■あなたと・・・ 5
□投稿者/ Wナイト 一般人(5回)-(2010/01/28 23:25:12) 

あたしだけの秘密の鍵。 その奥に広がる広大な蒼。 あなたになら、教えてもいいかな。    「ハル、次どこ行くの?」 「んーと、ちょっと」 「ちょっと?」 3年のクラスから、1年のクラスまで回り終わり。 それからグランドに出てステージ発表まで覗くと、何となく元気の無かった雪乃さんにも笑顔が戻っていた。 「あ、雪乃さんこっちです」 廊下を真っ直ぐ歩いていきそうだった雪乃さんの手を掴むと、右手にあった階段を指差した。 そう、この上はあそこしかない。 「そっち?」 「はい、行きましょ」 軽快に階段を上って屋上に出る前の踊り場に出る。 階段の隅っこにおいてあった机の中から屋上の鍵を取り出せば、雪乃さんは怪訝そうに見ていた。 「ひみつの鍵です」 「……もしかして、」 「あっパクってませんからねっ!」 雪乃さんの顔から察するに、絶対そう思ったはずだ。 だからその言葉を言い終える前に遮ると、雪乃さんはほっとした顔。 「そんなこと誰も言ってないでしょ」 そう雪乃さんは言うけれど、今の表情は確実に疑っていた。 「でも、屋上でしょ」 「そうですよ」 「何かあるの?」 そういわれると困るんだけど。 大して屋上に思い出とかあるわけでもないし。 というか、いつもここに来るときは一人でサボりに来るだけだからそんなものあるわけない。 でもいつもサボる場所なんて口が裂けても言えるはず無くて。 「んーと、」 「あ、サボり場所か」 答えを考えている間にそんなことまで簡単にばれてしまっていた。 どうしてあたしの周りには洞察力が半端ない人達ばかり居るんだろうな。 そんなことを考えながら鍵を回すと、屋上のドアが開く。 ドアの段差を跨ぐと物一つない広いスペースが姿を現した。 今日の天気も最高。 雲はあるものの、綺麗な青空だ。 風は微風。ほんの少し冷たいかな。 でも、この時期だから仕方ないか。 「ここでいつもサボってるの?」 「え、いやー別にサボってるわけじゃ」 曖昧に誤魔化してみるけどそれさえも雪乃さんは聞いてないみたいだ。 その証拠に人の話も聞かずにグラウンドが見えるところまで行ってしまったし。 いや、別に良いんですけどね。 「んー、ちょっと寒いかな」 「ですよねぇ」 雪乃さんの後をゆっくり着いて行く。 「でも、ハルはここが好きなんだ」 「はい」 「どして?」って聞かれると返答に困った。 大好きな場所で、落ち着ける場所なんだけど。 それがどうしてか、と言われると考え込んでしまう。 「うーん。ここに来ると、学校とはまた切り離したような場所にいる気がするんです」 生徒の私語も、体育中にグラウンドを走りながら騒ぐ声も。 先生が怒鳴る声だって、どこか物凄く遠いところのような気がしてくる。 嫌なことがあった時とか、考え事したい時とか。 どうしても、周りの喧騒の中に身をおくことが辛くなる。 「……だから一人になりたい時とか、ここに来ると落ち着くんです」 手摺に凭れかかる雪乃さんの隣に、スカートを抑えてしゃがみこんだ。 こういうことを言うのは慣れてない。 だから何だか恥ずかしくなってしまって、目を合わせられなかった。 「そっか」 頭上で小さく雪乃さんから声が漏れる。 それから頭上に影が出来て、背伸びをしていることに気付いた。 「そんなところに、私が来ちゃって良かったの?」 上から落ちてくる言葉に、ドクンッと胸が鳴る。 こんなとき、どう答えれば言い? 下手したら自分の気持ちも一緒に出てしまいそうだ。 どう答えようか逡巡していると、雪乃さんの腕が下がった。 同時に影がなくなる。 一度ゆっくり呼吸をすると、何故だか自然と言葉が出てきた。 「……雪乃さんだから、です」 そこはやっぱりあたしだから、スマートになんて言えないけど。 雅も、若菜も誰にも教えてない。 雪乃さんだから、特別。 「……」 微動だにしない雪乃さんは黙ったまま。 下を向いているから、あたしの言葉に雪乃さんがどう言う反応をしたのかもわからない。 もしかして引かれてたりするんだろうか。 今の言葉をどう受け取られたのか、すぐに不安が襲ってきた。 そうなるとさっきまであがっていた熱が急激に下がっていく。 それなのに鼓動は早くなるばかり。 沈黙に耐えられなくなってぐっと腕を握り締めた。 すると、そっと頭に柔らかい感触。 「私はハルにとって特別なんだ?」 くしゃっと髪を触れられて、真隣に雪乃さんの顔が降りてくる。 恥ずかしさを我慢してその表情を見ると、いつもの悪戯な笑みはなかった。 優しく微笑む顔を見ると、もう何も言えなくて。 グラウンドから盛況している声が聞こえる。 冷たい風と、煩い自分の心臓の音。 熱を持って紅くなった頬を自分の手で触れた。 予想以上の熱さに、余計恥ずかしくなってくる。 パタパタと雪乃さんに見つからないように小さく顔を仰いでいると、雪乃さんはポツリと凄いことを言ってのけた。 「私にとってもハルは特別だなー」 「えっ」 さも当然と言う様に表情の変わらない雪乃さん。 この人はどれだけあたしを喜ばせたいんだろうか。 もちろん、その言葉の真意はわからない。 あたしのことを自分と同じように意識している、なんて思うほど脳みそ溶けてはいないし。 ましてやあたしを好き、なんて絶対あり得ない。 でも、それでも。 好きな人からの言葉って、何でこんなに嬉しいんだろう。 そうやって心の中で浮かれていると、次に聞こえてくる雪乃さんの言葉で簡単に落とされた。 「ハルみたいに歳の離れた知り合いって他に居ないし」 ほら、やっぱり、と。どうにか自分を納得させる。 所詮知り合いだよ、知り合い。 そうに違いはないけど、でもやっぱりそれ以上にもなりたいわけで。 だからと言ってこの関係を変える気にはならない。 「あ、一之瀬君からメール来たけど」 無邪気にあたしの肩に凭れ掛かる雪乃さんを見て、改めてそう思った。 こうやって、自然に触れ合える位置。 きっと告白してしまえば、もうこの位置には居られなくなる。 雪乃さんとの間に絶対に距離が出来てしまう。 ……そんなの、絶対に耐えられない。 「何て、来たんですか」 「そろそろ帰りますか?って」 もし、あたしがいっちーのような立場だったらすぐにでも告白できるんだろうな。 歳も近くて、男で。 何の迷いもなかったはずだ。 今ここで、好きだっていえる。 勢いでキスだってしてしまえる。 でも、あたしは雪乃さんと同じ女だから。 「どうする?」 愛されたい。そう思ってしまうとキリがなかった。 愛して欲しい。そんな叶わない願いは心の中に閉まった。 「じゃ、もう一箇所だけ良いですか?」 「うん」 この笑顔をこんな近くで見れる。 何の警戒もせずに隣に居られる。 それを捨てるほどの勇気をあたしは持てなかった。 雪乃さんが好きだから。 だからこそ、気持ちなんて伝えられない。 「じゃ、いこっか」 立ち上がった雪乃さんは、あたしの手を引いた。 そのまま引っ張られるように屋上を出る。 右手はまだ、雪乃さんの温度を感じている。 この手を自分から離すなんて、やっぱり出来ない。 ---------------------------------------------------------------------------- 妹のような存在。 そのポジションに満足していたわけじゃない。 だけど、傍に居られることが一番で。 だからこそ、忘れていた。 