■こんなはずじゃなかった。  
□秋 (2007/02/23(Fri) 11:52:13) 

 私は困惑していた。

いや、動揺していた、と言うべきだろうか。
…どちらでもいい。
とにかく頭を抱えていたのは確かだから。

まさか自分が。
女である私が、"女の子"に告白されるなんて───



【ラプソディ・イン・ブルー】



「ターキせーんぱぁーいっ!」
背後からの声に、私は素早く身を翻らせた。
予想通り今まさに飛びついてこようとしていたにやけ面の後輩をひらりと交わす。
「何で避けるんですかー」
彼女は唇を尖らせ、不満そうに私を見つめた。
「あのねぇ…前から言ってるでしょ。廊下でいきなり抱きついてこないで」
「廊下じゃなきゃいーの?」
「そういう問題じゃ───」
言い終える前に彼女は私を抱き寄せた。
150cmあるかないかの私の体は為す術なく抱き竦められてしまう。
「こらっ!離せ!離しなさい!聞いてんの?!離れろってば、馨っ!ばかおるっ!」
じたばたと暴れてみせても体に回された彼女─馨の腕はしっかりと絡まって解けない。
ばかとはひどいなー、なんて間延びした声が頭上で聞こえる。
「あー、先輩あったかい。こーゆーのって子供体温って言うんですかね?」
その言葉に。
私の中のナニかがぷつんと切れた。
私の顔を覗き込んでへらっと笑う馨。
そんな彼女に、渾身の力を込めて頭突きを一発。
「あだっ!」短く呻いて、怯んだ馨の腕が緩んだ隙に素早くそこから抜け出した。
「誰が子供だっ!」
額を押さえて情けない顔をしている馨を一瞥し、私はくるりと背中を向ける。
「タキ先輩ぃ〜」
「うっさい!ついてくんな!」
強い語調で吐き捨てて、のっしのっしと大股で歩を進めた。
背後に今にも泣きそうな顔で立ち尽くしているであろう後輩を一人残して。


ばーかっばーかっ馨のばーか!
身長は私のコンプレックス。
人よりも小さい事をどれだけ私が気にしているか、馨は全然わかっていない。
そりゃあ馨はいい。
170cmを優に越える長身。
それでいてすらっとした手足を持っていて。
……考えただけで腹立つ腹立つ腹立つ!
馨なんか大っっっっ嫌いだ!!
っていう今朝の出来事が思い出されて、
「──…多喜、何そのすごい顔」
隣の席の佐保ちゃんに呆れた声を出されてしまった。
「……私、そんなすごい顔してた?」
「ん。何て言うか、鬼気迫るって感じ」
鬼婆みたいな形相ってゆーの?、小首を傾げてこんな事を言う。
この人は、可愛い顔してなかなかに辛辣だ。
「ひどいなー」
困り気味にあははと笑ってみせたら、佐保ちゃんもふっと微笑んだ。
始業を告げるチャイムに、お喋りを中断して前を向く。
途端にどっと疲れがのしかかってきた。
それもこれも馨のせいだ。

『タキセンパーイ』

私の名前を呼ぶ、ふにゃふにゃとした笑顔を振り撒く大型犬のような後輩の顔が頭に浮かぶ。

こうもしょっちゅう付き纏われるようになったのはいつの事だったか。

─芹澤馨

一つ下の学年の一年生。
今までまったくと言っていいほど接点のなかった彼女の名前を知ったのは、夏休みも明けて間もない頃だった。
一体何故?と思う暇もなく、彼女は私に尻尾を振ってきたものだから名前の一つも覚えてしまうというものだ。
それから程なくして、ぽつりぽつりと彼女の名をあちらこちらで聞くようになった。
私が噂に無頓着だっただけで、どうやらあのアホ犬は校内ではなかなかの有名人だったらしい。

陸上部の期待のルーキー。
あのふざけた性格からはその肩書きに直結しないというのが素直な感想だった。
しかし、話を聞けば聞くほど真実だと信じざるを得なくなる。
あぁ事実は小説より奇なり。
その上長身の彼女の姿は、女子高の校内でそれはそれは目立つだろう。
そして持ち前の愛想の良さで人懐っこい笑顔を無差別に撒き散らすものだから、上級生からのウケは良く、大いに可愛がられているという
わけだ。
加えて、普段彼女と共に居るのが「王子」の異名を持つ剣道部のクールビューティー。
その王子様も馨ほどの高身長、そんな二人が廊下を歩いていれば嫌でも目を引くに決まっている。
決まっているのに二月前まで知らなかった私は本当に世間に疎いのだろう。
「え、まじで知らないの?」
情報源である友人からも言われてしまった一言である。

それでも知らないものは知らないし、厄介なものに懐かれてしまったものだと思っている。

あーだこーだと考えている内に授業は終わってしまったらしく、日直が黒板を消し始めていた。
しまった!と思ってももう遅い。
仕方なく佐保ちゃんのノートを借りようと隣の席へ声を掛けようとすると、
「せんぱーいっ」
後ろからタックルを受けてそのまま抱き締められた。
振り返らずともわかっている。
「…放せ、馨」
冷たく言い放っても、
「あーやっぱり先輩あったかい」
まったく聞いてやしない。
今朝私に怒られたばかりだというのによくのこのこと顔が出せるものである。
もっとも馨の事だ、すっかり忘れてしまっているのだろうけど。
「二年の教室まで何しにきたわけ?」
「何って、暖を取りに」
十一月入ってめっきり寒くなりましたよねー、抱き締める腕を強めながら言う。
「だ・か・らっ何でわざわざうちのクラスに来んのかって聞いてんの!」
負けじと馨の腕を引き離そうともがきながら返した。
「そりゃー先輩が好きだから」
へへっと笑う声が首筋を撫でてくすぐったい。
こんな光景にすっかり慣れてしまった級友達は「相変わらず仲が良いねぇ」と温かい目で見守ったり、「馨ちゃんにあんなに懐かれていい
なぁ」と羨望の眼差しを向けたり、「大型犬にじゃれつかれてる小動物の図だ」と微笑ましげに眺めたり、当人の事などまったくお構いな
しで何とまぁ好き勝手なものだ。

