■鎮雛  
□葉 2009/04/15(Wed)


――かく浅ましき殺生の家に生まれ、 明け暮れ物の命を奪う悲しさよ 純白の半紙の上に青みがかった刀身が現れた時、ただでさえ静まり返った座敷の空気が止まった。 外気に触れた刃は冷たい硬質の光をちらりと放ち、僅かに青みがかったそれは波間の魚の鱗を思わせる。 ひんやりと静かで、どこか厳しい‥それは今、刀身に目を落とし検分する鑑定人の佇まいにも通じていた。 「‥どないですか?」 傍らから膝を進める年配の同業者を見る事もせず、恐らくは私と同年くらいの女鑑定人は呟いた。 「業物ですね。村井さんのお見立て通り、江戸末期の作でしょう」 「ほな、やっぱり‥?」 頼りなげな声音に端で見守る私達も身をすくませる。しかし女鑑定人は音もなく刀身を鞘に納め、畳にそっと下ろして首を振った。 「確かに浅右衛門のお墨付きはありますが、四つ胴や六つ胴ではありません」 「あの‥」 私は恐る恐る口を挟んだ。 「四つ胴とか六つ胴って‥何ですか?」 「人を二人重ねて断ち斬れば四つ、三人重ねて斬れば六つになります」 女鑑定人は淡々と答えた。 「刀の斬れ味を保証するために、実際に試し斬りをした刀につく呼び名です‥  だから、売買の際に由緒書きには必ず記載されます。価格に直結する付加価値ですから」 素人には腰が引けそうな説明に私はたじろぐが、隣の庵主さんは心からほっとしたように口を開いた。 「ほな‥人を斬った刀ではないゆうことですか? ほんにもうそれだけが気に病めて‥」 女鑑定人はいくらか和らいだ口調でそれに答えた。 「浅右衛門が武家や富裕層に推薦した数ある刀の一つ、でしょう。刀工は関の世古春俊。収集家なら垂涎ものの一財産ですよ」 「せやから、あんたはんにわざわざ来てもろたんですわ」 土地の古美術商がしきりに額の汗を拭う。 「こちらさんが日本刀もようさん持ってはるのは承知どしたけど、  春俊の業物で由緒書きは浅右衛門、しかもこちらに来たのが明治末‥これは誰かて、まさかと思いますわ」 女鑑定人は同業者を見てちらりと笑った。どうだか、と言いたげな笑いだった。 「首斬り浅右衛門、それも最後の浅右衛門使用の刀なら、刀剣マニアでなくても高値をつける人はいるでしょうしね」 ‥この国の死刑が明治の初めまでは斬首であった事や、それに従事した家系があった事も、 長らく生家を離れて暮らし、これからその家を継ぐことになる私には無縁の話だった。 (携帯)
■鎮雛・2 いやその時の私には、学ばねばならない事や覚えねばならない事が山積みだった。 そのうちの一つがあらゆる物の相続の手続きであり、作業だった。 「‥村井はん、なんやガッカリして帰られましたなぁ」 庵主さん――長い間この屋敷の管理をしてくれていた近くの禅寺の住職――は、長閑にお茶をすすりながら呟いた。 「物騒な刀やったら責任持って引き受けるて言っといやしたけど、気ィ抜けはったんですやろか‥」 「買い取る気満々だったんでしょう」 日の当たる縁側で、女鑑定人はいくらか寛いでいるように見えた。 「けど、こちらで気にされていたような忌まわしい刀ではないですし、処分するのも勿体無いですし」 「はぁ‥」 両手で湯呑みを包みこみ、庵主さんはほうっと息を吐いた。 「何やら拍子抜けしてしまいましたわ、お蔵の中もいっさいがっさい目録作ってくれはる筈やったのに‥」 「私で宜しければ、代わりに務めさせて頂きますが」 苦笑い混じりに女鑑定人が言う。 庵主さんと懇意の古美術商の去り際を見送った私には、既にその流れは見えていた。 「村井氏もしっかりした鑑定人ですが、どうも商人テイストが強くて」 庵主さんが帰られた後、書画骨董を納めた蔵で女鑑定人が短くぼやいた。 「商人色が強いと良い物はとりあえずキープしたくなる。庵主さんには申し訳ないですが、商人色の強い鑑定人は蔵破りと同じですよ」 「いきなり身代傾ける‥かもしれなかったんでしょうか?」 蔵の中に何があるかも分からない新米当主の私は心細く呟いた。 「いきなり田舎の旧家を継がなきゃならなくなった方にはよくある事ですよ」 女鑑定人の答えは簡潔で、ある意味無慈悲だった。 書画骨董を全て検分して目録を作るには少し日数がかかるが良いか、と彼女は尋ねた。お願いしますと答えた後、私はふと思い出して聞いてみた。 「さっきの、あの刀――もし最後の『首斬り浅右衛門』が使ったものなら高値がつく、と言われましたよね? 何故でしょうか‥」 「最後に斬首刑された囚人が有名なんです」 淡々とした声が返ってきた。 「明治の毒婦・高橋お伝――刑場で愛人に逢わせろと泣き叫び暴れ、  名人の浅右衛門もかなり手こずって首を落としたとか‥  多淫な女として下腹部を切り取られ標本にされ、戦災で消失するまで保管されていたそうです」 薄暗い蔵の中で、私は何となく鳥肌が立つ思いがした。 そこで初めて、女鑑定人が私の手元を見ている事に気がついた。
■鎮雛・3 (気付かれたのだろうか‥) 夜になり、誰もいなくなった屋敷で一人仏間に座り、私はブラウスの左の袖をまくった。 傷跡はくっきりと残っている。 それまでの生活を全て捨ててきたつもりでも、これだけは精算出来なかった。 私はどこまでも要領が悪く、不器用だ‥ でなければそれまでの自分を捨てなければならぬ羽目には陥らず、 こうなるにせよ見る度に過去を振り返らざるを得ない傷など作らずに済んだ筈だ。 私はこの家で生まれて間もなく遠縁の親戚の養女となり、三十路手前の今まで生家を訪れる事もなかった。 生家はこの土地ではかなり裕福で、広大な土地と山林と田畑を持ち、何よりも肉牛や皮革の商いで栄えていた。 未だに賤業と蔑まれる向きのある家業は祖父母の代で途絶えたが、 何かと差別がつきまとう家系を忌んだ母は生まれたばかりの私を手放し、ついに再会する事もなく昨年他界した。 「これは祥子はん‥あんたはんのお母さんの意には添わん事とは思いますんえ」 母の訃報を伝えてきたのは庵主さん――俊江尼だった。 「本当に、最後の最後まで、祥子はんはあんたはんと今生の別れをするのも拒み通しましたんや。羽希には羽希の人生がある、ゆうて言い張られて‥」 自分の生い立ちは聞かされて育ったが、この時は顔も知らない母はまだどこかの知らない人で、今ひとつピンと来なかった。 「あんたはんもお嫁入り前の大事な時やとお聞きして、これはお知らせするべき話ではないとも思うたんですが‥  お弔いも済んでもうてからで恐縮なんですが‥お母はんのお位牌だけにでも、会って貰えませんでしょうか‥」 それからひと月も経たずして、縁談は消えました、跡を継ぎますと現れた私に俊江尼は仰天し、 自分が余計な口出しをしたせいかと未だに気に病んでいるのがよく分かる。 けれどもそれは彼女のせいでなく、この手首の傷を作るきっかけになった女のせいとも思われず、詰まる所は自分の身から出た錆。 そうとしか思えなかった。 養父母は反対しなかった。 一人娘として大切に育ててくれた事への感謝と、 彼らの理解を超えたアクシデントで子育ての総仕上げをぶち壊しにしてしまった事への申し訳なさはまだ生々しい。 お前の好きなようにして、いつでも戻ってくればいいと言ってくれた。 そうやって初めて訪れた生家で、初めて足を踏み入れたこの仏間で、私は泣いた。 古びた掛軸のかかった床の間と、仏壇があるだけの座敷だった。
■鎮雛・4 母をはじめとする一族の遺影さえもそこにはなかった。 しかし足を踏み入れた時、優しい気配を確かに感じた。 (おかえり) 霊感じみたものは毛ほどもない。けれども姿も見せず声もなく、 畳に膝をついた私の周りには確かに誰かがおり、私がそこにいるのを喜んでくれていた。 (おかえり) (よく帰って来たね) (辛かったね) 手首に傷を作ってから、養父母からさえ得られなかった受容と慰撫だった。 畳に頭をつけて、私は声をあげて泣いた。 自分はこの家の者であり、帰って来た。帰るべき場所があったのだと初めて思った。 ――古萩 三代秋芳 寛文時代作 ――古萩 筆洗茶碗 二代雅国 元禄時代作 ――書机 黒檀 青貝入り‥ 日がな一日女鑑定人は蔵で過ごし、収蔵品を改めては記録を取り続けている。 埃っぽい蔵のこと、きちんとしたスーツは最初の日だけで、翌日からはジーンズと木綿のシャツというラフな姿になっていた。 どこか冷ややかで近寄り難い印象はそのままだが、すらりとした長身とバンダナ映えする短い髪型のせいか少年めいて見える。 真弓とは正反対のタイプだ。 同じように理知的で他人を寄せつけにくい雰囲気だが、真弓からはむせ返るほどの「女」の匂いが漂っていた‥ 社内では厳しい先輩だった。嫌われているとさえ思っていた。 なのに何故、三年前のあの晩に真弓のマンションに行ったのか。 ひどく酔っていたとはいえ、以前からずっと狙っていたと言う、その視線や態度に気づけなかったのか。 「‥誘ったのはあなたよ」 ベッドに転がした私の手首をスカーフで柵に縛りつけ、服の上から全身を撫で回しつつ真弓は笑った。 「やめて―――やめて下さい‥」 「そうやっていい子ぶっても無駄よ。ふふっ、本当は苛めて欲しいんでしょ?」 馬乗りになられて動けないまま、ハサミで服を切り裂かれ、冷たい刃先で乳房を撫でられた。 「いやらしいおっぱいね‥切っちゃおうかしら」 「嫌っ‥‥!」 芯からの恐ろしさと、刃先で乳首を突つかれる感覚に思わず叫ぶ。 真弓は嘲り笑いと共に、刃先を乳首から首筋、首筋から頬に滑らせた。 「だったら素直になりなさい‥私はいやらしい女です、真弓お姉様に苛めて欲しくてたまりませんって言ってごらん」 「そんな事‥言えな―――あっ!」 容赦のない平手打ち、それに続く指と舌での乳首責めが私を壊した。 「いや‥ああ‥わた‥私は‥」 「聞こえないわよ、もっとはっきり!」
