■あなたと・・・ 2 
□投稿者/ Wナイト 一般人(5回)-(2010/01/25 21:42:04) 

夏休みはもうすぐそこだった。 容赦なく照り付ける太陽に何もせずともじわじわと汗が出てくる。 夏の始まり。 あの日からずっと、あなたに恋してる。    教壇に立つ先生に呼ばれて、乗り気じゃないまま足を運んだ。 渡されたのは一枚の紙切れ。 でも、とても重要な数字が書かれている。 恐る恐るそっと紙を広げる。 そっと、右上に書かれているであろうその数字を見る、と。 「やったっ!!」 想像していた数字よりも随分大きな数字で、思わず大きくガッツポーズを披露してしまった。 大声だったけれど、幸いみんな騒いでいるため然程注目は集めなかったのが救いだろう。 こんな点数、久しぶりにみた気がする。 驚きを隠せずに気分良く自分の席へ帰るとすぐに若菜がこちらを振り返った。 「どうだった?」 「96点」 「うっそ!」 「ほら」 得意げに若菜の顔の前へ翳してやると、開いた口が塞がらないのか暫し呆然としていた。 現在数学の授業中で、先週のテストを返されていた。 「すごい!こんな点数はじめてみたー!」 大げさなくらい驚いてまじまじと答案用紙をみる若菜。 でも若菜だってすごいもんだ。常に数学は赤点だったというのに、今回は80点。 雅効果は絶大だ。 「良かったじゃん、赤点免れて」 「うん!これも雅さんのおかげだよ」 「そーだね、報告しないと」 「うん」 にこにこ笑って喜ぶ姿は子供みたいでかわいい。 若菜が雅のことをどう思っているのか良くわからないけど、後で雅のところへ連れていってあげないと。 「あたしも、雪乃さんのおかげなんだなー」 今日はバイトの帰りにでもユウさんのところ寄ってみよう。 運が良ければ雪乃さんに会えるかもしれない。 「報告は?」 「するよ」 電話にしようかとも思ったけど、やっぱり直接会って話したい。 それに、勉強会のあの日からもう2週間近く会っていないのだ。 時間が開くと、連絡一つ入れるのも緊張してうまく出来ない気がした。 それから、バイト場についてすぐに雪乃さんにメールを打った。 もし今日雪乃さんが店に行かないのなら、無駄足になるかもしれないから。 店に行くかどうかを簡潔に打ってそのまま送信。 電話よりましだと言っても、メールひとつで緊張してしまう。 すぐに返事が返ってこないだろうと思ってはいたから、休憩中にでも確認することにした。 バイト中もメールが来ていないかそわそわしてしまっていた。 夏休みに入ったらユウさんのところでバイトも決まっているので、此処は今日で終わりなのだけど。 そんなことも頭の片隅に追いやって、メールの返事が来ているかどうかばかり気になってしまう。 休憩中、ジュースを飲みながら携帯を開くと一件メールが届いていた。 意気揚々と確認すると、やっぱり雪乃さん。 [ 仕事が早くあがれたら行くよ ] 簡潔な文に程よく絵文字がついたメールの内容。 仕事次第と言うことに迷ったけれど、結局ユウさんのところに行くことにした。 落ち着いた雰囲気の中、きっと場違いな自分だけが浮いている感覚だった。 やはりここに一人で行くのはまだ若干の抵抗がある。 知っている人がユウさん一人しかいない中、どうも落ち着かないでいた。 「テストどうだった?」 あたしの挙動不審な様子に気付いたのか、ユウさんが近づいてきてくれた。 開口一番にテストの話題というのは連れないけれど。 「ぼちぼちでしたよ。あ、コーラください」 洗い立てのグラスを出しているのを見て、続けて注文を頼んだ。 すると、「コーラで割るの?」と意地悪な言葉が返ってくる。 にやっと笑った瞬間に何か言われるとは思っていたけど、そんなにあたしを揶揄って面白いんだろうか。 「割りませんよ、ストレートですっ」 「ここに来てコーラだけ飲むなんて」 わかってるくせにユウさんは呆れた口調で肩を大げさにすくめて見せた。 「未成年ですから」 えっへん!と文字がつきそうなくらい威張って見せるとユウさんは目を細めて笑った。 まあ、威張るところじゃないけど。むしろ早く大人になりたいけど。 お酒は二十歳からだし。でもそれを生真面目に守っているわけでもなくて、ただ単に興味が湧かないだけだ。 「未成年でも普通飲むでしょ」 「だって美味しくなさそうだもん」 差し出されたそれは黒の液体で、ぷくぷくと泡が底から上へとあがっている。 正真正銘のストレートなコーラだと確認して、片手で引き寄せるとストローで啜った。 「美味しくなさそうねぇ……」 あたしの言葉を小さく反復すると、ユウさんはカウンターから身を乗り出してきた。 手招きをされるからゆっくり体を近づける。 その近さに軽くパニックになっていると耳元で囁かれた。 「ガキ」 「うっ…」 いや、その通りなんですけど。 何も耳元で囁いてくれなくても、不覚にもちょっとドキドキしてしまった。 「この美味しさがわからないなんて」 「……未成年にアルコール勧めるってどうなんですか」 強気で反撃、しようと試みたけど無駄だった。 語尾が小さくなってしまったところからして、勝ち目はないのだ。 「別に、いいんじゃない?」 どう考えても、ユウさんに常識は通用しなさそうだ。 同時にここに集まる人達から慕われている理由もなんとなくわかった気がする。 良くも悪くも変わった人で、独自の考えを持っているその姿勢は誰から見てもきっと格好良く映るだろう。 「それより、今日はどうしたの」 ユウさんは店に来てからの約10分程度のやりとりを「それ」で括ってしまった。 そうも話を変えられてはもうお酒の話に逆戻りはできない。 しぶしぶ次の話題に乗っかることにした。 「ちょっと、雪乃さんに」 「今日来るって?」 「仕事が早く終わったら、って」 「そう」 小さく頷くと一本タバコを取り出して、火をつける。 こういうのを見ると、煙草が格好良いものに見えてくるから不思議だ。 どこぞのおじさん達が吸ってるのを見るとただ邪険にしか思わないのに。 「……なに、吸いたい?」 煙草を差し出してにやっと笑うユウさん。 もちろん、すぐに首を左右に振った。 タバコは一生口にしないと確か小学生ぐらいの頃には決めている。 どうして小学生のころに決めたのかはよく覚えていないけど、多分吸うことはないんだろうと漠然と思ってきた。 「……堅いね、そんなんじゃ人生損するよ」 ユウさんに言われると、何だかものすごくリアルだ。 カラン、とコーラの中にあった氷が音を立てた。 浮き上がってきていた氷はいつのまにかグラスの底に落ちて、黒い液体はもう見えない。 店の中を見回すと入り口の上の方に時計を見つけた。 午後10時、10分前。 だけど、そのドアが開く気配はない。 グラスの下に出来た小さな水溜り。 その近くに跳ねた水滴を指でぬぐっていた。 「あ、」 びくっと体が震えた。 その原因はジーンズのポケットに捻じ込んでいた携帯電話。 慌てて取り出すとメールの着信だった。 [ ごめん、今日は行けない ] そのメールは雪乃さんからだった。 でもその文面を見た瞬間、違和感を感じずにはいられなかった。 いつもよりも随分と素っ気ない文面。 絵文字も、何もない。普通に考えたら忙しくてそれしか打てなかったのかもしれないけれど。 胸が騒ぐと言えば伝わるのだろうか。 何かあったのかもしれないと一度思ってしまったら、気になっていてもたっても居られなくなった。 「どしたの?」 携帯を握り締めたまま固まっているあたしを怪訝そうに見るユウさん。 顔を上げると目で何事かと聞かれた。 「ちょっと、電話してきます」 ユウさんの返事も待たずに携帯だけ手に持って店の外へ出た。 昼間の暑さはどこかへ行ってしまったかのように夜風は冷たい。 シャツ一枚の体には少し厳しほどだった。 アドレス帳から雪乃さんを呼び出す。 電話して何を喋ろうとか、どう話をきりだそうとか何も考えていなかった。 ただ雪乃さんに何もないのならそれでいい。 それさえ確かめられれば、それで満足なのだ。 一回、二回。コールは続く。 三回、そして四回目。 途中で途切れて、一拍おいて声が聞こえた。 『はい』 「あっもしもし」 『……ハル、だよね?』 「はい」 急に電話したからか、雪乃さんの声も若干戸惑っているようだった。 やっぱり、何も考えずに電話するから言葉が出てこない。 今更ながら聞きたいことを纏めて電話すればよかったと後悔した。 「今日行けなくてごめんね。何か用事あった?」 