「馨ちゃーん、私達とも遊んでよ」
笑いながら声を掛けるクラスメイトに、

「うーん、有り難いお誘いですけどあたしはタキ先輩一筋ですから」
ごめんなさーい、と相変わらず調子の良い声。

「ここまで好かれると案外情が移ってるんじゃないの?」
他人事のようににやにやと笑いながら小さく耳打ちしてきた佐保ちゃんに、私は曖昧な苦笑いを浮かべた。



先輩に懐いている後輩、だって?
友人達よ、声を大にして言いたい。
それは誤解だ、と。
そんなカワイイものじゃない。
どうせ言えないけれど。



『神谷多喜先輩、ですよね』

『好きです』

『好きなんですよ、先輩の事』



先輩に対する憧れや尊敬の念では、ない。

小動物を愛でる嗜好を備えているというわけでも、勿論ない。

ヤツは私に惚れている、らしい。


絶句する私に、にこにこと彼女は笑っていた。

陽に透けて金髪のようにも見える薄茶色の髪と愛想の良い笑顔がゴールデンレトリバーを思わせる。


…厄介なものに好かれたものだ。




なかなか回した腕を緩めない馨に、私ははぁと溜め息を吐いてから、背後に向かって思いっ切り頭突きをかました。


二学期に入ってからの二ヶ月間、得たものは愛の言葉と精神疲労とこの後輩のあしらい方だ。


…本当に厄介なものに好かれたものだと、「あだっ」肩越しに聞こえた悲鳴を受けながら再び溜め息を吐いた。

近所にアホ犬の躾をしてくれる訓練所はなかったものかと、顎を手で押さえながらそれでもへらっと笑う後輩を見ながら思った。

このままでは特技が頭突きになってしまうと本気で考えてしまう辺り、私も相当なアホになっている。


■こんなはずじゃなかった。─2 □秋 (2007/02/23(Fri) 11:53:26) コンクリートに染み込む、雨のような恋だった。 【心音】 「また、見てた?」 窓の外に目を遣るあたしの顔を、ひょいと伊佐が覗き込む。 「邪魔ぁ」 あたしは右手で伊佐を制して、再びグラウンドへと目を凝らした。 よく晴れた昼休み、ランチを終えて制服のままバレーボールをしている女子生徒のグループ。 その中にジャージ姿が一人紛れていれば見つける事は容易い。 どうせ腹ごなしのお遊び、上着のブレザーだけを脱いで適当に付き合えばいいものを、友人に誘われるままジャージに着替えて参加する様 は彼女の生真面目な性格がよく現れている。 ─犬みたい。 普段あたしが彼女によく言われている言葉を逆に呟いてみる。 ボールを追って右に左にちょこまかと動き、ちっこい体を存分に生かしている。 足がもつれてすっ転んだけれど、心配して近寄る友人に「大丈夫!」と言わんばかりにVサインを突き出して笑ってみせていた。 くつくつと、喉の辺りから笑みが漏れる。 あたしには怒ってばっかなのに、と思わずふふっと吹き出すと、「この寒い中よくやる」横に立つ伊佐の声が聞こえた。 「クールビューティーの伊佐さんには考えられませんか」 言ってやると、 「その呼び方やめろ」 ぎろりと睨まれた。 「じゃ、王子?」 「………」 無言の圧力に、ごめんなさいと片手を上げる。 そして窓の外に視線を戻して、やっぱり彼女を見ると笑ってしまった。 「あの先輩には本気なんだ?」 おもむろに伊佐が呟く。 「本気も本気」 彼女を見つめながら、返す。 「馨は、どうしたいの」 「触れたり揉んだり舐め回したり?」 「…あんたが言うと生々しい」 「あー…そんなんじゃなくて」 違うんだよなぁと、自分の発した言葉に違和感を覚えてがしがしと頭を掻く。 あ、と思い当たって。 妙にそれがしっくりときてしまったので、一人うんうんと頷いてみる。 「…好きになってほしい、かなぁ」 呟いた。 「あんたが言うと気持ち悪い」 そう返されて、 「王子ってばひどい言い草っ」 冗談交じりに伊佐の方を睨み付けながら振り返ると、思いの外穏やかな顔をした伊佐がふっと笑った。 長めの前髪から覗く涼しげな目元がわずかに細められる。 「ちゃんと、好きなんだ?」 何を以て「ちゃんと」なのか、そんなものはよくわからないけれど。 伊佐の意図は何となく汲む事ができたから。 あたしは「うん」と、子供みたいな返事をした。 「素直じゃん」 伊佐は、珍しくははっと声を上げて笑った。 何となく、こいつがモテる理由がわかる気がして。 「王子ー」 甘えた声で言ってみせると、途端に嫌な顔をされた。 クールビューティーの所以たる切れ長の瞳を更に鋭くされては、ますます迫力に磨きがかかる。 にかっと笑ってみせると、伊佐は虚を突かれたようにきょとんとして、「仕方ないなぁ」と言うように前髪を指でいじりながら苦く笑った 。 また、窓の外に想いを向ける。 今日もタキ先輩は元気だ。 あたしも嬉しい。 だから笑える日になるだろう。 じんわり、じんわりと。 日毎想いは広がっていく。 コンクリートに染み込む、雨のような恋だ。
■こんなはずじゃなかった。─3 □秋 (2007/02/23(Fri) 11:54:31) 今朝も登校途中に道端で抱き付いてきた馨を怒鳴って殴って頭突きした。 彼女に懐かれてからというもの、私の朝に平穏はない。 【コミカルライフ】 何とか馨を引き剥がして教室に辿り着くとすでに佐保ちゃんが席に座っていたので、私は鞄を自分の机に置きながら彼女にとくと馨のアホ さ加減を話して聞かせた。 毎度の事だと言うように、「ふーん」と佐保ちゃんは手にした文庫本から顔を上げずに相槌を打つ。 「最近佐保ちゃん、ちゃんと話聞いてくれなくなった…」 あの優しかった在りし日のあなたはどこへ?、芝居がかって机に突っ伏し泣き真似をしてみせると、 「気色悪い」 ぺらり、とページがめくられる音と共に一刀両断。 本当に、顔に似合わず口が悪い。 「……佐保ちゃーん」 恨みがましく顔を上げて非難の目を隣に向けると、「冗談よ」とこちらを見て笑っていた。 「尻尾振られて悪い気はしないんじゃない?」 「でも毎回あれじゃ困るよ」 「迷惑?」 「当たり前じゃんっ!」 「本気で、迷惑?」 「う…それは、」 言葉に詰まると、「私はいい傾向だと思うけどなー」佐保ちゃんは自身の髪の毛先をいじくりながらさらりと言った。 「多喜って喜怒哀楽ははっきりしてるけど、他人に感情ぶつける方じゃないでしょ。怒っても我慢するタイプ」 あ、枝毛、呟いて顔をしかめる。 「でも今は感情を剥き出しにしてる」 と、再び本に目を戻して言った。 「それが、『むかつく!』とか『腹立つ!』って気持ちでもいいの?」 「そーゆーのが表に出せるのが大切」 むしろそっちの方が押し込めやすいものでしょ、と彼女。 ううむと唸っていると、話は終わったとばかりに佐保ちゃんは本格的に読書へと集中し出した。 結局話を聞いてくれるなら最初からそうしてくれればいいものを、と思いながらも無駄だと知っているので口にはしない。 それにどうしたってこの人は突き放したりはしないから。 大人だ、と思う。 同じ17歳なのに、佐保ちゃんは大人だ。 冷たく見られがちなのはその気遣いがさりげないから。 友人歴は高校からと浅いけれど、最近何となくわかってきた気がする。 いつでも平常心で、取り乱す事などあるのだろうか。 私にはあんな事を言うくせに、自分はそんなとこを見せないんだ、絶対。 小説を読んでいる風を装っているカバーのかかった文庫本が実は参考書だって事、私はとっくに気付いている。 ファンデーションで何とかごまかしてはいるものの、白い肌にうっすら隈が滲んでいる事だって。 頭の良い人の苦労は、私にはわからない。 現在高二の十一月、年が明ければ受験生に一歩近付く。 「受験」なんて私にはいまいち実感に欠けていて、来年の事だ、あと一年も先の話じゃないかとのほほんとしているけれど。 佐保ちゃんは国立大を受けるのだと噂に聞いた。 親や教師からのプレッシャーも相当だろう。 それでも佐保ちゃんは何でもないという顔で平然としている。 最近疲れている、それに気が付かないほどの友情じゃないよ、佐保ちゃん。 根を詰め過ぎじゃないか、無理をしているんじゃないかって、そう思うけれど、この人は「別に」と言うだけだろうから。 「今日何かあるの?」 代わりにこんな事を聞いてみる。 「どうして?」 佐保ちゃんはわずかに本から顔を上げた。 「何となく嬉しそうだから」 「別に」とは言わず、「…帰りに幼馴染みと会う約束があって」それだけ言ってまた本に視線を落とす。 「顔見るの久々だから元気かなってくらいで、別に…」 嬉しいわけではない、と続けたいのだろうけれど、私は笑いを噛み締めていた。 悩みを分けてはくれないなら、こんな部分を分かち合いたいなと、最近はそんな事を思っている。 そして見知らぬ佐保ちゃんの幼馴染みを思い浮かべた。 話にはちらりと聞いた事がある。 家が隣同士の、違う高校に通う同い年。 彼女の仲良しさんだからさぞや大人びた人なのだろうと思ったら、「自己中で無責任で喧嘩なんてしょっちゅうだ」と佐保ちゃんはぼやい ていた。 クールな彼女が誰かと感情的になって喧嘩をする姿なんて想像がつかない。 だからきっと、その「幼馴染み」が佐保ちゃんの解放される場所なのだろう。 心配などしようものなら「余計なお世話」と突っ撥ねられてしまうだろうし、むしろ私が甘えている立場なのでそんな事は恐れ多くてでき ないけれど。 佐保ちゃんにも、ぶつけられる存在がいる。 そう思ってほっとした。 ほっとしたところで、はっとなった。 「にも」ってなんだ、「にも」って! 馨は私にとって心安まる場所じゃない!断じて、だ! しっかり、私!と気合を入れて頬を叩くと、「今日はいつにも増してうるさいなぁ」佐保ちゃんのうんざりしたような声が聞こえた。 怒鳴って殴って頭突きして。 毎日毎日満身創痍な私だけど。 「本気で迷惑」というわけではないものだから困るのだ。
■こんなはずじゃなかった。─4 □秋 (2007/02/23(Fri) 11:55:40) ゆるゆると瞼が落ちてしまうのは、いつになく優しい歩き方をするせいだ。 【ゆら、ゆらり】 お互いの中間地点だからと言って、駅前なんかで待ち合わせをしなければよかった。 「何か嫌な事あった?」 私を背負っている奴が、振り返らずに言う。 ゆらゆらゆらゆら、背中が揺れる。 今日は部活もバイトもないからと、久しぶりに一緒に帰ろうかと言う話になった。 いつもは夕飯後、隣り合う互いの家を家族に不審がられない頻度で行き来している。 だからまともな「デート」なんて本当に久しぶりだった。 それなのに待っている間ナンパ男に絡まれて、無視を決め込んだら逆上されて、逃げようとしたら転んで膝を擦り剥いて。 そんな時になってからようやく、今私を背負っているやつが現れた。 あんたが遅刻してくるからと、足が痛いやら悔しいやらで何だか無性に子供っぽく喚いてしまって、デートどころじゃなくなった。 「いらない」って言ったのに、「足怪我してる」と強引に背中におぶわれて、こうして帰路を辿っている。 「こんな事があって、嫌な事じゃないとでも?」 嫌味ったらしく言ってやる。 「そうじゃなくて」 いつになくゆっくりとした速度で歩く彼女が言う。 普段なんて、私と歩いていようとお構いなしですたすたとマイペースに先を歩いてしまうのに。 「家で、ってこと」 あった。 けれどそんな事、一言だって言ってない。 『あなた達が仲良いのは昔からだけどね、学校も違うのに少しべったりし過ぎじゃない?』 『それに佐保、あなた最近成績落ち気味でしょう?』 『そりゃあね、夏緒ちゃんがいい子なのは知ってるし、あの子のせいとは言いたくないけど…』 『夏緒ちゃんだって学校のお友達がいるでしょう』 『少し距離を置いたらどう?』 分かっている。 分かっているんだ、そんな事。 けれどこれは私の問題で、何で夏緒を引き合いに出すのかと腹が立つ。 距離を置け、余計なお世話もいいところだ。 ましてや久々に外で会うって時に、そんな話をしなくてもいいじゃないか。 どんな思いで傍に居るかなど、知らないくせに。 知られるわけにもいかないけれど。 夏緒の背中に額を押し当てる。 情けないような泣きたい気分だ。 「…別に」 「わかってんだよ、あんたがあたしの事で困ってるのは」 人の話を聞け。 「でもしょうがないな。惚れた弱みだ」 「…誰が誰に惚れてるって?」 ん?と、心底不思議そうに首を傾げる夏緒。 「あたしが、あんたに、だけど?」 ますます顔が上げられなくなった。 首に回した腕にわずかに力を込めて、襟足に顔を埋める。 体育があったのだろう、ふんわりとした夏緒の香りに混じって汗の匂いがする。 いざとなったら佐保を攫って駆け落ちかなと笑うので、背中が揺れて鼻先に当たる夏緒の髪がくすぐったかった。 ゆるりゆるり、背中のリズムが心地良い。 家が隣の幼馴染み、どうせ帰る先は一緒だ。 「寝る」 一言言って、瞼を閉じた。 あんたと一緒じゃ共倒れだ、冗談じゃない、そんな憎まれ口を叩いたけれど。 攫われてやってもいいと、思っている。
■こんなはずじゃなかった。─5 □秋 (2007/02/23(Fri) 11:56:44) 世界なんてくそったれだ。 【少女達が見つめる景色】 どうしてアイツを選んだのか、そこに意味なんてない。 ただ一番近くに居たから、それだけだ。 だから最近思う。 近くに居たのがアイツだったって事に、意味があるんじゃないかって。 気付いたら側に居た。 幼馴染みの認識なんてそんなもんだと思う。 同い年だし、家なんて隣だし、ちっちゃい頃の遊び相手として互いが手頃だったんだろう。 いつも一緒にいようね、そんな愚かな約束ごとなんてした覚えはないけど、それでも気付けば行動を共にしていた。 『どうして佐保はいつもつまんなそうな顔してんの?』 『だってつまらないから』 『ふーん』 『そういう夏緒はどうなのよ。いつもにこにこ笑ってて』 『つまらないから、だよ』 『私は結構素直じゃないけど、あんたも相当屈折してる』 そう言う佐保の口の端はわずかに上がっていた。 小中と同じ学び舎で過ごしたあたし達の、そこが岐路だった。 『佐保、合格おめでと。あそここの辺のトップ校じゃん。さすがだね』 『夏緒こそ、先にスポーツ推薦受かってたじゃない』 『高校から別々かー』 『今までずっと同じ学校だったから変な感じね』 『寂しい?』 『……推薦落ちたらこっち来るって言ってたからちょっと期待してた』 『不吉な事言うな。大体あたしの頭で佐保と同じとこなんか行けないって。あたしからバスケ取ったら何が残んの』 『それはそうだけど』 『少しぐらい否定しろよっ』 家が隣同士とは言え、高校生になってからは生活時間はばらばら。 今までのように一緒に登下校、なんてわけにはいかなくなった。 朝練があるあたしは早くに家を出て、放課後も部活を終えて帰宅すると結構な時間になっている。 休日は返上でやっぱり部活。 高校生の醍醐味だとバイトまで始めちゃってたものだから、部活がない日もなかなかに忙しい。 佐保は佐保で予備校に通い、ない日は駅前の図書館に篭り、勉強勉強の毎日のようだった。 ゆるゆるなあたしの家に比べ、あいつの親は娘に過剰な愛情と期待を注いでいたから。 そんなわけであまり顔を合わせる機会が無くなったあたし達。 疎遠になるきっかけなんて案外こんなものかもしれないなんて思ったり。 実際、毎日は目まぐるしく過ぎていったし。 それでも時々は思い出したりしてた、何してるかな、元気かな、なんて。 きっと、佐保もそうだったんだと思う。 部活が終わってあぁお腹減ったななんて呟きながら家路を辿る。 夕暮れをとっくに過ぎて、辺りはもう濃い闇。 だから家の門扉に手をかけるまでそこに人が立ってるなんて気付かなかった。 佐保、がいた。 夕食後うちに来て、ずっと待っていたらしい。 その時のあたしは、ひどく驚いたようでいて、何だかそれを予期していたようでもあったかもしれない。 母親に「ただいま」と佐保の来訪だけを告げて、あたしの部屋へ入った。 