 大体相原の怒りの理由がわからない。 そうこうしている内に日は暮れて。 もう放課後じゃないか。 部活でもして発散しよっと! と、立ち直ってみるものの、今日は休みだって事をすっかり忘れていた。 あーぁ。何か調子悪いな、あたし。 そう思いつつ、校門をくぐる。 一つ二つと歩を進めたところで、前方に見知った後ろ姿。 ─相原。 声を掛けようか迷ったものの、彼女の隣にもう一人の姿を見つけてしまったので出掛かった声を飲み込んだ。 男、ね。 校門を出たすぐ側で、相原と他校の制服を着た男が何やら話をしている。 また相原が告られてでもいるんだろう。 何食わぬ顔をしてその脇を通り抜けようとした。 「なぁ話を聞いてくれよ。お前、今付き合ってるやついないんだろ?俺とやり直そう?」 不意にあたしの耳を掠めた声は、十分すぎるほどの情報をあたしに与えて。 一瞬、歩く速度が緩む。 …相原の、元カレ? 告白も何も、よりを戻すって話じゃないか。 ふうん…。 まぁあたしが懸念してもどうしようもない、か。 構わずに、再び足を動かす。 「痛っ」 その声に少しばかり反応して。 わずかにあたしの視界が捕らえたのは相原の手首を掴む元カレの姿。 「黙ってないで何か言えって」 でもあたしには関係ないし。 むしろ部外者? 「…離してよ」 夫婦喧嘩は犬も食わない、ってね。 「俺の質問に答えろ!より戻す気あるのかよ?」 …けれど。 「大声出さないで」 この二人は既に別れているわけで。 ただの元彼氏と元彼女なわけで。 「答えになってねえよ!」 つまりはもはや無関係。 「痛いってば!」 その場を通り過ぎたあたしはくるりと踵を返した。 「あのさ」 二人の横で立ち止まったあたし。 あたしを見止めた相原が驚いたように目を見開いていたけれど、それを無視して元カレに声を掛けた。 「あ?」 誰だお前、そんな訝しげな目であたしを睨む。 それに怯まず。 「とりあえずその手離してもらえる?仮にも女子校の前だし、痴漢と間違われるよ」 その言葉に、周りを見渡す元カレ。 校門前を行き交う下校中の生徒達の注目を集めている事に気が付いたのか、相原の手首から渋々と自身の手を離した。 相原はぱっと彼から距離を取ってあたしの背に隠れると、赤くなった手首をさすっていた。 これでいいだろ?もうあっち行ってくれよ、そう言いたげにあたしを見る元カレ。 あたしはがしがしと頭を掻いた。 「あー…あとさ。こいつもう付き合ってるやついるから諦めてもらえない?」 元カレは顔を不愉快そのものに歪めた。 「は?誰だよそいつ」 怪訝そうにあたしを見る元カレに、 「あたし」 人差し指で自分の顔を指差し、にっこり笑顔。 しーんと静まるその場の空気。 「……は?」 彼は間の抜けた声を上げるので、 「だからあたしだってば」 再び、にっこり。 呆れ顔の元カレ。 くだらねー…と呟きながら彼は脱力したように去って行った。 その後ろ姿を見送っていると。 「付き合ってるんだ?私達」 相原が呆れたようにあたしを見ていた。 「だってあんた、あたしの事好きでしょ?」 相原は。 俯いてしまったので表情は見えなかったけれど。 静かに右手を差し出した。 空はまだ明るくて、人通りもまだまだ多かったけれど。 あたしはその手にしっかりと指を絡めた。 自分が好意を寄せる相手もあたしの事が好きだなんて、それはとても稀な事だ。 そして側に居てくれるという事も。 なんて嬉しい事だろう。 女同士? それが何だ。 恥ずべき事じゃない。 あたし達、付き合ってます。 文句ある?
