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■5972 / inTopicNo.1)  愛琳の家
  
□投稿者/ 葉 軍団(144回)-(2009/06/10(Wed) 21:48:01)
    2009/06/13(Sat) 22:53:55 編集(投稿者)

    『愛琳(アイリン)

    お前の髪は夜の森
    お前の瞳は黒い水晶
    お前の唇は深海の紅珊瑚
    お前の肌は蜜を溶かしたつめたい白磁

    お前の足は、金の蓮…』


    街を離れて更に一時間ほど車を走らせ、いくつかの峠を過ぎた場所、道の行き止まりにその洋館がある。
    季節にもよるだろうが、今訪れれば確実に目を惹くのは、おびただしい薔薇の花。大輪のもの、小粒なもの、艶やかな花弁を重ねたものや可憐な一重咲きのもの……色彩も絵の具箱をひっくり返したように夥しく、梅雨入りしたばかりの細かい雨を浴びて鮮やかに咲き乱れている。

    国道からは既に遠く離れており、近くに民家はない。勤務先から渡された地図を頼りに初めて訪れた時には、いつの間にかタイムスリップでもしてしまったのかと本気で思った―――彫刻を施された背の高いアーチ状の鉄の門といくつかの尖塔を持つ石造りの洋館は、古いゴシック・ホラーを連想させた。ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」、シャーリイ・ジャクスンの「山荘綺談」、リチャード・マシスンの「地獄の家」……その系統を。


    だが、多くの怪奇小説の狂言回しの例に漏れず、私もまた最初からこの屋敷にさしたる恐れも畏怖もなく、ただ自分の役割を果たす事だけを考え、踏み入れた。


    ……いとも無造作に。
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■5973 / inTopicNo.2)  愛琳の家・2
□投稿者/ 葉 軍団(145回)-(2009/06/10(Wed) 22:35:12)
    2009/06/28(Sun) 15:53:29 編集(投稿者)
    2009/06/13(Sat) 23:05:25 編集(投稿者)

    「ちょっと訳ありのお宅なんだけど……」


    事務所で私を手招きした主任は、他の職員を憚るように声をひそめた。
    「認知症や障害はないの。ただ高齢なだけで―――だから身体介護でなく、生活援助になるんだけどね」
    渡された書類―――サービス計画書に目を落とし、私は呟く。
    「……遠いですね」
    違和感は住所だけでなく、計画策定者の氏名もだ。この訪問介護事業所は、事業所のケアマネージャーが担当する利用者宅への訪問が原則なのに。
    「そこの社協(社会福祉協議会)が入ってたんだけどね」
    主任は首を捻りつつ、困ったような声で続けた。
    「とても気難しい方みたいで、うちに任せたいって言ってきたのよ。あそことは付き合いがあるから、断り切れないし…」
    「往復で三時間、生活援助3なら訪問時間は一時間半…」
    私は書類と主任を見比べた。
    ヘルパー稼業は実働でナンボ。数をこなさねば稼ぎにならない。よそに回る時間が無くなるのは、損でしかない。
    「週一回でいいの。特例だから、割増つけるわ」
    ほっとしたように主任は言った。


    (割増と言ってもなあ…)
    断る権利がないのもまた、この稼業には付き物だ。
    (大正9年撫順生まれ、終戦時は上海在住、亡夫は貿易商。福祉事業や婦人解放運動に参加。子供なし、係累なし…)
    渡された書類には経歴が記されているが、人の人生や人となりなぞ、そう簡単に紙に書き写せるものではない。
    (……一体、どんな人なのやら)
    ひと通り目を通した書類や地図を鞄に詰め込み、私はいつものように覚悟を決めた。
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■5974 / inTopicNo.3)  愛琳の家・3
□投稿者/ 葉 軍団(146回)-(2009/06/12(Fri) 00:19:22)
    2009/06/13(Sat) 23:08:12 編集(投稿者)

    ……呼び鈴を押し、数刻の後に門に手をかけた。
    閂は下りていなかった。鈍くきしんだ音と共に門が開き、私はあらためて薔薇園の色彩にたじろいだ。
    (かなりのお金持ちみたいだけど……)
    職業柄、既に働き始めた観察眼で辺りを見渡す。
    素人目にも、薔薇園はよく手入れされている。定期的に職人が入っているのは一目瞭然だった。
    (それだけの資産家なら、時間雇いのヘルパーなんて必要ないのに)
    玄関に続く石畳を踏みながら、私はひとりごちる。よほどの人嫌いなんだろうか?……