空腹は忘れていた。 ほんの三ヶ月だ、離れていたのは。 それなのにあたしの部屋に佐保がいる、とても懐かしい光景に思えた。 一番最初に何を口にしたのかなんて覚えてない。 そもそも何を話したのかさえ忘れてしまった。 しばらく言葉を交わしていた気がする。 やがて会話が途切れて、沈黙した。 静寂が続いて、佐保の方を見るとこちらを向いていた佐保と目が合った。 何も考えてなかった。 ただ何となく、だ。 1mと離れていない距離の佐保にとても自然に手が伸びた。 佐保の頬に手の平を添える。 思った通り、すべすべしていた。 佐保は黙ってあたしを見つめていた。 親指の腹で佐保の唇をなぞって、それからあたしは触れる程度に口づけた。 顔を離すと、佐保は大して驚いてはいなくて。 ただ、小さく口を開いた。 『どうしてキスしたの?』 『したかったから』 『珍しく正直ね』 『佐保は?どうして避けなかったの?』 『してほしかったから』 『そっちこそ。珍しく素直』 くくっと笑うと佐保も笑った。 どうやら縁というものは、そう易々と千切れるものじゃないらしい。 「夏緒?寝てるの?」 部屋の外で佐保の声がする。 あたしはベッドの上で雑誌に顔を埋めて突っ伏していた。 佐保が来るまでの暇潰しのつもりがいつのまにか寝てしまったようだ。 それにしても随分懐かしい夢を見たものだと、一度大きく伸びをしてから立ち上がって佐保を部屋へと招き入れた。 ベッドを背にしてラグマットに座ると、佐保もあたしの隣に座り込んだ。 あたしの肩に頭を預けるようにして静かに寄り添う佐保に、珍しいなと思う。 視線だけを佐保に向けて、ちらと顔を覗き見る。 佐保は瞼を伏せ、緩やかに呼吸していた。 相変わらずの白い肌、だからこそ余計に目の下の隈が目立つ。 少し痩せた気もする。 大丈夫?、無理するな、そんな言葉は絶対言わない。そもそも思ってもいない。 佐保だって弱音は吐かないし、あたしに心配される事に吐き気すら覚えるだろう。 だから素直に肩を貸してやる、それぐらいがちょうどいい。 「この後図書館?」 何の気なしに言葉をかける。 部活もバイトもない日曜日。 いつも通り図書館に行く佐保は、その前に少しだけあたしの家に寄ると言っていた。 現に今こうして隣にいる。 「んー」 あたしの問いに、気の抜けたような返事。 気にせずに続けた。 「あたしもそろそろ進路ちゃんと考えっかなー」 「引退まではバスケに打ち込んでなさいよ。あんたの取り柄なんだし」 「それもそうか」と笑ったら、佐保は綺麗に苦笑した。 「──大学も、やっぱりバスケで推薦狙ってる?」 「んーん、部活はもういい。バスケは続けるけどね、あくまでも趣味の範疇」 今回は一般で試験受けなきゃなー、つーかあたし大学そんなに知んないわ、まずは大学選びからかめんどいなちくしょう、などとぼやいて いたら、 「私と同じ大学受ければ?」 悪戯めいた佐保の声。 「…無茶言うな。そんなとこ行くなんて言ったらお母さんびっくりしてぶっ倒れちゃうって」 「それじゃあ私が夏緒と同じとこ行こうかな」 「それこそあんたんとこのおばさんがぶっ倒れるっつーの」 くすくすと佐保が笑いを堪えているのが肩越しに伝わる。 ひとしきり笑って落ち着くと、 「──…夏緒がいたら、楽しいだろうな」 息をするようにぽつりとこぼした。 「…高校楽しいっしょ?」 「うん」 「あたしも楽しんでるよ」 「知ってる」 佐保は顔を上げた。 自然とあたしもそちらを向く。 だから目が合うのも必然。 「一緒にいられる時間て限られてると思うの。当人の意志に関わらず、ね」 縋るような瞳ではないけど、ひどく力が込められた視線。 やっぱりコイツって綺麗な顔してんだ、的外れな事を思う。 冷たさすら漂う美貌を少しは崩して笑ったらどうか、と。 いつだったか、あんたは緊張感に欠けるのだと呆れたようにぼやかれた事を思い出す。 それは少々間の抜けたこの垂れ目に文句を言っていただきたい。 「限られた時間なら、どう過ごすかじゃなくて誰と過ごすかだわ」 静かに、淡々と言う佐保。 「どうして佐保はそんなに切迫した物の考え方するかなぁ」 「夏緒が楽観的過ぎるの」 キッと、睨まれる。 「──私は瞬きすら惜しいのに」 「そんなにあたしを見てたいかい?」と言ったら、更に鋭く睨まれた。 その筋の血を引いているんじゃないだろうかと時々思う。 「誰と過ごすか、ねぇ」 けれどこれは真実かもしれない。 『一緒に居たい人と居る』 言葉にすると単純だけど、これがなかなかままならないものだから。 「またおばさんに何か言われた?」 なるべく自然に訊ねたけど、案の定佐保は「…別に」と答えて口を噤んでしまった。 どうして誰かの隣に立つという事が、簡単そうに見えてこうも難しいのか。 あたしだってわかってる。 それを難しくさせてるのはいつだって身近な第三者だって事も。 本当に、馬鹿げてる。 「そろそろ図書館行く」 あたしの肩から佐保の重みが消えた。 同時にすーっと熱も引く。 佐保はさっさと立ち上がると、「じゃあね」と言って部屋の戸に手を掛けた。 開かれた扉に吸い込まれるようにして消える背中を見ながら、瞬きさえ惜しんで目に焼きつける暇を与えてくれないのはどっちだ、そんな らしくもない事を思ってしまった。 やれやれと頭を掻いて立ち上がる。 階段をぎしぎし言わせながら下りると、玄関でブーツを履いていた佐保はその物音に振り向いた。 「コンビニ行くから。駅まで一緒行こ」 何も答えない佐保。 返事の代わりにあたしがスニーカーを履くのを待っていた。 日曜の昼下がり、冬を感じさせる空気に身震いし、それでも陽射しは暖かい。 見上げた空の近さに、今なら手を伸ばせば届くんじゃないかと思う。 「珍しい」 「ん?」 「ふたりで外歩くの」 「あー」 そう言えば久しぶりかもしれない。 空はさすがに無理だから、だいぶ家から離れたところでこっそり佐保に手を伸ばしてみた。 佐保はちょっと驚いて、そして静かに指を絡めて応えてくれた。 「あたし、佐保と同じ大学目指してみようかな」 「…どうしたの、急に」 「んー、瞬きを惜しんでみようかと」 「何それ、意味わかんない」 「一緒に居たい、って事」 ばかじゃないの、小さく漏らして俯いた佐保の耳は真っ赤だ。 「…じゃあ勉強しなきゃね」 「うん。でも当面は部活があるし、そもそもあたしの学力じゃやっぱ不安だなー」 「やる前から弱気でどうするの。絶対受かってやる、ぐらいの意気込み見せてよ」 「受験するからには合格する気はあるけどさ、まぁそこはあたしだし、死なない程度に一応必死で頑張るよ。だからそんなに期待しないで 楽しみにしてて」 「何なの、その消極的なやる気は…」 苦笑しながらも佐保は楽しそうだった。 つられてあたしも笑った。 居たい人と共に居る。 そんな単純な事さえも簡単に叶えてやれず、ましてや願いなんて呼んでしまうほどに、あたし達はまだまだ無力な子供だ。 だからせめて、駅前までこの手が繋がったままならいい。 世界は猜疑と欺瞞で満ち満ちていて、ちっとも綺麗なんかじゃなくて、つまりあれだ、言葉を取り繕わなければ、くそったれだ。 それでも時々くすんだ光も射すから、霞む視界に目が眩む。 あぁ、掃き溜めに花束をしみったれた空に愛の手を。
■こんなはずじゃなかった。─6 □秋 (2007/02/23(Fri) 11:57:45) 「あ、忍くんが練習してる」 「袴姿似合ってるね〜」 武道場の入口は今日も相変わらず騒がしい。 いくらひそひそ声でも数が揃えば騒音と変わらないというものだ。 せっかくの昼休み、神経を研ぎ澄まし自主練に興じているというのに、何故こうも群がるのか。 道場の入口付近で留まっているからまだ許せるが、中にまで上がってこられたらいくら私でも怒りを抑える自信がない。 入口からこちらを覗き込むようにしてたむろする彼女達を一瞥し、 「忍くん、相変わらず素っ気ない」 「でもそこがクールでいいんじゃない」 「学校の王子様だしね」 それらの声を掻き消すように、わずかに息を吸い込んで竹刀を構えた。 【傍らに立つ】 昼休みも終わりに近付いた頃、更衣室で手早く制服に着替えて道場を後にした。 案の定入口にはまだ数人の上級生の群れ。 小さく息を吐くと、 「あ、伊佐お疲れー」 その輪の中に頭一つ分飛び出た、馨の姿があった。 何してんだ、と目だけで問う。 馨はにぃっと笑む。 「忍くん待ってる間、馨ちゃんとお喋りしてたのよ」 馨を囲む内の一人がやけに甘ったるい声で言った。 だから何で待ってんだ、うんざりして顔をしかめると、 「そうそう、楽しくお喋りしてたんですよねー」 相変わらずの愛想の良い笑顔で馨が相槌を打った。 それに応えて周囲も笑顔で頷く。 「あーでももう昼休み終わりですね」 伊佐が着替えるの遅いからー、と腕に嵌めた時計を見てわざとらしく馨は溜め息を吐いた。 「先輩達急がなきゃ。次、教室移動なんでしょ?授業遅れちゃいますよー」 そして彼女らににっこり笑い掛ける。 その言葉にはっとなって、 「そうだった!」 「忍くん、練習お疲れ様!」 「それじゃあね、忍くん、馨ちゃん」 「またねー」 慌てて武道場と校舎を繋ぐ通路を駆けて行った。 その背中にひらひらと馨は手を振っている。 ひら、と。 その手を降ろしながら。 「忍¨クン¨、だって」 呼び名の部分に力を込めて、くっくっと可笑しそうに喉を鳴らした。 「伊佐は女なのに」 低く、吐き捨てるように言う。 その眼はまったく笑っていない。 「王子、王子」と、普段はからかうように私を茶化すものの、その異名を嫌悪しているのは私以上に馨だ。 「こんな見た目だ、しょうがない」 私は息をするように漏らして、二人並んで通路を歩き出した。 「だからって」 不満げに鼻を鳴らす馨をちらりと見て、 「目、怖い」 言ってやる。 馨は一瞬「は?」と眉を寄せ、すぐに「あぁ…」と小さく息を吐くと、私の方を見てにっこり笑った。 馨は、本当に綺麗な笑顔をすると思う。 上手に上手に、笑う。 その笑顔を私はあまり好きではない。 「完璧過ぎる笑みは逆に嘘っぽく見えるよ」 馨をちらと一瞥し、言う。 「あら、なかなか言うね」 馨はおどけた口調で言って、やっぱりいつものようにくっくっと楽しそうに笑った。 「どうせ伊佐にしかわかんないよ」 相変わらず顔は笑みを絶やさないが、声は幾分真剣に響いた。 。 通路を渡りきり、校舎に差し掛かると生徒の数も増え始める。 ちらちらとこちらを盗み見するような視線。 私の顔を見ては連れ合いと互いにこそこそと耳打ちをする。 その会話の端々に「王子」だの「伊佐くん」だのと聞こえる単語。 堪らなく不快だ。 不意にぽんと軽く背中を叩かれる。 馨の手。 「伊佐ってば目怖い」 先程の仕返しか、私の顔を覗き込んだ馨は自身の眉間を指先で示してにぃっと笑った。 そしてその笑みを緩めると、 「──伊佐は伊佐なんだから、¨皆の王子¨になる必要なんかないんだよ」 諭すように、穏やかに、言う。 私は小さく息を飲み込んだ。 馨は本当に人の感情に聡いと思う。 どこまでわかっているのだろうか、とも。 「…ん、大丈夫」 返事をすると、「そっか」それ以上は何も言わなかった。 「そっちは?最近、家どうなの」 一呼吸置いてから訊ねる。 馨は一瞬きょとんとして、「…──べーつに。相変わらずだよ」と口の端を持ち上げる。 「人の心配はするくせに私には心配させてくれないな、いつも」 「そんなんじゃないってば」 アハハと馨は苦笑した。 「あたしん家は前からああじゃん?今更どうもないって」 「強がるな」 馨を真っ直ぐに見据えると、「信用ないなー」と薄茶色の髪を掻き上げて、 「あたしが元気でいるってだけじゃだめ?」 にっこりと、綺麗に笑った。 これ以上はもう何も言えない。 言ったところでどうせのらりくらりとはぐらかされるだけだ。 肝心な事は、馨は何も口にしないだろう。 私は嘆息した。 本当にポーカーフェイスが上手くなったなと思う。馨は笑顔の中にすべてを隠す。 小学生からの悪友だけれど、はぐらかし方は今よりもっと素直だった。 笑い方も、もっとずっと。 それでも──… 「あの先輩、保健委員だったんだな」 会話が途絶えてしまって廊下に二人分の足音だけが響く中、呟いてみせる。 瞬時に馨は、 「タキ先輩?」 こちらを向いた。 「こないだ保健室でちょこまか動いてた」 先日たまたま通り掛かった時に季節外れの大掃除をしていた。 ばたばたとソファやら机を移動させ箒を駆使し、埃が舞っている室内。 これから来訪者がある事も十分考えられるのに衛生的にどうなのかと、疑問に思う反面、雑巾で床を拭き終わってやけに清々しくいい笑顔 を浮かべる小さい人を見てちょっとおかしくなった事を思い出す。 案の定馨は、 「イイ!さすがタキ先輩っ!」 ぶはっと吹き出した。 「何でも一生懸命だから、あの人」 「やる気が空回りしてるようにも見えるけど」 「そこがカワイイんじゃん」 くくく、と馨は喉を鳴らす。 「ってか、よく知ってたね。タキ先輩の事」 「あれだけ横で騒がれれば覚えるよ」 「あ、さては惚れた?惚れちゃった?」 「何でそうなる…」 「でもそれはだめだな、先輩はあたしのだ」 「まだ馨のじゃないだろ」 「あー!やっぱ伊佐も狙ってんだ!」 誰かこいつの口を塞いでくれ、頭が痛くなってきたけれど。 「──相当好きだね、そのタキ先輩とやらを」 「そりゃ好きさ」 破顔一笑とはまさにこういう事だろう、馨は目一杯目を細めて、頬を緩めて、邪気なく笑った。 心からの、笑顔。 昔から見慣れた、馨らしいと思える、私の好きな笑顔。 例の彼女を想う時、馨は¨本当に¨笑う。 感謝しないとな、私も馨につられるように顔を綻ばせた。 そんな私の視線に気付いたのか、馨は少しだけバツの悪そうな顔をして、 「何か伊佐はお見通しって感じでムカつくなー」 唇を尖らせた。 「心配させてくれないって言うなら、こっちだってそうだっつーの」 軽く睨むようにして私を見る馨。 「あたしに隠してる事あるっしょ」 伊佐は秘密主義だからなー、わざとらしく溜め息を吐く。 お見通しなのはどっちなんだか、と私は苦笑した。 そうは言ってもそれ以上は決して詮索しないところが心地良い。 それを察して、馨は屈託なくにかっと笑った。 この笑い方を忘れてほしくないからと、言葉を交わした事のない馨の想い人に無責任な願いを託した。 届かなくていい、思っただけだ。 祈りなんてそんなものだろう。 「あ、5限タキ先輩体育だ。確かソフトボールだったかな。全力で空回る姿を見ないとね」 「…時間割まで把握してるのか」 今日もこうして、互いの傍らに立つ。
