■あなたと・・・ 5 □投稿者/ Wナイト 一般人(5回)-(2010/01/28 23:25:12)
日が昇って朝が来る。 明るい光に、目を開けた。 ああ、そっか。 今日はクリスマスイブ。 ため息しか出てこない。 「終わったー!」 ぐっと背中を反らして伸ばした手が、後ろに座っているあたしの頭に直撃した。 若菜め、あたしの存在忘れてるな。 「あっ!ごめんっ!」 すぐさま後ろを向いて謝ってくる若菜。 へへっと笑って誤魔化す顔にはテスト前の憂鬱さが全てなくなっていた。 3日間に渡って行われた、今年最後のテスト。 終わった途端、これだ。 「緩みすぎ」 「だってー。これで後はクリスマス!お正月!自由登校!」 「……」 ずらりと並べられたイベントに期待を膨らませるのはわかる。 あたし達は雅なんかと違って受験もないし。 だけど、少なくともその一番最初のイベントに顔が引き攣ったのは事実だ。 「うれしいでしょ」 「まあ、ね」 正直、微妙なところだ。 元気な若菜は、あたしの隣に座っている美香にもちょっかい出し始めた。 美香はもう終わったと言うのに帰る準備もせず、携帯を弄くっている。 「美香ー!どうだった?」 若菜の問い掛けに美香は心底興味がなさそうだ。 さっきまで行われていた最後の教科。 英語の問題用紙をヒラヒラさせている。 「海外なんて行かないから必要ないしー」 そりゃ行かないかもしれないけれど。 今更その理屈を持ちだすのはどうかと思う。 「てかさ、開始5分で寝てたでしょ」 そう言えば、美香の顔が引き攣った。 「いいの、別に!二人みたいに点数が必要なわけじゃないし」 確かにそうなんだけど。 美香は持ち上がりで大学にはいかない。 本人曰くフリーターでやりたいことを見つけるらしい。 だからと言って必要ないわけじゃないのに。 「そんなこと言ってると単位とれないよ」 憎たらしく笑う美香に言ってやろうとすると、代わりに若菜が全く同じことを言った。 考えることは同じか。 現に、美香の点数じゃ相当やばいんだろうけど。 「あー!知らない知らない。ってか、ハルは?どうだった?」 それ以上単位のことについて触れてはほしくないのか。 ぱっと話題をそらしたあたり、何だかかなり怪しい。 さては、本当に単位取れそうにないんだな。 「別に、普通だったけど」 一応、逸らされた話題にのかって答えてみる。 本当に普通だ、良くも悪くもない。 テスト初日なんかは、相当大変なことになっていそうだけど。 まともに問題も解いてないし。 普通に返したのに、若菜は意味ありげな顔してこっちを見ていた。 「ハルはばっちりだよ、家庭教師つきなんだから」 そう口にした若菜。 それを聞いた途端、あたしの動きはとまった。 「なにそれ、家庭教師なんていんの?」 初耳だ、と言う様に美香が聞いてくる。 今、あたしが一番触れてほしくない話題に触れられるのはしょうがない。 二人ともあたしに何があったのかなんて知らないんだから。 だから―― 「別に、たいしたことないけど」 考えないように、考えないように。 そうやって、自分を静めるしかなかった。 何にも考えなければいいんだ。 雪乃さんのことなんて。 そうすればいつか必ず忘れるときがくる。 雪乃さんの居ない日常になれて、ぎこちなく生活することなんてなくなるんだ。 無理して笑顔を振りまく必要なんてない。 強がったりなんてしなくていいんだ。 忘れるなんて無理なこと、早々出来るはずないのに。 それでも望むあたしは、驚くほど弱い存在なんだろう。 割り切れもしない、忘れることさえも出来ない。 だったらあたしには何が出来る? それとも、何も出来ない? こうやって、その場にあわせて笑うことしか出来ない。 「ハル!」 3人で喋っている中に、クラスメートの声が割って入ってきた。 その子は美香の隣まで来ると、手を廊下に突き出してそこに居る人物を指す。 そこから見える廊下。 そこには窓際に力を緩めて、その体を預けている人がいた。 「B組の雅さん、呼んでるよ」 「あー、うん。わかった」 「ありがと」と小さく付け加えると、すぐにその場で立った。 「じゃ、帰るわ」 美香と若菜にそう言うと、二人とも手を振るから。 コートを着て、鞄を手に持って二人に手を振り返した。 並んでいる机を避けて廊下に出ると、すぐに雅と目が合う。 「帰るんでしょ?」 雅は既にコートも着ている。 その手には鞄だって持っていた。 こうやって雅があたしを迎えに来るなんて、きっと初めてじゃないだろうか。 いつも用がある時はあたしが待っていたし、大体帰りは別だった。 「帰るけど」 「けど?」 言いづらそうに視線をそらした雅。 すると、口よりも早く足を動かし始めた。 そんな姿に、何となく勘付いてしまった。 雅はあたしの事を誰よりも、きっと親なんかよりも良くわかってる。 だからこそ、あたしの事を考えてくれるんだけど。 あたしだって、雅のことは誰よりも良くわかってるつもりだ。 マキちゃんより、とはいかないかもしれないけれど。 だから、前を歩くその背中に向かって声を掛けられなかった。 「……ハル」 正門を出ると、自転車を押しながら歩く雅があたしを呼んだ。 視線だけで反応すると、雅はずっと前を向いたままだ。 やっぱり言い辛そうで、こんな雅久しぶりに見る。 「これからユウさんのところ行くけど、あんたも行くでしょ」 思っていた通りの言葉に、小さく笑ってしまった。 いつもみたいに、強めに言ってくれたのはきっと雅の優しさだろう。 「……行かないよ」 「自転車どうするの」 雪乃さんの家に置きっぱなしだった自転車。 今はユウさんのお店においてある。 確かに無いと不便だった。 通学は徒歩だし、遅刻しそうになって全速力で走ったりしなければいけなかった。 でも、後4日だ。 その4日が過ぎれば冬休みに入るし、そうすれば自転車が必要になる用事も別にない。 クリスマスに出かける予定さえも、粉々に打ち砕かれたんだから。 「ごめん、雅」 「……」 本当は駄目なんだ、こんな風に雅に甘えては。 雅が居るからって、あたしはどこかで安心してる。 一人じゃないって思うから。 何があっても逃げ場にしてしまう。 「……行きたくない」 「雪乃さんなら来ないって」 数日ぶりに聞いた名前。 それだけなのに、グッと心臓を掴まれた様だった。 呼吸が苦しくなるのは、きっと気の所為じゃない。 「違う、いっちーにもユウさんにも、会いたくないんだ」 「……」 だって、あの二人はいつもあたしを応援してくれてた。 あたしは何にも出来ないのに、何にも返せないのに。 無条件で、無償の優しさをくれる。 そんな二人に会ったら、やっぱり縋ってしまいそうで。 どんどんと駄目になって行きそうな自分が怖かった。 「わかった、じゃあ今度取ってくる」 「……ごめん」 雅にはやっぱり甘えきってる。 来年はもう居ないんだから、って思ってるのに。 辛いときに傍に居てくれると、知らずに手を取ってしまっていた。 「でも、何となくしっくりこない」 独り言のように雅はつぶやいた。 それが、雪乃さんのことを言ってるのはわかっていたけど。 聞こえない振りして、知らない振りして、ポケットに両手を突っ込んだまま歩いた。 雅と別れてから、そのまま真っ直ぐ自分の家に向かって歩く。 