「いや、…大したことじゃないんですけど」 メールを貰った時と同じように違和感があった。 何がと言われれば上手くは言えないけれど、雪乃さんの声がいつもと違う。 それは電話だからとかそういうものじゃなくて、明らかにトーンが違った。 「じゃあ、どうしたの?」 「雪乃さんこそ、何かあったんですか?」 失礼だとは思うけれど、雪乃さんの質問を質問で返した。 電話の向こうで黙り込んだのがわかる。 数秒の沈黙が永遠のように長く感じた。 「どうして?」 一つ息を吐いて出てきた雪乃さんの言葉。 だって、まるで泣いてるみたいな声。 震えていて、今にも消えてしまいそうな。 泣かないで。 そんな声ださないで。 何があったのかまったくわからないけど、その声を聞いているだけで自分まで泣きそうになってくる。 今すぐ、抱きしめてあげたいと思った。 「今、どこにいるんですか」 「……家に帰る途中、だけど」 「今から行きます」 咄嗟に出たのはそんな言葉だった。 もし拒否されたらなんて微塵も考えていない。 ただ、傍に居たかった。 「どうして……」 もう声にならない声で雪乃さんが小さくそう呟く。 理由なんて、ない。 あるとすればそれはとっても簡単なこと。 「会いたいんです」 それっきり雪乃さんは何も喋らなかったけど。 どのあたりに居るのかと聞くと、此間別れた場所近くの公園だと教えてくれた。 今は携帯ひとつしかもって居ない。 財布もバイクの鍵も店の中だ。 取りに戻る時間すらも惜しかった。 携帯一つ握りしめたまま、全力で走った。 辺りはもう真っ暗で、公園の中にひとつ立っている電灯だけが唯一の明かりだった。 然程広くない公園の中に入ると、ブランコに人影がある。 ギコギコと小さく揺れるブランコ。 目を凝らしても良く見えないけど、きっと雪乃さんだろう。 乱れた息が整わないまま、ブランコに近づいた。 すると気配に気付いたのか、雪乃さんがそっと顔をあげる。 「……雪乃さん」 目が合うと笑ってくれた、いつもの笑顔で。 でもひとつだけ違う。 真っ赤になった目はさっきまで泣いてたんだとすぐにわかった。 「雪乃さん…?」 もう一度声を掛けると微笑んでいた笑顔がだんだんと曇っていく。 何かに耐えるように歯を食いしばって、真っ赤な目が濡れていく。 「どうしたんですか」とか「何があったんですか」とか。 そんなこと安易に聞けなかった。 「ハル…」 震える声で呼ばれた名前。聞いてるだけで、自分まで苦しくなっていく。 あたしは雪乃さんのことを何も知らない。 雪乃さんの為に出来ることなんて何も無い。 何故泣いているのか、何が悲しいのか何もわかってあげられない。 だったらせめて、安心して泣ける場所にぐらいなってあげたい。 無理に笑顔を作ろうとした真っ赤な瞳から、涙が一筋零れた。 あたしが動いたのが先か、雪乃さんが立ち上がったのが先か。 腕の中に飛び込んできた体を抱きしめると、確かなぬくもりが伝わった。 肩に額を押し付けて嗚咽を漏らす雪乃さんが愛しかった。 その涙が他の誰かに向けたものでも関係ない。 あたしは、雪乃さんが好きだと気付いてしまったから。   --------------------------------------------------------------------------------------------- あなたの為にカッコイイヒーローになりたかった。 その涙を止めて、笑顔をみせて欲しかった。   雪乃さんが泣き止んだ後、家まで送った。 お店から歩いて行ける距離にある雪乃さんの家は公園からすぐのマンションだった。 「コーヒーぐらいなら出せるけど」 まだ少し涙声でそう言ってくれたから甘えてお邪魔することにした。 本当なら、一人になりたかったのかもしれない。 でもここで雪乃さんを一人にもしたくない。 単なる自分のエゴだ。 あたしが雪乃さんの傍にいたかったと言う。 好きだと気付いたって、何も出来ないのに。 「お邪魔します」 部屋に入ると、何ともシンプルな内装だった。 女の子らしい色使いとかかわいらしい家具が揃ってるとか、そういったものは全然ない。 どちらかと言えば使い勝手重視と見える。 「ごめんね、散らかってて」 その「散らかってる」部分がどこなのか探すのに苦労しそうなぐらい綺麗にされている。 きょろきょろと見渡しても、綺麗に整理されているように見える。 「座ってて」 二人掛けのソファに促されて、大人しくそのまま腰を下ろした。 ここで気を遣わせてしまうのは良くないとは思ったが、勝手の分からないところでは邪魔になるだけだ。 キッチンでコーヒーを淹れる雪乃さんの背中を、ただぼうっと眺めていた。 コーヒーが出来上がるまで、雪乃さんは何も喋らなかった。 だからあたしも黙り込んだまま。 今は何も言わなくて良い気がして、静かな空間を共有していた。 「ごめんね、暑いのにホットで」 「いいえ」 淹れてくれたコーヒーを目の前のテーブルに置かれる。 暑いと言っても夜はまだ大分冷える。 マグカップを手にとって口に含むと、コーヒーが口の中いっぱいに広がった。 いつも好んで飲むものよりも随分と苦い。 「あ、砂糖かシロップいる?」 多少は入っているようだけれど、これは雪乃さん好みの味だと言う。 だったら同じものを飲みたいから、やんわりと断った。 同じ空間で同じものを飲む、ただそれだけのことが特別な気がして。 雪乃さんが二人でも余裕のあるソファに腰掛ける。 距離はいつもに比べれば断然近いけれど、さっき抱きしめたことを考えるとものすごく遠い気がした。 触れられる位置にいるのに。 「ちょっと苦かったかな」 小さく笑う雪乃さんは息を吹きかけながら何度もコーヒーをすする。 だから気付いてしまった、気付きたくはなかったのに。 雪乃さんの使っているマグカップとあたしの手元にあるマグカップ。 青と赤で色分けされたそれは、ペアだと言う事に。 カップについている柄をそっと撫でると、熱が伝わって酷く熱かった。 誰かとお揃いで買ったのかな。 もしかしたら、その人のことで泣いてたんだろうか。 だとしたらあたしの想いなんて…。 「今日はごめんね」 卑屈になりそうな考えを止めたのは、雪乃さんの声。 沈黙が続く中で、雪乃さんの小さな声とコーヒーの入ったカップをテーブルに置く音だけが響いた。 雪乃さんが謝ることなんてないのに。 迷惑だなんて、これっぽっちも思ってない。 だけど、いつものように過剰に否定したり、うるさくすることも出来なくて。 「いえ」 そう呟く程度で言うと、雪乃さんは微かに微笑んだ。 「なにも聞かないの?」 その言葉に思わず雪乃さんに目を向けた。 雪乃さんもこっちを見ていたらしく、ばっちりと視線が交わる。 聞かないわけじゃなくて、ただ聞けないだけ。 無闇やたらに聞いて気分を害させたらとか、無神経なんじゃないかとか。 色々考えてしまうと中々踏み込めない。 結局、嫌われたくないんだ。 「聞いてもいいんですか」 探るような言葉に雪乃さんは笑った。 「いいよ、教えるかどうかは別だけど」 「なんですか、それ」 含み笑いをする雪乃さんを見て、ほっとした。 さっきみたいに苦しそうに笑うんじゃなくて、自然と出てくる笑みのようで。 あたしの隣で、取り繕う笑顔は見せて欲しくない。 「色々あってね」 色々とはまた便利な言葉だ。 それ以上突っ込ませない、それでいて色んな意味合いを含めている。 「色々?」 「そう、仕事のこととか」 『とか』、その中に想っている人のことも入っているんだろうか。 憶測に過ぎないけれど、アドレスに入っていたあの三文字のアルファベット。 その人が雪乃さんの恋人かもしれない。いや、きっとそうなのだろう。 聞いても良いのだろうか。 そんなことが頭を過るけれど、聞いたとしてもきっと自分に都合の良い返事は返ってこないことはわかっていた。 「ね、ハルは好きな人いないの?」 逡巡している間に、雪乃さんから唐突な質問。 それはあたしが雪乃さんに聞きたい言葉だった。 「……急に、どうしたんですか」 「うん、何となくね。ほら、菜々世ちゃんは一之瀬君が居るし、最近の若い子は私たちの時とは色々と違いそうだし」 「それでハルは?」と聞かれても、すぐには答えられなかった。 あたしは普通の女の子と同じ感覚じゃない。 普通の女の子を「かわいいな」と言う目線で見てるわけであって。 もし雪乃さんがそれを知ってしまったら、あたしのことをどう思うんだろう。 「……特にいませんけど」 若菜に聞かれた時のように、何でもないように答えた。 あの時とはひとつだけ違う。 