■こんなはずじゃなかった。─7 □秋 (2007/02/23(Fri) 11:58:41) 視界に入れてしまってからしまったと思った。 瞬時に目を背け、見なかった事にしてその横を素知らぬ顔で通り過ぎようとして。 何だかんだ言って私はお人好しなんだよなと、小さく溜め息をついてから、 昇降口でぼんやりと立ち尽くしている見慣れた人影の隣に立った。 【レイニーデイ─冷たい微熱】 今日は朝からどんよりとした曇り空だった。 テレビのお天気お姉さんも午後には雨が降るでしょうと、出勤登校する人々に傘の持参を強調していた。 予報は大当り。 放課後、図書室に篭ってレポート用の資料集めをしていたら帰る頃にはもはや外はとっぷりと日が暮れて薄暗い。 昼休み辺りからぽつりぽつりと降り始めていた雨も、今はすっかりザァザァと雨足を強めていた。 お姉さんを信じてよかった、鞄から折たたみ傘を取り出す。 さぁ帰ろうと靴を履き替えたところで、見てしまったのだ。 昇降口の入口で一人佇む背中を。 すらりとした体躯、きらきらと明るい薄茶色の髪。 後ろ姿だけでそれが誰だか十分わかってしまう。 わかってしまったので気付かなかった事にしてしまう事にした。 そう決め込んだ。 どうせあいつなら、持ち前の愛想の良さと顔の広さで通りかかる生徒の傘に入れてもらう事なんてわけないだろう。 だから私が入れてやる必要なんてないのだ。 心の中で強く頷いて、できるだけ静かに通り過ぎようとした。 ──…それなのに。 下校時間はとっくに過ぎて、ほとんどの生徒は帰宅してしまっている。 通りかかる生徒なんてもはや皆無かもしれないなんて事に、何で気付いてしまったのだろう。 あぁ、もうっ! 私はずかずかとその人影に近付いて、ずいっと広げた傘を差し出した。 こちらをゆっくりと振り向いた顔は、私と傘を交互に見て驚いたようにわずかに目を大きくさせた。 「…入れば」 私の言葉に、いつものようにハイテンションにじゃれついてくるどころかきょとんとしている。 「あーもう!馨もどうせ電車通学でしょ?駅までなら入れてやるって言ってんの!入るの?入らないの?」 早口でまくしたてると、「やー助かります。ありがとうございます」ようやく目尻を下げてへらりと笑った。 その穏やかな声にも拍子抜けする。 何だかいつもと違うテンションだと調子が狂ってしまうじゃないか。 犬って雨に弱かったっけと思いながら昇降口から出ようとすると、馨が私の方へと手を伸ばし傘の柄を掴んでひょいと取り上げた。 「あたしが持ちます」 にっこり笑う馨。 「え?いーよ、私が持つって」 取り返そうと手を伸ばすと、傘を持った手を高々と上げられてしまった。 「ほら、先輩が持ったらあたしが入れないし」 あぁ成程、身長差があるからね。 と瞬時に納得してしまった自分に腹が立つ。 そういうつもりはなかったのだろうけど暗にちっちゃいと言っている馨にも腹が立って、思い切り脛を蹴っ飛ばしてやった。 案の定馨は声にならない呻き声を上げる。 それで傘持ちの許可としてやろう。 「先輩、女の子なんだからこう乱暴なのはどうかと」 「余計なお世話」 「そんな事言ってると婚期逃しますよー」 「もっと余計なお世話だっ」 「まぁ最終的にはあたしがもらってあげますけど」 「ほんとに馨と話してると疲れるなぁ…」 「ん?お疲れですか?どっかで休憩してきます?この辺ホテルあったかなー」 「ねぇ芹澤さん。人と会話する気あるのかな」 歩き始めると馨は相変わらずの軽口を叩く。 そのいつも通りの様子にどこかほっとする。 初冬の雨は外気を冷やして、カーテンのようにザァザァと降り注いでは周囲の音と視界を奪っていた。 その上傘のせいで余計に世界が狭まっている。 「あ、先輩もうちょっとこっちに寄って。濡れちゃいますよ」 右側に立つ馨の腕に肩がぶつかった。 慌てて離れようとすると、「だから濡れちゃいますってば」馨にそれを押しとどめられる。 何となく腕と肩が触れ合ったままで歩き続ける。 ブレザーを隔てて、そこだけ熱が宿っていて何だかそわそわした気分になった。 この温度はあたしか、馨か、どちらのものだろうか。 毎日毎日抱きつかれて慣れているはずなのに、この距離には何となく照れてしまった。 そういえば並んで歩くなんて初めてかもしれない。 この帰り道、軽口は叩くものの馨からは触れてきていない事にも気が付く。 あぁ、本当に調子が狂う。 「だいぶ弱くなりましたね、雨」 駅前のアーケードまで差し掛かると傘を下げながら馨が言った。 雨粒を振り払い、綺麗に折り畳んだ傘を私に差し出す。 「ありがとうございました」 にっこりと笑って。 「あぁ、うん…」 ぼんやりと答えて受け取ると、くるりと私の正面に立ち、 「それじゃあたしあっちなんで」 へらへらと笑いながら手を振った。 馨の前髪からぽたり、と。雫が落ちる。 ─あれ? 声をかける暇もなく、「タキ先輩、また明日」馨は反対側のホームへ駆けて行ってしまった。 その背中を呆然と、そして半ば呆れつつ見送る。 並んで歩いていた時は気付かなかったけれど、正面を臨んでようやく見えた。 馨の藍色のブレザーは深い紺に変わっていて。髪からも雨粒が垂れていた。 無傷だったのは私が居た左側の腕だけで。 元々大きな造りではない折り畳み傘、二人も入ればぎゅうぎゅうだ。 きっと私の方に傾けていたのだろう。 そのお陰か、私のブレザーは雨の被害なんてさっぱり感じさせず、変色すら見られない綺麗なものだ。 馨め、あれ程私が濡れないか気遣っていたくせに。 「自分が濡れてんじゃん…」 さりげなくかばうのはやめてほしい。 どうしていいかわからなくなるじゃないか。 呟いて、そっと右肩に触れてみた。 だいぶ冷めてしまったものの、そこにはしっかりと確かな温度が残っていて。 その熱は、やっぱり私の調子を狂わせる。
■こんなはずじゃなかった。─8 □秋 (2007/02/23(Fri) 11:59:56) せっかく見逃してあげたのにのこのこやってくるなんて。 呆れるぐらい、根っからの善人だ。 ばかだね、なんて迂闊なのだろう。 ますます愛しくなってしまうじゃないか。 【レイニーデイ─識る】 雨が降ったから放課後のグラウンドは使えなかった。 外練が中止の場合は室内で筋トレメニューというのが陸上部。 けれどこの日は体育館の使用許可が下りず、そのまま部活は急遽休みになってしまった。 ─今日雨だなんて聞いてない。 教室の窓から、無遠慮に降りしきる大粒の雨を睨みつけて心中で舌打ちする。 帰ろうにも傘がない。 この様子じゃ駅まで走ればびしょ濡れだ。 その辺の人間を捕まえて相傘してもらうのは容易いけれど、今日は駅までの距離を適当なお喋りに付き合ってへらへらと笑っていられる気 分でもなかった。 「馨ー、帰らないの?あ、もしかして傘ないとか?入ってく?」 帰り支度を始めているクラスメイトに声を掛けられる。 「ありがとー。でも用事あるからまだ帰んない」 窓辺から頭だけで振り向いて、にっこり笑って「ばいばーい」と調子良く手を振った。 わかったじゃあね、そう言いながら、一人、また一人と教室から人が減っていく。 また窓の外を見る。 雨足が弱まった頃に一気に走って帰ろうかと思っていたが、その気配はまったくない。 一つ、溜め息が漏れた。 仕方ない、伊佐の部活が終わるのを待って一緒に帰ろう。 そう考えて自分の机に着いて、頬杖をつきながらぼんやりと雨を眺めていた。 いつ、眠ってしまったのか。 全然覚えていない。 気が付いたら窓の外は暗い、教室も暗い。 雨の音だけがやけに耳障りで、未だに遠ざかっていない事を主張していた。 しまった、と顔をしかめる。 時計はとっくに下校時刻を過ぎている。 廊下に出ても人の気配はしない。 この分じゃ、伊佐もとうに部活を終えて家路についているだろう。 まいったな、つい口からこぼれたものの、それほど焦りも不安もなく、薄暗い廊下をゆったりとした足取りで歩いた。 昇降口に辿り着いたところで、さてどうしよう、改めて考える。 やはり人っ子一人いない。 土砂降りの雨の中、いくら駿足が自慢のあたしでもさすがに飛び出していこうとは思わない。 やっぱり雨が上がるまで待つしかないかな、ぼうっとその場で突っ立っていると背後で足音がした。 そちらを静かに振り向くとちらりと小さな人影が過ぎった。 それはそのまま二年の下駄箱の方へと向かう。 あたしは視線を外へと戻した。 先程の人影は靴を履きかえ終えた様子。 ちらちらとこちらを窺っている気配がする。 あたしは顔を外へ向けたまま、横目で彼の人を一瞥して気付かれないよう息を吐いた。 ─ばかだなぁ、先輩。 少しだけ呆れる。 せっかく気付かない振りをしてあげているのに。 普段あれだけあたしに関わりたくなさそうなのだ、ここは構わずにさっさと帰ってしまえばいい。 ─もう暗いんだから早く行ってくださいよ。 つい苛々してしまう。 雨は相変わらずざあざあと欝陶しい。 余計に心がささくれだつ。 ようやく背後で彼女が動く気配がして、ほっとする。 はぁ、と息をついた。 その時だ。 ばっと目の前に傘が差し出された。 一瞬何が起きたのかわからず、瞬きを数度。 私の視界には淡いオレンジの傘、少しだけ目線を落とすと、 「…入れば」 むすっとした顔のタキ先輩がいた。 呆気に取られてついきょとんとしてしまう。 「あーもう!馨もどうせ電車通学でしょ?駅までなら入れてやるって言ってんの!入るの?入らないの?」 そんなあたしに先輩はちょっと怒ったようにまくしたてた。 「──…ありがとうございます」 何とも気が抜けた返事をしてしまった。 そして多分恐ろしく間抜けな笑顔だった気がする。 不意打ちでうまく笑えなかったのだ。 二人して雨の中を一歩踏み出す。 あたしといる時の先輩は割としかめっ面。 そんなに嫌なら無視して帰ってしまえばよかったのに、思わず笑みが漏れる。 この人は、見捨てられない人なのだ。 どこまで人がいいのか。 素直で、正直で、真っ直ぐで、ばかがつくほどお人好し。 堪らなく、愛しい。 嬉しくても泣きたくなるなんて、知らなかった。 黙ってしまったあたしを、「馨?」怪訝な顔で見上げた先輩にへらりと情けなく笑うのだけで精一杯だ。
■こんなはずじゃなかった。─9 □秋 (2007/02/23(Fri) 12:01:03) 当番の日は朝と昼休みと放課後に保健室へと顔を出す。 そして手当を求めてやって来た訪問者に対応したり、この部屋の主たる保健医の瑞樹先生に命じられた雑務をこなす。 それが保健委員である私の仕事。 放課後は馨も部活に出ているし、唯一安らげる私の憩いの一時だった。 【放課後クラッシャー】 ─今日は当番の日だ。 保健室に向かう足を早める。 少しだけホームルームが長引いてしまった。 階段を一気に駆け降りて注意されない程度に廊下を小走りする。 目的の扉の前で深呼吸。 「遅れてごめんなさいっ」 謝りながら勢いよくドアを開けると、目の前にはどーんと壁があった。 よくよく見れば当たり前だが壁ではない。 ちょうど出て行こうとしていたのだろう、私と同じく制服を纏った生徒だった。 私の目線は目の前に立つ彼女に遮られてまったくもって視界ゼロ。 背の高い子だなぁと見上げてみると、彼女もまた私を見下ろしていた。 長めの前髪がさらりとなびいて、そこから覗いた黒耀石のような瞳と目が合った。 どこかで見た事がある、と思って。 ─王子だ。 よく馨と二人で居る、確か伊佐忍、だっけ。 彼女は私を一瞥すると、ぺこりと軽く頭を下げてから私の横を通り過ぎて廊下へ出た。 長い脚ですたすたと歩き、あっという間に背中が小さくなっていく。 それをぼけっと眺めていると、 「神谷、珍しく遅かったね」 凛とした声が私に届いた。 慌てて保健室に入って、「ごめんなさい!ホームルールが長引いちゃって!」深く頭を下げる。 「怒ってはいないよ」 その声にゆっくりと顔を上げると、まっさらな白衣を身に纏った瑞樹先生は薬品棚に手を伸ばしながらくすくすと笑っていた。 しゃんと伸びた背筋。 それほど大きい方ではないけれど身長が高く見えるのは、この綺麗な姿勢のせいだろう。 背中にかかる真っ直ぐな黒髪も、先生によく似合っていた。 「さて、と」 薬品棚をぱたんと閉じて、先生は私に向き直る。 「せっかく罪悪感を感じている事だし、一つ雑用を頼もうかな」 そういうわけで保健室の窓際のデスクで一人ちまちまと作業をしている。 先月行った保健調査アンケートの集計だ。 それも全校生徒分。 その量にうんざりする。 「一生徒が個人のプライバシーを垣間見ちゃっていいんですか?」 意見してみたけれど、 「無記名だから大丈夫だ。それにどうせ回答結果は広報に載せる。問題ないだろう?」 悠然とした調子でにっこり微笑まれてはもはや何も言い返せない。 反論を試みようとは思ってもいないけれど。 そして「じゃあ頼む」と、先生はさっさと保健室から出て行ってしまった。 残されたのは私一人。 もしかして訪問者の対応も私が? それに気付いて、先生のマイペースぶりを少し恨んだ。 「仕方ない、やるかっ」 肩をぐるぐる回して気合を入れる。 アンケートの束に手を伸ばして早速取り掛かった。 不思議なもので集中している時というのは周囲の音がまったく耳に入らない。 そして不意に鳴り始めるのだ。 廊下を行き交う人の雑踏、笑い声。 グラウンドの喧騒。 放課後の音が何となく好きだ。 ふと顔を上げて窓の外に視線を移した。 保健室は怪我人を至急運び込めるようにグラウンドに面している。 だから部活動に勤しむ生徒の様子がよく見えた。 夕日が差し込み、その眩しさに目を細める。 コートの一角でテニス部が素振りをしている。 校庭の中央でソフトボール部が守備練習をしている。 トラックの周辺には陸上部が集まっていて、その集団の中に一際目立つ茶髪が一人。 夕焼けを浴びてキラキラと金色の光を放っていた。 記録を計るのだろうか、コースに並ぶ部員達。 馨も例外ではない。 5人ずつ、順にスタートしていく。 馨が位置に着いた。 笛の音が響いて、一斉に駆け出す。 彼女が走るところを、私は初めて目にした。 いつものへらへらした表情とは違う、ゴールを睨みつける鋭い眼。 駆ける姿はしなやかな獣のようで、風を切る音まで聞こえてきそうだ。 人間というのはこんなにも颯爽と走れるものなのかと、私は食い入るように見つめていた。 ゴールの瞬間まで鮮やかだ。 ごくりと、喉が鳴る。 そこでようやく我に返った。 馨から、一瞬足りとも目が離せなかった。 治まらない動悸が忌々しくて、何だか無性に悔しい。 だから素早くアンケートに目を戻した。 けれどもグラウンドが気になってしょうがない。 もう一度走るところが見たい、なんて思ってしまっている。 だって、あんな姿知らない。 反則だ。 瞼の裏の残像に、思い返すだけで胸が高鳴る。 こんなにも人をわくわくさせるなんて、とんでもないエンターテイナーだ。 「集計ご苦労様。終わったかい?」 ようやく保健室に帰還した瑞樹先生に声を掛けられるまで、私はちらちらと視線を外と書類に行ったり来たりさせていた。 もちろんアンケートはちっとも進んでなどいない。 「ごめんなさいっ!すぐ終わらせちゃいますから!」 慌ててペンを握る私。 「いや、もう下校時間だ。帰る準備をしなさい」 もうそんな時間?!と、壁にかかった時計を見て驚く。 くくくと、瑞樹先生は目尻を下げて苦笑した。 「珍しいな、神谷が仕事を忘れてぼんやりしているなんて」 何か気になる事でも窓の外にあるのかな?と訊ねる先生に、私はあははと曖昧に笑った。 私の平穏な放課後は、馨のせいでこうも易々と崩された。 だってこの日から、気付けばグラウンドが気になって放課後を楽しむどころじゃないのだから。