■鎮雛・5 ‥その時はただ、ひたすらに時間が過ぎる事だけを願った。 「我慢すればいいと思ってるんでしょう?」 何もかもお見通しだと真弓は笑い、最後の一枚のショーツに両手をかけてわざとゆっくりと引き下ろした。 「そういう所が狡いのよねぇ、あなたって‥でも、身体はとっても素直ないい子よ?」 「いや‥嫌ぁ‥‥」 押し広げられた脚の間を指が這い、更に奥を探られ掻き分けられる。 「やめて‥本当にもう‥やめて下さい‥いや‥」 「こんなになってて、まだ意地を張るのかしら?」 真弓が指を動かすと、粘り気のある濁った音が大きく響く―――自分の意志に反して後から後から溢れ出し、お尻の狭間まで伝い流れる。 「本当にいけない子‥可愛いお豆がぴくぴくしてるわ。さあ、自分で弄って見せてごらん」 「嫌‥いやぁ‥‥ああ‥」 手首の戒めを解かれ、両手をそこに導かれる。 私はせめてと身体をうつ伏せに逃れさせ、激しく指を動かした。 「あっ‥ああ‥はああ‥」 「もっとお尻を上げなさい、見えないでしょ?」 言われるままに四つん這いになり、秘部を擦り上げる。 中途半端に浮いた乳房の先端がシーツをかすめ、出すまいとしても声がほとばしる。 「‥あっ‥ああっ‥んんっ‥!」 「まだまだよ」 不意に後ろから手を払われ、背中に覆い被さられる。 真弓は背後から腕を回して乳房を掴み、指先で乳首を撫で回す。 首筋を強く吸い、無理に振り向かせて唇を吸い、服を脱ぎ捨てた腰をくねらせ打ちつけた。 「ああ‥なんていやらしい子なの‥乳首もお豆も、びんびんよ‥ああ‥いい‥」 「んあ‥はああ‥」 物を考える力はなかった。私もいつしか真弓の動きに合わせて身体をくねらせ、進んで愛撫を受け入れた。 顔に跨る真弓の秘部に舌で触れ、促されるままに乳首と乳首を摩擦して、硬く勃起した真弓の乳首で秘部を擦られ泣き叫んだ。 「あなたはもう、私のモノよ」 どれだけ時間が経ったか分からない。真弓が双頭の張り型を取り出した時には、私は自分から大きく脚を開いて懇願するようになっていた。 「きて―――お願い‥来て下さい‥」 「それでいいのよ」 赤い唇を艶然と開いて息を吸い、真弓は己と私を繋ぐ楔を深々と打ち込んだ。 本当の衝撃は、狂乱の夜が明けた後だった。 ただでさえ茫然自失した私に、真弓は一部始終をライブカメラで撮った映像を見せつけた。 「言ったでしょ? あなたは私のモノだって」 唾液やら体液にまみれた私の身体をペットのように撫で、
■鎮雛・6 満ち足りた声で宣告した。 「私から逃げるのは許さないわよ。あなたは私の玩具。分かったわね?」 ‥それから三年間、私は真弓の玩具であり続けた。 真弓は時と場所を選ばなかった。 社内でさえ興が募ればトイレや給湯室で私を求め、恐れ怯える私を見て愉しんだ。 残業と称して人気のないオフィスの机の上で犯された事もある。 同じ嗜好の女性が集まるバーに連れて行かれて他の女性に差し出されたり、真弓と他の女性との歓戯を見るのを強いられた事もある。 人数も定かでない乱交の渦に投げ込まれ、足腰立たなくなった事さえも。 私は次第に憔悴し、それ以上に自分の浅ましさに絶望しきった。 真弓は気まぐれに私を苛み、時には殴ったり罵倒もしたが、機嫌の良い時や予想もしない時にはひどく優しく私に接した。 社内では完璧に振る舞うキャリアの裏側を知るにつけ、この人はまともではない、どこかが壊れていると理解したが、その壊れた部分に私は慣れた。 慣れただけでなく、惹きつけられた。 「あなただけよ、私の本当の顔を知ってるのは」 何かにつけ、真弓は私にそう言った。 振り返ればそれは気に入りの玩具を自分に縛りつけておく為の呪文に過ぎないが、当時の私には何か特別な言葉に聞こえていた。 それが私の愚かさであり、甘さだった。 「―――ちょっと‥」 不意に間近に体温を感じ、私は我に返った。 「ちょっと失礼―――煙草、吸ってきます」 脇をすり抜けて蔵を出て行く後ろ姿をぼんやり見送り、私は何となく赤面した。 ほんの少し乱れのある、慌てた様子を見た気がした。 「だから―――」 蔵を出てすぐに、苛立った声が聞こえた。 「説明書通りにやればいいんだって。端子なんて間違えてりゃ映らんて―――映像出力? そんなもんテレビの説明書に書いてあるでしょ」 そこで私が見ているのに気付くと、女鑑定人は 「仕事中だから切るよ」 と言い捨て携帯を畳んだ。 「‥ご家族ですか?」 子供がいるようには見えないが。 「友人です」 いささかバツが悪そうに彼女は答えた。 「いい年してPS3買って、機械音痴なもんで昨日からあれこれ‥全くもう」 「女の方?」 「ええ、まあ‥」 ちょっと何かに思い当たった表情で彼女は私から視線を外し、煙草を取り出して火をつけた。 蔵は広い平屋の屋敷の中庭にあり、周囲には品よく整えられた庭木が花を咲かせている。 枝垂桜や桃の花、雪柳やレンギョウが日差しの中で長閑に美しい。
■鎮雛・7 「‥供養塔がありますね」 花木の植えられた庭の一角を指差し、女鑑定人が呟いた。 確かに子供の背丈ほどの石碑がそこにある。 「余計な事を言いますが、代々供養されてきた物だと思います。仏事の折には、ご先祖様と同様にお世話された方がいいですよ」 私は引き込まれて尋ねた。 「あれは、動物の‥?」 「家畜や競争馬、動物の生死に関わる施設には、普通にあります」 屠殺場、とは彼女は言わなかった。けれども意味は通じた。 「浅右衛門の家系も、刑死者への供養には金を惜しみませんでした」 煙草の煙をくゆらせながら、彼女は淡々と言った。 「今の目で見れば気味の悪い話ですが、歴代の山田浅右衛門は公儀の斬首役人や刀剣売買の斡旋だけでなく、 刑死体の売買の権利を持っていました―――医師の解剖材料としての死体や、漢方薬としての臓器の売買ができる特権です。 これは斬首刑が廃止される少し前に取り消されましたが、山田浅右衛門の何よりの収入源は死体だったんです」 私は唖然として彼女を見つめた。 「人間の死体から、薬を‥?」 「迷信や民間信仰の産物ですが、今でも旧家の蔵や屋根裏から出てくる事がありますよ。霊薬として、高価で売り買いされていました」  ―――山田浅右衛門とは当主の襲名する名乗り。最後の山田浅右衛門吉亮は八代目、斬首刑廃止後は文官となる―――と彼女は続けた。 「浅右衛門を襲名するのは血脈でなく、一刀で首を落とす技量でした‥  そして幕府の役人ではあるけれど、旗本などといった武士の位はない。  公的な地位はあくまでも浪人でした」 「死刑執行人‥だからですか?」 彼女は携帯灰皿に灰を落とし、首を傾げた。 「それには諸説あります。死穢のつきまとう家業ゆえにともありますし、武家になると副収入源を得られなくなるからともね。 それでも死者への礼儀をわきまえた家系だったと思いますよ。三代目以降の当主は俳道を学び、俳号も持っていました。 刑死する囚人の辞世の句を理解するために、です」 雪柳が風に揺れている。枝垂桜がはらりと花弁を散らす‥ 「‥同じようなものを背負わねばならないという事でしょうか」 「難しく考える必要はないと思います」 彼女の声は、穏やかだった。 「業なぞ誰でも背負っています。  自分で殺して捌かなくても肉を食べて生きています。  自分で殺さない者が清らかである筈がない。そう思えば楽ですよ」 「‥楽に考えてもいいのでしょうか」 不覚にも、声が上ずった。
■鎮雛・8 彼女の答えは簡潔だった。 「どのみち、地獄で生きていますから」 ―――誰でもね、と付け足し彼女は立ち上がる。 「ほら、庵主さんがお見えですよ」 促されるままに頭を巡らせる。風呂敷包みを抱えた俊江尼が門扉をくぐり、ゆっくり入って来る所だった。 茶菓を揃えて座敷に落ち着くと、俊江尼は持参した風呂敷包みを私に向かって押し出した。 「祥子はんが入院される前にお預かりした物どす」 私はとっさに骨壷を連想した。包みをほどくとそれくらいの大きさの、円筒形の箱が現れた。 「吉崎はんもお呼びしとくれやす―――あんたはん次第では、遺産相続の品目に入れて貰わんといかんかも‥」 妙に改まった口調に内心うろたえ、私は彼女を呼びに走った―――彼女の名は、吉崎沙耶といった。 「‥お寺に納めた物を‥?」 彼女―――沙耶は怪訝そうに眉をひそめ、しばし考え込んでから意を決したように文机から身を起こした。 「封印がしてありますが、破ってもよろしいですか?」 「お経はあげて来ましたよって、どうぞ」 沙耶の手が箱に貼られた懐紙を剥がし、蓋を開いた。 「これは‥」 横から覗き込む私の口から溜め息が漏れる。 「お雛さま‥ですか」 沙耶が両手でゆっくりと取り出し、畳に置いたのは一体の雛人形だった。 素人の私にもとても古くて貴重な物だとはっきり分かる、古色蒼然としたお雛様だ。 顔や手がやや黄ばみ衣装も色あせているが冠や扇の細工が精緻かつ優美で、美術館や博物館こそが相応しいような品だった。 「江戸時代より古い作―――それも職人指名の特注品のようにお見受けしますが‥」 沙耶は探るように俊江尼を見た。 「この一体だけですか? 対の男雛や官女、楽人や随身は?」 「昔はあったと聞いとりますが‥」 俊江尼は歯切れの悪い口調で首を振る。 「こちらのお家に持ち込まれた時は男雛もお囃子衆も、そりゃあ見事なお道具一式もお揃いやったそうですが、  昭和の初めにこの一帯に蔵破りが出ましてな‥その時にやられたそうどす」 ただ、と俊江尼は続けた。 「私、このお家は古くからの檀家やし、祥子はんとも同い年で娘時分から親しゅうしてたんどすけど、  こちらのお家でお雛様を出されたの、一度も見た事おへんのや‥」 「‥‥一度も?」 思わず口を開く私に、俊江尼は頷いた。 「ただの一度も。先代や先々代は風流好みで、お茶会や句会はよう開かはった記憶があるんやけど、お雛祭りは全く記憶にありませんのや」