もうクリスマス間近。 近所は趣味でやってるのか、様々なイルミネーションが凝られていた。 夜になれば、きっと綺麗なだろうな。 そんなことを思いながらぼんやりと足を動かしていた。 そんな綺麗な街中を、一緒に歩きたかった。 日が過ぎるのは早い。 やっとテストが終わった、なんて思っているとすぐに二学期の過程が終了した。 学校はウンザリな筈だったのに一人家で悶々としているよりも大分楽だった。 終業式の為に皆が体育館に移動していく中、あたしは一人別の場所に向かった。 あんな堅苦しい話に耳を傾けることもしなくなかったし、行きたい場所があったから。 少しだけ早足になるのを抑えて、階段を上っていく。 三年間で、ここに何度足を運んだかわからない。 何度ここに救われただろう。 最後の段を上りきって踊り場を見渡すと、いつもと違っていた。 いつも必ずそこにあるものがない。 屋上の鍵が置かれていた机が、撤去されていた。 隅の方にひっそりと置いてあった古びた机。 いつかは撤去されるだろうと思っていたけど。 何も、こんな時に持っていかなくても。 もう、大好きな空にも見放された気分だ。 机のあった場所にしゃがみこむと、目を瞑って小さく蹲った。 「ハル、どこ行ってたの?」 ロングホームルームが始まる時間を見計らって教室に戻ると、開口一番に若菜の文句が飛んできた。 でも、それを軽く受け流して席に座る。 何となく、今はじゃれ合う気分じゃなかった。 「どうしたの、目……赤いよ」 頬杖ついて逸らした目を若菜はじっと見ている。 「寝てたから」 「あー、やっぱさぼってたんだ」 そんな風に騙されてくれる若菜を見て笑ってると、教室に担任が入ってきた。 ロングホームルームはいつも大体同じ内容だ。 休み中非行に走るな、とか。 だらけた生活はするな、とか。 外部受験をする生徒は勉強をがんばれ、と。 今日聞くと、尚更どうでも良い様に聞こえてきた。 クリスマスが終わればお正月。 年が明けてすぐに雅の大学入試。 それが終わると自由登校。 そしたらすぐに卒業式。 そのころに、もう綺麗さっぱり忘れることは出来てるんだろうか。 ------------------------------------------------------------------------ 明日も明後日も。 来年も再来年も。 傍に居たいって、心から思うんです。 寝て起きて遊んで。 そうやって、平穏な日々を過ごしていると心も穏やかになる。 ここ数日で若菜の見たい映画に付き合わされたり、美香達と買い物に行ったり。 中学の友達と遊んだりもした。 雅は来月の入試に追い込みを掛けているらしく、あまり連絡も取らないようにしていた。 そうやって、時が過ぎて、今年も終わりが近づいてくる。 そう、大晦日だ。 誰からも連絡はない。 雅もいっちーも。 このままだと誰も来ない、もしくは行き成り来るかのどっちかだ。 時間は午後7時を回っていた。 あたしがどこに遊びに行っていたって可笑しくない時間だ。 現に、若菜達には日の出を見に行こうと誘われている。 だから、行ったって可笑しくないんだ。 寧ろ、行くと考えるのが普通。 それなのに、あたしは未だにリビングのソファに座っている。 自分でもわかってる。 本当はユウさんのところに行きたいってこと。 でも、それを自分から言い出せないのが本音だ。 携帯を手に、さっきからずっとその姿勢を崩せないでいる。 雪乃さんに逢いたい。 顔を見るだけでいいんだ。 会話をする勇気はないから。 いくら雪乃さんが安藤さんを好きでも、あたしが雪乃さんを好きって気持ちは変わらなくて。 今日まで何度も雪乃さんのことを考えたけど、最後にはやっぱりそこに辿り着いた。 あの日から、もうずっと雪乃さんに会っていない。 いろんな人と会って、遊んで、喋って、笑って。 そうやって過ごしていたのに、雪乃さんのことが頭から離れたことはなかった。 本当、あたしってどうしようもないよなぁ。 こんなに好きだなんて、自分でも気づかなかった。 そうやって悶々と考えていると不意にインターホンが鳴る。 ……こ、これは、クリスマスと同じシチュエーションだ。 時計を見ると、もう8時を過ぎていた。 行くべきか行かないべきか。 一歩一歩進みながら考えるけど、やっぱり決めきれない。 「……はい」 いつもよりトーン低くめに出ると、そこには。 果たして雅が仁王立ちしていた。 「……出るのが遅い」 「ご、ごめん」 「さ、行くよ」 「……ま、待って!」 「駄目」 駄目って、あたしの意思は完全無視ですか。 腕を掴まれるけど、必死に抵抗してみる。 「待って!ほんと、まだ心の準備が……!」 胸を押さえてその場に蹲るけど雅に顔色の変化は伺えない。 でも、ほんとうに。 まだ会えないと思う。 顔を見たい、見たいけど、見てしまったらどうなるかわからない。 それに、上手く喋れるかもわからないし。 「……それなら仕方ない、とは思うよ」 本気で心配してくれてるのか、もしくは同情してるのか。 声のトーンが下がった雅は手がすっと頭に伸びる。 優しい手に身を任せていると―― 「けど、それとこれとは話が別」 ぐっと、また二の腕を掴まれて力任せに立ち上がらせられた。 あれ?それとこれって、一緒じゃないの!? そう想いを込めて雅を睨むと睨み返された。 なに、あたし雅に何かした? 「別に、行かなくてもいいと思う。雪乃さんがどうせあんたを傷つけるんだったら見てられないし」 言ってることとやってることが滅茶苦茶だよ。 そう思うなら離してくれても良いのに。 「……だ、だったら」 「でも、私にだって怖いものはあるの」 「……は?」 もう訳が分からない。 やっぱり、頭の良い人って言うのは話が飛躍するんだよ。 そりゃ同じぐらいの人は理解できるかもしれないけど、あたしには無理だ。 雅が何を言いたいのか全然わからない。 「ユウさんがハルを連れて来いって」 「……うん」 そうだろうな、元々ユウさんが言い出したんだし。 きっとそれが目的な筈なんだろうし。 「……そう満面の笑みで言われたの。ハルならどうする?」 ユウさんの満面の笑顔で『連れて来て』。 何だか、想像するだけでゾッとした。 あの綺麗な顔が満面の笑みだなんて、綺麗過ぎて絶対に怖い。 「意地でも連れてくっ!!」 想像した瞬間、そんな言葉が飛び出していた。 そして、すぐにしまったと後悔する。 言ったものは戻せないけど、戻せるものなら今すぐ戻したい! 「でしょ?」 「……ううっ」 凄い、凄いよ、ユウさん。 しょうがない、って思わせるんだから。 あの人に逆らえる人って居るのかな。 そんなこんなで、迎えに来ていたいっちーの車に乗り込むしかなかった。 店に着いたのは9時を過ぎた頃。 遅くなったのは車の中で揉めたから。 それはいっちーが放った一言の所為だった。 「じゃ、出るよ?」 「うん」 助手席に乗った雅がOKの合図を出すといっちーがサイドブレーキを下ろす。 ギアを変えている手の動きを見ながら、浮かんだ疑問を口にした。 「ねー、他に誰が来るの?」 そう問いかけたあたしにいっちーが普通に答える。 というより、口を滑らせた。 「絢さんに雪乃さん、ユウさんとあとユウさんの知り合いが一人と安藤ぐらいかな」 「……」 『安藤』と言うワードが出た一瞬の沈黙。 