あのときの言葉は本当だったけれど、今のは嘘だ。 さっき、気付いてしまった気持ちをぐっと胸の中に抑え込んだ。 「そっか」 聞かれたんだから、聞いてもいいよね。 頭の中で何回もリピートして、その疑問をたずねた。 「雪乃さんは、居るんですか?」 「ん?」 「その、恋人、とか」 スマートに話の延長のように聞ければいいのに、どうしてもたどたどしくなってしまう。 こういう時、何でもハッキリものを言えてしまう親友を心底羨ましいと思った。 「恋人か」 自分の中で確かめるように呟いた雪乃さん。 表情が曇っているのはあたしだってわかる。 聞いちゃいけないことだったかもしれない。 そう思っていたのに、どうしても聞きたくて仕方がなかった。 「恋人と言えるのかわからないけど、一応ね」 とても曖昧な言葉だったけれど、恋人の有無なんてこの際どうでも良かった。 雪乃さんに想っている相手がいる。 それだけ分かれば十分にダメージは大きかった。 それはもちろん、男だろうし。 「その人と何かあったんですか」 そこまで聞いてしまったらどこまで聞いたって一緒だ。 今度はストレートに言葉を紡いだら、雪乃さんは伏目がちに頷いた。 「怖いんだよね、離れていくのが…」 きっと雪乃さんの頭の中には今その人しか居ない。 不謹慎にも羨ましいと思った。 雪乃さんにこんな表情させている人が。 こんなに、想われている人が。 多分、傍にいるのはあたしじゃ駄目なんだ。 今ここで雪乃さんを元気に出来る人はその人しかいない。 そんな現実を眼前に突きつけられて、胸にぽっかりと穴が開いてしまったようだった。 これ以上、こんな雪乃さんを見ていたくない。 さっきまで何も出来ないのならせめて傍に居たいと思っていたのに。 傍に居ることさえも正しいことじゃないのなら、今すぐ雪乃さんの前から消えてしまいたい。 それでも、雪乃さんを一人に出来ない…。 矛盾に矛盾を重ねるあたしの気持ちに、答えなんて出なかった。 その先に待つのはきっと、『好き』と言う気持ちだけだ。 ついさっき気付いた気持ちなのに、いつの間にかこんなに大きく膨らんでいた。 ほんとは、もっと前から好きだったのかな。 自分を抑えていただけなのかな。 好きになる前の気持ちなんてもう良くわからないけど。 気付かないほうが幸せだったのかな。 「あーもー、久々に泣いた」 天井に向かってぐっと背伸びをする。 その顔はさっきのように暗くはなくて、幾分かはすっきりしたように見える。 元気になってくれたのならそれが一番だけど。 今度はあたしが元気をなくしてしまいそうだ。 「普段、滅多に泣かないんですか?」 ショックを受けている自分の気持ちを必死に隠して、そう口を開いた。 「うーん、映画とか小説とか。そういうのは泣くかな」 あたしはそういうのではあんまり泣かないから良く分からないけど。 確かに涙モノと言われるものは良く聞く。 「でもね、人前で泣いたのは学生の時以来じゃないかな」 雪乃さんの言う学生は「大学生」のことで。 それ以来と言う事は……いや、待てよ。 雪乃さんって一体何歳なんだろう。 その疑問をぶつけようとすると、真っ直ぐに見てくる雪乃さんと視線が絡まった。 「ハルは不思議な子だね」 「不思議、ですか」 自分が不思議だと思ったことはない。 天然だと、多少言われたことはあっても断じてそうではないと言い張ってきた。 「うん、ハルと居るとありのままで居られるの」 片思いの醍醐味と言うのは一喜一憂することだが。 あたしはこの一言にどちらの感情も持ってしまった。 あたしの前では素直になれる、それはとても嬉しい言葉だ。 だけどそれは、家族でも友達でもない。 何の意識もしない楽な相手なんじゃないんだろうか。 どう反応していいのかわからず、下手な笑みを浮かべていた。 普通の人だったらそれが当たり前なんだよね。 何歳も年の離れた女の子を意識するなんてこと絶対にしないだろうし。 それがあたしと同じ同性愛者ならまだしも、雪乃さんは異性愛者だ。 そんなことにショックを受けるなんて。 何を今更。 女性を愛することで、十分痛い目はみたじゃないか。 それからあまり長居をすることなく、家に帰った。 部屋に入ってベッドに横になると、どっと疲れが押し寄せてくる。 雪乃さんの家から帰る途中、バイクと財布のことを忘れてあわてて引き返さなくちゃいけなくなるし。 ぼーっとしてて、車とぶつかりそうにはなるし。 眠い。 夢の中へ引き込まれそうになっているのに、頭は今日一日の回想をしていた。 テストで96点叩き出して、若菜とはしゃいで。 早く早くと放課後が待ち遠しくて、SKY LINEに行って。 ユウさんと取り留めのない話をして、雪乃さんの様子を訝しんで。 公園まで全力疾走して雪乃さんを抱きしめて自分の気持ちに気付いて。 即座に失恋。 そーいえばテストのこと報告するの忘れてた。 もういいか。なんかもうどうでもいい。 別に付き合いたいわけじゃなかったし。 そういう関係を望んでもいなかった。 でも雪乃さんが誰かを想うのはいやだ。 あたしをまるで妹のように子供扱いするのもいやだ。 会いたい。 けど、会いたくない。 馬鹿みたいにそんなこと繰り返していたらいつの間にか眠りに落ちていた。 ------------------------------------------------------------------------------------------- 暗いところにあなたがいるのなら明るく照らしてあげたい。 冷たく凍えそうなら温かく包んであげたい。 苦しそうに笑う姿を見るぐらいなら、あたしが心から笑わせてあげる。    「良いかー。家に届いていると思うが、通知表は必ず始業式の日に持ってくること!」 教壇に立つ担任が大声でそう叫んでいる。 あと数十分のホームルームが終われば、待望の夏休みの始まりだ。 「あり得ないよね、どーして家に送るかな」 悪態ついたのは隣の席の美香。 赤茶色の明るい髪をした彼女は制服だと言うのに派手な身なりをしている。 真面目な生徒が多いこのクラスでは少し浮いた印象を受けていた。 「美香みたいに捨てて帰らせない為だね」 冷静になってそう返すと心外だと言う様に目を大きく開いた。 「捨てないって!親に見せずにガッコに戻すんだよ」 「……大して変わらないって」 「ハルわかってないなー。全然わかってない」 はいはい、と宥めるように肩を叩いた。 美香は若菜よりもヤバイ位置に居る為通知表も毎回散々らしい。 大学への持ち上がりも厳しく、本人もフリーターやるからと開き直っている。 「ハル!夏休み遊ぼうね!」 くるっと後ろを向いてそうテンション高く声を上げたのが若菜。 「うん」 「じゃーさ、海とか行こーよ!」 「それいい!マジ行きたい!!」 若菜は確かにあたしに聞いたはずなのに、それ以上に美香が食いついた。 あたしを無視して大きな声で会話を続ける隣と前。その声に担任が気付かないわけもなく、段々と近づいてくる。 「どこが良い!?」 「そーだなぁ、穴場がいいっしょ!」 「それなら先生いいとこ知ってるぞ」 盛り上がっている二人の会話に担任が割りこんできた。 「「えっ?」」 綺麗に重なった声に小さく笑う担任。 そして、あまりに残酷過ぎる事実を二人に告げた。 「お前ら二人、残念ながら補習でーす」 陽気な担任の声。それはそれは楽しそうだった。 日頃から美香と若菜は良く喋り良く笑う。 それは授業中だってHR中だってお構いなしだから、担任が頭を抱えていることも大体わかっていた。 そのさまは、ある意味日頃のお返しのように見えてしまう。 「「……」」 夏休みの補習を受ける対象は、期末テストの赤点が二つ以上あった場合だ。 知る限り、この二人ならやりかねない。 声にならないほど驚いているのか二人は絶句。 そりゃそうだ、補習となれば実質休みなんてない。 けれど出なければ大学への持ち上がりどころか、卒業さえも危うい。 「絶対イヤー!!!」 美香の悲痛な叫びが聞こえる。若菜はもう半べそかいていた。 ……とりあえず、新学期は席替えしてください。 そんな騒がしいホームルームの出来事を帰り道、雅に話していた時だった。 あるフレーズを聞いて、雅はピタリと足を止めてしまったのだ。 何か可笑しなこと言っただろうか。 いや、どう考えても普通の日常を暇つぶしに喋っていただけだ。 「それどういうこと?」 足を止めた雅にあわせて、押していた自転車と一緒にその場所へとまった。 うーんと唸りながら、今口にした言葉を再確認してみる。 