『恋人』のポジションは、未だ空席だったことを。   「……あれ、誰?」 SKY LINE に着いてすぐ、カウンターから少し離れた席に座る二人組に目が行った。 余所余所しい感じはするものの、和やかなムードで笑い合ってる二人。 一人は感じの言い好青年。と言っても、あたしよりも年が上だと言うことは見ればわかる。 いっちーよりも若く見えるけれど、絶対にモテると言い切れそうな端正な顔立ち。 そして問題はもう一人。 その人は、 「祐樹に聞いて」 目も合わせないユウさんは隣の席に座ってるいっちーに視線をやった。 グラスを傾けて、カクテルか何かを飲んでいるいっちー。 あたしに気付いて爽やかに手を振ってきた。 「いっちー、あれ誰?」 「あれって?」 「雪乃さんと一緒にいる人」 そう、そうなのだ。問題の女性、それが雪乃さんなのだ。 だから一番に目についた。 「ああ、あいつね。会社の同僚」 「……いっちーの同僚がどうして雪乃さんと?」 「紹介して欲しいって言われたから、かな」 ……大体予想通りの答え。 いっちーによると、以前ここに一緒に来た時に雪乃さんに一目惚れしたんだとか。 「安藤達也って言うから、後で紹介するよ」 「……別にしなくていいけど」 良かれと口にしたいっちーに上手く笑えずに、素っ気ない返事をしてしまった。 こういう態度は駄目だと思っても、面白くないと心の中で思っていてはその気持ちを隠せなくて。 だって、雪乃さんのこと好きならライバルじゃないか。 正直言って、馴れ合いたいとは思わない。 「でも、結構お似合いだと思わない?」 「そうかな」 「ほら、安藤の奴も結構男前だろ?」 「……男に興味ないからわかんない」 そっぽ向いて答えるあたしにいっちーは苦笑していた。 そりゃ、格好良いんだろう。一般的には。 男に興味の無いあたしだってそう思うんだから、雪乃さんもそう思ってるんだろう。 いっちーの言うように、傍から見ればお似合いだ。 だからこそ、見ているだけで気分が落ち込んでいく。 それに、相手の人だって雪乃さんに一目惚れしたっておかしくもない。 綺麗だし、可愛いし、話して見れば尚更好意を持つに決まってる。 雪乃さんだって、あの人に好意を持つかもしれない。 いっちー曰く、性格だって良いらしいし。 そんな人に好かれて悪い気なんてしないだろう。 「哀愁漂ってるんだけど」 ちらちらと向こうを気にしながら、考え込む。 するといつの間にか目の前に来ていたユウさんが、手元にジュースを置いてくれた。 隣の席に居たいっちーは雅に呼ばれてさっさと居なくなり、今は空席だ。 「だって、」 「別に二人が付き合うわけでもないんだから」 「その可能性だってあるじゃないですか」 寧ろその可能性は高いはず。雪乃さんだって結構良い歳なんだし。 少なくとも、あたし相手よりもよっぽど有り得る話だ。 「まあね。それより、祐樹に言ってなかったの?」 「……何を?」 「あんたが雪乃を好きだって」 えっと小さく呟いて、視線をぐるりと回す。 言っていなかっただろうか?そう言えば、良く良く考えれば改めて誰かに話した覚えはない。 話せる人も少ないけれど、わざわざ話さなくてもユウさんも雅も察してくれたから。 「……雅が言ってるかなって」 「菜々世はそういうこと人に話さないでしょ」 「そーですけど……」 でも、私の気持ちを知って居たらいっちーは紹介したりしなかったんだろうか? あたしが一方的に好きだと言うだけ、それだけなのに。 頼まれたら、いっちーだってきっと断れない筈だ。 考え込んで、雪乃さん達の姿を見て、胸の中にあるもやもやしたものが溜まりに溜まっていく。 それはきっと不満であり、不安であるんだと思う。 でもそれだけじゃなくて、色んな感情が混ぜ込まれたもので。自分で対処しきれない。 そしてそれを誰に対してもぶつけられないから、余計に溜まっていくんだと思う。 だって、誰が悪いわけでもない。 あたしが雪乃さんを好きなのも誰にも干渉される必要はないわけで。 人を好きになるのが自由なんだから、あの人が雪乃さんを好きなのも自由。 雪乃さんがあの人を好きになるのも自由。 あの二人が付き合うのも、あたしが口を出せることじゃないんだ。 「……もう、帰ります」 あー、駄目だ。 二人を見てるとどんどん気が滅入っていく。 これ以上ここにいるのも苦痛でしかなくて、ユウさんに向かってそう口にした。 「雪乃と話さなくていいの?」 「いいです。明日勉強教えてもらうんで」 「そんなに落ち込むぐらいならさっさと告白しとけばよかったのに」 ……そんな無茶苦茶な。 そう思いながらも何も言えずに店を出た。 雪乃さんに好きな人が出来るなんて、考えもしなかった。 好きになったすぐに恋人と言えるような人が居たからかもしれない。 別れてもすぐに作らないと言う自信がどっかにあった。 決して、あたしがそのポジションに行けるとも思わなかった。 隣に居れれば、それで良かったと、そう思っていたはずなのに。 「……ただいま」 玄関で誰もいない家の中に向かってそう呟いた。 両親共に今日も居ない。 もう昔からこうだから何とも思わないけれど。 真っ暗で、物静かな家の中は少しだけ不気味に思えた。 靴を脱いで自分の部屋に入る。 机の上に携帯を置くのと同時に、着信のランプが点灯した。 あ、と思うと同時にバイブ音が鳴り出す。 上着をハンガーに掛けながら携帯のサブディスプレイを覗き込んだ。 着信表示されたのは、雪乃さんの名前。 それを見た瞬間、手にしていた上着とハンガーを一緒にベッドの上に投げやった。 空いた手で慌てて携帯を握る。 このタイミングで何故電話が来るのか、予想もつかないけれど。 さっきまでの遣る瀬無さはどこかへ消えて、嬉しさだけが胸の中を占めていた。 「はっはい」 『もしもし、ハル?今大丈夫?』 「ぜ、全然大丈夫です」 ここ最近は良く雪乃さんの家に行ってたし、隣で勉強もしていた。 その距離の近さには結構慣れてたはずなのに、こうやって電話で話すとなると何故か変に緊張してしまう。 きっと声だって上擦ってるんだろう。 『あのね、明日のことなんだけど、仕事が少し長引きそうなの』 あ、そっか。明日のことか。 なんて、一体何の期待をしていたのか。 事務的な内容に少し落胆してしまった。 「……そうですか」 『どうしようか、明日は止めとく?それとも終わってからでも大丈夫?』 「うーん」 正直なところ、雪乃さんさえ良ければして欲しい。 勉強云々ではなくて、雪乃さんに会いたいのが第一だけど。 そして今日話せなかった分、近くで雪乃さんを独り占めしたい。 でも、それはあたしの都合で。 実際のところ、仕事が長引くのなら雪乃さんだって疲れてるだろうし。 やりたいと言うのはあたしの図々しいお願いに過ぎないから。 「えっと、雪乃さんが決めてください」 『私?』 「はい、あたしは教えてもらう立場なんで」 そんな都合の良い言葉を並べて雪乃さんの返事を待った。 明日ダメだとしても、それはしょうがないことだ。 また来週があるし。 『じゃ、少しになるけどやろうか』 「えっ大丈夫なんですか?」 『うん、ハルは大丈夫?9時近くになっちゃうけど』 「もちろんです!」 勢い良く返事をすると、雪乃さんの小さく笑う声が電話越しに伝わってきた。 「じゃーユウさんとこで待ってますね」 『わかった、終わったらメール入れるから』 「はい」 この流れになると、そろそろ電話を切らないといけない流れだ。 じゃあね、って雪乃さんが言っちゃうと最後。 