言葉に言い表せないその空気はあたしの「行きたくない」と言う主張を膨れ上がらせるには十分だった。 「いやっ!降りる!」 「えっ、ハルちゃんっ!!」 「ちょっと、ハル!」 そーやって暴れること一時間弱。 最後に雅の一言でこの騒ぎは収まった。 「……ハル、良い事教えてあげる」 「な、なに?」 さっきまで呆れ顔であたしといっちーのやり取りをみてたくせに、急に真顔になっている雅。 その顔を見ると少しだけ畏まってしまう。 「クリスマスね、」 「う、うん」 何だ、何が来るんだ…?と。 身構えていると雅からは思わぬ言葉が飛び込んできた。 「雪乃さん、安藤さんと一緒じゃなかったらしいよ」 「……へ?」 何を言い出すかと思えば。 そんなわけないじゃないか。 だって、あの時雪乃さんはハッキリと口にしたのに。 『私は、安藤君と過ごしたいの』 そうだ、今でも鮮明に覚えている。 「でも!雪乃さんは…!!」 そう食って掛かる勢いで助手席の方に前のめりになると、いっちーが宥めるように続きを話してくれた。 「安藤は雪乃さんを誘ったんだよ」 「……だったら、」 「でも、雪乃さんは断ったらしいんだ」 「……そんなわけ、ない」 そんなわけないんだ。あるわけない。 それなら、あの時何であんなこと。 「雪乃さんの意図はわからないけど、それは事実だよ。」 「……」 「信じられないのならユウさんに聞けばわかるよ。あの日、安藤はユウさんの店で飲んでたから」 二人を疑ってるわけじゃない。 ただ、その事実を受け入れ切れていないだけだ。 だって、ずっとそうだと思ってきたのに。 雪乃さんは安藤さんを好きだと。 それを根底から覆すようなこと、安易に受け入れることなんて出来なかった。 お店に入ると、安藤さんと絢さんしか居なかった。 二人ともカウンターに座ってお酒を飲んでいる。 ――安藤さんの誘いを断った。 意味がわからなかったけど。 冷静になって考えると、もしかして、と思うことがあった。 ただ、あたしとの約束を断る為だけに嘘と吐いた。 そうだとしたら、説明はつく。 実際安藤さんのことは好きじゃないかもしれないってことも。 だとしたら、あたしとの約束を反故にした理由はひとつで。 それはひとつの仮定に過ぎないけど、余計に凹む。 どうなんだろう。 どんなに考えても、答えを知るにはひとつしかないってわかってる。 「雪乃さんなら遅れてくるって」 あたしが座っているテーブルの前を通りながら、安藤さんがそう一言そこにおいていった。 それだけだ。 たったそれだけ。 親切で教えてくれたのかもしれないのに、小さな嫉妬が芽生えた。 だって、あの日からあたしは一度も雪乃さんと連絡もとってないのに。 いや、取れないでいるのに。 それに、あたしは嫌われてるかもしれない。 そう思うと居ても立っても居られなくて、外に出た。 出る寸前、いっちーがあたしを呼んだけどそれを雅がとめていた。 雅はきっとわかるんだろう。 あたしがここで帰ったりしないことを。 帰る気なんて、さらさらない。 外で頭を冷やすつもりもない。 気になって気になって仕方ないんだ。 雪乃さんがあたしをどう思ってるのか。 どうして嘘をついたのか。 どうして、冷たくするのか。 それを知りたい。 怖い、バッサリと切り捨てられるのは体が震えそうな程。 それでもそれを知らなくちゃ、雪乃さんを忘れることさえ出来なさそうだったから。 だから、ここで雪乃さんを待っていよう。 そう心に決めてお店の前にあるベンチに座った。 風はあまり強くないけど、気温は大分低いはずだ。 店の中はかなり暖房の温度を上げてあったし。 それでも、寒さをしっかりと感じない。 どこかふわふわした感じで、心音もいつもより早いまま一定を保っていた。 ここに居れば必ず雪乃さんはやってくるから。 もうすぐ、会える。 怖いけど、会いたい。 会って、ちゃんと話がしたい。 綺麗に照らす月を見ながら、心からそう思っていた。 不意に店のドアが開く。 振り向く前に、首に何かが巻きついた。 誰?そう思ったのと同時に、聞き慣れた声がした。 「今日だけ貸してあげる」 そう優しい声を掛けてくれたのは、大好きな親友で。 顔を上に向けると、微笑んでる雅が居た。 それから、首に巻かれたのはマフラーで、それはいつも雅が登下校でつけているものだ。 その優しさに、頬が緩む。 むずむずする感じが堪らなくて、自分の親友はこんなに良い奴なんだと大声で叫びたいぐらいだ。 「……首、絞められるかと思った」 嬉しさを隠して憎まれ口叩くと、素っ気無く「馬鹿」って返ってくる。 何故だろう、それさえも心地よく感じるのは。 「ねー、雅」 「なに?」 首に巻いたマフラーを後ろできゅっと雅が結んだ。 「フラれたら慰めてね」 本気と冗談、半分ずつ。 「気が向いたらね」 雅の言葉も、そんな気がした。 雅はぽんと軽くあたしの頭をたたくと、すぐに店の中に戻ってしまった。 上着着てなかったし、寒かったんだろうなぁ。 そんな風にぼんやり思いながら、暖かいマフラーに口元を埋めた。 雅の匂いがする。 甘くない、柑橘系の爽やかな香り。 それは、酷くあたしの心を落ち着かせてくれた。 ------------------------------------------------------------------------- この世に『絶対』なんて言えることは、極僅かで。 その意味とは裏腹に、とても曖昧で不確かな言葉。 そんな言葉だからこそ、あたしは言える。 この気持ちは『絶対』に変わらないと。 「ハル」 隣を歩いていた雅がすっと手を差し出した。 何かを促すように手をちらつかせて、言葉にはせず顔で訴えてくる。 首を傾げながら当たりを見渡してみると、それが何を意味するのか、何となくわかった。 「お賽銭?」 「五円でいいよ」 「……それぐらい自分で出そうよ」 「財布持ってきてないから」 「……」 さすが雅だ。 ていうか、五円でいいのかな。 たった五円じゃ神様だって動いてくれないんじゃないの。 ご縁がありますように、って。 ただの語呂合わせだし。 「はいはい」 「ありがと」 差し出された手の平に、五円玉を一枚乗せた。 元旦、しかもまだ年は明けたばかりなのに。 神社はすごい人だかりだった。 入ったすぐは雪乃さんと歩いていたのに、雪乃さんはいつの間にか絢さんに連れて行かれていた。 一緒に歩きたかったけど、言い様のない不安を考えると、この状態に正直ほっとしている。 ユウさんの後ろを着いて行き、後方から賽銭箱に向かって硬貨を投げた。 手を合わせて目を瞑る。 えーと、願いごと、願い事。 考えるけど、すぐには浮かんでこない。 雪乃さんとのことは、神頼みするようなことじゃないし。 寧ろだから結ばれました、ってなっても複雑だ。 ここはやっぱり……。 今月の大学入試、雅が見事合格しますように、だ。 まあ、雅のことだから絶対大丈夫だとは思うけど。 「……ハル、いつまでやってるの」 手を合わせたままの体制で動かないでいると、後ろから声が聞こえた。 ぱっと顔を上げて確認すると、雅がもう後ろに居た。 それから、他のみんなはもう遠いところへ行ってるじゃないか。 ……おざなりなお願い事じゃ神様も聞いてくれないっての。 