| 2006/02/16(Thu) 15:29:54 編集(投稿者)
あ、まただ。
彼女の姿が目に留まって、私は小さく息を吐き、そちらへと向かう。
「こら、樋山。その制服の着崩し、何とかならない?」
欠伸を噛み殺しながら教室へと入ってきたその人は、私をちらりと一瞥してもう一度大きく欠伸をした。
「もう、ほんとにだらしないなぁ。ネクタイちゃんと締めて。上履きだって履き潰しちゃってるんだから。せめてシャツのボタンくらいきちんと留めなさい」 いつも注意してるでしょ?と、彼女のシャツに指を伸ばして外れたボタンに手を掛けた。
「はいはい、ごめんなさい」 されるがままの樋山は大して反省を感じさせない口調で頭を下げる。
「風紀委員長様の手を煩わせてほんとにすみませんねー」 委員長自ら勧告してくれて感激ですよ、言いながら欠伸を一つ。
「…服装ごときで毎回毎回目くじら立ててうるさいやつだなぁって?」
かちんときた私は、ボタンを留め終えた胸元をとんと押して精一杯の嫌味を言ってみる。 樋山はというと、あははと邪気なく笑い、 「そこまで言ってないじゃーん。やだなぁ委員長」 愛想の良い目元をふにゃりと緩めた。
「委員長に構われるの嫌いじゃないし、あたしがだらしないから注意してくれんでしょ?」
樋山は眼前で恭しく手を合わせて「感謝してます」と、私を拝んだ。
…ずるいなぁ、この子は。 こうやっていつも樋山のペースだ。 邪気をすっかり抜かれた私はただ苦く笑むしかない。 はぁ、と。 溜め息を吐いた時。
「──…でもね」
拝む顔を上げた樋山は─
「窮屈なのは嫌いなんだ」
自身の首元から一気にボタンをひとつふたつと外した。 うっすらと、白い肌と鎖骨が覗く。
「締め付けられるのは苦しいでしょ」
樋山は愛想良く垂れる瞳を鋭く光らせ、にっと笑った。
それで私は、いつも何も言えなくなる。 ふにゃふにゃと愛想の良い樋山の瞳は、とても優しく、そして時々冷たい。
委員会が長引くのはよくある事。 今日も風紀委員会は、生徒達の風紀の乱れについての議論で大盛り上がりだった。 話し合いを終え、書類を仕上げた頃には会議室には既に私一人。 この分では校内の生徒もほとんど下校しているだろう。 薄暗い廊下を歩きながらそう思ってみる。 まだ夕方だというのに、外はすっかり夜の気配。 冬の空だな、と。 窓から差す月の光を頼りに廊下を歩いた。 見慣れた自分の教室の前を通り過ぎようとして、その足を止める。 目を凝らして見てみると、窓際の席に突っ伏している人影が月明かりに浮かんでいた。
ゆっくり近付く。 寝息を立てるその人の肩にそっと触れて。
「樋山」
名を呼んだ。
珍しく樋山は、一度声を掛けただけでもそもそと身を起こした。 「ほら、起きて。帰ろ?もう暗いよ」 「んー…」 目を擦りながら立ち上がる樋山。 やっぱり制服を着崩している。 「起こしてくれてありがとね」 樋山はふにゃりと笑うと、くるりと背を向けて出口へと歩き出した。
束縛が苦手な樋山。 窮屈なのが嫌いな樋山。 それが何だ。 知った事か。 私は風紀委員長の使命を全うするのみ。
悪戯心が芽生えた私は前を歩く彼女を追い掛け、その背中に思い切り抱きついた。 首に腕を回し、きつくきつく締め付ける。
「縛られるの、嫌いでしょ?」
耳元で甘く甘く囁いてやった。
さぞかし驚いている事だろうと口元が綻びそうになるのを堪え、冗談だよと回した腕を緩めようとすると─
「こんな枷なら悪くはないね」
優しい声が私に届いた。
振り払われると思っていた腕には、意外にも彼女自身の手が添えられて。 戸惑う私は、重なった肌から伝わる熱に浮かされ、樋山の肩に顔を押し付けるしかなかった。 くっくっと喉を鳴らす樋山が憎らしい。 きっとその目はいつものように愛想良く垂れているに違いないから。
縛りが解けるその前に、 この火照りを冷まさなければ。
|