でもまだ話していたいこっちとしては何か話題はないものかと頭の中でいろんなものを引っ張り出す。 しかし、都合良く出てくるはずもなくて。 「あ、今日いっちーから誰か紹介されてましたよね」 何か言わないと、そう思って咄嗟に出た言葉は一番話題として適さないことだった。 何やってるんだろう、あたし。よりにもよってそこに突っ込まなくても良いだろうに。 そう思っても口から出たものを悔やんでももう遅い。 『え?あーなんだ、ハル来てたの?』 雪乃さんは相手の人の話題に触れることなく、話を振ってきた。 「一応、カウンター席の方に」 『声掛けてくれれば良かったのに』 「い、いやー余りに良い雰囲気だったんで」 あはは、と乾いた笑いを漏らすと虚しさが込み上げる。 こういうのは言いたいくて言ってるわけじゃなくて。 その場凌ぎでつい口から出てしまうわけで。 『そんなことないでしょ』 こうなればもう自棄に近い。 それに今更「そうですね」なんて言えやしない。 「いやいや、お似合いですって!」 変に明るくそう言えば、雪乃さんの声のトーンは落ちていくばかり。 『ふうん、そう?』 あたしと打って変わって小さな声。 含みのある言い方でそう聞かれると、力一杯に「そうです!」と言ってしまった。 どうして、思ってることと逆の事ばかり言ってしまうんだか。 自分自身のことなのに、上手くコントロールできない。 『確かに、安藤君みたいな人が恋人だったら良いなーとは思うけどね』 雪乃さんの口から出た言葉は、思った以上にあたしの気分を落とすものだった。 ガツンと頭を殴られたような衝撃。 ショックで携帯さえ落としそうになってしまう。 だから言わなきゃ良かったのに。 いつだったか、似たような言葉をあたしにも言ってくれたことがある。 『ハルみたいな人が彼氏だったら、幸せになれそうだなって』 ニュアンスが近くても、その言葉は全く違うものだ。 あの人には彼氏になれる可能性があって、あたしには無い。 それが男と女の差。 そんな当たり前の事実を眼前に突きつけられたような気がして、目の前が真っ暗になった。 現実というのは、やっぱり残酷なものだ。 『ハル?』 「……あ、はい」 『どうしたの?』 「いえ、なんでもないです……」 何でもない筈なんてない。 きっとあたしの今の顔は相当酷いと思う。 だから、電話でよかった。 目の前に雪乃さんが居たら、泣き出してしまいそうだ。 「……あ、すいません。キャッチ入っちゃったみたいです」 『そっか、わかった。じゃ明日ね』 「はい…」 苦し紛れの嘘を雪乃さんは疑うこともなく、電話は切れた。 耳に当てたままの電話から機械音だけが流れ出す。 今のはやっぱり自業自得だろう。 聞きたくないのならその話を振らなければ良かったんだ。 どうして、自ら振ってしまったのか。 今更にそんなことを考える。 後悔だけが残る中、ベッドに座り込んだ。 何もする気が起きない。 ご飯だって食べてないし、お風呂にも入ってない。 明日の為にやっておく勉強もしていなければ、服だってさっきのままだ。 だけど、体も動かす気になれないしもう何も考えたくなかった。 でも、頭の中をからっぽになんて出来ない。 ずっと雪乃さんの言葉だけがぐるぐると回っている。 そのうち、あの人のこと好きになっちゃうのかな。 あの人だって雪乃さんが好きみたいだし。 そしたら両想いになっちゃうんだ。 あたしなんかがその間に入る隙間なんて、微塵だってなくなるんだろう。 そんなこと、考えるだけで泣き出してしまいそうだった。 『好きな人の恋愛を応援する』 それって凄いことだなって、唐突に思った。 良くドラマやマンガで見かける、好きだからその人の幸せを願うと言う考え方。 そんなの、あたしには到底無理なように思えた。 だって、あたしじゃない人と雪乃さんが一緒にいる。 一緒に居て、楽しそうに笑ってその人を思って。 あたしなんかよりもずっとずっとその人を大切にして、その人を愛していて。 それを傍から見て、祝福までしなくてはいけないんだ。 そんなの、あたしはきっと目を背けてしまうだろう。 どんなに雪乃さんの傍に居たくても、応援なんて出来ないよ。 -------------------------------------------------------------------------------- あなたの笑顔が見れるのなら あたしは何だって出来るんです。 だから、傍に居させてください。   「はるー…雨、凄いよ」 カーテンの隙間から窓の外を覗く雪乃さん。 それに倣ってあたしも体を捻って窓の外を覗く。 まるでバケツをひっくり返したかのような雨は、容赦なく窓に雨粒を叩きつけていた。 土砂降り、それに加えて少し前から雷まで参戦している。 時折激しく光り、地響きでもしそうな程大きな音。 「どうする?」 そうあたしに尋ねたあと、雪乃さんの視線は時計に移る。 午後11時を優に過ぎた時間。 普通なら、もうとっくに門限なんて過ぎてるだろう。 現にこれが雅だったら、確実に門限を破ることになる。 でも、あたしには門限なんてないから関係はない。 だけど、ほんとはもっと早く帰るつもりだった。 こんなに勉強に集中してしまわなければ。 「……どうするって」 口ごもるあたしに雪乃さんは視線を向けた。 何も考えたくなかった。 隣に居る雪乃さんのことも、安藤さんのことも。 だから、何も考えないように勉強に集中していた。 その結果、気付いて見たらこんな時間だ。 「帰ります、けど」 「どうやって?」 雪乃さんが怪訝そうに首を傾げた。 「あ、傘貸してもらえます?」 「良いけど、歩いて帰るの?」 「いや、自転車で」 酷い雨だから大した効果は期待出来ないだろうけど、ないよりあった方が良い。 そう思って口にした言葉は雪乃さんの声に遮られた。 「ダメ」 思った以上に強い声で制されて、つい黙ってしまう。 「危ないでしょ、転倒したら大変だし」 「だ、大丈夫ですよ」 「それに、傘さしての運転は違反だったよね」 「……」 そんな真ともなことを言われては何にも言えなくなる。 自転車と言う手段を取られては、残った手段はあと一つだけ。 誰かに迎えを頼むことも出来ないから。 「じゃあ、歩いて帰ります」 「この土砂降りの中?」 「……まあ、多少濡れるでしょうけど」 鞄の中に教科書類を詰めて肩に掛けた。 それからすぐ立ち上がって玄関に向かう。 酷い雨だけど、濡れて帰るもの別に悪い気はしなかった。 雨だと言うだけで、やっぱり好きにはなれないけれど。 「ハル、待って」 スニーカーに足を突っ込んだところで、雪乃さんが走ってきた。 それから、徐にあたしの腕を掴む。 今日、初めて雪乃さんからあたしに触れてくれた瞬間だった。 「傘なんてさしてもささなくてもこれじゃ変わらないよ」 「でも、あったほうがマシですよ?」 「そうじゃなくて、」 掴んだ腕を引き寄せられる。 ぐらついた体は簡単にその力に翻弄された。 「寒いのに、風邪引いちゃうでしょ」 少しだけ呆れたような声。 今バランスを崩した体を支えているのは真後ろにいる雪乃さんで、思った以上に近いところから声が聞こえる。 「泊まってく?」 「……へっ?」 口から漏れた気の抜けるような間抜けな声に雪乃さんが小さく笑う。 この状況で、雪乃さんが冗談を言うとは思えない。 おまけに大真面目な顔してる。 これはきっと、本気なのだろう。 「そ、そんなっ!悪いんで帰ります!」 