■鎮雛・9 「母からは、何か‥」 「何も―――ただ、納めてくれと‥」 俊江尼は悄然と肩を落とした。 「祥子はんとは付き合いも長うて、仲良しやったけど‥なんぼ独り身になったかて、  こんな綺麗なお雛様、いっぺんも出さずに過ごしたのはどんな気持ちやったかと‥」 私は畳に鎮座する雛人形に目を落とし、切れ長の目元や微かに紅が残る唇をじっと見つめた。 人形は幽かに微笑んでいる。見つめていると引き込まれそうな笑みだった。 「そしたら何か、せっかく戻って来てくれはった羽希はんにこのお雛様を見せんのは間違うとるような気がしてきて、  祥子はんに手ぇ合わせてお持ちしましたのや」 ―――母娘にしか分からないご縁があるかも知れぬ。 このまま寺で供養するも良し、処分するも手元に置くも良し、と俊江尼は言った。 「家業故に、華やかな祝い事を慎みなさったのかもしれまへん‥せやけど、そちらの商いとはもう縁が切れとる。  いつまでも拘るものでもないと思いますんえ」 答えはしばし保留するとして、雛人形は再び箱に戻された。 「ゆうたら、吉崎はん」 不意に俊江尼が思い出したように口を開いた。 「村井はんにお聞きしたんどすけど、なんや居合い‥やらはるて?」 沙耶は眉をひそめる。 「そんな事言ったんですか、あの人は」 「へえ、せやから物の気(き)を見る。怖い目利きやて言うてはりましたえ」 あからさまに沙耶は嫌な顔になり、残りの茶を飲み干した。 「浅右衛門の刀で恨まれたみたいですね―――行儀作法の仕込みで、子供の時に習ったきりですよ」 沙耶がそのまま蔵仕事に戻ってしまうと、俊江尼は 「何やら、若衆みたいな人ですなぁ」 とのどかに呟いた。「今やからお話できますけど、あの人はいわく因縁、祟りのあるような物が分かるお人やそうですわ」 「‥‥えっ?」 私はびくっとした。 「本当ですか」 「村井はんはそない言うてはりました‥いわく因縁のない刀やったなら、変に警戒して見て貰うんやなかった言うて、ぼやいてましたな」 私はぼんやりと雛の入った箱を見つめた。 つい先頃、蔵の外で言葉を交わした時とは表情も雰囲気も違っていた。 とっつき難い印象がようやく薄れ、親しみを感じ始めていた今でなければ気付かなかったかもしれない。 「そうそう、羽希はん‥」 俊江尼の声に我に返る。 「さっき、こちらに伺う途中で役場の人と会うたんどすが、誰や知らんけどこの村に江口羽希ゆう人がいてるか、ゆう問い合わせがあったて‥」
■鎮雛・10 背筋に氷水を浴びせられた気がした。 江口は私の旧姓で、戸籍はすでにこちらに戻し、私は大迫羽希という名になっている。 「それで‥」 我知らず、声には怯えがこもった。 「役場の人は、何と‥?」 「最近は個人情報保護とかありますよって、答えんかったそうどす―――それで良かったかて、気にしてはったんで」 「有難うございます‥また後で、役場にも伺います」 しばしの沈黙。 私がここに帰るまでに何があったか、それ相当な修羅があったのは察している様子だが、それでも俊江尼は何も聞かない。私もまだ、話せない。 「‥‥本当に、いいんですやろか‥」 俊江尼も未だ釈然としない表情で、開け放された障子の向こうの庭を眺める。 「ここは静かで人も穏やかで、老いた人が余生を過ごすにはええ土地どす」 ―――ほたほたと花弁が落ちる音さえ聞こえる、そんなうららかな春の日だ。 「そんな土地に、まだこれからの娘さんを島流しにしてええもんか、と思いますのや―――  戸籍だけ戻さはって、時々帰って来てくれはるだけでも十分なんどすえ?」 既に何度も繰り返されたやり取りだが、私はやはり「いいえ」と答えた。 ここの暮らしが余生なら、これ以上の余生はない。私はもう十分に、老いた――― 「‥‥どうされます?」 蔵の中、開口一番に、沙耶は尋ねた。 姿は箱から出された茶碗や、広げられた掛軸、衝立に埋もれて騒がしい事この上ないが、声と眼差しは静かだった。 「一体きりでも、恐らく同じ物は二つとない逸品です。衣装や装身具の細工も凄いが、顔が凄い―――大名クラスの持ち物ですよ」 私は膝を折り、埃まみれの床に座った。 「‥吉崎さんは、どう思われますか」 「どちらとも」 沙耶の返事は素っ気ない。 「売られるならば高値を保証しますし、取り置かれるなら一財産とお答えするだけです。故人の遺志を尊重して供養して貰うなら、それも」 「‥刀の時とは違う事を仰るのね」 沙耶は答えなかった。 まだ少し怖いと感じたが、私は勇気を振り絞って尋ねた。 「良くないものに見えるんですか? あの人形は‥」 何故そう聞くのか、沙耶は分かっているようだった。そして、その上で口を開いた。 「物は、それだけでは害にはなりません―――人がそれに引きずられるから、呪物になるんです」 微かな苛立ちが伝わってくる。 「刀と同じです。あれが斬首や試し斬りに使われたと聞けば、よほどのマニア以外は良い気はしない。そこに事故やら病気が
■鎮雛・11 それは刀のせいだと思うでしょう。 それだけの話です。一度も飾られなかった雛人形ならば、いわく因縁があって当然だと思うように」 筋は通っていた。 だが、どこかが苦しい。 刀の時のような潔さがない。 「それでも‥」 なおも言い募りかけた時、私は文字通り飛び上がった。 蔵の外で女の声がした。 それを聞いた瞬間、全身から血の気がひいた。 「‥大迫さん?」 沙耶が怪訝そうに尋ねる。 「どうしました?」 女の声が近づいてくる。 庭を横切り、蔵に近づいてくる‥ 私は沙耶にしがみついた。 「近所の奥さんでしたよ」 数刻後、戻ってきた沙耶がそう告げた。 「野菜とか漬物とか―――玄関に置いてきました。何も心配ないですよ」 私は床にへたりこんだまま息を吐いた。 「‥すみません‥」 まだ心臓が激しく鳴っている。 刺すような痛みでしばらく身動きできなかった。 なぜあの声を真弓の声と思ったのか。 俊江尼から聞いたせいか、役場に私の旧姓を告げ、ここにいるか尋ねた者がいた事を。 ―――簡単に見つけられる筈はない。養家には固く口止めしてあるし、前の会社の同僚や友人にも知らせていない。 戸籍を動かし、誰にも閲覧させないように手配してある―――でも、もし‥ 「きっと、疲れてるんですよ」 沙耶は私を支えて立たせ、蔵の外へ出るよう促した。 「床をとってお休みなさい。私も泊めて頂きますから」 その言葉が、芯からありがたかった。 ―――真弓の玩具になって三年が過ぎた時、私は逃げた。 真弓に告げずに会社を辞め、離れた土地で初めて自活し、新しい会社に勤めた。 平穏な日々が続いた。 そのうち養父母から見合いを薦められ、淡々と話が進んだ。 婚約者は地味で穏やかな人だった。 やっと普通の世界に戻って来られた、真弓の支配下の暮らしはやはり異常なものだったのだと思えるようになっていた。 私はまだまだ、甘かった。 「どうして―――」 婚約者と共に訪れた式場の試着室。そこに真弓が入ってきた時の驚きと恐怖は一生忘れない。 「簡単に入れてくれたわよ、新婦の親友と言ったら」 着付けのスタッフが席を外した直後だった。そのまま戻って来ないように言い含めるのも、真弓には容易い事だった。 「趣味の悪いドレスねえ、それが晴れの日の衣装なの?」 「―――来ないで!」 じわじわと距離を詰められながら、後ずさりながら私は言い返した。 「それ以上近付いたら大声を出すわ。出て行って、私にもう構わないで!」