■こんなはずじゃなかった。─10 □秋 (2007/02/23(Fri) 12:02:06) 身長173cm。 剣道部所属。 人よりは短い髪に、元来の目付きの鋭さ、加えて口数の少なさ。 そこをクールと捉らえられ、ついたあだ名が『王子様』。 ─シノ。 彼女は、誰も呼ばない呼び方で私の事を呼ぶ、唯一の人。 ─可愛いね。 カッコイイ、とは幾度となく言われてきたけれど。 こんな風に言われたのも初めてだ。 ─シノは、可愛いね。 王子の私も、彼女の前ではお姫様だった。 【いつか、あなたと】 その部屋の前まで来て、室内の気配を探る。 人気がないのを確認してから保健室のドアを静かに開けた。 案の定そこに居たのは一人だけ。 自身の縄張りともいうべくこの部屋のソファに腰を下ろし、珍しく気難しい顔をして手にした書類と向き合っていた。 扉の音で来訪者に気付いたのか「おや、客か?」という顔でこちらを振り向き、それが私だと確認すると「あぁ君か」と目元をわずかに緩 ませた。 「少し待っていてくれるかな。すぐ済む」 そう言って書類に目を戻す。 私はなるべく邪魔をしないように静かに彼女に近付き、そっと背後に立った。 相変わらずこの人の白衣は染み一つなく真っ白だ。 今日はいつもさらさらと艶めく黒髪をアップにしていて、うなじの白さが際立つ。 その首筋に静かに手を伸ばし指先を這わせると、 「待っておいでと言っただろう?」 彼女はゆっくりとこちらを振り返って咎めるように私を睨み、けれど口の端はわずかに上がっていた。 「仕方のない子だな、君は」 くっくっと可笑しそうに苦笑する。 「そんなところに立っていないでこっちへおいで」 そして自身の隣をぽんぽんと軽く叩いた。 それに従って私はソファの正面に回り、空いているスペースへ腰を下ろす。 彼女は満足そうに微笑んでいた。 そうしてまた書類に向き合う。 私は少しだけ屈んだ恰好で膝に肘をつき、彼女の横顔をぼんやり眺めた。 また、手を伸ばしたくなる。 私の視線に気付いたのか、彼女はちらとこちらを見た。 そして「本当にしょうがないな」と苦笑する。 「シノ」 私の代わりに手を伸ばしたのは彼女だった。 指先で私の前髪を弄る。 視界にちらちらと映る白い手が眩しい。 彼女は前髪を掻き分けて額にそっと口付けると、くしゃりと髪を撫でつけてから手を離した。 その手を今度は私が取る。 指と指とを絡めてゆっくりとソファに下ろす。 二人の間には繋がれた、手。 触れていれば安心できる、なんて。堪らなく子供じみているとも思ったけれど。 彼女はふっと笑っただけだった。 「シノは可愛いね」 「…そんな事を言うのは瑞樹先生だけです」 「そうか」 また、笑う。 女性らしい容姿にそぐわない口調。 すべてを見透かしているかのような余裕。 私が外見におよそ似つかわしくない行動をしても「君らしいな」と一笑する。 この人の前では、私は限りなく裸に近い。 「いつまでこのままなんですか、私達は」 ぎゅうっと、繋ぐ手にわずかに力を込める。 「今は、私の大事な生徒の一人だからね、君も」 いつも通りの凛とした声で、先生は静かに言葉を落とした。 「それに私も、皆の保健室の先生、だ」 少しだけ困ったように片眉を下げ、苦笑する。 そしてひっそりと続けた。 「君の卒業までの辛抱だよ」 「あと二年もあります」 私は奥歯を噛み締めた。 そんな先の話、と。 けれど先生はゆったりと構えて、 「なに、それぐらい。待つさ」 ふっと笑った。 「私の卒業を待てるんですか?」 「約束しようか」 「…約束とか未来の話なんて、途方もない奇跡みたいなものでしょう」 くっくっと、やっぱり先生は可笑しそうに笑う。 「君は本当に可愛いな」 「からかってるんですか」と少しだけ恨めしげに睨むと、 「奇跡など信じなくてもいいよ。シノは私を信じればいい」 思いの外優しい眼差しを私に向けていた。 「二年もすればシノはもっとイイ女になるだろうからね。それを楽しみに待つというのも、また一興だ」 悠然と、楽しそうに笑う。 繋がれた手の感触も隣に座るこの人の温もりも、今ここに確かに在るものだ。 …奇跡なんて来なくても構わない。 信じるのは──… 私は先生をじっと見て、そして静かに顔を寄せた。 彼女は「おや」と口元を緩め、やがてゆっくりと瞼を閉じた。 普段は王子の呼び名に違和を感じているものの、この人の前では格好良い王子様で在りたいと思う事もある。 けれどいつだって私は守られてばかりで、それが居心地良いものだから、つい甘えてしまう。 だから今は。今だけは。 守ってもらうお姫さまでいたい。 いつかきっと、返すから。
■こんなはずじゃなかった。─11 □秋 (2007/02/23(Fri) 12:03:17) それは、夕焼けの魔力のせいだ。 【トワイライト】 暦は十二月も半ば。 この時期の学生を悩ませるものといえば、そう、期末試験の他ない。 私も例外ではなく間近に迫った試験の範囲と教科書を照らし合わせて、頼りになる友人・佐保ちゃんにヤマを聞いたりと、悪戦苦闘の真っ 只中。 これさえ乗り切れば冬休み、何とか踏ん張ってやろうじゃないかと、帰りのホームルームを終えると私が目指すのは図書室だ。 テスト前だから賑わっているかと思えば、いつも以上にひっそりとしているなかなかの穴場。 皆、真っ直ぐ家に帰って自室の机に向き合うか、駅前の図書館に行くのだろう。 うちは結構な進学校だから、生徒の学習意識は高い。 そんな所に何で私はいるのだろうと頭を捻りながら図書室に入った。 家に帰れば勉強する気が失せる、だから私の場合は学校にいた方がはかどるのだ。 思った通り図書室は数えるほどしか人がいない。 その静けさに「よしっ」心中で掛け声をかけて、奥のテーブルに向かった。 窓から西日が差し込んでいる一角を陣取る。 ちらりと外を見やると、がらんとした校庭が広がっていた。 試験期間中は部活停止期間でもあるから当たり前といったら当たり前なのだけれど、いつも響き渡っている運動部の活発な声が聞こえない 。 誰もいない校庭だけが人の影を落とす事なく夕日でオレンジに染まっている。 あぁこんなに静かなものなんだな、と何となく寂しく思った。 そう言えば図書室も普段よりやけに広く感じられて、窓から差し込む光が室内を茜色に照らしている。 夕焼けってのはどこか人をセンチメンタルにさせるぜ、となかなかにクサい台詞を呟いて苦笑した。 ばかな事を考えていないでそろそろ勉強に取り掛かろうと視線を窓から机に移行させると、 「うわっ!」 いつの間にやら目の前には西日を浴びて金髪に光るゴールデンレトリバー─もとい、馨がいた。 「先輩だめですよ、大きな声出しちゃ。ここ図書室なんだから」 人差し指を口元に当てて「しー」という仕草。 私は慌てて口を手で押さえて、元はといえばあんたのせいだと言わんばかりに、私の向かいに座る馨をギロリと睨みつけた。 それでも馨は素知らぬ顔でにこにこと笑っている。 「…何でここに?」 自然とひそひそ声になる。 「先輩が図書室入ってくのが見えたから」 馨も幾分トーンを落として答えた。 はぁぁと大きく溜め息を吐いて、 「あんたねぇ、放課後そんなに暇なわけ?部活は───…」 そこで気付いた。 「はい、休みだから暇なんです」 にっこり笑う。 「それにしたって暇って事はないでしょ、テスト前なんだから」 言ってみて、何気にこいつは成績がいいんだって事を思い出す。 廊下に貼り出されていた中間試験の順位に驚いた記憶が真新しい。 神様ってのはなんて不公平なんだろう。 馨は、ついむすっとしてしまった私の顔を覗き込み、 「タキ先輩と居る方が大事なんです」 そうやって綺麗に笑ってみせたから何だか脱力してしまって、 「…私は勉強するんだから邪魔しないでよ」 呆れ気味に呟いて手元の教科書を開いた。 馨は「はい」とやけに素直な返事をするものだから、それにも拍子抜けしてしまった。 とは言うものの、 「あのさ…そんなじっと見られてたらやりづらいんだけど」 確かに馨は邪魔していない。 声を掛けてこなければ、ちょっかいも出してはこない。 ただ黙って頬杖をつき、向かいの席に座っている。 真っ直ぐにこちらを見つめながら。 「えー、邪魔してないじゃないですかー」 馨は不満そうに唇を尖らせた。 「視線が気になるのっ。迷惑!」 人差し指をびしっと指して強い語調で言い切る。 「え、」 きょとんとする馨。 しまった、少し強く言い過ぎたかなと訂正しようとして。 「それはあたしの視線にドキドキしちゃうって事ですかね?」 そう思った事を瞬時に後悔する。 こいつと話しているといつも頭が痛くなるのは何でだろうと額を押さえていると、 「まぁ冗談はこれぐらいにして、そろそろ帰りますね」 先程までのおちゃらけたものとは違う、落ち着いた馨の声。 顔を上げたら、 「邪魔しちゃ悪いし」 にっこり笑った。 今日は妙に引き際が早いなと、また拍子抜けする。 「それじゃ勉強頑張ってくださいね」と立ち上がろうとする馨を、 「──馨」 つい呼び止めた。 「はい?」 案の定馨はきょとんとしている。 中途半端に立ち上がりかけて中腰の姿勢。 「何ですか」と、また席に座って私を見た。 何ですかも何も、私が聞きたい。 だってほんとに「つい」だったのだ。 言いあぐねてちらっと馨を見たら、嬉しそうにへらへらと笑っていた。 「…何」 「いやー、先輩が呼び止めてくれるなんて」 それがそこまで喜ぶべき事なのだろうかと、少し呆れる。 それでも目の前の大型犬は尻尾を振るのだ。他の誰でもなく、私に。 しばし思案して、 「馨は…何で私なの?」 躊躇いがちに口にした。 「え?」 聞き返す声に気恥ずかしくなってつい俯く。 「何で私が好きなの?」 女同士なのに…と、口をもごもごさせていると、 「──かっこよかったから」 馨の通る声。 …私が、かっこいい? この背の低さのせいで小動物扱いされる事が常の私が? 驚いて顔を上げ、彼女をまじまじと見る。 「私にかっこいいとこなんて──」 ないよ、と言い切る前に馨はそれを遮るように首を振った。 「先輩はすごくかっこいい」 そしてゆっくりと、丁寧に言葉を紡いだ馨はいつものへらへらした表情ではなく、優しい瞳で私を見ていた。 不覚にもドキリとして。 そんな私をどう思ったのかはわからないけれど、馨はふっと笑うとゆったりとした動作で視線を外へと向けた。 「もう冬ですね」 窓の外の沈む夕日を眺めながらぽつりと漏らした馨の横顔から、私は何故だか目が逸らせなかった。 夕暮れが図書室を朱に染めて、世界から切り取ったのだ。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■18092 / inTopicNo.12)  こんなはずじゃなかった。─12 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(57回)-(2007/02/23(Fri) 12:05:58) いつ好きになったのかははっきりと覚えている。 けれど、いつの間にこれほど好きになってしまったのかはよくわからない。 【サマータイムチルドレン】 昔から背は高かった。 小学校を卒業する頃には160cmをとうに越えていた気がする。 それでも中二ぐらいには成長も落ち着いたのか、168cmであたしの身長は止まった。 その頃のあたしは中学陸上界ではちょっとしたスターだった。 リーチの長い足、バネのような瞬発力。 この駿足こそが、あたしの最大の武器。 そんなわけだから、高校に入学したら運動部から引く手数多なのは当然推測できた事だ。 そりゃ運動神経は半端じゃないし? 知名度だってそこそこあると認識している。 どこだって欲しがるだろうとどこか他人事のように思いながら、勿論あたしは陸上部に入部した。 「真剣に走れ!芹澤っ」 何本目かのダッシュを終えたところに顧問の檄が飛ぶ。 その苛々した声の方を向くと、ストップウォッチに視線を落として顔をしかめていた。 つぅ、と。額に汗が伝う。 じりじりと容赦なく八月の太陽があたしの身を焦がし、手の平で流れる雫を拭った。 「ここ最近、タイムが伸び悩んでるみたいだけど」 コース脇であたしのフォームをチェックしていた部長がゆっくりこちらへ寄ってきた。 「焦っちゃだめだよ」 ぽん、あたしの肩に手を置いて笑いかける。 「ん、だいじょぶです」 その手をやんわり肩から外して、「ちょっと顔洗ってきますねー」へらっと笑ってその場から離れた。 夏休みに入ってからのあたしは何とも調子が悪い。 スランプ、というか、また成長期がやってきたようなのだ。 最近にょきにょきと背が伸びている。 それに伴う節々の痛み、体の軋み。 日に日にサイズが変わるものだから、歩幅の細かい調整、ダッシュの機微やスピードに乗せる軌道を修正しては修正、その繰り返しだ。 一向にこの成長の速度に慣れないから、まるで自分の体じゃないようで、うまく走れなくて、このところゾクリとしている。 この間こっそり保健室で身長を測ったら173cmだった。 とうとうどこぞの王子と並んでしまった。 アイツだってさすがにもう伸びていないだろう。 いつまでこうなのだろうかと、思ってみただけでまた身震いした。 夏休み中の学校は、部活に訪れた生徒以外にも二学期に行われる文化祭準備で活気に満ちている。 人が多いという事はそれなりに人と出くわすわけで。 体育館脇の水飲み場に差し掛かるまで何度か声を掛けられた。見知った顔にも知らない顔にも。 顔が知れているのも楽じゃないと思う。 伊佐なんて入部以来道場付近に見学者が溜まっているものだから、この夏の暑さが相乗して苛立っていた。 「私以外の部員にも迷惑を掛ける」と集中が乱される事を懸念していたっけ。 そりゃそうだ、実力者とは言えまだ一年生。 道場は伊佐のものではないんだから。 蛇口を思い切りひねって、勢いよく流れる水を頭から被った。 真夏の水道は陽射しですっかり温まってしまっている。 ぬるくて、気持ち悪い。 少しもすっきりしなくて、顔を上げて水滴を払うようにぶるぶると頭を振った。 「馨ちゃん、びしょ濡れだー」 不意に掛けられた声にふと振り返る。 生徒が二人、立っていた。 誰だか知らない。 学年色のネクタイが上級生だと示している。 「今日も部活?」 「暑いのに大変だね」 「近くで見ると背高ーい」 好意的に笑いながら近寄ってくる。 グロスが塗りたくられた唇がてらてらと太陽の光に反射した。 「今度の大会はいつなの?選手なんでしょ?」 あたしの方へと手を伸ばして濡れた髪に触れようとしたので、さりげなくそれを避ける。 代わりにがしがしと自身で頭を掻いた。 「あたし一年だし、まだわかりませんよー」 アハハと笑ってみせると、 「でも、馨ちゃんすっごく速いじゃない」 「運動部なんて新歓の時すごかったもんね。争奪戦だったし!」 謙遜する必要ないよ、と無邪気に笑った。 「陸上の世界で有名なんでしょ?結構皆知ってるよー」 「先生達も『我が校から全国レベルの選手が!』って期待してるもんね」 「ねぇねぇ、100m何秒で走れるの?」 膝がまた、ぎしりと軋んだ気がした。 よくもまぁこうぺらぺらと喋れるものだと感心しながら、勝手な事を、と胸の内で吐き捨てる。 こういう事は入学してから割とあった。 今日だって何度か声を掛けられた。 その度にあたしはうんざりする。 第三者の言葉はいつだって無責任だ。 期待されるなんてまっぴらなのに、あたしはあたしの為に走るんだから。 「大会の日は教えてね。見に行くから」 「私達、馨ちゃんのファンなんだよ」 また、屈託なく笑う。 その様子に苛立ちが募る。 「えー、そうなんですか。嬉しいなぁ」 へらりと笑って返してやった。 あたしはあんた達など知らないけれど。 肩にかけたタオルで髪を乱暴に拭う。 夏の陽射しのお陰でだいぶ水分は飛んでいた。 「じゃあそろそろ練習戻りますから」 ひらひらと手を振って駆け出すと、 「頑張ってねー」 「応援してるよ!」 背中に受ける声援。 知らない人間の言葉なんて大して耳には届かないって事、この人達は知らないのだろうか。 もう振り返らずにあたしは走った。 ─あぁ、関節が痛む。 心底心配しているという部長の眼差しと苛々した顧問の声が思い出されて、そのまま校庭に戻る気も起きず、何となく校舎に入った。 夏休みだというのに文化祭準備に訪れた生徒がちらほら。 誰かに会うのが億劫で、一人になれる場所はないものかと人気のない方へと歩いた。 人は二階から上の教室や特別棟に密集しているのか、教務棟の一階は静けさが広がっている。 喧騒が遠くで聞こえて、一階の奥の長い廊下にはあたしの足音だけが響く。 ようやくほっと息をついた。 目を閉じると静寂に溶け込めそうだ。 あたしはそのまま大の字に寝そべった。 ひんやりとした廊下の無機質さ加減があたしの背中を冷やす。 同時に頭も冷ましてくれないか、と思った。 腹が立つのは無責任な他人にだけじゃない。 走れ、走れ。 足に命じる。 もっと速く、もっと機敏に。 どうしてうまくやれないのかと苛立つ自分が嫌だ。 それを危うく表に出しそうになるなんて、よほど余裕を無くしている。 冷静になれよ、と両手で顔を覆った。 「どうしたのっ大丈夫?!」 突然の高い声にぎょっとする。 うっすらと目を開けると、天井ではなく人の顔が映った。 何で人の気配に気付かなかったのだろうと驚くあたし以上に、廊下にしゃがんであたしの顔を覗き込むように見ている目の前の彼女の方が 慌てていた。 「あー良かった、意識はあるね。