「そんなに熱心に何をお願いしてたの」 「えー?言ったら叶わないんだよ」 「叶わないかもしれない程のことを頼んだわけ」 そういう言い方されると、違うと反発したくなる。 というか、雅の合格のことだし。 これは確実に大丈夫だと思うけど。 「雅が受験合格しますように、って」 「……」 あ、黙った。その様子をじっと見つめる。 一瞬目が泳いで、さっきより強い瞳で見返された。 「…あのねぇ、あんた自分の心配しないさいよ」 「自分の心配って?」 「雪乃さんのこととか、何かあるでしょ」 そう言われてもな。 「それってさ、神頼みするのも何だかなーって」 「それなら私の大学受験だって、」 「?」 「神頼みなんてしなくても、受かるに決まってるでしょ」 この自信、本当さすがとしか言えない。 こんなにキッパリと断言出来るなんて。 女王様は今年も健在のようだ。 それから、ユウさん達の後ろを着いて行くと、おみくじのところへ向かっていた。 一回100円の、普通のおみくじ。 雅にも100円渡して、二人して同時に引いた。 さぁーて、今年は何かな。 「今年も一緒か」 そう言った雅はもう開封している。 そこには大きく『大吉』の文字。 また、ですか? 去年に引き続きっていうか、あんまり雅が大吉以外引いたのみたことないかもしれない。 ほぼ毎年、一緒に初詣には来ていると言うのに。 羨ましいな。 別に大して何が変わるわけでもないけど、この年まで一度も引いたことのない身としてはかなり羨ましい。 まあ、見ててもしょうがないから開けるか。 折り畳んであるおみくじを広げようとした時、肘の辺りを誰からか掴まれた。 「ハル、ちょっといい?」 そう言ってきたのは雪乃さんだった。 さっきまで一緒にいた筈の絢さんは、いつの間にか安藤君と一緒に何やら楽しそうに話している。 「えっと……」 どう返事していいのかわからずに、視線を泳がせていた。 するとバッチリ、雅と目が合う。 だけど、 「祐樹、おみくじ結ぼう」 「ああ、どの辺りがいい?」 「向こう」 わざとらしくいっちーに話しかけて、二人して『向こう』へ行ってしまった。 なんて白々しい。 「ハル?」 「あ、はい」 別に雪乃さんから逃げる理由なんて何一つ無いんだ。 持ちかけられる話題が何かすらわからない。 だけど、中身のわからない漠然とした不安は大きくなるばかりだった。 「行こ」 くるっと向きを変えた雪乃さんの背中を見ながら、後を追った。 「……風が冷たい」 肩を竦める様にして歩く雪乃さん。 剥き出しになった手が赤くなって、見るからに冷たそうだ。 あたしは常にポケットに両手を突っ込む癖があるから、無意識のうちに両手はポケットに入っていた。 だから、風を直接受けないからそこまで冷たくはない。 数歩後ろを歩いていたけれど、少し早足で隣に並ぶと雪乃さんが不思議そうにこっちを見てきた。 くるっとした目と視線が合う。 見られていると余計に恥ずかしいんだけど、まあ、しょうがないか。 恥ずかしさを押さえ込んで、ポケットから手をだした。 外気に晒された手は、すぐに冷えていく。 その手で、雪乃さんの冷たそうな手に触れた。 「どしたの?」 「……寒そうだったんで」 きゅっと雪乃さんの手を握ると、想像以上に冷たかった。 「ハルの手、暖かい」 「でしょー」 多分、大して温度も高くは無いはず。 それでも暖かく感じるのは、それぐらい雪乃さんの手の温度が低いってことだ。 「すっごい冷たいですよ」 「いーの、心は暖かいから」 「どーだか」 笑いながらそう言えば、雪乃さんの手に力が篭る。 すると行き成り、雪乃さんの手から力が抜けたかと思えば一旦するっと離れた。 「え?」っと驚いている暇もなく、またその手は戻ってくる。 所謂、恋人繋ぎってやつで。 「……」 どう反応していいんだか。 ただ、顔が赤くなっているのは確かだった。 「もー…寒い」 「そんな寒いのに、どこ行くつもりですか」 手を繋いでいても、外気に晒されているとやっぱり寒くて。 いつもの癖で、手を繋いだままポケットにいれた。 「人気のないとこ」 そんな危ない発言にあたしも悪乗りしてみる。 「……そんなとこ連れてって一体何する気ですかっ」 「みなまでは言えないなぁ」 怪しく笑う雪乃さん。 こんなふざけた会話をするのは久しぶりだ。 会わない時期が長かったのもあるけど、こうやってちゃんと雪乃さんを見て笑えたのは本当に久しぶりだった。 「あそこにベンチあるから、行こ」 神社から大分離れた場所。 所々に出ていた夜店も姿を見なくなって、本当に人も疎らにしかいない。 街灯も少し遠いところにあるから、真夜中の今、ハッキリとは雪乃さんの顔は見えない状況だ。 「……早いよね、また年歳取っちゃうよ」 ベンチに座ろうとする雪乃さんがあたしのポケットから手を抜いた。 すっと、手の中からなくなった温度。 随分と暖かくなっていたのに、それだけで一気に冷えるようだった。 「いいじゃないですか、女は30からって言いますし」 雪乃さんの隣に座りながらそう言えば、 「10代が言っても説得力ないから」 怒ったように、肩の辺りをすぐにはたかれた。 足を揺らしながら、雪乃さんの言葉を待つ。 こう言う時、あたしは自分から話を持ち出せない。 その先にある事実が怖いから、自分からは踏み込めなかった。 「どしたの、急に静かになって」 ぐっと体を倒して、あたしの顔を覗き込む雪乃さん。 こんなに寒いからかな、頬の辺りが赤くなっていた。 「いや、別に……」 「別にって顔してないよ」 クスっと笑い声が聞こえる。 その一瞬の声さえも、あたしは聞き逃せない。 雪乃さんが何をするにも、ひとつひとつに心臓が反応してしまう。 長い長い沈黙のようだった。 実際、大した時間は過ぎていないんだろうけど。 「さっきの、話の続きだけどね、」 そんな沈黙を破ったのは、雪乃さんの言いにくそうな言葉だった。 「……はい」 相槌さえも、上手くうてない。 これから何を言われるのか、想像出来ないから。 気になるけど、このまま雪乃さんに好きだとい言われたまま、その位置に浸っていたいのが本音だ。 「ハルとは、もう会わないようにしようって、思ってた」 「……」 「だから、こんな風に一緒に居ることもないと思ってたし、気持ち伝えようなんてこれっぽっちも思ってなかったの」 やっぱり寒いんだろう、手を摩りながら下を向いている雪乃さん。 暗いから良くその表情は読めない。 一体、どんな顔してるんだろう。 「どうして、って。聞いても良いですか」 「……うん」 雪乃さんが深く深呼吸する。 そうやって覚悟を決めていたのは目に見えてわかった。 だから、あたしも何を言われても良いように、ぐっと構えていた。 「ハルのこと好きだけど、……付き合えないから」 ガツンとした衝撃はなかった。 どこかで、そういわれるんじゃないか。 このまま付き合えないんじゃないかって、そう思ってたから。 あー…そっか、って。 諦めに似た感想を持った。 付き合えない理由、そんなの幾つも思い当たった。 「あたしが、女だからですか」 諦めに似た気持ちにさせたのは、やっぱりそれが一番大きい。 振られる時の定番文句だろうし。 あたしは女で、雪乃さんも女。 普通に考えたら、それ以上は望めないんだ。 