    一歩ずつ進むにつれて、むせ返るような薔薇の香りとは違う甘い匂いを感じた―――風もなく、しとしとと降る雨の中で空気はあまり動かない。微かだがどこか粘りつくような濃密な香りの源を探して立ち止まる私の前に、不意に白いものが駆け寄った。


    「……瑞雪、雪亮、臥! 臥!」
    白いもの―――二頭のボルゾイ犬は、おののく私の前に頭を垂れ、従順に身を伏せた。
    とっさに向けた視線の先に、開け放たれた扉とそこに立つ人影が見えた。
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■5975 / inTopicNo.4)  感想
□投稿者/ 真理 一般人(8回)-(2009/06/12(Fri) 02:24:57)
    今回もおもしろそう^^
    とても楽しみにしています♪
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■5976 / inTopicNo.5)  NO TITLE
□投稿者/ 葉 軍団(147回)-(2009/06/13(Sat) 00:50:46)
    面白くなればいいのですが……

    また、気長にお付き合い下さい(*u_u)

    (携帯)
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■5977 / inTopicNo.6)  愛琳の家・4
□投稿者/ 葉 軍団(148回)-(2009/06/13(Sat) 01:30:20)
    2009/06/28(Sun) 15:58:26 編集(投稿者)
    2009/06/13(Sat) 23:38:50 編集(投稿者)

    「……瑞雪(ルイシュエ)に雪亮(シュェリァン)、雪のように明るいという意味よ」


    紅茶を勧めながら、槙原夫人は唄うように呟いた。
    「昔、大陸にいた時にも飼っていたの―――年を取ると、何だか無性に恋しくなってね」
    二頭の純白のボルゾイは、毛足の長い絨毯の上で身体を伸ばして寛いでいる。四肢と鼻面の長い、とても優美な犬だった。
    「犬嫌いの方でなくて良かったわ。この子たちを怖がる人も結構いるのよ」
    「犬は好きです」
    繊細な拵えのティーカップをおずおずと両手で包みながら、私も呟く。
    外観も瀟洒だが、通された居間はヘルパーの制服が恥ずかしくなるような部屋だった。
    精緻な彫刻の入った紫檀の箪笥、テーブルセット、青貝を嵌め込んだ衝立……しつらえは洋間だが、家具調度にはアジアの空気が漂っている。
    未だに狐につままれたような心地がする―――それはこの洋館だけでなく、その主に対してもだ。


    (大正9年生まれなら、もう90近い筈だけど―――)
    それなのに夫人は肌も滑らかで皺も目立たず、背筋もすんなり伸びていた。
    髪こそ白銀に近いグレーだが、品よくまとめて淡い色のスカーフで包んでいる。顔立ちは端正に整っており、輪郭がやわらかい。たとえ60代と言われても違和感のない外見と物腰だった。
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■5978 / inTopicNo.7)  愛琳の家・5
□投稿者/ 葉 軍団(149回)-(2009/06/13(Sat) 02:02:38)
    2009/06/14(Sun) 00:15:37 編集(投稿者)

    私は当惑した。
    (よその事業所が匙を投げるくらいなら、よほど癖のある人だと思ってたけど…)
    夫人の立ち居振る舞いや物言いからは、私が知る限りの『訳ありの利用者』は感じられない。
    勿論、人には裏もある。一見にこやかで腰の低い人が、名のうてのクレーマーという事もある。ただ大抵は、どこかにその棘が現れるものだが…


    「そんなに緊張なさらないで」
    夫人がやわらかい笑みを向ける。
    「事情は何となく分かるけど、お若い方を困らせて喜ぶような年寄りじゃありませんよ。心配しないで」
    「……いえ、そんな」
    私は恐縮して肩をすぼめる。
    「お買い物やお掃除など、家事援助をご希望だと伺ってきましたが……」
    ホームヘルプサービスは時間と領域が厳密に定められ、それを逸脱する事はできない。とりあえず確認しておかなければと私は焦った。
    だが、夫人は鷹揚に手を振った。
    「援助だなんて、こんな独り住まいだし、お願いする事もあまりないの―――こうして訪ねてきて頂いて、話相手になって頂くだけでも有り難いわ」
    使っている部屋もごく一部だし、と夫人はつけ加えた。


