| 「もしかして、私がどこの事務所に所属してるのか、ダイナに言っ・・」 −勿論!− 雪花のしてやったりな声が響いた。 ・・ああ、やってしまった。 −自慢出来る部分は、しとかないとね。ん?何?まずかったの?− 「いや、大丈夫」 勿論、全然、大丈夫ではない。 あまかった。 こんな経路でボロが出るとは。 忘れていた先刻までの検察官とのやりとりが、 再び思い煩いとなって胸に舞い戻って来る。 思考がマイナスになってきた、分かり易い証拠だ。 「ダイナは、どんな反応だった?」 −“へぇ”ってさ。リアクション薄くてガッカリだったわ。彼女、加賀美絢のこと知らないのかもね。忙しいモデルだし− 「そう、ね」 勿論、知らないハズがない。
−とにかくさ、ちゃんと連絡入れるのよ?− 「ははは」
笑うしかないだろう。
−笑ってんじゃないわよ。じゃあね。 ・・ っと、それから− 「何?」 −前も言ったけど、喰われるなよ− 「…ご忠告どうも」
−じゃ〜ね−
“既に喰われました”
などと言える訳もなかった。 なんと言う事だ。 とりあえず頭の中を整理しよう。 私の立場は今、どれだけ危うい所に位置するのか。 まず、 加賀美所長とアリスが、私の知人である事は、 間違いなくダイナに知られてしまった。 雪花の寛大な“フォロー”のおかげで。 『ありがた迷惑』とはまさにこういう事を言うのだ。 口止めをしていなかった自分が悪いのだけれど。 しかし、ダイナがあの夜語った、 忘れられない過去の登場人物が、 他でもない加賀美絢とアリスであると、 私が知っているという事は、まだダイナの知る所ではないのだ。 勿論、訝しがってはいるだろうが。 あの夜の自分を振り返ってみる。 忘れられない元恋人、つまりアリスの事を、 むやみに聞き出そうとしてはいなかっただろうか。 不自然なほど、アリスの話に食い付いてはいなかったろうか。 意識的に控えてはいた為、大丈夫だとは思うが、 酔うほどでは無かったとは言え素面ではないのだから、 完璧に演技を出来ていたとは断定出来ない。 それはダイナも同じだが。 だいいち、 話の最後でそれまで“アイツ”と呼んでいた忘れられない女を、 つい“アリス”と無意識のうちに口走ったのはダイナの方だ。 ああ、でも、 ダイナのこのミスで、私の言い訳の幅がかなり広がるのだろう。 そうだ、相手がダイナであれば、 いくらでも誤魔化しが利く。 例え、 全てが始まったあの日に、 アリスを乗せて真っ青なスポーツカーを振り切ったのが私だと、ダイナが知ったとしても、 大した事ではない。 彼女が復讐にどれだけ精を注ぎ込む性格かは分からないが、 殺されはしないだろう。 そう、ダイナは、問題ではないのだ。 アリスに知られなければよいのだ。 言い換えれば、 アリスにだけは知られてはいけないのだ。 ダイナと寝たことを。 それを防ぐ為には、やはりダイナを何としてでも誤魔化さねばなるまい。 だけど、 私とダイナの一夜を知ったからと言って、
アリスが何をする訳でもないとは思う。
だから、ただ、私が嫌なのだ。 アリスに知られたくないのだ。 なぜ? それは、多分・・・ アリスには、 私といる時に、安らぎを感じて欲しいと、願うから。
それから、
アリスの心に傷を付ける可能性のある事は、
少しでも避けたいというのが私の本音だ。
本当の信頼や安らぎを求める場合、 男女の関係、 いやこの場合、女女と言うべきか、 恋愛関係、しいては肉体関係は邪魔だ。 アリスは少なくともダイナに好感を持ってはいないだろうし。 事は、慎重に運ばねばならない。 まず、今私に迫られている決断は。 ダイナに連絡をするか、しないか。 これは、前者だろう。 今ダイナに反感を持たれては、 どこでアリスにあの一夜が伝わるか分からない。 それから、ダイナからはもう少し、得られるかも知れない情報もある。 次に、 あの夜ホテルでダイナが語った過去の恋人と、彼女を奪った人間が、 自分の同僚と上司だという事実に、 私は気付いてるのだと打ち明けるか、それとも白を切るか。 アリスに関する情報を得る目的でダイナと接触するのであれば、 これも前者を選ぶ事になる。 肝心なのは、打ち明ける程度だ。 ダイナの気分を害さない方法を取らねばならない。 まぁ、既に現時点でダイナが私に敵意を抱いていたなら、 元も子もないが。 雪花から私の所属事務所を聞いて、 どれ程警戒しているか、だな。 案外、 ただの偶然としか考えていないかもしれない。 推測したところで、前にも後ろにも進まない。 隣のソファに置いていたバッグをたぐり寄せると、 お待たせ致しましたと、女性の店員がテーブルの上に白い深皿を置いた。 「13番のお客様、真イカと海老のシーフードサラダでございます」 彼女は感じ良くニコッと笑うと、 番号札を回収して去って行った。 ドレッシングの酸い匂いが食欲を刺激したが、 フォークではなくバッグの中のシステム手帳に手を伸ばした。 主に名刺を収納してあるカバーの内側を探ると、 やはり目当ての物がそこから出て来た。 “ Dinah 090-xxxx-xxxx ” ホテルのウェルカム・スイーツに添えてあった、 品書きのカードの余白部分に、 青いペンでそう書かれている。 私は携帯電話を開いて、 番号を入力した。 発信ボタンを押す前に、 深呼吸する。 魚介の香りが鼻腔に入り込み、 余計に胃が下がった。 ボタンを押して、電話を耳に当てる。 −Hello!?− ワンコール目でいきなり威勢の良い声が響いた。 戸惑いながらも私は声を落ち着け、 「ダイナ?」 と返答した。 −そうですよ。貴方は?− 「ルイ子です。分かりますか?」 3秒ほど置いて、 −久しぶり− と、返ってきた。 明らかに落とされたトーンから、 警戒心が伝わってくる。 「お久しぶり。忙しいと思って、掛けるタイミングが分からなかったの」 −雪花ね− 「ええ、今、彼女と電話で話してたところ。どう?元気?」 −ごめん、今時間無いのよ− 「あ、ごめんなさい。それじゃあまた・・」 −来週月曜、この間のホテルのバーで− 「え?」 −10時、午後よ。待ってるわ− 私の返事を待つ気など到底無いという速さで、 電話は切られた。 アリスと恋仲になる女は、 どうしてこうも強引なのだろう。 とにかく、 私が加賀美絢の事務所で働いているという事実が、 やはりただの偶然だとはみなされていない事はハッキリした。 溜息をついて握ったフォークは、 私の心のように重かった。 白いイカの輪を刺して口に含むと、 やはり私の嫌いな味がした。 予想もしなかったほどのスピードで整えられた駆け引きの舞台に向けて、 エネルギーを溜め込むかのように、 私はそれを黙々と食べ出した。
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