「風邪引かれても困るから」 思わぬ言葉に動揺したあたしの声は、明らかに裏返っていた。 仕方がない、よね。 好きな人の家に泊まるなんて、そんなこと。 「でもっ」 「何か、都合でも悪い?」 真顔でそういわれたら、断る理由なんて出てこない。 雪乃さんが好きだから、だから無理だなんて、言える筈がなくて。 「もしハルが今帰って、風邪でも引いたら私の所為だって思っちゃうからね」 そんな、ずるいよ。雪乃さん。 そんなこと言われたら帰れるわけないじゃん。 「泊まるよね?」 「……はい」 「よし、それなら靴脱いであがる」 「ちょ、ちょっと……!」 残された選択肢は一つだけ。 その一つを選んだ途端、ぐっと腕を引かれる。 足だけでバタつきながらスニーカーを脱いで部屋に上がった。 「もう時間が時間だし、シャワー浴びるよね」 「ええ?」 「服貸してあげるから」 あたしが何か意見を口に出す前に、バスルームへと押しやられた。 例えば、あたしが男だったら。 こんな易々と家に上げないだろうし、ましてや泊まらせたりしないだろう。 これはあたしが女だからであって、何の警戒もしていないから。 絶対的な安全がついているからの行動なんだ。 それはつまり、あたしに対してなんの意識も持っていないということで。 「あ、ぴったりだね」 それに対して不満を持つあたしは、やっぱり間違ってるのかな。 「私には少し長いのに、やっぱり足長いなー」 さっき渡された着替えを持って、シャワーを浴びてきた。 着替えたのは雪乃さんの服で、上はトレーナーに下はスウェットパンツ。 雪乃さんには少し大きいらしく、あたしが着ているのを見てぶつぶつ言ってる。 そりゃ身長だってあたしの方が高いわけだし、普通だと思うんだけど。 「すいません、着替えまで借りちゃって」 「遠慮しなくていいのに。じゃ、私も入ってくるから」 「はい」 「あー、勉強しててもいいよ」 口許上げて悪戯な笑みを浮かべる。 こんな表情、安藤さんはきっと知らない。 そんな小さなことに優越感を感じてしまう。 雪乃さんが出て行った部屋の中には、静寂だけが残った。 雪乃さんの言葉の通り勉強するわけもなく、ソファに座りこむ。 テレビも点いていない部屋は本当に静かで、意味もなく宙を仰いだ。 それぞれ家の中には独特の匂いがある。 ここもやっぱり、雪乃さんの香りがして。 その中に身を置いて、体を包む雪乃さんの服からもやっぱり同じ香りがする。 体の全てがその香りに包まれると、すぐ傍に雪乃さんが居るみたいだった。 こんなに、近くにいつも感じていられたらいいのに。 そんな叶わないことばっかり考えては消えていく。 下らないとわかっていてもそれは止められなくて。 幸せな想像の中に、安藤さんが出てきては不快な気持ちになって。 やっぱり、馬鹿みたいだなって思う。 もし、雪乃さんとそういう関係になれたら。 この香りにずっと包まれていられるのかな。 もしそうだとすれば、あたしにとってそれほど幸福なことはないだろう。 「あー気持ちよかった」 親父みたいな科白と共に、雪乃さんが部屋に帰って来た。 それからその足はキッチンの方へ向く。 雪乃さんは英語の柄のついたロングのTシャツに下は黒のスウェットを着ている。 何着ても似合うな、なんて思うのはやっぱり個人的な目線だろう。 いや、それを引いても素敵なことには違いないんだけれど。 「コーヒー淹れるけど、ハルも飲む?」 「はい」 反射的に返事をすると、小さく頷いて薬缶でお湯を沸かし始めた。 何だか変な感じだ。雪乃さんの部屋でこんな時間まで一緒に居る。 それなのに随分と冷静で入れる自分にも正直驚いている。 ソファに座ったまま雪乃さんを眺めていたけれど、そう言えば、と気が付いた。 お風呂上がりだから当たり前なのだけれど、雪乃さんがスッピンだ。 初めてみたけれどあまりに変わらなくて、何の違和感も持たなかったけど。 「なに、じろじろ見て」 「い、いや……」 いつも化粧してるなー、程度にしか思ってなくて。 特別濃いわけでもなかったから、あまり気にならなかった。 落としても大して変わらないとは、本物の美人だな。 「ハルさー、何かあった?」 ぼーっと雪乃さんを見ていると、視線を薬缶に向けたまま雪乃さんが話しかけてきた。 ここ数日で確かに色々あったけれど、それは全部雪乃さん関連のことで。 何か、と聞かれて普通に答えられるわけがない。 「ど、どうしてですか」 「何となく、いつもと違うから」 やっぱり鋭いな、雪乃さん。 でも、それなら雪乃さんにだって言える。 「雪乃さんこそ、何かありましたよね」 「……どうして?」 「何となく、いつもと違うんで」 そっくりそのまま、お返ししたら綺麗な顔を顰めさせた。 不機嫌そうな顔も綺麗だな、なんて思うあたしは随分と嵌まり込んでしまってるみたいだ。 「別に何もないよ」 「あたしも何にもないですよ」 お互い、嘘ついてるのはわかってる。 何もないはずないんだもん。こんなに、動揺しているって言うのに。 「……雪乃さん」 「ん?」 聞きたいことがある。 でも、それはあたしには到底聞けないようなことで。 それなのに、今、あたしはそれを聞こうとしてる。 「……安藤さんのこと、どう思います?」 「安藤君?」 聞かなきゃいいのに、って。 どっかで冷静な自分が言ってる。 「どうもこうもないよ、昨日初めて会ったんだよ?」 それはそうだろうけど。 でも、昨日初めて会話したのに向こうは雪乃さんのこと好きなんですよ? 「一目惚れとか、あるじゃないですか」 「しないよ。直感だけじゃ心動かないし」 そうは言うけど、安藤さんだったら話して見ればきっと好きになると思う。 現に、昨日はそんなことを仄めかしていたし。 だから、聞いても聞かなくても同じことなんだけど。 薬缶から目を離した雪乃さんは、キッチンからあたしを見る。 程よい距離があるのに、それも感じさせないくらい雪乃さんの目には力があった。 「安藤君のこと、どう思ってたら良かったの?」 「……えっ、いや、別に」 「何かあるから、聞いたんでしょ」 雪乃さんの口調はいつも柔らかい。 それはあたしから何かを聞こうとしてる時であっても、そうだった。 だけど今は少しだけ強い口調になっていて、 「ただ……」 口から出そうになる言葉を必死に押し留める。 それを口にしてしまえば、自分が傷つくのはわかっているから。 だけど、止まらなくて。 「二人が付き合ったら、お似合いだなって。ほら、雅といっちーみたいな」 はははと乾いた笑いを付けて言葉になったそれは、滑稽過ぎて。 早口で捲し立てたあたしの言葉に、やっぱり自分が傷ついた。 馬鹿みたいだ。 雪乃さんは、じっと瞳を逸らすことはなかった。 その視線はあたしに注がれていて、耐え切れなったのはあたしで。 「そう」 雪乃さんから発せられたのは、そんな素っ気無い二文字だった。 声色も何の温度も感じないような声。 雅やユウさんは良くそんな返事をするのに。 雪乃さんに言われるだけで、印象が全然違う。 突き放された様なそれは、あたしを簡単に壊してしまいそうだった。 それきり沈黙の続く中、お湯の沸く音だけが部屋に響いた。 こんなに雪乃さんと気まずい空気が流れるのは夏の日以来だ。 淹れ終えたコーヒーを雪乃さんはあたしの前に置いてくれる。 その隣に雪乃さんのコーヒーが置かれるはずなのに、そのままキッチンの方へ戻ってしまった。 流しに体を預けたまま、コーヒーを飲む雪乃さん。 さっきはこの距離が錯覚に思えるほど近くに感じたのに、 今は実際の距離よりももっともっと遠く感じてしまう。   ------------------------------------------------------------------------------------- 手の平の中から何かがすり抜けていく。 変だな、元から何もなかったのに。 雪乃さんとの関係は不安定なものでしかなかったのに。 静かに、涙がこぼれた。    若菜と気まずい雰囲気になって2週間。 あれからあの時の話に触れることはなかった。 若菜から話を持ち出すこともなかったし、自分から持ち出そうとは思わない。 何故あたしは雪乃さんを好きなのか知りたかったけど、何だか怖かった。 その『怖い』の正体はわからない。 だけど、やっぱり踏み込めなかった。 「あー、等々12月だ……」 「何かあるわけ?」 「え?いや、色々と……」 正門を通って雅と二人で校舎内に入る。 うちの学校は土足だから、外からそのまま校舎の中にあがった。 隣では雅が制服の襟を正している。 「色々、ね」 「うん」 その中には雪乃さんのことであったり、安藤さんのことであったり。 若菜のことであったり、テストのことであったり……と、濃い話題満載だ。 色々あるけど、全部が全部ずーんと肩に圧し掛かって晴れた気分とは程遠い。 「そっか、もうすぐクリスマスなんだ」 「え?」 「ま、私には関係ないけど」 気が早く掲示板に貼ってあるポスターにはサンタクロースのイラストが描かれている。 それを見た雅がポツリと呟いた。 しかし、恋人持ちがイベントを関係ないとは、これ如何に。 「いっちーは?」 「勉強優先」 小首を傾げながら尋ねてみても、素っ気ない返事。 相変わらずストイックなやつ。 「ハルは雪乃さんと?」 「……え!?」 行き成り雪乃さんの名前が出て前進で後ろに飛びのいた。 それだけで、そうだと言っているようなものだけど。 わかってる、わかってるけど平然となんてしていられないんだ。 「良かったじゃん」 「……まあね」 「なに、あんまり気乗りしないの?」 まさか、そんなことはない。 だけど、ぐっと覗き込んできた雅の顔には心配の色が見えた。 「いや、うーん」 「なに?」 「最近さー、雅来ないでしょ」 「ユウさんのところ?」 「うん」 「まあ、ね」 雅は最近以前にも増して付き合いが悪くなった。勿論原因は受験勉強だけれど。 だから毎日のように行っていたお店も1週間に一回行けば多いほうだ。 その為いっつも自分と雅、いっちーに雪乃さんと言う常連メンバーだったのが最近は変わってきている。 雅の居ない穴に、安藤さん。 それが嫌と言うわけでもないけれど、どうも納得できないところもある。 だって、4人揃えば必ず安藤さんは雪乃さんと喋る。 そうなれば二人の会話にあたしが入っていけるわけも無く、仕方なしにいっちーと喋らなくちゃいけなくなるんだ。 「人の彼氏捕まえて『仕方なく』?」 「えっ、いやーだから、雪乃さん構ってくれなくてさ」 「それが安藤さんの所為って?」 呆れた顔でそう言われたら、頷けるわけもない。 子供染みた感情だと言うのは自分でも良く分かってる。 「別に安藤さんの所為ってわけじゃ……」 「先越される前にさっさと告白しなさいよ」 「あーも、雅までユウさんみたいなこと言わないでよ」 ユウさんと雅はどこと無く似てるから、仕方ないと言えば仕方ないか。 でも、確かに安藤さんの所為じゃない。 あたしは自分が雪乃さんに思いを話せないことを、安藤さんを理由にしてる。 それはただの逃げだ。 だから、クリスマス。 その日に、雪乃さんにきちんと告白するつもりでいる。 今からそう決心していないと、思いが鈍ってしまいそうで。 だから手放しで喜べない。 振られる可能性の方がうんと高いのだから。 クリスマスを境に、もう雪乃さんと会わなくなるかもしれないんだ。 「ま、頑張って」 「人事だと思って」 「人事だもの」 そりゃ、そうだ。 納得したあたしの顔を見て、雅が笑った。 12月は寒い。 そんなの誰もが知っていることだ。 体に当たる風は冷たくて、剥き出しの頬が赤くなる。 手を頬に当てるとやっぱり冷たかった。 「おはよ」 頬に当てていた手をドアに掛けてスライドさせると、クラスメイト達が声を掛けてくる。 それにこたえながら自分の席に近づくと、こちらを見てる視線とぶつかった。 それはとても強く、意味深な視線。 「……若菜?」 「おはよ、ハル」 「お、おはよ」 若菜の雰囲気が前と違う。 気まずくなってから、変わったように思えた。 それはあたしの勘違いなのか、やっぱり本人には聞けないからわからない。 「どうかした?」 「ん?」 「いや、見てたから」 教室に入ってすぐ、その視線を感じたから。 きっとずっとこっちを見てたんだろう。 まともに目も合わさず、鞄を机の横にかけながら話した。 「ちょっと、お誘い」 「お誘い?」 無邪気な笑みを見せて顔を寄せてくる。 その近さに若干肩を後ろに引きながら、首をかしげた。 「うん、今日付き合って欲しいの」 「……いいけど」 「じゃ、ハルが夏休みにバイトしてたお店行こ」 「SKY LINE?」 「うん」 にこにこ笑顔を浮かべたまま、楽しそうに若菜は喋る。 あたしには、それが逆に不自然に見えた。 『お誘い』の中身はこないだの話なんだろうか。 どちらにしろ、あたしの心中は穏やかじゃなかった。 終礼のベルが鳴る。 先生が部屋から出て行くと、皆思い思いに席を立った。 あたしは必要なモノだけを鞄に詰めると前の席に座っている若菜の背中をみつめた。 さっきから全く動かない後姿。 皆席を立って帰っているのに、若菜は何故か動かない。 「若菜…?」 数分、いや数十秒だったかもしれない。 そのまま見ていることに耐え切れなくなって、後ろから声を掛けた。 その瞬間、若菜が立ち上がる。 「よし、行こー」 明るい声を出してあたしの手を引く。 行き成りの行動に若菜の後ろを歩きながら、首をかしげた。   ---------------------------------------------------------------------------------- 真っ直ぐに伸びていた筈のそれぞれの糸。 いつの間にか、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。   今日は快晴の青空だった。 そんな天気もあたしの目には綺麗に映らない。 大好きな空も、大好きなあの場所も。 大好きなあの人の代わりになんてならないんだ。 別に喧嘩したわけじゃない。 ちょっと気まずい雰囲気になっただけで。 だからと言ってずっと連絡を取らないわけにはいかない。 こんなこと今まで何回もあったじゃないか。 だから、大丈夫。 絶対に、大丈夫だから。 そう自分に言い聞かせて電話しようと携帯を手に取った。 今日は勉強を見てもらう日だから。 いつものように何時からか聞こうと思っている。 それなのに、予期せず電話は向こうから着信を知らせてきた。 まさか雪乃さんから着信が来るとは思わず、焦ってしまう。 その拍子に通話ボタンを押してしまい、心の準備が出来る前に通話する羽目に。 ああ、しまった。どんな対応すればいいんだ……! どうしようと考えながらも切るわけにもいかずに、渋々耳に当てた。 『もしもし、ハル?』 雪乃さんの声、いつもの優しい声。 それに安心して顔がほっと緩んでしまう。 今のあたしは絶対変だと思う、顔を緩ませて全身真っ赤で。 