    私は更に困惑したが、契約書だけは事業所に持ち帰らねばならないからとサービス内容を確認し、何とか契約の成立と確認までをやり終えた。
    まずは初回訪問の目的を果たして辞去する間際、私は甘い匂いを嗅いだ。
    ……屋敷に入る前に、薔薇園の中でも嗅いだ匂いだった。私は頭を巡らせ、今まで背中を向けていた紫檀の箪笥を振り返った。


    (クチナシ……)
    箪笥の上に、瑞々しい濃緑の葉との対比も鮮やかな、八重咲きの白い花が活けられていた。
    (―――献花?……)
    私は目を凝らした。活けられた花の後ろには、写真を納めた額が立てかけられている。その写真に視線を移し、私はひそかに息を飲んだ。
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■5979 / inTopicNo.8)  愛琳の家・6
□投稿者/ 葉 ファミリー(150回)-(2009/06/14(Sun) 23:56:40)
    ……白黒の、とても古い写真のようだった。
    まだ年端もいかぬ少女の胸から上のアップだが、明らかに日本人ではない……京劇俳優のような豪奢な刺繍入りの民族衣装、独特の形に結い上げられた髪に大輪の牡丹の花を挿した、人形のような美少女だ。
    気付かなければ見過ごしかねない儚さだが、一度見れば引き込まれそうな表情だった―――目尻に紅を掃いた瞳は大きく見開かれ、形のよい唇は僅かに開いている。おそらくスナップ写真を引き伸ばしたものだろうが、少女はこちらを見て怯えたように目を見張り、微笑む寸前にも、恐怖に叫びをあげる寸前にも見える。そして、そのどちらとも取れる表情が、少女の繊細で儚げな美貌を引き立てていた。


    「……ああ、その娘」
    私は夫人の声に振り返る。
    「上海にいた時に、お世話になった方の娘さんよ。綺麗でしょう?」
    私は頷いた。
    「愛琳と言うの。清朝の血を引くお姫様だったけど、長生きしなかったわ」
    反射的に思い出したのは、天城山で日本人学生と心中した愛親覚羅慧生(ラストエンペラー・宣統帝の姪)の清楚な面差しだった。
    「……高貴な者は長生きしないわ。特にあの国では」
    夫人が独り言のように呟いた。
    私には、理解する術もない独白だった。

    (携帯)
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■5980 / inTopicNo.9)  愛琳の家・7
□投稿者/ 葉 ファミリー(151回)-(2009/06/15(Mon) 00:33:56)
    煙るような霧雨の中、私は帰途についた。
    「お仕事と思わず、普段着で気楽にいらっしゃいね」
    二頭のボルゾイと共に見送りに出た夫人の笑顔を思い出す……前任者の何が気に触ったのか、今日のやりとりからは察する事ができなかった。それは確認しておくべきだと強く感じた。
    (……あとの問題は、これくらいよね)
    頭の芯に、針で刺すような痛みがあった。
    私は芳香剤や香水の匂いに弱い。強い香りを嗅ぎ続けると、決まって頭が痛くなる。介護につきものの排泄物や嘔吐物の臭いは平気だけれど、そんなものとは無縁なあの家では、しばらく頭痛に悩まされそうだ。
    (あと………)
    帰り際にもうひとつ、漠然とした疑問が残った。
    門を出て車に乗り、玄関に立つ夫人に最後の会釈をするために振り返った時、何か動くものが視界に入った。
    それは玄関のさらに上、尖塔に取りつけられた小窓だった……ほんの一瞬、小窓の向こうに人影がよぎったように見えた。
    はっとして目を凝らすと、そこには何も映さない窓があるだけだった。


    (独り住まいだと言ってたし……)
    目の錯覚だったかもしれない。私はそう思い直し、緩やかな螺旋を描く峠道を下り続けた。

    (携帯)
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■5981 / inTopicNo.10)  愛琳の家・8
□投稿者/ 葉 ファミリー(152回)-(2009/06/16(Tue) 01:29:45)
    奇妙な日々が始まった。