「……」 その言葉を聞いた瞬間、雪乃さんの顔が歪んだ。 ……当たりだったかな。 「……それも、多少はある、かな」 眉を下げて、そう答えた雪乃さん。 下を向いてた顔を上げて、空に仰いだ。 その表情は、今にも泣き出しそうで。 素直な雪乃さんの言葉に、少なからずショックを受けながら、冷えたその手をそっと右手で包んだ。 「……はる」 弱弱しく、あたしの名前を呼ぶ。 そんな顔、しないでほしい。 あたしは今振られている立場なのに、これじゃ何にも言えなくなる。 本当は泣いて縋りたいのに。 しょうがない、って。 そんな風に思っちゃうじゃないですか。 ----------------------------------------------------------------------------------------- あたし達は、新たな一歩を踏み出した 「ハル、それ向こうのダンボール」 「これ?」 「そう、それからこっちの本はあの隅にあるやつ」 「あれ?」 「違う、その隣だって」 3月2日 昨日、涙涙の卒業式を終えたばかりなのに今日は雅の家で、引越しのお手伝い。 涙涙と言っても、ほとんどが持ち上がりだから大した感動もなかったけど。 卒業は、ほとんど雅に大しての気持ちばかりだった。 「ねー、この本全部持ってくの?」 ずらっと本棚に並んでいる数え切れないほどの本。 これをつめるとすると、今日だけじゃ絶対に終わらない。 言い切れる、これだけは絶対に。 「そんなわけないでしょ、必要なものだけ」 「……そーだよね」 引越しの手伝いと言っても、家具なんかは向こうで揃えるらしいし。 洋服類はもう終わってる。 後は小物を整理するだけだった。 本は少しならともかく、段ボール二つ分もあるものを小物に分類するのはどうかと思うけど。 「今日、いっちーは?」 「迎えには来るって言ってたけど」 「手伝いには来ないって?」 「さー、最初は絶対行くって行ってたけど、昨日やっぱり行かないって言い出して」 わからないって顔をしながらも、その手付きに無駄はない。 テキパキとした動きは、始めた頃と何一つ変わらなかった。 「ふーん、用事でも出来たのかな」 「そうじゃない?」 それに比べてあたしときたら、さっきから手に取るもの手に取るものに興味を持ちながらやってるから、一向に進まない。 それなのに、雅は珍しく何にも言わないから調子に乗るんだけど。 「でも遠距離か、あたしは絶対無理だなー」 「やってみないとわからないんじゃない」 ケロッとして言ってるけど、絶対無理だと思う。 「でも、いっちーのが不安がってるよ、絶対」 二人は一見非常にバランスよく見えるけど、実はいっちーの方が惚れてたりする。 雅だって変わらないぐらい想ってるんだろうけど、若干天秤は傾いてる筈だ。 「まあ、多分ね」 「でしょ」 「そうじゃないと行き成りプロポーズとかしないよね」 「そりゃーしないよ」 あはは、って、雅の言葉を笑い飛ばしたのに。 聞き流したその言葉に、大声を上げてしまった。 今何て言った?プロポーズって? 「なっなにそれっ!!」 「なにが」 「プロポーズってなに!?」 驚きすぎて普通に納得したけど、そんなの初耳だ。 雅がプロポーズされただなんて。 「言葉のまんまよ」 「だから、」 「昨日、ね。された」 「えーっ」 聞いてない! いや、昨日なら仕方ないけど。 「言っとくけど、すぐに結婚なんてしないからね」 「……あれ、そうなの?」 「当たり前でしょ、婚約ってこと」 「あーあー」 そうか、そうだよね。 今から遠距離になるっていうのに。 それはないか。 「じゃあ大学卒業してから、ってこと?」 「多分、」 「ふーん」 何ていうか、雅が結婚なんてちょっと寂しい気がする。 それはやっぱり、雅に対していろんな想いがあるからで。 それと同じぐらい、羨ましい。 「なに?」 「……別に、」 「なによ」 厳しい口調に、だんまりを続ける根性は一切なくて。 渋々理由を口にしてしまう。 「いいなーって」 「は?」 「婚約とか結婚とか、そういうの」 「ああ」 そりゃあたしは女だから、好きな人と結婚なんて出来ないだろうし。 籍を入れないなら式ぐらい出来るんだろうけど。 日本じゃまず無理なはなしで。 なにより、紙切れ一枚でも、ずっと繋がりがもてるのは羨ましい。 気持ちでつながってるって言っても、不安定なものだし。 「それで、ハルはどーなの」 行き成り投げかけられた言葉に、んーと考えながら答えた。 「あ、先週卒験受かったから、今週あたり本免受けに行く」 「……誰もあんたの免許取得状況聞いてないから」 「じゃあ、あっ!バイトなら順調だよ。あれなら大学入ってからも……」 バフッ 効果音がつきそうなほど綺麗に顔面に命中したクッション。 向こうに持っていく予定のないそれを、雅は躊躇せず投げつけてきた。 いや、痛くはないけどさ……何も投げなくても。 「……バイトとか、興味ないから」 「ちょ、ちょっとボケてみただけじゃん」 突っ込みが荒いよね、相変わらず。 わかってるよ、何のことかって言うことぐらい。 「雪乃さんでしょ、別に何にも変わらないよ」 「あっそ、」 変わらない、寧ろ最近後退してる気さえする。 昼間はずっと車校に通って、夜はバイトにいって。 そんな生活してたから、学校が卒業式まで休みであったって、中々会えなかった。 「忙しいからしょうがないけどさー」 「会ってないの?」 「あんまり」 雪乃さんも、前よりも随分忙しくなったみたいで。 毎日ユウさんのところに来ていたのだって、最近じゃ週に2、3回程度らしいし。 会えない時間が愛を育てるって言うけど。 寧ろ、その間に雪乃さんに好きな人が出来ないか気が気でない。 「電話でもメールでもすればいいじゃない」 「あ、メールは毎日してるよ」 「……あっそ」 「電話はあんまりだけどねー」 毎日しつこいぐらいにメールしてるし。 未だに『新着メール』には心躍らせている。 「あのさ、前から思ってたけど、それって付き合ってないの?」 「付き合ってないけど」 「大して変わらないんじゃないの?」 まあ、そうなんだろう。 雅たちから言わせると。 「いーの、待つんだから」 「へー、健気だね」 「一途と言って」 ふんっ、と威張って見せると雅は呆れたように笑ってた。 「ふーん、成長したじゃん」 「うわ、絶対馬鹿にしてるでしょ」 雅から投げられたクッションを握ったまま仰向けになる。 床にごろんと倒れると、雅が迷惑そうに足を叩いた。 「邪魔」 「だってさー」 明日、雅はここを離れる。 大学が始まるのはまだ先だから、ギリギリまで残れば良いのに。 みんなが口を揃えてそう言っていたけど、早く向こうへ行って慣れておきたいからと言って譲らなかった。 言い出したら人の意見に耳は貸しても、意思は曲げない。 そういうやつだって知ってたけど。 正直、寂しいものは寂しい。 「明後日から雅いないんだー」 「寂しいの?」 「うん」 素直に言うとまた足をたたかれた。 「素直だねー」 「誰かさんと違ってね」 「誰よ、それ」 「誰だろーねー」 クッションを抱きしめまま、天井を見ていた。 この部屋にも想い出はたくさんあるんだ。 「ほら、さっさと終わらせるよ」 ぐっと上から見下ろしてきた雅が、胸に抱いていたクッションに手をかける。 