不審者に間違われたって言い訳出来ない状態だ。 「はい」 平然を装ったようにそう返事すれれば今度は雪乃さんの声が聞こえてくる。 その言葉に、今の浮かれ具合が一気になくなった。 『ごめん、今日用事出来ちゃって勉強見れなくなったの』 「……えっ」 そんなこと今まで何度もあった。 いつも仕事だけど、長引くとか片付けなくちゃいけない仕事が緊急に入ったとか。 社会人ならしょうがないって思ってた。 だから、今日だってそう思ったんだ。 「……あ、そうですか。なら、しょうがないですね」 『ほんと、ごめんね?』 「だっ大丈夫です!テストまでは後一週間ありますし!」 無理に明るい声を出して、何とかその通話を乗り切った。 雪乃さんの声はいつもと同じで。 此の間のことなんて全然なかったような振る舞いだった。 違和感はあった、だけど、自分からどう切り出せばいいのかなんてわからなくて。 このまま何も無かったように、なんて。駄目なのに。 真っ直ぐ家に帰って教科書やノートを開く。 集中してやらなくちゃって思うのに。 開いた教科書やノートの書き込みに思わず目が行ってしまう。 雪乃さんが勉強を教えてくれる時に書いていたところ。 数式の大事な部分に丸がしてあったり、ノートの式の部分に書き加えてあったり。 ざっと簡単に書いてあるのに綺麗な字で見やすくて。 そこを指でなぞるとざわざわと心が揺れた。 ……駄目だ、あたし重症。 こんな状態じゃ全然身に入らない。 テストまでには、もう一回雪乃さんに教えて貰う約束をしていた。 その時、がっかりされないように一人でも頑張ろうと思っていたけれど、全くもって進まない。 んー、と唸りながら背伸びをして、手にしていたシャーペンをノートの上へと転がした。 一人でやると、30分が限界だ。 今の時間は午後8時。 こんな状態じゃこのまま続けても捗らないし。 少しだけ、ユウさんに話聞いてもらおうかな。 携帯とコートに財布。 それから自転車の鍵だけ持って家を出た。 「こんばんはー」 お店の中に入ると、一番最初にユウさんが見えた。 それを見てカウンター席に向かおうとすると、隅っこの方に座ってる人から声を掛けられる。 「おっ、ハルちゃん」 こう呼ぶのは……、そう思いながら振り向くと果たしてそこにはいっちーがいた。 にこっと笑いながら手を上げる様は、今日も変わらず爽やかだ。 此処にはユウさんに話を聞いて貰いに来たけれど、まあ後で良いか。 一度カウンターの方に視線を向けて、いっちーの隣に腰かけた。 テーブルの上には、何やら書類らしきものが広げられている。 「なに、これ」 「持ち帰りの仕事だよ」 「へー大変だ……」 「まあね、学生の時よりは自由な時間も減っちゃうからね」 書類をさっと纏めて片付けると、隅っこに置いてあったアイスコーヒーに手を伸ばした。 それを見ながら、いっちーって年中それなのかな。ホットとか飲まないんだろうか。 なんて、そんなどうでも良い疑問を持ちながら何となく口にしてみた。 「じゃーやっぱり雪乃さんも忙しいんだよね」 そんな言葉を。 「雪乃さん?」 「うん、今日も用事があるって言ってたし」 もちろん、それはしょうがないってわかってる。 でも、どっかでガッカリしてるっていうか。 此間のことが尾を引いてるんじゃないかって。 そう思うと、怖くて。 「あー、でも今日は違うよ」 「え?」 「今頃、安藤とデートしてるころだよ」 いっちーの言葉が耳に届いた瞬間。 周りの音も、静かに流れているBGMも何も聞こえなくなった。 雪乃さんが安藤さんとデート? あたしとの約束を反故にしてまで? ……そうか、そうなんだ。 やっぱり、あたしなんかより安藤さんの方がいいよね。 わかってるよ、そんなこと。 わかってたのに、なんでこんなに泣きたくなるんだろう。 自分で言ったんじゃないか。 二人はお似合いだって。 ほんとに、絵に描いたみたいな素敵なカップルだって。 「ハルちゃん?」 いっちーに呼ばれて、やっと周りの音が戻ってきた。 だけど頭の中はもう雪乃さんと安藤さんのことでいっぱいだ。 他のことなんて受け付けてられない。 「……いっちーはさ、」 「ん?」 口から出ようとする言葉を、抑えるかどうか迷っていた。 だって、いっちーに聞いたってどうなることでもない。 これは二人の問題で、あたしにだって関係ないのに。 「ごめん、なんでもない」 慌てて笑ってごまかした。 やっぱり、聞く勇気はない。 『いっちーはさ、あの二人どうなると思う?』 そんな子供みたいなことはやめておこう。 今度の勉強する日だって、今日のことに触れないでいよう。 あの二人が付き合ったって、甘んじて受け止めるしかないんだから。 泣き喚くような子供、益々相手にされなくなるだけだ。 「ハルちゃん、ひとつ言っていいかな」 「……なに?」 いっちーがあたしを見ながら、一呼吸置いた。 その目線はいつだったか、あたしの涙を誘った時と酷く似ていた。 『大丈夫だよ、ちゃんとハルちゃんを理解してくれる人が必ず現れるから』 『女とか男とか関係ない。君のすべてを愛してくれる人が』 思い出したいっちーの言葉に、またぎゅっと胸が締め付けられるようだった。 それが雪乃さんだったらいいのに。 違う、雪乃さんじゃなくちゃ嫌なんだ。 「ハルちゃんはね、そのままでいいんだよ」 いっちーが手にしていたグラスをテーブルに置くと小さく音が立つ。「背伸びなんてしないで、有りのままの姿でいれば」 いっちーはそう言うとぽんぽんと背中を優しくたたいてくれた。 その心地よさにほっとする。 胸の中にいっちーの言葉が何度も回って、あたしの中を占領してしまう。 どうしてこうも、いっちーの言葉はあたしを落ち着かせてしまうのだろう。 「……ありがと」 「うん、安藤を紹介したのは俺だしね」 「えっ?」 「いや、なんでもないよ」 もしかして、いやもしかしなくとも。 いっちーはあたしが雪乃さんを好きなこと知ってるんだろうか。 得意気に笑ういっちーの顔をみると、それが明確なものになっていく。 きっと、あたしが分かりやす過ぎるからだろう。 だったら、雪乃さんにも伝わっていればいいのに。 気持ちだけ、触れ合った場所から流れ込めばいいのに。 いっちーのお陰でか、雪乃さんと安藤さんのことを考えても、いくらか落ち着くようになった。 それでも胸の内の燻りは消えないけれど。 これはきっと、雪乃さんに会ってしまえばなくなるんだ。 優しく笑ってくれれば消えてしまう。 大好きな人の笑顔は、どんな薬よりも遥かに効くんだから。 「あれ、ユウさんが居ない」 「あーユウさんに用事だった?」 「うん」 カウンターを見てみると、ユウさんの変わりに絢さんが立っている。 夜に絢さんを見るのも何だか変な感じだ。 「用事があるって言ってたよ」 「ふーん、そっか」 ユウさんが用事で抜けるってあるんだ。 変なところで関心していた。 でも、あたしがここに来るようになって、初めてのことじゃないだろうか。 「結構話し込んじゃったね。明日も仕事だからこの辺で帰らないと」 いっちーが腕時計を見ながら、渋った顔をする。 土曜日なのに、仕事なのか。やっぱり、あたし達とは随分と違う。 「家まで送って行こうか?」 「ありがと。でも自転車だから」 「そっか、じゃあ気をつけて」 「うん」 パパッと荷物を持って店を出て行くいっちー。 話し相手が居なくなると急に暇になってしまう。 携帯を取り出して時間を確認すると、もう10時を回っていた。 雪乃さん、今頃何してるんだろう。 