■鎮雛・12 「私は構わないわよ」 真弓は傲然と言い放ち、間髪入れずに平手で私の頬を打った。 「人を呼びたければ呼んだら?‥困るのはどっちかしら」 手加減なしの容赦ない一撃に私はよろめき、鏡台に肘をつき倒れ込んだ。 抑揚のない低い声と底光りする眼差しに、私は嫌というほど身体と心に焼き付けられた、嵐の前触れを感じ取った。 「‥私から逃げるのは許さないと言ったでしょ?」 真弓は私の髪を掴んで引き起こし、更に二発、三発と平手打ちを浴びせかける。 「我慢強くなったものだわね」 声を出すまいと唇を噛み耐えている私を鏡台に突き飛ばし、真弓は憎々しげに吐き捨てた。 「いつもなら自分から股を開いて、許して下さいと這いつくばってる所だわ―――また最初から躾けなきゃいけないわけ?‥」 「‥無理よ」 鏡台に手をつき立ち上がりながら、私は声を振り絞った。 「私には、もう無理‥他の人を探して下さい。私はもう、貴女にはついていけな―――」 言い終える事はできなかった。 真弓は鏡台に飾られていた一輪挿しを掴んで私の顔に水をかけ、私の身体を鏡台に強く押しつけた。 「‥誰に口をきいてるの?」 白いドレスの胸倉を掴む手が、ゆっくりと開いて乳房を包む。 「本当に、思い出させてあげなきゃいけないようね‥あなたの持ち主が誰なのか‥」 「―――やめて!」 白いレースの生地の上を蠢く指の感触に、私は芋虫を連想して総毛立つ。 私の髪や顔から滴り落ちる水滴にドレスの胸元も濡れ、肌にぴったりと貼りついた。 真弓は生地越しに冷たく濡れた乳房を撫で回し、指先で乳首を探り始める。 「嫌っ―――やめて‥」 真弓は答えず私の首筋に顔を埋めて唇で吸い、もう一方の手でドレスの裾をたくし上げた。 「いや‥」 太ももを撫でながら下半身が露わになるまで裾をまくられ、逃げようとした腰を鏡台に抱え上げられる。 「やめて‥だめっ‥」 「いい子にしてないと、せっかくの花嫁衣装が台無しになるわよ?」 片手が背中に回り、ゆっくりとファスナーを引き下ろす。 白いドレスは私の肩を滑り落ち、乳房の下まで脱がされた。 「―――嫌‥やめて‥本当にもうやめて―――」 「嘘おっしゃい」 露わになった乳房を見て真弓は笑い、爪先で乳首を弾く。 「本当に嬉しいです、の間違いでしょ?乳首をこんなに硬くして‥」 「あっ―――」 爪先だけで乳首を激しく愛撫され、私は身体を仰け反らせた。
■鎮雛・13 「ああ‥いや‥嫌‥」 左右の乳首を同時に絶え間なく弄られて私は喘いだ。 「‥他の人を探せですって?‥」 容赦なく乳首を責めながら、私の耳元で真弓は嘲る。 「他にいないわよ、こんなにいやらしい子―――」 「あああ‥‥あっ‥」 真弓の唇が首筋から乳房に滑り、大きな音を立てて乳首に吸いついた。 「ああ―――あっ、あっ、あ‥‥」 こらえ切れず、私は快楽の喘ぎをあげていた。私の身体を知り尽くした真弓の舌使いや指使いが理性を溶かし、身体を溶かし始めた。 「‥脚をもっと開きなさい」 頭を上下させて乳首を舐め、甘噛みを繰り返して真弓が命じた。 「いやらしいお道具が見えるように、しっかり開くのよ―――どんなになってるか、点検してあげるわ‥」 真弓の頭がゆっくり下がり、両脚が強く押し開かれる。 ショーツの上から陰唇をなぞられ、腰がびくんと痙攣する。 「溢れてるわよ‥ほら」 「いやあっ―――」 「この匂いよ、ああ‥」 真弓は手をかけてショーツを破り、一気にそこに顔を埋めた。 「ああっ―――あっ、あっ―――嫌‥‥だめぇ‥」 「んっ‥ん‥ああ、羽希‥んん‥っ」 激しく頭を振りながら、真弓は私の秘部の襞を舌で分け、溢れる愛液を啜り飲み、弾けんばかりに膨張したクリトリスに吸いついた。 「あああ‥‥い‥」 私はいつの間にか両手を下ろし、秘部を責めたてる真弓の頭を押さえつけていた。 「い‥‥いい‥ああ‥いい―――」 涙が頬に流れたが、屈辱や絶望の涙ではなかった。 あれほど悔やみ、捨ててきた筈の快楽ゆえの歓喜の涙。私はそれをはっきりと自覚して泣いていた。 「ああ―――いい、いい‥ああ‥いく―――いっちゃう‥」 私は腰をひくつかせながら片手で乳房を揉みしだき、乳首を弄る。 もう一方の手は真弓の頭を、敏感な部分から彼女の唇や舌をずらすまいと押さえつけたまま‥ 「‥‥あああ‥いく―――いく‥っ‥」 全身を震わせて絶頂を迎えた私に次の瞬間に訪れたのは、現実だった。 慌てふためく式場のスタッフや、扉の向こうで押し止められて何事か分からず不審がる婚約者の声よりも、 スタッフに連れ去られる真弓の方が私には恐ろしかった。 去り際に、真弓は私を振り返ってにっこり笑った。 艶やかで、晴れ晴れとした笑顔だった。 私が自宅のバスタブで手首を切ったのは、その日の夜の事だった。
■鎮雛・14 ‥深夜に、私は目を覚ました。 まだ日のあるうちに横になったのだからと言うよりも、急かされるような気持ちの目覚めだった。 (‥村役場に行って頼まなきゃ―――誰に問い合わされても、私がここにいると答えないように‥) 奥座敷は暗く静まり返っている。 起きてすぐに時間が遅すぎるのは分かったが、ぼんやりした義務感が私を寝床から引き剥がした。 沙耶は今夜泊まると言っていたが、私は部屋や食事や布団の支度もしなかった。 不意に申し訳なさや後ろめたさが胸に湧く―――まさか、ずっと蔵にいるのでは。 外から射し込む月明かりを頼りに、長い廊下を歩き出す。 深海を思わせる青い闇をしばらく進むと、立ち並ぶ部屋の一つから仄かな明かりが漏れているのに気がついた。 そこは仏間だった。そう言えば、昼間に俊江尼が持ってきた雛人形の箱はそこに置いてある――― 私はほとんど何も考えず、明かりの漏れる障子戸に手をかけた。 「あっ‥」 沙耶がそこにいた。 彼女はとっさに腕を上げて何かを隠そうとしたが、立っている私からははっきり見えた。 ―――箱から出され、豪奢な十二単を脱がされた雛人形。 「見ちゃ駄目です」 沙耶が短く制したが、私は一瞬で全てを見取った。 ―――裸の雛人形は衣装の下も、乳房や陰部までもが完璧に造られていた。 私は顔を覆い、その場に座り込んだ。 ―――翌朝、さし向かいで朝食のお膳をつつく空気は重かった。 「‥すみませんでした」 どことなく悄然として沙耶が言った。 「あれは、ちゃんと説明した上で見て貰うべきでした」 「いえ‥」 何と返してよいのか分からず私もうなだれる。 ‥私にしても、何にそれほどショックを受けたのかを語る言葉を持たないのだ。 「ああいうお雛様は‥多いんでしょうか」 「雛人形で見るのは初めてです」 沙耶はもの憂げに答えた。 「抱き人形や、子供の背丈くらいの物なら何度かあります」 「何の為に‥造られる物なんでしょうか」 重ねて、私は問うた。 脳裏に浮かぶのは乱歩の『ひとでなしの恋』のように、人目を忍んで性的に愛玩される日本人形だった。 それを察している様子で、沙耶は答えた。 「贔屓の役者や愛人に似せて造らせたり、亡き愛人を偲んで造らせたり‥ですね。 吉原の花魁が愛人の生人形を造らせて身近に置いていたりとか」 「吉崎さんは気付いてらしたんですか? ああいう細工があるって‥」 沙耶は首を振った。
■鎮雛・15 「今も言いましたが、雛人形でああいう細工の物は初めてです。人形の大きさから言っても、あんなに精密に造るのは難しいし―――」 沙耶はそこで少し黙り、言葉を選んでいるように見えた。 「‥何かを、感じられた?」 この手の質問で昨日は沙耶を苛立たせた。だから少し遠慮がちに、私は尋ねた。 「どうか率直におっしゃって下さい。私は構いませんから」 沙耶は物問いたげに私を見た。 本当にそうなのか、と言いたげな表情だった。 「‥何でも見えるわけではありません」 ぱっと見の印象で、具物に残るもの――― それの持ち主や、関わった人間の執念や想いらしきものが伝わるだけだ、と沙耶は言った――― それ自体が邪悪な具物なぞ滅多にない、と。 「あの雛人形は、生きていました」 沙耶の言葉に、私は息が詰まった。 「分かりやすく言うと、人形自体が生きているように見えるほど、人の念が籠もっていました」 私はわずかに身を乗り出した。 「それは、どんな‥?」 沙耶は目を反らした。 「女、です」 「‥えっ?」 「女の持つ様々な情念―――愛憎や肉欲、嫉妬や喜怒哀楽―――『業』と呼ばれるようなものです」 ‥しばし、私は放心した。 「庵主さんは昔は一式揃いだったと言われましたが‥」 私が正気づくのを待って、沙耶が続けた。 「肝心の女雛だけ残していくような馬鹿はいない。 恐らくはあの女雛だけか、あったとしても対の男雛までだったんじゃないでしょうか」 「‥男雛だけ、盗まれたと?」 沙耶は視線を落とし、独り言のように呟いた。 「‥盗まれたか‥流されたか‥」 「‥流された?」 「雛人形のはじまりは、川に流す紙人形です」 沙耶は続けた。 「災いや穢れを紙人形に託して、自分の身代わりとして流すんです。ひょっとしたら、あれはそういう類いの人形なのかも‥」 いずれにせよ確かな事は分からない、と沙耶は締め括った。 「ただひとつ確かなのは、貴女のお母様があの人形を封じて、お寺に供養を頼まれた事だけです」 ―――何の供養。何を弔って欲しいと言うのだろうか。 私は昨夜はっきりと目に焼きついた女雛の裸形を脳裏に浮かべた。 ‥微かに紅が残る乳首、密毛まで丹念に描き込まれた、露わな陰部。 母もまた、私と同じものを忌まわしく思い、捨てたいと望んだのか。 夫―――私の実父と早くに死に別れ、静かに暮らしていたとしか聞いていない。 そんな母に、どんな修羅があったのか。