■─終着駅 □秋 (2005/09/12(Mon) 15:55:21) 何となく、目が覚めた。 カーテンの隙間から蒼白い月の光がわずかに漏れていて、中途半端な時間に目を覚ましてしまったと、小さく息を吐く。 完全に意識は覚醒してしまって、強引に瞼を閉じても冴えわたるだけだから。 寝癖のついた髪を撫でつけながら、ゆっくり体を起こした。 と、隣で毛布にくるまっている小さな影がわずかに身動きする。 「ごめん、起こした?」 小声で問うと、彼女は毛布から顔を出して目をこすった。 私を探すように腕を伸ばす。 室内とはいえ、今は一月。 暖房を入れていないとすぐに空気は冷えてしまう。 私は起こした体をまた伏せて、彼女の毛布に潜り込んだ。 「……冷たい」 彼女は咎めるように唇を尖らせ、けれど伸ばした腕をそのまま私の首へと絡ませる。 身に纏う一切を脱ぎ捨てている私達は直接肌を触れ合わせ、眠りに落ちる前の先刻のように、再び体を重ねた。 薄暗い小さな部屋の中には、月明かりに照らされて、ゆらゆらと心許なくふたつの影が揺れていた。 「先輩も、もうすぐ卒業ですね」 まだ、夜は明けていなくて。 行為の熱が冷め始めた頃、絡めた指を解きながら彼女がぽつりと呟いた。 「あと二ヶ月で、いなくなっちゃうんですね」 彼女の方へ目を向けると、ぼうっと天井を見つめている。 私はゆっくり起き上がり、上から彼女の顔を覗き込んだ。 ぼんやりと私を見つめる、彼女。 伸ばされた手に応えて、私は身を屈めた。 背中に回された腕は外気に晒されてひんやりとしていて。 わずかに顔をしかめると、彼女は小さく微笑んだ。 顔を寄せ、唇を寄せる。 はぁ、と。 互いの息が重なると。 二人顔を見合わせて、笑ってしまった。 そして。 「終わらせましょう?わたし達」 彼女は私の首筋に手の平を寄せ、囁くようにして言った。 「この関係を、終わらせましょう?」 今度は頬に触れながら。 私は彼女の髪を指で梳き、こくりと小さく頷いてみせた。 箱庭にいる間だけの、わずかな一時を共有する間だけに持った関係だ。 私達は互いにそれをよくわかっていた。 「──そろそろ…潮時だね」 あまり長引かせてもいけない。 清算するなら今だ。 私はあと二月しか、ここにはいないのだから。 「今日で、最後にしよう」 彼女は。 寂しそうに穏やかに、月の光を浴びながら微笑んだ。 太陽が昇る前の、まだ眠ったままの街の中を、ふたり手を繋いで駆ける。 薄暗い群青の空からこぼれる月は、ぼんやりとしていて。 夜と朝との境界を示し始めていた。 不安な気持ちで駆けていた私達は、息を切らせながら始発列車に飛び乗る。 がたがたと走り出す電車に揺られて、大きく深呼吸をした。 私達の他に乗客が見当たらない車内で、肩を寄せ合い寄り添う二人は、さぞかし奇妙だったに違いない。 『先輩の今日を、わたしにください』 最後のわがままを聞いてもらえますか、と。 私の目を真っ直ぐに見つめながら、彼女は言った。 私は無言で頷いた。 彼女のわがままなんて、最初で最後だったから。 布団から出て服を纏った私達は、互いの手を取り合って、寝静まる寮から抜け出した。 早く、早く。 遠く、遠く。 目的地などなかったのに、向かう先などわからなかったのに、何故だか焦る気持ちで二人の足は急いていた。 隣に腰掛ける彼女は、私の肩に頭を傾け規則正しい寝息を立てている。 私も瞼が重くなり、そして甘い眠りに誘われた。 目を開くと、隣の彼女が私の顔を見て微笑んでいた。 すでに起きていたのかと、妙に恥ずかしい気持ちを覚えつつ、私は欠伸を噛み殺した。 見慣れた街はとうに過ぎたらしい、窓の外は知らない顔をしていた。 普段はあまり利用しない路線だったから、ここがどこだかさっぱり見当がつかない。 どれだけ進んだのか、どこまで進むのか。 