| 「そろそろ行きましょうか?」
生徒会長のこの掛け声で、來羽たちはとりあえずここを離れることになった。 「この洗いものは…?」 お茶を飲み干したカップは、未だ三人の手元に残ったままだ。 ここは保健室という公共施設の一つのため、当然生徒である 自分たちが洗って然るべきのはず… だが。 「あ、良いのいいの」 全員分のカップを下げようとする來羽の手を制止しながら、 会長は鞄を手渡してきた。 「え、でも…」 「貝原先生がやってくれるから」 まだ心残りな來羽の言葉を遮ったのは、いつの間にか帰り支度を済ませた円だった。
従姉だもんね…
何でもここの校医はカウンセラーの資格も持っているらしく、 頻繁に相談に来る生徒がカフェのように利用するほど人気の場所らしい。 あの妖しげな薬を取り交わすほどの間柄ならば、 身内でなくともおそらく代わりに洗うくらいはしてくれるだろう。
「はい、來羽ちゃんは自分の鞄を持って。 私は編入要項、桐生さんはスーツケースを運ぶの手伝ってあげるから」 そう言ったきり、会長はさっさと歩いて保健室から出ていってしまった。
「あ、あの…」 二人きりになるのはあまりに気まずくて、來羽はしどろもどろになりながら 円に話しかけてみる。 「ほら、うちらも早く行くよ!」 一方の彼女は、あくまで飄々とした態度を崩さないまま、 先導をきって來羽を出入り口まで歩かせた。
保健室の外は西日が差し込んできて、もうすっかり夕方と化している。 急がないと、この学校には門限はないものの、あまりに遅くなると 理由を訊ねられるくらいはするらしいから。 フワッ… 來羽の鼻いっぱいに甘いローズの香りが広がる。 思えば、ここは薔薇の花園の真っ只中だ。
この香り…
少し違うような気もするが、甘くツンとした独特のあの麻酔薬のような香りだ。 もしかして…保健医はこの場所で原料を抽出でもしているのか。 「痛っ」 一輪の薔薇に触れようとした來羽の指を容赦なく棘が襲う。 『綺麗な薔薇には棘がある』 こんな当たり前のことですら忘れていたなんて… 今日はあまりにいろいろなことがあったから疲れているのかな、 などと考えながら來羽が指から流れる血を拭おうとした瞬間、 横からそれを制止したのはまたしても円だった。 「舐めたら治るわよ、こんなの」 彼女は、怪我をした來羽の指をそのまま自身の口に運んだ。
きれい…
何気ないこんな仕草にも、見とれてしまう。 サラサラ揺れる黒髪と、真っ白な肌と、そして彼女が口に含んだ真紅の鮮血が あまりに幻想的で、來羽はどうして良いのか分からなくなり戸惑った。 「いまは指だけ消毒してあげる」 そう告げたままにんまりと微笑んだ円は、身を翻して一本の抜け道を歩いていく。 その言葉の真意を図りきれないまま、來羽は顔が熱くなるのを感じた。
「ほら、早くいらっしゃい」 もう遥か遠くの方から生徒会長の声が聞こえる。 薔薇の香りが辺りに充満するこの花園を抜け進み、三人は校舎を後にした。
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