    週に一度、私は半日近くを槙原夫人の屋敷で過ごした。
    福祉法人や団体への寄付、有力者との親交がある夫人はごく自然に既存の介護サービスの枠を越え、私の長時間逗留を認めさせた。
    私にとって、それは仕事とは呼べない時間だった……簡単な買い物の品を携えて屋敷を訪れ、夫人と共に料理をしたり、庭の手入れをしたり、ほんの限られた部屋の片付けをする程度。あとは居間でお茶を飲みながら、とりとめない世間話をするだけだ。
    最初のうちは緊張し、戸惑った。こうして試されているのではないかという不安もあった。だが、そんな日々を繰り返すうちに私は慣れた―――芳香に満ちた屋敷にも、槙原夫人にも。


    「結子さん、お茶にしましょう」
    瑞雪と雪亮に戯れかかられながら芝生を刈っていた背中に声がかかる。『お茶にしましょう』は、今日の仕事はもう終わりという合図だった。
    身なりを整えて居間に入ると、紅茶と蒸したての花巻が待っていた。
    夫人はお菓子を作るのが上手く、洋菓子だけでなく蜂蜜をまぶした揚げパンや小粒な饅頭(マントウ)など、中華街で見られるようなものをよく作る。
    「子供の頃は、餡も何もない、ただ小麦粉を練って揚げただけのものを食べたものよ」
    温かい花巻に鼻を寄せる瑞雪と雪亮に冷ました小片を与えながら、夫人が呟く。
    「満州国の建国式典は、それは華々しいものだったそうだけど、住んでいた日本人は豊かな人ばかりじゃなかったわ―――私の家もね」
    「満州鉄道の技術者だったんですよね、お父さまが……」
    紅茶をひと口飲んで、私も呟く。夫人は小さく頷いた。
    「専門馬鹿と言うのか遊びも知らず、黙々と働く人だったわ。そこが向こうの人に好かれる理由だったんでしょうけど」
    父親が現地の中国人技術者と親交が厚かったのが自分の行く末に幸いした、と夫人は語った。


    私はテーブルの隅に押しやられた、つい先刻まで夫人が針を運んでいた布に視線を向けた。

    (携帯)
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■5982 / inTopicNo.11)  愛琳の家・9
□投稿者/ 葉 ファミリー(153回)-(2009/06/17(Wed) 02:15:19)
    「綺麗な刺繍ですね」
    私がそう言うと、夫人は肩をすくめて笑った。
    「素人の手すさび、ボケ防止のようなものよ」
    引き寄せてテーブルに広げると、そこに蓮池が現れる。淡い藤色の生地を池に見立て、ほのかに紅い睡蓮とたなびく雲、精緻な紋様などを丹念に刺繍したものだった。
    「―――これはね、外からは見えない細工なの。どこに使うと思う? 靴の裏よ」
    「裏?」
    私は首を傾げた。
    「そう、靴底にね。それもこんなに小さい靴の裏」
    夫人は片方の手の平を広げてみせた。そしてつと立ち上がると、箪笥の引き出しを開けて取り出したものをテーブルの上に置く。


    「……まあ」
    私は目を見張った。
    それは小さな靴だった。踝を包むほどの深さで爪先まで滑らかなカーブを描き、先端が細く尖っている。
    ヒールは無いぺったんこ靴だが、靴底もまた爪先から踵にかけて弓形になっており、真紅の布地にあしらわれた唐草模様も、靴自体もハンドメイドだとひと目で分かる。本当に手の平に載るような、可愛らしい靴だった。


    夫人が靴底を見えるように傾けると、私は再び目を見張った―――地面を踏むべき靴の裏には、側面に刺されたものより更に細かく、優美な刺繍が施されていた。
    「これは婚礼用の靴。実際に履くためのものよ」
    夫人は柔らかく言った。
    「昔の中国にはね、足が小さい事が女の美の基準だった時代があって、そういう女性達が自分の履く靴を作ったり、贈り物にしたりしてたのよ」
    ……話には聞いた事がある。でも、初めて見た。
    「纏足―――ですか」
    「そう。よくご存じね」
    夫人は、にこやかに頷いた。
    「纏足と言うとどこかグロテスクな印象だけど、あちらでは金蓮とも言ったわ……三寸金蓮、十センチくらいの足が最も美しいってね」