■鎮雛・16 私は無意識に呟いた。 「‥どうして‥」 母は、あの人形を寺に納めた。 焚き上げたりするのではなく、保管を依頼した。 あくまでも遺した。 (捨てたいなら、何故―――) そう言いかけて、口をつぐんだ。 (捨てられないから業と呼ぶんです) 私が尋ねたら、そう答えただろう。 沙耶はそれ以上語らなかった。 村役場に出向いた帰り、私は迷いに迷いぬき、意を決して携帯の電話帳を開いた。 真弓と出会った会社―――前の前の職場の同僚の一人に電話をかける。 出なかったら二度とかけまいと思っていた。が、あっけなく相手は出た。 「どうしたの? 久しぶり―――」 勿論、彼女は真弓と私の事を知らない。 いきなり会社を辞めて引っ越した同僚として挨拶を交わし、落ち着いた頃にさりげなさを装い、真弓の消息を尋ねた。 「‥辞めちゃったよ、あの人‥新聞で見てない?」 それまでの明るい口調から急に声をひそめて彼女は言った。 「何か‥傷害かなんか、事件起こしたらしいよ。それで自己都合扱いで辞めてったの。羽希が辞めてひと月くらい後だったかな」 私は礼もそこそこに電話を切り、道端にうずくまった。 思いもよらぬ情報だった。私が逃げてから間もなく、真弓も会社を辞めていた。しかも、事件を起こして――― (何か‥傷害かなんか) 同性ならば罪名に強姦といった文字はつかない。単なる暴力沙汰ではないように私は感じた。 ―――いや、それよりも‥ 「ああ、女の人でしたな。丁寧な物言いの‥」 今しがた村役場で確認した事、私について問い合わせた電話の声の主は、やはり女だった。 (真弓‥なのだろうか) 心当たりは他にない。 既に汗ばむほどの陽気なのに、肌寒さに私は震えた―――リストカットの傷跡を隠そうと、長袖の服を着ているのに。 今ここで真弓と対峙したら、私は毅然と振る舞えるだろうか。 ここでまた屈したら、私は本当に居場所を失う。 帰ってきたとあれほど実感したのに、その場所でさえ生きていけなくなる。 生家でさえ、故郷でさえ。 蔵に入るなり刀の箱に手をかける私に沙耶の声が飛ぶ。 「何の真似ですか」 私は箱を開き、刀を納めた袋の紐を解く。 「教えて下さい」 息せき切って、私は言った。 「刀の扱い方―――あなたなら分かるでしょう? どうやって使うのか、教えて下さい‥」 「何に使うんですか、銃刀法でとっ捕まりますよ」 呆れ顔で、しかし思いがけない強さで私の腕を掴んで沙耶が言った。
■鎮雛・17 「それでも、使わなきゃならないんです」 私は言い募った。 「ここに居られなくなったら私、もう行く所がないんです―――それにもし、また駄目だったら‥」 「だったらどうするんです、また切るんですか?」 私ははっとして口を噤んだ。 沙耶の手は、私の手首の傷跡を直に掴んでいた。 「‥大体の想像はつきます」 取り上げた刀を床に放り、沙耶は呟く。 「だから、あの人形も見せたくなかったんです。あなたは‥暗示にかかり易すぎる。自分で逃げ場をなくしてしまう」 「自分で?‥」 反射的に声が上ずった。 「私が、わけもなく一人で騒いでると言うんですか」 「被差別の家系と、あの人形」 沙耶は冷ややかに切り返した。 「―――それであなたは信じたんじゃないですか? 自分もそうだ、と」 淫楽に流される、浅ましい、業にまみれた人間だと。 「しっかりしなさい」 苛立たしげに沙耶は言った。 「殺生の家系が穢れと呼ばれたのは古い迷信です―――  そんな物に縛られないように、あなたは養子に出されたんじゃないんですか?  何故それを考えず、家系や自分を卑しいもののように思うんですか」 「………………」 「理性でどうにもならない事なぞ誰にでもある。でも、それは個人の持ち物です。形も、扱い方も」 私は言葉が出なかった。 ずけずけと非難されたのは分かるが腹は立たない。 いや、確かに腹も立てているが、目頭が熱くなるのは怒りや悔しさのせいばかりではなかった。 「―――ずっと…」 これだけは言わなくては、と私は声を振り絞る。 「…ずっと言われていたんです。玩具だと―――」 「馬鹿らしい」 沙耶は吐き捨てた。 「どんだけ世間知らずなんですか」 あたたかく、乾いた手が頭に触れた。 初めて生家に帰り、仏間で流したのと同じ涙がしばらく流れた。 私が落ち着くまで自分の肩に頭を預け、沙耶はじっと動かなかった。 やがてその手が頬に下り、唇が額からまぶたに下りるのを、私は恍惚として受け入れた。
■鎮雛・18 沙耶は二、三度ついばむように私の唇を吸い、黙って私の頭を肩に引き寄せしばらくじっとしていた。 性的な匂いのない、赤子をあやすような動作だった。 「…………」 私はひどく安心し、それに慣れた頃に顔を上げ―――凍りついた。 ふと視界に入った天井板の隙間から、こちらを見下ろす目と目が合った。 私が悲鳴を上げるのと、沙耶が身を翻すのが同時だった。 「吉崎さん―――」 「そこから動かないで!」 床から刀を掴み上げ、沙耶は蔵の二階に続く階段を駆け上がった。 二階を歩き回る音がしばらく響き、私は息を詰めて立ちすくむ。 やがて降りてきた沙耶は、私を見て首を振った。 「誰もいません」 「えっ…?」 「隠れられる場所もない。出入り口はこの一階しかない。見てみますか」 私は沙耶の後について二階に上がり、その通りだと確認した。 「でも―――確かに目だったわ」 一瞬仰ぎ見ただけだが、限界まで見開かれた、爬虫類じみた目だった。 「あなたも見た…?」 沙耶は首を振った。 「見てません―――でも、誰かいた」 鞘に納めた刀の先を床につき、沙耶はしばらく黙り込んだ。 それから、真弓について知っている事を教えてほしいと静かに言った。 「なんとまあ―――」 夜半、私の話を聞き終えた沙耶は溜め息混じりに呟いた。 「とんだサディストに見込まれたもんですね」 湯上がりの肌に夜気が心地よい、月見と夜桜に格好の縁側で、私は赤面してうなだれた。 沙耶は昨夜から裸にしたままだったあの雛人形を手の平に載せ、あちこち調べながら言葉を続けた。 「傷害沙汰を起こした、というのが不吉な感じですね。あなたがいる間はそんな事はなかったんでしょう?」 「ええ―――私と違って、表と裏をきちんと分けられる人でした」 だからこそ、白昼でもいきなり現れる裏の顔が怖かったのだ。それがいつ現れるか分からないから。 「それはどうかな」 不意の沙耶の一言に、私は弾かれたように顔を上げる。 「えっ…?」 沙耶は雛人形を畳に下ろし、庭に目を向けたまま呟いた。 「あなたがいたから、表と裏のバランスが取れていたのかもしれない―――あなたが逃げてしまって、その人はバランスが取れなくなったのかも…」 私はその言葉の意味をしばらく考え、そして首を振った。 「まさか…」 私の知っている真弓はそんなに弱い人間ではない。 私を玩具にしていた頃にも、馴染みの相手は何人もいた…
■鎮雛・19 「その中で、あなただけが『玩具』だったなら」 冷えたビールのグラスに手を伸ばし、沙耶が言った。 「本当なら『精神安定剤』と言うべきだったかも―――それがなくなったから、彼女は壊れたのかもしれない」 (私の本当の顔を知ってるのは、あなただけよ) 機嫌の良い時の真弓の口癖が脳裏に甦る。私は不意に、震えた。 「―――私が…?」 沙耶は小さく笑って首を振った。 「全部、仮定の話です―――けど、そう考えないと警察沙汰を起こしたり、  あなたの縁談をぶち壊したりする理由にならない。  ましてや、ここまで追ってくる理由にも」 しばしの沈黙。 庭も静まり返っている。 「―――斬り捨てられますか?」 突然、沙耶が呟いた。 「…多分、その人は今の話の通りの人です。そう思えば、哀れな人です」 静かな口調だった。 「哀れと思えば情も湧きます。許す事も―――あなたは断ち切りますか。彼女との縁も、業も」 私はしばらく黙り、庭と沙耶とを交互に見つめた。 言外に問われている事を理解し、それからきっぱりと答えた。 「断ち切ります」 私はここで、真弓から逃げるのではなく、自分の人生から切り捨てるという選択肢を初めて持った。 沙耶はややあって小さく息を吐き、ふと思いついたように畳の上の雛人形を指差した。 「腰の辺りを見てごらんなさい」 言われるままに人形を手に取り、背中を向ける。 微かに墨の跡が残っている…薄いのと達筆のため、なかなか読めない。 「『俊子』だと思います」 沙耶が言った。 「朝からこちらの系図を見てたんですけど、それに当たる名前はない…で、その文字の下にも、もっと古い墨の跡がある」 これもまた推測の域を出ないけれど、と沙耶は前置きした。 「この家の何代か前までは、厄除けのために作られては流される人形があったんじゃないかと思います―――  それがある時、出来が良すぎたか惜しくなったかで女雛だけ残されて、出すに出せないまま蔵に眠っていたのかも」 もう読めなくなっている古い墨の跡が、流されなかった厄除けの先祖の女名ではないかと沙耶は言った。 「全身くまなく造られているのは性的な意味でなく、リアルさを求めたからだと思います。婦人病や性病を含めた病や、  夫婦の不和といった厄災を全部人形に背負わせるための…でも、流されなかったから、要らぬものを溜め込んだ」 私は首を傾げた。 沙耶はこれに、人形が生きているように見えるほどの女の業が詰まっていると言っていた…