取られないように、必死に力を入れた。 「えー」 「えーじゃなくて、」 「終わったら雅、行っちゃうじゃん」 「……」 しょうがないことだけど、ていうかガキみたいだけど。 どうにかしてもう少し長引かせられないだろうかといろいろ考えていた。 結局、回転の悪いあたしの頭じゃ何一つ出てこなかったけど。 「へーハル、そんなに私のこと好きだったの」 「……何か誤解があるみたいだけど」 「あれ、違うの?」 ぐっと覗き込んでくる雅。 下から見上げるから、雅の長い髪が掛かってくる。 いや、うん。ちょっと近くないですか? 「……いや、うん。好きなのは好きだけどさ」 「雪乃さんとを好きなのとは別って?」 「そりゃ、もちろん」 声を強くしてそう言えば、雅は小さく笑う。 こんなに近い距離で見ることもそうそうないから何だか照れてしまうけど、やっぱり綺麗な顔だ。 身近にいるとあんまり意識したりしないけど、こうも整ってる顔は珍しい。 ていうか、欠点が見当たらないんですけど。 「なに、」 じーっと見ていたからか、雅の手が頬にあたってぐにゅっと抓られた。 「いひゃい……」 「うわ、柔らかい」 頬を楽しそうに抓る雅。 傍から見ればかなり変な図だろうな。 きっと、見方によればあたしが組み敷かれているようにも見えるし。 こんなところ誰かに見られたら最悪だ。 そんなこと、雅の部屋だから思えるんだろうけど。 「……」 「え、なに?」 「んー、なんか足音が」 急に黙った雅が視線をドアに移した。 それに伴ってあたしも床に頭をつけたまま、ドアを見る。 足音ってマキちゃんじゃないの? そう頭にハテナマークを浮かべた時だった。 予告なしに突然ドアノブが回ったのは。 「「あっ」」 見た瞬間、あたしと雅の声が重なる。 それから、ドアを開けたその人の動きが一瞬にして止まった。 「……」 何となく、まずい状況になっている気がする。 やっぱり、傍から見たら怪しいんだろう。 あたしも雅もこの状況で何と言ったらいいのかわからず、ただ止まっていた。 「二人とも、なにやって……」 唖然といった感じのその人はただそう一言言うのがやっとといった感じだった。 狼狽しているようで、何だか不憫に思えてくる。 「ノックぐらいしてよ」 それなのに、相も変わらず雅は強気だ。 こいつは、こんな時でも怯んだりしない。 「そんなことより、何やって……」 「祐樹には関係ないこと」 「はあ?」 何故か部屋の中に入ってきたいっちーは当たり前のように納得がいかない様子だった。 そりゃそうか、そんな返答じゃ悪態つきたくなるよね。 「大体、なんで祐樹がここにいるの」 だるそうにあたしの上から退く雅は、髪をかきあげながらいっちーを見る。 そのいっちーは未だにドアの所に突っ立ったまま。 「ちょっと話があって早めに迎えに来たんだよ」 「話?」 「言っとくけど、不法侵入じゃないからな」 そんな弁明しなくても思わないのに。 一階にはマキちゃんが居るんだし。 あたしと雅が気づかなかっただけだろう。 「で、話って何」 「……」 そうふられたいっちーは気まずそうにあたしを見る。 その視線は、遠慮がちに席を外せと訴えていた。 「ごめん、ハルちゃん」 もう少し雅と居たかったけれど、しょうがない。 ここは彼氏のいっちーに譲ってあげて、先にユウさんの所に行くか。 この後あたしと雅の卒業祝い、それから雅の送別会を兼ねての集まりがユウさんの所である。 いっちーはその為に雅を迎えに来たんだろうし。 「あ、ハルちゃん。表に雪乃さん居るから」 「えっ」 「言うなって言われたけどね」 どうして雪乃さんが。 って言うか、言っちゃって良いの?内緒でしょ? 「なんで雪乃さん?」 「あーうん、行けばわかるよ」 「?」 全然理解はできなかったけど、外に雪乃さんが居るとなれば急がないと。 待たせるわけにはいかないし。 それよりなにより、早く会いたい。 「んじゃー雅、またあとで」 「うん」 「ごめんね、ハルちゃん」 「いえー」 二人に声を掛けるのもそこそこに、荷物を持って階段を駆け下りた。 「遥ちゃん?」 「あ、マキちゃん!またねー!」 リビングから顔を出してくれたマキちゃんに手を振って、急いでスニーカーに足を突っ込んだ。 急ぎすぎて躓きそうになるのをどうにか堪えて外に出る。 いつもは雅のお父さんが車を置いている場所に、もう見慣れたいっちーの車が置いてあった。 玄関前に出るけれど、雪乃さんの姿は見当たらない。 首を捻って、クルッと一周回ると、 「あっ」 表札の下に座り込んでる、その人を見つけた。 「……」 「何してるんですか?」 いや、……うん。 ちょこんと座ってるその姿はすっごくかわいいんですけどね。 その意図がまったくわからないんですよ。 「もしかして、一之瀬君に聞いた?」 「ええ、」 「なんだ、びっくりさせようと思ったのに」 十分びっくりしましたけど、そう言っても雪乃さんは苦笑するだけだった。 そして思わずほっと安堵の溜息。 部屋に来たのがいっちー一人で良かった。 雪乃さんにあんな場面見られたら、それなりに変な誤解をされそうだ。 「で、どうしたんですか」 「迎えに来たの」 立ち上がった雪乃さんは壁に凭れていた背中をぱぱっと手で掃った。 目があって、ニコッと笑いながらそう言われれば、もう何も言えなくなる。 ぎゅっと心を掴まれて、やっぱり苦しくなった。 きっと、何回会ってもこの感覚は変わらないんだろうな。 「ハルが二人の邪魔しそうだったし」 「……そ、そんな無粋な人間じゃありませんよ」 「どーだろーねー」 疑いの込められた視線から逃れようと雪乃さんから目を逸らす。 「それに、ユウさんのところ行くまで暇だったし」 「……暇潰しですかっ」 逸らして居た顔をすぐに雪乃さんへ向ける。 するとふふっと笑って、ゆっくり歩き出した雪乃さん。 このまま、ユウさんのところへ行くんだろうか。 考えてみると、雪乃さんとあったのは一週間ぶりぐらいだ。 ---------------------------------------------------------------------- 少し強い風が通り抜けていく。 長くなった前髪が流れて、服が靡いた。 ちらっと隣を見ると、雪乃さんが風で乱れた髪を手櫛で抑えて、前髪を耳に掛ける。 そんな些細な仕草でさえ、あたしの目を捕らえて離さない。 「……雪乃、さん?」 少しだけ困惑しながら、声を掛ける。 「ん?」と何とも短い返事が返ってくる様子から、大して何にも考えずに歩いてるんだろうか? 「あの、ユウさんの店向こうですけど」 大通りに出てから、雪乃さんはふらーっと店に行く道とは違う方向へ足を向けていた。 通り抜ける小道でもあるのかな、っと思ったけど。 そんな様子は一切なく、黙々と歩いている。 「ちょっと、寄り道して行こうか」 「寄り道、ですか」 「うん、時間だってまだ早いし」 そう言われて、ポケットの中に突っ込んでいた携帯を確認した。 時刻はまだお昼過ぎと言っても良い時間帯だ。 ユウさんのところに行くのは予定でも夕方過ぎだから、大分早い時間。 これじゃ日も高いはずだ。 「ハル、こっち」 手を引かれて雪乃さんの後ろを着いていく。 細い小道を通り抜けていた。 雪乃さんの後ろを黙って歩いて行く。 