あなた、ここに倒れてたんだよ」 「は?」 多分この人は何か勘違いをしている。 「今日暑いからね、日射病かな。起き上がれる?」 「あ、いや、大丈夫です」 そもそも自分で寝てたんだし。 「保健室で少し休んだ方がいいかな」と呟くので、面倒な事になったと思いながら「そんな大袈裟なもんじゃないんで」やんわり拒否した 。 けれど彼女は、「日射病を侮るな!」キッとあたしを睨んだ。 有無を言わせない迫力に気圧されるあたしに、 「ほら、保健室行くよ」 手を差し出して起き上がらせる。 そして「はい、乗って」くるりと背中を向けた。 これはもしかして─ 「…おんぶ?あたしを?」 彼女は首だけで振り向いて「そうだよ」と答えた。 よくよく見ればこの人は随分と小柄。 あたしが平均身長よりも高いという事を差し引いても、だ。 これではまるで大人と子供。 いくら何でも無謀ではないだろうか。 「ちょっと無理じゃない…?」 おずおずと提案してみるあたしに苛立ったように彼女は、 「つべこべ言わずにさっさと乗れ!」 素直に従えとばかりに怒鳴りつけた。 その問答無用の言い草に呆気に取られ、少しだけ可笑しくなる。 どうせまだ練習に戻る気はない、保健室でしばらくサボろう。 あたしは小さな彼女の肩に手を掛けた。 やはりと言うか、あたしを背負った彼女の足取りは何とも覚束ない。 乳飲み児が今まさに立ち上がりましたよ、といったような、よたよたとした歩き方。 それが何ともおかしくて、くくくと笑みを噛み締めた。 心許ないこの背中は、不思議と頼り甲斐があった。 保健室に辿り着き、どさりとベッドに体を埋める。 真正面から改めて見た彼女のネクタイは、意外にも二年の学年色。 同い年だと思っていたから少し驚く。 先輩だったのかと、デスクの方で作業している彼女を眺めていると、 「体操服って事は運動部だよね。活動中にちゃんと水分取ってた?こーゆー暑い日は脱水症状が怖いんだよ」 こちらへとやって来て、冷たい麦茶を注いだ紙コップをあたしに差し出す。 受け取りながら、あれ?、と思った。 「それから、訪問者記録書かなきゃいけないからいくつか教えてもらっていいかな」 ひらりと、書きかけの訪問者カードを手にして。 「あなたの名前は?」 やっぱり、と確信した。 ─この人、あたしの事を知らないんだ。 「芹澤、馨です」 自分の名前を誰かに告げるのなんて久しぶりだ、そう思って少し声が掠れた。 「セリザワさん、か」 どんな字書くの?とまた尋ね、さらさらとペンを紙に走らせる。 「それじゃ保健の先生には伝えとくからゆっくり休んでね」 あたしに毛布を掛け、保健室から出て行こうとする背中に、 「ありがとうございました」 声を掛ける。 振り返った彼女は「気にしないで」と笑った。 「私保健委員だし。廊下で行き倒れてたら放っておけないよ」 そもそもそれは勘違いなんだけどな、苦笑する。 「でもさすがにその体でおんぶはきついでしょ」 茶化し気味に言ったら、 「小さい言うなっ、お節介は性分だ!」 怒ったように笑って、「お大事に」と一言添えると今度こそ保健室を後にした。 小さいくせに、嵐のような人だったな。一人ごちる。 いつの間にか膝の痛みは消えていた。 背中の広さと肩の温かさが手の平にひっそりと残って。 夏が過ぎると、今度こそあたしの成長期は終わった。 ─神谷 多喜 後になって知った彼女の名前だ。 「喜びが多い、ね」 ぴったりだと思った。 最初は何となくの興味から。 この人といたら面白いだろうな、なんて。 夏休みが終わって二学期に入るとすぐにタキ先輩に会いに行った。 予想通りというか、先輩はあたしの事を知らなかった。 あの夏助けた後輩の顔をきれいさっぱり忘れていて、「え?誰?」ってきょとんとしていた。 好きです、と言ったら、ますます狼狽えた。 その様子が可笑しくて、しばらく楽しめそうだと思った。 暇潰し、のつもりだったのだ。 それなのに。 「先輩、明けましておめでとうございます」 「うわ、馨…新学期早々運が悪いなぁ」 「ヒドイっ!あたしは冬休み中先輩に会えなくて寂しかったのにっ」 「だー!抱きつくなっ!!」 「充電ぐらいさせてくださいよー」 気付けば季節は夏から冬へ、いつの間にかあなたばかりを追いかけている。 多分、これから先も。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■18093 / inTopicNo.13)  こんなはずじゃなかった。─13 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(58回)-(2007/02/23(Fri) 12:07:33) それはひとえに、彼女の強さなのだろう。 【Lunch!Lunch!Lunch!】 購買でパンを二つ買ってから保健室へと向かった。 今日は当番の日。 昼休みも待機していなければいけないので昼食はおのずと保健室で取る事になる。 「失礼しまーす」 扉を開けると主は不在だった。 本日の当番は私ともう一人。 その彼女も風邪で欠席していると今朝聞いていたから、どうやらこの時間は私一人で過ごさなければならないようだ。 「さみしいなぁ」 呟きながら、手近な椅子を引き寄せてそこに腰掛ける。 保健室は廊下の一番奥に位置しているから訪問者がない限り人気がないのだ。 それに加えて窓の外は校庭ときている。 わーわーとはしゃぐ生徒の声が窓を隔ててがらんとした保健室に響く。 賑やかな昼休みの声は私をしんみりさせるのに十分だった。 「何か惨めだ…」 パンの一つに手を伸ばし、佐保ちゃんに来てもらえばよかったな、泣き言を漏らすと、 「先輩いますー?」 がらりとドアが開かれた。 静かな空間の中ではちょっとした開閉でも大きな音を残す。 私は反射的にそちらを見た。 来訪者が誰だか、もはや語る必要はあるまい。 馨は開けた時とは対称的に入口の戸を静かに閉め、こちらへとやって来る。 「何の用?」 怪訝な顔でその様子を見ていると、 「ランチのお誘いです」 弁当箱の包みをずいっと見せてへらりと笑った。 薄茶色の髪が揺れる。 「たまには一緒に食べましょ」 そう言ってがたがたと椅子を移動させ、私の隣に座った。 「え、先輩のお昼それ?菓子パンばっかり食べてるからそんなに──」 小さいんですよと続けようとする馨の足をとりあえず踏んでおく。 ぎゃっ!と馨が短く悲鳴を上げた気がした。 「今日はたまたま!いつもはちゃんとお弁当だし」 がさがさとパンの袋を乱暴に開ける。 かぶりつこうとしたところで、 「はい、先輩」 何かを摘んだ箸を馨がずいっと私の目の前に差し出したから、ついぱくりと食べてしまった。 じゃこと分葱が入ったほんのり醤油の風味が香る和風の卵焼き。 私の好みは砂糖たっぷりの甘い甘い卵焼きなのだけれど、これは。 「…美味しい」 ごくりと飲み込んでから小さく呟くと、馨は「でしょ?」と得意げに笑った。 「おかず多めにあるんでつまんでください」 購買のパンという何とも味気ない私の昼食にはこの彩り豊かなおかず達は有り難い。 私に割り箸を一膳手渡してから、「いただきます」と馨も弁当に箸をつけた。 卵焼きだけじゃない、きんぴらも白和えも肉じゃがも、和テイストの馨のお弁当はどれも美味しかった。 おいしいおいしいとぱくついていたら、馨は自分はちっとも手を付けないでにこにこと笑って私を見ていた。 それが少し気まずくて、 「せっかくお母さんが作ってくれたんだから馨も食べなよ。さっきから私ばっかり食べてるじゃん」 怒ったように言う。 「美味しいですか?」 「うん、すごく」 素直に頷くと、へへっと嬉しそうに馨は頬を緩ませた。 「あたしが作ったんです、これ」 「───…へ?」 馨の言葉を理解するのに多大な時間を要した。 「きんぴらも肉じゃがも卵焼きも?」 「はい」 「お母さんじゃなくて?」 「はい」 「馨が?」 はい、とやっぱり笑う。 人間見掛けによらないものだ、思わずううむと唸ってしまった。 「いつも自分でお弁当作ってるの?」 「そうですよー」 馨の朝は部活の朝練で相当早いはずだ。 私には真似できそうになない。 「馨が料理うまいなんて意外だったなぁ」 心底驚いたといった感じで、感嘆の声が漏れる。 ちょっとだけ尊敬してしまったから。 「お母さんから教わったの?」 訊きながら、ついでにきんぴらに箸を伸ばした。 「あぁ、うち母親いないんで。家の中の事やってる内に覚えちゃったんでしょうね」 しゃり、と。 口の中でごぼうが弾けた。 …──ん?んんん? あまりにも自然な、まるで世間話をするようなさらりとした軽い物言いに、大して疑問も持たずついつい聞き逃すところだった。 「え?家事も全部やってるの?すごいね、馨!」と、興奮したテンションで尊敬の眼差しを向けそうになって、ぎりぎりのところで思い止 まる。 『うち母親いないんで』 けれどもよくよく考えてみれば。 それって、つまり。 「料理は結構好きですけどねー」 のんびりとした口調で話を続ける声の主を見る。 私にとって衝撃発言をした当の馨は至って普通だった。 私の視線に気付くと、いつものように目尻を下げてへらりと笑う。 「あのさ──…」 何かを言い掛けて、やめた。 馨の事情。 変に邪推しても本当のところはわからない。 興味本位で立ち入っていい領域ではないような気がした。 同情や憐憫の目で見るつもりは更々ないけれど、無遠慮に触れる必要も今はない。 その境目は、わきまえているつもりだ。 「何ですか?」 愛想の良い瞳がじっと私を見つめる。 「──ごちそうさま。すごく美味しかったよ」 飲み込んだ言葉の代わりに素直な感想を告げた。 馨はますます目元を緩めて、ふにゃりと顔を綻ばせた。 「よかった、嬉しいなぁ」 きっと、馨にとっては何でもない事なのかもしれない。 それをさらりと言える強さを、笑っていられる強さを、彼女は持っているのだ。 「卵焼き、また食べたい」 「あ、気に入りました?あれは結構自信作なんです」 また作ってきますね、そう言う馨の笑い声が何となく心地良く耳に残った。 もしかしたら私の勘違いで、彼女の母親は世界を股にかけるばりばりのキャリアウーマンだから滅多に家に帰らない、という顛末かもしれ ないし。 本当に私の想像通りだとしても、ここにいる馨は相変わらずへらへらと笑っているような気がして。 馨が馨でよかったと、心から思ったんだ。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■18094 / inTopicNo.14)  こんなはずじゃなかった。─14 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(59回)-(2007/02/23(Fri) 12:08:40) 嫌いだ嫌いだと言い続けていたら随分口に馴染んでしまって、いつしか本来の意味を失って「キライダ」というただの単語になりそうだ。 【コトノハ】 「ターキせーんぱーいっ!」 授業の終了を告げるチャイムと共に教室のドアが勢いよく開かれて、駆け込んできたのはゴールデンレトリバーを思わせる明るい髪に人懐 っこい笑顔を兼ね備えた芹澤馨。 英語の教科書をしまっていた私に問答無用でタックルしてくる。 今授業が終わったばかりだというのに2階にある一年の教室から3階の二年の教室に何故すでにいるのか。 言ったところで適当に受け流されるだけだろうから口には出さない。 抱きつかれる事にすっかり慣れてしまった私は、せめて体当たりは止してくれと投げ遣りに思う辺り、諦め癖が身に付き始めている。 「あー、やっぱり先輩の抱き心地は最高ですね」 「そりゃどうも」 「てゆーか、大好きです。愛してます。くっついてるだけで胸がドキドキしちゃってもう大変なんですよ。これはきっと恋ですね!恋に違 いないっ!!」 「いや、勘違いじゃないかな芹澤さん。それは恋じゃなくて変なんだ、変に違いない。私の事は気にしないで今すぐ病院行っといで」 「先輩ヒドイ!あたしはこんなに愛してんのにー」 「…だからそもそも女同士だってば」 「大丈夫!愛は生物間をも超えます!」 「せめて性別までにしときなよ…」 言ってしまってから、しまったと思った。 案の定馨は「それじゃあ問題ないですね」とにんまり笑った。 傍らの佐保ちゃんは「いまいちあしらいきれてないのよねー」と呆れ気味に私を見て、すっかり日常茶飯事化してしまったこのやり取りに 飽きたかのように鞄から文庫本を取り出して読み始めた。 「佐保ちゃんー…」と助けを請う私を断固無視、もはや私は一人でこいつに対峙しなければならないようだ。 「大体休み時間ごとに来ないでよ。たまには自分の教室で過ごしてクラスメイトとの親睦を深めたら?」 「ばっちり仲良いからだいじょぶですっ。それより先輩と親しくなりたいなー」 「私はノーサンキュー」 「つれないなーもー。余計燃えちゃうじゃないですか」 「何でそう前向きなの…」 私はうんざりとしながら頭を垂れた。 馨の腕は依然として私の体をがっちりと掴んだままだ。 「何度も言ってるけど、私は馨なんて嫌いだよ」 「うん」 「だから嫌いだってば」 「うんうん」 「嫌いだって言ってるじゃん!」 聞こえてんのかこのやろうと首だけで振り向いて背後の馨を睨みつけると、 「あたしは好きです」 思いの外間近に迫っていた顔、数cm先の馨がにっこりと笑った。 「…嫌いだ私は」 「あたしは好きですってば」 愛想の良い瞳を目一杯垂らして、思わず見惚れてしまいそうになる極上の笑みを浮かべる。 さすが愛され体質芹澤馨、素敵な笑顔だこんちくしょう。 怯んだ私は顔を背けた。 「私は絶対馨を好きにならないよ」 「そうですか」 「…馨は、それでいいの?」 「だってそれ、あたしが先輩を好きでいる事と何も関係ないでしょう」 喉がからからと渇いて、言葉が詰まる。 「…──本気ならそんな簡単に何度も好きだって言えるはずないっ」 目をぎゅっと瞑って苦し紛れに言い捨てると、頭の辺りで、馨がふっと笑う声が聞こえた。 「本気だから、言っても言っても足りないんです」 そう言った後に馨はぎゅうっと腕に力を込めたから、締め付けられた体が苦しくて、そちらに気を取られたせいでそれきり私は何も言えな くなってしまった。 と、思いたい。 耳元で、「好きですよ」ぽつりと小さく囁かれた声に、胸の奥がじりじりと疼いた。 嫌いだ嫌いだと言い続けている内に本来の意味を失って、いつのまにか「キライダ」というただの単語になってしまった。 いつか「スキダ」と言わされてしまいそうで怖い。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■18095 / inTopicNo.15)  こんなはずじゃなかった。─15 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(60回)-(2007/02/23(Fri) 12:09:35) 黄昏時の暮れゆく空に溶け合う夕日の光は、彼女の髪の色とよく似ていた。 【笑う人】 それを思い出した時にはすでに駅前まで来てしまっていた。 明日提出するレポート用の資料。 こつこつと読み進め、昨日の保健室当番の時にも暇を見ては目を通し、ようやく読み終えた。 そして今日早速家で書き上げようと思っていたら、鞄の中に見当たらない。 読後にすっかり気が抜けて、どうやら保健室に忘れてきてしまったらしい。 太陽が沈み、夕闇に包まれ出した辺りを見回して、どうしよう、と考える事数十秒。 すでに今日の当番は帰ってしまっている時間だ。 けれど瑞樹先生はまだ居るはず。 先生さえ居れば保健室は戸締まりされない、それなら私の大事な資料も十分に奪取可能。 電車に乗る前で良かったとポジティブに考え、今来た道を引き返した。 学校が近付くと、私が向かう先から生徒が来ては、すれ違う。 