    幼児のうちに足の親指だけを残し、他の指を内側に深く折り曲げて布で緊縛し、足がそれ以上成長しないようにする慣習。
    そうして完成した小さな足を、蓮の花びらに喩える時代があったのだと夫人は語った。

    (携帯)
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■5984 / inTopicNo.12)  愛琳の家・10
□投稿者/ 葉 ファミリー(154回)-(2009/06/18(Thu) 01:04:53)
    2009/06/18(Thu) 01:10:14 編集(投稿者)

    「……歩きにくいでしょうね」
    幼児か人形が履くような靴を見つめ、私はそれくらいの感想しか口に出せなかった。
    たとえ小指でも、欠損したらバランスを取りづらくなると聞く。足の親指以外を折り曲げられ、足裏さえも十分に地に着けられなければ、どんなに不自由な事だろう。
    「そうでもないのよ」
    だが、夫人は穏やかに言葉を続けた。
    「もともとは貴族やお金持ちだけの慣習だったけど、時代が下がると庶民の間にも広がって、畑仕事や漁に出る女性もいたわ―――私が物心つく頃には廃れてきてたけど、それでもよく見かけたものよ」
    夫人は赤い婚礼用の靴の隣に藤色の布を広げ、刺繍の柄を指差した。
    「蓮の花と竹の梯子、そして灯籠。これはお葬式用の靴の柄。花嫁やお年寄りは、自分でこれを用意するの」
    「履けば見えない場所なのに……」
    隠れてしまう部分に勿体無い、と素直に思った。奥ゆかしさや美意識の違いだろうが、現代の中国のイメージとはずいぶん違うような気がした。
    それを口にすると、夫人は涼やかな笑い声をあげた。
    「それはあなた、価値観は変わるものですよ……西洋にはコルセットがあり、日本には窮屈極まりない和服があったわ」
    ただ…と夫人は呟く。
    「ただ、纏足が廃れたきっかけは、英国から来た宣教師や婦人運動家の働きかけによるものよ。だから、西洋の価値観に押し切られたと言えなくもないわね」


    私は、少し違和感を覚えた。
    槙原夫人も、かつては婦人運動に参加した筈なのだがと。
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■5985 / inTopicNo.13)  愛琳の家・11
□投稿者/ 葉 ファミリー(155回)-(2009/06/18(Thu) 01:55:51)
    その日の帰り際、私は初めて来訪者と出くわした。
    挨拶を済ませて玄関の扉を閉め、門に向かって歩き出した時だった。私の車の隣にタクシーが滑り込み、そこから一人の年配の女性が降りてきた。
    「こんにちは」
    反射的に会釈してから、私はその女性に同業の匂いを嗅ぎ取った―――大柄で派手な身なりだが、雰囲気で何となく分かる。
    女性は私を一瞥し、ふん、と言う表情で私の横を通り過ぎた。
    (……何、あれ?)
    良い気分はしなかった。同業ならば、他社の所属でも挨拶のひとつはするものだ。
    (よそのヘルパーは入っていない筈だけど……)
    何とはなしに立ち止まって見ていると、女性はぞんざいに呼び鈴を鳴らし、勝手に扉を開けて中に消えた。それと入れ違うように瑞雪か雪亮のどちらかが扉をすり抜け、尻尾を振りながら私に駆け寄った。


    「……だめよ、雪亮」
    見た目は同じだが、首輪のタグで見分けがつく。私はじゃれつく雪亮の前に屈み込み、目をしばたいた。
    雪亮が何かをくわえている……細い、棒のようなもの。私はそれを手に取り、眉をひそめた。
    (……髪飾り)
    雑貨店で見るようなイミテーションのものではない。細かい唐草模様を彫り込んだ象牙の先から、小粒の珊瑚玉を垂らした美しい品だ。
    「雪亮―――」
    慌てて声をかけるが雪亮は既に私に背を向け、半開きの扉から屋敷の中に駆け込んでしまった。
    (―――どうしよう)
    いつもなら、このまま引き返して夫人に渡せばよい事だった。だが、来訪者とその様子から、すぐにそうするのはためらわれた。
    (郵便受けに入れておけるような物じゃないし……)
    私はしばらく逡巡し、後で電話でも入れてから、来週の訪問時に返すしかないと思い直した。
    (調子が狂うなあ……)
    胸のうちでぼやきながら髪飾りを鞄に納め、私は屋敷を後にした。