けれど腕にはめた時計の針だけは容赦なく進んでいたから、相当な距離を経たのだという事は想像できた。 そんな事を考えていると、 「遠くまで…来ましたね」 彼女が先に口を開いた。 窓から射し込む陽の光で、空がすでに明るくなっていた事を知る。 「どうしようか」 適当なところで降りてみる?、訊ねると。 彼女は小さい頭を左右に振った。 「最後まで行ってみませんか」 そう言って微笑む。 「──そうしたいなら」 私は小さく答え、彼女にもたれて目を瞑った。 華奢な彼女の肩からは、確かな温かさが伝わった。 小さな旅の終わりを告げる終着駅は、何ひとつないところで。 明けきった空が、ただただ大きく広がっているだけだった。 電車から降りた私達は、ゆっくりと地面を踏みしめて大きく伸びをする。 私の後ろを歩いていた彼女のくしゃみを背中で聞いて。 私はそちらを振り返る。 向かい合う、ふたり。 互いに白い息を吐き出した。 「わがままを聞いてくれて、ありがとうございました」 彼女が小さく笑む。 「まだ今日は残ってるよ」 吐き出すようにして言葉をこぼした私に、 「線路の最後まで着いたら、わたし達も終わりにしようって思ってたんです」 そうしなくちゃ気持ちの整理の仕方を間違えそうだから、風にさらわれる髪を手で押さえながら言った。 「これで──…終わりです」 はっきりとした声。 「もう先輩の部屋には行きません。校内で会っても、わたし達はただの先輩と後輩ですよ?」 答える代わりに私は彼女を抱き寄せた。 私の腕の中でわずかに身じろいだ彼女は、 「───……本当にこれが、最後になるんですね…」 小さく小さく呟いて、ゆっくりゆっくり私を見上げた。 そして私達は。 終わりを告げるキスを交わした。 線路はここで終わっているけど、終着駅の向こうには、まだまだ続く道があるのに。 私達は互いにそれに気付いていて、けれどどちらも口にはしなかった。 終着駅のその先を、見えない振りで誤魔化したんだ。 進む事に、踏み込む事に、臆病だったのだと思う。 この関係は、限られた時間の中でだけだと、思い込んでしまっていたから。 ふたりの間には、繋がれた何かは存在しなかったけれど。 それでも、この先─ キスをする度、 キズが疼くんだ。
■─雪の降る音 □秋 (2005/09/12(Mon) 15:56:13) 「切ない…」 ぽつりとこぼされた声に思わずあたしは振り返った。 「何よ、急に…」 見れば同室の千歳は、部屋の窓を全開にしてそこから顔を突き出している。 「ちょっとー…窓閉めてよ。どうりでさっきから寒いと思った」 そんなあたしの文句を背中に受けても、千歳は少しも耳を貸さない。 仕方なくベッドから起き上がり、彼女の隣に並んで立った。 「あれ。雪降ってきてたんだ」 同じように窓から顔を出すと、小雪がはらはらと舞い落ちていた。 「でもこれじゃ積もらなそうだね」 言いながら彼女を見ると、 「…切ない」 白い吐息と共に再び同じ言葉を口にした。 「ねぇ?冬って、ひとつひとつの出来事が無性に切なく感じない?」 くるりとあたしの方に顔を向け、同意を求める視線を浴びせる。 「例えば──雪が降る夜とか、雪が消える瞬間とか、雪が積もった銀景色とか」 全部雪じゃん…。 あたしは呆れたような目で彼女を見やって、 「なーにセンチメンタルな事言ってんの」 千歳の額をピンと弾いて、「ほら閉めて閉めて」窓をぴしゃりと閉じてやった。 途端にガラスは白く曇って。 改めて外の寒さに身震いしてみる。 千歳を見ると、観念したように窓から離れて椅子の背にもたれていた。 「あーぁ…切ない」 またぽつりと、溜め息を漏らす。 あたしはげんなりとして、じとりとした視線を彼女に送った。 それに気付いた千歳は、 「まぁ由真にはわかんないだろうけど〜」 からかうようにして言った。 