下校道を逆流しているのだからそれは当たり前の事で、けれど何となく不思議な気分だ。 校門をくぐった先に見えるグラウンドは、すでに運動部が後片付けを終えていて閑散としている。 だから校内だって当然がらんとしているなんて予測できた事だけれど、やはり人気のない学校は昼間とは違う顔をしていて薄気味悪い。 できれば一人で歩くのは遠慮したいのだ。 目指す保健室は廊下の奥、この時間帯でも残っている先生達が集う職員室とは対極の位置だから、偶然ばったり誰かに会うなんて期待でき ない。 早いところ用事を済ませて帰ろうと、足早にもなってしまうというもの。 目的の部屋に辿り着き、ようやく安堵する。 戸を少し引いてみると鍵がかかっている様子はないので、更に安心して。 そのまま一気に開き、ここに居るであろう瑞樹先生に声を掛けた。 「失礼します。ちょっと忘れ物しちゃって──」 声は虚しく主不在の室内に響いた。 電気が点いていない様子を見ると、どうやら本気でどこかへ行っているようだ。 陽が落ちて薄暗い保健室は、射し込む夕焼けの光でぼんやりと輪郭が浮かんでいる。 どことなく神秘的なその光景に、不思議と恐怖心は薄まった。 蛍光灯のスイッチに触れた手をゆっくり離して、夕焼けを明かり代わりに本を探す。 瑞樹先生のデスクや訪問者記録用の作業机、棚の上、あちこちを見て回って、ようやく目当てのものが見つかった。 あぁやっと帰れる、胸を撫で下ろしたら。 奥のベッドで、ごそりと、何かが動く気配。 誰も居ないと思い込んでいたから、驚きのあまり心臓が口から飛び出るかと思った。 ばくばくとした動悸に合わせて少し変な汗が滲む。 「誰か…いるの?」 恐る恐る声は掛けてみて、けれど冷静に考えればまだベッドの利用者が残っているからここも開いているのだという事に思い当たる。 それではあまりうるさくしては悪い。 用事も済んだ事だし、失礼しましたと小さく告げて、そろそろと静かに立ち去ろうとしたその時に。 「──…タキ先輩?」 弱々しい声。 あまりに聞き慣れないものだったから、誰だかわからなかった。 振り返って、呼ばれた先のベッドの上の人物を見て、ますます聞き違いではなかったのかと耳を疑った。 だってあんな、か細い響き。 彼女から聞いた事がなかった。 「…馨?」 思わず、窺うように聞き返す。 薄暗くてよく見えないけれど、夕日にぼんやり照らされた馨はいつも通りへらりと、笑った気がした。 けれどどうも様子が変だ。 「どうしたの、そんなに具合悪い?」 少し心配になり、ベッドに近付く。 馨はベッドから上半身を起こすと、 「や、何でもないです。ちょっと眠くてベッド借りてただけですから」 ひらひらと私に向かって手を振った。 まるで来るなと言われているようで。 私はそのまま足を止めずにずかずかと歩を進め、馨のベッドの横に立った。 「何か、元気ない」 顔を覗き込もうとすると馨は、 「寝起きだからですよ」 だからあんまり見ないでください、顔を背けてふざけたように言ったけれどその声には覇気がない。 「──馨」 強く、呼ぶ。 視線が痛かったのだろうか、観念しましたとばかりにゆっくり馨はこちらを向いた。 「ほんと、何でもないですから」 アハハと笑う。 やっぱり、おかしい。 だっていつもの、へらへらと脳天気な馨の笑い方じゃない。 一瞬、泣いているように見えたんだ。 じっと見つめる私の視線に耐えかね、また、困ったようにふにゃりと笑う。 何だか心がざわついて、思わず、といった感じでつい馨に手が伸びた。 伸ばしたところでどうしようと思った。 行き場のない指先に少し躊躇ってから、馨の髪にそっと、遠慮がちに触れてみる。 馨は驚いたようにわずかに目を見開き、それでも拒みはしなかったから。 触れた手をそのままに、髪を撫でた。 優しく、優しく。 撫で続ける。 じっと黙って私にされるがままの馨は徐々に俯いてしまい、 「もしかして触られるの嫌だった?」 声を掛けようとした瞬間、馨の腕が私の腰に回された。 そのまま引き寄せられ、彼女は顔を見せまいと、私の腹部に顔を埋めるようにして隠す。 突然の出来事にくすぐったい!と引き離してやろうかと思ったけれど、わずかに漏れた押し殺した声に、そんな気は失せてしまった。 またぽんぽんと、頭を撫でてやる。 馨の髪は、見た目以上に柔らかくてまるで毛並みのいい子猫みたいだ。 すべてを吐き出してしまえばいいのに、と薄茶色の髪を梳くように指に絡めてぼんやり思った。 腹部にかかる馨の息遣いが何かを必死に堪えているようで痛々しい。 女の子にしては背の高い彼女の肩は意外にも華奢で、私の腰にしっかりと回された長い腕は思いの外細かった。 だから余計に、小さな子供のように見えたのだろうか。 「大丈夫だよ」 無責任かな、とも思ったけれど。 「大丈夫、大丈夫」 それでも声を掛けずにはいられなかった。 手が伸びた時と同じように。 「しばらくこうしてるから」 肩ならぬ腹を貸すというのが少しばかり格好がつかないな、と苦笑する。 ぎゅっと、腰に回された腕に力がこもり、 「…ありがとうございます」 顔を寄せられたお腹の方からぽつりとくぐもった声がした。 わしゃわしゃと頭を撫でてそれに応えると、無言で馨を抱きしめた。 私の小さな体じゃすべてを包み込んではやれないが、温もりぐらいは分けれるだろう。 今すぐ笑わなくてもいい、せめて楽に呼吸ができるまで。 彼女は泣かないんじゃなくて、きっと、泣けない人なのだと思う。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■18096 / inTopicNo.16)  こんなはずじゃなかった。─16 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(61回)-(2007/02/23(Fri) 12:10:34) 差し出された手に、縋ったのなんか初めてだ。 その心地良さに戸惑っているなんて言ったら、あなたは笑うだろうか。 【cry-baby】 母は、子育てに向いていない人だった。 奔放で我が儘で、気が向いた時にだけ猫っ可愛がりするような。 それでもあたしを撫でる手は、抱き締める腕は、いつだって温かくて優しくて。 ─カオル。 甘い声で名を呼ばれる度、嬉しくなって飛びついた。 そんな母と堅く生真面目な父が今まで一緒に居た事が不思議なわけで、あたしが八歳の誕生日を迎える前に、母は出て行った。 「頭を冷やす為に少し距離を置くだけだよ」 父は言った。 「会いに来るからね」 母は言った。 その言葉通り、頻繁ではなかったけれど、放課後たまに小学校の前で母が待っていてくれた。 相変わらずの甘い声であたしを呼び、駆け寄ったあたしの手を包むように握る。そして決まってファミレスでパフェを頼んでくれるのだ。 今までだって気まぐれにあたしを可愛がっていた母。 外で会うだけの違いに、それほど戸惑いはなかった。 高学年になると、「いつお母さんは帰ってくるの?」聞く事はなくなった。 会う頻度は徐々に減り、電話を掛けても繋がらない事が増えた。 だから今度はこちらから出向こうと、中学に上がって間もない頃、母の住むマンションに会いに行った。 制服姿のあたしを見て、何と言うだろう。 大きくなったわね、と目を細めるだろうか。 やっぱり可愛い可愛いと、頭を撫でてくれるだろうか。 期待と、久しぶりに顔を見る緊張感で、どきどきしながらチャイムを鳴らす。 「はい。どなた?」 インターホン越しに、母の声。 馨です会いに来ました、言葉を紡ぐ前に、 「誰?宅配便か何か?」 父ではない、男の声。 あたしは静かにそこから離れた。 母はもう帰ってこないのだ、と。 ようやく悟った。 それでもいつかあたしを迎えに来て、一緒に行こうと手を取ってくれるんじゃないかって、心のどこかで信じていて。 その日が来るのを密かに待ちわびていたのだ。 先週、8年もの別居を経て、とうとう両親が離婚を決断した。 ─今日は早く帰っておいで。 今朝出掛けに掛けられた父の言葉が頭を掠める。 不運にも今日は部活が休みだ。 ホームルームが終わった今、真っ直ぐ家に帰れてしまう。 次々と教室を後にするクラスメイトの背中を眺めて、机に突っ伏した。 瞼をひっそりと閉じる。 ─久しぶりに家族三人で、夕食を食べよう。 またひとつ浮かんだ言葉に、最後の晩餐ってわけね、独りごちた。 もう、家族ではなくなるのに。 思わず反吐が出そうになった。 望み続けるのは相当な気力がいる。 だったら最初から期待なんてしない方がいいのだと、理解するのに随分遠回りをしてしまった。 あたしはこのまま、父と暮らす事になっている。 がたん、と。 立ち上がった瞬間、思った以上に大きな音がたった。 教室に残っていた数人の目がこちらに集中する。 へらへらと笑ってその場をやり過ごし、廊下に出た。 ぶらぶらと歩きながら、自分の頬を引っ張る。 きっとうまく表情を作れていない。 こうなるだろうとは冷めた頭の中でどこか予想していたし、今更駄々をこねたところでどうなるものでもないとわかっていた。 けれど素直に家に帰る気は起きない。 三人揃って食卓を囲めば、あとは家族が終わるまでのカウントダウンの始まりだ。 なるべく人の居ないところへと思いながら保健室に足を向けた。 戸の隙間から中を窺うと、どうやらタキ先輩は当番ではないようだ。 情けない顔を見られなくて済む、とほっとして、室内へと入った。 奥のベッドに潜り込んだあたしは、枕に顔を埋めてじっと息を潜めていた。 放課後の音が遠ざかりはじめて、保健委員がそろそろ下校時間だからと声を掛けても狸寝入りを決め込んで。 「私が帰る頃に起こすから寝かせておけ」と言って放っておいてくれた瑞樹先生に感謝する。 そっと顔を上げると電気の消された室内は、静けさと落ちる夕陽の色に染め上げられていた。 寝返りをうって仰向けになる。 天井の白さもオレンジだ。 また、目を閉じた。 瞼の裏に暗闇が広がる。 ─カオル。 それなのにどうしてありもしない声ばかりが耳に響いてしまうのだろう。 あたしの頭を撫でる白い手が浮かんで、喉の辺りが詰まった。 吐き気すら湧いてくる。 息苦しくてどうしようもなくて胸をぎゅっと鷲掴んで、あぁ大声で叫んでしまえば少しは楽になれるのだろうかとどうせ出来もしない事を 考えていると、 「誰か…いるの?」 薄暗い保健室に小さく反響した声にはっとする。 この声は。 どうして、何で。 思うより先に声が出てしまった。 「──…タキ先輩?」 ぽつりと漏らしてしまってから、瞬時にしまったと舌打ちする。 何も応えずにやり過ごせば良かった。 案の定あたしに気付いた先輩は「具合悪い?」と、こちらへやって来る。 体を起こして何でもないですとへらりと笑ってみせても、納得してはくれなかった。 早く出て行ってはくれないだろうか。 こんな顔、一秒だって見られたくないのに。 不満そうな先輩の視線が痛い。 それでも何とか体裁を繕って笑ってみせる。 もう少し、もう少しだけ笑い続けろ。 アハハと笑いながら心の中で強く思うと。 不意に先輩の手がこちらへ伸ばされた。 目の前で一度躊躇して、そしてそっと、あたしの髪に触れる。 くしゃりと、優しく撫でる温かい手の平。 あぁ、まずい──… 鼻の奥がつんとして、気付くとあたしは先輩を抱き寄せて彼女のお腹に顔を埋めていた。 一瞬体が強張って、けれども腰に回した腕を振り払わない先輩は、優しく、優しく、あたしの頭を撫で続ける。 「大丈夫だよ」と、まるで子供をあやすように。 喉がじわりと熱くなって。 「ありがとうございます」と言ったと同時に埋めた顔が更にお腹と密着して息苦しくなる。 抱き締められたと気が付くのにさほど時間はかからなかった。 あの時も、あの時も。 この人はつくづく放っておけない人なんだなと思う。 何故こうも当たり前のように現れてくれるのだろう。 あたしの頭を抱える腕の中でもぞもぞと動いたら、 「あ、ごめん。苦しかった?」 少しだけ力が緩められた。 顔をちょっと上げて先輩を見上げると、 「ん?どうした?」 思いの外柔らかい眼差しであたしを見つめ返してくれたから。 「もう少しだけお願いします」またお腹に顔を寄せると、 「しょうがないなぁ」 腕に優しく力が込められて、ふふっと笑う声がくすぐったかった。 あぁやっぱり、この人は差し出した手を引っ込めない。 そう思って嬉しくなる。 お腹から伝わる優しさに眼の奥がじわじわと緩んで、すうっと息を吸い込んだらだいぶ楽に呼吸ができた。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■18097 / inTopicNo.17)  こんなはずじゃなかった。─17 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(62回)-(2007/02/23(Fri) 12:11:26) あひ見ての後の心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり (歌意) あなたに逢って契った後のこの恋しい心に比べると、以前のあなたへの物思いは、まったく想っていないのと同じことであった。 【longing girl】 ─by 権中納言敦忠、と。 ノートに黒板の文字を書き写し、最後に詠み人の名を記す。 只今古典の授業の真っ最中。 担当の国語教師は現在の単元である小倉百人一首が相当お気に入りのようで、一首一首の解説の熱の入り方といったら半端ではない。 「つまり逢瀬を重ねて情事を終えるごとに想いは募って、その前まで感じてた気持ちなんて比じゃないって事ね。どんどん相手への想いが ヒートアップしてるのよ!」 おいおいヒートアップしてんのはあんただよ、と心の中でツッコミを入れつつ、教科書に視線を落とす。 ─恋の歌ばっかりだ。 千年も昔の先人達も、愛だ恋だと右往左往していたのかと思うと少しだけ親近感が湧く。 人間、いつの時代も思う事は変わらないらしい。 まだだらだらと講釈を垂れて先へ進む気配がまったくない国語教師を一瞥し、ぱたんと教科書を閉じた。 そして窓の外へと目を向ける。 窓際の最後尾、この席は授業中の気分転換にはもってこいのベストポジションだ。 ─あーいい天気。 さっぱりとした日本晴れ。 二月の空は澄んでいて、雲に隠される事なく浮かぶ太陽の光が窓越しに反射して眩しい。 目を細めながらも真っ青な空をぼんやり眺める時間はなかなか悪くはなかった。 こんなに天気いいんだから授業抜けたいな、タキ先輩は何してんだろ、ちゃんと勉強してんのかなあの人は、あぁせっかくだからお昼は外 で食べよう。 ぼうっと思案して、ふと上から下へと目線を移した。 眼下に広がるグラウンド。 この時期の体育は問答無用でマラソンだ、ジャージ姿の軍団がひたすらトラックを走っていた。 ─あ、タキ先輩。 同じ格好をしたごちゃごちゃとした集団の中で一際ちんまい人影ひとつ。 普通なら見分けもつかない人の塊の中、誰か一人を見つけるなんて、あたし自身驚いた。 「お前の五感は動物並か」と伊佐に言ったら呆れられてしまいそうだ。 あたしを散々犬と呼ぶ、あの人の声が聞こえたような気がして笑みを堪えるのが大変だった。 いいですいいです犬でもなんでも。 偶然目にしただけでこんなにも嬉しいから。 窓の外をじっと見つめる。 想いの先はグラウンド。 この授業の後にもしも会いに行ったらあたしを追い払うのも厭うほどにぐったりしている事だろう。 容易に想像がついて、また頬が緩んだ。 あの日の、保健室で。 一層意識するようになったのは間違いない。 昨日より、今日。 今日より、明日。 日に日に、加速する。 あぁ、まさしく─ 『昔は物を思はざりけり』 だ。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■18098 / inTopicNo.18)  こんなはずじゃなかった。