「だから、夏休み補習だったら…」 「そうじゃなくて、その前」 「若菜と美香が夏休み補習って言われて…」 「それ!」 普段静かな雅が一際大きな声を出した。 しかも、あたしに人差し指を指してだ。 「相沢さんが補習ってどういうこと」 「そりゃ赤点2つ以上取ったら補習だって毎年の決まりごとじゃん」 「そんなの知ってる」 さも当たり前のように呆れてみせる。 不自然に一度溜息を吐くともう一度あたしに問いかけてきた。 「……相沢さん、赤点取ったの?」 「え?」 雅が若菜のことを気に掛けている。 いや、違う。 自分が勉強を教えた人の点数が悪かったと言うことに驚きを隠せていないんだ。 雅の表情を読むに『あり得ない』とわかる。 「で、でもさ!数学は頑張ったんだよ!」 確か数学のテストが返却された時、すぐに若菜は雅の元へ報告へ行っていた。 あたしが連れて行く暇もなくだ。 でも数学を頑張り過ぎたばかりに、英語や現代文を落としてしまったらしい。 「数学が良くても、他で下げちゃ意味ないでしょ」 いや、はい。最もでございます。 もう返す言葉もみつかりません。 若干不機嫌になってしまった雅に何とか話を振りつつ歩いていると、ふとあることを思い出してしまった。 「……あれ、今日って終業式だったよね」 「今更なに言ってんの」 「あ、あー、あー!」 三段階に伸びた声を上げると、雅が怪訝そうに見つめていた。 だって今唐突に重要なことを思い出してしまった。 重要で、それでいて覚えていない振りして無視してしまいたいこと。 「今日ユウさんのところ行かなきゃ」 思い出す。夏休み、バイトをしろと半強制的に頼まれたことを。 「ああ、そうだったね」 「断ろーかなー」 「どうして」 正直店には行きづらい。けれど皆まで言うことは躊躇われた。 先日の雪乃さんとの事については雅にだって一切話していない。 だから、悟られないように。 雅が柔らかく聞いてくるから少し冗談気味に答えた。 「だってさ、高校生最後の夏休みがバイトで終わっていいわけ!?」 もちろんそんなこと思ってなんていない。 結局のところ雪乃さん次第なんだ。 会いたいのに会いたくない。 それはここ数日でもずっと変わらない思いだった。 何度メールしようとアドレスを開いたか、会いにお店へ行こうと思ったことか。 でも最後には結局あの日の雪乃さんを思い出して、安易に近づいたり出来なかった。 雪乃さんには恋人がいるんだ。 「それって嫌味?」 言ったっきり一人で色々と考えていると、隣から睨む様な視線が送られてはっとした。 ……そうだ、雅は高校生最後の夏休みを夏期講習で終えるんだった。 「い、いや!勉強は学生の本分じゃん!!」 どうにかこうにか口をついて出たのは、あたしにはきっと一番似合わない言葉だった。 雅は小さく笑って、そっとあたしの顔を覗く。 『バカじゃないの』と言う視線にこめられたもうひとつの言葉。 『どうしたの』って雅が優しく聞いてくれてる気がする。 だからだろうか、家に帰り着替えてすぐお店に向かう間。 先日の出来事を事細かに、その時の自分の心情まで曝け出して話してしまっていた。 諦める、という言葉はおかしい。 ここ数日考えていたことはずっと変わらない。雪乃さんのことばかりだ。 何度考えても答えは出ない、だってあたしの気持ちがかわらないのだから。 だから諦めようと思った。 でも諦めるって何を? あたしは別に、雪乃さんの恋人になりたかったわけじゃない。 増してやそんなこと期待すらしていなかった。 雪乃さんの隣に居たい、ただ雪乃さんが好き。 それだけなのに。 好きだと思うと柔らかな笑みでさえ嬉しくなって、その先を望んでしまう。 あたしのことを考えてほしいと、欲張りになってしまう。 だから、諦めるというのが雪乃さんを好きじゃなくなることなら、彼女と会わないことが一番なのだ。 そう思っていた、今の今までは。 「あんたの雪乃さんに対する気持ちってそんなものなの?」 SKY LINEに着いて、カウンターから離れた席に座ると雅は真剣な表情でそうたずねてきた。 まさか雅がそんなこと言うなんて、というのが正直な感想で。 らしくないなぁ、なんて思った。 「……だって、」 「男とか女とか関係なしに振り向かせようとか思わないの」 熱い、今日の雅はやけに情熱的だ。 あたしの恋愛ごとに関してこんなにも興味をもってくれるとは。 何だか熱いものが込み上げて来そうだ。 もう相談なんてどうでもいいかもしれない。 「当たって砕ける覚悟で行きなさいよ」 いつもと掛け離れすぎてる雅の科白に言葉をなくした。 雅の体だが、中には雅以外の誰かが入ってるのでは…? なんて思いながらもしっかり雅の言葉に耳を傾けていると、今度は信じられない言葉が聞こえた。 「……なんて言えば満足?」 ……え? 先程までの声と全く違う低い声に文字通り固まった。 「大体、雪乃さんに彼氏がいるなんて意外性なんてこれっぽっちもないじゃない」 うわぁ……。 一気に中の人、どっか行っちゃった。 「あんな綺麗な人なんだから居て当たり前」 「それに、好きだけど何も望まないなんて綺麗事言わないの。結局は彼氏が居てショック受けてるんじゃない。てことはそのポジションに居るのが自分じゃないことが気に食わないんでしょ?」 駄目だ、痛いとこ突かれて泣きだしそう。 雅の言葉は正論過ぎて、言葉ひとつ出てこない。 「ずっと想い続けることも、奪ってやるぐらいの気持ちもないのなら諦めて正解だけど」 暗に意気地なしといわれてる気がした。 いや、言ってるんだろう。 「それに『当たって砕けろ』って言う無責任な言葉大嫌いなの。私は『石橋を叩いて渡る』主義だから」 知ってます、知ってますとも。あたしの知る限り、一番堅実な人ですもの。 だからこそ、その堅実な言葉に文句なしでK.Oされた。 小さくなって俯いてると雅の人差し指がテーブルに軽く立てられた。 「でもハルが本気で好きなんだったら私に出来ることはするし、本当に好きでいるだけでいいのなら何も言わない」 その真摯な言葉は、今のあたしにとって何よりも嬉しかった。 雅はあたしに一番近い人で、誰よりもあたしを理解してくれる。 それでいて、時に厳しく、時にとびきり甘い人。 「雪乃さんなんて関係ない。私にしてみれば、ハルが泣いてるか笑ってるか、それが1番大事なの」 雅の真っ直ぐな瞳とぶつかって、涙が流れるのも時間の問題だった。 そんな殺し文句言われたら、あたし泣いちゃうよ。 ポロリと涙が落ちる寸前だった。 「美しき友情かな、」 少し低めで囁くような声が背後から聞こえてきた。 この声は知ってる。だってこの店に来てこの人の声を聞かない日はないから…。 勢いよく振り向くと、綺麗に微笑んでいるユウさんがいた。 「ゆ、ゆうさんっ!!」 ガタガタッと店の雰囲気ぶち壊しの音を立てて立ち上がるとそ知らぬ顔して隣に座ったユウさん。 恐る恐る顔を覗き込むと、いつもと変わらず澄ました顔をしていた。 まさか、今の聞かれてた…? 「いいねぇ、若いって」 「それ、自分は若くないって言ってるもんですよ」 しみじみと雅とあたしを見つめるユウさんに雅がちゃちゃをいれる。 「言ってるのよ、三十路超えたら怖いものなしだから」 「へえ」 「で、ハルはいつから好きになったわけ?」 「……はあっ!?」 唐突に振られた話題は確かにさっきまで雅と交していた話だった。 流石はユウさん、やっぱり聞かれていたか。 ニコニコ笑いながら聞いてくる。いつも素敵な笑顔だけど、今日は酷く意地悪に見えた。 「盗み聞きなんてたち悪いですよ!」 勢い良く椅子に座りなおして、ユウさんに詰め寄った。 こんなにあたしは慌ててるのに雅は平然とコーヒーを飲んでる。 一体この温度差はなんなんだ。 「ハル、もう少し冷静になりなさいよ」 冷静になんてなれるわけない。 大体、雅はなんでそんなにも冷静なんだろうか。 無理だ。という言葉をアイコンタクトすると、返ってきたのは呆れたような溜息。 それから、顎でユウさんを示された。 隣をみると、もちろんユウさん。頬杖ついて妖美に微笑んでいる。 その瞳は何もかも分かっていると言っているようで、眼力に負けてしまいそうになる。 「べ、別に好きなわけじゃ……」 精一杯の強がりでそう言ってみるけれど。 見透かしたような目で見られると段々弱気になってくる。 「そ、そりゃ雪乃さんのこと好きですけど。でも、ほら、恋人がいるわけですし……」 語尾がどんどん小さくなってきたところで、雅を見ると呆れた顔してた。 