■鎮雛・20 「出したかったでしょうね」 淡々と沙耶は言った。 「これだけの見事な雛人形なら、年に一度の雛祭りくらい飾りたかったと思いますよ―――でも、出さない家だった」 「牛馬を殺して栄える家だったから…?」 私は人形を見つめた。 今の感覚では、自虐に等しい慎みを理解するのは難しい。 「当家はともかく、風評もきつい時代だったでしょうしね―――また『家』での女の立場も、今よりずっと低かった」 言いたい事も言えず、身を飾る事もままならず、忍従する生活にさらに身分階級の縛りが重なる。 蔵の片隅で、女雛がこの家の女の象徴になっていく。長い長い月日をかけて… 「この『俊子』というのは?」 私は顔を上げて呟いた。 「家系図にない名前と言われたけど、よその女の人の名前を書き入れたのは…?」 沙耶は少し黙り込み、遠慮がちに答えた。 「…庵主さんの、俗名じゃないかと思うんですが」 「あ……」 俊江尼の―――私は息を飲んだ。 「じゃあ、これを書き入れたのは…」 しばらく、どちらも言葉がなかった。 (だから、母はこの人形を寺に納めたのか) 流すこともせず、焼いて灰にすることもせず――― 普通の人間なら雛人形の衣装を脱がせて何かあるか調べたりしない。だから、いや、だからこそ? 「素人さんは、時々とてつもない事をします」 口調に皮肉をにじませて、沙耶は言った。 「最強のKYとでも言うのか―――勿論、悪気も何もない。無邪気な人です、あのひとも」 その形容に、私はくすくす笑う。 確かにあの俊江尼にこれを打ち明けるのは酷であり、また母の遺志に背く事のように思われた。 「…昼間は、刀を振り回すと騒いでたのに」 沙耶は呆れた顔でグラスを空ける。 「だいたいね…真剣なんて素人には木刀以下なんですよ。  あちこちぶっつけて刃こぼれさせるのが落ちだし、研ぎ代も馬鹿みたいに高いし…聞いてます?」 私は身を折って笑い続けた。 何故だか、笑いが止まらなかった。 「このお雛様、やっぱりお寺にお納めしましょう」 落ち着いてから、私は言った。 「母がそうしたいと思ったなら、そうしなきゃ…それで私も親孝行したつもりになりますし」 「二度と出されないように包みを新調しましょう。知り合いに職人がいます」 人形に丁寧に着付けを施しながら、沙耶は頷いた。 二度と露わになる事のない小さな裸体に、私はそっと手を合わせた。
■鎮雛・21 枕元に、沙耶は刀だけは置いていた。 「私がこれを抜いたら、体に布団を巻きつけなさい。危ないから…」 そう言われても、怖くはなかった。 私は沙耶の肩に頭を預け、昼間の続きの唇を額から頬、頬から唇の順に受け入れた。 沙耶は私を壊れ物のように扱った―――キスを繰り返しては私の目を覗き込み、これ以上進んでいいのかと目で尋ね、決して性急な動きはしなかった。 「―――お願い…」 首筋に唇が降りた時、こらえ切れずに私は両腕で沙耶の背中を抱え込む。 着慣れぬ浴衣の生地の下、下着を着けていない素肌は既に火照りきっていた。 「…あっ……」 首筋を唇と舌で丹念になぞりつつ、沙耶の手が生地の上から乳房を包んだ。 手の平でやんわりと撫でさすられ、糊のきいた生地が乳首をこすり、その快さに私は身をよじる。 「あ……あぁ…」 「―――大丈夫?」 気遣わしげに顔を上げて沙耶が聞く。私はしきりに頷き、両膝を立てて沙耶の身体を挟み込んだ。 「おかしく…なりそう…」 これまで経験してきた露骨な快楽優先の愛撫とは違い、優しく穏やかな愛撫であるが故に、私は早くも乱れ始めていた。 「ああ―――こんなの……あ…」 首筋や耳の後ろに吐息と唇を感じ、浴衣の生地を押し上げる乳首に指を感じる。 そこを軽く指が往復するだけで、体が芯からとろけ出す。 「……んっ…ああ…あ…」 浴衣の襟元が緩められ、そっと開かれる。沙耶はそこに顔を埋め、熱く張りを持つ乳房を口に含んだ。 「ああっ―――」 舌先が乳首を捉え、ゆっくりと転がす。それを左右交互に繰り返し、濡れそぼった乳首をさらに敏感に、硬くする。 「……あっ、あっ、あ……はあ…ん」 「―――可愛い」 沙耶は体をずり上げて私の顔を覗き込み、唇を塞ぐ。 私も夢中になってそれに応え、舌と舌を絡ませる―――泣きたいほどの切なさが胸を締めつけ、涙がにじむ。 「どうしたの」 沙耶は唇を寄せて涙を吸い取り、しがみつく私をゆったりと抱え込んだ。 「…分からない」 両腕と両膝で沙耶を放すまいと強く抱き締めながら、私は喘いだ。 「分からないけど…」嬉しいのだと答える前に、再び唇を塞がれた。 浴衣の腰紐が解かれ、脇をすくい上げられ、同じように身を起こした沙耶の膝に乗せられる。 「………あっ!」 沙耶の肩に頭を預け、私は身体をこわばらせる。はだけた裾に手が滑り込み、潤んだそこに指が触れた。 「ああ―――ふ……」
■鎮雛・22 濁った音を聞くまいと、私は沙耶の首筋に顔を埋めた。 沙耶の片手が髪を撫で、もう一方が体の芯の周りを探り、溢れる蜜をすくい上げる。 「……あ、あっ―――」 腰が震え、じっとしていられない。 体の芯が弾けんばかりに膨れ上がり、強く脈打つのが分かる。 「ああ……」 身体を反らして沙耶の頭を抱き締めると、乳首を唇に含まれ甘く噛まれる。 「駄目―――もう…」 この姿勢でいられないと体で訴えると、優しく布団に降ろされ乳房に顔を埋められた。 乳首と秘部を同時に愛撫され、私は無意識に膝を開く。 沙耶は唇を滑らせながら身体をずらし、熱い息が下腹の、さらに下に降りていく。 「―――ああ……」 内腿を手の平で撫でられ、優しく開かれる。 私は自分から腰を浮かせて愛撫を求めた。 「あっ!―――や…」 熟しきった芯に唇が触れ、離れてはまた触れる。 「……あ…はあ…あ…いい…」 唇に包まれ、軽く吸われ、舌でゆっくり撫でられる。 激しく責め立てられるのとは全く違う。 とろけてしまう―――蝋燭の蝋のように、自分が溶けてなくなってしまうような感覚だった。 「や……いやぁ…」 私は身をよじり、腰をくねらせる。 沙耶の舌が熱いのか、絶えず溢れる自分のそこが熱いのかもう分からない。 「―――っ……!」 叫んだつもりだが声も出ず、全身を仰け反らせて私は果てた。 「―――大丈夫…?」 思いのほか柔らかい胸に抱き込まれ、額に唇を感じながら私は頷いた。 腰から下は、甘く痺れたままで感覚がない。 再び愛撫されたらすぐに逝ってしまえるほどにまだ息づいている。 「あなたは……」 ほとんど裸の私に反してあまり着乱れていない沙耶の胸元に手を添えると、彼女は小さく笑ってそれを押さえた。 「…私はこれでいい性質なんで。それより―――」 忘れていたでしょう、と沙耶は言った。 身を起こし、私に向ける背中に赤い染みができていた。 「……私が?」 私は動転し、その襟をはだけて飛びつく。 左の肩の少し下に、5センチほどの深い掻き傷ができていた。 「あなたはそこまで激しくなかった」 沙耶は悪戯っぽく笑い、浴衣を直した。 真弓か、他の何かか分からないが、何かが来ていた… それから三日間は何もなかった。 その間に私は土地や建物の登記を済ませ、俊江尼に伴われて村の主だった人々への挨拶回りや義理事について聞き回り、慌ただしく過ごした。 沙耶は夥しい収蔵品の分類と記録を殆ど済ませ、目録の清書に入っていた。
■鎮雛・23 沙耶は手が空くと仏事の準備(母の一周忌が近いのだ)や心得について私に教え、 私では捌き切れない法的な手続きについて説明し、助言してくれた。 「何か分からなくて庵主さん達に聞きづらい事があれば、連絡してくれればいいから」 そう言われた時、私はひどく安心した。 このまま仕事を終えて帰ってしまったら、二度と会えないような気がし始めていたからだ。 そんな折に、来客があった。 「袋師の高岡と申します」 沢山の荷物と共に丁寧に頭を下げたのは、まだ二十歳前にしか見えない華奢な少女だった。 「白藤堂はんに呼ばれて参じました―――おられますか?」 「ああ、六」 奥から出てきた沙耶は『りく』と呼びかけた。 「―――お寺さんに納めはるとお聞きして、なるたけおとなしいのんを選って来ましたが…」 畳に並ぶ生地―――古代裂と呼ぶそうだが―――を見て私は溜め息を漏らした。 色の濃淡さまざなな布地に金糸銀糸で花や紋様を縫い留めた生地はどれも華麗で、それでいて華美ではなかった。 「……お高いんでしょうね」 思わず本音が口をつく。これは振袖や打掛でなく、能狂言の装束に使われる類いの生地ではないのか。 「とんでもない」 若い職人の少女は笑って首を振る。 「吉崎はんのお友達からお金を頂くわけには参りまへん。うちの姉が、日頃からお世話になってますし」 「…お姉さん?」 「へえ、しがない物書きですけど、仲良うして頂いてます」 私は傍らの沙耶を振り返った。 「PS3の……?」 「それはまた、別の―――」 沙耶が肩をすくめると、少女がにっこり微笑んだ。 「PS3て、映画みたいに画像が綺麗ですなあ。おかげで姉はん、一緒に帰って来るつもりが名古屋に居残りで」 「―――は?」 沙耶はぽかんと口を開いた。 「まさか、そっちにまで電話…」 「はあ、佳乃はん困っといやしたから。ちょうど姉はんも締め切り済んで、暇してはったし」 「たかがゲームの接続に、京都から名古屋まで?」 「へえ、青春18きっぷ使て―――これ、二十歳過ぎでも使えるんどすなあ」 沙耶は力が抜けたように首を振った。 何だか分からないが、初めて見る表情だった。 「―――あ、吉崎はん」 少女は思い出したように畳に置いたショルダーバッグからA4サイズの茶封筒と、 それからもう一つ、長い筒型の袋から取り出したものを沙耶に差し出した。 「お店の人から預かって来ました。書類は、今朝早うに届いたそうどす」