─18 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(63回)-(2007/02/23(Fri) 12:12:18) 些細な望みさえ諦めようとするあいつの頭を、思い切りぶっ叩いてやろうと思った。 【指先から世界を】 昼休みを告げるチャイムが鳴る。 授業から解放された生徒達が一斉に活気づく中、私も昼練に向かおうと席を立った。 ふと、最近様子のおかしい窓際の馨に目を向ける。 授業の終わりに気付いていないのか、未だに机の上に古典の教科書を出しっぱなしのままぼけっと外を眺めている。 その馨に近付き、 「授業終わったけど」 声を掛けた。 聞いているのかいないのか、心ここにあらずといった感じで「んー…」と気の抜けた返事。 ふぅ、短く息を吐いて。 「昼休みだよ」 「うん」 「行かないのか」 「どこに」 「先輩のとこ」 「…………」 そう、このところ様子がおかしいというのは。 馨が例の先輩に会いに行かないのだ。 以前は休み時間の度に二年の教室へと出掛けていた。終業のチャイムが鳴ると同時に駆け出す勢いで。 偶然ばったりと出会えば所構わず引っ付いていたりもしたっけ。 相手が鬱陶しがるほどに。 それなのにここ二週間の馨といったら授業を終えても今みたいにぼうっとしている。 廊下で彼の人の姿を見つけても、挨拶もそこそこに逃げるようにして立ち去ってしまう。 一体どうしたというのか。 ちら、と馨の視線の先を追うと、体育を終えたジャージ姿の一群が校舎に戻っていくのが見えた。 ─なんて顔で見てんだか。 呆れて思わず溜め息を吐いてしまった。 きっとあの中に想い人がいるのだろう。 「いるんだろ」と窓の外を指差したら、「うん」と小さく頷いた。 それなら行けばいいのに。 そんな目で見つめるぐらいなら。 ジャージの集団がすっかり校舎に入ってしまってから、はぁ、と馨にしては珍しく大きく息を吐く。 私はぺしっと後頭部を叩いた。 「何すんの」 抗議の目でこちらを見上げる馨。 それを無視して、 「最近会いに行かないじゃん。どうした?」 じっと、真っ直ぐに馨を見た。 馨は「あー…」と、困ったように視線を宙へと彷徨わせ、 「…──何か照れくさくて。自覚したら余計に」 頬を掻きながら苦笑した。 「顔見たいし会いに行きたいし抱きつきたいけどさ、本人目の前にすると体が動かなくなんの」 何かを思い出すようにすっと目を細める。 「今みたいに見てるだけで心臓ドキドキするんだよ」 そして、随分と柔らかい顔でふっと笑った。 「…何を今更」 呆れたように呟く私に、 「そう、今更。わかっちゃったんだよなー」 また笑う。 「それで?これからどうするの」 すっかり毒気を抜かれてしまって、やれやれと頭を掻く。 「馨はどうしたいわけ」 以前も投げた事がある言葉をもう一度訊いてみた。 「…笑っててほしい、かな」 馨は、以前と違う言葉をぼんやりした様子で呟いた。 「こうやって眺めて、あぁ今日も楽しそう、元気にしてる、って。笑ってるの見れたら嬉しい」 そんな様子に苛立って、 「随分控えめな事を望むんだな」 思わずぶっきらぼうに言ってしまった。 私の眉間の皺に、馨は少し苦笑する。 そして視線を足下へと落とした。 「──近付きすぎるのは怖いんだよ」 どういう事かと聞き返すよりも先に、 「期待はしないけど、うっかり勘違いしそうになる」 誰に向かって言うでもなく、ぽつりと、噛み締めるようにして漏らした。 まるで自身を戒めているみたいだ。 「…してもいいだろ」 低く呟くと、馨は困ったように曖昧に笑ってもう何も答えなかった。 馨は望まない人間だ。 元々欲は稀薄な方だけど、中学に入ってからその傾向はますます強くなった気がする。 もっと我が儘になればいい。 手を伸ばしたって誰も咎めやしないのに。 得られるものにも見ない振りをするのだ、こいつは。 またぼんやりと窓の外を眺めている馨の頭を先程よりも強い力ではたく。 「痛っ。何だよ、もー」 唇を尖らせ、私を睨む馨。 もう一度手を伸ばし、今度はわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。 「あんたのバカさ加減に呆れてるんだ」 馨は「何だよそれ」と何か言いたそうにしていたけれど、ぎろりと睨みつけてそれを制す。 ぐりぐりと撫でる手を弱めずにいると、馨はぷっと可笑しそうに吹き出して、「今日の伊佐、変」ケラケラと笑い出したから。 「馨よりマシだろ」 つい口元が緩んでしまって、出かけた言葉はそのまま飲み込む事にした。 望みなんてのは願いとか祈りとか手が届かないものじゃないって事に、どうしたら気付いてくれるだろうか。 欲しいと素直に口にするのは憚るようなものじゃないと、どうしたら。 掴む事はできなくても、指先の一本でも触れるだけで何かが変わるかもしれないのに。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■18099 / inTopicNo.19)  こんなはずじゃなかった。─19 ▲▼■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(64回)-(2007/02/23(Fri) 12:13:14) 今までが今までだったから戸惑っているというか調子が狂っているだけの話。 それ以上の深い理由はないはずだ。 【ラジカルロジカル】 かちかち、かちかち。 シャーペンをノックする音が響く、何とも穏やかな昼下がりの保健室。 かちり、またシャーペンが鳴って、 「何をそんなに苛ついているんだ、君は」 瑞樹先生の声にはっと我に返ると、机の上には既に二本の芯が転がっていた。 先生に向けて苦笑いを浮かべ、そそくさとそれを拾ってシャーペンに収める。 当番である今日はやけに暇で、私は腰掛けた椅子の上で足をぶらつかせた。 ぼんやりと気を抜くと、カチ、またシャーペンの芯が出る音。 薬品棚の整理を終えた先生はこちらへとやって来て、 「最近芹澤の姿を見ないね」 心に引っ掛かっている事をさらりと口にする。 「それが、何ですか」 努めて平静に答えたけれど。 「神谷が当番の日は度々会いに来ていただろう?」 喧嘩でもしたかい、と笑うので、 「喧嘩するような仲じゃないです」 思わず露骨に嫌そうな声が出てしまった。 先生は「おや」と意外そうな声を上げる。 「教室や廊下でもべったりだと聞いたがね」 誰がそんな事を、と思って、あぁここは天下の瑞樹先生の保健室だったと納得する。 ざっくばらんで面倒見が良い先生の人気は高いから、怪我人や病人だけでなく元気な生徒でさえもお喋りにやって来るのだ。 だから校内の情報には事欠かない。 私の考えを察した先生は、 「芹澤はなかなか有名なようだからね。話はよく聞くよ」 ゆるりと笑った。 「…一方的に馨が私の所に来るだけで、いつも一緒にいるわけじゃありません」 「苛立っているのはそれが原因だと思ったんだが」 「違いますっ」 「そうか」 ふっと笑うこの瑞樹先生には敵わないのだと、いい加減認めるべきなのだろうか。 何もかも見透かされているみたいだ。 気にしているわけではない、と思う。 けれどももやもやとするものは。 何でだかはわからないけれど、馨の襲撃がここ最近ぱったりと止んだ事。 授業が終わって休み時間に入っても、背後の気配を警戒したところで抱きつく大型犬はいない。 登校中や廊下で偶然会った時だって、いつ飛びついてくるかと身構えているとぺこりと頭を下げるだけで呆気なく行ってしまう。 一体全体何なのだと、首を傾げるばかりである。 それはともかくようやく穏やかな日常を取り戻したのに、その静けさに物足りなさを感じている自分が嫌だ。 本来こうあるべきなのだ、目を覚ませと言いたい。 大体あいつこそなんだ、尻尾を振るのも突然なら見向きもしなくなるのも突然なんて。 今まで散々振り回しておいて飽きてしまったというのか。 そうなったらさっさと撤収?冗談じゃない、ふざけんなっ! と、また考えてしまっている自分が堪らなく嫌だ。 「神谷」 瑞樹先生が苦笑している。 私の手元を指差すのでその人差し指の示す先を見ると、シャーペンの芯が三分の二ほど出ていた。 何やってんだろ、自身に呆れながら芯を引っ込めようとして。 「気になるのなら自分から会いに行ってはどうだ」 指先に妙な力が入って、ベキッと折れた芯がいずこかへ吹っ飛んだ。 「顔を出さなくなって寂しいんじゃないか?」 「そんな事ないです!清々してますよ」 ふんと鼻を鳴らしてみせると、 「──神谷がそれでいいのなら私は何も言わないが」 口の端を上げて笑む先生は、幾分真剣な眼差しを私に向けた。 「もし誤魔化しているのならやめなさい」 先生の声はよく通って、耳の奥まで響いていく。 「気付いた時には思い出になってしまうよ」 「…どういう意味ですか?」 「さあ」 「──…混乱させるだけならやめてください」 つい責めるような言い方をしてしまって、しまった、と思う。 「それはすまなかったね」 けれど先生は、いつもの調子でゆるりと微笑むだけだった。 きっと。 この半年間の騒々しさに慣れてしまっているだけで、久しぶりの安息に戸惑っているだけなのだ。 引用返信/返信 削除キー/ 編集削除 ■18100 / inTopicNo.20)  こんなはずじゃなかった。─20 ▲ ■ □投稿者/ 秋 ちょと常連(65回)-(2007/02/23(Fri) 12:46:28) 理屈でもない、言葉でもない、咄嗟に取った行動が案外本心だったりするわけで。 【グランドファンファーレ】 「私はそれ、わかる気がする」 保健室から戻ってきて、隣の席の佐保ちゃんに「瑞樹先生の話は難しくてよくわかんないよ」と同意を求めようとしたら、こう返された。 「意地張ってたら手遅れになるって事じゃない?」 「手遅れって、何が?」 「それぐらい自分で考えなさい」 佐保ちゃんは素っ気なく言い放つ。 まったく、佐保ちゃんも先生と似たようなもったいぶった物言いをする。 案外この二人は似た者同士なのかもしれない。 佐保ちゃんは毛先をいじっていた手を止めて、机に肩肘をつくと私の方に顔を向けた。 「気になっては、いるんでしょ?」 「別、に」 「本当に?」 じっと真っ直ぐに見つめられ、言葉に詰まる。 ほら見なさい、と得意げな顔をする佐保ちゃん。 「原因として思い当たる事はないの?」 あれだけ蹴ったり頭突きしたり罵声を浴びせたのにめげなかったあの子がこうも突然身を引くなんて何かあったんでしょ、なかなか鋭い事 を言う。 私は黙って俯いた。 原因か、はわからないけれど。 保健室の一件、あの次の日から馨は私を避けだした。 不用意な何かをした覚えはない。 けれど思い当たる事と言ったらその日しかないのだ。 あんな姿を見せてのこのこ顔を出すのが恥ずかしいのかとも思ったけれど、引っ付き抱きつき蹴られる姿を公衆の面前で晒していた今まで の方がよほど恥ずかしい。 そんなの今更だ。 それについ抱き締めてしまった私の方こそ、会ったところでどんな顔を見せればいいのかと恥ずかしいというのに。 今思うとなんて大胆な事をしたのだろうと、己の行動に顔が火照る。 はぁと溜め息を吐く声が聞こえて。 顔を上げ、佐保ちゃんの方に視線を向ける。 「ごちゃごちゃ考えるくらいならこっちから出向けばいいじゃない」 「何で私が」 「それが意地張ってるって言ってるの」 佐保ちゃんは呆れたように私を見た。 「素直にならないと、本当に手遅れになるわよ」 「だからそれが意味わかんないってば」 本当にわかってないのねー、と呆れるを通り越して感嘆の声を上げ、 「とりあえず本人に会ってみて直接確かめてみたら?」 淡々とした口調で言う佐保ちゃんに、 「行かないってば!」 つい声を荒げて言い返してしまった。 しん、と場が静まる。 私が口を開くよりも先に、 「あっそ」 だったらもういいわ、と佐保ちゃんはひどく興醒めしたように言い捨てて鞄から文庫本を取り出した。 あ、落胆させた。 そう思って何か言い繕おうかと思ったけれども、そもそも私は悪くないじゃん、思い直して一人憤慨する。 佐保ちゃんにしても瑞樹先生にしても、何で揃いも揃って私をけしかけようとするんだ。 私はふんと鼻を鳴らして5限の授業の教科書を取り出した。 授業の始終にさっぱり気付かなかったけれど。 そして、だ。 何でこんなところに私が突っ立っているのか。 自分が不思議でならない。 知らない内にホームルームまで終わっていて放課後を迎えていた私の午後。 当番だから保健室に行かなきゃ…、鞄を掴んでぼんやりしながら教室を出たところまでは覚えている。 問題なのは、今、何故、一年の教室が並ぶ廊下に立っているのか。 きっと佐保ちゃん達がおかしな事をたくさん言ってきたせいだ。 そうでなければこんな場所、私には到底関係がない。 「どうでもいいどうでもいい」と胸の中で何度も繰り返して保健室へと足を向けようとする。 その廊下の先に、 ─あ、馨…。 一年生の階なのだからいる事に不自然な点はないけれど。 久しぶりに目にした、明るい髪と愛想の良い顔。 友達だろうか、王子ではない誰かと廊下で立ち話をしている。 この場でばったり会ってしまってはまるで私から顔を見に来たみたいで、何とも癪だ。 向こうも取り込み中のようだし、さっさと退散しよう。 くるりと踵を返── ──そうとしたのに。 何やら楽しげな馨と友達。 相手のネクタイをよくよく見てみれば学年色は三年生のもの。 ─上級生のお姉様と仲がよろしいようで。 思わず皮肉めいた言葉が浮かび、私には関係ないじゃないかと顔をしかめる。 どんな会話を繰り広げているのか知らないが、相手の言葉に相槌を打って随分とまぁ柔らかく笑む馨。 相手もそれに気を良くしたのか、馨の薄茶色の髪にそっと手を伸ばした。 そう、私には関係ないけど。 何か…むかつく。 この光景は何だかとっても面白くない。 思った時には既に私は廊下を駆け出し、一直線に馨へと向かっていた。 「あ。タキせんぱ──」 こちらに気付いた馨が声を掛けようとしてきた瞬間、勢いよく踏み切ってそのまま馨に跳び蹴りをする。 「だっ」見事馨の脇腹に的中し、彼女は短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。 「何すんですかぁ…」 うっすらと涙すら浮かべ、恨めしげに私を見上げる馨。 それでも苛つきは治まらず、先程の上級生がしたのとは正反対に、ぐしゃぐしゃと乱暴に馨の髪を掻き乱すように撫でつける。 目をぱちくりと瞬かせる馨の胸倉を両手で掴んで力いっぱい引き寄せて。 わ、と声を上げながらバランスを崩した馨が私に向かって倒れ込み、それに巻き込まれる形で私は馨に押し潰された。 いてて、と頭を掻きながら「だいじょぶですか、先輩」と体を起こす馨。 同じ目線。 いつもよりも馨の顔がやけに近い。 へらり、と。馨が笑ったその瞬間。 私は彼女の頭に手を掛けて強引にこちらへ引っ張ると、 「あだっ!もーさっきから何なんですか──」 不満の声を上げる馨を無視してそのまま唇を重ねた。 廊下に集まり事の次第を傍観していたギャラリーのどよめき。 口をぽかんと間抜けに開けて呆然とする馨。 『私は絶対馨を好きにならないよ』 いつかの私の言葉が脳裏を過る。 「──…え?えええ?!」 かーっと顔を紅潮させて混乱する彼女以上に目を白黒させて困惑しているのは多分私だ。 そっと、自分の唇をなぞって。 数秒後、私は彼女にきっとこう呟くだろう。 ─こんなはずじゃなかった。 【fin】 Aki presents the last story. I leave this place. Thanks to all of everybody who read. autumn-color@xxne.jp
完 面白かったらクリックしてね♪ Back PC版|携帯版