一瞬固まってしまう。今、何か下手なことを口にしただろうか。 「……ばか」 「え?」 「そう、ハルは雪乃のことが好きだったの」 「…は?」 あれ、だってユウさん聞いてたんじゃなかったんだろうか。 いつから好きになったの?って、聞いたよね、今。 首を傾げながら雅を見ると、ふっと溜息と吐かれた。 「見事に誘導尋問に引っ掛かって…ほんと単純」 「ハルが誰を好きか、ってところまでは聞き取れなかったのよね」 「え、それじゃ…」 「ありがと。教えてくれて」 つまり、鎌をかけられたと言うことか。 最悪だ、やってしまった……。 いや、相手がユウさんなら何ればれるとは思うけれど。 何も自分から暴露しなくても良かっただろうに。 「心配しないで、何も告げ口するようなことしないから」 「……」 含みを持った口調。 その言い方で十分心配になりますって。 「それより、バイトの件なんだけど」 「え?ああ、」 「明日からでいいよね」 ここに来るまでは断ろうと思っていた話だ。 足元をみられた今、ここで断れる人が居たらあたしは多分その人に盛大な拍手を送るだろう。 「ハル?」 にこやかに聞いてくるユウさんの顔には「雪乃に言うわよ?」という裏のメッセージが隠されている。 「も、もちろん!やります!ていうかやらせて下さい…!!」 雅が盛大にため息をついたのが聞こえた。 本当に、単純すぎる自分を呪いたい。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 澄み切った青空。 人の少ない砂浜。 照り付ける太陽。 際限なく続く海。 あたしの手を引くあなた。 一歩を踏み出すためには、時に後退することも必要だったんだ。    「おはよーございます」 「おはよ」 朝の9時半、この時間にSKY LINEへ行くことが段々と日常化してきた。 もう夏休みに入って1週間が経つ。7月も終わりだ。 「向こうのテーブル拭いてくれない?」 「あ、はい」 絢さんから布巾を受け取って一番奥のテーブルから拭いていく。 バイトを始める前にユウさんが言った様に、ここ一週間日替わりでみんなが寄ってきた。 雅にいっちー、それから雪乃さん。 雪乃さんは相変わらず毎日のようにランチを食べにきている。 「さ、今日も頑張ろー」 気合が入っているのか入っていないのか。 気の抜けそうな声でそう声を出した絢さん。 それなのに、促すように顎で指示されるから、いやいや腕を上げた。 「おー…」 今度こそ、本当に気が抜けるようだ。 お客さんの入りは今日も順調。 お昼のピークが過ぎたころ、スーツに身を包んだ一人の男性が中へ入ってきた。 昼間の時間帯にスーツ姿の男性が入ってくるのは珍しい。 大体が若い女性が多かったし、男性一人は少し居ずらい雰囲気でもある。 しかし、その人は急ぎ足で近づいてきた。 「ハルちゃん」 「あれ、いっちー」 目の前に来て、やっと中に入ってきたのはいっちーだと認識出来た。 雰囲気なんて気にしないまま、徐にカウンター席へ腰掛ける。 「どうしたの?慌てて」 「いや、ちょっと時間無くてね。あ、コーヒーくれる?」 「うん」 時間がないのにどうしてわざわざコーヒーを飲みに来たのだろう。 そう思いながらもコーヒーを差し出すと、ぐっと一口。 「いっちー?」 「ちょっと、ハルちゃんに頼みごとがあってね」 「あたしに?」 あたしがいっちーに色々頼むことはあっても、いっちーからってのは珍しい。 というより、今まで一度も無かった。 「うん。一緒に海に行って欲しいんだ」 「……海?」 「そう、海」 なぜ海なのか。 なぜあたしなのか。 頭のいい人の考えはやっぱり良くわからない。 いっちーの言葉を理解出来なくて、呆けたまま首を傾げた。 「えっ、雅と喧嘩したー!?」 少し大きな声だったこともあって、明らかに注目を集めてしまった。 はっとして口元を押さえるけれどもう遅い。 いっちーに目で呆れられ、絢さんからは冷たい視線を浴びた。 「ご、ごめん。それで?」 「喧嘩じゃなくて、ただの言い争いだから」 それを喧嘩と言うんじゃないんだろうか。そう思ったけれど口には出さなかった。 どうやら、最近いっちーは雅と喧嘩、もとい言い争いをしてしまったらしい。 そして、その原因は雅の進路。 「ハルちゃん知ってた?菜々世が外部受験すること」 「知ってた、けど?」 そう答えると、いっちーは大きく目を見開いたまま暫し固まった。 頭の悪いあたしでも、わかってしまった。 いっちーは雅から聞いてなかったんだ。 大学もこのまま高校からの持ち上がりだと思ってたんだろう。 「じゃあ、それが県外だってことも?」 「……は?」 県外?圏外? 全く頭に無かった言葉を聞いて、すぐには理解出来ない。 だって、そんな話は一切……、 「…なにそれ」 「そういったんだよ、あいつ。県外の大学行くって」 そんなこと、あたしだって聞いてなかった。 詳しくどこの大学受けるとか、そんなの一切聞いてない。 でもどうしてだろう。漠然と県内の大学に行くと思い込んでいた。 「それでちょっと言い争ってね」 「……」 これは非常にまずい。どうもいっちー以上にショック受けてるみたいだ。 どうにか自分で自分の状態を把握しようとするけれど、上手くいかない。 ドクドクと運動した後のように脈が速くて、冷静ではいられなかった。 だって。あたしはいつだって何でも雅に相談してきたのに。 いつもだ、いつも雅はあたしに何も言わない。 それでも、進路のことぐらい話してくれても良かったのに。 「ちゃんと話そうと電話したってメールしたって返事はないし」 「だから、あたしに?」 「うん、協力して欲しくて」 ショックを受けては居るけれど、理由は分かった。 そこで疑問だ。なぜ敢えて海なんだろう。 「どーして、海?」 思い出の場所とか? いや、そんな話は聞いたこと無い。 「今年は海に行こうって話してたからね、このままじゃ海どころか会うことすらままならないだろうし」 だったら仲直りしてから行けばいいのに。 とは、流石に言えなかった。 雅が機嫌を損ねた時の頑固さはきっとあたしが一番良くわかってる。 話をしないことはおろか、連絡のひとつも絶対に取らない。 顔を合わせてもシカトの決め込みで、罵倒されるほうが断然マシなぐらいだ。 仲直りするのも容易ではない。 「普段大人びてるくせに、ああいうとこ子供なんだよな」 いっちーに言わせると、そういうことらしい。 まあ、そういうところがある方が人間っぽくていいけど。 いや、実際人間なんだけど。 「わかった。雅を誘えばいいんだよね」 それぐらい簡単だ。 呼び出して、後はいっちーの腕次第。 「いや、ハルちゃんにも一緒に来て欲しいんだ」 「あたしも?」 でも二人っきりの方が絶対に良い気がする。 それにあたしだって二人の間にいるのは気まずい。 「経験上、ハルちゃんが居ないとあいつ即帰る気がするんだよね」 「……ああ、」 確かに、絶対そうなることも予想できる。 行き成り二人にされても海に行く前に雅の姿は無くなる、だろう。 「だから、一緒に海まで来て欲しいんだよね」 「いいけどさ、あたし一人?」 「もちろん誰か誘ってくれていいよ」 「うーん、わかった」 「良かった、助かるよ」 他でもないいっちーの頼みだ。 恩を仇で返すようなことはしたくない。 それに、相手はあの雅なのだから。 雅がどう思うかわからないけれど、力になりたいと思うのは当たり前だろう。 そこで、問題は誰を誘うかだ。 誘う人の条件になると言えば、やはり雅といっちーと面識のある人がいいだろう。 ついでにあたしも気兼ねなく話せる人。 そこで思いつくのはやっぱり一人しか思い浮かばなかった。 「行かないわよ」 うっ、一刀両断。速攻で玉砕。 目の前で優雅に微笑む人は、そんな殺生な言葉を易々と発して見せた。 「でも!」 「紫外線の強いところって嫌いなの」 「そんなぁ」 「他当たったら?」 その他がないからユウさんに頼んでいるって言うのに。 バイト終わってそのままユウさんが来るまで待って。 機嫌が良いか悪いか様子を見ながら、やっとのことで話を持ちかけた。 条件にはまる人、どう考えてもユウさんが適任だと思ったのに。 「居るでしょ、もう一人」 にやっと顔を覗きこむユウさん。 その顔と言葉だけで、頭の中に浮かんだ人だと言うことに確証を持った。 だけどそれを実行するには、思いの外勇気が必要なのだ。 「一緒に海に行きたいくせに」 行きたい。何度も頷いて自分自身に確認するけれど、やっぱり行きたい。 