    (携帯)
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■5986 / inTopicNo.14)  愛琳の家・12
□投稿者/ 葉 ファミリー(156回)-(2009/06/19(Fri) 01:35:54)
    2009/06/19(Fri) 01:41:47 編集(投稿者)

    その夜も、次の日も、夫人への電話は繋がらなかった。
    私は落ち着かなかった。たまに聞くが、ヘルパーが訪問宅の金品を盗んで逮捕されたニュースをテレビで見たりして、自分がいかにも高価そうな髪飾りを無断で預かっているのが憂鬱だった。それもあってか日常業務に気が入らず、空き時間に事業所でぼんやりしていると、背後から声をかけられた。


    「元気ないじゃない、もう夏バテ?」
    顔見知りの訪問看護師だった。
    「そう言えば、山のお屋敷に行ってるんだって?」
    その言葉に顔を上げる―――この訪問看護師は複数の事業所の依頼に応じ、あちこちの管轄に出向いていた。
    「知ってるの、あのお宅のこと」
    「病気持ちじゃないから、私は行った事ないけどね」
    看護師は気さくな口調でそう言うと、ちょっと訳ありげに声をひそめた。
    「―――知ってる? あのお宅を担当したヘルパーさんって、みんなもういないのよ」
    「………え?」
    私は彼女を見つめた。
    「どういうこと?」
    「辞めちゃったのよ」
    彼女は肩をすくめてみせた。
    「三人くらいだったけど、あのお宅を担当してた人が立て続けに辞めてったわ―――何でかは知らないけど、それであのお宅をこっちに回したのよ。ただでさえ人手不足だからって」
    「……知らなかった」
    ぼんやりと呟く私の肩を、彼女はぽんと叩いて笑い声をあげた。
    「やだ、深刻な顔しないでよ……確かにベテランばかり唐突に辞めたけど、ただの偶然かもしれないじゃない」
    それからひとしきり他事業所の内情やクレーマーの利用者の噂話を披露して、彼女は去った。


    私には疑問だけが残った。
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■5987 / inTopicNo.15)  愛琳の家・13
□投稿者/ 葉 ファミリー(157回)-(2009/06/21(Sun) 00:18:04)
    通常業務――数軒の訪問を終えてアパートに戻ると、私は家事や入浴をできる限り早く済ませる。
    だからと言って、何か特別な目的がある訳ではない。ぼんやりと過ごすのが殆どだったが、そんな時間がなければやっていけない……たとえ限られた時間でも、他人と密接に関わる仕事は精神を擦り減らす。時には、自分自身が無くなるような気さえする。


    だから帰宅後は仕事のことは極力考えないようにしていたが、私はPCを引き寄せ、検索サイトに「纏足」の二文字を送信した。
    ……無数の検索結果が表示された。歴史的・学術的なものもあったが、アダルトサイト上の記載にヒットしたものも多かった―――身体改造フェチや足フェチ、監禁願望のある人間には魅力的な慣習だからだろう。男の持ち物としての女性が逃げ出さないようにとまでは思っていなかったが、性的な理由―――立ちづらく歩きづらくする事で局部の筋力を高めるとか、改造された足そのものが玩弄の対象となる―――はあるような気がしていた。熱心なフェミニストなら、激怒して然るべきものだろうと。


    (携帯)
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■5988 / inTopicNo.16)  愛琳の家・14
□投稿者/ 葉 ファミリー(158回)-(2009/06/21(Sun) 01:39:30)
    閲覧したサイトには、纏足の施術法や身体への影響を詳しく載せている所があった。