「はいはい、どうせわかりませんよ」 憎まれ口を叩きながら布団に潜り込み。 「──でも千歳、雪は地面がぐちゃぐちゃになるから嫌いだーって言ってなかった?」 ふと、毛布の隙間から顔を覗かせて声を投げた。 瞬間─ 千歳は頬を赤く染め、照れ隠しからかばつが悪そうに笑ってみせた。 「?」 怪訝な目を向けるあたし。 その視線に耐えきれなかったのか、もじもじと体を揺らす千歳は、 「──…会長が、ね?好きなんだって…雪」 ぼそぼそと口にした。 ──生徒会長。 あぁ、成る程ね。 「あんたの憧れの人だっけ、唯先輩」 大好きだもんねー、千歳。 からかうようなあたしの言葉に、千歳はさらに顔をかっと赤くした。 「憧れってゆーか…綺麗だし、仕事もできてかっこいいなって…あんな風になりたいなーって感じで。好きとか、さ…そういうのじゃ……」 もじもじもじもじ、口ごもる。 見ているこっちがもどかしい。 好きな人の好きなものを好きになりたいのか。 好きな人の嬉しそうな顔を見たいのか。 どっちだって構やしないけれど。 「好きでもどうでも別にいいけど、どうせあれくらいじゃ積もんないだろうねー」 意地悪く言ってやる。 「明け方には止んでるでしょ」 さらに追い打ち。 千歳は。 よほど悔しかったのだろう、あたしを睨みつける目に涙まで浮かべて。 わなわなと体を震わせているかと思ったら、 「由真のばかっ」 あたしに怒声を浴びせると、へそを曲げた子供みたいに布団に潜り込んでしまった。 「ごめんごめん、ふてくされんなってー」 彼女のベッドに向かってへらへらと声を掛けると、少しだけ顔を布団から出した千歳はじとっとあたしを軽く睨んだ。 「…由真、いつもああやってからかうんだから」 拗ねたように唇を尖らせる。 「だからごめんって」 へらっと笑うと、「毎回毎回そう簡単に許すと思わないでねっ」千歳はつーんと顔を背けた。 あまりの子供っぽさにあたしは苦笑する。 その漏れた声に振り向いた千歳は、「もー」と、また唇を尖らせた。 「だいたいねぇ、由真は情緒が足りないんだよ。冬は人を切なくさせるのっ。由真には切なさなんかわからないでしょ?」 拳を握って力説する千歳に、はははと苦笑してみせて。 「──…そんな事、ないよ」 彼女には聞こえないように、口の中で小さく呟いた。 「何か言った?」訊ねる千歳の声を無視して。 曇ったガラスをきゅっと擦った。 外の雪は先ほどよりもわずかにだけれど勢いを増していて。 「もしかしたら積もるかもしれないよ、雪」 窓の外を見つめたまま千歳に声を掛けると、すぐさま彼女はあたしの隣へ飛んできた。 「たくさん降ってきてる!」 目を輝かせる彼女。 「明日の昼まで…せめて朝までもちますように〜」 手を合わせて拝み出す。 あたしはそんな彼女の姿を見ながら苦笑して── 「そしたらきっと、会長すっごく喜ぶと思うんだ」 そうやって笑ってくれるのが嬉しい、言いながら自身も満面の笑みを浮かべて目を細める千歳。 その彼女の頭をぽんと撫でて、「そろそろ寝よ?」声を掛けた。 「楽しみは明日の朝に」 そう言うと、千歳は大きく頷いた。 頭まで布団を被ったあたしに、「おやすみ」と彼女の声が届く。 うん、と短く返事して。 「楽しみだなぁ。積もるかな?積もるといいなっ」 はしゃぐ千歳に、 「──あれ?由真?もう寝ちゃった?」 あたしはもう応えない。 やがて千歳の寝息が聞こえてきて。 雪の降り積もる音だけが、無性に胸をざわつかせた。 切なさはいつだって。 人知れず、湧いては溢れる──