雅達の為だけれど海に行くこと自体楽しみなのに、そこに好きな人、雪乃さんが居れば尚更楽しいに決まっている。 「誘って見れば?」 「でも…」 「口実があるから大丈夫でしょ」 確かに大義名分がある。雅といっちーのことを利用するみたいで少し気が引けるけど。 考えてみてもこんなチャンスは滅多にこないし。 ああ、でも雪乃さんいつも忙しそうだしな。 「うーん…」 「悩むぐらいなら一度言って見れば?」 「……はい」 「ダメなら絢に一緒に行かせるから」 そういえば、絢さんも思い当たる人だ。 というか、そこで自分が行くといわないところがユウさんらしくて、思わず苦笑してしまった。 ダメで元々。当たって砕けろ。 雅の嫌いな言葉は、皮肉にもいつもあたしを動かす言葉だ。 「海か……」 大丈夫だから、というユウさんの言葉を信じて雪乃さんに話を持ちかけた。 だけど、どうも返事は曖昧だ。 大きく息を吐いて、随分と考え込んでいる。 「…無理、ですか」 恐る恐るそう聞くと、また曖昧に微笑まれた。 ランチ時に見計らって雪乃さんに声を掛けたけど、忙しくて中々話が進まなかったから終わり頃にまた寄ってもらった。 どうも海と言うことよりもその口実に渋っているようだった。 「そういうことって第三者が入っていいのかな」 「……あ、でもいっちーの頼みですし」 言いたいことはわかるけど今更断ることなんて出来ないし。 それにそれで二人が上手くいくのならそれが一番良いとさえ思う。 雅達の為に何かしたいと思うし。 「そっか、そうだね…」 納得はしてくれたようだけど頷いてはくれない。 「それ、いつになるかな」 雪乃さんの言葉で、気が付いた。 いや、誘う前にちゃんと考えておかなければいけないことだったのに。 雪乃さんもいっちーも仕事があるんだ。 考えて見れば雅も夏期講習がある。 「雪乃さん、いつなら大丈夫ですか?」 「いつって、私の都合じゃ駄目でしょ」 「や、良いんです!ていうかまず参考に…」 本当はいっちーと雅にも聞かなきゃいけないけれど。 ここは雪乃さんの都合の良い日を聞いてから検討しよう。 どうせ行くのなら是非とも一緒に行きたいし。そうだ、それがいい。 「そーだな、来週の日曜あたりかな」 「日曜、ですね!」 いっちーは日曜はいつも休みだったはず。 それなら雅の都合が合えばその日で大丈夫だ。 その日、話が纏まって雪乃さんと別れた後、すぐにある家へ向かった。 「あら、遥ちゃんいらっしゃい!」 「久しぶりーマキちゃん。雅いる?」 やってきたのは雅の家。 行き慣れているだけに雅のお母さんとも親しい仲。 まるで自分のうちのような振る舞いのまま、家の中へ上がり込んだ。 「菜々世ちゃんなら部屋にいるわよ」 マキちゃんの言葉を聞いて階段へ向かう。 「部屋で勉強?」 「多分そうね」 「夏期講習も行ってるくせに、ガリ勉め」 「ふふ」 可愛らしく笑うマキちゃん。 会うといっつも思う。こんな人がお母さんだったらなぁ、って。 そんなことを言うとマキちゃんはいつも言ってくれるんだけど。 『遥ちゃんも家の子同然よ』って。 「あ、遥ちゃん夕飯食べていくわよね?」 「いーの?」 「いいのいいの」 「やった!じゃあ頂きます」 「すぐ用意するわねー」 嬉しそうにキッチンへ向かったマキちゃんの背中を見送って階段を上がる。 雅の部屋は2階の一番奥の部屋だ。 「おじゃっまー」 言うのと同時にドアを開けると、視界に現れるシンプルな部屋。 そこではっと似たような部屋を思い出した。 そうか、雪乃さんの部屋って雅の部屋と似てるんだ。 女の子らしさを全くと言って良いほど感じない。使い勝手重視。 「……ノックぐらいしなさいよ」 机に向かって明らかに勉強してるとわかる。 こっちをチラッと確認すると、一言そう言ってまた勉強を再開させた。 いつもに増して連れない態度。 「だって、ノックしたら鍵かけるでしょ」 実際、一度だけされたことがある。 「わかってるならどうして入ってくるかな」 「わかってるから入るんだけど」 小さく相槌を打つとまた勉強に集中。 一息つくまで話しかけるのはやめておこう。 多分今話しかけたところで何の反応も返ってこないだろうから。 周りを見渡しても漫画とか今人気のCDとか、そんなものは一切見当たらない。 だから本棚に並んでいる一番薄い本を手にとって見た。 それでも中は小さな文字がびっしり。 本なんて滅多に見たいあたしにこんな難しそうな本は無縁だ。 きっとこの先一生お目にかかることはないだろう。 他の本は、と探しても全く興味が持てない。 やることもないからベッドに座って何気なしに携帯を弄ることにした。 取り合えずいっちーに確認のメールを送っておこう。 日付は来週の日曜で大丈夫かどうか。 これでいっちーがオッケーならばどうにか雅を説得しなくちゃいけない。 送信してそのまま携帯をベッドに放り出す。 体ごと横になると段々と眠気が襲ってきた。 「で、用事は?」 半分夢の世界へ行き掛けていると、行き成り雅が話しかけてきた。 横にしていた体を起こすと椅子ごとこっちへ向いている。 珍しい、雅から話を促すなんて。 もしかして、何を話しに来たのか勘付いていたりするんだろうか。 「あのさー、県外の大学受けるってほんと?」 行き成りその話題に触れるのもどうかと思った。 それなのにどこから話していいかもわからずそう切り出してしまった。 「ほんとだけど?」 内心ドキドキしながら待っていたのに、雅は顔色一つ変えずに肯定してしまう。 そんな、結構ショック受けたんだけど、あたし。 「何であたしが知らないの。ていうかどうして他の人から聞かなきゃいけないわけ」 思わず感情的になって、最後の方は声が震えてしまった。 そんなに重く受け止めてたわけじゃなかったけど。 こうして雅を前にしてみると何だか悲しくなってくる。 雅はあたしの親友だと思っていたし、この話を聞いてもそう思っている。 だから、何でも話せる相手だと。 でも、雅はそうじゃなかったんだろうか。 「言ったって、別にハルは何も言わなかったでしょ」 あたしの様子をみて、雅は少しだけ表情を変えた。 自分の乏しい表現力では上手く現せないけれど、すごく優しい表情。 「何もって…」 「言ったって「いいんじゃない?」とか、「雅の好きにすれば?」とか、そんなところでしょ」 雅が何をいいたいのか良くわからない。 だけど、言われたら多分そう返しただろう。 事前に聞かされていれば、雅がやりたいと思うことを推したと思うし。 「だから何も言わなかったの、ハルはちゃんと私のことわかってるから」 そりゃわかってるよ。 雅は自分が決めたことはどうやったって貫くし。 こうと思ったら梃子でも動かない。頑固なやつ。 だから、あたしは反対したりしない。 「でも、親とか祐樹は違う。どうせ反対するだろうと思ったから事前に話しておいたの」 「……普通、逆じゃない?」 反対されるとわかってるなら、ぎりぎりまで黙っておく。 それで反対されても、もうどうにもならないようにするんじゃないんだろうか。 「そんなことしたら後が面倒でしょ。余計拗れる」 「……そーかな」 「親は、家を出ることには多少渋ったけどやりたいことはやりなさいって賛成してくれた」 きっとマキちゃんが口添えしてあげたんだろう。 雅はお父さん譲りで頑固だから。お父さんは相当堅かったもんな。 「でも祐樹は、」 「……反対されたの?」 お昼あったときには進路のことで言い争ったって言っていた。 だから多分反対したんだろう。 「さあ、どうだろうね。良くわからない」 「……喧嘩したんでしょ?」 そう詰め寄ったら一度小さく頷いた。 諦めた顔した雅は、その事実をあたしが知っていることに気付いたんだろう。 「反対とかそういうことの前に、相談しなかったのが気に食わなかったみたい」 ああ、そっか。いっちーの怒る気持ち、分かってしまった。 多分いっちーは自分を頼ってくれなかったことが納得いかなかったんだ。 雅はいつも自分の足でたとうとするから、何にも寄りかかろうとしないから。 それはきっと、あたしが感じていた気持ちと同じだと思う。 「じゃー仲直りしようよ」 「…は?」 今の今まで穏やかに話を進めていたのに、雅の顔つきが明らかに変わった。 何か言われる前に話を進めなければ。 「来週の日曜海に行くことになったの。だから雅も一緒に…」 「嫌」 その二文字はあたしが説明し終わる前に聞こえてきた。 もちろん言われるとわかっていたけど、最後まで話ぐらい聞いてくれればいいのに。 