すると、前方に遊具の設置してある公園が見えてきた。 ブランコ、ジャングルジム、シーソー。 そんな遊び場に足を踏み入れると、当たり前のように懐かしさを感じた。 一番近くにあったブランコに雪乃さんは座る。 子供用だからか、異様に低い。 「覚えてる?」 そう聞かれて、あまり頭で考えず普通に首を傾げていた。 何のことだか。 傾げ終わったところで、気づいた。 近くに今は点灯していない街灯。あm少し小走りで歩いて、細い道から入ってきた方と逆の入り口からブランコを眺めると、 「あっ」 あの時は暗かったから、すぐにはわからなかった。 だけど、やっぱりここはあの公園で。 あの、雪乃さんを好きだと確信した、あの夜の。 ユウさんのお店からじゃなくても、あんな抜け道があったのか。 「うちに来る時通ってたでしょ?」 「いや、いつも違う道通ってたんで」 雪乃さんのうちに勉強を教えて貰いに行っていた頃も、公園沿いの道は通っていなかった。 結構細い道だし、街灯も少ないから夜は危ない。 それに、いつも早く雪乃さんのところへ行きたくて、全力で自転車を漕ぎたかったから。 「そっか」 「にしても、良くあんな抜け道みたいなところ知ってましたね」 「うん、此間仕事帰りに行って見たんだよね。そしたらここについた」 「へー」 さっき通ってきた道を通ろうとする勇気が凄いよ。 しかもどこに繋がっているのかわかんないのに。 夜は暗いだろうし……って、あれ? 「ちょ、夜通ってたんですか!」 「うん」 「危ないですよ!」 「そーかな」 この期に及んで雪乃さんは首を傾げている。 そういえば安藤さんが言ってたっけ。 雪乃さんは抜けてるとこもあるって。 あの言葉の意味を、今物凄く実感している。 「そうですよ!ちょっとは自覚してくださいって!」 「何を?」 「……えっ」 興奮して喚いていたからか、いつの間にかブランコで小さく揺れる雪乃さんの前まで来ていた。 言えないよ。言えないよ、綺麗なんだから自覚しろ、なんて。 「よ、夜にあんな道通るのは危ないってことです!」 「ふーん」 また向けられた疑いの目。 この目で見られるのは苦手だ。 結局、想った事を全部吐いてしまいそうで。 それだけは避けるべく、ブランコの隣にあったベンチに座った。 それから、続く沈黙。 キコキコとブランコの小さく揺れる音が聞こえてくる。 ベンチに座ったまま、横目で雪乃さんを見ていた。 何か話があったから寄り道した筈。 「ハル、聞いた?」 沈黙を破ったのは雪乃さんの声。 問いかけられるような言葉に、「何が?」と表情だけで返した。 「一之瀬君と菜々世ちゃんのこと」 「あー…婚約のことですか?」 「あれ、知ってたんだ」 「さっき雅から聞きましたけど、雪乃さんこそ何で知ってるんですか」 雅の親友であるあたしでさえ、今日知ったのに。 どうして雪乃さんも知っているんだろう。 「菜々世ちゃんの家に行く途中に一之瀬君から聞いた」 「ああ、」 「二人はお似合いだよね」 「そうですね」 見た目は確かに美男美女ではある。だけど、だからお似合いってわけではなくて。 二人を見てると、特にベタベタしてる様子もないし。 邪魔しちゃいけない、とか。 そんな気を遣わなければいけない雰囲気でもない。 まあ、さっきのは別だけど。 何ていうか、ちゃんと分かり合えてるって言うんだろうか。 二人の間には、婚約とかそういった明確な間柄が無くたって絶対に無くならないものがある。 だから、見ていて安心する。 遠距離になっても大丈夫だって思う。 だからこそ、時に凄く羨ましくなる。 あんな風に、何気ない時間を一緒に共有出きる人が居ることが。 「でも、ハルは寂しいかなって思ったんだけど」 ブランコに揺られたまま、雪乃さんは空を見ていた。 あたしも、大好きな空。 「寂しい、ですか」 「だって、大好きな菜々世ちゃんがいずれ結婚だよ」 それは、そうかもしれない。 『おめでとう』の前に、その感情がわいたのも事実だ。 「そうですね。でも、雅が幸せになるんですよ。だから、あたしも嬉しいんです」 雅が遠くに行っても、いっちーと結婚しても。 あたしたちの関係は変わらないから。 雅といっちーの関係とは違う。 固い絆があるんだ。 「そっかーなんか、いいなぁ」 雪乃さんが小さな声でそう言いながら、ブランコから降りた。 昼過ぎの誰も居ない公園。 懐かしさも感じさせるそこで、雪乃さんとじっと見詰め合っていた。 数秒が、とても長く感じる。 「私ね、結婚願望って元々なかったんだよね」 「え?」 「だから、同世代の子はみんな腰掛で仕事してたけど。私は違うって、そう思ってた」 突然自分のことを話し始めた雪乃さんは、ブランコの鎖から手を離して、ポールに手を掛けた。 その目はあたしを見ていない。 どこか遠くを見つめていて、綺麗な空を映していた。 「入社してすぐは馬鹿みたいに仕事ばっかりしてたし、女だからって、評価が下がる事が嫌だったの」 雪乃さんは、あまり自分のことを話さない。 特に仕事関係の話は。 それは年齢差を気遣ってくれていたのかもしれないけど、もっと別の理由があったのかもしれない。 「だから、結婚なんて自分には縁の無いものだって思ってた」 「でも、周りが段々し始めちゃうとね、どこかで私もいつかはって。そう思ってたの」 何を伝えたいのか、それを考える前に。 雪乃さんの口から『結婚』の言葉が出るたびに、心臓を強く打たれる感覚に襲われていた。 怖い、きっとそれが今湧きあがっている感情だ。 ゆっくりゆっくり。 決して軽い足取りじゃなかったけれど、雪乃さんがあたしの目の前まで来た時にはもう顔も上げられなくなっていた。 「ハル、良い?この前の返事して」 いつかはこうやって、返事をくれる日が来るとは思っていた。 でも、それはもっとずっと先のことだと思っていて。 半年とか一年とか、そんな先の未来を思っていたから心の準備何て全くと言っていいほど出来てない。 だから、怖い。 これで終わるんだ。 ここで振られたら、これ以上縋ることも出来ない。 俯いたまま何も言わないあたしの頭に、そっと暖かい手が触れた。 伝わるのは雪乃さんの体温で、それが一層下を向かせた。 だって、元旦の日から雪乃さんは全くと言って言い程、こんな風に触れてはくれなかった。 さり気なく手を引かれたり、肩が触れたり、そんな些細なことはあったけれど。 前みたいに、頭を撫でてくれたり、手を握ったり、そんなこと一切なかった。 それは雪乃さんなりのけじめのつけ方だってわかるけど。 言い様のない寂しさを抱えていたことには、変わりない。 だから、久しぶりに感じた感触に嬉しさを感じたのに。 これで最後かもしれない、って思うと、やっぱり顔を上げられない。 「顔、上げて」 雪乃さんの静かな声が頭上から降ってくる。 ゆっくり顔を上げると、微笑む雪乃さんと目があった。 どうして、こんな綺麗に笑えるんだろう。 「やだ、聞きたくないです……」 我ながら子供だと思う。 こんな時に駄々捏ねるなんて。 それでも、嫌なものは嫌なんだ。 「ずっと、こんな曖昧な関係でいいの?」 追い討ちを掛ける様に、雪乃さんの柔らかい声が聞こえる。 それを、嫌だとはいえない。 振られるぐらいなら、と情けないことを考えてしまう。 