    施術を始めるのは五歳から七歳。包帯のような長い布で足指を足裏に折り曲げて緊縛し、指先から踵にかけて前後からも縛るために足自体が圧縮されたようになる。土踏まずも殆どなくなり、足裏に深い亀裂を刻んだような見かけになる―――骨の位置が変わるために足の甲は厚くなり、上部はアーチ状に膨らみ、足裏は弓のように弧を描く。接地面積の狭さゆえに歩行はすり足のゆっくりしたものになり、臀部や大腿部の筋力は強くなるが、膝から足首までの筋肉はあまり使わないため萎縮する。施術の完成には十年ほどの歳月を要し、完成した足のケアには生涯をかける……


    (骨を壊すわけではないのか)
    伝統的な施術法を見て少し意外に思った。以前何かで、骨を叩き潰すと読んだ記憶があったのだが。
    そのサイトには、1880年撮影と記された、纏足した女性の写真があった。
    細身で髪をひっ詰めにした、上流階級らしい身なりの中年女性がソファに座り、片方は素足、片方には靴を履いた足を見せている。ゆったりした衣装から覗く纏足靴の足先はちんまりと小さく、台に載せた素足はぎゅっと圧縮され、有り得ない位置から親指以外の足指が見えている。土踏まずは確かに亀裂になっており、知識がなければ先天的な奇形と間違いそうだ。


    たくさんの纏足靴の写真もあった。
    纏足は中国全土のものではなく、主に漢民族の慣習だった。しかし行っていた地方によって、靴には福建、台湾、山東、山西、広東など、その土地特有のデザインがあった。
    ……どの靴も華麗な刺繍が施され、美しい。木製の高いヒールがついたもの、爪先が尖ったもの、くるりと反ったもの、足首まで包むブーツ型のものもある。私が槙原夫人の家で見たものは、最も型がすっきりして装飾の華やかな山東型だった。
    素材も絹や木綿、サテンなど、豪奢なものもあれば庶民的なものもある―――骨董品として収集する人もいるそうだが、確かにその価値はあると思った。蓮の靴(Lotus Shoes)という呼び名も響きがよく、雅やかだ。

    (携帯)
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■5989 / inTopicNo.17)  愛琳の家・15
□投稿者/ 葉 ファミリー(159回)-(2009/06/21(Sun) 03:18:22)
    (……それで、だろうか?)
    私はひっそりと自問する―――槙原夫人が纏足靴を持ち、その装飾に使うべき刺繍をしているのは、靴の美しさに惹かれているから……なのだろうか。


    私は複数のサイトを巡り、纏足がいつ、どのようにして消滅したかを調べた。
    夫人が言ったように、19世紀初頭に最初に反対運動を起こしたのは英国人だった―――中国は清朝末期、西太后の晩年に当たる頃。西欧やロシア、日本などに国土のあちこちを占有され、過剰な干渉を受けていた時代だ。1860年代に英国の宣教師らが纏足を野蛮な慣習として廃絶を訴え、1895年には女性の権利回復を願う中国在住の婦人運動家がそれに続いた。
    清朝の皇帝はたびたび纏足廃止令を出していたが、非漢民族で纏足をしていなかった西太后も禁止令を出した。
    国土の広さと慣習の浸透の深さゆえに歳月がかかったが、根気よく続けられた廃止運動が実を結んだ。19世紀のうちに纏足する女性はいなくなり、纏足をしていた女性の多くは緊縛を解いた。
    (西欧の価値観に押し切られたとも言えるわね)
    槙原夫人の言葉を思い出す……夫人の立ち位置は、どちらなんだろう?


    私は仕事用の鞄に手を伸ばし、ハンカチに包んだ髪飾りを取り出した。
    繊細な唐草模様が彫り込まれた象牙は年代を経てかすかに黄ばみ、電灯に透かすとまどろむような飴色に見える。細い銀鎖に繋がれた珊瑚玉だけが鮮やかに紅い。
    品物は美しい。華麗なしつらえの纏足靴も、見惚れてしまうほどに美しい。