「どーして」 「お膳立てされるなんて絶対に嫌」 「違うって!あたしが雪乃さんと海に行きたいからいっちーに連れて行ってほしいって言ったの!」 咄嗟に口からでた嘘は中々のもんだった。 少々疑問点は残るものの、まあ、あたしにしては上出来だろう。 「だったら三人で行ってくれば」 「それじゃ二人きりになれない」 「だったら二人で行けばいいでしょ」 「二人だったら雪乃さんきてくれないかもしんないじゃん」 ああ言えばこう言う。とは、まさにこのこと。 両者一歩も引かずに口論は続いた。   -------------------------------------------------------------------------------------------- あたしはやっぱり子供なんだ。 8歳の歳の差は、そう簡単に埋められそうにない。  「ジュース買わないんですか」 「うん。あ、飲みたい?」 「……や、別に大丈夫ですけど」 寧ろ雪乃さんは飲まなくていいんですか、って言いたい。 あんなに勢い良くジュースって言ってたくせに。 「奢るよー。ジュースぐらい」 「雪乃さんが喉渇いてるんじゃないんですか」 一歩前を行く雪乃さんに声を掛けるけど、こっちを振り向く気配はない。 でも、引っ張られて連れてこられたときのまま。 あたしの手は雪乃さんに握られている。 精一杯平気な顔をして話をしてるけれど、心臓が五月蠅くてかなわない。 堪えきれないほどドキドキして顔だって真っ赤だろう。 早く解いてほしい。でも、ずっと繋いでいたい。 「あんなの口実でしょ、二人っきりにする為の」 「……口実?」 「もたもたしてたら菜々世ちゃんハルのこと連れてどっか行きそうだったし」 確かに雅なら遣りかねない。 あんまり仲良くないのに良くわかってるんだ、雪乃さんは。 「ハル、暑い?」 「え?」 そりゃ夏だから暑いんだけど。 雪乃さんの声は明らかに心配している声色だった。 「ちょっと顔赤いよ」 そんなの雪乃さんが手を離してくれないからに決まってる。 そんなこと何が起こったって言えなくて、「もう焼けちゃったかなー…」なんてあり得ないこと言って笑った。 「やっぱり何か飲もうか」 脱水症状とかなったら大変だから、って。 優しい言葉を掛けてくれるから素直に従った。 そのまま車からどんどん離れていくと、段々と広大な海が見えてくる。 一年ぶりに見た海。 そんなに珍しいものでもないんだけど、思わず声が漏れた。 この時期と言ったら人で溢れ返っているはずなのに、そこに大勢の人の姿はない。 チラホラとカップルっぽい人達の姿が見えるだけ。 「少なー……なんで?」 独り言のようにそう呟いたら雪乃さんから肩を叩かれた。 振り返ると雪乃さんが看板を指差している。 そこには、『遊泳禁止』の文字。 その下には見つけた場合の罰金が記載されている。 ああ、だからなのか。 「はい」 「ありがとうございます」 自動販売機を見つけて、ジュースを買ってもらって飲みながら海沿いを歩いた。 あんまり遠くに行き過ぎると迷子になっちゃいそうだからわかる範囲の場所を。 「ねー雪乃さん」 「ん?」 「暑くないですか?」 「だって夏だもん」 あっさりと正当な突っ込みを入れられて言葉をなくす。 いや、違う。そこじゃないんだ。 「……そうじゃなくて、上着」 今日会った時から気になっていた。 上から羽織っている薄手のパーカー。 ただでさえ暑いのに。 「別に大丈夫だけど?」 「夏なんですから、半袖でいきましょーよ」 そう言ってパーカーの袖を引っ張ると露骨に嫌な顔された。 「焼けちゃうでしょ」 冗談交じりだってわかってるけど、嫌な顔をされて冷っとした。 本心じゃないよね?って、心の中で問いかける。 「ハルと違って年だからねー。紫外線は敵なの」 笑いながら、日光から避けるように木陰の方へ行ってしまった。 普段よりも数倍鼓動が早くて、あたしは確かに怯えていた。 雪乃さんに嫌われること。 邪険にされること。 冷たい目で見られることを。 「ハルもこっちおいで」 笑顔で手招きしてくれるけど、素直に近づけない。 だって人は優しいだけじゃない。 自分以外の本心なんて、わからないんだ。 「ハル?」 今は笑ってくれるけど、いつさっきみたいな顔されるかわからない。 それが、怖くてたまらないんだ。 「焼けちゃうよ」 手を引っ張られて、木陰の中へと連れて行かれた。 太陽の日差しが遮断されると、一気に涼しくなった気がする。 一歩場所が違うだけで、だいぶ気温の差があるようだった。 「私ね――」 波の音と、風に靡かれる物音。 そんな静かな間に聞こえた雪乃さんの声。 続く言葉に時間が止まるような錯覚を覚えた。 「別れることにしたの。けじめつけることにした」 あたしに話していると言うよりも、自分に言い聞かせているようなニュアンスだった。 静かに、だけど強く。 芯の通った声は真っ直ぐに伝わってくる。 雪乃さんが別れると決心して、嬉しい、なんて思わなかった。 正直、ほっとしたと思うばかりだ。 これで、雪乃さんが現実を目にして悲しむことはなくなる。 涙を流さなくてすむんだ。 幸せに、なれる。 「そう、ですか」 そんな相槌しかあたしは返せなかった。 きっと何にも言わなくても良かったんだろう。 それを口にすることが、雪乃さんにとって一番大事だったんだろうから。 「ハルのお陰だよ」 「えっ、何もしてませんけど」 考えても本当に何もしていない。 自分でも失礼かと思うぐらい、聞いちゃいけないことに無遠慮で突っ込んでいたとは思うけど。 「ほんとは、この前怖かったんだ。不倫してるなんて言ったらハルが軽蔑するんじゃないかって」 真っ直ぐ前を見ながら、雪乃さんはそんなことを口にした。 あたしが雪乃さんを軽蔑するなんて、絶対にないのに。 「ハルってね、純粋だもん。綺麗なんだよね、全部」 「……き、きれい?」 それは雪乃さんや雅やユウさんが言われる言葉であって。 あたしなんて、かけ離れている。 思いっきり首を傾げたら雪乃さんはくすくす笑った。 「うん、だから嫌われるのが怖いのかな」 あたしだけじゃないんだ。 雪乃さんもそう思ってくれてたんだ。 素直に嬉しかった。 雪乃さんの中で、あたしはどうでもいい存在ではないんだよね。 「そんなこと、絶対ないです」 目を見ていえなかったのは悔やまれるけど、ちゃんと伝えられたと思う。 好きだと言えない代わりに、嫌いになんてならない、と。 そろそろ、二人は仲直りしただろうか。 いっちーのことだ、きっと上手いこやってるだろうけど。 それでも、やっぱり心配だ。 「もうそろそろ、戻って見る?」 察してくれたんだろうか。 海に限りなく近い砂浜を歩いていると雪乃さんが声を掛けてきた。 「そうですね」 大丈夫かな、雅結構意地っ張りだもんなぁ。 考えてみても、雅が怒る時は大抵一筋縄ではいかない。 「そんな顔しなくても大丈夫だよ。あの二人なら」 きっと不安そうな顔してたんだろう。 ぽんぽんと頭を撫でてくれる。 安心する雪乃さんの手。 優しい気持ちが流れ込んでくるようで、途端に笑顔になった。 様子を見に車が停めてあるところに戻っても、誰も居ない。 車の中にだって人の気配はなかった。 きっとうまいこといっているんだろう。 二人の邪魔をするわけにも行かず、連絡を控えて待つことにした。 「来ませんね」 すぐ来るかな、なんて思ってたけど二人は中々帰ってこない。 もうお昼も過ぎちゃったし、お腹が空いた。 「……そーだね」 ワンテンポ遅れて返事をした雪乃さん。 その手には携帯電話が握られている。 さっき誰かからメールが届いたようで、それからずっと携帯を弄ってる。 そりゃこれだけ暇だからしょうがないとは思うけど。 「……」 ほったらかしにされてるこっちとしては堪らない。 暇を持て余しているところに加えて嫉妬まで入り込んで、もう拗ねてしまいそうだ。 「誰とメールしてるんですかー」 ぬっと覗き込むような仕草をすると、雪乃さんはふっと笑った。 特に携帯を隠そうともしなかったから見てもいいのかな? 「誰だろうね」 「……」 覗き込んだそこには保護シートが貼ってあった。 バッチリ画面の中身は見えないわけで。 だからその余裕綽々の笑みなんですね。 「ずるい」 「覗くのが悪いんでしょ」 「なっ、暇なんですよ!」 「泳いでくる?」 「えっ」 「罰金は自腹ね」 「嫌ですよ!」 そんな下らない言い合いをしても雅といっちーは戻ってこない。 雪乃さんと二人きりと言うのは凄く嬉しいんだけど。 