■鎮雛・24 だが、次に沙耶が長い包みから取り出したのが刀だと分かった途端、私はそちらに気を取られた。 何となく持ち方で分かる。これは、沙耶の刀だ。 「銃刀法違反させて悪いね、六」 「退屈しませんでしたわ。姐はんも御機嫌やったし」 少女はにこにこ笑っている。沙耶は見つめる私に笑いかけ、 「やっぱり、自前のでなきゃ勿体無くて」 と呟いた。 「青江次吉作 通称『女斬り』……これが八代山田浅右衛門吉亮の最後の刀です」 「えっ……?」 私は息を飲んだ。 「お伝姐はん、やる気満々どすえ」 少女が口を添える。 私は呆気に取られ、沙耶の持つ刀―――先に検分して貰ったものよりずっと地味な拵えの―――に目を落とした。 「じゃあ、最初から分かってたのね?」 「村井鑑定士の面目もありますから」 沙耶は刀を袋にしまい、席を外した。 雛人形を目にした少女は、 「うわあ…」と無邪気な感嘆の声を漏らした。 「きれいなお雛様どすなあ…こんな綺麗なの、初めて見ますわ」 そうやなあ―――と少女はひとりごち、 「桜がええかなあ…出家しはる言うたかて女雛様やし、おはなむけやし…」 と呟きながら数枚の生地を選び出す。 その手先をぼんやり眺め、私は尋ねた。 「……分かるんですか?」 何も説明はしていないが、彼女が雛人形を一目で理解したように感じた。彼女は小さく首を振り、 「吉崎はんほどには―――ただなんや、そんな気がするだけで」 と、控え目に答えた。 淡い桜色の生地に雪月花の刺繍が施された生地を二人で選ぶと、彼女は人形の箱の寸法を取り始めた。 「―――普段は袱紗とか仕覆(しふく)とか、お茶の道具作りをしてましてん」 少女の柔らかい語り口に釣られ、私は尋ねる。 「仕覆というのは、どんな物なんですか」 「はあ、お茶道具を入れる袋ですわ。このお人形の箱も、同じ作り方で縫わせて頂きますの」 底を真円にして、生地の裏に薄い綿を入れてまた裏地をつけて、袋の口は生地に合わせた飾り紐で結ぶようにして…と、彼女は唄うように説明した。 「半日あれば十分どす―――18きっぷが今日までやし」 泊まっていくわけにはいかない、という気遣いを私は感じた。 「あの刀には―――」 「へえ、最後に斬られたおなごはんが入っておいでです」 何事でもないように彼女は言った。 「別に何も悪い事せえへんのに縁起悪いゆうて売られて売られて、落ち着きはったのが吉崎はんのお店やそうで」
■鎮雛・25 少女は手早く不要な生地を片付け、裁縫道具を取り出した。 「講談や芝居ではめちゃくちゃに悪く描かれてますけど、怖いお方やないですよ―――江戸前の、粋筋の、きっぷのいい姐はんです」 そのまま作業に集中したそうに見えたので、私も席を外そうと立ち上がり、ふっと思い出してもう一つ尋ねた。 彼女の名前を。 「六道いいます。高岡六道」 少女はまた、にっこり笑った。 「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天―――仏教で言う、その六道みたいどすな」 沙耶は仏間にいた。 「………どうしたの?」 どこかしら沈んだ様子に思わず声が出る。 沙耶はファイルに納められた書類を私に差し出し、 「彼女は収監されてる―――ひと月前に」 と呟いた。 「えっ?」 私は目を見張り、無意識にファイルを受け取った。 「読んでみれば分かるけど…」 沙耶はもの憂げに言った。 「三年前にあなたがいなくなってから、十件くらい同じような傷害沙汰や監禁未遂を起こしてる… ほとんどが不起訴になってたけど、ひと月前に未成年者略取、監禁、殺人未遂の容疑で逮捕―――拘置所で精神鑑定待ち」 「そんな―――」 私は畳に座り込み、冷静に読めないと分かっていながらファイルを手繰った。 …クラブやバーで誘った女を連れて帰り暴行、といった記述が日付を変えて続き、最後の相手が女子高生、となっている。 私が真弓に最初にされた事―――それを繰り返したのだとすぐに分かった。 誰も従わなかったのだ、と私は思った。 私のように従順に玩具になる女がいなかった。だから真弓は苛立ち、さらに容赦なくなってゆき、悪循環の中で壊れていったのか。 「でも……」 私は怯えた目で沙耶を見た。 「でも、村役場に私の事を尋ねたのは誰? 蔵にいたのは、あなたに傷をつけたのは……?」 「……彼女かも。ただ―――」 沙耶は低く呟き、腕を伸ばして私を引き寄せた。 「精神鑑定が必要なほどにもう理性が無いのなら、現実の彼女には無理でも、執着心だけが……」 「―――生霊、って事…?」 沙耶の肩に預けた身体が震える。 現実の真弓が私を追えず、意志だけが追ってくるのなら、そう呼ぶしかないではないか。 しかし沙耶は、少し違うと呟いた。 「憎いとか復讐したいとか言うのは、物への執着心とは違う―――何かに執着するから憎いとか、恨めしいとか感じるんだから」 その言葉を胸の中でしばらく繰り返し、私はうっすらと理解した。真弓はもう、私を私と思っていないのだ。
■鎮雛・26 日が傾きかけた頃、桜色の包みを縫い上げた少女は帰って行った。 「…きれいな娘ね」 「母親が祇園の名妓で、画家や彫刻家のモデルだったし」 沙耶は何気なく答え、それからふと口調を変えた。 「ロリの気はないから―――あれには怖い姉貴がついてるし」 「あの娘にも、いろいろ見えるのね?」 「―――ああ…」 沙耶は少し考え、頷いた。 「私より強いと思う、そういう方面は」 「…あの娘はあなたの方が上だと言ってたけど」 沙耶は首を振った。 心なしか、投げやりな仕草だった。 「…ああいう物を見るには、私は性格が悪すぎる」 視線の先に、少女が届けた刀があった。 沙耶はグラスにビールを注いで刀の前に置き、 「翻訳してみようか」 と呟いた。 ―――何?と思って首を傾げると、沙耶の口から思いもよらない言葉が流れ出す。 『……やっと思い出しておくれかい。こっちゃ根が生え茸が生える心地だ―――おや、情けの一献。おかたじけ』 ぽかんとする私に、沙耶は刀を指差した。 『エエ辛気臭い。男はいないのかい男は―――久し振りやの娑婆なのに、ロクな野郎を見てないよ。  それに黙って聞いてりゃあ、色は色でも男っ気のない色事たあ担がれた。  ただでも初心な八代目も、これじゃ出るに出れねえよ』 歯切れのいい啖呵に気を取られ、もう一度刀を指差されて私はぎょっとした。 たった今満たして置かれたグラスが、空になっている。 「まあしばらくは、この調子」 沙耶は再びグラスを満たし、もう一つ満たして口をつけた。 「今のが……?」 「そう。明治の毒婦、高橋お伝」 沙耶はちろりと舌を出した。 「見てると減らないよ」 刀に供えたグラスをまじまじと見つめる私に、沙耶は笑い声で言った。 「毒婦と呼び名は残るけど、実際は難病の夫を最後まで看取り、その後で情人に尽くし続けた情の濃い女―――確かに金貸しを殺したし、口も悪いけどね」 「……もう一人…いるの?」 「八代目浅右衛門?滅多に喋らないけどいるよ。真面目な御仁で、とてもからかえた人じゃない」 私は再びそちらを見る。グラスの中身は減っていない。 「……とまあ、そんな感じで」 沙耶は声を落とし、少し寂しげに呟いた。 「こういう相手と喋る方が気楽なのは、私には何か良いことには思えなくて」 私は静かに、沙耶の手のグラスにお代わりを注いだ。 「ありがとう」 沙耶はちょっと笑い、おもむろに背後を指差した。 刀に供えられたグラスは、空になっていた。
■鎮雛・27 「はい、これ」 沙耶は握った手を私に差し出し、手渡した。 「―――可愛い」 私は声を上げた。雛人形の包みと同じ雪月花の衣を着けた、小さな布地蔵だ。 「それが袋師・六道の名刺代わり。気が利いてるでしょう」 小さな布地蔵は笠を被り、赤いよだれかけを首に巻き、ほっこりした笑みをたたえてビーズの数珠を下げて合掌している。 包みは人形と共に永久に寺に行ってしまうが、縁は残る。 それは素直に嬉しかった。 しかし、私はふと考え込んだ。 「私は………」 ―――次の瞬間に何が起こるか分からないという危惧はある。 だが、少なくとも真弓が拘禁されている事実は私を安堵させていた。 (でも、それを喜ぶ資格があるかと問われたら―――) それは否ではないだろうか。結局私は逃げ出したが、それがもっと早ければ、真弓は拘禁されるまでには至らなかったのではないか。 「私は……」 真弓も酷かったが、私も酷かった。 快楽だけで続けられる関係ではなかった。 どちらもそれに気付いていなかった―――今でなければ分からなかったと片付けるのは、結果論だ。 私はそこで我に返り、こちらを見ている沙耶に気付いた。 「善悪を問うてもきりがない」 静かな口調で、沙耶は言った。 「選びたい方を選ぶだけ…今はもう、あなたの方が強い。 物には執着心を拒めないけど、人には出来る」 私はそっと頷いた。 何を思い惑っても、答えはもう出ているのだ。