■nTopicNo.23)  感想 □投稿者/ 篤川 一般♪(1回)-(2004/08/02(Mon) 14:10:13) 初めまして o(^-^)o  読みながら懐かしいなぁ綺麗だなぁと感じました。 久しぶりに笑ったような泣いたような暖かさが残りました。 このヒロイン達が私は好きです(*^_^*)ずっと見ていたいです。頑張って下さい! ■2230 / inTopicNo.24)  感想です □投稿者/ ゆん 一般♪(1回)-(2004/08/06(Fri) 21:25:06) どの話にも自分の高校時代に感じたことのある気持ちが詰まっていて胸がいっぱいになりました。 この時代は誰もが主人公なんですよね。一つ一つの物語にそれぞれのエピソードがあって素敵です。 個人的には川瀬と笹木の関係がほほえましくて好きですが「それでも。」では泣きそうになりました。 普段は明るい子のこんな姿にやられます。 まだまだ彼女たちを見続けたいので続編を期待してます。お願いします。 ■2234 / inTopicNo.25)  待ってましたよ! □投稿者/ ぴーす 一般♪(2回)-(2004/08/07(Sat) 05:33:20) 最近サイト見てなくてひさびさに見てみたら続き書いてあったんで嬉しかったです☆ 秋さんの読んでるとスゴイ状況が思い浮かんでくるんですよ♪であったかい感じするしやっぱいぃ!!ホント思います★ それと自分の言葉励みにしてくれてありがとうごさいますm(__)m応援してるんで頑張ってください!!続きまってますね(>_<) ■2260 / inTopicNo.26)  篤川さんへ。 □投稿者/ 秋 ちょと常連(80回)-(2004/08/09(Mon) 23:15:46) はじめまして。 各話の主人公達を好きだと言ってくださった事を嬉しく思います。私自身にも自分が生み出した事もあって愛着がありますから。 時々更新していくので、目に止まった時、気が向いた時、読んで頂けたら幸いです。 感想、ありがとうございましたm(__)m ■2261 / inTopicNo.27)  ゆんさんへ。 □投稿者/ 秋 ちょと常連(81回)-(2004/08/09(Mon) 23:24:19) 感想を書いてくださり、ありがとうございました。 少しでもこの時代の雰囲気やもどかしい感情を共有して頂けたのなら良いのですが。 次は誰が主人公とは明言する事は出来ませんが、この先も見続けてくださると嬉しいです。 ■2262 / inTopicNo.28)  ぴーすさんへ。 □投稿者/ 秋 ちょと常連(82回)-(2004/08/09(Mon) 23:33:55) 再度の感想を有り難く思いました。 ぴーすさんの読後に何か少しでも残るものがあったなら、私としても嬉しい限りです。 不定期な更新となりますが気長にお待ち頂ければ幸いです。 感想、本当にありがとうございました。 ■2322 / inTopicNo.36)  ハマりました! □投稿者/ 野良 一般♪(1回)-(2004/08/15(Sun) 01:47:22) すぐにファンになりましたよ!こんなにいろいろな話をよくたくさん思いつきますね!?秋さん天才! 五月の花嫁ではやられた!って思いました(>w<)てっきりまーちゃんとは付き合ってるものだと・・・見事に引っかかってしまいましたよ(^_^; 皐月も茜も切ないですね〜(>_<。この二人の微妙な距離も気になります。でも登場人物みんないい!好感がもてます(^-^) 今後も期待してますね☆ ■2360 / inTopicNo.37)  野良さんへ。 □投稿者/ 秋 ちょと常連(90回)-(2004/08/18(Wed) 00:15:56) はじめまして。 書きたい物を書き、それに対して感想を頂けるととても嬉しく思います。 日常生活の中でのある一幕、取り留めのない話ばかりですが、楽しんで読んでくださるのなら幸いです。 感想をありがとうございました。 ■10810 / inTopicNo.91)  うれしいです☆ □投稿者/ 幸 一般♪(1回)-(2005/07/11(Mon) 16:26:14) お久しぶりですp(^^)q 最近また秋さんの作品が読めて本当に嬉しいです☆ これからも応援しているので、頑張って下さい!! ■11286 / inTopicNo.92)  お元気ですか? □投稿者/ 幸 一般♪(3回)-(2005/07/25(Mon) 03:54:52) 私は夏休みに入りました☆ 私の片思いも8ヵ月。いい加減あきらめなきゃいけないなと思ってます。けどなかなか、引きずりますね。 恋は恋でないと忘れられないんですかね。。 秋さんの世界で元気もらって、新しい恋に前向きになろうかななんて考えてる、最近の私ですp(^^)q ■11421 / inTopicNo.93)  尊敬します!! □投稿者/ ココ 一般♪(1回)-(2005/07/28(Thu) 12:10:02) 秋さん、はじめまして(^-^) 最近この作品を読みはじめて、読み終わったら秋さんの他の小説も読破してしまいました。 日常的な風景をリアルに描く文才、独特の世界観。 切ないけれど爽やかさが残る読後感。 次も読まずにはいられないと、すっかりあなたの言葉に心を掴まれています(^-^;) 洗練された文章を何本も書くのは大変だと思いますが、秋さんの描き出す世界を楽しみにしています。 ■11619 / inTopicNo.94)  幸さんへ。 □投稿者/ 秋 一般♪(28回)-(2005/08/02(Tue) 15:09:37) 恋は恋で。 そうとも限らないと思います。ありがちですが、何か打ち込めるものがあれば。もちろん恋でも。 ただ、諦める事を辛いと感じるならば、それは適した方法ではないのではないでしょうか。想い続ける事と諦める事。 きっとどちらも苦しいのでしょうけど。 私が書く物が幸さんの元気に少しでも加わればと、そう思います。 最近は夏らしくなってきたので、暑さが苦手な私は少しバテ気味ですが、幸さんからの感想で元気を頂いていますよ。 ありがとうございます。 ■11620 / inTopicNo.95)  ココさんへ。 □投稿者/ 秋 一般♪(29回)-(2005/08/02(Tue) 15:10:29) 嬉しい言葉の数々、ありがとうございます。昔の物まで読んでくださったようで、有り難い気持ちが溢れてきました。 私の書き方にはムラがあるので更新ペースもまちまちですが、新たに投稿した際にはまた目を通して頂けたら幸いです。 感想、ありがとうございました。 ■12278 / inTopicNo.96)  NO TITLE □投稿者/ カルピス 一般♪(3回)-(2005/08/23(Tue) 00:22:58) こんにちは、いつも楽しく読ませてもらってます(^^♪ 個人的に川瀬が大好きです。 早く笹木とラブラブになってほしいです(#^.^#) お忙しいとは思いますが、続きが早くみたいです(●^o^●) これからもがんばってくださいね。 ■12808 / inTopicNo.97)  カルピスさんへ。 □投稿者/ 秋 一般♪(1回)-(2005/09/12(Mon) 15:50:09) 返事をするのが遅くなってしまい、すみませんm(__)m 気付けば、一話目を書いた時から一年が過ぎていました。 小説の中の時間ももうすぐ一年が経とうとしています。 そろそろラストスパート、といったところでしょうか。 川瀬を好きだと言ってくださって、ありがとうございました。 スローペースではありますが、もうしばらく彼女達のこの先にお付き合い頂けたら幸いです。
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