    ―――品物だけなら。



    (携帯)
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■5990 / inTopicNo.18)  愛琳の家・16
□投稿者/ 葉 ファミリー(160回)-(2009/06/22(Mon) 00:22:53)
    翌週の訪問日、いつものように私を出迎えた夫人は、まず電話に出られなかった事をしきりに詫びた。
    「少し取り込んでいたの、片付けなきゃならない用事が重なって……」
    どこがという訳ではないが、夫人は少し疲れているように見えた。頭痛予防のために屋敷では呼吸を浅くしているが、私は花の香りに混じった湿布の匂いに気付いていた。
    私が髪飾りを差し出しそれを持っていた経緯を話すと、夫人は少し驚いた顔をした。
    「……雪亮が? これを?」
    「ちょうどお客がいらした所で……それで、何度かお電話したんですが」
    探るような視線を受けて私は頷いた―――猜疑心の強い利用者ならば、構築しかけた信頼関係が壊れるきっかけになる場面だ。しかし夫人はすぐにいつもの寛容さを取り戻し、
    「いいのよ、取っておきなさい」
    と笑顔で言った。
    「雪亮があなたにあげたものだから、それはあなたの物だわ」
    私は慌てて固辞した―――職場の規定にも、職業倫理にも反する事だった。
    「……私には、頂く理由がありません」
    そう言う私を見る夫人の眼差しが、ほんの一瞬だけ揺らいだように感じた。
    何かを思い出したような表情だった。


    「あなたは……」
    その後のお茶の時間に、夫人はぼんやりと呟いた。
    「このお仕事を始めて、何年になるの?」
    「8年目になります」
    「……お仕事は楽しい?」
    私は夫人の顔を見直した。夫人は紅茶のカップに視線を落とし、スプーンを動かしている。
    「……うまく言えませんが」
    何故かは分からないが、本音で答えなければならないと私は思った。
    「楽しいと思ったら、終わりだと思っています」
    「―――どうして?」
    夫人は即座に問い返した。
    「とても有意義なお仕事じゃなくて?―――手助けが必要な人にとっては、有り難いお仕事よ」
    私は少し考え、口を開いた。
    「もちろん、感謝して下さる方はおられるし、嬉しいと思います……けど、考えてしまうんです。自分は本当に、その方の望むことをしたんだろうかと」
    夫人がカップを掻き回す手を休め、私を見ていた。
    今度は私がカップを覗き、うなだれた。
    「趣味や気晴らしなら別ですが―――他人を手助けする仕事で自分が楽しいと感じるのは、自己満足……自己陶酔ではないかと思います。偽善ならばまだ、自覚があるでしょうが」


    言いながら、私は気が滅入った。
    多少なりとも内省を知る同業者なら、それは抱えていてもおかしくない葛藤であり、欺瞞だった。

    (携帯)
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■5991 / inTopicNo.19)  愛琳の家・17
□投稿者/ 葉 ファミリー(161回)-(2009/06/22(Mon) 01:31:33)
    「……迷いは、無いに越した事はありません」
    私は呟く。
    「それに、強い信念があるから良い仕事ができるのだとも思います……でも、楽しいと感じるのは違う。そこには自分しかいない」
    しばしの沈黙の後、私は夫人の声を聞いた。
    「興味深いわ、とても」
    低く穏やかな口調だった。


    「私があなたくらいの年齢の時にはね」
    冷めてしまった紅茶を淹れ直しながら、夫人は言った。
    「私にはそんな思慮はなかったわ―――裕福な外国人の、暇潰しの慈善事業……そう言われる事も気にならなかった。むしろ人から後ろ指を差され、嘲笑われるのを誇りに思っていた」
    淡々と夫人は続けた。
    「……言い訳をさせて貰えば、確かに当時の大陸には悲惨な境遇の女性が多かったのよ。纏足もまだ完全には消えておらず、農村では嫁不足のために幼い女の子が売買され、多くの阿片中毒者が身体を蝕まれ、緩やかに廃人になっていた。それに見て見ぬふりをして、哀れむだけではいけないと思った……」


    私はゆっくりと口を挟んだ。
    「それで、婦人運動を―――?」
    夫人はポットを置いて椅子に戻り、静かに答えた。
    「一年にも満たない、ほんの短い間の思い出よ……終戦後、結婚して帰国するまでのね」
    ……私は、ふと目を凝らした。
    何気なくカップに添えられた細い指先に、バンドエイドが巻かれていた。
    そこにはまだ、淡い血の色が滲んでいた。

    (携帯)
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■5992 / inTopicNo.20)  Re[1]: 愛琳の家
□投稿者/ チノ 一般人(1回)-(2009/06/22(Mon) 12:49:36)
    つづき、楽しみにしています^^
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