■鎮雛・28 「…風が出てきた」 庭に面した硝子戸を閉めながら沙耶が呟く。 「桜ももう終わりだな―――雨戸、閉めようか?」 「いいの」 私は沙耶に歩み寄り、吹き込んでその肩に止まった花弁を摘み取り、頭を寄せた。 「…傷、痛くない?」 「大丈夫」 そのまま身を預ける私を片腕で支え、沙耶は後ろ手に障子を閉めた。 「―――怖くない?」 私の髪を撫で、顔を仰向かせながら沙耶は尋ねた。 「少し怖いけど…」 自分から顔を寄せ唇をねだり、私は答えた。 「怖いけど、それよりも」 唇が触れると、言葉は忘れた。 ほんの三日前に抱かれたばかりなのに、その三日がとてつもなく長かった。 私は待ち望み続けた身体の重みと温もりを逃すまいと沙耶の背中に腕を巻きつけ、迎え入れた舌に舌を絡ませる。 「―――ん……ふ…」 沙耶の唇が首筋に降り、手が浴衣の胸元を緩めて入り込む。 乳房をぎゅっと鷲掴みにしたかと思うとやわやわと揉み、親指の腹で執拗に乳首を撫で上げられて私は喘いだ。 「あっ……ああ…」 立ったまま、沙耶は私を責めたてる。 肩からずり落ちた浴衣はかろうじて腰紐の所で止まり、崩れそうな身体は沙耶の片脚に跨る形でようやく支えている。 それでも沙耶が片腕で腰を抱いていてくれなければ、とても立ってはいられない。 「ああ……あっ、あっ……いい…」 首筋を舐められながら乳首を弄られる快さに私は仰け反り、バランスを崩しかけては引き戻される。 最初の時より少し手荒く、それが更に私を狂わせた。 「ああ―――わ、私……」 沙耶の脚に跨る腰が無意識にうねり、逃がすまいとする沙耶の太ももにすくい上げられる。 「………熱い」 潤んだ秘部を塞がれ顔を背ける私の耳に、溜め息混じりの沙耶の声が切なく響く。 「熱くて―――溢れてる……」 「いや………っ」 私は羞恥の叫びを上げたが、腰はひとりでに動いて密着したまま上下した。 「ああ……いい……凄い……」 両腕を沙耶の首に回し、腰を落として秘部を擦りつける。 沙耶の滑らかな太ももは私の愛液に濡れ、硬さと敏感さを増したクリトリスをいやらしく擦り上げた。 「……だめ―――もうだめ……あっ…嫌!―――」 腰をがくがくと揺らして果てた身体をふわりと抱えられ、夢うつつのまま布団に寝かされる。 「―――好き……」 不自然な体勢から解き放たれ、身体の芯から溶けてしまったけだるさの中で私は呟く。 「あなたが、好き………」
■鎮雛・29 うわごとのように繰り返す唇を優しく塞がれ、私は不自然な体勢から解放された安らぎと身体にかかる重みに涙さえ浮かべ、沙耶の背中を抱き締めた。 「―――私も」 長く深く唇を貪り合い、耳元で囁かれたのが何への答えかもすぐには分からず、理解した頃には膝を開かれ、秘部を指で愛撫されつつ乳首を吸われていた。 「あ……っ、ああ……」 全身が甘く痺れて快感以外の何もなく、このまま死んでもいいとさえ思えた。 唇を割って入る指を吸い、軽く噛む。それに呼応するように乳首が噛まれ、舌でくすぐられる。 指先がクリトリスを撫で回し、逡巡を繰り返しながらさらに奥、無尽蔵に溢れる場所に滑り込む――― 「あああ………」 私は腰を浮かせて身体を仰け反らせ、クリトリスと内奥を巧みに探る指を呑み込む。 「……あっ、あ―――いい…ああ…」 乳首も唇と舌に絶え間なく愛撫され、秘部を指で容赦なく責められ、私はあられもなく叫び続けた。 「いい―――気持ちいい……ああ、凄い―――」 指は淫らに緩急を使い分け、激しく擦り上げたかと思うとわざとゆっくり撫でてタイミングを外し、快楽を長引かせる。 「嫌ぁ―――いや…お願い……ああ…苛めないで…」 腰を振り立て駄々っ子のようにねだる秘部から指が離れ、私は目尻に涙を溢れさせた。 「苛めたりしないから……」 沙耶は優しく涙を吸い取ると私を抱き起こして膝の上に抱えあげ、再び指を秘部に当てて囁いた。 「おいで」 私はこらえ切れずに沙耶の首を抱え込み、激しく、うねるように腰を動かした。 「ああっ―――あっ、あっ、あ……」 秘部に沙耶の指を感じ、その動きより更に強い快楽を求めて腰をくねらせる。 「ああ―――ん……はぁ…あっ、あ―――」 沙耶も私をあやすように膝を揺すり、指だけでなく責め立てる。 器具などなくても、下から貫かれているような感覚が私に我を忘れさせた。 「あっ―――あ……」 痛いほどの快感が背筋を駆け上り、全身を引きつらせて私は果てた。 物音に気付いたのは、沙耶にもたれかかったままで束の間の放心から覚めた時だった。 (廊下が軋む音……) ギシッ、ギシッという幽かな音―――足音だ。 「分かってる」 沙耶は静かに呟くと私の身体を布団に下ろし、掛布団を被せて自分の背後に回らせた。 ギシッ、ギシッ…… (近づいてくる―――) 私は沙耶の背後から、閉ざされた障子を凝視する。 「怖かったら、目をつぶっておいで」 振り返らずに沙耶が言う。
■鎮雛・30 怖かった。 でも、だからこそ目を閉じられなかった。 沙耶は、いつの間にか刀を掴んでいた。 (そう言えば…どこに置いてたんだろう?) どうでもいいような疑問がよぎる―――そうでもしていなければ、耐えられない。 ギシッ、ギシッ… 足音が障子のすぐ外までやって来て、しんと途絶えた。 突然、大きな音と共に障子が破られた。 私は悲鳴を上げた。障子の一角から、五本の指が突き出している。 「いや………!」 私は後ずさり、次の瞬間に声すら出なくなった。 障子に、はっきりと人影が映っていた。 視界の隅に、棒のような物が飛んだ。 私には、沙耶が刀の鞘を払った所は見えなかった。 青白い光を見たと思った瞬間、障子は袈裟掛けに斬り倒されていた。 『―――舐めるんじゃないよ』 視界いっぱいに飛び散る血潮を見たと思った時に、沙耶とは違う、鞭のような女の声がした。 『年季が違うんだよ、年季が』 障子の向こうには誰もいなかった。 床や障子を染めたと思った血潮もなく、廊下にはただ庭から吹き込んだいくひらかの桜の花弁が散っているだけだった。
■鎮雛・31 俊江尼が住持をつとめる禅寺は、私の家から歩いて十分ほどの場所にある。 「―――まあまあ、綺麗なべべ着せて貰うて…」 母と同年ならば六十半ばだが、仕草や表情にどこか童女めいた所のある俊江尼は雛人形の包みを見ると目を見張り、いそいそと手を合わせた。 「娘時分にこさえた晴れ着やなんかも祥子はん、みぃんな処分してしもて……  まさか居んようになってから、手放しなさった娘さんにこないにして貰えるやなんて、夢にも思うておりませなんだやろなぁ…」 俊江尼は愛おしげに目を細め、衣の袖でちらりと目尻を拭う。 「あんじょう承りました。私も独りですよって、祥子はんと昔語りする気持ちでお預かり致しましょ―――時に羽希はん、吉崎はんは…?」 「…はあ、あの」 私はちょっと口ごもる。 「今ちょっと、障子貼りを…」 「へ?」 俊江尼はぽかんとした。 「少し前に新調したばかりどっせ」 「はあ…ちょっと、色々…」 私は首をすくめ、恐れ入る。 「器用な人ですなあ…」 俊江尼は感じ入ったように頭を振り、またひとしきり人形の包みをあちこちから眺めて感嘆し、はたと顔を上げて呟いた。 「お蔵の方は、もう…?」 「はい」 私は頷いた。 「さっき司法書士さんがいらして、目録をお渡ししました」 「ほな、手続きもぼちぼち終わりですなぁ」 少ししんみりした表情で、俊江尼は頷いた。 寺はなだらかな山の中腹にあり、通された庵室は竹林に面している。 言葉が途切れると葉ずれの音が波のように響き、胸を浸した。 「―――本当に、よろしいんやな…」 「はい」 一度だけ、短いやりとりが交わされた。 どちらの声も、穏やかだった。 「どうだった?」 縁側に新しい紙を貼り替えた障子戸を立てかけて、足を投げ出して煙草を吸っていた沙耶が顔を上げた。 「喜んで下さってた―――それで袱紗とか、ぜひお願いしたいって」 「ああ、それが一番喜ばれる。職人は仕事が増えてナンボだから」 沙耶は小さく笑みを漏らし、生乾きの障子を振り返る。 「枠とかは、接着剤でくっつけただけだから…」 「気をつけるから大丈夫よ」 そして並んで縁側に座り、庭とその向こうに広がる景色をぼんやり眺めた。 「……供養塔に花、供えたんだ?」 「ええ」 「お仏壇のと同じだ」 「そう」 時間が、ゆっくり過ぎていく。
■鎮雛・32 「見てきたけど…」 私は背後の座敷を振り返る。 「空になってたわ、一升瓶」 「日本酒派だから……でも、飲ませ出したらキリがないよ」 「明日、二日酔いで電車に乗るのかな」 私の呟きに沙耶はちらりと視線を向け、再び煙草に火をつけた。 「……あれ、置いていっていい?」 「え?」 沙耶は肩をすくめる。 「からかわれるから……昨夜の……」 私もつられて赤くなり、背中を丸めた。 「大事な物なんじゃないの?」 「売り物にならないし、もし盗まれても自力で戻って来るし……」 また顔を出すから、と言って沙耶は俯いた。 私はひどく安心した。 「―――いつかは来るかもしれないよ、彼女」 低い声で沙耶が呟く。 「懲役になるかどうかも分からないし、懲役を終えた後かもしれない。それは彼女次第なんだけど―――」 「……そうね」 私は頷き、沙耶にならって足を投げ出した。 「その時はまず、お茶でも出すわ」 不意に、沙耶が弾かれたように笑い出す。 私はちょっと驚き、そして笑った。
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