やっぱりあれかな、まだ安藤さんと一緒にいるのかな。 さっきの話題を頭の中に持ち出しただけで、かなりへこんだ。 何となくやることもなくて携帯を弄ろうとポケットに手を伸ばすと、いっちーの座っていた席の隣に封筒らしきものが見えた。 それはさっきテーブルの上にあった書類を仕舞っていたやつだった気がする。 手にとって見るとずっしりとしていて。ほんの少し覗くとやはり書類が詰まっていた。 これは、もしかして忘れて行った? いっちーが忘れ物するなんてことにもびっくりだけど。 それよりも今追いかけたら間に合うかもしれないと急いでそれを持って店を出た。 ドアを開けると一気に冷たい空気が体を纏う。 「いっ――」 そこにいっちーは居たのに、声にならなかった。 店から出て3歩、あたしの足は止まる。 スーツを着たいっちーの隣には、白いコートに身を包む雪乃さんがいた。 それから、二人の向かいには安藤さんが立っている。 もしかしなくとも、デートの帰りだろう。 見たくなかったのに、どうしてこんなタイミングなんだ。 最悪。そう心の中で呟いた。 いっちーに声を掛けたかったけれど、その雰囲気には入り込めない。 早く渡して中に戻りたいのに、楽しそうに話す3人の中にあたしみたいな子供が邪魔できなくて。 世代の近い3人、その中に居る雪乃さんを見てしまうととても遠く感じてしまう。 わかっていたのに。 あたしに見せる顔が雪乃さんの全てではないことを。 「あれ、ハルちゃん?」 そうあたしを呼んだのは、いっちーではなく安藤さんだった。 目が合った瞬間、にこやかな笑顔が見える。 安藤さんの声に、いっちーと雪乃さんもこっちを振り向いた。 「あ、いっちー。これ」 手に持っていた封筒を見せると、いっちーが大袈裟に声を上げる。 「あー!忘れてたのか。ありがとう、ハルちゃん」 「いーえ」 ゆっくり、三人が居るところまで足を進める。 雪乃さんの顔は見れなくて、ずっといっちーの方を見ていた。 「はい」 「ありがと」 受け取ったいっちーは安藤さんの肩に手を置いて、無理に連れて行こうとしている。 「さ、帰るぞ安藤」 「はっ?一人で帰れよ、雪乃さんを送ってくから」 もしかしていっちー、あたしに気を遣ってくれてるのかな。 でも、ここで雪乃さんと二人になる方が正直気まずい。 「二人とも明日仕事?」 雪乃さんがそう尋ねると同僚だと言う二人は同時に頷いた。 いっちーが仕事ってことはやっぱり安藤さんもそうなんだよね。 「私明日休みだし、ちょっと寄って帰るから」 そう言いながら雪乃さんが指差したのはSKY LINE。 それを聞いたいっちーは、やっぱり安藤さんを帰らせようとする。 ……ああ、寧ろあたしが帰りたい気分だ。 「わかったって。じゃあ雪乃さん、また」 「うん、またね」 気持ち、二人の距離が縮まってる気がするのは気の所為だろうか。 ただ普通のやり取りなのに、ムッとしてしまうのは止められない。 「ハルちゃんも、またね」 そう言いながら帰っていく安藤さんといっちーに小さく頭をさげた。二人が角を曲がり、見えなくなるまで見送る。 すると、雪乃さんが動いたのがわかった。 やっぱり、中に入るんだよね。 一緒に居るのも気まずいから、帰ろうかな。 下手したら安藤さんとのことを聞いてしまいそうだし。 「ハル」 くるっとお店の方に体を向けると、不意に声が掛かる。 それはもちろん、雪乃さんであって。 ただ名前を呼ばれただけなのに、心臓が跳ねるように反応した。 「勉強は?」 180度方向を転換すると、目があった雪乃さんは心配そうにそう尋ねてきた。 身が入らなくてやってません。なんて、言えるはずもない。 「……やってますよ。ちょっと、息抜きに来ただけで」 そう口にするのが精一杯だった。 言い訳だろうと何だろうと、ここに居るのはいまさらどう否定しようも出来ないことだから。 「駄目だよ、一人でもちゃんとやらなくちゃ」 ……なに、それ。 あからさまに子供扱いされて、頭に血が上った。 そんな口調、今まで大して気にならなかったけれど。 あたしとの約束、反故にしたくせに。 そんなことを思いながら、聞いたからだろうか。 「……寒いから、中入ろう」 声だけで促す雪乃さんは、あたしの横を通り過ぎようとした。 瞬間、細い手首を掴んだのは反射的なものだ。 気持ちに任せて力を込めないように、雪乃さんを引き止めた。 「……ハル?」 このまま手を引けば、雪乃さんを抱きしめることだって出来るのに。 そんな度胸がない自分が恨めしい。 「どうしたの」 思ってることはたくさんあった。 安藤さんとのことも、此間の若菜とのことだって。 それなのに、雪乃さんを目の前にすると何もいえなくなる。 「……用がないなら、中入るよ」 視線が外れる。 雪乃さんの体がドアの方を向く。 もう一度引き止めることは出来なかった。 あたしの手の平から雪乃さんの細い腕がすり抜けていく。 何も言えない自分が情けなくて、馬鹿みたいで。 黙りこくってしまうところなんて、やっぱり子供だ。 雪乃さんが笑ってくれれば、それで大丈夫だって。 さっきまでそう思ってたのに。 笑いかけてもくれなかった。 そんな風に考えて居ると、何となく避けられている気さえしてくる。 だって、いつもの雪乃さんなら何も言えないあたしを見て優しく微笑んでくれるのに、 しょうがないって頭をなでてくれるのに。 項垂れるあたしの体を、やっぱり冷たい風が吹き抜けていく。 これじゃまるで、こないだの再現じゃないか。 ------------------------------------------------------------------------- 火傷した傷が まだ痛みを忘れない。   テスト前日、朝からあたしは携帯と睨めっこしていた。 もちろん勝ち負けなんてあるわけないけど。 やっぱりここは、先に掛ってきてほしい。 いや、でも掛かってきたら此間のようなドタキャンの電話かもしれない。 ……そう思うと、余計に携帯から目が離せなくなってしまう。 「……ハルさ、ずっとそうやってるよね」 呆れた声を出した若菜が、後ろを向いてあたしを伺う。 もう何とでも言ってくれて構わない。 今のあたしは勉強よりもずっとずっと今日の予定の方が大事なんだ。 まあ、予定も勉強なんだけど。 「また雪乃さん?」 ため息交じりな若菜の声。 あの日から、若菜は普通に接してくるようになった。 此間の出来事を特に話題に出した覚えはない。 だけど、『友達で居ようね』と唐突に言われたのは覚えている。 そしてその場で美香に『若菜を振った』と非難されたことも。 学園祭の時に美香が若菜の弱みを握っていると言っていたのはあたしを好きって言うことだったらしい。 そんなの、弱みとは言わないと思うけど。 「そーだよ、悪いか」 「悪くはないけどさー、ハルから掛ければいいのに」 「……」 その勇気がない場合は一体どうすればいいんだか。 先週のドタキャンされた日から一度も会話をしていない。 顔すらあわせていないのに。 しかも、あの日安藤さんとデートだったと言うことを少なからず引きずっていて、 尚且つ避けられているかもしれないあたしに一体どうしろと。 「向こうはまだ仕事中だろうし」 「……だったら掛かっても来ないんだじゃない?」 「うっ……」 な、なんだよ若菜。 案外まともなこと言うじゃん。 そんなことに気づかなかったあたしは恥ずかしいやら悔しいやら。 腑に落ちない表情を浮かべて、携帯をポケットに突っ込んだ。 