こうも雪乃さんが構ってくれないと暇すぎて困る。 でも、横顔を見ているだけって言うのも悪い気はしなかった。   --------------------------------------------------------------------------------------- 繰り返し繰り返し。 馬鹿みたいにあなたのことを考えていた。 降り続く雨。 体中を、道路を、建物を。 すべてを濡らしてく。 大嫌いな雨は、あたしに悪夢を見せた。 「…はぁ」 今日何度目の溜息だろう。 昨日から繰り返し繰り返し。 同じこと考えて、溜息ついて。 最後には自己嫌悪に陥ってしまうわけで。 「…それさ、コーラだけど」 ぼーっと手元を動かしていたあたしの隣に、ぬっと顔を出してきた絢さん。 手元を覗き込んで、呆れた声。 「……え?コーラ?」 いやいや、今あたしはコーヒーにミルクを足してるところで―― 「……」 じーっと手元のグラスの中身を覗き込む。 ……って!コーラだよこれ! 泡が出てる。プチプチと弾けてる。 ああ、間違いなくこれは炭酸だ。 「そんなことばっかりやってると、時給下げられちゃうよ」 呆れた口調でそう言うと、絢さんはさっさとどっかに行ってしまった。 ……またやってしまった。 もう、今日は朝からこの調子だ。何度絢さんに注意されたことか。 仕事も手につかないんじゃ、最悪だ。 「すみません」 絢さんはもう近くにはいない。 わかってるけど、そう言わなきゃ気がすまなかった。 その言葉は絢さんへなのか。 回想しては何度も思い浮かべた雪乃さんへなのか。 自分でも良くわからない。 駄目だ、ほんとに。 直接お客さんと接する仕事なのに、こんなことじゃ。 そうわかってるけど、わかってるんだけど、頭から昨日のことが離れない。 またぼんやりとそんなことを考えていると、お客さんが入ってきたのがドアの音でわかった。 「ハルー」 ドアの音のすぐ後に聞こえた声はあたしを呼ぶ声。 その声の持ち主は、ニコニコ顔でこっちに手を振ってきた。 その隣で「よっ」と手を上げたもう一人。 二人組は笑顔で近づいてくる。 「若菜、美香も。どしたの」 二人の顔を見て、沈んでいた気持ちが少しだけ浮上した。 「バイトしてるんだったら教えてよ」 「あーごめん。急に決まってさ」 「ふうん」 「でも、何で知ってるの?」 ここでバイトが決まってから、確か誰にも話していなかった。 友達で知っているのは雅ぐらいだった筈だ。 「雅さんから聞いた」 「雅?」 「うん」 さらっと若菜はそう言うけど、若菜と雅は連絡を取り合う仲にでもなったんだろうか。 そう言った話は聞いたことはない。 不審に思っていると、若菜が種明かしをしてくれた。 「今日雅さんと会ってさ」 「どこで?」 「学校」 学校?どうして、と聞こうとして寸前のところで止めた。 二人が制服で夏休み中に学校へ行くと言うことは補習しかないだろう。 寧ろ、おかしいのは雅の方だ。 「雅がなんで学校に?」 「ばっしーに会いに来てた」 横で傍観してた美香が口を開いた。 ばっしーとは確か世界史担当の石橋先生だ。 そう言えば、進路指導の進学担当の先生だった気がする。 「進路相談かな?」 「多分そーじゃない?」 「それより、海にも行ったんだってね!」 行き成り腕に縋りついてきた若菜が恨めしそうにそう言った。 あー、忘れていた。二人とそういう約束をしたようなしなかったような。 そんなこと、雅のやつ話さなくて良かったのに。 腕を引かれながら子供さながらに駄々を捏ねる若菜。 あまりの騒がしさに何か奢ることにした。それで機嫌が良くなればいいけれど。 途切れることもなく会話を続ける二人を見て、何処かで安心していた。 こうやって賑やかにしてると、色々考えなくてすむ。 本当はちゃんと考えなくちゃいけないけれど、今はまだ無理そうだ。 ほんとはハラハラしてた。 お店に雪乃さんが来たら、どんな顔しようって。 何て話し掛ければ良いんだろうって。 でも、雪乃さんはお店に来なかった。 どうしてかわからない。 毎日来てるってわけでもないから、気にすることでもないかもしれないけれど。 こんな時だから、昨日のことの所為なんじゃないかって考えてしまう。 どんどん悪い方向へ、決まってもいないのに決めつけて。 だからだろうか、消化出来ない気持ちがモヤモヤと住み着いて。 快晴の空を見ても、バイクで颯爽と走っても、友達と喋っても。 あたしの心の中は、常に曇っていた。 いつもは楽しいと感じることさえ詰まらなくて。 暇なときに必ず弄っている携帯電話も放ったらかし。 雪乃さんに会いたい。 会ってちゃんと話がしたい。謝りたい。 それから、また一緒に笑いたい。 連絡を取る勇気もなくて、モヤモヤとした気持ちのまま一週間が過ぎた。 その間、あたしが出勤して居ない日に限って雪乃さんはお店に来ていたと言う。 座念な気持ちもあるけれど、ほっとしているのも正直なところだ。 でも、もう一週間以上話して居ないんだ。 このままじゃ、一生話せないような気さえしてきた。 今のうちにどうにかしないと。 ちゃんと謝らないとって。 そう思うのも限界で、バイトの休憩中に思い切って雪乃さんに電話をした。 話す内容なんて決めていなかったし、何と言っていいのかすらわからなかった。 それでも一言でも言えれば良い、あの時のことを話せれば。 コール音が何度も続く、結局雪乃さんは出なかった。 時間帯からいってもまだ仕事中だったのかもしれない。 事務的な女性の声が聞こえて、何も言わずに切った。 気持ちがどんどん沈んでいく。 謝ることが出来なくても、雪乃さんの声が聞けたら良かったかもしれない。 「ハル?もう帰るの?」 ぐずぐずとしていたら、帰る頃にはもうユウさんがお店に来ていた。 今は雅とユウさん、この二人には一番と言って良い程会いたくない相手だ。 雅もユウさんも敏感だから、あたしの事を何でもわかってしまう。 「あ、用事あるんで……」 「そう?」 「お疲れさまでした」 怪訝そうなユウさんの瞳から逃げるように外へ出ようとすると、ユウさんに呼ばれた。 その声は張ったような大きな声じゃなかったのに、やけに大きく聞こえた。 「……はい」 「何かあるんなら、話してみるのも良いかもよ」 「……」 「ま、何かあるならの話だけど」 ふっと微笑んだユウさんから優しさを感じた。 そんな真っ直ぐに受け取ってしまうと涙が出てしまいそうだ。 ぐっと歯を噛み締めて堪えてから、外へ出た。 ユウさんはいつも優しい。でもいつも頼りにしてはいけない。 だって、あたしにはまだやることがあるから。 電話に出ないのなら、直接会いに行けばいいんだ。 外は雨だった。 でも雨なんかに構ってられなくて、バイクに跨った。 今じゃなきゃ駄目なんだ。 ヘルメットを被ってエンジンを掛ける。 そのまま雪乃さんの家へ行くつもりだった。 交差点へ抜けて、信号で止まる。 早く、早く。 気持ちは焦る一方なのに、中々信号は青にならない。 顔に、体に、雨が容赦なく当たる。 歩道を青信号で渡る人達を見ていると、その中に意中の人を見つけてしまった。 白いビニール傘の中、雪乃さんがそこにいた。 思わず声を出そうとしたけれど、その声は声にならずに外に漏れていく。 バイクから乗り出した体が力なく元の位置へ戻る。 雪乃さんは一人じゃなかった。 傘の中には、二人。 雪乃さんの上司の、あの人が居た。 別れるって言ったのに、あの時けじめつけるって。 あたしに、ちゃんとそう言ったよね。 心の中で何度も問い掛ける。 そんなものが雪乃さんに届くわけもないのに。 無情にもその姿は段々と小さくなっていった。 信号が青に変わる。 一斉に車が動き出すと、ノロノロと自分も動き出した。 どこに行こうなんて考えていなかった。 もう、何を考えていいのかすらよくわからない。 どうして今日なんだろう。 どうして、こんなにいいタイミングで見てしまったんだろう。 見たくなかったのに。別れていなかったとしても、見なければそれで良かった。 心の中で固まっていた決意の気持ちが、雨に流されるように脆く崩れていく。 雨なのか、涙なのか。 頬を流れるそれは延々と続いていた。 前がよく見えない。 車のライトに眩しく照らされる。 ハンドルを急いできった。 視界が変わる。 宙を浮く感覚がする。 ブレーキを掛けた時にはもう体は投げ出されていた。 雨なんて、大嫌いだ。
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