「私は嫌」 ハッキリとした主張に、肩が震えた。 触れていた雪乃さんの手が、柔らかく髪を撫でる。 「だって、こんな風にハルに触れないでしょ」 雪乃さんが何を言ったのか、一瞬理解できなくて。 もう一度、ゆっくり言葉を頭の中で反復させる。 「ハルが聞きたくないならしょうがないか」 手を離してくるっと背を向けた雪乃さん。 あたしはベンチに座ったまま、未だに理解できないで居た。 触れない、触りたいってこと? あたしを?雪乃さんが? バラバラに転がる疑問は一本の線になって―― 「ま、待って雪乃さんっ!!」 足を踏み出して、歩き出そうとする雪乃さん。 精一杯引きとめようと立ち上がると、勢いあまって目の前の体をぎゅっと抱きしめてしまった。 女性らしい柔らかで、華奢な体。 腕の中いっぱいに広がる体温。 「聞きたくないんでしょ?」 少しだけ挑発的な声色が腕の中から聞こえてくる。 雪乃さんには見えないのに、必死で違うと頭を振った。 「聞きたいです、聞かせてください」 ほんの少し答えが見えただけ。 それなのに、急に目が冴えたように視界の色が変わる。 心臓が痛いほど高鳴って、全力疾走した後のように脈が中々落ち着ついてくれない。 雪乃さんがあんなこと言うから、腕の中で大人しいからいけないんだ。 「ごめん、ハル。ちょっと苦しい」 緊張して変に力が入っていたようで、雪乃さんが腕の中で身を捩る。 渋々腕を離すと、こちらに向き直り、強い瞳と視線が絡まった。 「2ヶ月いろいろ考えたの。自分のこと、それからハルとのこと」 真っ直ぐな視線は外されることなく、あたしを見ていた。 それに答えるように、あたしも雪乃さんをじっと見据える。 「でも結局ね、考えれば考えるほど思い知らされて」 雪乃さんの手が、あたしの手に伸びる。 袖を掴むと、一歩、近づいた。 「ハルのこと、好きだって」 何も言えなかったのは、驚いたから。あたしと、一緒だと思ったから。 その言葉も、同じ様に感じていたことも全部嬉しかった。 きゅっと袖を握りめる雪乃さんの手をとって、ゆっくり引き寄せた。 もう、春が訪れていた。 強い風があたしと雪乃さんの間を吹き抜けていく。 靡く前髪に、そっと雪乃さんが触れた。 「結婚とか子供とか、そういうこと全部ひっくるめてどうでもいいって思ったの。ハルと一緒に居られるなら」 さっきまで苦しいぐらい心臓が煩かったはずなのに。 今のあたしの心中は、びっくりするぐらい穏やかだった。 冷静とはまた違う。 体中を雪乃さんがくれた言葉が駆け抜けていく。 「あたしで、良いんですか?」 そんなの愚問だって、雪乃さんに聞かれた時思ったのに。 やっぱり不安には勝てなくて、尋ねてしまった。 「ハルじゃないと駄目だって、わかってるでしょ」 そんな言い方、ずるい。 そう思うのに、胸の真ん中が暖かくなって嬉しくて。 得体の知れないものがぐっとこみ上げてくる。 酷く、熱くて、ぎゅっと目に力を入れた。 「あ、泣く?」 「な、泣きません!」 「そう?泣きそうな顔してるよ」 「うっ嬉しいだけです」 あたしは、いつだって男にも負けないぐらい強く居たいのに。 雪乃さんの前じゃいつも駄目駄目だ。 良いとこなんて、全然見せられない。 雪乃さんの前じゃ、自分を作ったり出来ないんだ。 「嬉しいんだ」 「そりゃ、嬉しいですよ」 顔を赤くしながらもそう言うと、雪乃さんは悪戯に笑いながら覗き込んできた。 少し前にこんな場面を見たことがある。デジャヴ? 「じゃーハグしてキスしようか?」 「……なっ」 ある程度予想は出来ていたとは言え、漏れた声はしょうがない。 これぐらいで止められただけ、きっとマシだ。 目の前にはその時同様、口許を上げて小さく笑う雪乃さん。 もう、どうにかしてほしい。 「そ、そんなこと言うと本当にしますよ!?」 「良いよ?」 「……」 小首を傾げて平然と言うのは止めて欲しい。 こっちが恥ずかしくなる。そう思う前に、全身の熱が急上昇だ。 「かわいいなー」 「……ほんっと、からかうのやめて下さい」 「んー無理かな」 「あーもう、」 楽しそうな笑い声を上げて、雪乃さんはベンチに腰を下ろす。 パタパタと手で顔を仰ぎながら、隣に座り込んだ。 沈黙が続く間にどうにか熱が引いていく。 深呼吸深呼吸、よし、もう一度。 「ハル」 袖を引っ張られるから体が傾きながら、雪乃さんの方を向いた。 返事の変わりに首を傾げても、反応はない。 少しだけ強い風が吹く。 大分日が沈み始めて空の色が変わり始めていた。 雪乃さんは何も言わずにあたしを見ている。 くるっとした大きな瞳には、惚けた顔したあたしが居る。 何を言いたいのか、雪乃さんの言葉を待っていた。 黙ったまま、見詰め合うその時間が、やけに長く感じる。 「……ばか」 「へっ?」 どれぐらいの時間だっただろうか。 口を開いた雪乃さんからは、そんな呆れた言葉だけがあたしに投げられた。 その後に、駄目押しの盛大な溜息。 今の馬鹿は本気で呆れた口調だったような気がしないでもない。 何故、そんなこと言われないといけないのか。 回転の悪い頭で必死に考えていると、雪乃さんは立ち上がると軽い足取りで道路の方へ歩いて行ってしまう。 ちょ、ちょっと待ってくださいよ。 「雪乃さんっ!」 ベンチから立ち上がってそう叫ぶと、振り向いてくれる。 遠目から見る姿もとっても綺麗で。 微笑むと一層儚げで、キラキラしていた。 「今のは、キスするところでしょ」 「……そっそうなんですか」 「そうなの」 確かに良い雰囲気ではあった気がする。 何やってるんだ、チャンスだったのに。 ガックリと肩を落とすと自分の幼稚さと不甲斐なさでいっぱいになった。 こんなあたしが、雪乃さんの隣に居ていいんだろうか。 あんな素敵な人の傍に居て、笑っているなんて。 そんな不安な考えが頭を過ぎる。 「ハルー」 間延びした声が聞こえて、顔を上げる。 優しい笑みを携えた雪乃さんが、あたしを呼んでいた。 不釣合い、なんて言葉最初からわかっていたけど。 「ほら、おいで」 手を差し伸べてくれる雪乃さん。 その手を取っていいのはあたしだけで、その何よりも綺麗な笑顔を向けて貰えるのもあたしだけ。 雪乃さんにとってあたしは特別。 あたしにとっても、雪乃さんは特別なんだ。 そう思うと、不安なんかどっかへ行ってしまった。 周りの目とかそんなもの気にしてもしょうがない。 大事なのは、自分たちの気持ちだから。 そう考えられるようになったあたしは、雪乃さんと出会う前より少しは成長出来たのかもしれない。 雪乃さんを好きになって、雪乃さんを想うことで、辛いことも悲しいことも嬉しいことだって。 たくさんあった分だけ、大人になれた気がする。 「雪乃さん」 速足で駆け寄って、白さの目立つ細い手を握り締めた。 「そろそろユウさんのところ行こうか」 「はい」 繋いだ手から、お互いの気持ちが流れていく。 これからもきっと、いろんなことがあるんだろう。 女同士だから、年の差があるから。 逃れられない現実にぶつかることだって。 それでも、ずっと一緒に歩きたい。 そんな気持ち、雪乃さんにも伝わってくれたらいいな。 これからもずっとこうやって手を繋いで。 見上げた大好きな空は、もう夕焼け空のオレンジ色だった。
完 面白かったらクリックしてね♪ Back PC版|携帯版