確か、マナーモードにはしていたはずだ。 「次さー現文だよ。私当てられちゃうかもー」 ガタッと隣の席が揺れると美香が身を乗り出してくる。 その手にはノートを持って。 そういえば宿題が出ていたような気がする。 確かあたしは授業中に終わらせていたけど。 「ハル!やってきたの!?」 「一応、ね」 あたしの返事に、若菜も何故かノートを持ってキラキラお目目でこっちをみている。 前と右の光景を見て、どうも嫌な予感しかしてこない。 「「見せて!!」」 綺麗にハモる二人の声。 やっぱり、と思う暇なくあたしの手元からノートはすり抜けて言った。 やってこいよ、これぐらい。 心の中の声はこの二人にはもちろん聞こえない。 そう言えば、新学期になっても結局席替えなかったし。 きっと卒業までこのままなんだろうな。 不意にその言葉を思うと、すーっと風が体を抜けていくように感じた。 ああ、そっか。 この光景も、この三人でのやりとりも卒業したらなくなっちゃうのか。 美香は大学には進まないし、若菜とも希望する学部は違う。 そう考えると、この席順変わらなくてよかった。 五月蝿いけれど、最高に楽しい場所。 「お、お邪魔します……」 「うん、入って」 午後7時、帰ってきたばっかりだと言う雪乃さんの部屋に心臓を高鳴らせながら入った。 『家に着いた』と言う連絡が入ってから約15分。 我ながら素晴らしく早い行動だと思う。 少しでも早く、会いたかったのも本音だけれど。 会い難かった、と言うのが一番の本音だ。 結局自分で連絡を入れることが出来ずに、雪乃さんからの連絡を待つばかりだった。 だって、あんな風に別れてから一度も顔をあわせなかったんだ。 会いにくいのも当然で。 「冷えたでしょ。コーヒーとココアどっちが良い?」 すぐに台所に向かった雪乃さんの背中に、間髪入れずに「ココア」と返した。 少し前から、雪乃さんはココアを置いてくれるようになった。 コーヒーが駄目なわけではなかったけれど、ミルクココアは大好きだ。 後ろから飛んできた声に小さく笑った雪乃さんは、あたしがそう言うのをわかっていたのかもしれない。 そう思うと、本当に些細なことだけど知ってくれていることが嬉しかった。 ただそれだけで、胸のうちが暖かくなっていく。 ここにきて感じたのは、驚くほどいつもの雪乃さんだと言うこと。 此間は機嫌でも悪かったのかな、と。そう思うほどだった。 ココアを受け取ると、すぐに一口含んだ。 咽を通る熱いそれは甘すぎない調度良い味が口の中に広がって、体全体を暖めていく。 美味しいくて、ついつい何度も口元に運んでいると、自分の分のコーヒーをいれた雪乃さんが隣に座った。 「じゃあ今日は何する?」 一旦考えて、鞄の中を覗き込んですぐに数学の教科書を取り出した。 最後はやっぱり1番苦手な教科だろう。 まだ怪しいところも多々あるし。 「数学で」 取り出した教科書を雪乃に見せる。 それと一緒に雪乃さんと視線を合わせようとすれば、一瞬視線が絡むとそれはすぐ外された。 その逸らし方が意識的だったように感じる。 思い過ごしならそれで良い。 そうだとしても知らないフリするから、隣に居させて欲しいのに。 目の前の数式は頭の中に入ってくる。 だけどその数式を押し退けて思考を占領する問題があった。 雪乃さんの機嫌が直ったのは良いことだ。 でも、あの日雪乃さんはあたしとの約束を取りやめてまで、安藤さんとデートした。 それは紛れも無い事実で、目を逸らしたくなる現実だ。 二人は一体どういう関係にまで行ってるんだろう。 ただの友達? 安藤さんの片思い? それとも、まさかの両想い……? プスッ 頬に冷たい何かが当たった。 確かそれはあたしが愛用しているシャープペンシルで、今は雪乃さんが使ってるやつ。  そーっと視線をシャーペン越しに雪乃さんへ向けると、案の定呆れた顔で見られていた。 だって、頭の中は雪乃さんと安藤さんのことでいっぱい。 これじゃダメだって分かっているのに思考は断ち切れなくて。 そんな状態で問題を解けるはずもなく、開始30分、等々雪乃さんから注意されてしまった。 「明日テストでしょ」 「……はい」 「集中」 「……はい」 トントンと、頬に触れていたシャーペンで雪乃さんが教科書をさす。 文章問題が書いてあるそこを解け、ということだろう。 上手いこと働かない頭を使って、なんとかその問題に取り掛かった。 「あー、もう頭がパンクする」 無理に詰め込むとやっぱり限界と言うものがあるわけで。 1時間みっちり教科書と向き合うと流石に疲れが出てきた。 「まだまだ、若いんだから」 小さく笑いながらその場を立つ雪乃さん。 その背中をテーブルに突っ伏したまま、眺めていた。 ココアのお代わりを作ってくれると言うのはわかっていたけど。 こうやって雪乃さんが何かをするところを見るというのも、何となく好きだ。 「ねー、ハル」 いつものように雪乃さんが呼ぶ。 何度も聞いたその声は、あたしをいつもドキッとさせる。 それを平然と隠して返事をするのがいつも通りのことだったのに。 いつもの口調で、 何も変わらないような表情で、 あたしが返事をする前に、雪乃さんは続けた。 まるで、心臓を抉る様な言葉を。 「クリスマスね、一緒に過ごすのやめようか」 まるで幻聴を聞いているような感覚。 雪乃さんの一言であたしの動きは完全に停止した。 空耳?聞き間違え? そう頭は解釈しようとするのに。 雪乃さんに聞き返せなかったのは、やっぱり今聞こえた言葉が正しかったから。 「……」 本当に驚いたときは声なんて出ないんだ。 そんなことを、頭の隅っこで考えていた。 馬鹿みたいだ、こんな時にそんなことばっかり考えて。 でも、そんなくだらないことでも考えないと、子供みたいに喚いてしまいそうだった。 「……ハル、聞いてる?」 キッチンからあたしの方を雪乃さんが向く。 でも目線を合わせることはできない。 このまま知らないフリを決め込みたいぐらいだ。 そうすれば、今のは聞かなかったことに出来るのかな……。 クリスマスは雪乃さんの笑顔をたくさんみたい。 それから、ちゃんと自分の気持ちを伝えたい。 そんなこと、もう先月からずっと思ってたのに。 「返事ぐらい、して」 ココアを持って雪乃さんが近づいてくる。 マグカップからは湯気が立って、熱湯を注いでたことがすぐにわかった。 「……や、です」 それだけ言うのが精一杯。 もっと大きな声で言ってしまったら一緒に涙まで出そうで、声を抑えていた。 どうして、平然とそんなこと言えるのか。 目の前にいる雪乃さんに苛立っていた。 「そんなこと言われても、困るよ」 息が詰まりそう。 苦しい、胸がぎゅうっと締め付けられて頭も満足に働かない。 困るって何?約束でしょ? あの時、約束したのに。 あたしが、絶対雪乃さんを楽しませるって。 「どうしてですか…!」 胸の内で溜まった言葉が一気に飛び出した。 爆発するように、喚くように。 きっとここ最近じゃ一番大きな声だ。 あたしの声に雪乃さんの肩が小さく揺れる。 その肩から繋がる腕を強く掴んだ。 どうして、どうして。 避けるんだろう。 冷たく、突き放すんだろう。 強く腕を掴んだ拍子に、雪乃さんの手の平からマグカップが離れた。 それは真下に落下していく。 床に派手な音と共に打ち付けられ、その瞬間飛び上がった中身があたしの足目掛けて跳ねた。  
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